笙野頼子 - 人喰いの国

「文藝」2016年冬号に掲載された笙野頼子による「ひょうすべ」連作第五作。「ひょうすべの嫁」「ひょうすべの菓子」「ひょうすべの約束」「おばあちゃんのシラバス」と続いた四年越しの連作はこれで完結し、今月末には単行本が予定されている。
笙野頼子 - ひょうすべ連作とトン子 - Close to the Wall
笙野頼子「ひょうすべの約束」「おばあちゃんのシラバス」その他 - Close to the Wall
↓こちらでは強烈な作者コメントその他の情報をまとめてあるのでご参照。
「文藝」2016年冬号に中編「人喰いの国」
女性や弱者を虐殺する権力の構造をえぐる基本軸は変わらないけれども、食べ物に混ぜられた粉がひょうすべの子を産む、という描写をもつ最初の二篇ほどは原発事故以後の日本に重点が置かれていたのが、四年を経てTPPという「約束」が大きな問題として現われている。TPP批准(まさに今現在のこと)後の医療と農業が崩壊したあとの日本を、だいにっほんシリーズや『水晶内制度』のウラミズモとも関係させ、グロテスクな世界像を描き出す笙野未来史とでもいうべき作品群を構成するようになっている。

連作の概要としては以前の記事を参照してもらいたい。下との約束は破ってもいいとか、「新たな価値判断」で公約を反故にするとか、先行き不安で年寄りは金を使えず、若者は正社員になれず、マスコミは世界企業の奴隷となり「ひょうすべ」を撃つことはできなくなり、世代間対立を煽るばかりで、妊婦は狙われ、子供は生まれなくなった、という日本の現状への批判とともに、投資家という人喰いのために国家が組み換えられた状況を描いていく。

そのなかで生きていく埴輪詩歌の生涯がこの連作の中心になっており、今作では祖母が死に、父は少女遊郭に入り浸った挙げ句そこで殺されたようだけれど「失踪」扱いとなっており、母親も「ひょうすべ以前なら生きられたガンで」死ぬ。その彼女が出会ったのが「火星人落語」という火星人が地球で受けた酷い扱いを批評性を抑えて淡々と語る、という芸能のトップの埴輪木綿造だった。

詩歌には人工授精でできた男児木綿助がおり、そして木綿造との間にはいぶきが生まれた。みたこ教団に入れ込む木綿助の存在、そして一家の「だいにっほんシリーズの通り」のその後など、だいにっほんシリーズへのあいだをつなぐものとなっている。

終盤のウラミズモ首相候補からの手紙にある、ストーカーによって従姉妹を殺されたことによって、「予防国家」構想を語る下りが興味深い。リゾーム国体を構成し、ヘイトスピーチを戦争煽動として扱い国家反逆予防罪により殲滅し、さまざまな犯罪を予防、そしてウラミズモの「男性保護法」は「男性犯罪予防法」でもあると語るこの国家構想、予防拘禁の原理を政策の中心に置いたきわめて不穏なものだ。ディストピア性とユートピア性がないまぜになったウラミズモらしい方針でもある。

しかし、詩歌の元に届いた手紙の意味やウラミズモの占領、について、これがどういう意味を持つのか、今ひとつわからないのはだいにっほんシリーズを忘れているからか、それとも単行本で続きが描かれるからか。『水晶内制度』やだいにっほんシリーズと、ひょうすべ連作のつながりがどうなっているのかいまいち理解し切れていない。単行本でまとめて読んでからか。しかし、シリーズ全部関係してくるとなると、そこまで含めた再読できる時間はないなあ。

単行本の目次を見ると、第一章と第五章が書き下ろしなのか、見たことのない章題となっている。第五章は「埴輪家の遺産」と題されており、今作の続きになっているようだ。

個人的な余談

で、このウラミズモという国家は男性を拘禁し保護の名の下に管理しているという設定があり、ウラミズモの産業のひとつは、少女の身体データの輸出だったはずだ。読んでいて思うのは、ある種の美少女フィクションとウラミズモがきわめて相似形になっていることだ。近年の漫画アニメでは説明もなしにまったく男性が出てこない作品があり、アイドルものにしろバトルものにしろ、女性が女性同士で交流したり競争したり戦闘したりするものが多々ある。女性がさまざまな趣味、仕事で活動するさまを描く作品も相当増えた。これがある種、少女の消費として批判される傾向を持つことは否定しないけれども、同時に男社会の解体でもあることも否定できないと思う。たとえば去年「ヴァルキリードライブ・マーメイド」というアニメがあったけれども、これは露わなレズビアニズムがポルノ的表象とともに描かれた作品で、同じプロデューサーの以前の作品では男性が中心にあったゲーム的人物配置が消えて、もっぱら女性だけの社会が描かれていた*1。ウラミズモという国家の存在は、原発を中心に置き、ポルノを輸出しつつ女権国家を維持するというものだったけれど、たとえば美少女アニメが作中では男性を排除しつつ女性同士が主体的に行動し、交流する関係を描き、作品外ではそれを性的に見る目線で受容される、という構図によって成立しているのとそっくりに見えるわけだ。作中で原発が「フィクション」とされていることは、この点きわめて示唆的。

そして、自称萌えオタクとしては、萌え文化が非常に一方的に男性による女性への暴力として戯画化されているのは気になる。美少女を描く、というときに持ち込まれるセクシズム的コード、表象、展開にまみれているというのは否定できないとして、と同時にもちろんそれだけではないのはこのブログでも書いてきたと思う。女性作家によるセーラームーン等の戦う女性表象をはじめジェンダーロールの攪乱をさまざまに描いてきたのも、そうした作品ではなかったかと思うからだ。そもそも漫画アニメ的美少女表象は、結構な割合で少女漫画文脈に影響されていると思うし、エロ漫画エロゲー等のポルノそのもののジャンルにおいても女性作家はかなりの割合で存在するのはよく知られている。それは名誉男性として排除して良いとは思わない。昔知り合いの女性が百合BLエロゲー等々まで嗜んでいたので、安易な男女二元論で考えられるとも思わない。百合はBLともども女性によって担われてきたジャンルだったわけだし、女性をエロティックに描く女性とそれを受容する女性の存在を無視して良いとは思わない。作品と受容には一見不可解な関係性がある。男性中心のハーレムものと、少女だけが登場するものとで、たとえば男性視聴者読者の受容は違うのか、同じなのか、それすら簡単には言えない。さまざまな欲望にあふれたキッチュポップカルチャーだからこそ、面白いというところがある。

たとえば「リョナ」が今作では女性を虐待する直接的暴力とイコールで使われているけれど、じっさいの愛好者の受容はかなり複雑なものを含んでいるというのは以下の発言からもよくわかる。暴力表現を読む時、時折これは作者の被虐願望ではないか、と思うときは時々ある。
vtuberかもしれない神ヤヤネヒ on Twitter: "あと、性虐待表現についてずっと思っていたこと、長くなるので別ツリーで。"
今作のような描写に一端の正しさを認めつつ、萌え文化愛好者の一端としてのこうしたアンビバレントな違和感も同時に持ちながら読んでいくことになる、というのはタコグルメの感想の時にも書いたような気はする。翌日追記――しかし、死体人形愛好者たちの「幻視建国」を描いた『硝子生命論』があるように、あるいはホラー漫画を愛好していたことをエッセイで書いていたはずでもあり、作者がマイノリティ趣味に無理解だというわけでもないことは書いておく。

しかし笙野頼子は以前からネットスラングをよくよく多用する作家だけれど、最近は2ch用語より、ツイッターぽいスラングが多いような。というか、取材している言説がわりとツイッターぽくて、ツイッターROM民感がある。「リョナ」はちょっと違うけど、「バブみ」や「ケチみと攻撃み、嫌みとすけべみ」という「み」用法はツイッター由来だろうし、美少女兵が政治家を守らされている状況で「提督」という言葉が出てくるのはまあ艦これで、ただ政治家ではなく美少女兵が「提督」と呼ばれているのはなぜかよくわからなかった。提督はプレイヤーを指した言葉のはずだけれども。と思うと、「馬鹿なの? 死ぬの?」ってこれは割合古いネットスラングだったり。

「文藝」は笙野頼子さんにご恵贈いただきました。ありがとうございます。

事実誤認の箇所を削除し、一部追記した。

*1:その社会が閉鎖された島で実験施設だったとか、男装の女性が中心にいたとかいろいろ設定はあるけれども