笙野頼子 - ウラミズモ奴隷選挙

ウラミズモ奴隷選挙

ウラミズモ奴隷選挙

 

『だいにっほん』三部作の前日譚としての前作『ひょうすべの国』のずっと未来を描く最新作。笙野頼子の未来史シリーズのひとつ、とはいっても、作者自身が前書きで言うように、いくつもの長篇との関連があるとは言え、いまこの作品あるいは笙野頼子に興味が向いたならばまずまっさきにこれを読むのがいいだろう。

なぜかといえば、今現在日本で進行しつつあるさまざまな政治的社会的事象を観察し取り入れた描写の数々には現実のカリカチュアライズのはずがむしろまったき現実そのものとしか思えず、また書いた時点よりも未来を先取りするかのような描写はその観察の正しさを証し、いったいどちらが虚構なのか、という読むことそのものが生々しい今現在のおぞましさを味わうことになるような体験はたぶん今にしかないからだ。

 

この作品の舞台は2070年代のウラミズモに併合された千葉S倉、あるいは歴史民俗博物館の周辺。奴隷選挙とは、「にっほん」から独立した女人国ウラミズモに併合されるかにっほんのままでいるかの選挙でウラミズモ併合を選んだ選挙を指す。本作はにっほんからの亡命者や留学者といった女性あるいは女神が、にっほんでの経験を語り、ウラミズモでの生活を語り、この二つの社会の鮮やかな対比を浮き彫りにする。

 

「にっほん」社会の特徴は徹底した女性差別社会で、また同時に支離滅裂な自滅的社会でもあることだ。おんたこと呼ばれる人物類型は、差別批判の理路を逆用し、男性こそが被害者で弱者だから、女子供への加害が許されるべきだ、という超論理を展開し、与党が「知感野労(ちかんやろう)」と略称されているように、痴漢常習者のロジック――加害者が自分を被害者として暴力を正当化する論理で成立する国家を描いている。前作『ひょうすべの国』のひょうすべ、とは「表現の自由が全て」の略で、これも公正さ、平等の奪用によって弱者を攻撃する手法だ。

 

ここに描かれた暴虐的差別主義国家だいにっほんは果たして過剰な誇張だろうか。七月の雑誌掲載後しばらくして起こった「新潮45」をめぐる騒動で、小川榮太郎が「LGBTの権利を保障するのであれば、痴漢が女性を触る権利も社会は保障するべきではないか」と書いたらしいけれども、本作にはウラミズモに観光に来る「だいにっほんのお上りさん」が「痴漢をする自由は性の多様性なので、性的弱者を保護する牧場なら、男女平等の見地から、痴漢に少女を襲わせなくてはならない」と言っていたくだりがあり*1杉田水脈セクシャルマイノリティ差別とあわせて、これらが政権与党トップに近しい人間から発されている現実はフィクション以上に醜悪な現実で、どちらがカリカチュアなのかわからなくなってくる。

 

消費を上向かせたいのか消費を抑制したいのかわからない、少子化をなんとかしたいのか女性に出産をさせたくないのかわからない、そういう政策や現実を見るにつけ、作中の支離滅裂な自滅的社会とはまさにこの現実の日本そのものだ。

水道民営化法案が話題になったまさにその時に、作中では水道が国際企業に占有されて貧乏人が水を買えなくなったりした未来社会が描かれているのを読んだことを覚えている。また語り手の一人、市川房代の誕生は2020年、オリンピックの夏、ボランティアが奴隷労働で死んでいくなか生まれた、とある。作中では働き方法案が後に奴隷法案となった世界だ。

 

対して女人国ウラミズモは女性がきちんと人間として生きられる社会として成立している。女だけの世界で始めて人間となる女性たちの国。小さな生活を大切にし、ベビー用品が世界的に輸出されているなど、資源はなくともなんとかやっていけてる「三流国」だけれども、必ずしもここが理想国として描かれているわけでもなく、カメラだらけの監視社会で健康への厚かましいお節介がある、「クリーンだがホラーな政治」かも知れないとも書かれており、柔らかな全体主義のようなものも匂わせている。そして、作中に出てくる高校生の「婆差別」が懸案事項となっているなど、様々なカウンターを仕込んでおり、なかでもウラミズモの一種の暗部として「男性保護牧場」がある。痴漢や犯罪者といった憎むべき男性を収容し、萌え抱き枕などを与えて飼育し精液を採取したり、あるいは女人国の母親から捨てられた子や債務奴隷になって買い取られた子など、犯罪性のないものもいるけれども、これが性愛のない国での唯一の「性的機関」だという。そしてここの最悪の犯罪者は、白梅高等学院のあるクラスでの「オストラシズム」の結果によって処刑されることになる。

 

警視総監と法務大臣が出るというエリート養成高校の特別編成クラスの総仕上げがこのオストラで、その最悪の存在をいかに処刑するかを決めるのが重要な授業として設定されている。ここにも選挙のモチーフがある。結末近く、白梅高等学院の双尾銀鈴の一文には、「全ての選挙の中に暴力は既に内蔵されている」とある。奴隷選挙によってウラミズモに併合されたこのS倉で、高校生の学女(ウラミズモの言葉では学生ではなく、学女)達はオストラによって児童虐待殺人犯を処刑するという暴力が露わになる。双尾銀鈴はこう書く。「オストラだけが唯一、純粋暴力に近い選挙だった」。「人類はまた、もし暴力革命をやっても、選挙の名簿作りに失敗すれば、さらに嘘を重ね、前よりもひどい国を、暴力を作るでしょう。だからこそ絶対、まず選挙の中からこそ暴力をなくさないと、みんな、ダメになります」(242P)。ここには女を排除しようとする選挙に対し、純粋暴力としての処刑を対置しながら、構造を露呈させ、以て暴力を批判しようとする試みがあるようにも思う。

 

作品ラストの、女装男性の国境警備員や女装専業主夫がじわじわと生まれている状況は、ウラミズモとにっほんとの分離のあいだから新しいものが生まれてきているわけで、状況が徐々に変化していく未来をうかがわせる。序盤の語り手だった陰石の女神は、別れ別れになった陽石の夫を探しにS倉に来た存在で、分離と再統合のテーマも序盤から埋め込まれている。

 

先の一文で、双尾銀鈴は暴力を三つ指摘している。「性暴力、差別暴力、経済暴力」の三つだ。性暴力、差別暴力批判としてのウラミズモの特質はいくらかは既に述べたけれども、その根っこにあるのは性愛を中心に置かない国だということだ。ウラミズモでは家庭を持つルートに二つあり、一つは人形夫を持つ分離派と、女性二人で結婚する一致派というものだ。しかし、一致派もまた友情婚だとされており、必ずしも同性愛ではない。白梅の双尾、猫沼という二人について作者は紹介文で「少女カップルの「恋話」」だと書いているけれども、幼いときから相手なしでいることはなかったというこの二人の微妙な関係も今作のポイントの一つだろう。

 

そして経済暴力批判の側面が、今作が怒りに満ちた反TPP小説だということで、水道民営化、種子法廃止、国際企業だけが利益を持って行くカジノなど、国際企業に生存の手段が占有され、すべてが金に換えられてしまう奴隷状態への批判が主題でもある。「にっほんはいつしか自分で自分を奴隷化し奴隷的でいることを美徳とする国」(67P)で、弱者に不要な苦しみを押しつけるのが好きな性質を指摘する。権力への媚びと弱者への暴力、これをこそ奴隷根性として指弾し、批判する。奴隷化された自己とそこに吹き荒れる暴力のなかから、抜け出し離脱する手段の一つとして「選挙」が出てくるわけだ。奴隷選挙とはその謂いだろうか。

 

論争的、闘争的な政治と文学をその身に生きる笙野頼子の現在最新作、盛り込まれた要素をまとめきれてはいないけれども、とりあえずこんなところで。

 

本書は笙野頼子さまに恵贈頂きました。ありがとうございます。

 

雑誌掲載版についての当時のツイート。七つくらい連結した投稿になっているのでクリックすると続きが読める。

 

*1:25P。なお雑誌版にも同文がある