最近読んでたSF 2021.11

フィリップ・K・ディック『未来医師』

21世紀の医師が突然25世紀の未来にタイムスリップしてしまい、そこは若者しかおらず怪我を治癒することが罪となる異常な社会だった、というところから始まる時間SF。1960年発表のディック初期の一冊で、まあ普通かなという感じ。火星が「収容所惑星」になってたりするのは宮内悠介『エクソダス症候群』を思い出したりするし、白人のアメリカ侵略を阻止するための歴史改変が後半のキーになるとか、白人の主人公が未来ではマイノリティになったり、また未来人は「インディアン」の子孫だったりして随所に植民地主義への問題意識があるんだけれど、そんなに掘り下げもされるわけではない。管理社会的な人口統制や宇宙行ったり後半の時間パズルの展開とか、これらそこそこ面白そうなガジェットも掘り下げずにテンポ良くB級SFとしてまとめる感じでまあまあ面白いけどまあまあだなあという感じ。コロナワクチン一回目接種の待機時間に読んでたのを覚えている。

N・K・ジェミシン『第五の季節』

数百年ごとに破滅の「季節」が訪れる世界で、オロジェンという大地を操る能力を持つがゆえに差別される者たちを描く破滅SF三部作第一部。この巻ではファンタジー色が強く、世界をじっくりと描き込んでいて読み応えはあるけど話は途中で終っている。なので現時点ではなんとも言えない感じだ。

オロジェンの息子を殺され娘を夫に連れ去られた母、能力故にひどい扱いを受けていたのが守護者に見出され拾われた少女、オロジェンとしての任務に旅立つ女性の三つの視点から、オロジェンという被差別種族の女性の立場からこの世界を見ていくことになる。この巻では読んでておかしいなと思うところが次第に総合されていくギミックがあり、なるほどな、とはなるけれどやはり話は序盤が終わったところ。かわりに能力者のそれぞれの成長具合から、学園もの、任務に就く能力者もの、そして中年というライフステージそれぞれから世界を描いてる。差別や破滅、オロジェンもまた管理され支配される存在だったりと、さまざまな抑圧のなかで生きる女性を描いている。女性視点を貫くほか、登場人物も肌の色が濃い人が多いのは意識的だし、エピグラフがなによりそういう、差別される存在に対するテーマを示している。島でのパートでは子作りを任務としていやいや性交をしていた男女が、ある男性を二人がともに愛してしまい、三人での関係によりいっそう欲望を増す複雑な性生活はちょっと面白い。ここの共同体はいくらか理想的なものかも知れないけれども、悪徳によって成立している点で相対化されてもいる。錆び、地下火、などの間投詞的な言葉は、オーマイゴッドなんかの代わりで、この世界にキリスト教がないという示唆だろうか。そして最後のセリフももしかしてここって、という示唆。そこで一気にSFになる。まあとにかくは二巻以降を待つしかない。

エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』

ネビュラ賞世界幻想文学大賞を受賞した四つの中短篇が収められており、妖精の伝説、双子の子供とおもちゃの人形劇、通信が途絶えた外界、ライト兄弟以前の飛行機の映像といったものを題材にしたファンタジックで叙情的な物語でかなり良い。SF選集と書かれていて作者もSF出身と見なされてるようだけれども、本書では「エコー」意外概ね幻想小説、ファンタジーという印象。そういうジャンル問題は置いておいて、シェイクスピアや神話などを絡めたり、演劇や再現映像を撮ろうとするなど芸術、フィクションへの意識が随所にある抒情的小説だ。

表題作はHIVに冒された父を持つ少年と何か病になっているらしい母親を持つ少女が海辺の「スピリチュアリスト・コミュニティ」のマーズ・ヒルで、死について考えたり妖精のような存在の伝説に触れたりする日々を描く、シェイクスピア『夏の夜の夢』が引かれるファンタジー

悲しみとは国なのだ。おそるおそる入っていくか、警告もなしに投げ込まれる場所。一度そこに――形もなくうねる暗黒と、絶望のにおいの中に入ってしまったら、立ち去ることはできない。33P

そんな悲しみの国に訪れた一夏の奇跡だけれど、ただのハッピーエンドで終わらないニュアンスがある。

本書でも最長の中篇「イリリア」は、双子の父親から同日に生まれた似た者同士の二人が互いに愛し合い過ごした時間や場所の一場の夢のようなかけがえのなさを、隠し部屋で見た幻想のおもちゃの劇場やシェイクスピア十二夜』の舞台という演劇・幻想の空間を用いて語っていてこれは傑作だろう。

伝説的な女優だった曾祖母は子供達に興味を持たず、一族のあいだには演劇に興味を持つ人間はほとんどおらず芸術など稼いだうちには入らないという実業志向が支配しており、自分を美しくないと思うマデラインも美声を持つローガンも、「スポイル」、台無しにされようとしていた。ローガンは特に兄から虐められるし、二人は似た者同士(キッシングカズンズ)という言葉を冷たく投げかけられており、これはいとこや似た者同士という慣用句としての意味のほかに、文字通りの意味での二人の近親間恋愛を怪しみ侮蔑するような意味合いが込められていると思われる。

二人でいることが当然でお互いに愛し合う二人は、ローガンは歌の才能を、マデラインも演劇への興味を抱き、そんななかローガンの部屋の奥に隠し部屋を見つけ、壁の隙間から誰もいないはずなのに動いている不思議な人形劇を目撃する。二人で共有する秘密の劇。ローガンの天性の資質に対してはマデラインは劣等感を持っていたけれど、唯一演劇に理解を示すおばのケイトによると、芸術とは教えられる技術でマデラインには教える余地があるけれど、ローガンは教えるところがなく、しっぽが犬を振り回す、という慣用句で才能に振り回されていると言う。

そうした子供時代のクライマックスが高校でシェイクスピア十二夜』の演劇をやる場面だろう。タイトルのイリリアとは『十二夜』の舞台となる場所で、アルバニアのあたりの古名というより、この時の成功した公演や人形劇、二人の過ごした今はない場所をも含めた多義的な意味がある。虚構の、演劇の上で再演された夢としての「イリリア」。本作はそうした子供時代を描いているのとともに、二人の生年はおそらく1950年代後半で、10代の頃にベルベットアンダーグラウンドのアルバムを聴き、911以後の時代を生きる、変わりゆくアメリカの半世紀を背景にした小説でもある。

「エコー」は孤島に暮らす一人の女性が外界とのつながりを徐々に失っていくポストアポカリプス的な短い作品で、エコーといえば当然ナルキッソスの物語が引用されつつ、静かな終末の寂寥を感じさせる。

「マコーリーのベレロフォンの初飛行」は、三十年ほど昔にスミソニアン博物館に勤めていた男三人が、当時の憧れだった上司の末期に際して彼女がある事件で燃やしてしまったライト兄弟以前の幻の飛行機の映像を再現しようとする中年男性たちの青春という、「イリリア」とも似た再演の物語だ。テレビ番組を作ってたり博物館でミニチュアを作ってたりする男たちと、妻を亡くし息子と暮らしている主人公が、その息子の友人を加えた五人で、その再現映像を撮ろうと映像の舞台になった島まで出かけるロードノベルの雰囲気もあり、女性の死期と映像の再現と青春の再演が絡み合う。その過程で妻を亡くした主人公の悲しみの感情のありようが描かれてもいて、表題作の「悲しみとは国なのだ」の言葉がここにも響いている。

三作が世界幻想文学大賞受賞作という通りファンタジックな道具立てを用いた叙情的小説集で、特に「イリリア」が抜群だけど全体にも充実した一冊と思う。

シェルドン・テイテルバウム、エマヌエル・ロテム編『シオンズ・フィクション』

イスラエルの現代SF――スペキュレイティヴ・フィクション――を集成したアンソロジーイスラエル自体が聖書とユートピア小説から生まれた本質的にSFの国だと説き起こすイスラエルSF史概説も含まれた700ページに及ぶ大冊。スペキュレイティヴフィクションという括りで、必ずしもSFだけではなく、ゴメル「エルサレムの死神」という死神と結婚する話や、宇宙人と喋る驢馬と友達がカルト宗教教祖になる本書でも特に印象的なペレツ「ろくでもない秋」はしんみりくるコメディで、そうしたファンタスティックな話も含まれる。

他には、情報のバックアップとしての図書館と人格のバックアップが絡むランズマン「アレキサンドリアを焼く」や、最長の中篇でテレパス能力を持つ少女が自殺した少女の心を探ってゆくハソン「完璧な娘」は特に読み応えがあり、誰も悪気はないのに行き場のない悪夢に落ち込むフルマン「男の夢」、終末後の世界で子孫を残すために後味の悪いラストが待ってるリーブレヒト「夜の似合う場所」、二人の男が愛した女性を救う運命線を探る「白いカーテン」、立体パズル早解きの架空競技をめぐるショムロン「二分早く」、SFの登場人物が現実化する夢が悪夢に反転するアダフ「立ち去らなくては」等々。

所々宗教的なニュアンスが感じられつつも、概ね21世紀の作品と言うことで必ずしもイスラエルユダヤっぽいというわけでもない。先端科学的なものというよりは、概説にあるように一般に「ファンタジーやSFやホラー」として言及される「思弁的文学」という観点で選定されていると思われる。

なお、全十六篇中七篇が女性作家によるもので、ここら辺のバランスも考慮されているのか、元々女性が多いのかどうだろう。「完璧な娘」と「ろくでもない秋」がとりわけ印象的な一冊と思うけれど、全体的にもなかなか悪くないなという感想。そして本書の一番偉いところはこの大部のアンソロジーを全訳したことだろう。創元SFで最近出てるテーマアンソロジーは収録作が半減していたりするので。あっちの原書はこれより大部かも知れないけれども。

イスラエルSFということでイスラエルジャズ、ダニエル・ザミールを聴きながら読んでた。動画はイスラエル国歌という。アルバムを聴くと現代的なジャズに民族的な要素が混ざってきて独特な感触がある。
https://www.youtube.com/watch?v=vwhTxzcaDJwwww.youtube.com

One

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  • The Eighth Note
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岡和田晃編『再着装(リスリーヴ)の記憶』

ポストヒューマンSFRPG『エクリプス・フェイズ』の世界設定を用いたシェアードワールド小説を集めたアンソロジーで、技術的特異点以後義体を乗り換え、自己を複製し、外惑星圏まで人類が進出した世界を舞台に、ケン・リュウはじめ海外作家と日本作家が集う。はしがき、コラムや用語解説を随所に入れてあるので私のようにEPを知らずとも読んでいけるだろう。全体は三部に分かれており、火星から太陽までの内惑星圏内が舞台の一部、木星以遠の外惑星圏が舞台の二部、そして身体性にまつわる思弁を扱った作品を集めた三部という構成になっている。

第一部は、入れ替え可能な義体とデータ化した魂、自己の複製という本作のベースとなる設定の導入ともなる作品が並んでおり、死を体験することをテーマとして紀貫之の引用はそういうことかと納得させるケン・リュウ作品を劈頭に、伊野隆之、吉川良太郎、片理誠作品など義体を活用した逃亡、追跡劇が多く、活劇的な楽しさで牽引する。

第二部は音楽をテーマにした伏見健二「プロティノス=ラブ」や料理のアンドリュー・ペン・ロマイン「宇宙の片隅、天才シェフのフルコース」、知覚と身体の関係の岡和田晃(原案齋藤路恵)「蠅の娘」などとともに、題材を語りの手法によって表現してみせたマデリン・アシュビー「泥棒カササギ」など、自己と身体性が問われる作品が多い。

第三部では、ポストヒューマンの時代においてレトロな趣向をあえて取り入れてみることで生まれる状況が描かれていて、石神茉莉メメントモリ」は「玩具館」というアンティークショップのようなホラー、幻想小説的舞台から、VR、鉱物のなかの時間やヴァンパイアという題材を混ぜ込んでいて印象深い。

本書のなかでも印象的なのが待兼音二郎プラウド・メアリー」で、人工子宮が普及し妊娠が行なわれなくなっている時代において妊娠して子を生むとはどういうことか、というのを腹を痛めて生む実子というような保守的な観念にも寄りかからない道を探していくような叙述はスリリングでもあって面白かった。

図子慧「恋する舞踏会」では身体の性別が可変的でセクシャリティが多様になった状況で古典主義回帰の流行が起き、爵位継承や令嬢のデビュタントという絢爛な催しのなかでのロマンスが描かれるのも、未来的技術でのレトロ趣味という第三部の象徴のような一幕の光景を見せてくれる。このなかで予知夢を収集して分析する役所が出てくるのはカダレ『夢宮殿』を踏まえたものなのか偶然なのか気になる。ハヤカワSF文庫の『スティーヴ・フィーヴァー』以来のポストヒューマンSFアンソロジーとのことで、ポストヒューマン入門としても面白いんじゃないかと。

SFマガジン」2021年6月号「異常論文特集」

書籍化前に積んでたのを読む。論文形式のフィクションに異常やらとつけるのはツイッターバズ文体的誇張に見えてどうかとは思ったものの試み自体は興味があった。読んでみると特に最後の二篇で近代日本と怪談のテーマが立ち上がってくるのが面白い。

論文形式つまりノンフィクションの顔をして書かれるフィクションというのはむしろ近代小説の古典的な形式に回帰してるようで、さも当然のように小説として語り始められる小説よりも形式への意識が強く出てくるし、いっそう事実と虚偽の境界が揺らぐところがあるように思える。その点で特に印象的だったのは倉数茂「樋口一葉の多声的エクリチュール」で、樋口一葉の文体分析の部分は概ね実際の論文にもありそうな叙述で、一葉入門のような読み味がありながら、二十二宮人丸についてのあたりから怪しくなっていって近代以前の文体論が怪談と密接に繋がってくる。テクストを読んでいくことがテクストに潜む怪異を解放してしまう恐怖、のメタフィクション的ホラーの様相があり、その面からはもっと踏み込めそうなそうでもないような。そして参考文献に挙げられた本を持ってたので該当ページを開いたらそんなこと一切書いてなくて、嘘引用なんですよね。その村上重良『国家神道と民衆宗教』は新装版のほうを持っていたので、版面は古いままだしページ数もさほど動いてないだろうと思って開いてもその前後も大本教についての部分で人丸なんか出てきそうになくて、この一応本を開いてみるところまで合せての虚実の皮膜に触れる感覚があった。

その一つ前にある大滝瓶太「ザムザの羽」ではテクストをめぐる分裂が描かれていて、ザムザが二人いて二重化している点もそうだし、テクストを挾んで同一人物が書く側と書かれる側での分裂を起こしていて、ディックの『ヴァリス』の他に、Kといえばでカフカ漱石が混在させられたりする。「ザムザの羽」に二人「K」がいたかと思えば「樋口一葉の多声的エクリチュール」にも「K」が出てきて、これにはちょっとしたホラーを感じたけれど、作品分析の生み出す恐怖や近代の怪談がテーマになっている「無断と土」と一葉論とで連続しているのはやはり意図してのものか。

鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」は最も長い一篇でかなりの密度の情報と作中作の組み立てが込み入っていて、なかなか読みこなすのが難しい。あんまり把握できていないんだけど、日本近代と怪談、詩、天皇制、VRゲームその他もろもろ。「上演」というキーワードが一葉論とも通じていて、それが恐怖と関連してたりもする。一葉論でもあった語りの現前性についての問題は、論文形式を採っているこの特集の作品にとっては重要な論点で、一葉論と「無断と土」ではともに「上演」という言葉が共通しているのは偶然ではないはずだ。読むこと分析することが「上演」になるというか。ここはちょっと未整理。

そういえば手記や書かれたテクスト、という形式の小説をたくさん書いた作家としては安部公房が浮かぶ。よくある小説で書かれる文章は、書かれたものなのにそれが現実のどこにもないということがしばしばあり、そこに迫真さ、現前性があっても宙に浮いたような違和感を覚えることがある。論文や手記という書かれた言葉の形式を採ると、現在形の文章が使えないために最後の二篇の「怪談」や「上演」という手法になるのかも知れない。一葉論文は言文一致体が現前性を作り出したこととそれが隠蔽したものを論じつつ、怪談的恐怖の現前性を別の形で取り出そうとしたものなわけで。

一葉論文も「無断と土」も、作品読解の過程で恐怖に類する感情を惹起せしめるような手法で書かれているけれども、現在進行形で語りを進められない論文形式においては、作品を読み込む分析過程そのものが台本を演じてリアリティを出す「上演」としてあるような印象があった。

他に、柞刈湯葉「裏アカシック・レコード」はなんと言うかこういう形式の模範的なスタイルってこれかな、というようなところがありちょっと円城塔っぽさもある一作で、なかなかちゃんと面白くて良かった。

小川哲「SF作家の倒し方」はおいおい内輪ネタか、と思ったら出てくるエピソードがどれも破壊力が高くて、こういうスタイルのエッセイとして面白く読んだ。これ、出てくるエピソード、どれも本当なんだろうか。マシンガンエゴサーチは私も目の当たりにしたのでよくわかるけれど。

アニメはいかにレンズの効果を模倣してきたか - メディア芸術カレントコンテンツ
余談。感想書いてる時に思いだしたのがこのアニメに取り入れられたカメラレンズの表現についての記事。アニメにおいてはリアリティを出すためにレンズ表現を導入し、異常論文でも叙述のフレームとして論文という形式を採ることで現実性の担保としている、というかなんというか。そして安部公房は手記という形式とともにカメラにもこだわりがあり、監視カメラが出てくる『密会』や箱から覗く『箱男』、そして戯曲を書いて演劇スタジオを作っていたことなどを思い出して、ここまで書いたことが全部そこに収斂していくようだ。

酉島伝法『るん(笑)』

「群像」に発表した「三十八度通り」とそれに続ける形で「小説すばる」に発表した二篇を加えた中篇集。これは怖い。疑似科学やスピリチュアルと科学の立ち位置が逆転した世界で、癌を「蟠り」や果ては「るん(笑)」と言い換える精神論や素手のトイレ掃除、マコモ風呂など怖気を振るう風習が日常となり、著者お得意の人外譚を描く造語技術が異形の日常にも活用されていて鮮烈。

病院や薬の服用が忌避され、乳酸菌が入れてあって何ヶ月も水を替えない風呂とか、米にかける「ミカエル」という得体の知れない何かとか、食べるものに尿を混ぜられたりとか、免疫力を高める水だとか、EM菌、風水、その他周波数だとかなんやかんやの偽科学が生活を支配する。どれも生々しく気持ち悪くて、そして違和感がありつつもそれを普通だと思っている人たちの日常と特殊な語彙のベールの向こうにある、現実に何をしているのか、がじわじわと分かってくる怖ろしさはかなりのものがある。そういう気持ち悪さとともに精神的な束縛もあり、子供は常に監視されているし、思考盗聴を防ぐためのアイテムが貧富の差を目立たせるものにもなっている。人々は血縁ならぬ「心縁」の繋がりがどうだとかで水や諸々のグッズを買わされたり、結婚式以外にも離婚式やひとり結婚式などことあるごとに式をやらされる。子供は神代文字由来だとされる漢字の書き取りを「書き詰めさせていただく」と言い習わされ、このきわめて「修身」的な教育は国家主義の下にあることが匂わされている。

序盤、一本一本というものの数え方が「にっぽんにっぽん」と言っているところでぎょっとさせられるんだけれど、このスピリチュアルなニセ科学と言葉の変造はもちろん、事実、状況の正確な把握を困難にするもので、国家主義的な隠蔽ときわめて相性がよいばかりか、それを目的にすらしている様子がある。龍というものがあるのは何かファンタジー要素だろうかと思っていると終盤正体がわかるところは、この世界全体の仕組みが見えてくるようなインパクトがある。偽科学とともに、おそらくは隠蔽、ごまかし、詭弁という政治の世界での言葉の崩壊がこの作品群の発想の根っこにあるのではないか。「未曾有」の読みが「みぞゆう」なのもその露骨なヒントだろうし、出てくるもののいくつかはEM菌や親学など時の大臣が関係してもいたものを思い出させる。言語の変容と科学の退潮のなかで、国家主義とともに相互監視の草の根のファシズムのような動きが捉えられてもいる。

多くの人の場合、ニセ科学がおかしいと感じるの科学的ロジックよりも、常識的にあり得るかどうかというようなものではないかと思うし、その時、周りが全てオセロのように反転したら、そのおかしさは果たして感じ取れるものだろうか、という生々しい恐怖を感じさせてくれる。と同時に、そこに欺瞞と詭弁で押し通す政治が絡んでくれば、という問題でもあり、権力によるプロパガンダデマゴーグは喫緊のニュースでもあるわけで、三十八度が平熱になった世界、というのはたとえば感染症対策が失敗した後でそれを認めず誤魔化した状況のように解釈できないでもない。

「千羽びらき」では病状の進行が字面において病垂の文字が増えていくという手法で演出されていて、特にそれについて触れることなく言葉が禍々しくなっていくのはなかなかの恐怖だ。病気は「丙気(へいき)」だし、「猫気(びょうき)」という忌み言葉とともに猫が排除された世界でもある。

一読しただけでは作中事実を掴み切れていないけれど、酉島伝法作品としてはもっとも入りやすいかも知れない。『オクトローグ』は結構自分には難物だったけど、これは全然読みやすいので。言語の違和が手法として大きい一見ふわっとしたディストピアものという点で多和田葉子の『献灯使』と結構似ている。