『会いに行って――静流藤娘紀行』『風景のない旅』『外地巡礼』『藤枝静男著作集四巻』『日本浪曼派』 『ナイトランド・クォータリーvol.17』『天安門』『ブラマタリの供物』

笙野頼子『会いに行って――静流藤娘紀行』(第一、二回)

群像 2019年 05 月号 [雑誌]

群像 2019年 05 月号 [雑誌]

群像 2019年 07 月号 [雑誌]

群像 2019年 07 月号 [雑誌]

「群像」でスタートした笙野頼子の新作は藤枝静男。笙野が特定の作家を題材に長篇を書いたものでは『幽界森娘異聞』があるけれど、藤枝は新人賞で笙野頼子を強く推したいわば文学的恩人とも言うべき人物。その藤枝静男について、笙野頼子なので当然事実に基づく評伝ではなく、藤枝の「私の「私小説」」にちなんで、「私の師匠説」を書く、と始まっている通り、「自分の私的内面に発生した彼の幻を追いかけていく小説」として書かれていく。初回は、藤枝静男の「文章」から、強いられた構造を脱け出ようとする技法を、語り手自身との類似点と相違点を検討しながらたどろうとする試みのように思えた。新人賞で自分を見いだした「師匠」の小説をたどり、静岡での藤枝静男の娘さんとの出会いへと話がつながっていく。藤枝は潔癖な性格から自身の性器を傷つけたエピソードが知られるけれども、今作でも「自分の体の中にある性欲を他者のように憎み、しかもそれから目を背けず自分の所有物として引き受ける」143Pと書かれ、その倫理性を評価しつつ、笙野作の語り手自身は性欲に苦しんでいない、と彼我の切断線を明示しもする。藤枝静男の「理解」とは、理論ではなくつねに具体物から発し、その具体的な文章から奇跡を起こす、と評し、リアリズムに徹することでリアリズムを越える道を示す。性欲あるいは膠原病の、自身の身体という具体物を見つめる視線と、その外への志向が見いだせるようにも思う。

第二回は、「不毛な改元」を話題にしながら、藤枝静男文芸時評にあった天皇への怒りについて、これも引用の集積『志賀直哉天皇中野重治』などを引用しながら追っていく。笙野の旧作『なにもしてない』で既に改元天皇について書いていたことと、最後ホルンバッハの日本女性蔑視CMの件にふれつつ、多和田葉子との対談のために共産党本部へ行ったことが最後にあるのは当然意図的な構成だろう。改元騒ぎを「平成からゼロ和、それはTPP発効直後のリセット元年だ」と厳しく批判しつつ、志賀は天皇に近いが故に捕獲されているけど、中野もまた人間と制度を切り分けられるが故に人間を人間性によって判断するという文学を禁じられ、政治に捕獲されているとも指摘する。藤枝静男を文芸文庫以外のものも読まないとな、と思っている。「群像」は笙野頼子さまに恵贈頂きました。

古山高麗雄『風景のない旅』

72年、原卓也後藤明生とともに文藝家協会の代表団としてソ連へ行った時の紀行エッセイ。後藤の『ロシアの旅』の別視点になる。後藤読者としては古山が随所で後藤の感動癖を指摘し、作品はシニックで批評的だけどじつは涙もろい人情家では、と書いているところは面白いし、妥当でもあると思う。甲子園や高校野球に対する態度もかなりそういうところがある。まあしかしなかなか偏屈な人でソ連への見方も非常に冷たい。戦前の弾圧と戦後の学生運動を同一視したりするような保守派だからか、とも思わされるくらいだ。フランスの田舎村に落ち着くくだりをみると、ものさびしいくらいの観光地的でないところが好きな感じがわかるけれども。 

西成彦『外地巡礼』

外地巡礼

外地巡礼

外地や移民といった異言語環境との接触から生まれた日本語文学をたどる論集で、後藤明生の朝鮮、島尾敏雄ポーランド鶴田知也の北海道、目取真俊の沖縄、台湾文学や台湾と縁のあるリービ英雄、温又柔、あるいはブラジル日本語文学まで多種多様な作品を扱う博捜ぶりには圧倒される。さまざまな境界に立ち現れる表現を見ていくにはそれぞれの背景についての知識が要るわけで、台湾ひとつとっても日本統治とその後国共内戦で敗北した敗残兵や難民の移住によってできた眷村の文学など、複雑な歴史が絡んでおりそこから生まれる文学もまた一様ではないわけで。さまざまな作家作品、マイナーメジャー入り乱れてたくさんの名前が出てくるのでこちらも情報に飲み込まれてしまうところがあるけれど、ここで読むべきは著者が「外地の日本語文学」としてさまざまな実例とともに比較対照しながら世界史的スケールでそれらを読み直す視野の広さだろうか。やはり類似例との比較考量をもってその作家作品の位置づけ、独自性、意義を考えないとならないけど、私がやるとそこらへん全然考えてないことが多い……。本書でひとつ印象的だったのは、日本の敗戦をブラジル政府のデマだとみなして、いずれ日本からの迎えが来るはずと、日本の敗北を認めた同胞たちを襲撃していた集団の名前が「勝ち組」だったことだ。こんな哀しく惨いアイロニーもないものだ、と思った。

藤枝静男著作集四巻』

藤枝静男著作集 第4巻

藤枝静男著作集 第4巻

笙野頼子の近作で引用されてる文芸時評には後藤明生も出てくると言うことでそれを読んで、ついでに四巻全体を通読する。これを読むまでは知らなかったんだけど、著作集は編年体ではなくテーマ別編集になっていて、この巻では前半は戦時下小説集となっている。イペリットガスを扱わされる少年達に眼科医として対処する「イペリット眼」、満洲で犬の血を人間に輸血する人体実験を命じられる「犬の血」、敗戦後家族を求めて脱走兵となり撫順の家族の元にたどりつくまでを兵士の語りとして描く「武井衛生二等兵の証言」など、私小説作家という印象からはずいぶん違う小説で、こういうものも書くのかと思いつつも面白い。「近代文学」同人だけはあると思った。少年達が置かれた状況や軍人たちの醜さを指摘するところもあるけれど、イペリットに晒された人という新しい研究テーマに心躍る自分もいることが書かれてもいて、エッセイ「利己主義の小説」でいうところの自分を剥いていくことで己を苦しめる敵を見いだし、救われたいと自己を抉っていく作風はこの人らしい。

書評パートでは、武者小路実篤の自伝にふれ、自分を生かし他人を生かす「新しい村」が、養鶏によって初めて自立の見込みが出来たということに衝撃を受けたと書いているところが印象的だった。監禁と搾取の見本の養鶏が「他を生かす」こととどう関係するのか、と。中村光夫と会ったときのことも面白くて、見知らぬ青年が控え室に現われて中村にでたらめな議論をまくし立てているのをどうして我慢して聞いているのかと思ったら、青年が藤枝の知り合いでもないと気づいた瞬間に目障りだ、と怒鳴りつけたエピソードが印象的だ。中村光夫の義理堅さと激発ぶりの落差。藤枝が師匠と仰ぐ志賀直哉は、小説か随筆かの違いを書く時の本気度の違いのようなことを言って、後藤明生がその主観的態度を徹底して批判したけど、藤枝は志賀にまったく賛成しているのも面白い。藤枝静男著作集には後藤明生も月報で書いていて、交流があったようだけれど、ここらへん私的に議論したりしたことがあるんだろうか。私小説を擁護し、評論でもその向こうに作者の姿が見えたかどうかを判断基準にし、そして当代の理論ばった風潮を批判する一貫性がある。文芸時評金井美恵子の「千の夢」を酷評しているのは、そうした態度の一例だろう。

また、小説では愚図で流され型でも心の底では戦争非協力者のように書いていたけど、それが自己美化ではないかと疑っていたところ、昔の知人と会って、海軍工廠の医務部の国旗掲揚君が代斉唱に病院の職員看護婦も参加せよという院長の通達に、無意味で診療の邪魔だと直談判した話を教えられるのもすごかった。自分が書いた小説のそれは決して誇張じゃなくて安心した、とまとめられてるけど、その知人が横でそれを聞いてて、懲罰招集ものでどこかへ送られかねないとゾッとした行動だったらしい。小説以上かも知れない。イペリット眼の少年達が「馴らされた虫のような、みじめな奴隷感情」、「肉体の一部を障害される屈辱に無感覚になっている」という観察や、批判精神に対する軍人の軽侮といったものが書き込まれているのも、著者の批判精神ゆえのものか。「私自身は、そのときになったら、どんな目に合っても戦争に反対する決心をしている。それが私の「戦後」である」435P、の一文が本書の著者の最後の文章となっている。

伊藤佐喜雄『日本浪曼派』

日本浪曼派 (1971年) (潮新書)

日本浪曼派 (1971年) (潮新書)


保田與重郎に惚れ込み「コギト」「日本浪曼派」などに参加した作家が、その文学運動を当事者の立場から回想する一冊。三島由紀夫太宰治、蓮田善明、佐藤春夫棟方志功その他その他の同人、文学者たちとの出会いと別れを記した青春の書といった風合い。この著者は第二回芥川賞に二作が候補に挙がり受賞に至らなかった人で、審査会場が226事件の軍人らによって占拠されて手紙による回答をするしかなかったことが受賞者なしの主な原因だろうと書いている。著者は保田について、宣伝者でも煽動家でもないし、政治や戦争の時務についてなんらの発言もしていない、彼は一切の時務論に関心を持たない、と述べている。「完全無欠なる平和主義者」で、軍部の覇道の精神と倨傲を攻撃したため、軍部の忌諱を買ったとも述べる。軍部への批判は政治や戦争への発言ではないのかよくわからないけどそれはいいとして、三島由紀夫豊島公会堂での追悼集会が川内康範の司会で行なわれたというのがちょっと面白かった。彼は富沢有為男門下の浪曼派的無頼派的詩人でもあるという。

『ナイトランド・クォータリーvol.17』

ナイトランド・クォータリーvol.17 ケルト幻想〜昏い森への誘い〜

ナイトランド・クォータリーvol.17 ケルト幻想〜昏い森への誘い〜

岡和田さんが編集長になってた英米幻想文学誌。松本寛大さんが短篇を寄せているので入手。小説以外をざっと読むと、井村君江インタビューが面白かった。研究対象も幅広いのに徹底主義だといい、シェイクスピアの訳について小田島雄志に注文をつけたらぼくは研究家じゃないので、と言い訳させた話は強い。それでいて、若い人にはぜひ頑張ってもらって私の本が売れなくなって欲しい、というのも良くて、自分の研究に自信があることと、学問たるもの先人を批判し乗り越え、後輩には乗り越えられるべきものだという信念が感じられる。でも私たぶん井村君江の本読んだことないかも。アーサー王関連も全然読んでない。幻想小説系わりと好きだと思ってたけど、じっさい怪奇幻想系の古典的作品全然読んでないんだ。マッケンとかも。創元の『怪奇小説傑作集』くらいは通読せんと、と思ってるけど。

で、松本寛大「ケルトの馬」を読んだ。「君の夢もこれでかないそうだよ」の冒頭の一文が改めて印象的な、願いを叶える馬の幻想譚で良かった。ブレグジット迫るイギリスを舞台にアメリカ企業の英国撤退交渉を妨害するテロリストと、ケルトの馬の伝説が絡まり合い、距離を超える馬が露わにするこちらと向こう側との同質性。今号のなかでももっとも現代的な問題意識が感じられる。ほかの小説は、古典的なマッケンの作品とマッケン読者を主人公に据えるコムトワ、19世紀の作品で民話的簡潔さがあるカーティン、ローマ帝国や大陸のケルトを題材にする橋本純とカーター、子供たちの冒険のテラーマン、ハネットとスラッターの短篇は身体の内部のモチーフが共通していて興味深い。現代のテロリズムと伝承の絡む松本寛大「ケルトの馬」、自然のなかでの子供たちの冒険が異界への接触になるジュブナイル的物語性のあるデイヴィッド・テラーマン「木の葉のさだめ」、この二つが特に良いかな。リサ・L・ハネット「食べさせてあげる」の、話の全体像が見えないことが不気味な感触をもたらしていて、食べること、何かを体に取り込むことの異様さが浮き彫りになるあたりと、アンジェラ・スラッター「赫い森」の「この地に君臨するためのドレス」も結構格好いい。あと、朝松健のケルト文芸復興と魔術結社の論考、なるほどなるほどと読み進んでいたら終盤一気に二十世紀の歴史に神と悪魔を見いだしはじめて、このオカルティズムを論じる文章それ自体がオカルトに変貌していくというホラー感を味わえた。

リービ英雄天安門

天安門 (講談社文芸文庫)

天安門 (講談社文芸文庫)

著者はアメリカ国籍ながらユダヤ系の父親に日系二世の友人の名前をつけられ、五歳から台湾で育ち、両親の離婚を経てアメリカに戻って万葉集の研究をして、その後日本に常住している経歴の持ち主。文芸文庫版の本書はその作者による中国旅行ものを集めた一冊。著者の複雑な来歴はこの日本語で書かれた小説においても現われており、冒頭からバーボンはbourbon、ブルベンとも呼ばれ、中国語、英語が混じる日本語小説としてここにある。青灰色の眼をした「美国人」の中国の旅、というさまざまな境界が交差する異者感覚もあって非常に面白い。

表題作「天安門」は、台湾育ちで父親らから「大陸光復」という北京語を耳にしたり、父が毛沢東を蔑み、共産党に占領されている大陸を国民党が取り返す手助けにここに来ている、と言われた記憶を持つ語り手が、初めて中国大陸に渡り天安門広場の廟に保存されている毛沢東の遺体を見るまでの旅程のなかに自身の記憶をたどり返す短篇。著者の経歴は今作のほか、本書のほかの作中主人公とも概ね重なっており、名前は違っていてもいわば私小説として読めるように書かれている。

満州エクスプレス」は安部公房の『終りし道の標べに』と「赤い繭」を引用しつつ、安部の育った満洲の家へ遺族たちと向かうなかで、安部公房スタジオに出入りしていた頃の「安部先生」の満洲や故郷についての発言を回想しながら主人公の帰るところとはどこなのか、という思考がたどられる。巻末年譜にも安部公房スタジオに出入りしていたことが書かれており、この旅行もテレビドキュメントのカメラが同行しているので実際に放送された映像があるかも知れない。さて、安部の「赤い繭」は帰る家がない男の短篇で、それを引用しつつ主人公にとっての「家」が少年時代に過ごした台湾の家でしかなく、しかしそこは父の言う「this country」「この国」という言葉通り、「our country」ではないということが彼に去来する。

「六つか七つだったかれにも、「this country」はどうも「our country」ではないことに、何となく気づいた。
「この国」に自分の家がある。
「この国」はどうも、自分の国ではないらしい。しかし、「この国」にしか自分の家はない。」75P

 しかし、「この国」にある自分の家を追放されて、自分の家がない「その国」に父が自分を帰すのは、理不尽で、不埒な、犯罪だと、胸の中から叫び声が急にこみ上げてきたことを、三十年経っても、はっきりと覚えていた。
 「その国」には、自分の家はないのではないか。自分の家は、「この国」にあるのではないか。103P

「ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行」では、自身の半分ユダヤ系だという出自によって受けた扱いの記憶が、中国で千年前にユダヤ人が定着したシナゴーグの跡の井戸を見つけるまでの過程で語られる。そこで「がいじんが、がいじんではなく、なった」とヘンリーが語る、異者と故郷の中篇。日本人の名前を持ちながら、日系というわけではないという血筋の複雑さはここでも顔を出す。

 広々とした「御街」に陽光が照りつけていた。どこかのスピーカーから、二胡だろう 、日本の琴に似て少し高い音の古代風の弦楽が流れていた。
 ヘンリーには、自分のような風貌の人は一人もいないことが不自然に思われはじめたが、そんな思いを誰にも白状できず、北京語と広東語と河南の方言とどこの方言か分らない笑い声が熱い空気の中で爆竹のようにつぎつぎと小さく響く中で歩きつづけた。204P

アメリカ台湾日本という移動の人生を歩んできた主人公が、まさにその移動のさなかに移動の経験を想起する作品集で、いくつもの境界が交錯する結節点としての視界がとても興味深い。主人公の旅が、毛沢東の遺体、井戸、粘土塀、土の味がする水などのモノに逢着するのも印象的。

フーゴ・ハル『ブラマタリの供物』

本書巻末に書いているミスカトニック大学研究員岡和田晃氏から手渡されたまことに怪しい一冊。1928年、アフリカの奥地で消息を絶った人物を探しに赴く刑事の手記がバラバラに並べられている……。油断すると最初に戻ったり島の中を延々さまよい歩いたり、どこへ行くのかという選択肢自体が読み手の記憶と観察を問うので、かなり油断のできないかたちで進行していくゲーム・ブックで面白かった。選択肢を選ぶ、というよりはいくらか手の込んだ分岐が用意されているけれども、基本的にこの本だけで遊ぶことが出来るように工夫されているので、初心者にも入っていきやすいはず。私もそうだったように。クトゥルー神話ゲームブックというとおりのネタがちりばめられつつ、秘境探検の冒険ものの物語がしっかりと展開される。クリアしてみるとなかなか苦労した甲斐あって感慨もひとしお。研究員の解説とか、向こうの世界から失礼しますといって鏡文字であとがきが書かれている遊び心も楽しい。鏡文字は写真を撮って画像反転すれば読みやすいとは思ったんだけど、鏡文字のままでもなんとか読める。