トーマス・ベルンハルト『原因』

原因―一つの示唆

原因―一つの示唆

ベルンハルトの自伝五部作の第一作*1で、少年時代のギムナジウムや寮での生活を戦争・空襲の状況とともに描き出し、戦前のナチズムと戦後のカトリシズムを同質の「調教手段」として批判し、住んでいたザルツブルクをまさにその二つによって覆われた場所として痛罵する、愛憎の自伝小説だ。

「根本において、寄宿舎にあったナチズムのシステムとカトリックのシステムには、まったく何の違いもなかった。すべてはただ、違った色合い、違った名前を 持っているだけであり、与える印象と及ぼす効果は同じものなのであった。戦後間もないこのころ、 私たちは、ナチス時代と同様に洗面所で慌ただしく顔を洗ったあと、すぐ「礼拝堂」に入った。ナチ ス時代なら「談話室」に入ってニュースを聴き、グリューンクランツの説教を聴いたのとまったく同様に、今は「礼拝堂」でミサを聴いて、聖体を拝領した。以前ならナチの歌を歌ったところで、今は聖歌を歌った。一日の経過は、カトリックでもナチズムのときと同じく、根本において反人間的な調教メカニズムとして構成されていた。ナチス時代には食事の前に食卓の横に直立し、グリューンクラ ンツが食事の開始にあたって「ハイル・ヒトラー」と言ったあと、みんな腰を下ろして食べ始めることができたのだが、今ではまったく同じ姿勢で食卓のそばに立ち、フランツ小父が「祝福された食事を」と唱えたあと、腰を下ろして食べることが許された。以前、ナチズムの時代にはほとんどの寮生が国家社会主義の教育を受けていたのと同様、今、ほとんどの寮生は両親から、カトリシズムの教育を受けていた。私は、どちらの教育も受けなかった。祖父母のもとで育った私は、たちの悪い病気としてのナチズムとカトリシズムのどちらにも、一度も、罹ったことがなかった。」90P

この痛烈なザルツブルク批判に留まらず、さらに親による教育や学校制度にも批判は及び、「子供を作るという罪」や「私たちの本性を意図して不幸にするという罪」を列挙し、「両親などというものはない。新しい人間の生産者としての犯罪者がいるだけだ」とまで述べる。反出生主義とも近いけど、むしろ親の教育が子供を破壊している、という批判だろうか。それでいながら、祖父への愛や祖父から受けた教育を懐かしみ、また学校や社会の生け贄とされた醜い教授や不具の子をつねに思いだし描写する。「道徳とは偽りだ。いわゆる健常者は、心の底ではいつも病人や不具者を見て楽しんでいる」という共同体への怒りが突き立てられる。

 

自分を作り上げたものがなんだったのかを問い返すなかで現れるザルツブルク、教育制度、生徒・教師、家族たちをどう思っていたかをたどりなおすことで描かれる自分にとっての真理としての回想。この罵倒と批判と愛するものへの思いが入り交じる語りに笙野頼子を思い出す、とりわけ祖母の「屈託のない生の喜び」に言及するところとか。日本のベルンハルトは笙野頼子、か。どっちか読んでる人はもう片方も読んで欲しい。小説としてドラマチックなことが起るわけでもないのになにか感動的なものがるところも似ている。

 

なお、ナチ時代の寮長とカトリック時代の寮長の二つの章に分けられている以外は、一切改行がない。 

 

*1:この前に訳された『ある子供』は第五作でこの作品より以前の時代を扱っている