『失われた世界』『妖精の到来』『うろん紀行』最近読んでた本 2021.12

ドイル本はもう一冊読むつもりだったけど年を越しそうなのでひとまず記事にまとめる。

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』

南米の台地に恐竜の生き残りがいるという情報を得たチャレンジャー教授と、思い人から結婚の条件に名声を求められた新聞記者が出会い、科学者と冒険家を加えて探索に赴くSF長篇。有名すぎる作品で、こうしたサブジャンルの始祖となったという定型の力強さがある。

現地民との友情関係を加えて換骨奪胎するとドラえもんの長篇になるような感触があり、四人のパーティの個性などとともに未知の世界への冒険は今では使い古された話のようでもやはり面白い。偏屈で攻撃的なチャレンジャー教授のクセの強さはホームズとはまた違った個性だ。記者の語り手の動機から始まり、チャレンジャー教授の話が非難を受け意固地になっておりそのハードルを越えるためのやりとりや、同行者からその資質を認められるまでなど、キャラクターの描写や旅立つまでに三分の一を費やしていて、荒唐無稽な旅へきちんと手続きを踏んでる感じなのも良い。

しかし進化のミッシングリンクとしての野蛮な猿人が出てくるあたりは、ヨーロッパ白人を頂点にした種のヒエラルキーからくる時代的な描写だ。「優越種であるはずの人類」215Pとか、「人間が覇者となり、人間未満の野獣はふさわしい住まいへ追い返された」266Pとか。驚いたのは、語り手を旅立たせる動機になってる女性が英雄になった男の妻となることで羨望されたい、というトロフィーワイフならぬトロフィーハズバンドというかそういう欲望をあけすけに語ってるところで、これはヴェルヌの『地底旅行』を踏まえてずらしたものなのかな。

この創元SF文庫での新訳、チャレンジャー教授シリーズ全五作は文庫三冊に収まると思うのでほかのも新訳で出して欲しいところ。『毒ガス帯』と『霧の国』はSF文庫に古い訳があるけど。『霧の国』は心霊現象を扱ったものらしく、ドイルの妖精への傾倒とも関連して気になるところ。

アーサー・コナン・ドイル『妖精の到来』

コティングリー村の事件として知られる妖精を写した写真をめぐって、ストランドマガジンにドイルが書いた記事やそこに至る経緯、批判と反論をまとめ、ドイルの元に送られてきた妖精目撃証言や神智学から見た妖精についてなどを論じた一冊。

今では、紙に描いた絵をピンで固定して撮影したものだと明らかになっているものの、本書は1922年に書かれたもので同時代の証言として色々と面白い。写真について、「絵画的な飛び方であって、写真的な飛び方ではない」78P、というそのものずばりの指摘がある。写真自体は偽造や加工がされたものではないというのは再三書かれているけれど、それはつまり特撮というかトリック撮影だからだ。読んでいて思ったのは、霊視者とか識者みたいな人が妖精の分類やら知識を滔々と述べるところにくると途端に胡散臭くなるな、ということだった。ドイルの元に送られてきた世界各地からの妖精証言なんかはまだ微笑ましく読めるんだけれど、後半のやけに妖精に詳しい識者の話になると見てきたように話をする詐欺師という印象しか持てなくなる。

たとえ目には見えなくても、そういう存在があると考えるだけで、小川や谷は何か新しい魅力を増し、田園の散歩はもっとロマンティックな好奇心をそそるものになるであろう。妖精の存在を認めるということは、物質文明に侵され、泥の轍に深くはまりこんだ二〇世紀の精神にとって、たいへんな衝撃となると思う。54P

とドイル自身は言っている。

つまり地球上には、想像もつかない科学形態を後世に切り拓くかも知れない不可思議な隣人が存在しており、われわれが共感を示し援助の手を差しのべれば、彼らは奥深いどこからか、境界領域に現われるかも知れないのである。114P

怪奇現象の謎を解いていくミステリにしろ、南米に恐竜が生き残っている可能性を描くSFにしろ、方向性は両者で逆とはいえ、どちらも現実の隣にある不可思議なものを志向する点では似ているし、ここにある妖精への関心もやはりそれらとは別のものではないんだろうなと思える。

わかしょ文庫『うろん紀行』

うろん紀行

うろん紀行

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本を読むとは読者それぞれの時と場所によって別のイメージを生む現象だとし、さらにそこに作品の舞台やゆかりの地を訪れて見聞きしたその人固有の経験という二重の旅を仕掛けながら、そのあわいに著者の人生の物語が浮かび上がってくる読書紀行。

『タイムスリップ・コンビナート』の海芝浦、『濹東綺譚』の玉ノ井こと東向島、『挾み撃ち』の蕨、上野、亀戸、御茶ノ水など、作品の舞台でその本を読むかと思えば「スーパー・マーケットの天皇」だからコストコで『万延元年のフットボール』を読んでプルコギベイクを食べるなど突飛な発想の旅もある。

「海芝浦」の章では思い浮かべていたものが実は字面にない自分の勝手な想像だったことに気づいて、「同じ場所にたどり着くことはできない」ものとして小説を読むことを規定する。そしてそれ故にこそ読む装置としての「わたし」が輪郭を与えられ、その物語が始まることになる。

読まれてはじめて小説は生まれる。けれども、小説が読まれるというその現象は、読者によって、時と場所によって、違うのだ。再現性は不確かなのだ。であるならどうしてわたしたちは、同じ小説を読んだふりをして語らったりするのだろう。15P

「『濹東綺譚』は書かれたときからすでにファンタジーだった」26Pと考えながら元カフェの建物を探してみる「東向島」、「小説には、誰もあえて話さないような見向きもされない現実が、現実以上に鮮明な現実として存在している」38Pという『ベルカ、吠えないのか?』の「犬吠」。『挾み撃ち』の「蕨、上野、亀戸、御茶ノ水」はきちんと御茶ノ水の橋の上から始まるし当初の予定を天気でキャンセルしての偶然の出立にもなってて、元ネタを踏まえつつ偶然の脱線を仕込みながら北海道つまり「外地」出身という朝鮮生まれの後藤明生との偶然の符合をも取り込んでて面白い。

題材になってる二〇近くの作品の内、読んだことがあるのは半分ほどしかないし内容を忘れてるのも多く、ちゃんと仕込みに気づいてないかとも思うけど、太宰「富嶽百景」の「河口湖」は、作中で結婚が題材になってるようにある店で女性の一人旅について質問され、入籍する予定を口にする。店の人に女一人で旅は珍しいとか結婚予定はとか聞かれるの直球のセクハラだとは思ったけれど、この結婚という話から次篇の『さようなら、ギャングたち』を読む「金沢文庫」に繋がっていて、そしてこの「金沢文庫」は本書のなかでもとりわけ印象深い一篇だと思う。

『さようなら、ギャングたち』は未読だけれど、自分の名前を自分で付けるようになる世界を描いた作品を題材に、結婚を機に名字が変わる経験と「わかしょ文庫」のペンネームを自ら付けたこと、そして北海道の祖父が年老いて「もう、誰が誰だかわからんな」と言ったことが絡み合う。名前と私と虚無の「まっ白」。

虚無に飲み込まれようとする祖父の代りに、わたしが言葉を尽くしてあげたい。まるで輸血みたいに、わたしの言葉を祖父の身体に注ぎ込みたい。(中略)
わたしは「わかしょ文庫」だ。他ならぬわたし自身がそう決めた。81P

という言葉と私の新たな人生について。

読むこと、書くこと、名前という人生の始まりと、誰が誰だかわからなくなる人生の終わりとがここに凝縮されている。実人生を生きる私、書く人としての私、本のなかの物語、祖父の物語という多層的な重なりは、この読書紀行のなかでも白眉だろうと思う。

そして「ニューヨーク」で現地の人から、ここではそれぞれの人種が混ざり合わず、それぞれ概ね決まった仕事、将来を選ぶことになる人生の様相を知り、連載の最終回の十二章に至る。人生への決意とも読める十二章で、「バベルの図書館」や「夢十夜」の運慶の挿話を引きつつ、誤字脱字がそのまま印刷されているという『うわさのベーコン』を読みながら、を誤字と誤謬に満ちていても、それが自分の道なんだと思い定める。

でもどこかにあった最善や最良をつかみとれなくても、つかみとったものが最も自分にふさわしいものだったのだと信じたい。156P

旅に歩いた最後に、家から徒歩10分のホームとも言える近所で連載最終回を迎える帰るまでの旅。

書き下ろしの三章も面白くて、特に「まんが道」回の「ンマ~イとコロッケパンに食らいつく二人やキャバキャバキャバキャバと笑う森安などを模写したシールを作っては、身の周りのものに貼ってお守りにしていた」177P、という下りは一行で著者が変な人だということがわかって良かった。