ここしばらく百合小説を集中的に読んでいて、ツイッターでもその都度書いていた感想を適宜手を入れてひとまとめにした。アニメや漫画に比べてそういや百合小説ってそんなに読んでないなと思っていた時、百合ラノベ、百合SFが三月くらいにばっと出たのを機に、手持ちのなから百合と呼びうる本を集めたら結構な量になってしまった。積んだままなものもいくつかある。ここでは、性愛でないものまで含めた女性同士の関係を広く包含するものを百合と呼ぶ広めの解釈なので、同性愛を描いたものからバディものや友人関係のもの、一冊のなかの短篇一篇だけが百合というものも並べてある。
以下は読んだ順に並んでいる。とはいえラノベから読み出したので下に行くほどジャンル的に硬くなる傾向がある。
目次
- 鳩見すた『ひとつ海のパラスアテナ』
- 二月公『声優ラジオのウラオモテ ♯01 夕陽とやすみは隠しきれない? 』
- みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』
- みかみてれん『女同士なんてありえないでしょと言い張る女の子を、百日間で徹底的に落とす百合のお話』
- 天城ケイ『アサシンズプライド』
- 中里十『君が僕を』
- 陸道烈夏『こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~』
- 小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』
- 藤野可織『おはなししして子ちゃん』
- 藤野可織『ピエタとトランジ〈完全版〉』
- 宮澤伊織『裏世界ピクニック4』
- 森田季節『ウタカイ 異能短歌遊戯』
- 瑞智士記『展翅少女人形館』
- 月村了衛『機龍警察 自爆条項』
- 柚木麻子『あまからカルテット』
- 武田綾乃『響け!ユーフォニアム』
- 松村栄子『僕はかぐや姫・至高聖所』
- 松浦理英子『葬儀の日』
- 多和田葉子『献灯使』
- サラ・ウォーターズ『半身』
- ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』
- パトリシア・ハイスミス『キャロル』
- ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』
- セアラ・オーン・ジュエット『とんがりモミの木の郷 他五篇』
- フョードル・ドストエフスキー『ネートチカ・ネズワーノワ』
- 沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニャ 湯浅芳子の青春』
- 参考文献
鳩見すた『ひとつ海のパラスアテナ』
- 作者:鳩見すた
- 発売日: 2015/02/10
- メディア: 文庫
二月公『声優ラジオのウラオモテ ♯01 夕陽とやすみは隠しきれない? 』
声優ラジオのウラオモテ #01 夕陽とやすみは隠しきれない? (電撃文庫)
- 作者:二月 公
- 発売日: 2020/02/07
- メディア: 文庫
みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』
わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ! (※ムリじゃなかった!?) (ダッシュエックス文庫)
- 作者:みかみてれん
- 発売日: 2020/02/21
- メディア: 文庫
みかみてれん『女同士なんてありえないでしょと言い張る女の子を、百日間で徹底的に落とす百合のお話』
女同士とかありえないでしょと言い張る女の子を、百日間で徹底的に落とす百合のお話 (GA文庫)
- 作者:みかみてれん
- 発売日: 2020/02/14
- メディア: 文庫
天城ケイ『アサシンズプライド』
アサシンズプライド (3) 暗殺教師と運命法廷 (ファンタジア文庫)
- 作者:天城ケイ
- 発売日: 2016/07/20
- メディア: 文庫
中里十『君が僕を』
- 作者:中里 十
- 発売日: 2009/07/17
- メディア: 文庫
- 作者:中里 十
- 発売日: 2009/11/18
- メディア: 文庫
- 作者:中里 十
- 発売日: 2010/03/18
- メディア: 文庫
- 作者:中里 十
- 発売日: 2010/08/18
- メディア: 文庫
陸道烈夏『こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~』
こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~ (電撃文庫)
- 作者:陸道 烈夏
- 発売日: 2020/03/10
- メディア: 文庫
小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』
ツインスター・サイクロン・ランナウェイ (ハヤカワ文庫JA)
- 作者:小川 一水
- 発売日: 2020/03/18
- メディア: 文庫
藤野可織『おはなししして子ちゃん』
- 作者:藤野 可織
- 発売日: 2017/06/15
- メディア: 文庫
藤野可織『ピエタとトランジ〈完全版〉』
- 作者:藤野 可織
- 発売日: 2020/03/12
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
それでも、私は幸せだった。楽しかった。起こってしまった殺人の謎を解くのも、起こっている最中の殺人現場に向こう見ずに飛び込むのも、起こるであろう殺人から依頼人を守るのも、どれも好きだった。234-5P
森ちゃんとトランジの関係はまるでイザナギとイザナミのようだけれど、名前の通りイメージのベースは西洋的で、裏表紙には死神の格好をした老婦人となった二人が描かれている。「非生産的」? よかろう我々は死神だ、というわけだ。ピエタは男性と恋愛したり結婚したりもするけれど、妊娠を提案された瞬間それは瓦解する。ピエタとトランジの関係は最後まで性的な関係ではないというのもここでは重要で、アンチヘテロセクシズムというか、異性との恋愛とともに性愛についても第一のものではなくなっている。女二人がともに生きるということの先にあるのは何か、ということに真っ正面から対決した、ある意味百合の極北のような作品ではないかと思ったけど、こういう人類史的なパースペクティヴの百合作品はおそらく既にあるはず。伊藤計劃『ハーモニー』は、どうだったっけ。しかし、女二人で生きることのためにこれほどの代償がいるというのは逆にどれだけ女性に負荷が掛かっているかということでもある。百合ジャンルは女子高生ばかりみたいなことを言われるけれど、学校を出たときに待っているさまざまな負荷を考えると故なきことではない。トランジが終盤でも着ている日本から持ってきたジャージって、女子高生時代のものだろうか。そうでなくともピエタと出会った頃のイメージがあるいはそこにあるんだろう。また、殺人誘発体質に悩むトランジが「死ねよ」なんて言えるのはたぶんピエタだけのはずで、だからこそのラストだ。年老いても人類を破滅させても二人で生きるという女二人を描いたパワフルで爽快な小説で、感染症後の社会を生きるポストアポカリプス百合SFでもある。
今月出た女子バディもののラノベ、SF、純文を買った。 pic.twitter.com/Y3sUYPb0Dj
— 東條慎生のReal genuine fakes (@inthewall81) 2020年3月25日
宮澤伊織『裏世界ピクニック4』
- 作者:宮澤 伊織
- 発売日: 2019/12/19
- メディア: 文庫
森田季節『ウタカイ 異能短歌遊戯』
- 作者:森田 季節
- 発売日: 2019/06/20
- メディア: 文庫
瑞智士記『展翅少女人形館』
- 作者:士記, 瑞智
- 発売日: 2011/08/25
- メディア: 文庫
月村了衛『機龍警察 自爆条項』
- 作者:月村 了衛
- 発売日: 2017/07/06
- メディア: 文庫
柚木麻子『あまからカルテット』
- 作者:柚木 麻子
- 発売日: 2013/11/08
- メディア: 文庫
武田綾乃『響け!ユーフォニアム』
【TVアニメ化】響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ (宝島社文庫)
- 作者:武田 綾乃
- 発売日: 2013/12/05
- メディア: 文庫
松村栄子『僕はかぐや姫・至高聖所』
- 作者:栄子, 松村
- 発売日: 2019/03/01
- メディア: 文庫
「女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。どれも自分を間違って塗りつぶす、そう感じたのはいつ頃だったろう」(46P)
「女子校では誰も女性である必要がない。皆、ただ一種類の人間でありさえすればよかった」(49P)
「少年という言葉には爽やかさがあるけれど、少女という言葉には得体の知れないうさんくささがある」(57P)
それだけではないけれど、「僕」にはそうしたジェンダー的抵抗が込められており、また同時に裕生は付き合っていた男を同級生の少女に恋をしていることを理由に別れる。タイトルの「僕」はおそらくはカギ括弧を付されるべきで、自分自身のことを指すだけではなく、かぐや姫のように月へ帰ってしまう自分の物にならない「僕」を指してもいる。十七歳最後の二週間に自らを守ってきたものに痛みとともに別れを告げる過程。文芸部員が普通に煙草吸うし酒飲んでるのが可笑しい。90年代頭は女子校でもそんな感じだったのか、ある程度アウトローの表現なのか。バラード『結晶世界』読んでる百合小説確かこれで二冊目で、もう一冊は『ピエタとトランジ〈完全版〉』。「至高聖所」は筑波をモデルにした学園都市での寮生活を描いたもので、不可思議なルームメイトとの生活を通じて、二人がともに親から捨てられたかのような疎外感を持っていることを浮き彫りにしていく様を描いている。主人公の沙月は美人の姉を親のように思いそして「姉を愛していたから」こそ、姉が音大受験に失敗したあと家族の期待を拒否し家を出て働き、結婚してしまったことに衝撃を受ける。ルームメイト真穂もまた実の親を二人とも亡くしてしまい、義理の父に対して「娘」を演じている。学園都市と鉱物、ギリシャのアバトーンでの夢治療を題材にした真穂の書いた戯曲。ひんやりとした鉱物的世界のなかで、眠りと夢によって「淋しいと言って泣くことを淋しいと感ずる以前に拒絶してしまったそんな淋しさ」を交信したのかも知れない、という一篇。武田綾乃につづいて京都在住作家だ。松村栄子といえば菅浩江さんがイベントのトークで家が隣だったと話していたことを思い出す。今もそうなんだろうか。
松浦理英子『葬儀の日』
- 作者:松浦理英子
- 発売日: 1993/01/08
- メディア: 文庫
「幾子は非常に安らかな状態になっていた。この人とずっと一緒にやって行けると思った。それ以外の望みはすべておまけのようなものではないか」(153P)
という彩子についての末尾の一文は、この夏の二人を描いた一篇での重要なものがなんなのかを示している。男を媒介にした間接的な同性愛のような、何か。「肥満体恐怖症」は関係の複雑さよりもシンプルなストーリーテリングが発揮された一作で、肥満を恐れる唯子が、同室の三人の肥満の上級生からいじめられているんだけれど、唯子の元同室から、愚鈍なのか寛大なのか、いや違う、あなたは「奴隷の役をすることに歓びを見出すマゾヒスト」だと言われる。肥満の身体をフェティッシュに描きながら、彼女たちの吐いた煙を吸うことに嫌悪を覚え、強く彼女とその身体を意識しながら、肉に押し潰される快楽を描く一篇。嫌悪と一体の強い関心、これも百合ですね。たぶん。「唯子はひそかに、健康体をノーマル、病体をアブノーマル、肥満体をデブノーマルと呼んで差別していた」という、このひどいダジャレみたいなのに一瞬笑ってしまったけど、デブがノーマル、という意味にも読めるなあとは思った。
多和田葉子『献灯使』
- 作者:多和田 葉子
- 発売日: 2017/08/09
- メディア: 文庫
「トイレ」の「イレ」に「入れ」を聞き取り、出す場所なのに入れるという言葉の矛盾を感じた。でも「トイレ」という単語は英語から来ていたらしいから、「イレ」は「入れ」とは関係ないのかもしれない。(134-5P)
と考えるところや、曜日の火とか木とかになぞらえて、火曜日は「理科の時間にマッチを使う実験があって火傷するかも知れない」、「水曜日は水の日だからプールで溺れるかもしれない」などと想像をめぐらすところも面白い。震災と鎖国とナショナリズムが絡み、役所が民営化され、法律はどこかで日々変わっているらしい、というポストアポカリプスでディストピアなカフカ的社会において遣唐使=献灯使という外へのコミュニケーションの希求はイスマイル・カダレを連想させるところがある。「韋駄天どこまでも」は、中里十のところでも触れた、ユリイカの百合特集の別の論文*1で「突然の百合」と呼ばれていた一篇。夫を亡くした東田一子は趣味を見つけようと通っていた華道の教室で、束田十子という「美しい女性」と知り合う。二人は喫茶店で地震に遭遇し、避難するバスのなかで服がはだけるほど愛撫し合う。体育館の避難所で二人は一緒に暮らし、一子は「幸せ」を感じていたものの、しばらくして十子の姉と男二人と子供が現われ、十子はそのまま一度も振り向かず去って行ってしまう。そして一子は走り続ける。これもまた奇妙な小説で、二人の女性の対のような名前もさることながら、冒頭から言葉遊びで語りが進行していくのが特に奇異。
生け花をしていて、花が妙なモノに化けることもあるが、たとえばそれは草の冠が見えなくなってしまった時である。「化け花」はこわい。
趣味をもたなければどんな魅惑の味も未だ口に入らぬうちに人生を走り抜くための走力を抜き取られて老衰する、と言われて、東田一子は夫の死後、生け花を始めた。(164P 強調原文)
この書き出しの部分は強調がないと意味がよくわからないけれど、「花」マイナス草冠で「化」、「趣味」を分解した「口」「未」「走」「取」が文に散りばめられている。こうした文字の字形を解体して語りに取り入れた技法が多用されている。東田一子と束田十子は、東から一を引いて束に、引いた一を一に足して十にしたのか、画数が同じ名前になっている。だからといって分身だとも思えず、では何だと言われれば答えに苦しむ謎めいた話だけれど、避難の最中の幸福な一瞬を描いた印象的な一篇。「不死の島」は災害後の日本を外から見た状況が描かれていて、郵便が届かず通信ができなくなり、汚染のために飛行機も飛ばなくなり、放射能で人から死ぬ能力が奪われてしまい、民営化された政府の言うことが信じられない、などの状況が素描される。当初はここから長篇にするつもりだったらしく、本書のなかで一番最初に書かれた作。「彼岸」は「想定外のことが起こらない限り、絶対に安全」だという原発に新型爆弾を積んだ戦闘機が墜落する事故によって日本を離れざるをえなくなった人たちが中国に避難していくさなかの一人の議員の心理を描く。この議員は中国を中傷することで不能が回復することを発見し差別中毒になっていた。大きいものを侮辱することで性的に回復する、というマチズモと言葉についての一篇。中国を差別することで票を得た人間が中国に避難せざるを得なくなる皮肉。「動物たちのバベル」は、表題作からは消えていた動物たちが、人間のいなくなった「大洪水」以後の世界で、人の言葉を通じて会話しながらバベルの塔の建設を計画しているという奇妙な戯曲。人間の言葉で動物たちが人間のこと、言葉のことを議論しあっていて、妙に面白い。特に面白かったのは次の下り。
クマ あんたが文明化している証拠は?
イヌ わたしは少年のにおいがする靴を菩提樹の下の草むらに隠している。それを時々出して、においをかいでエクスタシーに浸っている。
クマ 確かに文明的だ。
224P
イヌ 奴隷って何?
リス 危ない職場で働かないと食べていけない境遇に追い込まれた者のこと。人間たちは二十一世紀以降はみんな奴隷だった。(259P)
言語をめぐるオチも面白い。表紙絵のように不思議で不気味でユーモラス。笙野頼子ほどグロテスクではないにしろ連想させるところもある筆致で、震災後約十年を経て災害をめぐる小説が今また奇妙に時事的に読めてしまう。文庫では分からないけど「不死の島」がいちばん早く、表題作が一番最後に書かれている。多和田葉子は『飛魂』が「非婚」の掛け詞で女性同士の師弟関係の話だった気がするし百合の文脈で読めるヤツだったかも知れないけど忘れた。
サラ・ウォーターズ『半身』
- 作者:サラ ウォーターズ
- 発売日: 2003/05/24
- メディア: 文庫
「現代はめざましい時代だ。電信局に行けば大西洋の向こうの同僚と意思疎通がはかれる。原理? それは知らないよ。ただ五十年前ならそんなことはまったく不可能で、自然界の法則に反していると決めつけられた。でもいまは電信で言葉が送られてきても、ペテンがあるとは思われない」(144P)
こんな19世紀ヴィクトリア朝の英国ロンドンを舞台に、貴婦人マーガレット・プライアが慰問に訪れた監獄で出会った元霊媒の女性との交流を描く、歴史百合ゴシック小説。原書は1990年刊。霊媒のリアリティや三〇手前の「老嬢」レズビアンの生きづらさが肝になる時代設定が巧妙で、急展開の結末もまた百合だ。手記形式を採る本書メインの語り手マーガレットは明白に同性愛者として設定されていて、慕っていた歴史学者の父亡き後、ある女性との失恋の傷も癒えぬなか厳しい母に薬で管理される行き場のなさから監獄への慰問をはじめ、さまざまな女囚の話を聞いていくことになる。その監獄のなかで、一人どこから手に入れたかわからない菫の花を持った女性に一目見て引き込まれる。この交霊会のなかで人を殺した詐欺師と疑われているシライナ・ドーズのもとに、マーガレットは足繁く通うようになる。
ホワイトとジャーヴィスは監獄の有名な〈仲良し〉で、“どんな恋人よりずっとたちの悪い”カップルなのだ、とマニング看守は言った。あちこち勤めたが、どこの監獄にも〈仲良し〉は いたという。きっと淋しいからだろう。非常に扱いづらい女囚が小娘のように恋わずらいにかかったのを実際に見たそうだ。(98P)
本作では監獄と家庭に相似性があるんだけど、上のくだりは何か現代の学校を舞台にした百合作品のようで、じっさい監獄と学校は近代における人間の管理において似た施設なので、百合の意味はそこからも読めるか。おぞましい監獄の様子や女囚の過去など歴史小説的部分もじっくりと展開されていて読み応えがあり、謎めいた女性ドーズとの交流も丹念に描かれてて、それを土台にした終盤の展開は驚きとともにやはりという感じとなるほどなという納得感があり面白い。ただここに来るまでが丁寧すぎてちょっと長すぎるとも感じる。物語展開のうえでこの長さは必要だとはいえ、同時にあの展開だからこそこの長さが徒になるともいえるので難しいところはある。パノプティコンと呼ばれる一望監視システムを備えた実在したミルバンク監獄が花の形にも見えるのはいろいろ示唆的だ。そういう表現が作中にあったか覚えてないけど。家と監獄、日記という形式、核心の話をしないと何も言えないところはあるけれどよくできてる。「慕情」は原文だとなんて書いてあるんだろう。LOVE? 苦い話だけど百合なくしては成立しない直球の百合小説。この作者は次作の『荊の城』が評判良いようで持ってはいるからそれはまたそのうち。以下は私が読んだ本の旧カバー。作中に名前が出てくるクリヴェッリの絵を使っている。
ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』
- 作者:ジャネット ウィンターソン
- 発売日: 2002/07/01
- メディア: 単行本
愛が悪魔のものだなんて、そんなことがあるだろうか? (174P)
この問題について評議会が下した決定は、支部の人々を驚かせた。それは「聖パウロの教えに背いて教会内で女に力を持たせすぎたことが問題」(213P)だというものだったからだ。母を始めここでは昔から女性が強く全てを取り仕切ってきており、この決定はそれまでのあり方をすべてひっくり返すものだった。さらにはこの決定を受けて、母は「男の真似事ばかりしてきたせいで、神の法を軽くみて、男女の道でも同じことをしようとした」と、上の決定に従う演説を行なう。
母はわたしが自分を恥じるとでも思ったのだろうが、そんな気はさらさらなかった。恥じるべきが誰なのかは、はっきりしていた。もし魂の不貞というものがあるのなら、母こそは立派な淫売だった。(214P)
彼女は「女であることの限界」に突き当たり「男性優位社会」に跳ね返されたわけだ。この、レズビアンは男の真似だからダメだという否定のロジックは個人的になかなか意外で興味深く、何故かというと、本書では男性優位の保守的な立場からのものだけれど、同様の、女性を性的に見るのは男だけだという決めつけの言葉をフェミニズム的な美少女表現批判のなかに見たことがあるからだ。異性愛規範を疑わないという点で両者が一致し、だからこそ、論争のなかで宗教保守と一部フェミニストが野合する瞬間が出てくる。性的な美少女イラストのたぐいそれ自体が差別だとは思わないけれども、それを見たり描いたりするのは男性だけなどという主張は、百合コンテンツも含めた美少女表現を担う女性の存在を否定する直球の差別、それも同性愛差別を含んだもの、だと思っている。このロジックは同様に女性的な行為をする男性にも向かうだろう。それはともかく、教会というコミュニティや母といったそれまで疑うことなく過ごしてきた場所とそこから身を引き剥がす苦さは、
人生で何か大事な選択をするたびに、その人の一部はそこにとどまって、選ばれなかったもう一つの人生を生きつづけるのではないか、と。(268P)
と作中語られるように、時折差し挾まれる聖書あるいは聖杯探索や魔法使いの物語など、作中現実と共通したシチュエーションを持つ空想物語は、もう一つの人生というかたちで故郷を捨てた彼女が現実を理解する方法でもあり、人それぞれの現実のあり方を示すものでもある。母もまた娘を伝道師にする夢を失い、「果物はオレンジにかぎる」という口癖は終盤「オレンジだけが果物じゃないってことよ」と変化している。母とジャネットは一つではないし、別の生きる場所もあるし、女性を愛する女性もいて、「オレンジだけが果物じゃない」わけだ。それはまた今ここと別のどこか、という現実と物語の関係ともいえ、歴史的事実のみが真実ではない、という本作の方法そのものでもある。再会した母親に対して、さほど批判的でもないのは、教会に対して毅然と反抗した闘争心や強さは、母譲りでもあったからだろうか。
パトリシア・ハイスミス『キャロル』
- 作者:パトリシア ハイスミス
- 発売日: 2015/12/08
- メディア: 文庫
わたしたちのような関係は いたずらに騒がれると同時にひどくおとしめられているわ。でもわたしには、キスの快楽も、男女の営みから得られる快楽も、単なる色合いの違いでしかないように思えるの。たとえばキスを馬鹿にするべきではないし、他人にその価値を決められるものでもない。男たちは子供を作れる行為かどうかで自分たちの快楽を格付けしているのかしらね。まるで子供を作る行為だからこそ快楽が増すのだとでもいわんばかりに。
(中略)
男同士、あるいは女同士のあいだには絶対的な共感が、男女のあいだでは決して起こり得ない感情が持てるのではないかということ。そして世の中にはその共感だけを求める人たちもいれば、男女間のもっと不確実で曖昧なものを望んでいる人たちもいる。(392P)
作中ちょっと面白かったのは、テレーズが「キャロルの飲みかけのコーヒーを手に取り、口紅がついているところから一口飲んだ」というの、最近のでも見る!と思った。七十年前でも変わらないな、と思ったのと、テレーズが持ってきた土産の蝋燭立てを見せての会話が、
「チャーミングね」キャロルはいった。「まるであなたみたい」
「ありがとう。わたしはあなたみたいだと思ったの」(423P)
というところが、キャロルのいう「女同士」の「絶対的な共感」が指す場面かと思った。しかし、同性愛の特性の一つにハイスミスが言う、男女のあいだではありえない「絶対的な共感」があるとするなら、百合の真髄は双子百合ということになるのではないか。でもこれをさらに進めるとつまり自己愛こそが、という話になるけど、鏡写しの自分あるいは自分の分身との百合ってのもそういやあったような気がする……
ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』
- 作者:バージニア ウルフ
- 発売日: 2010/05/11
- メディア: 文庫
わたしはただ生きたいだけ。
「だからパーティを開くの」と、クラリッサは生に向かって語りかけた。(212P)
と語っている。生の一瞬を愛する、というのはまさに今作の仕掛けでもある。また医師ブラッドショーの夫人は、かつての自由に対し「それがいまは夫の顔色をうかがい、その望むところを即座に読み取って従おうとする。夫の目が支配を求め、力を求め、油膜を張ったように光るとき、夫人は身を縮め、硬直し、すくみ上がり、刈り込まれ、後ずさりし、おずおずと夫を見る」(177P)と、夫人という立場の屈従を描いてもいて、「夫人」というタイトルの含意がここにあるようにも見える。また最初に書いたように、クラリッサにとっての人生最高の瞬間は結婚する前のサリーという女性との出来事にある。性や人生のことや社会改革のことを語り合ったとサリーとの思い出を語り、ウィリアム・モリスやシェリーについて語り、
サリーに対するわたしの気持ちは、いま振り返っても不思議だ。純粋、誠実。男に向ける気持ちとは違う。欲や得はまるでなく、女二人の間に――それも成人したばかりの女どうしにだけ――存在する感情だったと思う。(64P)
そして、花を挿してある石壺のわきを通ったとき、私の人生で最高の夢の瞬間があった。サリーが立ち止まり、花を一本取ってから、わたしの唇にキスをした。世界が逆立ちし、周りが消え失せて、わたしとサリーの二人だけがいた。(66P)
クラリッサのサリーへのこの愛はリチャードのものとすれ違っているように見える。このパーティに偶然サリーが訪れ、驚きの再会を果たすときのクラリッサの喜びようが描かれている。古典新訳文庫の解説が言うように、生と死、同性愛と異性愛、結婚と独身、政治家夫人と貧乏人、宗主国と植民地などのさまざまな対立を相互に絡ませながら、それぞれの人物がロンドンのある一日において無関係なようで微妙に絡み合う場になっている。リチャード、ピーター、クラリッサの関係とともに、エリザベス、キルマン、クラリッサの関係もなかなかに不穏なものがある。過去サリーとの間には同性愛的感情とともに「社会改革」への熱意があって、クラリッサの現時点での保守党政治家の夫人というしがらみのある地位にあることへの鬱屈があるようにも見え、だからこそセプティマスの医療からの脱出のような外への志向がわだかまっているのかも知れない。上のほうで藤野可織の短篇「ホームパーティはこれから」に触れたけど、ほぼ同じ話なのかも知れない。しかし百合というなら三大レズビアン小説といわれたうちのひとつ、『オーランドー』を読めばいいのになぜかこっちを読んでいた。
セアラ・オーン・ジュエット『とんがりモミの木の郷 他五篇』
- 作者:ジュエット,セアラ・オーン
- 発売日: 2019/10/17
- メディア: 文庫
我々は一人一人が隠者であり、一時間あるいは一日だけの隠遁者である。歴史のどの時代に属する隠者であれ、理解し合える仲間なのだ。(116P)
と、語り手は考える。本書に通底するものは孤独と自然ではないかと思えるけれども、孤独ゆえに親しい友を求め、日々の会話が始まる。そこに土地の人々とその物語が生まれる素地がある。孤独と自然といえば『レズビアン短編小説集』にも収録されていた「シラサギ」は、六月、九歳の少女を主人公として、ハンサムな男性とのロマンスを拒否し、自然を守る物語だ。外からやってきた男性はシルヴィアに一時の夢を与えるけれども、彼はシラサギを撃って剥製にしようとしており、シルヴィアはシラサギの居場所を教えることをやめる。鳥が好きなのになぜ撃ち殺すのか、とシルヴィアは不思議に思うけれども、本篇での狩猟と剥製は性行為や結婚の寓意だろう。彼女が海を見たことがなく、海を夢見ているのは海辺の町の表題作とちょっと関係あるのかな。「ミス・テンピーの通夜」は、故人の一番古くからの友人二人がともに通夜を過ごす四月の一夜を描いた一篇。一人は未亡人の姉の子供を育てており、貧しさと苦労の人生で、片方は農場主と結婚して裕福な生活をしていて、貧富の差のある二人が、ともに故人を思いながら旧交を温める。「ベッツィーの失踪」は救貧院で暮らす三人の老女のうちの一人、ベッツィーが昔勤めていた屋敷の主人の孫娘から百ドルという臨時収入を得たことで、一人内緒でフィラデルフィアの博覧会に行ってくるという小さな冒険譚。ほとんど外へ行ったことがないベッツィーの見るもの全てが新鮮な旅行と、不意の失踪に大騒ぎになって彼女が池に沈んでいるのではないかと思い悩む二人を描いており、三人の老女の仲が一つの軸になっている。これは五月の物語。「シンシーおばさん」は珍しく冬が舞台で、元日の朝、一人で住んでいるおばの元に姪たちがサプライズの訪問をして喜ばせるという暖かい話。「マーサの大事な人」は『レズビアン短編小説集』の時に感想を書いたけど、再読してもやはりとても良い。ミス・パインの邸宅に勤める不出来で何も学べないと思われてたメイドのマーサは、丁寧に仕事を教えてくれた一時滞在者のヘレナに対して深い敬愛を抱き、四〇年を経た再会を果たす。マーサとヘレナが過ごしたのは六月の数週間だけで、ヘレナの結婚式にも参加できないまま、四〇年と言う時を離れて過ごすけれども、その間マーサはヘレナのことを毎日のように考え、外国暮らしをする彼女の所在を地図に記し、彼女への愛を生きることでまるで聖者のごとき人物へとなっていった。
大切に思い、尽くしてきた友が遠くに去ってしまうと、人生の喜びも消えてしまうものである。しかし、愛が本物であったなら、完璧な友という理想の存在に身を捧げたいという、より次元の高い喜びがすぐに生まれる。平凡な幸福が、より高いレベルのものになるのだ。(313P)
この愛が報われるラストにかけての場面はやはり感動的。それでいて、ヘレナの結婚は女性同士の関係を阻害するものになっていて、結婚生活は「喜びも悲しみ」もあるとは書かれているけれど、最後に喪服を着ているということは単身になって初めてマーサと再会できたと読んでいいのだろうか。主人のハリエット・パインにしろ、マーサやヘレナにしろ、独身、未亡人といった単身者の女性たち、という人物配置はやはりレズビアニズムによるものに思える。マーサもヘレナからの手紙の名前にキスする描写があったり、時代ゆえか性的な描写や要素を避けてはいるけど、やはりそうかなと。作品集として面白いのは、表題作が一時滞在のあと別れを迎え、最後の一篇が四〇年ぶりの再会で終わるところ。多くの作品は四月から夏にかけての緑の季節を舞台にしてて「シンシーおばさん」での冬の年明けを経て、マーサは四〇年を経た同じ初夏に再会する構成なのは企まれた編集だろうか? 近くても遠くても待ち人来たる嬉しさ、そして未婚や寡婦あるいは救貧院の、社会の周縁と思われた女性達を共感的に描いている。地方のさらに周縁の存在への共感的視点。解説では『レズビアン短編小説集』に言及しておらず、レズビアンという語を避けたような書き方だけれど、そういう視点からいま読まれる余地があると思うし、じっさい本作品集はジュエット作品でも女性メインの短篇を集めた印象なので、そういう編集意図があるのは確実だと思うけれど、ちょっと不可解。ジュエットについては亀山照夫「セアラ・オーン・ジュウェットの世界 牧歌と自然のイメージ」という論文がネットで読め、未訳が多いのでいろいろ情報が得られる。「老婆を書かせては天下一品」と言われてるのが面白い。ジュエットの特徴として指摘される「幼児的性格」は、過去志向へと裏返り「古風な世界」の擁護としてこれ以上ない特異性を生んだ、と論じられていて、それはそうだと思われるけれども、ここで恋愛体験のなさがその一環として言及されるのはどうかな。「マーサの大事な人」の女性たちは家系として重要でない娘とメイドだったゆえに未婚のまま放っておかれている印象だけれど、そうした周縁的存在だからこそ未婚のままでいることができると裏返して読んだほうが面白い。地方にこもる保守性を、地方の周縁の女性からの批評性として読み換えるというか。フェミニズムや女性の観点というのがないな、と思ったらこの論文は70年代のものだった。
フョードル・ドストエフスキー『ネートチカ・ネズワーノワ』
1849年の連載途中で作者の逮捕によって未完に終わった長篇小説。女性の一人称で少女自身の人生をたどるなかに、孤児となったあと引き取られた公爵家の令嬢との熱烈な愛情表現がある170年前の百合小説。全集の端本を持ってて作品の存在は知っていたんだけど、百合小説のリストか何かで見るまではこういう作品だとは思っていなかったので驚いた。ドストエフスキーの女性主人公の長篇ということでも非常に興味深い一作だ。全集ならどれでも入ってると思うけど、私が読んだのは新潮社版の1979年刊、第二巻収録の水野忠夫訳のもの。上下二段組二百ページ弱で、これだけで既に普通の長篇一冊分くらいの長さはある。最終的には数字の通し番号で七章構成になっているんだけれど、解説によると当初は「幼年時代」「新生活」「秘密」の三部構成になっていたようで、実際に内容面では三部構成といっていい。音楽家の才能があったのに酒や頑ななプライドで破滅したエフィーモフの話から始まり、夫に先立たれた実母がエフィーモフと再婚したのち、物心ついてからの生活を描く貧困の幼少期と、相次いで両親が亡くなり父の才能を知っていたH公爵に引き取られたその家での生活と令嬢との関係、モスクワに発った公爵家と別れその親族の家で過ごした八年間と、住む場所がパートごとに変わっていく。第一部の幼少期では、才能があるのに身を持ち崩し、金目当てに再婚した妻に対して自分が金を持ち出して酒に溺れているのに、妻がいるから自分は音楽家として活躍できないと触れ回るクズと化したエフィーモフの底辺生活と、その父を愛する娘で主人公のネートチカ(本名はアンナで、ネートチカは母親が考えた愛称)の生活が描かれる。娘を使って家の金をかすめとろうとするエフィーモフのリアルなクズさがなかなかつらい序盤だけど、ネートチカは母に怒られる同士ということでかなり最低な振る舞いに及んでいる父に同情しており、あるいは彼に「母性愛」を抱いていたという。あるいはこれは音楽という芸術が本作の後半のテーマになる伏線と思われる。第二部は、父を知っていた公爵の家に引き取られてからの十歳前後の頃を描いていて、孤児となった傷心のネートチカが少しずつ家に馴染んでいくさまと、そこに現われた同年代の少女カーチャとの仲を深めていく過程が描かれる。目が覚めて初めて見た彼女の美貌に歓喜に包まれたネートチカは「わたしはカーチャに恋をしてしまったのです」というほど「熱烈な恋」に襲われる。以下、初対面の描写。ふたたび目を開いたとき、目に入ったのは、屈みこむようにしてこちらをうかがっていた、わたしと同じくらいの年頃の少女の顔でしたが、そのほうに手を差し伸べたのが、わたしが最初にした動作でした。この少女をひと目見るなり、わたしの心は、何か甘美な予感にも似た幸福ですっかり充たされてしまいました。ここで、もっとも理想に近い魅惑にあふれた顔、驚嘆すべき美しさに光り輝くばかりの顔、その前に立つと誰でも、思わず快い困惑を覚えながら歓喜に身震いし、そしてなにかに突き刺されたようになり、それがこの世に存在することで、自分がそれに出会えたことで、それが自分のそばを通り過ぎていったということで感謝せずにはいられなくなるような美貌のひとつを想像してみてください。それが、モスクワから帰ってきたばかりの公爵令嬢カーチャなのでした。(319P)
ネートチカはこの感情に振り回され、突然キスをしてしまったりする。しかし優秀さを見せたネートチカにプライドを煽られたカーチャが優位をとろうとしたり、不幸な境遇を根掘り葉掘り聞き出そうとしたカーチャが家庭教師に怒られたり、仲が良いとは言いがたい関係だったけれども、いろいろあって、カーチャもまたじつはネートチカを好きだった、とお互いがベッドで気持ちを告白し合ってからはお互いに百回もキスをしあいながら語り合ったという一夜の描写がものすごくてびっくりする。あなたが寝ている私にキスをしたのを知っている、とカーチャが言い、私のハンカチをどうしたの?と訊いてきて、ネートチカがハンカチを持ち出して匂いを嗅いでいることがバレていた様子が描かれるところとか、どうしてあの時はあんな風だったのかという話になって、好きになりたいのに憎くてたまらなかった、「わかったの、あたしがいなければあんたは生きてゆけないということが、それで、あのいまわしい女の子を苦しめてやろう、と考えたのよ!」とカーチャがその天邪鬼な心情を告白してくるところとか、二人でお互いのすべてを話し合い、これからの二十年間の生活設計をして、お互いが命令と服従の遊びをして見せかけの喧嘩と仲直りをするんだ、という幸福を語るところはドストエフスキーの熱のこもったあの筆致で少女同士の絆を描いていて圧倒される。そしてこの時代なのに、というかこの時代だからこそなのか、あまりホモフォビックな雰囲気がない。表現の激しい強い友情ぐらいに思っていたんだろうか。とはいえ、孤児と親しくなることに「嫉妬」した母親から距離を置くことを命じられたり、幸福な時期は長く続かず、公爵の幼子がモスクワで危篤状態になった、ということでカーチャもともに旅立ってしまい、第三部は公爵夫人の長女夫妻のもとで過ごすことになる。この長女アレクサンドラは、夫人から煙たがられていて、むしろ継父の公爵がよくカーチャを連れて会いに来ていたという。カーチャはこの義理の姉を「熱愛」していたとも書かれている。そこで暮らすことになり、ネートチカはこの夫婦の間にある秘密を知ることになる、というのが第三部で、歌の才能を見出されるのもここだ。母親代わりとなったアレクサンドラとの関係もあるいは百合と言いうるかも知れない。母親のように友達のように親しくなり、あるいは十二歳を過ぎて少女の頃を過ぎたことで、以前のような距離ではなくなったり、成長するにつれて関係はまた変化していく。興味深いのは、夫婦の秘密を通じて巻き起こった騒動のなかで、夫が二度ネートチカをめぐる「嫉妬」を口にすることだ。一度目は妻に対して私とネートチカの関係を嫉妬している、と決めつけ、二度目は自分自身が妻とネートチカの親密さに「嫉妬」していたと告白する。若い少女への恐れ、でもあるだろう。まあそれは良いとして、秘密の手紙をめぐる謎についての騒動もまだありそうなあたりで未完となる。この孤児の少女の成長が、音楽という芸術やカーチャやアレクサンドラなど女同士の絆とともに描かれる可能性もあったように思える。ドストエフスキーの女性主人公の長篇が完結していたらとても興味深いものになったのではないかと惜しい気分だ。これが近代小説において最古の百合小説、とどこかで見たけど、そうなんだろうか? ドストエフスキーの百合だ、といって再刊すればそこそこ話題になりそうな気はするんだけど、やはり未完なところがネックか。
沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニャ 湯浅芳子の青春』
- 作者:沢部 仁美
- 発売日: 1990/02/01
- メディア: ハードカバー
自分たちの愛は男と女のように結婚制度に守られているわけではない。外目には仲のいい女友達の共同生活と見られ、闖入者を防ぐ手だてはない。芳子はたえず外から自分の恋人が狙われているような気分におびやかされる。そこで頼りになるのは相手の気持ちだけだ。しかし、百合子はふたりの間柄を野上弥生子のような親しい人にも取り繕おうとする弱さがある。(70-71P)
「百合子が「女」より「男」を大切にする考えの持ち主であった」33Pとも指摘されている。
エロスの部屋を開ける「鍵」が芳子の手中にあることを知っていながらうながせない百合子と、「鍵」をもちながら開けようとしない芳子。どちらも「鍵」は「自然な男」が開けるものと思い込んでいる。(208P)
と二人の関係が描かれていて、この二人の生活には「制度」としての弱さと異性愛を「自然」と考える傾向という二つの弱さがあったと見える。事実、芳子自身の述懐として、二人の間にはないこともなかったけれども、性愛的な結びつきは薄かった旨の言葉もある。お互いの愛にはややズレがあった。民間の女性としては初めてソビエトに行くことになる直前も、芳子が暴力を振るったり、かなり関係は難しくなっていた。百合子の父の知り合いが日露協会会長だった後藤新平で、彼に頼んであっさりと許可をもらってモスクワに着くけれども、百合子は黙って片山潜と会うなど、思想にもズレが大きくなっていく。利己主義者で「女」の問題を考え続けた「自覚しないフェミニスト」湯浅芳子と、社会主義ソビエトを理想化し愛他主義的で「女」らしい愛想の良さを見せてしまう百合子とで、さまざまな違いはもちろんあった。それでもその違いを超える愛情の強さが二人の間には確かにあった。著者は、「男らしさ」に跪いてしまう百合子とされる側に自分を置こうとする芳子の二人の様子から、「男社会が女に課す女性嫌悪の装置」の存在を抉る。女性だけの生活だからといってそれとは無縁でいられるわけではなく、強固な性差別が女性自身にも女性嫌悪を内面化させてしまう。それでも、本書はお互いがお互いから得たものが何かを指摘する。
百合子が芳子にもらったものは、何よりその独立心と女としてのプライドであった。「男」との関係がいやがおうにも引き出す女の弱さ、それに打ち克つ術を百合子は芳子との生活の中で手にしたはずであった。
――中略
芳子が百合子にもらったものは、向上心と不断の努力、それらのもたらず自信だ。あきっぽく、ともすると無為に流れがちな芳子が、百合子の存在なくして自分のライフワークを見いだせたとは思えない。
――中略
ふたりは社会が女に押しつける、あらゆる不条理に手をたずさえて挑み、自らの全体性をまるごと取り戻そうとしたのである。(286-7P)
著者は芳子に人生で愛した人を三人挙げるとすれば誰か、と訊くと「百合子。それから、セイの順やな。三人目からは同じようなもんや」と答えたという。湯浅芳子のなかでの百合子の存在の大きさが窺えるエピソードで、本書の描くものが湯浅芳子の青春だという所以でもあろう。1990年2月刊の文藝春秋版の本書が出た八ヶ月後に芳子は93歳で亡くなる。多々引用されるように宮本百合子は『伸子』はじめ自伝的な小説で二人を描いているけれども著者は「歪められ」ているとやや批判的だ。湯浅の側からの証言を多々含んだ本書はその意味で貴重な一冊だろう。余談だけれど、ロシアでのエピソードはいろいろ面白くて、秋田雨雀や米川正夫と会ったり、彼らにも直言をして顰蹙を買ったり、あるいはトルストイの末娘がレズビアンで女性の恋人を伴って二人と出会ったエピソードなども面白い。学生時代の芳子の知り合いが五人も自殺した、ということに当時の女性の置かれた厳しさが窺える記述などもある。湯浅芳子がロシア文学を志したのは、ドストエフスキーを読んで、ということで、前項との奇妙な繋がりがある。
参考文献
平林美都子編著『女同士の絆 レズビアン文学の行方』
- 作者:平林 美都子
- 発売日: 2020/04/07
- メディア: 単行本
「ユリイカ 特集=百合文化の現在」2014年12月号
- 作者:ヴァージニア ウルフ
- 発売日: 2015/06/10
- メディア: 文庫
詳しい紹介はリンク先で。ジュエット、ウルフその他の英語圏のレズビアン文学のアンソロジー。ジュエットはこれで読まなければ作品集も買わなかっただろう。北原みのり編『日本のフェミニズム』、日比嘉高編『図書館情調』 - Close To The Wall
以前ブログで紹介したこのハンドブックには、柚木麻子のシスターフッドについてのエッセイや、沢部仁美のレズビアン運動についての文章が載っている。二人はこれをきっかけに興味を持った。リンク先で触れているように、興味深いのは沢部の文章ではレズビアンの定義を「女と生きる女」としている部分で、セクハラ的な言及がされやすいイメージを、外形的な生活面から定義することでずらしていく戦略に思える。