パウル・ゴマ『ジュスタ』


ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。著者は今年、亡命していたパリでCOVID-19によって亡くなった。本文に執筆年があっても刊行年がどこにも書かれていなかったので英語版Wikipediaを見ると、ルーマニアで1995年に刊行という情報があった。革命以前は発表されなかった作品ということだろう。

主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちに、おそらくはルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。

このトリアという女性は「ジュスターリニスト」(この言い方は元々あったようだ)を縮めてジュスタと呼ばれており、「ほら、ジュスタだ!」というフレーズが多くの章の書き出しで反復され、繰り返しこの名を読者に刻む。85年、著者と同じくパリにいる現在時から、ジュスタと何度も遭遇しつつも後ろめたさゆえに出くわすのを避ける、という幻視?が語られ、現在時と56年当時のほかにも複数の時間軸が回想のなかに現われる。

複数の時間軸が語るのは、全体主義、独裁的な社会では、つねに言葉が裏切りとともにあるということだ。ある詩人へのまったく逆の評価が同じ人間の口から出てきたり、詩人の活動の空白期間や没年は出ても場所や状況が伏せられ、前言との矛盾を指摘されると酒に酔っていたといってうやむやにする。階級への裏切り者は拷問を受け、チクり屋は後年同級生と再会した時にワインを頭から掛けられる。

主人公たちは作家批評家養成学校で学ぶ学生達で、53年にスターリンが没し、56年のスターリン批判以後、ポズナン暴動、ハンガリー事件と続く1956年の状況下での反ソ連の動きに連なろうとする主人公が学生煽動で逮捕されているけれども、詳細に語られるのはそのことではない。そうした事件の影で、主人公が見ていない場所で、ジュスタが裏切り者としてセクリターテに拷問されていたということを知人から伝え聞く場面がとりわけ丁寧に描かれている。「正義屋」、お目付役、スターリニストと呼ばれていたジュスタだけれど、規律に厳格な風でいて告発に横やりを入れたり、主人公が告発された時に助け船を出したり、正義というあだ名はまったく正しい形容としての姿が見えるようになる、その挙句のことだ。

ジュスタから拷問の話を聞いたディアナは叫ぶ。ナチのユダヤ人、ジプシー、ウクライナ人を殺し焼いたことを非難する声のなかに「ユダヤ女、ジプシー女、ウクライナ女のことは聞こえなかった」、「反人類的犯罪だ! でも間違っても反女性的犯罪という言葉は聞こえなかった」と。長くなるけど、その下りを引用しておく。

「先へ進もう、わかったよ、十分……」
「十分……十分? もう十分! 私もそう言っていたわ、私もそう叫んでいたわ、ポンプで注入された時、ホースの水で膨らまされた時――でもその時叫びまくった、ほとんど歓喜のうなり声で、心の底から吠えていた――それは純粋な苦痛だった、それは涙のような透き通った屈辱だった――苦痛と凌辱と腹裂き――私たちはそれを知っているの、イヴの時から承知しているのよ! 知っているのよ、神か悪魔が私たちを、話によると、君らの肋骨から引き抜いた時から、そうして、君らは、男は、そこがそのままでいるのに、私たちは、女は、空っぽで一杯……。いいですか、あんた、みんなが至る所で叫んでいる、怒鳴っているのが聞こえるわ―――“忘れまい、ナチの悪業を! ナチが数百万のユダヤ人、ジプシー、ウクライナ人をガスで殺し、焼いたことを忘れてはならない……” 大いに結構――忘れてはならない! でも私に何が聞こえなかったか分かる?――せめてたまにでもよ? ユダヤ女、ジプシー女、ウクライナのことは聞こえなかった!  そうして、いいですか――犠牲者のほぼ半分が“女性要素”一ですよ。同意します――残虐の限りだ! 同意します――反人類的犯罪だ! でも間違っても反女性的犯罪という言葉は聞こえなかったわ! なぜなの? なぜならば判事も、検事も、歴史家も、年代記作者も、まずは男性だから? でもいがみ合いを、戦争を、大虐殺をひきおこしたのは君らよ、男性よ! 君ら――たとえ君らが、“めんどり”を探さねばならないのだと、ヘレネがトロイ戦争の原因だったと言い張ろうとも! でもやっぱり君らは最後の一人になるまで殺し合うしかない、その最後の一人と一緒に私たちはもう少し馬鹿じゃない新しい人類で地を満たそう。どうして君らが、男たちが殴り合って、そうして私たちが、女が打撃を引き受けるの? それもなんたる打撃を……。一つ馬鹿なことを言いましょう、多分、多分不当な言い方でしょう、でも言うわ――百人の男性が受ける拷問は、全部合わせてたった一人の女に対する“パンティを脱げ!”にも足りない!――君もパンツを脱ぐ――仕方がないから、それはそうでしょうとも……何のため? 君をどうしようと? やるため? 犯すため? 回すため? いやいや、ただお尻をぶっ叩くだけ……」154-156P、強調原文

ここにいたる下りでは、ディアナがジュスタのことを話そうとすると、主人公がもういい、言わなくても分かる、と言って、ディアナがそれに激怒するくだりがある。

「分かった、その話はやめて……」
「いいわ、やめましょう……。いえだめ、やめない――なぜやめるの?」 ―そうしてディアナは猛然と巨大になって立ち上がる。
「想像できるから……」と言おうとする。
「想像できる――くそったれ!想像のくそったれ!」
 ディアナのこんなしゃべり方は一度も聞いたことがなかった。たしかに、最後に話してから長い歳月が過ぎてはいる。
「想像するって! もういい加減にしてよ! 旦那の努力は超人間的、でも、多年にわたる戦いの末、大の大成功を収める。想・像・力! ブラボー! おめでとう!」151P

「想像力」への痛烈な批判。ディアナの意図以上に、作家批評家を養成する文学学校やブカレスト大学文学部を舞台にした今作がこうして想像力という言葉を批判していることは重要に思われる。さまざまな人名が実名で出ているということは、署名を断った大物など、当時の状況とそれを見ていた文学者たちへの批判的意図もあるだろうからだ。

本作が主人公の逮捕投獄についてほとんど紙幅を割かずに、終盤にこうした女性からの伝聞のかたちでジュスタのことを聞く構成になっているのは、男はその場面を直接目撃することはできないという不可視の女性への暴力を、男の語り手から反省的に捉え返すための仕掛けになっている。最後にはジュスタ視点からの直接話法になるけれど、それもディアナからの伝聞がベースになっている形式だ。

解説に、ジュスタ以外の登場人物、事件は「実名・事実そのまま」らしく、ジュスタが実在したものかどうかわからないけど、フィクションあるいは仄聞した何か、についてのものだとすれば、自伝を書きつつ自伝では見えていないものをあえてメインに設えた、という自己批判的な試みが込められていることになる。

「さあミスター! 目を覚ましたら! なぜそうやって、目をつぶったままでいるの?」171P

「ほら、ジュスタだ!」と繰り返され、パリでジュスタを見つけ、出会っているのは果たして現実なのだろうか。目を開いて、ジュスタを見たのだろうか。


この頃の事情について用語解説を先に読むよう断り書きがあるように、状況や時間軸が分かりづらいところもあるけれど、終盤の迫力には圧倒される。

表紙はジュスタの文字をピンクの丸が囲ってあり、その周りを黒が覆っている。全体主義社会のなかのジュスタ=正義そして女性、のありようをシンプルなデザインにまとめたものだろうか。読み終わって本を閉じると表紙には既に作中の出来事が暗示してあることがわかってぞくっとした。