石川博品 - メロディ・リリック・アイドル・マジック

久しぶりに出てすぐの石川博品の新作を読めた(なお一月遅れ)のでざっと書いておきたい。アイドル、というのは意外な方向から来たな、と思ったけれども、読んで見るとまさしく石川博品としか言いようのない、しかしこれまで以上にポップな作品になっていて、既に言われているようにとても入りやすい、そして石川作品としても相当上位という出来になっている。

パンクな抵抗精神と、さまざまなネタを突っ込むコミカルかつ繊細な文体、女性キャラが総じて攻めのセリフを吐きまくるヒロインの魅力などとともに、懸隔のある二人を描くラブコメの手法、親との関係など、これまでの石川作品にもあった要素がそれぞれバランス良く取り込まれた、非常にスマートな傑作だろう。

誰かがライトノベルの定義は、中高生の暴力衝動、性衝動を満たすキャラクター小説、だとか戯言を述べていたけれど、中高生を読者対象にしているために主人公もまた中高生に設定されることが多く、それゆえ思春期の悩みを描いた青春小説要素が強いというほうがまだましではないか。自分とは何か、何がしたい何になりたいという自意識、鬱屈や暴力、恋愛と性も、そうした青春の悩みにほかならない。おそらく作者はライトノベルをそう受けとめた上で、まっすぐな直球を投げてくる。

この作品のなかで、主人公吉貞摩真(以下ナズマ)の幼なじみにして一つ上の津守国速(以下クニハヤ)は、こう宣告する。

「沖津区ってのはアイドルかギャングになるしか出世のチャンスがない街だから」23P

そのアイドルというのは女子高生たちがどこにも所属せず、自分たちで曲を作り、自分たちでCDを売というすべて自家製のもので、商業主義とは無縁な存在としてある。作中で国民的アイドルとして知られる大所帯グループLEDは、クニハヤにこう批判されている。

「何が最低ってさ、ああいうのみんな、おっさんたちの会議で決まってるわけ。だからあいつらアイドル名乗ってるけど自主性と個性と知性をうしなった哀しきシャンソン人形なわけ」23P

難関春日高校に合格し、寮に住むことになったナズマを待っていたのはそんな場所で、その寮もまた沖津区のトップアイドルグループが住む女子寮だった。そこに唯一いた男子が、ナズマの幼なじみでいまや沖津区のアイドル好きとなっていたクニハヤだったわけだ。

この女子寮での番犬兼下僕として住むことになった二人と、管理人の姪の尾張下火(以下アコ)、ヒンドスタン共和国のハーフだという飽浦グンダリアーシャ明奈(以下アーシャ)という二人の女子が、今作のメインキャラクターだ。特にアコ視点は面白く、言葉少ななキャラなんだけれども内心は饒舌で、憧れのアイドルに呼ばれたときの「(フゥゥゥゥッ! なちゅりが私の名前をッ!)あ、どうも」という内心と発言のギャップなんかが面白いし、187ページの作中に描写のないイラストがすごい楽しい。真面目な顔でくだらないことを考えている石川作品特有のキャラだ。

そのうち、ナズマとアコはこの二人を語り手に交互に進んでいくので、その双方が主人公でもあるわけだけれど、じつはどちらもなにかから逃げてここに来た人物でもある。そしてお互いに、相手の目を「思いがけなく好みのタイプどストライクな人に出会ってしまった」と表現するように、対句的な対比をなされている。

ナズマは音楽が聞こえると目の前に奇妙な幻覚が見えてしまい、それゆえに問題児として学校生活を送り、音楽とも無縁な生活をしていた。そんな彼がアイドル女子寮に来てしまったわけだけれど、彼がアコとアーシャがアーシャの妹のためにライブをするというときにマネージャーを買って出たのは、裏方ならば歌を聴かないで済むからだった。

しかし、彼は二人のライブでアコの歌声にうつくしい幻想を見いだすことで、その認識を変える。けれどもその感動は誰にも共有することができない。

ナズマの見た光は誰にも見えないし、そのうつくしさを誰にも説明できない。142P

この共約不可能な感動の体験の唯一性によって、「選ばれた」と感じたナズマはマネージャーを本気でやるようになる。この二人の語り手の視点から、アイドルになること、アイドルを好きになることの両面を描いていく。

同時にアコもまた、ある面で選ばれながらそれを拒絶してきた。そしてある意味逃避としてアーシャとのアイドルを始める。彼女は、終盤に至るもアイドルの根拠、歌うことの根拠、ステージに立つことの根拠を問い続ける。野良アイドルとしての彼女が、道を走る自転車の鼻唄と何が違うのか、アイドルとは何か、ということを問い続ける。ナズマはあるときこう考える。

魔法だなんて、何の根拠もない。ナズマがそう思っているだけのことだった。アイドルも同じだ。下火とアーシャが集まって、アイドルを名乗り、それでアイドルだということになった。誰かより優れているからアイドルだということでもない。根拠もなくアイドルだった。231P

本作ではナズマも、アコも選ばれるということをしきりに気にしている。選ばれたからこそここにいると思うなり、選ばれたことを誇らしく思うなり、選ばれるということは今作のキーワードだろう。しかしアコはあるとき、そんなことは問題ではないことに気づく。

下火はずっとアイドルを夢みていた。(中略)選ばれることがアイドルの必要条件ではない。やってはじめてアイドルなのだし、やってこそのアイドルだ。(中略)誰かに価値を定められることなどまっぴらだった。/ アイドルは選ばれることも根拠もなしに懸命だ。それだけがアイドルの価値だ。273-274P

誰かに選ばれる者としてのアイドルを否定・反転し、「私をアイドルにできるのは私だけなんだ」と宣告すること。ナズマもまた、「問題は何をやるかだ。何を選びとるかだ」と受験によって選ばれたという認識を覆す。選ばれることから選びとることへの転換にこそ今作は賭けられている。

ファンがいるからアイドルだということではなく、アイドルとはまさしく選びとる主体・私そのものがアイドルなんだ、と切り返す。私とは私が選ぶものだ、という力強い意思をこそ祝福する。それは都合の良い管理を強要する親への反抗としての青春のテーマでもあり、沖津区のアイドルが高校卒業で終わるとされていることの意味でもあるだろう。

ナズマはあるときこう伝える。

「おまえが悪いんだとしても、俺は構わない。おまえなら悪くてもいい。」216P(原文傍点)

私が私だというのは、誰かと比べて優れているからではない。私が私だということにはただ、そうあること以外に根拠がない。その無根拠さに向き合い自分自身を引き受けること、そして自分を信じる相手を信じること、私は私で、あなたはあなただ、ということ、アイドルという私を選びとること。アイドルと「私」とをそうしてダブらせることで、アイドルものをパンクでポップな青春小説として成立させる。

「みんなともだち みんなアイドル!」というプリパラのキャッチフレーズもここから見ると同じことを指しているように見える。限られたものだけがアイドルとなる独裁貴族制に対する抵抗として、誰もがアイドルだという民主共和制の革命を描いた2ndシーズンのプリパラと、オーディション制のLEDに対する野良アイドルの抵抗を描く本作にはきわめて近い姿勢がある。

アイカツスターズでは「輝きたい衝動に素直でいよう」と歌われ、それが「スタートライン」と続くことで、これが始まりだということを示している。今作もまだスタートラインに立ったばかりだ。

と思うんだけど続き出るんですか? アーシャのフラグとか確実に次のネタだろうし、敵役LEDについても続きがあれば掘り下げられるはずだけれど。もちろんこれでも傑作だけれど、二巻三巻と続けることで、より面白くできるだろうし、それだけの伏線を仕込んでいるだろうし、ネルリシリーズが傑作なのは、やはり三巻という長さあってのものだと思うからだ。後宮楽園球場、の三巻は出るんでしょうか?

本作が青春小説のポップでキラキラした面を描いているとすれば、「アイドルかギャングになるしか」ない、そのギャングになった場合の暗い側面を描いたのが『菊と力』だろう。ティーンエイジャーたちの鬱屈と情念の歪みが暴力へとなだれ込み、帯刀が許された世界における殺し合いとして展開されるバイオレンスアクション長篇の『菊と力』は、『メロディ・リリック・アイドル・マジック』と表裏一体のものとして捉えることができるはずだ。『菊と力』のバージョン3は『ノースサウス』として公開されており(私はまだ未読)、これが沖津区という舞台を共有していることもそれが意識されているのではないか。

と、とりあえずライトノベルと青春小説、という偏った視点からまとめてしまった気がするけれども、アイドルとマネージャーという関係とか、アイドルものとしての観点とかで誰かに書いてもらいたいところ。親との関係と劇中劇的な演出としてやはりネルリ二巻を想起させるところが多いし、主人公ヒロインの双方向視点での語り口はヴァンパイアサマータイムを、アイドル女子寮の設定に百合物帳とも通じるものが感じられるなど、過去作品との技法、内容的関連も強く、やはり今までの石川博品の諸要素をポップにまとめ上げたという印象がある。それだけに、これまでの読者にはうれしく、また入門者にも石川らしさをざっと理解できる一作として、とても勧めやすいものになっている。せめて続きが出せるくらいには売れてほしい。