第39回日本SF大賞・最終候補作を全部読む。

第39回日本SF大賞・最終候補作が決定しました! - SFWJ:日本SF大賞
表題通り、今月末に発表予定のSF大賞の候補作を全部読んだので感想をまとめる。

名もなき王国

名もなき王国

倉数茂『名もなき王国』 とにかく次々と魅力的な物語――売れない作家同士の鬱屈と友情、洋館に棲まう忘れられた幻想小説作家、家族を共有するカルト団体、奇病で閉鎖された街からの脱出、満洲引揚げの一頁、一筆書きのような幻想掌篇、デリヘル嬢に自作小説を配るドライバー、謎の薬をめぐる探偵小説――が現われる楽しさ。各篇に連繋や暗示でつながる要素は丁寧に再読しないと配置をまとめきれないけれど、第三章でコウが出てくるあたりで全体の動機はうかがえる。小説を物語を必要とし書くことについて、なぜ私が私なのか、現実が現実なのかという根源的でかつ普遍的な感情を基盤にして、さまざまな単独でも読めるような小説内小説を配しながら、個々人の名もなき王国を希求する業について書かれたメタ幻想小説*1

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

草野原々『最後にして最初のアイドル』 なかなか評価に困るというか、プラスポイントとマイナスポイントを足し合わせるとプラマイゼロになりかねないみたいな尖った作風で、いや、なかなかすさまじいオタクネタとSFネタを存分に詰め込んだワイドスクリーンバロックで面白いムチャさはいいんだけど、表題作の序盤とか確かに小説としてどうかという感じがしてしまう。

オブジェクタム

オブジェクタム

高山羽根子『オブジェクタム』 表題作は、幼少期に一緒に壁新聞を作った祖父との記憶を、主人公が現地に再訪しつつ回想するもので、ざっと読むと前著の脈絡を継ぐジュヴナイルの秀作という感じだけど、前と違うのはSF的ネタというか思弁性がメタ的な水準で語られているような感触があること。虹のオブジェ、偽札や最後の事実に関するくだりや、解読されないメッセージなどのミドリ荘とも通じるモチーフがちりばめられてもいて、通り一遍読んだだけでは底を見せない。鮮やかな記憶の細部、まぼろしではないかと疑ったサーカスなどの記憶と幻想のモチーフと、特定の時間にだけオブジェが映し出す虹のイメージが重ねられているんだろうか。光学器械、まさかプルーストかと思ったりもしたけど。「太陽の側の島」は不可思議な戦時下小説で、二つの場所がプリースト『夢幻諸島』を思わせる時空の歪みに見舞われている状況が往復書簡で展開される幻想譚で、死と生、時間と空間が入り乱れる。「L.H.O.O.Q.」の表題はデュシャンの性的に興奮した女を意味するやつ。犬を探して女と出会う不思議な話。

半分世界 (創元日本SF叢書)

半分世界 (創元日本SF叢書)

石川宗生『半分世界』 第七回創元SF短篇賞受賞者の第一作品集。限定された舞台の奇想から発して、そこに細かな描写とSF的ロジックを積み重ねていく作風で、作中さまざまに引用、言及されてるように海外文学読者に強くアピールする本でなかなか楽しい。デビュー作「吉田同名」はほぼ二万人に増殖した吉田大輔という多数の一人を描く。その二万人を収容する施設での同一人物が多数同居する空間とその関係の変容を追った短篇で、ドストエフスキーの『分身』やカルヴィーノの引用などのように、分身や自己同一性というか双生児テーマに連なる一作。『まっぷたつの子爵』の内容は説明しても『不在の騎士』の内容に言及しなかったり、『不在の騎士』が空洞の鎧という自己の不在に対し、一人が分裂する『まっぷたつの子爵』を持ってきて「私」のテーマを匂わせるような固有名詞から示唆する手法を多用してある。特に、「『二重人格』ではなく『分身』」と言って、それがドストエフスキー作品だとは書かない匂わせ方に、これが通じる人に向けて書いてるところがあって、これはこれでスノッブな感じもあるけど、まさにそれは私も同意見ではあるのでくすぐったい。「半分世界」は、ドラマのセットのように半分になった家に住む家族と、それを眺める人々、というテレビ的関係性というかリアリティショーのような奇想を出発点にしていて、ここらへんコルタサルの「ジョン・ハウエルへの指示」という演劇の舞台と客席の境界が崩れる作品を思い出した。「白黒ダービー小史」も、サッカーのような競技がフィールドから街そのものを舞台に全日行なわれているある街とその歴史を描いていて、やはり境界の崩れからくる奇想が全体を牽引する。私の境界、家族の境界、競技フィールドの境界の崩れ、を書き詰めていく。「バス停夜想曲」はもっとも早く書かれた作品らしく最長のものでもあって、自分の路線のバスがいつ来るかも分からないまま何日も足止めを食らう不可思議なバス停周辺に集まる人々が独自のルールを作り、組織を作り、争いが起き、とバス停という極小の場が極大の人類史の相貌を帯びていく。異常状況の日常を丹念に描写していくことで極小のものにより巨大なものを詰め込んでいるような感覚をもたらす奇想小説集。面白いけど本書では大枠がある種のパターンになってる感じもするから、この次に何を書くかが気になる。

文字渦

文字渦

円城塔『文字渦』 中島敦と一字違いで文字・兵馬俑・陵墓といった写像をめぐってちょっと「名人伝」的な表題作のほか、文字を戦わせる闘鶏ならぬ闘字、文字の生物学、文字とルビとの熾烈な闘争、文字サイバーパンク?あるいは名前と実体の関係をショートさせるミステリなど、文字にまつわる短篇連作集。水戸光圀の「圀」などに今も使われている、則天武后が独自に定めた則天文字や、源氏物語を書写する機械、「新字」という日本最初の辞書?を編纂した境部岩積、王羲之などなど文字の歴史をめぐって、秦、唐、現代から近未来までを超時間的に操り、和漢洋に加え数学・プログラムの知識をフル活用しながら繰り出される壮大な冗談のような語り口で、『Self-Reference ENGINE』の東洋・漢字版といった趣もある。『プロローグ』『エピローグ』が未読だけど、書くこととテーマにしてきていよいよ文字というインターフェースに挑んだ感じ。漢字文字の本を読みあさりたくさせる強いフックを持っていて、それでいてたいへんツイッター映えする面白字組が多々見られるエンタメぶり。文字とくに漢字をテーマにするとやはり呪術的なアプローチが多いと思うんだけど、円城塔なのでさまざまな科学的、数学的ロジックを屈曲させたSF的アプローチで書かれた東洋、漢字幻想SF小説になってる。これを隔月で連載するのか、と驚かされることしきり。版面とか校正とかもだけど。文字と写される実像、の関係をさらに捩っていくところが面白いんだけれど、説明するのがなかなか難しくて、近未来デバイス「帋」(かみ)を扱ったところで、レイアウトに応じて本文も自在に書き換えられるべき、という相互性のくだりとかがわかりやすいか。

飛ぶ孔雀

飛ぶ孔雀

山尾悠子『飛ぶ孔雀』 石切場の事故で火が燃え難くなったという日本のどこかを舞台にした連作的二中篇。火が使いづらくなり、調理、タバコ、エンジンに不調が生じるなかに現われる孔雀と大蛇。鮮明な細部に対し全体像をにわかには把握できない描き方で、奇妙な夢のよう。小説として高度すぎて自分には太刀打ちできないというか。繰り返し再読しながら、迷路を何度も迷いながら感じを掴まないとなにも言えない気がする。不燃にプロメテウスというか文明の後退や原発事故を想起するんだけど、SF的な状況をSF的でない書き方で書いている小説とも読める、か? 火や水、土や風、孔雀と大蛇、QとK。さまざまな現象やちりばめられた人物たちが、階段井戸や「口辺に火傷跡のある犬」のように境界を越えて各所で繋がっているようだけど、まだこの「幾何学的精神」を読みとるまでにいってない。この絵がどのような絵か、まだ見えてない。噴水の止まる瞬間を見ようとする男のセリフを引く。「ただ失うのは厭だ、訳もわからないまま、気づいたときに何もかも失っているのは厭だ。喪失の瞬間をこの目で隈なく見届け、一瞬を貪るように味わい尽くし、無限に分割し写真のように網膜に焼き付けたいのだと」163P。


SF大賞候補作、全作読んだところで、私個人としては好きなものを選ぶとすると『名もなき王国』と『文字渦』のどちらか、ということになる。二作選んでも良いならこの二つだ。じっさいにどれが獲るか、という予想は、これまで候補作を全部読んだことがないのでどういう傾向があるのかは知らないのでなんとも言えない。ただ、『飛ぶ孔雀』は一読しただけでは私には評価不能で、その分ジョーカーとして、どこに入ってもおかしくない気がする。山尾悠子円城塔はどちらもこれまで大賞をとってない*2し、この二作はどちらもその作家のキャリアの一つの到達点にも見えるので、二作同時受賞ってのがありそうかと思うんだけどどうだろう。

*1:去年すでに感想を書いていたから、それを再掲載している

*2:屍者の帝国』は特別賞ということで