「鶴鳴」「文藝」2019年冬号「韓国・フェミニズム・日本」『ニグロとして生きる』『壜の中の水』『母の記憶に』『草を結びて環を銜えん』『新・韓国現代史』

文藝 2019年秋季号

文藝 2019年秋季号

文藝2019年秋号、陣野俊史の中篇「鶴鳴」。2016年オバマ米大統領の広島訪問で贈られた折り鶴をたどり、ケニア系米国人オバマアルジェリア系の父を持つ長崎の男、折り鶴協会員らによって、オバマ核廃絶活動、長崎広島の原爆、千羽鶴の佐々木禎子、マダガスカルの反植民地蜂起が撚り合わせられていく。幼少期に被曝して12歳で亡くなり、原爆の子の像のモデルとして知られる佐々木禎子はいくつかの書籍で、鶴を千羽折る前に亡くなったという話が広まっている。生きる希望の千羽に足りない折り鶴。作中のオバマはこれにこだわる。オバマが佐々木禎子に関心を持ったという事実を元に、被曝体験のある祖母を持つ長崎に暮らす男を主要な語り手として、長崎、広島、フランス、ケニア、ハワイ、ユーゴ、マダガスカルといった戦争と植民地の問題という世界史的なスケールに鶴の声を、革命のイメージをも織り込んでいる。佐々木禎子伝説は複数の語り手によってさまざまにバージョンがうまれ、禎子の折った鶴の数は確定できない。しかし、この数字の問題はホロコーストや、マダガスカル蜂起での死者の数の不確定性とも響き合うようにも思う。蜂起についての本からの引用文にはこうある。

記憶すること。自分自身の言葉を聞いてもらうこと。この二つが、マダガスカル人や、アフリカ人に課せられている。だが、数字以上に、あの蜂起を理解する、正確な言葉を見つけることは難しい。402P

原爆と平和への祈りと革命そしてそれらの数多の死者。鶴をめぐる語りがこれらを繋ぎ合わせて、「竈の火を絶やすな」という声がする。

文藝 2019年秋季号

文藝 2019年秋季号

同じく「文藝」2019年冬号の特集「韓国・フェミニズム・日本」を通読。対談、日韓両国からの小説、エッセイ、キーワード集、論考と充実したもので本一冊分くらいはあるか。しかし読んでると斎藤真理子はいったいいくつ訳書が刊行予定になってるのかとびっくりする。四冊?

本特集のフックになっているのはベストセラーとなった『82年生まれ、キム・ジヨン』で対談などでも触れられているけれども私は未読。その作者の短篇チョ・ナムジュ「家出」は、家父長のとつぜんの家出によって家族関係が再編成されていきながら家族同士の見たことのない側面が見えてくる過程が面白い。フェミニズムのもう一方、男性性の問題が家父長制からの離脱として語られている。クレジットカードの使い方もいいし、納豆チゲも印象的。私いま毎日納豆とキムチ鍋食べてるので。

パク・ソルメの「水泳する人」は冬眠という設定がSF的なんだけど、その冬眠をした女性のガイド役をした女性二人が釜山でずっと食べ歩きをしている不思議な手触りが印象的で特に何が起こるわけでもないけど読ませる。ハン・ガン「京都、ファサード」は韓国を出て京都に住んでいた友人が亡くなったことを知った語り手による回想で、自分は彼女に心を開いていなかったのでは、という悔悟とともに語りかける一作。イ・ラン「あなたの可能性を見せて下さい」はエッセイ調の書き方が神へのダメ出しに帰結するユーモラスな一篇。パク・ミンギュ「デウス・エクス・マキナ」はなかなかぶっ飛んだ作品で、神と見紛う巨人の襲来という世界終末のなかの男女が描かれるけど、これって進撃の巨人となんか関係あるんだろうか?

日本人作家のものは、韓国へ行った時の不思議な出会いを書いた小山田浩子「卵男」や、高山羽根子「名前を忘れた人のこと」は、現代美術とあいまいな記憶、という著者らしい書き方で、韓国の仮面を見て記憶の現代美術家を思い出しつつも、韓国人だったかもわからない。西加奈子「韓国人の女の子」は在日と女性というマイノリティ同士の断絶を乗り越える仮想の存在をめぐる作品で、星野智幸「モミチョアヨ」はスポーツを通じた日韓の幸福な出会いを描く一篇。深緑野分「ゲンちゃんのこと」は子供時代にクラスメイトが在日だった経験を少女の語りで描く。

キーワード集や論考がブックガイドとして機能するようになっていてこんなに既訳の韓国文学があったのかと驚かされる。フェミニズム特集の最後にラッパーMOMENT JOONの父と祖父三代にわたる徴兵経験をたどった自伝的小説が、男性性の問題を描き出していて、日本、フェミニズム、韓国という特集の補完になっていて非常に良いし、次のページの「ラップと移民」で最初に引用されているのがこのMOMENT JOONなのが上手い。

ニグロとして生きる (サピエンティア)

ニグロとして生きる (サピエンティア)

エメ・セゼール、フランソワーズ・ヴェルジェスの共著『ニグロとして生きる』。旧フランス植民地マルティニック島出身の詩人、劇作家、政治家のセゼールに、ポストコロニアル理論の研究家ヴェルジェスが行なったインタビューと、ヴェルジュスの対談後の小論、そしてセゼールの1956年の講演を付した一冊。フランツ・ファノンの教師でもあったというエメ・セゼールの人生をたどり直すようなインタビューで、セゼールの事績をもうちょっと追ってから読んだ方が良かった気はするけど、青年時代の話から海外県の成立にまつわる話、植民地と西洋と奴隷制の関係、そして自作の詩と戯曲の引用へと続き、エメ・セゼールの仕事のダイジェスト的な感触がある。

詩は人間に己を啓示します。私自身の底知れぬ場所にあるものは、きっと私の詩心のうちにあります。なぜなら、この「私自身」を、私は知らないからです。詩こそが、私に「私」を暴き、しかも詩的イメージを啓示するのです。44P

ヨーロッパ人はヨーロッパ文明だけを信じているのにたいし、私たちは複数の文明、複数の文化を信じています。この宣言をたずさえての進歩とは、あらゆる人間が、彼らが人間であるという当たり前のことから、同じ権利をもつということです。68P

ヴェルジェスの小論ではこうある「奴隷制が周縁的な位置に押し込められてきたのは、フランス思想の盲点に対応している。なぜ盲点なのか。なぜなら、奴隷制前近代的なもの、後進的なものとする物語がある一方で、奴隷制が現代のものであるという現実もあるからである」(100P)として以下のようにも書かれている。

セゼールは今日の世代において忘れ去られている。いまだ誰ひとり奴隷制を告発した者はいなかったと断言される始末である。こうした無知からしても、沈黙のヘゲモニーが存在したのだと確信できるし、この沈黙が知の空間全体を植民地化しているのだと信じてもおかしくないのである。103P

ヴェルジュスの小論からもう一点引用。

「われわれは支配ではなく、同盟を望んでいるのです。フランスの政治家たちに選択肢を考えることができないというのなら、従属か分離かのどちらかを選択しろというのなら、損をするのは彼らです」、二〇年近くたってからもセゼールは、このように言い放っている。問題の核心をまさに突いているのである。この両極的な選択から抜け出たところに関係が構想できないこと、そこに核心がある、と。政治的な問いが立てられているのである。共和国は多様でありうるか、と。共和国は植民地支配した男女たちを対等者として受け入れられるか、と。122P

群像 2019年 09 月号 [雑誌]

群像 2019年 09 月号 [雑誌]

「群像」2019年九月号の笙野頼子「会いに行って――静流藤娘紀行」第三回は、藤枝静男の「志賀直哉天皇中野重治」をめぐって、それぞれの作家の「私」を読み込むような叙述で、中野の「『暗夜行路』雑談」が、作家にとっては不毛な評論だと批判しつつ、「五勺の酒」の不毛でない語りもしかし、「天皇」という人間に捕獲されてしまっていると指摘する。改元下、「天皇人間性」という捕獲装置をめぐる読み直しのなかで、「私」と「人間」についてのさまざまな様相がたどられる。語り手が志賀を結構評価しているのは、つねに自己に即くありかたが「私小説とは自己だ」という持論と通じるからだろう。翻って中野の志賀批判は成心のない、本心からのものでもそれは「批評機械」と呼ばれるように、公共性や理論的なものであれもやれこれもやれ式の、作家には届かないものと批判される。さらに中野は「私的なものを理解することが不得意」だとし、「特権的自我、所有する自我」もそうだ、と。最後に、小説を書いてるのは、「必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分。千の断片としての自分。/ もし自分が間違っていたとしても自分の文章は自分を裏切らない
」と締められる。

壜の中の水 (1965年)

壜の中の水 (1965年)

藤枝静男『壜の中の水』 「わが先生のひとり」や「壜の中の水」、「魁生老人」など、語り手が人生のうちで出会った一筋縄ではいかない人間に触れた作品が特に印象的。骨董も窯跡から焼き物のかけらを掘り集めたりとか、意識して老人になることにしたりと語り手もかなりの偏屈者でたのしい。「壜の中の水」の宍戸が息子の死んだ日に仕事にやってきて「死ねば同じことだ」と言い放ったドライさ。この作は宍戸という人物とのかかわりとその死に心乱されるという話で、土から焼き物を掘り集めたり、宍戸の事故死など、死んだり砕けたものと土の要素が死で縒り合わされた感じもする。語り手の骨董への認識も、「こういう死物が自分を自由にし、勝手な空想に遊ばせてくれる。誰も気にせぬ無用の器物が、無責任な美しさで私を魅惑し、かつてそれを不可欠な家具として左右においた平和な人間を宙に描かせる」(88P)とか、「ある志野の水差しの温雅な肌と色合いとが、私を魅した。しかし私は、それを割って欠けらだけにしてしまったら、遙かに純粋で美しいにちがいないと思った」(149P)とか。無用のもの、砕けたもの、死んだもの、社会的責任から降りた老人としての自己、などの連繋してるようなしてないようなうねり。「魁生老人」もこの偏屈な語り手が偏屈な老人と出会う話で偏屈な老人同士の偏屈な話で良い。本書では語り手がなんどかこの人は満洲帰りだろうか、という観察を記していて、さすが国民の一割が植民地帰りの引揚者だったという日本のシュリンクした帝国ぶりがまだ残っている時代だなと思った。

母の記憶に (ケン・リュウ短篇傑作集3)

母の記憶に (ケン・リュウ短篇傑作集3)

ケン・リュウ『母の記憶に』文庫版、第二短篇集の分冊一冊目。SF色強めのセレクトという通り、上手いショートショートからアイデアストーリー、近未来ミステリあるいはファンタジックなものも含めて多彩だけど、価値観の相対性を真摯に突き詰めていくバランス感覚が印象に残る。グーグル的な情報管理社会の行き着く先の「パーフェクト・マッチ」、シンギュラリティ以後のデータ人格とリアル人格の対立の「残されしもの」、スーパーマンと敵対する悪役が未来の殺人者を先んじて殺す設定の「カサンドラ」など、人によってどっちに肩入れするかそうとう分かれそうだと思う。ドローン操縦者が直接人を殺すというならそれを自動化すればいいというのがただの責任の先送りにしか過ぎない「ループのなかで」や、常連と常態の掛詞を題にとる近未来SFミステリ「レギュラー」が読み応えがある。これには中国と米国の関係が背景にあり、ドラマの名前で「香港」が出てくる。「わたしの香港、あなたの香港」というドラマ名。
草を結びて環を銜えん (ケン・リュウ短篇傑作集4)

草を結びて環を銜えん (ケン・リュウ短篇傑作集4)

ケン・リュウ『草を結びて環を銜えん』。『母の記憶に』分冊文庫版二冊目、こちらは中国もの中心のセレクトになっていて、対立物の共存可能性のテーマはよりいっそう強く出ており、中国史に取材する歴史ものも非常に面白く、とりわけ「万味調和」を英語で書くことの意味を感じさせる。「烏蘇里羆」は「良い狩りを」を思い出させるスチームパンク?もので、北海道で羆に家族を殺された男の復讐譚が、機械馬や機械化義手を駆使した改変歴史世界で展開されるけれど、終盤の意外な展開は開拓植民が侵したものの側から見返しつつ、先住民もまた近代技術を習得ししていく将来を予期させるところがとても良い。作者がいくつか書いている植民地開拓を扱った作品の一つ。

「長距離貨物輸送飛行船」は「紙の動物園」の母親を想起させる、なかば買うように中国人妻と結婚した飛行船操縦士夫婦を、二人で飛行船を時間ごとに交代しながら飛ばすという、ものの考え方と生活時間の違う二人のコミュニケーションを淡々と描いている。二人で一つの船を操縦するということ。「存在」はテレフォンならぬ遠隔存在テレプレゼンスという、遠隔地から介護ロボを介して母親と交流する、介護をしない男の罪悪感について。「シミュラクラ」は逆に、その人の似姿をコピーする技術が、過去の恋人や幼い娘のコピーを愛でる父へ反発する娘の視点からのもの。

「草を結びて環を銜えん」は中国明代末の、満洲族による揚州大虐殺を題材に、歴史に残る英雄の実像と事実の封殺に抵抗する語り部を描く歴史幻想譚。とはいってもメインは妓楼随一の美女とされる緑鶸と、纏足もしてない不器量な雀という二人の娼妓の、非常時を生き抜く百合小説でもある。緑鶸の愛こそが最も欲しいという雀は纏足をしないがゆえに歩くことが難しい緑鶸を助け、そして緑鶸はその美と話術で、非常時に自分の命を危険にさらしてもなぜか人を助けていく。緑鶸は言う、「あたしみたいな女のせいで中国が倒れるというあの責め言葉は、おもしろいね」(152P)敵前逃亡を試みた男が後に英雄視されることを予期しつつ、人助けをしている女に国の敗因をなすりつける、英雄と「傾国の美女」伝説のミソジニーを抉っている。

この揚州大虐殺を記録した書物をめぐる歴史の封殺に抵抗した個人を描く「訴訟師と猿の王」もまた、英雄と歴史をめぐる一篇。理不尽な権力の抑圧に抵抗する、いわば弁護士といえる訴訟師の主人公が、封殺された歴史書をある縁で守る話なんだけど、彼の心に住まう猿の王は言う、「英雄なんてものはないんだよ―中略―おれたちはみんな普通じゃない選択肢を突きつけられた普通の人間だ」(190P)、と。揚州大虐殺は国家の非道が歴史から封殺されている点で天安門事件を思わせる。民衆の人権を擁護する弁護士(ケン・リュウ自身も弁護士だった)を主人公に、猿の王こと孫悟空という中国の英雄を伴に語られるのは、この歴史と民衆への視点だろう。またこの二篇には真実と正義への祈りと普通の人間こそが小さな英雄だという信念が感じられる。なぜ揚州大虐殺なのか、なぜこの話なのか。作中の歌が時代を変えていたように、過去の歴史を介しつつ、きわめてアクチュアルな政治的現在を撃つ作と思われる。訴訟師も劉暁波を思い出したけどどうだろうか。私は詳しくないけれど。

「万味調和」は19世紀アメリカ、ゴールドラッシュでアイダホを訪れた中国人の一団と地元の少女との交流を描いた一作。ボストンでの弁護士を仕事を蹴ってアイダホにやってきた一家に、ローガンという巨漢をはじめとする中国人たちが部屋を借りてに何人も所狭しと暮らしている。好奇心旺盛な少女は、中国人を嫌悪する母親の言うとおりにはならずに、ローガンと交流を続け、さまざまな文化、食、遊戯、そして関羽の物語を聞き、そして中国人の一団もまたアイダホの田舎に根付き始める。その後の歴史は排華移民法によって悲しい結末をたどるけれど、アイダホにはこの悲しい歴史を忘却しまいとする活動が続けられていることが付記され、この米中交流の歴史の一コマを非常に味わいのあるものにしている。

訳者が言うようにケン・リュウのエッセンスが詰まったような一冊になっていて、中国ものにやはり非常な読み応えがある。米中の相互交流以外も、多くの小説が故郷や家族、その距離をめぐって書かれている点が魅力と入りやすさになっている気もする。

新・韓国現代史 (岩波新書)

新・韓国現代史 (岩波新書)

文京沫『新・韓国現代史』岩波新書。日本植民地支配からの解放以後、南北分断、朝鮮戦争、独裁、クーデターからの軍事政権、そして民主化以後の進歩的政策も李明博政権でバックラッシュに至るという現代史をたどる一冊で、近年の非正規雇用の増加とそれが若年層の安定志向を生んでいるなど、日本とも非常に似た様相を示しているように見えてなかなか面白い。

李承晩政権の政敵抹殺の策略その他、選挙や政治にともなう悪辣な手法の数々や、朴正煕軍事政権での弾圧、それに抗するデモや光州事件といったコミューンなど、激動の時代といって片付けるのも難しいような弾圧虐殺の政権も、東アジアの前線としてアメリカも容認しているのはまあ、いつものことだ。韓国現代史は「社会主義と直接対置する前線国家」ということと不可分で、これは甲午農民戦争義和団事件の鎮圧など、「日本の近代国家としての出発は、列強の東アジアでの利害を代弁しつつ民衆の抵抗を抑える軍事力として承認されることで初めて可能であった」(16P)という序章の指摘を想起させる。また、「日韓条約アメリカからすればインドシナ戦争の後方支援の体制づくりとして結ばれた条約であった。すなわち、韓国がインドシナ戦争に軍事的に貢献し、この韓国を日本が経済的に支える仕組みがこの条約によってつくりだされた」(107P)とあり、日本の戦争への関与の歴史の一端がある。このとき日本経済も機械製品の安定的な海外市場を求めており、韓国も借款や輸出信用によってもたらされた日本の資本財や中間財によって生産力基盤の拡充に役立て、ここに米日韓の利害の一致を見た、と指摘されている。なお朴槿恵はこの条約締結時の大統領朴正煕の娘。

朴正煕は日本の陸軍士官学校を出て満洲軍にいた人で、韓国軍にいたとき兄の影響で共産主義政党に入党したことが発覚し、本来なら極刑のところ軍内部の党員を密告して粛正に協力したことと満洲軍人脈の救命運動で命拾いしている。岸信介池田勇人満洲人脈が朴正煕の支援をしており、よく言われる韓国と日本の保守派同士の太いパイプというのはこれか、と。弁護士出身の革新派盧武鉉政権の後、保守派の李明博政権誕生時には福田首相や森、中曽根元総理などの保守派の大物のほか天皇からも盧武鉉には送られなかったメッセージが届いたというのはろくでもない差別化で笑ってしまった。李明博と同党の保守派が朴槿恵で、革新派盧武鉉の側近で同じく弁護士だったのが文在寅だとわかると、大まかに近年の政治動向がわかるか。盧武鉉政権では植民地期から軍事政権期までの人権蹂躙を対象とする過去事法の成立があり、この過去清算の動きが必然的に日本との摩擦を起こすことにもなる。

日本の「経済侵略」と「売春(妓生)観光」に対する反感についても指摘されていて、従軍慰安婦問題においてはことにその反論の仕方で「売春観光」に擬えられてよりいっそう悪印象で受けとめられているだろうことは想像に難くない。また、インドシナ戦争ベトナム派兵でのハミ村での村民虐殺は最初に食糧などを与えて安心させてからの「几帳面な虐殺」が指摘され、日本の戦争犯罪に対する態度の信憑性を毀損するとも指摘されている。

李明博政権の盧武鉉政権の九倍になる財政赤字や金持ち減税、リーマンショックでも大企業優遇をした結果、経済成長は前政権に対しても圧倒的に下回るという結果になり、支持率の急落と盧武鉉再評価のなかで、盧武鉉は親族の逮捕や標的捜査によって自殺に追い込まれている。とはいえ金泳三、金大中盧武鉉文民政府のもとでの格差拡大、貧困増大の経済問題が、朴正煕時代の「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長の再評価が娘朴槿恵の支持に貢献したとあり、そのなかでの朴槿恵国定教科書構想など、日韓のバックラッシュに著者は危機感を示している。

四年前の本で紙幅故に説明が欠ける記述もままあったけど、革新派支持の立場からの韓国の政治状況の概観が得られる。類書としては木村幹の『韓国現代史』も二年くらい前に読んでてこれは大統領の列伝スタイルで読みやすかった覚えがあるけど具体的内容は忘れてしまった。