「赤色少女」『折りたたみ北京』『時ありて』『とうもろこし倉の幽霊』『終わりなきタルコフスキー』『花樹王国』『川端康成異相短篇集』

仙田学「赤色少女」

文學界」2022年8月号掲載の中篇。娘を育てながらモラハラ夫の世話もする「わたし」と、同様の妻のもとで子供を育てる父親山内の二人の、配偶者と子供のあいだですり切れる日々の描写がなかなか辛いと思っていたら破綻しかけた二つの家族が新しい関係に組み換わるのには驚いた。三人親子が二組、方や男が主に働き、方や女が主に働くという六人の関係が日々の疲れや孤立感から主婦と主夫とで不倫関係になっていくという叙述は具体的で読ませるものの面白みが薄いなと思っていたら、こういう新しい家族関係になるのは予想してなかった。

モラハラ夫の行動は相手の気を引こうとする幼稚な、言い換えれば子供っぽいものとして描かれることと、山内の妻・麻衣が子供の頃に性的虐待を受けていて子供時代を奪われていたというような、それぞれの事情の描写がパズルの重要なピースになっている。雪乃の嫌なことを三つ挙げる場面で、父親が義理の娘と親密になるにつれてその母親がやきもちをやくような行動に出ていたくだりが想起されているように、大人も子供も嫉妬というか相手の気を引こうとする点では変わらないことが描かれているのもその一環。新しい家族関係といっても一夫一妻制・モノガミーを前提としたものではあり、むしろそれを利用して新しい関係を成立させているのが面白い。それは本作の趣旨が親子関係というか、親が子供を育てることあるいは子供が大人に育つことの難しさのあるひとつの解決だからだろう。

著者のシングルファーザーとしてのエッセイ集には、「親として生きることは、子どもとして生き直すこと」という言葉があり、それが今作でこういうかたちで変奏されるのか、と意表を突かれた思いがした。確かに、なるほど、そうなるか、というやられた感とそうなるか?という疑問がそれぞれに浮かびながらもこの関係がそういう風にして成立することに納得させられるような、まさに問題作というか挑戦的な作品。

ケン・リュウ編『折りたたみ北京』

七人の十三篇を収録する中国SFアンソロジー。68年生まれの劉慈欣以外は八〇年以後生まれの若い作家で構成されており、作品も概ね2000年代後半から本書初出の2015年まで10年間のものを収録した、読み応えある最新の中国SFのショーケースとなっている。ほぼ若手作家アンソロジーで、日本で言えば宮内悠介、小川哲あたりの世代になるのかな。鄧小平の開放政策などもあってか七〇年代末に流入した海外SFによって中国SFが刺激を受けた歴史が触れられており、現代での『三体』によるブームを受け、最新の成果を切り取ったという印象だ。

また中国経済の発展を背景に、経済格差・分断を背景にサイバーパンクを描く陳楸帆の諸作や、ダイナミックでアイデアで階層の分断を描く表題作などには経済発展の光と影への意識が感じられる。「神様の介護係」もあるいはそういう意味がある一作かも知れない。サイバーパンク、変形都市の大ガジェット、ファンタジーとSFの融合、改変歴史SFの大技、と確かに現代SFのバラエティという感じだ。エッセイで触れられた中国SFが発展してここまできたというのを英語圏に見せるという意味もあるだろう。

陳楸帆の「鼠年」など断絶した状況での徒労感にはディック的な感覚があるように思えるし、「麗江の魚」の時間操作アイデアのなかで、時間による格差が触れられ、貧しい第三世界の時間は早く流れ、裕福な先進国ではゆっくり流れ、為政者や神の時間は止まっている、というのは「折りたたみ北京」と重なる。

夏笳のソフトとハードの中間という意味合いだろう「ポリッジ(おかゆ)SF」と称するファンタジックな二作の雰囲気も良い。物の怪たちが闊歩する世界で人間が一人という状況からSF的に展開していく「百鬼夜行街」の他、「童童の夏」は子供と祖父との交流と科学技術の明るい未来を描いていて爽やかだ。

馬伯庸「沈黙都市」は言論統制下の中国をオーウェルをオマージュしながら、楽しく喋り交流する秘密のクラブを描いている。未婚の人間にはあらゆる性的活動が禁じられる社会で、話すこととセックスすることが不可分のクラブのありように、ここで禁じられているのは愛だということだろう。

郝景芳の「折りたたみ北京」は社会階層の分断を眠らされる時間がずれている三階層に分け、時間の分断のみならず都市が畳まれ、組み換えられる変形都市というアイデアで描いている。マクロスというか第三新東京市というか。そのなかでの低層階からの冒険小説の趣がある。

「見えない惑星」は読み始めてみてカルヴィーノの『見えない都市』のオマージュだとわかるように、さまざまな惑星の生態系を描く寓話的な作品だけれども、これは実在の微生物の話をしているのでは? と疑いが兆してきて、見えない惑星とは足元の地球のことなのではないかと思った。

糖匪「コールガール」は売春と思わせて他ではできない体験、物語を提供する少女の叙情的な不思議な物語。

程婧波「蛍火の墓」、宇宙を舞台にした叙事詩的な物語で、夏への扉、薔薇の騎士、無重力都市などなどのイメージが流れていく作品をまだちゃんと読めてない。

やはり圧巻なのは劉慈欣の「円」。科学技術を未来に演繹していくSFの逆として、過去に現代のプログラムの発想を移し込んで見せる歴史改変SFの大技を決めながら、それが中国の強権を振るう皇帝の故事のような風合いをも持ち合わせている中国SFの傑作といっていい。円周率の計算が不老不死の秘密を解き明かす鍵になるという話に惹かれた秦の政王が、どんな手を使っても良いから二年で一万桁を計算せよという命令を荊軻に与える。彼は兵士一人をごく単純な入出力に対して反応する計算機械のコマとして使い、それを三百万人用意して計算機に仕立て上げる。

「神様の介護係」は二十億人が急に現われたら世界的な飢餓が起こるのではとしか思えなくてあまり発想になじめなかった。直接育ててくれた父と遠い先祖を同じようには扱えないなあ、というか。社会的弱者は自分の家で養えという無理筋の批判にちょっと近い。

新しい方のアンソロジーが文庫化された今更読んで今更「円」が面白いとかいうのはちょっとアレだけど、『三体』もそのうち読みたいところ。二部までは積んでる。

イアン・マクドナルド『時ありて』

廃棄間近の謎の詩集に挾まれていた手紙を見つけた主人公がその送り主の謎を追う時間SF中篇で、ブレグジットに向かうイギリスを想起させつつ、戦争や虐殺という歴史に巻きこまれ分断される恋人たちを本に挾まれた手紙が繋ぐ、男性同士の恋愛物語でもある。

「時を越えた恋人たち。最高の物語はぜんぶ、ラヴ・ストーリーだ」というのは決め台詞だなあ。手紙をやりとりする二人の男性が、第二次大戦時のエジプト、日中戦争下の南京、戦時下のボスニアなどに痕跡を残していることを知り、その謎を探るさなかに時間を越えたラブストーリーを見出す。

今、ぼくは理解した。これがために詩というものはあるのだ。そのために存在しているのだ。神も詩神も、霊感なんぞもいらない。言葉にならない感情のための、単語、シンタックス、構造、韻律を見つける必要があるだけだ。
中略
書かれた芸術はすべて、感じているものを伝達する試みだ。そのおっかない質問をするためにさ。ぼくの頭のなかで経験していることは、あなたのといっしょかい? 怖いさ。なぜってぼくたちは、決して確信は持てないからだ。42P

2018年刊で、ブレグジットという分断の予感を踏まえながら、人々を引き離す戦争、虐殺の歴史を時間SFの手法によって導入し、歴史によって引き裂かれる関係を、詩集、本、言葉によって繋がりうるものとして描き出す。歴史に、本に挾まれるだけではなく、言葉によって包むことにもなる。

新ハヤカワSFシリーズかなと思ってたら中篇一冊でハードカバーはやや割高だけど、これを詩集を模した装幀で出したいというのはわかるし、作品集よりは本をテーマにしたラブロマンス一冊のほうが売れそうというのもわかる気がするけど、切ないロマンス方面の描写はそんなに厚くない気もする。

R・A・ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』

全篇初訳の日本オリジナル短篇集。時代的にまんべんなく選んでおり、本国では代表的作品といわれるものや宗教色が強いものなど、わかりやすいものから底が知れない異色のものまで、硬軟、軽重のラファティらしさを味わえる一冊だろうと思う。

ハヤカワで新しく編集された二冊を復習がてら読んでから読むつもりだったけど色々やってると年を越しそうだったので先に読んでしまった。既存の作品群に比べるとやや見慣れた感じはあるけれども語りが複雑になっていく配列も興味深く、やっぱりラファティになっていて良い。

今回読んでみて思ったのは、この世界が夢や幻、あるいは仮構された・仮初のものとするようなくだりが時折現われていることで、この世界の二面性というか表層と裏の感触がエリアーデの小説に似てる気がすることだった。宗教性と紐付いたこの世界のもう一つの顔のニュアンス。幽霊物語、ゴーストストーリーというのはこの場合、この世界の表面とその裏側の中間地点にある何者か、二つの世界の境界に現われるもの、ということかも知れない。この世界が誰かの見た夢だという「いばら姫の物語―学術的研究―」や、「チョスキー・ボトム騒動」のように異質なものが平然と人々のなかに紛れ込んでいることがラファティにはしばしばあるのもそれかも。

「チョスキー・ボトム騒動」にはこういう記述がある。

「おれたちは人間が幽霊と呼び慣わしてきたものなのか? 幽霊にだって幽霊譚はあるのか? ああ、その通りだ。おれたちは幽霊と言っていいし、そのおれたちにも幽霊譚があるんだよ。幽霊には、幽霊の階層があると言えるだろう。おまえたち人間だって、飼い牛からすれば幽霊なんだ。突然目の前に現われる。時空間を自由にする力がある。理解を超えた存在だ。おんなじように、時に人間にはおれたちが幽霊に見える。」209P

「下に隠れたあの人」での元々の人格の裏側、サブcってsub conscious、下意識のことかと思われるものの表への進出というのも、世界が裏返るのが個人単位で行なわれるという点で似た構造に思える。

本書でも特に宗教的な「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」という中篇には、「おそらくこれらすべては、実体のないただの投影なのだ」84P、というくだりがあり、明らかに使徒を模した12人という数字や、ギリシア語の七十人訳聖書にちなむ72という数字が現われている。魚というキリストの象徴がメインになっているのにくわえてサタンというのも出てくるし、陰惨な殺戮を行なう何者かとの戦いに散りばめられた宗教的象徴性が露わな一作で、ラファティの難解さというかよく分からない作品の背景が何かというのがよくわかる。カトリックの立場を明らかにした一作と解説にある。

「鳥使い」で「雲の彫像師」というバラードの「コーラルDの雲の彫刻師」そっくりの言葉が出て来ているのはそのオマージュにも思えたけれど、訳者は解説でディックとバラードの名前を出していて、確かにディックは似てるところがある。この世界の仕組みが異様な形に開示されていく独特の悪夢感。解説で、作風としては似ているのにラファティが一度も言及したことがなくむしろ敵視していたような箇所がある、というのはディックの悪夢的な描写がカトリックラファティの立場と対立するからかも知れない。ディックの宗教的立場、どんなだったかいまいち覚えてないけれど。

「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」は面白い話を入れるだけなら宗教的で分かりづらいこれを省いた方が良いんだろうけど、これを入れることでラファティのわかりづらさがわかりやすくなるってところがある。

この世界は1000年前に既に終わっている証拠が挙げられていく驚異の「いばら姫の物語―学術的研究―」もこれぞラファティで良かったけど、これや「千と万の泉との情事」でのこの世界は誰かによって作られたというネタは創造論インテリジェントデザイン説を思わせるところもある。

序盤の読みやすさから次第に難度が上がっていく感じもあるけど、やっぱりどれも良い味がするなあと思う。「下に隠れたあの人」の定型句の破綻を示すようでそこに帰ってくるところは良かった。

忍澤勉『終わりなきタルコフスキー

第七回日本SF評論賞ソラリス論で選考委員特別賞を受賞した著者によるタルコフスキー映画全八作を論じる一冊。意図は隠されているほど良いというタルコフスキーの主張に向き合い、映画の物語、映された絵画やモチーフ、作者自身の日記などをたよりに徹底して精読していく執念の迫力がある。

難解と言われるタルコフスキー作品を繰り返し見てクリアに内容を整理し、物語を読みとり、絵画やポーズ、配置などに示唆された宗教的モチーフを参照し、日記やメイキングから作者自身の記述や制作過程から作意を把握し、と最も手間の掛かる正面作戦を地道にやりこんだのが感じられる。

私はタルコフスキー作品をソラリスしか見たことがないのでその他の作品論とか、類書との違いはよくわからないけれども、堅実に作品内容を読み解いて地固めをしている印象で、夢というモチーフの一貫した重要さや父のテーマから子のテーマへの変遷など全体像も提示されていて面白く読んだ。

特に第一部の精読パートは分析しながら物語を解説していくので、丁寧な作品ガイドとして有用だと思う。一人二役や二人一役やら混乱しそうな作品や説明がほとんどないものなど、見るからに難解そうな作品の場合はいっそうそうだろう。他に家族歴を読み込む章、雨、火、鏡、躓き、犬、牛乳、パンなどのモチーフの小事典となっている章や、核時代への視点を読む章で構成されている。雨は上から下に、火は下から上に、鏡は手前から奥に、とタルコフスキーの主要モチーフを三つの方向性として立体的に捉えた箇所(363P)は印象的だ。

図書室の壁にある絵は何かなど細かなディテールはDVD、ブルーレイ、配信などの高画質で映像を一時停止も可能な時代になってはっきり確認できるようになったという。ソラリスから五〇年が経って、高画質映像の時代における細部からの見直しの一例という側面がある。

磯崎愛『花樹王国』

花樹王国

花樹王国

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同人誌のkindle化らしい一冊で王族貴族らが出てくるファンタジーからボッティチェリの恋人の書いた書簡体、ポタラ宮で法王の侍童となった少年、夢使いという能力者の現代ファンタジーなどの短篇集。さまざまな軛に囚われた男たちの話という印象だ。

女を介したりしなかったりする男同士の愛憎、ありていにいえば概ねBL作品集ではあるんだけれど、歴史やファンタジーの設定の多くが登場人物たちの束縛のありようとして機能している感じで、そして男のモノローグと女のモノローグは交わらない溝を感じさせる。しがらみには縛られない人間の思い人を皇帝に娶らせようとして自分が貰う話になる話のこのホモソーシャル感よ、と思えばヴィーナスの誕生のモデルというシモネッタ・ヴェスプッチを語り手にした書簡体もその形式に一方通行な印象がある。木や花で彩られた愛の話だけれども。

束縛のなかにある人間を描こうとすることと歴史のなかにいる人物を取り上げることに共通する趣向があるように思えた。束縛のなかでもがくことと歴史という過去の記録の行間にもぐり込もうとすることと。何かの外伝だったりして設定がよくわからないところはあるけれど話自体は楽しめると思う。

高原英理編『川端康成異相短篇集』

幻想文学や怪談という先行する選集は既にあるけれども、それらとは重なりつつも異なる視点として、川端自身の独特な認識の帰結として現われる異相への凝視の度合いによって編んだという一冊。「心中」「冬の曲」「たまゆら」の音のラインが類書との一番の違いか。川端は長篇を読んでいなくて『水晶幻想・禽獣』やら初期作品を数冊読んだくらいだけど、その底冷えのする人間への視線や異界への関心みたいなものは印象的で、本書のアプローチはまさにそこを突いたもの。冒頭の掌篇「心中」の異様な感触を導き手にして、川端のその独特さを存分に味わえる。

この世のものではない論理によって事態が動く「心中」の感触はすごくて、この見開き二ページの掌篇を読めばこの一冊全部読みたくなるんじゃないかと思う。立ち読みででもこれを読めばその後を読みたくなるかどうか判断できるような「異相」という表現の格好の一例。

幻想文学集成にも文豪怪談傑作選にも収録されてるこの手の作風の代表と思われる「白い満月」は心霊というか、人間の霊魂は未来を知ることが出来、未来も過去も永劫の今に含まれているという認識が示唆され、それが「この静けさの底にあらゆる音が流れるのを聞いていた」という一文に示されている。

死者の語りの「地獄」、不可思議な「故郷」、死者との語り合いの「離合」、「冬の曲」という音への感覚が特徴的な一作のほか、一番異色なのは「死体紹介人」だろう。昼夜同じ部屋に住む見知らぬ女性の死後に内縁の妻と言って葬式をするのを手始めに、死と性の濃密に絡んだネクロフィリアな短篇。

また「朝雲」は女教師に憧れる女生徒の一人称で恋めいた熱烈な憧憬が縷々語られる百合ともいえる作風で、語り手は好きな相手を避け続けているし、どれだけ教師も語り手に関心があるかは不明瞭で、送った手紙にも一切返事がないことから対話は成立していない。女生徒の手記を元にしているらしい。

「弓浦市」は幻想小説としても面白い一作で、小説家のもとに九州から訪れた人の語る話がどうも覚えがなく、調べてみると弓浦市なる地名が存在しないことに気がつく。出会った人が幽霊だった、という話とも似た感触があるけれども、その人が狂っているだけではなく自身の存在もまた揺らぐ幻想性がある。

「無言」は一切口を開かなくなった小説家の元に訪れてその娘の話を聞く作品だけれど、ここには小説あるいは語ることについて非常に興味深いものがある。無言と幽霊の重ね合わせもさることながら、狂気の青年が小説を書いたと言って白紙を母に見せて、母は白紙に自身の思い出を読む作中作では、作者と読者の関係が奇妙に転倒しつつ幸福な合一が感られ、語り手は作家の娘に父のことを書くと良いのではと進言する。「自分が無言でいれば、他人が自分の代りに語る。万物が語る」300P。「過去というのは誰の所有でもない」「過去を語る現在の言葉が所有しているだけ」。無言とは非所有なのか。

そして「たまゆら」の「「たまゆら」は生と死のあいだに通うささやきのように聞こえた」327Pという一節。編者も述べるように「心中」から続く流れがここに通底するような不可思議な音の感触がある。併載の随筆も興味深く、丁寧な編者解説も参考になる。