上遠野浩平『
ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』、
エヴァとの同時代性をすごく感じるけど同時に、変身ヒーローを捻って捻ったような仕組みで、変身ヒーローたる藤花と
ブギーポップは分離しているし、自動的なその活動は作品の主人公とは別の位相にある。
「正義の味方」をどう扱うかにかなり意識的っぽくて、『笑わない』では世界の敵を自動的に倒す
ブギーポップのまわりの普通の子供の親切さとか勇気が強調されていたし、『VSイマジネーター』では谷口は正義の味方の偽物を演じていたけど、重要なのは織機を助けたいという一心だった。谷口の自分は強くないし何が正しいのかわからないけど、織機と一緒なら強くなれるということと、織機の谷口のことを思うと勇気が湧いてくる、というこの二人の戦い、を
ブギーポップは手助けする。ヒーローの、その周囲にある普通の人の小さな戦い。必ずしも正義のヒーロー、ではなく、個人個人にとって大切なもの、筋道を通すことから進んでいく感じで、こう捉えると
ジョジョの影響が見えてくる気がする。
三木卓『砲撃のあとで』。日本敗戦を機に一変した植民地での生活とそこからの引揚げ行を描く連作集。「少年」と呼ばれる小学生の視点から描かれ、地名や人名などの固有名は示されず、攻めてきた外国人が何人なのかも不明瞭で、日本という単語すらでてこないような曖昧さのなかのリアルな人の死。本国が新型爆弾で原子ごと破壊されたらしいという断片的なことしかわからず、兄と女と男の関係もわからない。月経というものがあることも知らなかった少年に、引揚げ行のなかでそれまで知らなくてよかった生々しい現実を間近で目撃することになる。父の死、
コレラで数時間で死んだ男。国家が崩壊した場所では、人は一人一人の単位に戻ってしまうこと、植民地の人々には植民者への憎しみがあること、大人たちの言うことには裏があること、そして帰還の船に乗るためには衰弱した「あのばばあ」が死ななければならない、という祖母への酷薄な認識が露わに描かれる。引揚げ体験が同時に少年から大人への
通過儀礼のように描かれる。直球の引揚げ文学という感じだ。
『戦後短篇小説再発見7 故郷と異郷の幻影』 、収録作の半分ほどが引揚げを含めた外地経験小説か、外地滞在経験のある作家で占められており、興味深いセレクト。外地ものとしては小林勝、
木山捷平、
五木寛之のものがあり、
済州島出身の
在日朝鮮人だった義父を描いた
小田実のものがある。この題材で
在日朝鮮人作家がいないな、と思っていたら
小田実が間接的にそう。他に外地滞在者としては森敦、
林京子がいる。
五木寛之「私刑の夏」は1946年の夏、38度線を越えようとあせる引揚げ日本人の一団を、緊迫したサスペンスの筆法で描き、綺麗なオチがついてもいる。小林勝「フォード・一九二七年」は表題の車でやってきた
トルコ人家族を題材に、朝鮮の村、日本人の在住するエリア、そして山の上の
トルコ人の館の立地のなかの屈折した日本人少年のコンプレックスが描かれる。
木山捷平「ダイヤの指環」は新京での飲み屋の女将との引揚げ後の文通を描いている。ほかにもシベリア抑留の
長谷川四郎もいる。名前を知らなかった
光岡明「行ったり来たり」は、「行ったり来たり」という奇妙な神を据えてある二つの村をユーモラスかつファンタジックに描く佳篇で、相互の村の代議士がお互いを無教養、無能力と批判するけど、二人とも当選したので「無教養と無能力が均衡している」とあるのが笑った。ちょっとした引揚げ作家アンソロ
ジーとしても読める本で、
集英社の『戦争×文学』には各植民地を題材にした巻があるけど大部でそれなりの値段なので、手軽なのはこれだろう。
石牟礼道子の
水俣病ものの一篇など方言の横溢したものもありつつ、外地や外国への旅行を描くものなど、タイトル通り故郷と異郷のさまざまな組合わせやあり方を捉えたアンソロ
ジーになっている。しかし『戦後短篇小説再発見』は二期も含めてざっと見たところ
在日朝鮮人作家が金石範と
李恢成しかいないように見えるけど、これはちょっと少ないんじゃないかと思った。
桐山襲『
パルチザン伝説』、45年と74年の二つの八月十四日、戦前と戦後において「父たちの体系」の頂点とよばれる「あの男」への二度にわたる暗殺に失敗する革命家家族の伝説を弟が兄への書簡形式に織り込みつつ、「言葉が扼殺された世界」たる
天皇制国家戦後日本の風景を描き出す革命文学。革命運動とともに爆破に失敗し手や腕を失うモチーフが親子に受け継がれつつ、「決意した唖者」「昭和の
丹下左膳」「志願した娼婦」などと呼ばれる三兄妹とその失踪した父をめぐる話はどこか神話的で、「アイテテ、アイテテ」というユーモラスな部分などちょっと大江っぽいとも思った。「この国の人びとがイタリーのように
パルチザンとなって起上がることなど、永遠にあり得ぬのではないか。どのような惨禍が頭上に降りかかろうと、あたかもそれが自然であるかのように諦め続けていくのではないか」91P「なるほど民は自らの水準に応じてその支配者を持つものだとするならば、知は力であるという段階を通過せぬまま権威と屈従の感覚だけは鋭敏にさせてきたこの国の民の水準に、軍部のごろつきたちはまことに適合しているのかも知れなかった」92P。今だからこそ読みたい小説だな。
河出書房新社版は友常勉の充実した解説が付いていて、作品社版には「亡命地にて」という右翼の出版妨害のおり沖縄に「亡命」したという短篇小説(実際にこの時沖縄には行ってないらしい)が併載されていて、これは河出版には入ってない。
新潮2019.5月号の
山城むつみ「
ベンヤミンのメキシコ学――運命的暴力と翻訳」読んだ。
ベンヤミン「翻訳者の使命」を、16世紀
アメリカの人類史上最大の虐殺を背景に、翻訳を「文字に発する暴力」の一環に位置づけながら、修道士サアグンあるいは
向井豊昭の翻訳の過程に暴力への断念をも読みとる批評。コルテスの制服後にメキシコに派遣された
フランシスコ会派の修道士
ベルナルディーノ・デ・サアグンの残した
民族誌のような書物は、ナワトル語と
スペイン語の併記された形式を持ち、
文化人類学の先駆ともみなされるものらしい。この書物からさらに
トドロフ、
マルクス、
デリダ等の補助線を経ながら、
向井豊昭が
アイヌ語のリムセと呼ばれる歌謡を翻訳する過程が細かく記された「怪道をゆく」に逢着する、
植民地主義の暴力と翻訳をめぐる思考が重ねられていく。山城はこう書く、「同化の歴史の中では、翻訳は、まずもって、ヤマトの人々による制服、支配、植民、差別の運命的暴力と換喩的に連動する暴力なのである」。そして、「他者の「顔」から射し込んだ光が蘇生させたこの呪文の声と向き合うなら、それは、長く激しい葛藤の末に、翻訳者、
向井豊昭の内部で作動していた制服の暴力を制止し、この暴力に欲動断念を強いるだろう。その断念が翻訳者の「使命」である」(P207)と。新潮2017.2月の
ベンヤミン論の、すばる2018.2月の
カイセイエ論を挾んだ続篇で、
向井豊昭を翻訳から論じたものとしても非常に面白かった。まあもちろん理解した、という感じではないけど、翻訳の暴力とそのプロセスに暴力への抑止を見いだそうとする論の運びは、
向井豊昭の矛盾を救い出そうとしているようで感動的ですらあった。
ベンヤミン論二篇と
カイセイエ論で単行本出して欲しいところ。三篇だと分量ちょっと足りないかな。