飛浩隆『零號琴』――物語としての生を描く物語としての

零號琴

零號琴

雑誌連載が2010年にスタートして連載完結後もいっこうに出る気配のなかった長篇が、七年近い改稿期間を経てついに今年刊行された。名のみ聞いていて、どういう作品なのかはいっさい知らなかったんだけれども、いやー、凄かった。

作者自身、科学の発展や現代の諸問題について目を向けておらず、「新しい」もののない、古い娯楽読み物的なSFだ、と言ってる通りの小説ではあるかも知れない。しかしそのジャンル小説、フォーミュラ(テンプレっていえばわかりやすいか)フィクション性を圧倒的なパロディ、メタ性の繰り込みとしてどこまでも濃密に凝縮し、生半可には読み切れない密度でギチギチに組み上げられている。

話としては、トロムボノクという特殊楽器演奏の技能を持つ男と、第四類改変体という狼男のようなフォルムを持つ二人が、ある星から掘り出された特殊な鐘を演奏せよという依頼を受ける、というもの。その惑星「美縟」にはさまざまな変わった文化があり、人々が假面と呼ばれる特殊な仮面をつけていたり、梦卑という何にでも形を変えて再生できる可塑性の塊のような奇妙な土着生物がいたり、假面をつけた人々が神話を再演する假劇という住民が参加するオペラのようなものが定期的に開催されていたりする。

この美縟開府500年の記念をまえに、地中がまるで誂えたように鐘をいくつも生みだし、その何万もの鐘が街中に配備され、その全体が美玉鐘という楽器になるという。美縟の歴史には、この美玉鐘によって国を啓いた秘曲零號琴を鳴らせ、と伝えられているという。そしてこの都市規模のオペラ?を演じるなかで、歴史の秘密が露わになる、巨大音楽SFエンターテイメントだ。

以下特にネタバレとかは気にせずに書く。

『零號琴』はすでに言われているように物語論、それも二次創作を作品の核に据えてそれを語っている小説という側面がある。いくつか取り出してみれば、それはある物語のなかで生み出された悪や犠牲とそれを別の人間が救い出そうとするフィクションを作り出す二次創作論、そして音が鳴り響くあいだだけ存在する一夜の夢のようなものとしての物語と登場人物たちという虚構・芸術論などが渾然一体となっている。

音楽SFをベースにそうしたアニメ特撮その他その他がマッシュアップされたごった煮感と、主人公二人の楽しいキャラ小説なんだけれども、そのキャラ小説性自体が作中でテーマともなるような多重回帰的側面がある。ジャンルへの愛に満ちたジャンル小説でもあって、それゆえにその形式性がメタ的に問題となって帰ってくるというか。本作はありていにいえば魔法少女まどかマギカで世界救済の神として犠牲になったまどかを救出する二次創作を書く、みたいな話が重要なモチーフとなっていて、誰かの犠牲によって維持される世界という構図を批判的に見返すル・グインの「オメラスから歩み去る人々」的モチーフが物語の動因となっているともとれる。

とつぜんどう見てもプリキュアをネタにしたとおぼしき「旋女仙隊 あしたはフリギア!」という作中作が出てきて吹き出した人は多いと思うけれども、魔法少女、特撮、戦隊ものといった日曜朝の子供向けテレビ番組の記憶が重要な意味を持つのは、作中人物にとっても読者にとってもそうだ。そうした物語の記憶を、物語を語ることで返礼する、そのことの意味を織り込んだ小説になっている。新しいものはない、かわりに古いものはいくらでもある。

この歌詞、絶対プリキュアのテーマソングの節だし笑ってしまう。

フリギア フリギア フリギア フリギア
仙術核をかかえる星に
フリギア フリギア フリギアフリギア
まじょの時計がのりうつる
 P392

パッと自分が読んだ感じだとプリキュアのほか、まどかマギカエヴァンゲリオン、ゴレンジャー、あるいは板野サーカスを思わせる叙述とかがあって、しかも作者いわく、泣きべそのフリギアの犠牲を書く時まどかマギカは見ておらず、念頭にあったのはガッチャマンコンドルのジョーだったという。私が知らないようなパロディやネタがぎゅうぎゅうに詰まってるんだろうと思うけど、鏡、が重要なモチーフとなっているように、この作品から読者が何を連想し、何を思い出すのかすら、相当に個人差が出るだろう。

また、物語を如何に転覆させるか、というとき台本作家ワンダ・フェアフーフェンが全員参加の假劇では登場人物から物語を転覆するのは困難だとして別の作品、「轍世界」全体で大人気だったテレビシリーズ、「旋女仙隊 あしたはフリギア!」をマッシュアップしたように、『零號琴』にはSF先行作のほか作品外の読者が既知の物語が投入されるという二重のパロディが進行している。

この作品の内外で進行する多層構造の密度といったら。

そして礎となる存在、轍に取り巻かれた世界、虚構の存在とその外へ、という幾重にも重ねられたモチーフは物語とその外、宇宙とその外への希求として私達自身のテーマとして反照される。物語の外、宇宙の外を希求する思いは、まさにこの宇宙に棲む作者や私達のそれでもあって、私達には泣きべそのフリギアを最終回から引っ張り出したワンダはいない。そこにこそこの小説の根底があるような気がしている。

作品の大ネタ自体はかなり数値海岸を思い出させる虚構内虚構や人間の情報的解体というかそういう飛浩隆的モチーフだけれども、それを物語=フィクションと連繋させ、その外への志向として引き出しているのが興味深い。

この大ネタになっている美縟での、物語によって生を受け、物語により生を更新し、物語によって消えゆく存在としての人間。ここでは彫刻と対比的に語られた音楽という芸術に、小説あるいは生そのものが連繋しているように思われる。ここはもうちょっと読み込まないと対比とギミックとの関係が整理できてないけれど、トロムボノクのそれのように音楽と生は必然的に結びついているのは確かだ。華麗な物語はひとときの演奏のようなもので、終われば全ては消え崩れ去る。しかし、繰り返し再演され、あるいは受け手によって別様に語り直される。それこそがフォーミュラ性かもしれないし、ここでジーン・ウルフの『デス博士の島その他の物語』を連想もした。

惑星「美縟」という物語が『零號琴』という物語に埋め込まれていること。この小説にいくつもの物語が埋め込まれ、ちりばめられ、物語から物語を作り出していること。それが物語としての生を描く物語としての『零號琴』ではないかという印象を受けた。


いやしかし、疲れる。密度が濃すぎるんだ。エンタメ的なのに文章その他が高濃度なのでぐいぐい読む割りにさらっと読めるわけではないうえにこの分量、文庫にしたら800ページくらいの文章量がある。まあでもパロネタの数々、フリギアもそうだし、結構笑える部分も多いので楽しい小説ですよ。私は密林のフリギアが笑った。「中年のおっさんのような容姿」でタバコ吸ってて。これ何かのネタかな。

シェリュバン、狼男という社会から排除された存在だからこそ、世界の楔として日常からおいやられた存在を身にまとうことができる。最初少女の体に豊満な胸と尻の像が出てきた時、ちょっと安易なイメージかと思ってたらシェリュバンが女装するネタが出てきたので、なるほどきちんとトレンドを抑えている、と思った。

一読して咀嚼しきれないのは物語で物語を転覆させる物語でまたそれ以上に物語の外を希求する物語だからでもあって、作中ですら何重もの物語が相互介入して乱反射するような虚構が進行していて、そこに読者側のいくつもの物語の記憶が絡んできてしまうためでもあり、さあわけわかんなくなってきたぞ!ってなるからでもあるかな。

マヤが仮面つながりで「ガラスの仮面」ネタらしいとか、鐵靱はまんま鉄人28号だろうし、菜綵は綾波レイっぽいと思ったし、六つ目の巨人はエヴァの磔にされてるリリスを連想した。あれは七つ目の仮面つけてたけど。私のカバー範囲では二次的な派生形を思い浮かべてしまうっぽいから、元ネタ集が欲しいけど誰かまとめてないのかな。