最近読んだ本

倉数茂『忘れられたその場所で、』

東北の町で拘束・絞殺された死体が発見され、刑事が事件を追ううちに近代史のなかで忘れられた排除と暴力の歴史が浮かび上がる社会派ミステリ。著者が発表している七重町シリーズの三作目にあたるけれども、作風を仕切り直しているので主軸を楽しむにはここからでも問題はない。

端正な警察小説という感じで不可思議な殺人事件、意外な線から広がる背景、その名前はさっきどこかで……というのが繋がっていくミステリとしてのリーダビリティを持ちつつ、ハンセン病隔離政策の問題を拾い上げ、身体障碍者を弟にもつきょうだい児の刑事を主人公として語っていく。同じく七重町を舞台にした『黒揚羽の夏』、『魔術師たちの秋』に続く三作目で、これらも戦後日本の「過ぎ去ろうとしない過去」を扱っていたけれど、前二作はジュヴナイル幻想ミステリという風合いで子供達が主人公のシリーズだった。引き続き千秋と美和は登場するけれど、大人を主人公に仕切り直した形となる。

 「秋」が出たのが2013年で続きが出るのに八年掛かっている。おそらくこうしたテーマを語るのに少年達を主人公にしたままでは難しかったからではないか。連想したのは作者の前作『あがない』で、タイトル通りの過去の贖罪というテーマが、土地の歴史という七重町シリーズのそれと合流した形に見える。土地の歴史と主人公の過去の罪とを重ねる今作の構成こそがジュヴナイルスタイルで続きを書くことができなかった理由だろうか。私自身も読んでから八年経っているので前作の内容をほとんど忘れてしまっているけど、高校生になった美和の幻視や、大学生になった千秋の行動はそちらから続いている。夏、秋から続く「七重町の冬」とも言える今作だけれど、持ち越した内容からして「春」が書かれると見て良いのだろうか。倉数作品と言えば水のエレメントで、夏の水たまりや秋の書き出しにある水は今作でも雪として冒頭から現われ、地下に流れる水という不穏さの象徴としても出ていてやはり、と思った。

佐久間文子『ツボちゃんの話 夫・坪内祐三

表題通り坪内祐三と20年連れ添った妻が語る氏の人となりや生活そして人間関係が種々語られていて興味深いのとともに、還暦以来怒りっぽくなり喧嘩が多くなったという晩年に対して、楽しかったことを思い出してその印象の塗り替えるためにも書かれたという一冊。

夫への追悼でもあり、雑誌出身の坪内祐三と新聞記者出身の著者との双方の視点での出版業界の内幕でもあり、時に共同編集のようにもなってた二人の仕事の裏話や前妻との話。特に印象深い三冊に『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』『『別れる理由』が気になって』『文学を探せ』が挙がっていて、『『別れる理由』が気になって』は私も雑誌連載始まった時におお、と思って本も買ったのに小島信夫のほうを読んでからと思って10年以上積んだ宿題になっているのを思いだした。坪内祐三、断片や記事をちょいちょい読んでるけどまとまってはあんまり読んでこなかった。

独自のルールに強いこだわりがあり理不尽に急に怒り出すことがあるというのは著者も「器質的な」ものだろうという通りに思える。それと酒の飲み過ぎとかいろいろ。歯科医を除いて病院嫌いで自分から病院に行ったのは妻が知る限り一度だけ、というのはかなり危ういと思った。病院行くのを避けるために自分の不調も隠していたんじゃないかと思えるからだ。私の隣室に住んでいた老夫人から朝、夫が朝寝床で冷たくなっていたと言われたことがあって、奥さんは夫は病院にほとんど行ったことがない、と言っていたのを思い出す。そういう人は無理な我慢をして急に亡くなってしまう印象がある。

方向音痴が凄かったという話があって偶然の場所に行き着くことや、書店街を歩いていて偶然人と出会うとか、雑誌といういろいろなものが偶然出会う場所というのが重要なのかな、と思う。慶応三年生まれの同時代性とか、横の広がりへの関心。ゴシップ好きと人間オタク。英文科の修士まで行った人で、『変死するアメリカ作家たち』というのを未來社の「未来」に連載していたというのは知らなかった。明治文学の印象が強かったので英文学やってた人という印象がなかった。亡くなるときでも20の連載を抱えていたというのはすごいしそんなに書けるのはそれだけの読む量があるわけで読むのも書くのも遅鈍にすぎない私には到底想像しえない領域だけど、そんな彼にも私が一つ勝ってるところがあって、私はまだ折りたたみ携帯を使っているということです。

単著の一つもなく知り合いというわけではないはずの私に本書が献呈されたのは不思議だと思っていたけれど、文中の坪内氏の返礼を期待しない振る舞いを読むとなるほどそれに倣ったのかなと思うのと、夫のことを忘れないでいて欲しいという意味があるのかなと思った。面白い一冊でした、ご恵贈ありがとうございます。

G・K・チェスタトン『裏切りの塔』

「信仰と同じように、懐疑も狂気であり得ると考えたことはありませんか?」

中短篇四作と戯曲を収める南條竹則による新訳作品集。なかでも「高慢の樹」と本邦初訳の戯曲「魔術」の迷信や超常的なものを否定する合理性や理性の高慢を批判する長めの二作が面白かった。合理主義や無神論、科学主義的な思考が、一見不合理に見える現象という現実を拒絶して狂っていくもう一つの「信仰」ではないかと問う。

「高慢の樹」は奇妙な植物による怪異をめぐっての物語で、中篇の長さでなかなか込み入った展開をしていく密度のある一作。推理小説で理性を懐疑するという逆説が効いている。

チェスタトンの文章はなぜか普通の小説の倍くらい読むのに時間がかかるんだけど「魔術」は戯曲形式で読みやすい。妖精話を信じる姉とアメリカ帰りの合理主義者の弟という英米の構図に奇術師が絡んでその対立を描くんだけれど、御伽話をめぐって最後にハッピーエンドになるのがとても良い。「幻想的喜劇」という通りだ。「狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」という作者の言葉が解説に引かれている。

ほかに「剣の五」は息子が放蕩とギャンブルの挙句の決闘で殺された、というところからの真相の解明がちょっとしたロマンスに帰結するあたりはすっと読める。表題作はハンガリーの辺境にある「トランシルヴァニア王国」を舞台にしてるけど、この設定、「スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国」という国を作ったデヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』を思い出させるし、あっちの人もあそこら辺に架空の国作りがちなのがわかって面白い。

違星北斗歌集『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』

27歳で病没したアイヌ歌人の短歌のほか、俳句、詩、童話、その他散文や友人と作った同人誌一冊まるごとなど、さまざまな文章を山科清春の丁寧な註釈、解題、解説によって、北斗の思想的変遷のなかでの位置を把握できる決定版的な一冊。

『コタン』という遺稿集が過去数度出ていたけれど本書では編集を全面的に見直し、発表年月を付して時系列順に並べることを基本とし、さまざまな誤りも訂正したものになっているという。年譜も付された資料的価値の向上とともに「同化」についての解説など、現在のアイヌ差別への奪用をも批判する。大和民族=シサムから差別され、和人許すべしと燃えた頃から、親切な人に触れて態度を転換し、和人への同化ではなくアイヌとして日本人になるべく覚醒を呼びかけた思想的変遷がたどられた解説は必読。その思想を見ずに「同化」の一語で同化肯定派とするアイヌ差別者の理解がいかに転倒したものか。

北斗は「鮮人が鮮人で貴い。アイヌアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向かって伸び行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう」239Pといい、アイヌということを隠して和人化することを批判し、多民族共生の夢を語った。

短歌も、アイヌへの檄や和人批判、薬の行商人として歩いた経験を歌ったもの、病床の苦しみや、日記の最後にある「世の中は何が何やら知らねども死ぬ事だけはたしかなりけり」まで。

印象的な歌としては、副題にとられた「アイヌと云ふ新しくよい概念を内地の人に与へたく思ふ」がある。北斗の歌には「シャモと云ふ小さな殻で化石した優越感でアイヌ見に来る」「シャモと云ふ優越感でアイヌをば感傷的に歌よむやから」といった和人批判のものがあるけれど、そうした蔑視としての「アイヌ」を「よい概念」として内地に「与へたく思う」という優越感の切り返しが鮮やかに響く。

短歌のなかで音の面で印象的なものが一つある。「熊の胆で助かったのでその子に熊雄と名附けし人もあります」。これは五七五七七じゃなくて五七七五七、になるのかな。普通の文章みたいな自然さなのに区切りが妙でなんだこれはと字数をいちいち数えてしまうようで面白かった。

ハンディで手に取りやすく周到な編集が施されていて、私もだけれど名前は有名なのに断片的にしか知らない、という人にも勧められる一冊になっている。

ロバート・シルヴァーバーグ小惑星ハイジャック』

64年発表の作者の初期の長篇。小惑星探鉱に繰り出した主人公が金になる鉱脈の星を見つけて帰ったら登記申請どころか自分の存在が記録から消される陰謀に巻きこまれ、という話を200ページ以下の分量で一気に語りきる古典的SF小説の佳品。

伊藤典夫訳ということではジャック・ヴァンスの『ノパルガース』も大家の短い長篇ということで思い出すもので、ヴァンスはB級感あふれる独特の一作だった覚えがあるけどこちらは短いなかに謎とサスペンスと出会いと別れというジュヴナイルの匂いも感じられるような良さがある。

SFファンにはエースダブルの片割れ(『ノパルガース』の後書きでも訳者はエースダブルについて語っている)として書かれたというとイメージが伝わりそうな、あえていえばベタで古い宇宙SFなんだけど、こういう新奇性があるわけでもないSFを読むのも楽しいなというのを思い出させてくれる。

ゴールドラッシュにもなぞらえられた探鉱に繰り出す、自由と一攫千金を夢みる男と帰りを待つ婚約者と、という構図で描かれる宇宙がアメリカSFを感じさせるけれど、巨大企業が世界を支配する姿に訳者は現代中国を示唆しており、主人公の独立と自由を求める姿に現代性を見ての訳出だろうと思う。

シルバーヴァーグ、実は長篇を読むのは初めてだったりする。『時間線をのぼろう』は積んでる。小説工場の異名を取る多作家で、あなたにはスランプがないのかと聞かれ、15分ほど書けなかったことがある、と応えたというエピソードには唖然とさせられる。

キジ・ジョンスン『猫の街から世界を夢見る』

ラヴクラフトのドリームサイクルものを下敷きにしたらしい世界幻想文学大賞中篇部門受賞作で、夢の国から逃亡した女学生を追う数学科教授の女性が世界を経巡る旅を描いて、世界を変える夢を見るフェミニズム小説にもなっているファンタジー

距離が一定ではなく空に星が97しかない、われわれにとっては「夢の国」の世界の街、ウルタールの女子大学で数学科の教授をしているヴェリット・ボーがある時、担当している女学生が「覚醒する世界」、いわゆる「現実」からきた男に連れられて向こうの世界に出奔してしまったことを知る。そしてヴェリットは女学生を探しに「夢の国」を縦横に旅し、さまざまな光景や危機に際しながら「覚醒する世界」を目指すことになる。いまや55歳になったけれども若い頃には危険を顧みずに世界を旅した経験があり、その頃のことを思い返しつつの再びの旅路は己の人生を顧みることにもなる。

本作はこうした異世界の旅を描いているけれども、「夢の国」と「覚醒する世界」のギミックなど、女性の不在を指摘されているラヴクラフト作品を女性の視点から読み換える意味があるように思われる。「いつになったら、女は男の物語の脚注以外のものになれるのか?」158Pとあるように。数少ない女子が通う大学が出発点で、数学科教授の女性が主人公で女学生が「覚醒する世界」へと出て行ったという始まりからしてかなりフェミニズムを意識しているのがわかるし、本作では夢見られた世界「夢の国」が気まぐれな神々が街を破壊したり父祖の因縁に囚われる固陋な世界としてある。そして邦題の「世界を夢見る」や原題のThe Dream-Quest of Vellitt Boeのドリームクエストというのは、夢の世界の探求というだけではなく、自由な解放された世界を夢見るという意味も込められたものじゃないだろうか。目覚める、というと啓蒙的な意味でも。

さらに、夢を見るというのはフィクションを読むことでもあり書くことでもあって、作者と同い年の主人公が若い頃の旅を回想しつつ旅しているというのは、ラヴクラフト作品を熱心に読んだ若い頃と今との関係でもあり、本作は小説を読むことと書くことを夢の多義性において書いた小説でもある。

私はドリームサイクルものの作品を読んでないけれども、幻想的な異世界を旅するファンタジー小説の面白さだけではなく、そうした夢見られた世界から覚醒する夢を見る現実との接続の面でもなかなか面白い小説だった。文字大きめで200ページちょっとの短い長篇のサイズ感も良い。

猫の街、カルカッソンヌって地名が出てくるけど、「ナイトランドクォータリーvol.19 架空幻想都市」でダンセイニとフォークナーのが訳されていたのを読んでたので、予習したところだ!ってなって、解説みるとなるほどラヴクラフトの初期作品がダンセイニの影響がある件の示唆なのか、というのがわかる。

玩具堂『探偵くんと鋭い山田さん2』

探偵の息子の高校生が隣の席の双子姉妹と探偵の真似事をやるミステリラノベ第二弾。てこ入れくさい水着表紙はどうかと思うものの日常学園ミステリでの相談者らの事情が主人公たちチームのありようにも重なり、死を近くに感じてしまうような虚無感のなかで前を向いて生きていく理由って何なのかみたいな思春期の悩みに焦点を当てて、三人のユニットがその虚無感を脱して楽しさを見出す場所になっていくのがかなりいい。

ネトゲのプレイヤーと会って誰がどのキャラをやっているのかを当てるゲームや、この高校の文芸部員だった教師が昔原稿を隠された事件の犯人は誰だったのかという謎、フォローしてるインスタグラマーが自殺しそうだというのでその人を探し出して止めて欲しい、という依頼の三つの事件が舞い込む。

どの話も総じて、前向きに生きていくことをめぐるテーマを持っていて、失意によって夢を奪われた経験から立ち直って新しい目標を見つけたり、生きている理由がわからなくなったり、あるいは誰かと一緒なら前を向ける、ということだったりの心情はすべて探偵ユニットたる主人公たちにも重なってくる。処世に長けた甘恵のほうがある種の虚無感を抱えているわけだけれどそれが主人公との出会いで「探偵」という楽しさを知ることができたというのは雪音のほうもまた「探偵」が自分の存在価値をめぐる試みとしてある、というのも青春小説だなって感じ。人の隠したい事情を追い回すことでもあるけど人に向き合う契機でもあるという感じに「探偵」を位置づけるのはわかるけど、謎は自然科学でもよくない?とは思う。まあミステリだしお悩み相談ものに近い設定ではあるから無粋か。ネット小説投稿サイトがカクヨムしか出てこないの笑った。

双子姉妹が存在するとそれだけで百合だっていうセンサーが反応してしまう。じっさい、双子だけどお互いへのコンプレックスやライバル感情のありようは結構そうだし姉妹との三角関係だしそれっぽくはある。公式ツイッターが二巻発売した翌月以降更新してなくて売り上げが続巻ラインを超えられなかったのかなって思った。もう何巻かやってもらいたいけど。帯で告知されてたコミカライズもどうなったのか。

発売した月に探しても近場の書店になくて、色々探したら小口研磨されたやつしか見つからなかったラノベが最近二つあるんだけど、続刊するのか不安になるな。

トネ・コーケン『スーパーカブ

天涯孤独で趣味もない女子高生がカブを手に入れた生活を描くラノベ。漫画版を知っててアニメ見た時その違いに驚いて一回原作読まないとなと思って読んだ。カブを手に入れたことで広がる世界の描写は良いんだけど、小熊のカブ主義化が説得的に描かれていないと思う。

地の文は三人称で小熊自身のモノローグが直接書かれることはない。だから地の文でのカブや地理についての知見は必ずしも小熊自身の思考ではないと読めるんだけれど、結局そこが曖昧になり随所で語り手と小熊が一体化している感じになる。マニアックなカブオタクが憑依しているような。私は免許もバイクも持ってないので、小熊がバイク屋でカブを見た時、走行距離が500kmというのを「しか走っていない」という判断をしているのに、え、そうなの?と驚いたし、時折現われるカブは世界で最も優れたバイク、というのも根拠なく当然の前提のように出てきて首を傾げざるをえない。

堅牢さ、普及台数、その他カブが名機といっていい機種なのは理解できるけど、小熊がもし金持ちでも別の土地に住んでても自分はカブに乗るだろうと思う箇所があっていつのまにそんな?って思う。ここに主観と客観、あるいは作中人物と作者の思考の混濁があるように思う。三人称で小熊自身との距離を持っていたように見えて、女子高生が最初のバイクで体験するあれこれと作者自身のカブ観がごっちゃになってるように見えるし、パンク少年のエピソードなどこだわりとマウンティングを取り違えてるようなところもあってちょっとどうだろうなと。

カブのような普及しまくったものにあえてこだわるのは結構なマニアだと思うんだけど、偶然カブを安価で手に入れた他のバイクに乗ったことのない初心者がすぐそういう価値観を共有しているのは、礼子の存在や小熊の境遇を考えてもやはり、いつのまにそんなにこじらせたんだと思ってしまう。最初のバイクに愛着を持つこととカブというバイクが優れている、と思うことは違うし、カブ乗りに仲間意識を持つのはわかるけど、それが「優れた機械」という選民意識と繋がってるのがどうにも厳しい。アニメでここら辺とパンクエピソードを削ったのは妥当だろう。パンク少年蹴を飛ばすのはナンパ行為よりカブ乗りとしてこいつはダメだという見下しなわけで。小熊の話を読んでたはずが作者の偏狭なこだわりを読んでる気分になる。アニメはそういう臭みをかなり抜いていた。別にキャラが偏狭なこだわりを持ってても良いんだけど、それが客観視できてない感触が強い。

アニメで削られたのはエピソード単位だと修学旅行行く途中のパンク少年の話と、その前に自力でパンク修理するきっかけになる道に釘埋めてたそば屋の話と、ピクニックの話か。漫画、アニメ、原作小説とメディアミックス三種全部目を通したのなんて他にあったか覚えがないけど、これやると個々のメディアの違いがわかってなかなか面白い。スーパーカブは実は漫画版のほうが一番印象が違うかも知れない。漫画的なコミカルさがあるから。