イヴォ・アンドリッチ『宰相の象の物語』

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

松籟社〈東欧の想像力〉第十四弾、二年ぶりの新刊は、ユーゴスラヴィアの最初にして最後のノーベル文学賞受賞者イヴォ・アンドリッチ(1892-1975)の中短篇集。1931年の中篇から、第二次大戦後に発表されたものまで、アンドリッチの四〇代あたり、およそ中期にあたるだろう作品群を収める。舞台となっているのは、トラーヴニク、ヴィシェグラード、サライェヴォといったボスニアの都市や街で、いずれもアンドリッチ自身の生地や育った場所など、彼自身に縁のある場所だ。ヴィシェグラードはもちろん『ドリナの橋』の舞台でもあった。

ボスニアの田舎町(カサバ)と都市は物語の宝庫である。作り話であることの多いそれらの物語のなかには、 およそあり得ない出来事の体裁のもとに、またしばしば架空の人名の仮面のもとに、実在の人物や、 とうの昔に過ぎ去った世代の人々に関するこの地方の真実の知られざる歴史が隠されていることがある。ここには、トルコの諺で「どんな真実よりもはるかに真実味がある」と言うところの、かのオリエントの嘘の話がある。(7P、ルビを括弧入れし、傍点を太字にして引用)

表題作「宰相の象の物語」は七〇ページほどの短篇で、トラーヴニクに新たにやってきてすぐに、招集した市長や権力者たちを虐殺した宰相が持ち込んだ象をめぐる作品。アフリカからやってきたらしい象は小さい時はともかく、大きくなるにつれて商店街を気ままに闊歩し、売り物をひっくり返したり店に小便をしたりと大きな被害と恐怖を与えていた。もちろん不満に思う人々は、ミツバチをけしかけたり、リンゴに毒を混ぜたりして抵抗を試みるけれども、芳しい成果をあげられなかった。この象は宰相そっくり(その男は宰相を見たことがないのに)だと言われるように、あらわな独裁権力の寓意だけれども、この小説の焦点はそことはずれた、アリョという男の話に合わされているように思う。商店街の人々の象への怒りが高まり宰相への抗議がなされることになったとき、立ち上がった男の一人がアリョで、五人集まるはずが三人しか待ち合わせには現われず、城の目の前まで来た時には、いつの間にか一人置いて行かれてしまう。門番の誰何は切り抜けたものの、本人が帰ってきてから絶対秘密といいつつ英雄的に宰相にきちんと意思を伝えたという嘘の話を広め、それがまことしやかに街に広まっていくことになる。その後宰相は失策から自害によって脅威とはならなくなり、象も民衆の抵抗によって倒されるのではなく、なかば衰弱するように死んでいった。そして本作の末尾はアリョの物語への言及で終わるように、本作はそもそも民衆の物語について説き起こされていた。そこでは、真実より真実らしい物語、について語られており、それは嘘の歴史でもあるとも述べられ、この宰相の象の物語も「そのような」物語だと言明されている。アリョは仲間に裏切られて逃げ帰ったのではなく、英雄的な抗議の物語として人々に記憶される。民衆の物語としての抵抗の物語。その証拠に、序章の「宰相の「フィル」という象の話は、そのような物語である」という一文は、最後に「アリョとフィルの物語は、ボスニアじゅうに広まり、その過程において膨らんでいく」となっており、宰相のフィルの物語はアリョとフィルの物語へとズレている。

シナンの僧院(テキヤ)に死す」は、学識と高徳で知られた老僧が、死に際の回想において、誰にも秘密にしていた罪責の記憶が不意に蘇るという二〇ページほどの短篇。女性を知らない彼の生涯に二度だけ現れた女性の記憶がそれで、方や水害の際に目の前に現れた全裸の水死体で、かたや夜中の僧院の門までやってきた半裸の男に追われた女性の姿だ。その両方を僧は見なかったことにしてやりすごした。女性と罪悪感の混合したものが僧にとりついており、生涯女性を知らなかった彼にとって宗教的な潔癖性とそれゆえにこそ惨い状況にある女性を無視してしまった罪責が死に際の彼を苛むということだろうか。この誘惑と罪のテーマは別の作品でも現れる。

これも二〇ページほどの短篇「絨毯」は、また別の倫理性についての話だ。私宅の所有権をめぐって争論のなかにあり、ウスタシャの副議長との抗弁を間近に控えた老婆は、回想のなかの祖母を思い出す。その祖母は体を悪くしてはいてもきわめて毅然としたまさに一家の不動の大黒柱で、家族や町の人々からたびたび相談を受けていた。老婆が子供の時、街が戦争に巻きこまれ兵士が家に乱入し、どこかから略奪してきた絨毯とラキヤ(この地方の蒸留酒)を交換してくれと言う頼みを、祖母は決然と拒否した。この回想の時期は1878年オーストリア軍がサライェヴォを陥落させたときで、現在時はナチスドイツに占領され、クロアチアファシスト組織ウスタシャに実権支配を受けているときにあたる。侵略者の暴力を目前にして、いかなる倫理的態度を取りうるか、という危機の状況が描かれており、この現在時の老婆はしかし祖母の偉大な姿を回想することで、むしろ自身の倫理的態度がくずれていっている。

「アニカの時代」は一〇〇ページほどある中篇。娼婦を害悪として扱っており、今読むと厳しい面も多いけど、もっとも緊張感のある作品だった。話は、性欲に駆られて殺人の片棒を担いでしまい色恋にトラウマを負った青年と、その青年に拒絶されたことであらゆる男のための売春宿を開き街に害悪をもたらしたとされるアニカの物語だ。シナンの僧院の話で扱われた誘惑と罪のテーマをより踏みこんで描いたともとれる。欲に駆られて醜くなりまさる男たちを尻目に、アニカは超然毅然としており、1931年の作ということで娼婦が百年の害悪をもたらすものなどと言われたりしているけれど、それゆえに市長や聖職者や周囲の街のものまでも虜にするアニカの悪としてのカリスマ性が際立つ逆説が生まれてもいる。

「いいかね、きみはまだ若いが、年寄りたちが言う真理をきみに話しておこう。どの女の中にも悪魔が住んでいる。その悪魔は労働か出産によって、あるいはその両方によって殺さなければならない。もしその二つを免れる女がいたら、その女を殺さなければならない」201P

本筋としては青年ミハイロの性と罪の懊悩の遍歴で、男を誘惑する女にこそ罪があり男の性欲は免罪され結果的に女で身持ちを崩した男がかわいそう、という語りは八〇年前の小説では仕方のないところだけれども、現代この物語を読むなら、男たちを手玉にとって地域に君臨した英雄的女性たるアニカの話として、語りの倫理意識をひっくり返して読むほうが面白いような気はする。アニカはほとんど内心を語っておらず、語りによってその内面を簒奪されていない。とはいえ、そう読もうとしても199ページの「誰かあたしを殺してくれる人がいたら、その人は善行を施したことになる」というセリフが妨げにはなるんだけども。

発狂した神父を枕にしていくつもの殺人の記憶が呼び出される暗い話でもあって、出てくる殺人はだいたい男女間の性愛がからんだものだけれど、最初の神父のだけはそうではない、というのはどういうことだろう、と思ったけど、神父の発狂と娼婦の害悪、つまり宗教的危機のテーマではあるか。解説いわくの悪のテーマ。しかし悪が多くは女性として現われるところは時代的あるいは宗教的なミソジニーが根付いているとは思う。個人的には、発狂した神父が渡った川や、ミハイロが殺人に手を貸したすぐの場面で繰り返し描写される水槽と水の音、そしてミハイロが「泥に落ちてしまった男」と評されることなど、随所で水が描写されるのがちょっと印象に残る。汚れを流す水とあふれる血、水が血と重ね合わされて不吉なエレメントになっている、と言い切れるかは微妙だけど。


オスマントルコの時代からオーストリア軍侵攻の戦時下そしてウスタシャの実権支配にある第二次大戦中までの近代ボスニアを舞台にした、土地に根付く歴史から生まれる物語。ヒトラー時代にベルリンのユーゴ大使だったという外交官でもあったアンドリッチの事績を詳しく紹介した解説も貴重な一冊。
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