『「私」をつくる』『日本の同時代小説』『トリストラム・シャンディ』『うどん キツネつきの』『ブギーポップは笑わない』『日本の近代とは何であったか』『戦後史入門』

安藤宏『「私」をつくる』、近代小説の試み、と副題にあるとおり、二葉亭から牧野信一等の近代小説について、「私」の仮構ともいうる問題意識から小説を読み直す。たとえば小説に「私」と書かれていたとしても、それは書き手によって作中におかれた演技する「私」ではないか、と。三人称でも一人称でもそれは小説を語る叙述主体「私」の装いの一つとして考えることで、読解の可能性を開くのが著者の試みだと思われる。面白いのは泉鏡花が言文一致の文体で書く時には、怪談において聞き書きを重ね合わせる技巧を用いるのに対し、擬古文ではそうではないということ。近代小説の文体ではその人称が語りうる内容はその資格に応じて決まってくるのに対して、擬古文・和文体ではそもそもが人称も時制も揺らぎうるという差異があるという。文末の動詞言い切り型と「~た」では、そこに人称の違いが現われているという文体分析も興味深い。また大正年間の文芸流派は、自然主義白樺派耽美派、新技巧派の四つに分けられるけれども、芥川の当時の時評でも既にこの区分けが明快になされているのは、当時の作家達が小説を書くために、それぞれの流派を自ら演じていたからだという逆説の指摘が非常に面白い。話すように書く言文一致の文体は誰が話しているのか、という叙述の資格が課題となる、ということから、近代小説のさまざまな課題とその実践を「私」をテーマにたどっていく近代小説論。

斎藤美奈子『日本の同時代小説』。中村光夫岩波新書『日本の近代小説』『日本の現代小説』以後の小説史がないということをうけて、1960年代以降の小説を純文学、エンタメとりまぜ紹介しつつ、紀行や自伝的ノンフィクションのたぐいをも私小説の系譜と位置づけて多数紹介していく小説史。幾つかの軸を設定し、時代ごとに私小説的作品、プロレタリア文学的小説を取りあげる。非常に多数の作品が出て来てて、伊藤計劃虐殺器官』を戦争小説の流れで紹介したり、木村友祐『イサの氾濫』を数ある震災関連作品のなかでも傑出した作品だと評価したりしているのが目に付いた。ただ、私小説を拡大解釈してたとえば小田実の『何でも見てやろう』などの紀行文や(自伝的)ノンフィクションを「私」の表現として私小説の系列として紹介するのは、ロジックが雑で違和感がある。ベストセラーから世相を分析するためにむりくり小説史に取り入れる方便としか思えない。またもっとも問題なのは、口語を取り入れた語りの軽さが、ほとんど軽薄で皮相としか思えない箇所が多いところだ。『死霊』について全巻読み通した人はいないと言われるとかいう与太を持ち出したり、旧弊な私小説を大上段から否定してみたり、その作家のファンではない身としてもどうかと思うようなざっくりとした否定をしたりと、頼むからもっと真面目にやってくれという不満ばかりが募る。その時代のその表現の試みのありようを探ろうとしないのでは、単なる現在からの裁断にしかならない。著者の思い入れあふれる回想的エッセイとしてなら良いかもしれないけれども、これはちょっと。

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)

ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』。英文学の古典にして脱線、逸脱を尽くした実験性がつとに評判の本作をついに読んだ*1。自伝的に見せかけて語り手トリストラム自身が生まれるのは上巻終わり頃で、本人がほぼ出てこないまま千ページに近い小説は終わるという迂回の果て。迂回の過程でさらに迂回と勘違いの脱線が始まったり、ほとんどコントみたいなボヘミア王と七つの城パートなんかもあって、もろもろ面白いところもあるけど、どうも個人的にはテンションが合わないというか、そこまで、という感じだった。実験性の強いメタフィクションの怪作、というよりは18世紀の地方の変なだけどまあ悪くはない人たちを描くユーモア小説、という感じで接した方がよさそう。ロックの観念連合というものを背景にした連想の語りという点が二十世紀意識の流れに影響したというのはなるほど、という感じもある。この連想、こそがある言葉を相手が勘違いしたり、という形でコントやすれ違いのネタにもなるので、かなり重要な概念でもある。Wikipediaの「神童育成マニアのウォルター、包囲戦再現マニアのトウビー、自伝執筆マニアのトリストラム」の試みが全て破綻する、という指摘はなるほどで、これはセルバンテスに幾度も言及する点から意識的な模倣だろうなと。父と子がともに書物への偏執からそれが挫折する過程なわけで。英語にhobby horseという言い回しがあって、本書で道楽馬と訳される馬のワードは後々欲望の換喩?みたいに使われたりして面白いんだけど、GenesisのDancing with the Moonlit Knightにこの単語が出てくる理由がわかって面白かった。途中の鼻への延々たるこだわりは興味深いというか、ゴーゴリ「鼻」との関係で後藤明生が何か言及しててもおかしくないと思ったけど、覚えがないな。覚えてないだけでどっかでパロったりしてるかも知れないけど。

高山羽根子『うどん キツネつきの』創元SF文庫。不思議な生き物を拾った姉妹の生活を描く表題作のほか、日常を描写しているようでそのすぐ裏に別のロジックが張りついているような、怪奇小説、SF、ミステリのあわいにあるような感触がある。表題作もいいし「おやすみラジオ」の不穏さも震災後と巨大なものへの畏怖のようなものがある最後の作もいいけど、少年小説?的な風合いと言語テーマの「シキ零レイ零ミドリ荘」が良いな。顔文字で喋る男とか知らない手話を勝手に通訳する主人公とか、メタ感がいいコメディになってる。文庫も良いんだけど、創元日本SF叢書、全巻単行本版で揃えてみたくもあった。

上遠野浩平ブギーポップは笑わない電撃文庫。アニメの放送を機に久しぶりに読み返した。事件の核心を知らない人それぞれの「青春(せかい)」の狭さとそれゆえの届かないものへの憧れを、竹田、末真、木村らを通して描きながら、正義感、優しさの意味を問い、人間って何だろうとも問いかける、間違いなく青春小説の傑作だろう。各人の視界の狭さと事件との無関係性、自分が何かを問いかける他人との関係という反復されるパターンは、人類と宇宙人との関係としても反復され、自分とは何かと人類とは何かが重なる全体的な構造。優しさと宇宙人モチーフ、シリーズの他の巻でアイスナインを引用するしヴォネガットの影響を感じる。竹田からブギーポップ、末真から霧間凪、アニメで出てきた覚えがない木村から紙木城直子への羨望と憧れのような並列パターンは、人称を排したアニメではやはり再現できず、各章の独白と対話のうち独白が消えてしまえばやはりそれはもう別物になってしまう。ブギーポップは笑わない、笑うのは僕たちの仕事だ、という竹田のモノローグ他、作品の肝心な部分はやっぱり抜け落ちてしまう。まあメディア特性上しょうがないけれども。遠いところから徐々に徐々に中心に向かっていく螺旋的な構成の面白さとか、やはり小説の魅力だな。いまんとこ、原作はアニメの三倍面白い、というのが正直な感想。

三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』岩波新書。日本の近代を政党政治、資本主義、植民地帝国、天皇制それぞれをテーマとして論じる近代史論。近代の条件を英国のバジョットの「議論による統治」に求めつつ、その系概念としての貿易、植民地をコミュニケーションとしてとらえ着目する立論になっている。「慣習の支配」から「議論による統治」へ、という近代概念をたどるにあたって、鴎外の史伝ものを個人の偉大さを描いたものではなく、政治的公共性の前段階としての「文芸的公共性」を描いたものとして評価するところ、歴史学者の文学への見方が面白い。また本書では特にいくつもの逆説が面白かった。明治憲法下では政治制度が遠心的で統合的主体を持たず、権力分散を徹底したがために、何らかの統合主体が求められ、それが藩閥を経て政党政治へと繋がった逆説を指摘し、アメリカも同様だったことを論じるところが一点と、植民地政策が脱軍事化と同化へと転換し、関東都督の文官化を目指すなか、政軍分離を陸軍に飲ませるために、将来的な北満洲での行政に拘束されない軍事行動の自由を理由としたことが、のちの満洲事変の軍事行動拡大の要因となったことが指摘されているところも。また、天皇制の章において著者は教育勅語国務大臣の副署がない例外的な詔勅だということの分析を始めるけれども、ここで出てくるのが井上毅の草案への批判で、井上は宗教的、哲学的中立性とともに政治的状況判断の混入を否定し、中立性をきわめて重視していた。これは論争を避けるためでもあった。そして立憲君主としての天皇が同時に道徳の立法者となることが、信教の自由や立憲主義との兼ね合いにおいて問題になるとき、井上は、教育勅語を政治上の命令と区別し(副署をせず)、天皇の著作の公表という形をとる曲芸で回避している。以前以下の記事で国家神道非宗教論について書いた際、「宗教を内想と外顕に区別し、内は許すが外に現れる活動を禁止する、という井上毅の主張」を取りあげたことがあるけれど、ここから始まる国家神道の強制のロジックとかなり似ている。
阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」 - Close To The Wall
まあ日本の近代とは何であったかって言われたらいまのこ現代の状況だよって言うしかないアレさがあるね。著者もワシントン体制から歴史から学べる部分を懸命に語っているけど。

「日本はアジアにおいて歴史上最初の、そしておそらく唯一で最後の植民地を領有する国家となりました。この場合の「植民地」とは、特定の国家主権に服属しながらも、本国とは差別され、本国に行われている憲法その他の法律が行われていない領土のことです。」144P

福田恆存が著書『近代の宿命』において指摘したように、ヨーロッパ近代は宗教改革を媒介として、ヨーロッパ中世から「神」を継承しましたが、日本近代は維新前後の「廃仏毀釈」政策や運動に象徴されるように、前近代から「神」を継承しませんでした。そのような歴史的条件の下で日本がヨーロッパ的近代国家をつくろうとすれば、ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。」216P

戦後史入門 (河出文庫)

戦後史入門 (河出文庫)

成田龍一『戦後史入門』河出文庫。「14歳の世渡り術」というシリーズの一冊として出ていたものの文庫化。戦後の日本史を題材に、歴史はいかに書かれるのか、その時どのような視点が選ばれているのかということなどを、沖縄、在日朝鮮人などの別の視点を通じて改めて問い直し、教科書的通史を相対化し、歴史とは何かを概ね高校生程度を対象にして語る平易な歴史入門。なかなか興味深かったのが、80年代後半に起こったアグネス論争というものが紹介されていたこと。なんでもアグネス・チャンがテレビ局の楽屋に子供を連れてきたことが非難されて論争になり、国会にも参考人として呼ばれたほどの騒ぎだったらしい。あまりにバカバカしいけれども、現在も30年前からまったく進歩しておらず唖然とさせられる。もう一点、2013年に安倍晋三首相が四月二十八日を主権回復の日とし式典を開こうとしたことに対し、沖縄県議会が全会一致で反対したことが書かれていて、そういえばそういうことがあった、と。式典にも知事は出席せず、沖縄では抗議集会が開かれた。いままさに続く政権による沖縄弾圧の歴史の一ページだけど、この件もしかして根に持ってるんじゃないかなーなんて邪推をさせる現状がある。あと一つ、著者への疑問として、東日本大震災について204ページでは専ら原発事故という国のエネルギー政策における問題としてしか出てきておらず、地震津波によって万を超える人が亡くなった災害だという点がスルーされていること。政治史としてはそうなんだろうけれど……。東日本大震災が専ら原発のアングルで語られることこそ、東京中心の政治の歴史の語りではないのか、とは本書のテーマから想定される疑問。具体的に高校生を想定しているとは思うけど、もちろん高校生程度ということはそれを専門としてない大人にも充分通じると言うことでもある。