アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』と『ノーホエア・マン』と『愛と障害』など

松籟社の〈東欧の想像力〉シリーズにエクストラとしてエッセイ集が出ると聞いて、そういえば出た当時話題になってたけど読んでなかったアレクサンダル・ヘモンの第一長篇からはじめて結局既訳書を全部読んだ。

『ノーホエア・マン』

アメリカ滞在中にボスニア紛争によって故郷サラエヴォに帰れなくなり、そのままシカゴに残って英語で書くようになったボスニア出身の作家による第一長篇。作者とも似た境遇の青年の人生を様々な語り手から描き出し、その技法に故郷を離れた人間の分裂的な様相を埋め込んでいる。これはだいぶ良かった。

紛争の悲惨なニュースが届く国外の生活と、故郷でバンドをしたりしていた青春時代を描きつつ、そのどうしようもない分裂というのがおそらく謎の語り手「私」と「ヨーゼフ・プローネク」という主人公とに引き裂かれ、100年前のスパイとも結びつけられていく。プローネクの名も、キエフで彼に恋心を抱くシェイクスピアクィアリーディングを研究しているゲイの名前もが最終章の実在のスパイのくだりに埋め込まれており、亡命者とスパイとを名の複数性において重ね、さらにメタフィクション的な虚実の皮膜のなかに折り込んでいく手の込んだ相対化がある。

スラヴ圏からアメリカに来て英語で書いた作家と言うことなどでナボコフの名前が出ることも多いけど、今作の内容には『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』的な分身的な語りを連想した。ディック『暗闇のスキャナー』なんかも。書き出しの「別人になる夢」やシャム双生児の話が出てくる一章はかなり露骨に分身の示唆がある。

最初の章でボスニアから亡命してアメリカで英語教師の職を探している語り手「私」が同郷のプローネクの姿を認める一章から、サラエヴォで親友とビートルズの楽曲を演奏したり、詩を書いていた青春時代、プローネクの父の故地ウクライナキエフブッシュ大統領の演説を聴き、アメリカでグリーンピースに職を見つけ寄付金を募りながら色んな人と出会い、恋人に始終英語の定冠詞や助詞の文法ミスを指摘されて、バケツで水に沈められるネズミを目の当たりにして怒りが爆発するくだりなどの移民プローネクの人生とともに、故地ボスニアでの惨劇を親友からの手紙で知るやるせなさも描き込まれる。

亡命地アメリカでお前は誰だと問われて、毎回違う人間、「誰でもない人間」に成り代わることが、語りの形式に捉え返される。タイトルや二章の表題「イエスタデイ」はサラエヴォ時代のプローネクがバンドをやっていた頃に演奏していたビートルズの楽曲に由来する。

副題に「プローネクの夢想」とあり、そういえば

分かちあえない記憶は夢想になり、ささいなことがらにあふれた人生は伝説になる。51P

という印象的な一文があって、ささいな描写と分かち合えない記憶というのが本作の骨子のように思えてくる。

『私の人生の本』

〈東欧の想像力〉のおそらくはノンフィクションを扱うスピンオフシリーズ〈東欧の想像力エクストラ〉第一弾はヘモンの自伝的エッセイ集。母国語と英語、戦争の前と後、サラエヴォとシカゴなど幾つもの分裂において、それでも物語ることを選ぶ「人生」の諸相。本書原題はThe Book of My Livesとあり、所収エッセイの半分ほどにLife、Lives、人生、生活と言う言葉が表題に入っている。

妹が生まれた子供の頃のこと、新聞の文化面の記者として活動していた頃のこと、山小屋にこもって本を読んだ生活、家族の食卓、飼い犬をボスニア脱出にも同伴させた家族、内戦が始まり友人が民族主義を煽りファシストとなったことや、ボスニアを離れシカゴで暮らし始めサラエヴォとシカゴの都市の違いに直面したこと、信仰のように毎週土日にサッカーの試合を開催する男、父親とのチェス、そして生まれて九ヶ月の娘が闘病の末亡くなるまでの著者のさまざまな人生が描かれる。

最初に書いたようにこれらのエッセイに散見されるのは分裂、引き裂かれてあること、複数のもののあいだにあるということだ。とりわけ本書表題エッセイ「私の人生の本」(原題ではLife)は、『ノーホエア・マン』の直後に読んだので、わずか数ページの文章なのにとても重い一撃を食らった気分になった。シェイクスピア学者のニコラ・コリェヴィチ教授はヘモンが文学の指導を受け、エッセイのライティングを教わった恩師といっていい存在だった。しかし

コリェヴィチ教授はラドヴァン・カラジッチ率いる悪意に満ちた民族主義政党であるセルビア民主党の幹部になった。111P

かつて教授と同じ道を歩きながら肩に手を置かれたことに「境界を越えてくれた」親密さを感じた後、人種差別を煽るカラジッチの隣にいた教授と記者として境界を挾んで対面する。著者は教授の「ジェノサイド的な傾向」に気づけたのではないかと悩み、「悪」に影響を受けた可能性に苛まれる。上で『ノーホエア・マン』は「手の込んだ相対化」がなされていると書いたけれど、これを読むとその理由がよくわかる。自身の故郷、人生の分裂とともに、それを語る文学、芸術自体に「悪」、内戦への加担の契機がないかということがおそらくはあのメタ的な構成を必要としたわけで、そのことには気づかなかった。

また、コリェヴィチ教授の授業ではニュークリティシズム的な立場から詩を分析し、テクスト以外の作者の伝記的背景や政治的立場を排除して読むことを学んだという。そして芸術のなかにぬくぬくしていれば歴史や邪悪から逃れ果せると信じていたことが、いまの彼の「ブルジョワ的戯言」への憤りとなっているという。作者や政治性を排したテクストの分析という方法がそれまでの読解への抵抗的スタンスではあるにしても、ここで著者はそうした脱政治的な文学理論が「悪」に加担することとどこか繋がるのではないかと危惧しているわけだ。

本書にはサラエヴォがいかに著者の内面と切り離せないものかが描かれてもいる。

当時の私は、知覚と表層、嗅覚と視覚を収集し、サラエヴォの建築物と相貌を完全に内面化した。しばらくして、内面は外面と切り離せないことに気づいた。肉体的にも、精神的にも、私はところをえたのだ。122P

そしてアメリカで、サラエヴォで破壊された建物の写真を渡され、場所を特定する「死体の身元確認のようなもの」をしていた経験。写真をばらまいたように心が乱れる、という歌があるけれど、そんな破壊されたサラエヴォを見て、「もし心と街が等しいのなら、私は心を失っていたのだ」(134-5P)と書いている。

移民がおかれた状況は、自己他者化にもつながる。故郷喪失がもたらすのは過去との――かつて別の場所で存在し、行動していた自己との関係の希薄化である。つまり、その場所で自分をかたちづくっていた性質と交渉の余地がなくなってしまうのだ。移民は存在論的危機である――なぜなら、不断に変化する存在論的環境のもとで自己のありかたを交渉しなくてはならないからだ。故郷を失った人間は、ナラティヴの安定を求める――これが私の物語だ!――それは、理路を整えたノスタルジアのかたちをとってあらわれる。24P

故郷喪失者の安定したナラティヴへの欲望とともに、そのナラティヴを記す文学という方法への不安が入り交じったところに第一長篇のあの構成があるのかも知れない。


最後に置かれた「アクアリウム」は希少難病に罹った九ヶ月の娘にまつわる長めの文章で、夫婦と三歳になる長女とでその状況に直面した様子が描かれている。「非定型奇形腫様ラブドイド腫瘍」という病名で、三歳未満の生存率は10パーセント以下だという。幼児に行なわれる度重なる手術、急変する容体に振り回されるなか、ふと他の人たちとまったく違う世界に住んでいる、自分たちはアクアリウムのなかに閉ざされていると感じる。そんななか妹とも親とも引き離されがちな長女エラはイマジナリーフレンドを作り出し、さかんに会話を始めた。

ミンガスと言う名になったその想像上の友達はエラの言語能力の向上に寄与し、慰めにもなり外界からの情報を処理するツールにもなっていた。作家でもある著者は、架空の登場人物たちや物語というものが、理解できないものを理解し、言語を生成し吸収するプロセスと結びついていると分析する。

物語の想像力(ナラティヴ・イマジネーション)――ひいてはフィクション――は、生き残るために必要な進化論的手段だった。私たちは物語を語ることで世界を紡ぎ、想像上の自分とつきあうことで人たる知恵を生み出したのだ。217P

アクアリウムという断絶、イサベルの死という喪失を語る言葉。内戦と亡命を小説で語った著者が、子の喪失と外界との断絶のなかで言葉、物語とは何か、を問いながら言葉にしているのが「アクアリウム」だろう。本書は先に引いた「他者の人生」の一節ともども、さまざまな人生の分岐、分裂のなかで物語ることや「私」とは何か、が問われ続けている。

宗教の一番卑しむべき誤謬とは、苦難を貴いもの、啓示や救済に至る道の第一歩であると説くところにある。イサベルの苦難と死は、あの子にとって、私たちにとって、世界にとってまったくの無価値だった。イサベルの苦難の対価は、その死だけだった。学ぶ価値のある教えなんてなにもなかった。誰かの益になる経験なんてなにも得られなかった。222P

ボサナツ(ボスニア出身者)ではあってもボシュニャクボスニアムスリム)ではないというのがヘモン及びその作品の語り手の属性だけれど、それはこんなところにも顔を出している。

本書は『ノーホエア・マン』がなぜあのような分身的でもある複数の視点から描かれたのかということのヒントにもなるし、解説にある、本書の表題が複数形なことの理由を問われて答えた、アイデンティティとは中心や本質ではなく複数の人生の可能性が実践できる領域だという言葉も印象的だ。

ヴェバにあちこち見せて、シカゴについて、エッジウォーターでの私の生活について話をするうちに、私の移民としての内面はとっくに、アメリカという外面と混ざりだしていたんだと気づいた。シカゴのかなりの部分は私の中に入ってきて、そこに居ついてしまっていた。いまとなっては、すっかり自分のものだ。私はシカゴをサラエヴォの目で見ていた。そしてこの二つの街が絡まりあってひとつの内面のランドスケープを創り、そこで物語が生まれていく。一九九七年春、初めてのサラエヴォ訪問から帰ったとき、帰ってきたシカゴは私に合っていた。故郷から、故郷に戻ってきたのだ。139P

著者にとってサラエヴォとシカゴとが二つの故郷となったように、そうした複数形のありようをあるひとつの物語のうちに統合しようとせず、さまざまな人生の可能性の実践として、想像上のそれをも含めた言葉による対話によって、想像力と物語を肯定しようとする本のようにも思える。

本書は小説家の背景や小説の裏面を明かしたものとしても読めるけれども、ボスニア内戦での亡命者の人生について語った自伝的な本としても興味深い一冊だ。ナボコフの文体に学んだというヘモンを、ナボコフの翻訳や研究書も刊行している秋草俊一郎が訳しているというのも面白い。また、ヘモンを訳していた岩本正恵が2014年、50歳で亡くなっていたのを知った。子宮頸癌だという。ヘモンが二作目以降訳されていないのはそれがあったからか。そしてマトリックスレザレクションズの脚本に参加しているとは知らなかった。ウォシャウスキー姉妹もシカゴ生まれという縁もあるのかも知れない。アレクサンダル・ヘモンとSF作家のデヴィッド・ミッチェルが監督とともに共同脚本だという。

そういえば『ノーホエア・マン』でスパイが出てくるけど、こちらにもル・カレのスマイリーシリーズを若い頃夏になるといつも読み返していた、という記述がある。

『愛と障害』

同じくヘモンによる短篇集で、サラエヴォの少年時代や家族とザイールで過ごした夏、アメリカで仕事を始めた頃のことや作家となってからのことなど、作者を思わせる語り手の思い出を語りながら、連作的な短篇の連なりからはやがて文学への愛と文学という障害の両面が浮かび上がるように読める。

冒頭の「天国への階段」は、家族と現コンゴのザイールで過ごした少年期の思い出を描いており、真夜中にドラムを叩く現地で知り合った男とロックなどに触れる、さまざまな思春期の様相が描かれながら、最後には少年は目の前に突き出されるその男のペニスの暴力性が自意識を打ちのめす壁のようにして現われる。鳴り響くロックミュージックと少年の自意識、外への志向とその壁。

本書には外と内の境界、それを越える移動の要素が多くの作品にあり、続く「すべて」は冷凍庫を買いにサラエヴォからハンガリーとの国境近くの街に行く様子が書かれ、そこで見たアメリカ人夫婦の妻が自分と関係を持ちたいはずだという妄想から暴走し、ホテルマンに殴打されるオチとなる。「愛と障害」という書名はこの短篇のなかで引用される自作の詩の題で、「世界とぼくのあいだには壁があり/僕はそれを歩いて通り抜けなければならない」というもの。しかしここで買った冷凍庫はサラエヴォ包囲という壁のなかで電力が途絶え、すべて溶けてしまった。

後の短篇でも出てくるけれども、本書の少年期の語り手には性欲や粗暴さが目立っており、それは「愛と障害」に示唆される外への志向と表裏一体のもののように思われる。しかし、サラエヴォ包囲という著者自身の帰郷を阻んだ壁のように、しばしば壁や暴力が短篇を終わらせる。

ここまでの短篇でコンラッド『闇の奥』やランボー詩集を携えていた語り手と「ボスニア最高の詩人」の交流を描いた「指揮者」は、内戦を外で見た語り手と、内から見ていた詩人がアメリカで再会する。詩人のその後の仕事や内戦での戦争犯罪の証拠集めをしていたアメリカ人弁護士との結婚など、詩人の人生がたどられていき、詩を書かなくなった語り手は再会した詩人に「知ってるか、わたしはおまえの詩を書いた」と言われるけれど、どれかは不明のままだ。内戦直前のサラエヴォを想起させる911以後のアメリカの俗悪さのなかで、飲んだくれとなった詩人の思い出に込められた詩と紛争以前のサラエヴォへの哀惜。

われわれは今ほど美しかったことはない。93P

虚構を憎む父が映画を撮ろうとした時のことを回想する「蜂 第一部」は、真実と虚構についての主題を父の視点からたどっていて、真実を撮るためのはずなのに台本を作り何度も撮り直した皮肉な体験が思い出され、内戦後カナダに移住していた父から届いた原稿の表題が短篇のタイトルになっている。父の祖父がウクライナから持ち込んだ養蜂についての歴史を語ったその原稿では、第二次大戦時チェトニクに脅され置いていった巣箱が隣人に盗まれたり、伝染病で打撃を受けたりという歴史の記述が途中で終わっている。ボスニア内戦後、カナダへ移る時に置いていった巣箱はセルビア義勇兵に破壊されたと語り手は補足する。家族の養蜂の歴史をたどる父と、自身の物語を小説として書く語り手で、どこかしらやはり似たもの家族の話になっているのが面白い。そして映画という演出された真実という部分は、この次の短篇で描かれるテーマでもある。

その「アメリカン・コマンドー」は、作家となった語り手のことを映画にしたいという若者に応えて、カメラの前で子供の頃友達とアメリカ特殊部隊のつもりで自分たちの「領土」を侵略してきた工事現場に対して破壊活動をしていた、という話を縷々語り続ける一篇。領土を区切るフェンスを越えて侵入し、破壊活動を行なう語り手たちの姿には先に述べたような外と内と暴力の要素が顕著に現われており、そして過激化していく特殊部隊ごっこの思い出話は次第に本当かどうか怪しくなってくる。「嘘は、僕らの任務には絶対に欠かせない一部だった」(178P)とあるように。印象的なのは、撮る前にカナダの両親の元を訪れていた若者から、子供の頃の語り手が知らなかった母親の癌治療のことを知るくだりだ。何故その年の夏休みは毎年行かされていた祖父母の元に行かなかったのか、その謎が解ける。一族のなかでただ一人物語を語るプロ――「僕が唯一の語り手のはずだった」という確信が揺らぐわけだ。

最後の「苦しみの高貴な真実」は、書くことについてとりわけクリティカルな意味を持っている。作家となった語り手が、ボスニアを訪れたピュリッツァー賞受賞のアメリカの作家と知り合い、実家に招く。マカリスターというおそらく架空のその作家と家族との会話は、その後マカリスターの作品に使われる。しかし、そこでは語り手はヴェトナムで戦死した兵隊となり、父から息子は優れた作家かどうかを問われたことが戦死した息子はすぐれた兵士だったか、という問いに変換されている。作家らしい体験の「翻訳」といえるここで小説は終わっており、印象的ながらもこの事態の意味はよくわからなかった。なるほどと思ったのは藤井光の移民作家の小説における「翻訳」についての論文で、ここではボスニアの作家としての「僕」とその家族の物語が、ヴェトナム戦争というきわめてアメリカ的な物語のなかに収奪されていると指摘する。(藤井光「オリジナルなき翻訳の軌跡 ダニエル・アラルコンとアレクサンダル・ヘモンにおける複数言語と暴力性」(「文学」2016年9、10月号))外と内の構図はこうして、書くことと書かれることへ変奏される。

「天国への階段」や「すべて」での文学、書くことへの憧れから始まった本書は、作家になってから「アメリカン・コマンドー」の信憑しがたい自分語りとともに家族のことを他人から聞く語りの死角に直面し、父の原稿を読む側になり、そしてマカリスターによって書かれる側へと送り返される。連作のような短篇集は全体としてそういう構成になっており、本書の「愛と障害」という表題はおそらくはこの文学をめぐる表と裏を指しており、そこにあるいはサラエヴォ包囲という壁のモチーフが滲んでいると読むこともできなくはない。

書くことを主題化したものとしては『ラザルス計画』が特にそうらしく、これがよく代表作だと言われているので訳されないかな。

他のヘモン関連書籍

以上三冊で既訳書は全部だけれど、短篇が他に一つ訳されている。

柴田元幸選『昨日のように遠い日 少女少年小説選』、には未訳の第一短篇集『ブルーノの問題』から「島」が柴田元幸訳で収録されている。子供の頃に伯父の住む島を訪れた夏の日々が、断章形式で小さな記憶にも触れつつ描かれている。ここにもウクライナからボスニアに養蜂を持ち込んだのは自分たちの一族だという話や、スターリン時代にアルハンゲリスクやシベリアに送られ、誰彼が殺されたという経験を聞いたりする。同一の短篇が「島々」という題でこちらに訳されているらしい。

また、ヴィエト・タン・ウェン編『ザ・ディスプレイスト』という多数の難民作家が「場所を追われた者たち」について書いたエッセイ集に、「神の運命――ボスニアからアメリカへ」という一文を寄せている。これは自分の体験ではなく、内戦時にあるムスリムの男が収容所に入れられ、そこを脱してさらにアメリカまで来た壮絶な物語を聞き書きしたもの。兄を殺されたこと、同性愛者だったこと、逃げる途上で守護天使を見て、そしてアメリカに渡って、同性愛者として宗教コミュニティから排除された経験を語る。この本自体がトランプ大統領が生まれたことをきっかけに企画された本で、このエッセイにも「ぼくはイスラム教徒で難民で同性愛者です」「トランプの完璧なターゲットですね」という言葉がある。

早稲田文学2014年冬号」には都甲幸治との対談が掲載されている。『私の人生の本』刊行にまつわるもので、ナボコフの影響とともに学士論文の対象にしたというジョイス、そしてダンテなど「構築的」な作品の影響を語っている。その都甲幸治の主に未訳の本の紹介をした書評集『21世紀の世界文学30冊を読む』に、『愛と障害』(『愛と困難』と試訳されてる)、『ラザルス計画』の書評が載っている。同著者の『生き延びるための世界文学』では、第一短篇集『ブルーノの問題』の書評があるので、特に未訳の作品についてはこちらを参照するのが良いと思う。

柴宜弘、山崎信一編『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』

参考に読んだもの。明石書店のおなじみのシリーズ、エリア・スタディーズの一冊。多民族共存の象徴的な土地が民族主義の煽動によって分断され、ボスニア内戦に至り陰惨なイメージに彩られてしまったこの国の歴史と、現在さまざまな融和への取り組みを取り上げる。

ボスニアユーゴスラヴィアのなかで唯一多数派民族のない地域名称による構成共和国で、そのために「ユーゴスラヴィアの縮図」とも呼ばれていたという。多民族共存だからこそ、民族主義の煽動が深い民族間暴力に至ってしまったわけで、隣家の住人に家族が殺された類の記憶はそうそう癒えるものでもない。内戦や民族浄化によって、混住していた地域も棲み分けが進んでしまっており、地域のみならず学校においても一つ屋根の下で二つに分かれて授業を受ける光景が日常となっている。政治においても民族主義的な政党が有力で、この分離傾向と融和の理想のジレンマが本書では様々に論じられている。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはデイトン合意によって、セルビア人のスルプスカ共和国と、クロアチア人とボシュニャクボスニアムスリム)のボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦という二つの政体によって構成される連邦国家として再出発している。しかしながらクロアチア人の政体を求める声も依然強いという。デイトン合意については、内戦を終わらせることには成功したけれど、国家を自立させることには失敗した、という言い方がされてもいる。新憲法の制度的不備があっても合意の一部なので見直しが難しいことや、国際機関、上級代表事務所が持つ強い権力が国内政治の空洞化をもたらしてもいるという。

多民族共存の地が二十世紀に入って二度にわたる民族間暴力にさらされた歴史をたどりながら、政治、文化、社会の様相を各章コンパクトに述べつつ、概説的な全体像がイメージできる。ボスニアはボスナ川に由来し、ヘルツェゴヴィナというのは「公(ヘルツェグ)の土地」に由来するらしい。ソール・ベローの『ハーツォグ』というのも同語源だろうか。意外なことに一章、角田光代が書いてたりする。

現代文学を扱った章でヘモンについても触れられており、ヘモン作品で少し出てきた伝統音楽セヴダ、セヴダリンカについても一章あてられている。