オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

松籟社の〈東欧の想像力〉叢書第十六弾は先頃2018年のノーベル文学賞を受賞したオルガ・トカルチュク。本書は本国で1996年に刊行された三作目の長篇小説で、国内に留まらず海外でも評価され、トカルチュクの作家的地位を決定づけた一冊だという。

第一次世界大戦のころから80年代までにいたる20世紀を背景に、84の断章を通じて、ポーランド南西部の架空の街プラヴィエクとそこに生きる二つの家系を中心に人々の生と死、そしてモノや植物や動物や神や死人の「時」を描く長篇小説だ。

プラヴィエクは宇宙の中心にある。

本書はこの書き出しからとてもよく、私も幻視社の東欧文学特集に東欧は周縁ゆえにさまざまなものが交差するという意味で「世界史の中心」だというフレーズを引用したけれども、ここでの中心というのは、解説にも触れられているように、神学的な絶対性を相対化する汎神論的な意味がある。単一の、絶対の、男たちの、歴史の、そういった絶対的あるいは垂直的ともいえる概念を徹底して横にずらしていくような部分が随所にあり、この架空の小さな街という舞台もそもそものことながら、冒頭、ミハウが戦争に行ったり、第二次大戦時にドイツ軍がやってきて人を強制連行したりユダヤ人を虐殺する場面やスターリンの死、「連帯」運動?などの大きな歴史の爪痕は随所に刻まれているけれども、街の人々はほとんど主体的に関わらない。

それに絡んで象徴的なのは、登場人物の一人が趣味として世界のさまざまなパンフレットを取り寄せていたら、国際郵便が紛失した場合の損害賠償で金を稼げることを見つけたとき、頻繁な国際郵便を調査しに来た秘密警察のセリフをヒントに、「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」に郵便を送れば検閲で確実に不達になるので賠償金が得られるという逸話だ。本書でも特に好きなエピソードだけれど、ラジオ・フリー・ヨーロッパ、という政治的存在が単なる小金稼ぎの手段としてしか意識されず、しかも確実に届かないうえに封筒には白紙を入れて送っている、という関節外しが面白い。もちろん怪しすぎて秘密警察には何の暗号を送っているのかと拷問を受けるんだけれど、秘密警察も反共組織も彼にはなんら重要ではない。

多くの出産のエピソードが描かれる本書ではおよそ女性を中心に語られており、第一章「プラヴィエクの時」の次の二章目は、本書の中心人物ともいえるミシャのその母「ゲノヴェファの時」から始まるし、最後の章はミシャの子、ゲノヴェファの孫娘「アデルカの時」で終わる。解説でも指摘される孫娘に男子が生まれず女系が続いていくのもこの横ずれの一つだろう。

そして汎神論的というように、本書の断章のなかには、コーヒーミルやキノコの菌糸体やハンノキや犬のみならず死者の章まである。特に菌糸体の章では、「菌糸体は死の命、腐敗の命、死んでしまったものの命」225Pだとされ、「菌糸体は、時の進みを遅くするのだ。(中略)こんなふうにして菌糸体は、時間を支配するのである」227P、とも語られ、重要な意味を与えられている。植物でも動物でもない菌糸体は、樹の垂直性を拒否し、あらゆる場所に伸びる。菌糸体はトカルチュクの他の作品でもみられる作家通有のモチーフでもあるらしい。

「神」もまた本書では重要なモチーフで、領主が熱中する不思議なインストラクションゲームの冊子にあるテキストでは、神は八つの世界を創造しながら、人間に見放された苦しみを語ったり、老いた神が自分の外の秩序に組み込まれていたり、神の絶対性が剥奪されている。

「神の時」という章に重要なポイントがある。

ふしぎなことだ。神は時間を超えているのに、時間と、その変化のなかに顕現するなんて。もしもあなたが、神が「どこに」いるのかわからないと言うならば(ときどきこういうことを尋ねるひとがいる)、変化し、動く、あらゆるものを見るべきだ。形をとらないもの、波うつもの、消えてしまうものすべてを。
中略
 人びとは、かれら自身がプロセスのなかにあるけれど、恒常的でないもの、いつも変化しているものを恐れる。だからこそ、不変などという、そもそも存在しないものを考えついた。そして、永続的で変わらないものこそが、すばらしいと思っている。だからひとは、不変を神に帰してきたし、神を理解する能力を、こんなふうにして失った。
154P

「神」と「時」はまさに本書の基底をなす重要なテーマにもなっていて、二つのテーマの交差する章がこの長篇のちょうど中間地点にあるわけだ。


モノとしては作中で新しく建てられ、ラストでその無残な様子を見せる家もそうだけれど、特に、序盤にある「ミシャのコーヒーミルの時」が重要だろう。

人はじぶんが動物よりも植物よりも、とりわけ、物よりも濃密な生を生きていると思っている。動物は、植物や物よりも濃密な生を生きていると感じている。植物は、物よりも濃密な生を生きていることを夢に見る。ところが、物は、ありつづける。そしてこの、ありつづけるということが、ほかのどんなことよりも、生きているということなのだ。59P

そしてコーヒーミルは移ろいやすさに関係し、いっさいがこれを中心に回転する、世界にとって人間より重要なものではないか、と語られ、「ミシャのコーヒーミルとは、プラヴィエクと名づけられたものの、柱ということなのかもしれない」(61P)とも呼ばれている。挽くというイデアの小さな一部、と呼ばれるコーヒーミルが、豆を挽く、回転する、という変化と時間の象徴となり本作の重要な柱に据えられる。世界のなかのプラヴィエク、そしてそのなかのコーヒーミル。このコーヒーミルは最後、ゲノヴェファの孫娘が回し、街の外に持ち出されることで本書は終わる。宇宙の中心を回すコーヒーミルはまた別の場所で中心を作っていくわけで、プラヴィエクからの移動が最後に置かれている。

移り変わりということでは、ミシャのこの部分がやはり重要に思える。

果樹園で彼女はこう考えた。この木々が花を咲かすのを止めることはできないけれど、花びらはぜったいいつか散るし、葉もまたやがて色を変え、風に吹かれて落ちる。翌年もまたおなじことが起きるだろうという考えは、ちっとも彼女を慰めなかった。だって、そうではないと知っていたから。あくる年、木はまたべつの木になっている。大きくなって、枝だってもっと繁るだろう。べつの草が生え、べつの実がなる。花咲く枝も、くりかえされない。「わたしは二度と、こういうふうに洗濯物を干さない」ミシャは思った。「わたしはぜったい、くりかえさない」252-253P

この部分で思いだされるのは、同じく〈東欧の想像力〉の第一弾、セルビアユーゴスラヴィア)の作家ダニロ・キシュで、彼の『死者の百科事典』の表題柵の以下の部分だった。

人間の歴史にはなにひとつ繰り返されるものはない、一見同じに見えるものも、せいぜい似ているかどうか、人は誰でも自分自身の星であり、すべてはいつでも起きることで二度と起きないことなのです、すべては繰り返される、限りなく、類いなく。(だから、この壮大な相違の記念碑、『死者の百科事典』の編者たちは個なるものにこだわるのです、だから、編者たちにとっては一人ひとりの人間が神聖なのです。)

世界文学のフロンティア 3 夢のかけら - Close To The Wall

時間は流れ変化する、その一回きりのかけがえのなさ。84の「時」と題されたすべての章に神は宿るわけだ。

さまざまな形でプラヴィエクに住んでいる人たちの人生の一時が切り出され、すべて読み終えた後にまた次第になんとも言いがたい沁みるような良さが感じられる一作だった。アニミズムや季節の移り変わりという点を捉えてややもすると日本的と言われたりしそうな気配もないではないけれども、絶対的な神を否定する批評性がきわだっている作品でもある。
note.com
訳者解説がこちらで公開されている。ここで指摘されている「歴史の終焉」は、東欧の社会主義の終わりとも重ねられたものだろう。
shoraisha.stores.jp
本書は松籟社の木村さまにご恵贈頂きました。ありがとうございます。