原佑介『禁じられた郷愁 小林勝の戦後文学と朝鮮』


禁じられた郷愁―小林勝の戦後文学と朝鮮

禁じられた郷愁―小林勝の戦後文学と朝鮮

小林勝(1927-1971)というと、いまは新刊で入手できる本もなく、いくつかのアンソロジーに作品が入っているくらい*1で、あまり一般的な知名度はないだろうけれども、芥川賞候補になった「フォード・一九二七年」や『チョッパリ』などでしばしば植民地朝鮮を題材にしており、この文脈ではとりわけ重要な書き手として知られる。

本書はその小林勝の特に朝鮮を書いた作品に着目し、近代日本の根にして現代にもいやます植民地主義との苦闘のありさまを読み込み、その批判精神を引き継ごうとする気骨の文学研究だ。植民地支配の罪過を正面から受けとめたが故にマイナーたらざるをえなかった作家を、その他の引揚げ、植民地文学とも並べつつ、日本のポストコロニアル文学の大きな達成として評価し、アルジェリアから引揚げたアルベール・カミュの途絶した試みにも接続し、植民者の文学史に位置づける。

日本の自己認識の核心としての朝鮮

小林が作家になるまでの略歴を記しておくと、日本植民地下の朝鮮、慶尚南道の晋州に生まれ、44年大邱中学から埼玉の陸軍士官学校に入学し、翌年陸軍航空士官学校に入学している。日本で復員した後、共産党に入り、朝鮮戦争及び破防法反対の火炎瓶闘争で交番を襲撃して逮捕される。年譜を見るとこの獄中の頃から小説を書きはじめた。「人民文学」やその後継誌で野間宏を編集長とする「文学の友」に小説を発表し、安部公房島尾敏雄らとともに「現在の会」の編集委員にもなり、その後新日本文学会に入り、長谷川四郎菅原克己らと雑誌編集に携わる。なお、小林の最初の芥川賞候補作(1956年)、「フォード・一九二七年」は雑誌「新日本文学」の掲載作だった。ちなみに、49年から51年まで早稲田の露文科に在学していた。

著者は序章でポストコロニアル文学を以下のように規定する。

植民地帝国の子どもたちにとっては、引揚げのおわりは、また別の長い旅のはじまりを意味した。それは、あとに残してきた幻の「故郷」に帰ろうとする望郷の旅であり、戦後日本という「異郷」に定着するための開拓生活、あるいはそれを拒みつづけるための逃亡生活でもあった。そのなかで書かれたかれらの戦後文学――これを本書では、植民地体験のあとに書かれたという意味で、ポストコロニアル文学と呼びたい――は、この世に存在しない帰還地を求めてどこまでもさまよいつづける、「アジアの亡霊」たちのおわらない引揚げの記録のようであった。29P

引揚者、植民者のその後の文学がここで問われることになる。この「ポストコロニアル文学」のなかにはもちろん後藤明生日野啓三も入るわけだ。そして国内的な文脈のみならず、世界的なそれとも関連づけることが目論まれている。

さて、近代日本はその過程において朝鮮を劣位のものとし自らの優越性を形成していったといえる。在日朝鮮人が外国人として扱われる外国人登録令が明治憲法最後の日、47年5月2日に天皇最後の勅令として出されたことが特に象徴的だけれども、官民相携えていまなお盛んな歴史修正主義、民族差別運動の核心に偏執的といっていい朝鮮へのこだわりがあることはその証左で、日本はつねに朝鮮を否認し続ける。

近代日本の精神史のある重要な部分で、一貫して「朝鮮人」が怪物化され、悪魔化され、劣等性や残虐性や非道徳性がでっちあげられて本質化され、中国人をふくむほかのいかなる異民族ともまったく異なるほど特別で持続的な憎悪と侮辱を受けつづけてきたのは、それがじつに近代日本のナショナリスティックな自己認識の核心に属する事柄だからである。「日本人なら、おまえは朝鮮人を憎むはずだ。朝鮮人を憎まないなら、おまえは日本人ではない」――近代国民国家の成員としての「日本人」像が、「朝鮮人」を、「日本人」と「非日本人」をもっともくっきりと分かつある種の額縁にして造形されてきた面があるということは、関東大震災時の非常事態のときに決定的に暴露された。そのとき、「十五円五十銭」がうまく発音できない地方出身の日本人なども、朝鮮人と疑われて殺された。つまりそこでは、日本人であることを示すどんな自己主張よりも、「朝鮮人ではない」ということが根本的な「日本人」の証明とされたのである。242P

朝鮮植民者はこの歴史的過程を自らに抱え込んだ存在だった。植民者二世は自身の好むところでなかろうと朝鮮の土地を資源に、現地の人々を単純労働者として組み込んだ経済構造のなかに生まれ、育った。このような状況で、己についてどう考え、振る舞うか。著者は、後藤明生と小林勝を比較してこう述べる。

後藤明生の植民地小説には、当時少年だった自分が見聞きし感じたことを極力そのままのかたちで丁寧に再現しようという意志のもと、独特の軽妙な饒舌体で植民地朝鮮での日常生活を語り出すという特徴がみられる。一方小林勝は、みずからの責任において、みずからの記憶を「「語る」ことの可能性と権利」をある種原理主義的に放棄する道を選んだ。なぜかれがその道を選び、その選択にはどんな意味があったのかを、あきらかにしなければならない。168P

〈マイナー文学〉の政治と言語 ― 後藤明生における《他者》とのめぐり会い ―平田由美
平田由美がこの論文で指摘しているけれども、植民地朝鮮で育ち、韓国で作家となった李浩哲とのかかわりのなかで顕在化したような、日本人と朝鮮人のあいだで生まれる政治的な意味、を後藤はつねに避けようとしてきた。日本人として朝鮮人に対峙することを拒否し、作家同士や同級生同士という対等な属性においてのみかかわろうとするスタンスをとった。ここから、李恢成の作品について「彼が朝鮮人であるということをむしろ度外視すべき」という発言が出てくる。

植民者が朝鮮を語ることの政治性を避けつつ、しかし郷愁への居直りもまた拒否し、自身の身体が日本と朝鮮に分裂していることを前提にしながら、後藤は抑制と批評性を込めつつ朝鮮について書いた。しかしそれでは、いま現在目の前に居る朝鮮人との「出会い」もまた抑制されざるを得なかった。書こうと思いながらも『夢かたり』にはついぞ現われなかった李浩哲、李浩哲との会話があるものの主たる題材となったのは死者金鶴泳だった『使者連作』と、やはりどこかに出会い損ねがある。

小林勝はこの後藤的方法も拒否し、正面から政治性、歴史性とともに朝鮮を描こうとした。おそらくは、後藤がほとんど全否定に近い『チョッパリ』の書評(『大いなる矛盾』所収)を書いたのは、後藤が敵視してきた政治性、つまり罪責性を正面から扱うが故だ(早稲田の露文同士でもある後藤はその卒論において、ゴーゴリの政治的読解からの解放を試みた)。

小林勝は朝鮮を描くにもっとも厳しい道を進んだといえる。だから自然その作品は重苦しいものとなっていき、小林の初期にあった朝鮮での生活への叙情的な回想は、ある時期から消え去ったという。日本を厳しく批判することは同時に自分をも貫く刃となる。いや、自分を批判するその刃で現代日本を批判するといおうか。

植民者はなぜ自分を見失っているのか。それは、自分をみている被植民者を見失っているからである――小林勝は、安部公房ジョージ・オーウェルが実感的に指摘したような植民者の二重の盲目状態を克服するために、被植民者にみられる植民者というテーマを問題化しようとしたのであった。110P

近代日本の根底に朝鮮への差別があり、「朝鮮および朝鮮人の実在そのものが日本の現代社会および日本人の実態を最も明らかに照らしだしているものの一つである以上、そして日本の未来のイメージは、それとのかかわりをぬきにしては考えられない」(309P)と小林は言う。自分の姿を真に見るために、ほんとうに朝鮮人と出会うための、その困難な道。

郷愁を拒否すること

郷愁について、梶村秀樹を引用して著者はこう述べる。

梶村秀樹は、植民地の風景や文化を愛しなつかしむ引揚者の心情は「生身の朝鮮人の苦しみにあえてふれようとせぬ」抽象的な愛であり、それは「本質的に侮蔑と折り合える「愛」」である、ときびしく喝破した。人間不在の植民地への愛は、その本質において侮蔑と共存することができる――梶村のこの冷徹な指摘は、植民地を思慕しなつかしむ当事者たちにとって冒涜的かもしれないが、それでもやはり至当だと思う。372P

郷愁、ノスタルジーは自意識への耽溺をもたらし、そこでは他者が消える。それを回避するには、どんなに過酷だろうとも郷愁を自らに禁じなくてはならなかった。

日本を見つめるために朝鮮を見つめること。小林はしばしば、植民地で日本人が、一見従順な朝鮮人のわずかな別の顔を垣間見て怯える瞬間を描く。この植民者の不安の眼から眺めることで、「支配者が否定した人間性」を回復させようとし、その人間性の否定という罪過を書いたと著者は論じる。

金石範によれば、小林勝がみずからの内なる植民地郷愁を拒否することは、かれを束縛すると同時に、かれを植民地主義から解放し、「ひらかれた場所へ、ほんとうの自由へみちびく」ための逆説的な手段となっていたのであった。小林勝の文学の神髄は、この「束縛」をむしろ「ほんとうの自由」を手に入れるための力に変えようとするアクロバティックな緊張と矛盾そのものにこそあった。金石範が感じとっていたように、小林勝の「内なる懐かしさを拒否する」という宣言は、単なる涙ぐましい懺悔などではなかった。そうではなくそれは、「「贖罪」を突き抜けたところにある広がりを朝鮮人と共有する道」を力強くきりひらくための、すぐれて意志的かつ知的な「方法」だったのである。361P

小林はこの厳しい隘路を進もうとするなかで死ぬ。43歳だった。著者は小林について、最後にこう評している。

小林勝の文学は、泣いて懺悔し、自分だけを痛めつけて足るような生やさしいものではない。またそれは、「われわれは悪くない、悪いのはあいつらだ(GHQが悪い、コミンテルンが悪い、中国が悪い、韓国が悪い、北朝鮮が悪い、「在日」が悪い……)」と被害者意識にどっぷりとつかり、あらゆる罪悪とあやまちを外部の敵のせいにして済ませようとする生ぬるい歴史観など相手にもしない。「己れを切った刃先は、その延長線上に、植民者を植民者たらしめた「内地の人」と、そして戦後の日本人を、総体としてさしつらぬく力を持つ」と梶村秀樹がいったように、「わたしはあなたとおんなじ、あなたもわたしとおんなじだ、だからわたしもあなたもおなじで、つみはどこにもない」などと微温的な慰撫とごまかしで外部を遮断して「誇り」や「名誉」という名の自己満足にふける「国民の歴史」そのものに飛びかかって食らいつき、噛みちぎろうとする獰猛な刃物である。321P

近年出た木村光彦『日本統治下の朝鮮』のイデオロギーを排したと標榜する「中立的」経済分析の傲慢さを抉り、安倍首相の談話の欺瞞性を衝き、ヘイトスピーチの横溢も俎上にあげられる、現在の状況へのコミットはこの小林のスタンスを引き継ぐが故だ。その意味で、五十年近く前に亡くなった小説家を論じていても、本書は極めて生々しいアクチュアリティをもって迫ってくる。

2012年の博士論文が元になっているとのことで、非常な力作。私自身後藤明生という引揚げ作家について評論を書いたからというのもあるけど、きわめて興味深く読めた。今年読んだなかでもとりわけ重要な一冊なのは間違いない。読んでいて拙論の不足部分がよく分かってくるところも多く、たいへん学ぶところが多い。


余談だけれど、小林には日本人学校に訪れた教師が朝鮮人との噂を立てられ、生徒たちから迫害を受けて辞めていく短篇がある。小林自身が兄から聞いた実話を題材にしたとのことで、そのモデルとなった人物はのちに韓国大統領となっていたという。その人物は、崔圭夏。日本人名梅原圭一。朴正煕暗殺後八ヶ月間大統領を勤めた人物で、あまり知名度はないけれども小説で書かれたように信望ある人物だったらしい。大邱で教職についてからすぐに教職を離れ、満洲に渡ったという公式に知られる経歴の、なぜそのような行動を選んだのかの答えが小林の「日本人中学校」にあるわけだ。

また、著者の修士論文の審査を先頃亡くなった加藤典洋がしていたという。

小林は七〇年代に著作集が出ているけれども、漏れた作品も多く、新編集のものがあればと思う。私も読んだ本は『チョッパリ』『強制招待旅行』『生命の大陸』と、「フォード・一九二七年」くらいか。「文學界」掲載作が直木賞候補になったという「紙背」も著作集からは漏れている。
昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。: 直木賞のすべて 余聞と余分

火炎瓶闘争で投獄されたときに感染したと思しき結核とその手術がなければ、あるいは若くして死ぬこともなかっただろうか。


さらに余談として、本書で思い出したのはシベリア抑留経験について書いた石原吉郎の「ペシミストの勇気について」のこの一文だった。

〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。(『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫、113P)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

誤記について

本書で後藤明生『夢かたり』が引用されているけれども、その引用が間違っている箇所がある。濁点の有無なのでわかりにくいかと思うけれども、本書193ページで、『夢かたり』の「虹」の、街から追放される場面で「コウゴクシンミンを笑ったコウゴクシンミンを、コウゴクシンミンが笑っていたのである」という部分、正しくは「コウゴグシンミンを笑ったコウコクシンミンを、コウゴグシンミンが笑っていたのである」(『引揚小説三部作』48Pあるいは中公文庫版『夢かたり』69P、傍線筆者)だ。朝鮮人は「皇国臣民」を訛って「皇ゴグ臣民」と言ってしまうのを笑っていた過去があっての立場の逆転なので、引用文では全部同じ語句になっていて意味が通らなくなっている。じつはこれ、本書で注記に参照したと明記してある朴裕河『引揚げ文学論序説』の引用文も間違っていて、155.156Pでは「コウゴクシンミンを笑ったコウゴ/コクシンミンをコウゴクシンミンが笑っていたのである」と、濁点のほかに、スラッシュで示した改ページの部分で文字がダブってるのもあって、かなりおかしなことになっている。なおこの章の初出論文(「日本學報」第86輯、二〇一一年二月)のほうでは「コウゴクシンミンを笑ったコウコクシンミンを、コウゴクシンミンが笑っていたのである」、と一字分の濁点がたりないけれども意味は通る引用だった。

*1:「フォード・一九二七年」が講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見7 故郷と異郷の幻影』と集英社『コレクション 戦争×文学』の17巻に、「軍用露語教程」が同じく15巻に、「架橋」が同じく一巻に収録されている