ナーダシュ・ペーテル - ある一族の物語の終わり

ある一族の物語の終わり (東欧の想像力)

ある一族の物語の終わり (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書第十三弾は現代ハンガリーを代表する作家、ナーダシュ・ペーテルの初期代表作、1977年作。解説に挙げられている現代ハンガリー文学の代表格のうち、ノーベル賞のケルテース・イムレは今年三月に亡くなり、エステルハージ・ペーテルも先月66歳で亡くなっており、ナーダシュとクラスナホルカイ・ラースローが残った。解説執筆時点ではまだ二人とも存命だったかも知れない。さて、以前からノーベル賞格として名のみ聞こえて作品を読んだことはなかった作家の、はじめて長篇が翻訳刊行されたけれど、これは結構の難物。

1950年頃のハンガリーを舞台にしながら、幼い少年の視点からすべてが書かれているため、何が起こっているのか、ということの把握は難しく、時系列や現実と想像の境界も不分明な語りで一貫する本作は、序盤かなり読むのに難儀する。どう読めばいいんだ、と思ったら作品の概要を簡潔に記した解説部分を先に読んでからのほうが良いかもしれない。

私もわからなかった部分が多いけど、とりあえず書けるだけ書いておく。

ここで語られているのは、少年の家族が生きている密告と粛清が渦巻く独裁体制下のハンガリーと、少年に対して数千年の一族の来歴を語り継ぐ祖父の物語だ。ハンガリーの状況は、少年の語りによるためはっきりとはわからないものの、隣家の子の母親たちが「すっぽんぽんで部屋を突っ切っていった」という光景がなんども言及されたり、隣家の父親がどこにいるのかが不自然だったり、毒を盛られた、でっちあげで縛り首、だとか不穏な言動がしきりに現れる。他のある子供は、 自分の父はスパイで、少年の父とつながりがあると言い、隣家の父親達もスパイだ、外国の車がよく止まっていると言うのは、なにも子供らしいでたらめではなく、街で偶然会った少年の父がひどく不審な様子を見せていたことなどがそれを裏付けてしまう。

この状況で祖父は少年に自分たちの一族、イエスの時代にシモンと呼ばれた自分たちの一族の来歴を、延々と少年に語り続けていく。主人公の少年もシモン・ペーテルという名だ。祖父はそして、以下のような奇妙な主張を前提にしながら、シモンの一族の物語を語る。

生き延びんがために死なん! そのためにわしは生まれてきた、呪いの成就と、完全な滅亡の成就のために。だからわしはキリスト教徒の女に自分の種子をまき、血をわけた。だが、おまえの父親はユダヤ教徒の女をめとり、わしが得たものをおまえの中で無駄にした、それでおまえの血はまたしてもその大半がユダヤの血なのだ。だが、おまえもキリスト教徒の血をもらえば、やがてユダヤの血は消え失せる! これをまっとうするため、そのためにこそわしは生まれてきた! 抹殺するのは生き残るためだ。なぜなら、血そのものが消えることはないからだ。94〜95P

エルサレム以来の一族の物語は、迫害と放浪の遍歴として祖父の口から語られながら、同時になぜか魚の解体と調理の光景が挾まれる。作中にもあるとおり、魚はキリスト教の象徴でもあり、その死と解体には一族の物語と重ねられた意味がある。

キリストを信じられなかったシモンの末裔のユダヤ人として、上記の信念を持つ祖父は、しかし、祖父の教えにも背いた少年の父が、祖父の死を理由に実家に帰ったと嘘をついたことをラジオで知ることになる。父は帰ってくることなどなかったからだ。自分が間違っていた、と悔いながら死んでいく祖父が描かれ、そして父はその嘘がかかわっているのか、政治犯として粛清されたらしいことが、少年が施設に入れられたことからわかる。

あえていえばキリストに対する裏切り者としてのシモンに由来する一族は、裏切り者によって終わりを迎える、ということにもなるだろうか。少年はそうした政治犯の子供達が収容された施設で、仲良くなった子供が校長への反逆行為を密告したゆえに反逆者よりも重く制裁され、施設から消えるのを目の当たりにする。

祖父はあるとき、自分の友人「フリジェシュおじさん」の息子が逮捕されたことを知る。息子にそれを伝えると、

「だからどうしろって言うんだ、おやじ?」
「何だと? お前の友だちじゃないか!」
中略
「若気の至りだよ! 逮捕されたんなら、それなりの理由があってのことだ。」131P

ここに続く場面で祖父はこう言ってもいる。

「神がこの世をお創りになって以来、たしかに人間には二つの党がある。カインの側とアベルの側だ!」132P

キリスト教ユダヤ教、政治的党派、そのあいだを揺らぐ信仰、スパイ、裏切り者。政治的緊張状態のなかで家族は崩壊していき、祖父によるユーモラスな語り口はその死によってとだえ、子供の視点による繊細な描写の数々は孤独となった少年の寂しさへと転化していく。放浪、迫害のユダヤの一族=家族の物語がこうして終わっていく。

枕投げをしている騒ぎのなか、「外は見えない。だめだ。」と語る少年の最後、解説ではあるいはこの瞬間に回想されたのがこの作品全体だという説を紹介しているけれど、そうすると、序盤52Pの「僕たちはまくら投げをした」という唐突な一文はそういうことだろうか。今作は、祖父と祖母の死が序盤に置かれ、中盤では延々と祖父の語りが記述されており、時系列が前後する以上、最初と最後が同時なのもおかしくはないということだろう。

少年による語りは政治性をぼやかすための技法で、また物語自体が政治による家族=一族の崩壊をも描いており、東欧の政治状況に否応なく巻きこまれざるを得ない東欧文学らしい一作となっている。子供らしい語りの視点は魅力とわかりづらさの表裏一体でもあったり、祖父の存在は結構ユーモラスで楽しいけれど、じっさいわかりづらくもあり十全に楽しめた感じはないけれど、かといって退屈なわけではない。子供の視点の背後に何が起こっているのかをつねに推測しつつ読む必要があり、それは政治的緊張状態での人々の生き方でもあっただろう。

宗教的ニュアンスがちょっと私にはわからないところがあった。魚と同様、繰り返し出てくる蛇の想像も宗教的な含意があるはず。

ノーベル賞オッズにもしばしば顔を出すナーダシュは他の作品もずいぶん破格のものが多いようで、大著だらけのそれらが果たして翻訳されるかは怪しい。今作は短めながら手応えのある高密度の作品となっており、ナーダシュを知るにはちょうど良いように思う。

ちょっと話はずれるけどAmazon見ていたらキシュの『砂時計』、装幀が変わっていた。

砂時計 (東欧の想像力 1)

砂時計 (東欧の想像力 1)

初期五作あたり、新カバーに変えていくとかなのかな。