後藤明生文学講義のCDの付録リスニングガイドに寄稿


先頃開催された秋の文学フリマ東京で、アーリーバード・ブックスから後藤明生文学講義のCDの後篇が先行販売されました。1982年、NHK文化センターでの谷崎潤一郎吉野葛』講義の録音カセットをCD化したもので、CD二枚の前後篇に分けられたものの後篇です。貴重な後藤明生の肉声を聞ける機会ですし、同じ講座の録音をもとにリライトされて本になった『小説 いかに読み、いかに書くか』(講談社現代新書)の収録範囲の翌月の講義で、いわばその続篇といえる音声です。

そのCDと一緒に配布されたリスニングガイドとして、私が解説のようなものを書いております。およそ原稿用紙10枚弱、4000字弱の文章で、『吉野葛』の語りに多重の「また聞き」を読み込みそれがプラトンにも繋がっていく講義が、『吉野大夫』『汝の隣人』『壁の中』など八〇年代の小説それぞれを結びつけるものにもなっていることを書いています。『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』では、『吉野大夫』についてはあまり突っ込んでなかったのですけれど、その点を補足する原稿にもなってると思います。

ブログでの告知が遅くなり、文学フリマでの販売にはもう遅いのですけれど、以下のサイトで通販が始まっていますのでそちらをご利用下さい。(12/21日追記)
earlybirdbk.base.shop

以下、改めて読んだ関連文献についてのメモを。

後藤明生編『日本の名随筆95 噂』

有名シリーズの噂をテーマにした一冊。ゴシップ、民話、怪異譚、噂話、デマ、伝説などなど多彩なアプローチで書かれたものが収められており、人々が求めるエンターテイメントとしてのそのありようはどこかでやはりフィクション、物語に通じるものがある。

丸谷才一は「ゴシップの精神とはフィクションの精神にほかならない」と断言してその作り方をレクチャーし、伊藤整は自分への「頭はいいが小説は下手」というイメージを決定づけた批評との何十年もの格闘を語り、秋山清関東大震災での朝鮮人へのデマを論駁して住むところを逐われたあらましを語る。日野龍夫の近世の世間咄についてのエッセイでは、異事奇聞とは別の世界への入り口だったというフィクションへの渇望にも似たものを指摘して近世人の考え方を論じ、寺山修司UMAヒバゴンの噂を求めて現地へ飛び観光資源として活用されている様子を取材する。西川宏は木口小平以前の死んでもラッパを離さなかった兵士白神源次郎の話から説き起こし、語られる名前が変わり、被弾した場所が変わり、ラッパ手の物語がいかに教育勅語の理念に適するように書き換えられていったかを追う。

他にもヨーロッパの魔女の話、口裂け女の話、ヒトラー生存説など、伝聞、レッテル、怪しい話にまつわるエッセイが集められている。遊女の評判記についてのエッセイが収められているのは、追分に伝わる遊女の伝説を追った『吉野大夫』との関係だろう。後藤の八〇年代における関心のサブテクストとして面白い一冊。刊行は1990年。

花田清輝『室町小説集』

谷崎『吉野葛』への文句にはじまり吉野の山の南朝八尺瓊勾玉をめぐる歴史エッセイの体裁を装いながら、文献的な事実に基づいてるように見せて偽書虚構を混ぜ込んで読者を騙くらかす意地の悪い「小説」になっていて、なんとも気持ちの良い嘘を読んだ気分になる。

「あっ」と思ったのは、「画人伝」を読みながらこの忠阿弥の絵を見てみたいなと思って検索したら全然情報が出てこなくて、これもしかして実在しない人物か?となった時だ。ただ、そういう感想を書いてる人もいるけど、小谷与次こと忠阿弥という画家は実在するっぽくて、どこまで事実かは不明だ。

南朝三種の神器を扱ってるように天皇制が連作の全体テーマとなっていて、八尺瓊の勾玉を入れているはずの「開かずの箱」の中身が実はたいしたものではないという設定を施しながらその争奪戦を描いているこの小説の様相には、虚構というものをめぐって小説にも重ねられた仕掛けでもあろうか。

評論エッセイのように書くことでいっそう嘘が効果的になるようになっていて、そこに新鮮な驚きがあるのが面白かった。後藤明生文学講義についてでも書いたけれど、『吉野葛』、本作、『吉野大夫』は読み比べると面白い。