ブルガーコフ、バーベリ、ウクライナ

年始から読んでいた一連の本について。あまり時事的な読書はしたくないな、と思っていたけれど、侵攻開始から一年が経とうというあたりで、いくらか積んでる本と出た本とでウクライナ関連をまとめて読んだ。

ミハイル・ブルガーコフ巨匠とマルガリータ

ウクライナキエフ出身の作家による1940年頃に書かれ死後20年以上経つまで発表されなかった大作。モスクワを混乱に陥れる黒魔術師の一味やキリストをめぐる発表を禁じられた作中作を用いて、作者自身の私怨を文学史に残るレベルにまで普遍化し高めたような凄味がある。手始めに編集長ベルリオーズを殺した(ように見える)魔術師ヴォランドが悪役だと思っていたので彼らと敵対する話なのかと思ったらそういうわけではなく、「原稿は燃えたりしない」と言うのは彼だし、むしろ悪魔と取り引きをする話で、神と悪魔は光と影の分かちがたい両面だという印象がある。

編集長ベルリオーズは詩人ベズドームヌイのイエス・キリストを扱った作品を拒否し、イエスの実在を否定する。この冒頭の説教は1930年代スターリン体制での宗教弾圧を踏まえたものだろうし、神・宗教を否定する社会に悪魔が現われる反体制の話だと気がつく。騒動が起こるのも、作家協会や劇場というブルガーコフが小説や戯曲を発表できなかった場所が集中的に狙われていて、これに気づくとめちゃくちゃダイレクトな恨みじゃないかってちょっと笑うんだけれど、そう思うとぐっと身近に感じられるし発表を禁じられた作家が「巨匠」なのもとても良い。

作中作のユダヤ総督ピラトの裁可によって処刑されるイエス・キリストことヨシュアの話では、ヨシュアは皇帝権力に刃向かうことで目を付けられたけれども、ピラト自身にとっては救命したい対象だったという話が展開される。これも体制とその反逆者、あるいは光と影のエピソードでもあるか。ピラトが犬を撫でたいのを見破られて興味を惹かれる場面がとても良い。

実名を捨て巨匠と名乗る作家が燃やしたその作中作の原稿が悪魔によって灰のなかから蘇るのも、神と悪魔という超自然的な存在の否定に対するアンチテーゼ、幻想を否定する体制への超常的存在・幻想による都市の蹂躙をもって応えている。そしてマルガリータは悪魔と取り引きをしてホウキに乗って空を飛ぶ自由を手に入れる。この開放感と空から見た都市の描写。この自由が特に重要で、燃やした原稿もこの自由も悪魔との取り引きで手に入れている。宗教弾圧への抵抗に留まらない悪魔の描き方という感じがする。

この悪魔ヴォランドや催眠術師、殺し屋、二本足で立つ黒猫を含めた一味がモスクワで巻き起こす奔放な騒動の数々は前半のエンターテイメントとしても読ませるものになっていて、カーニバル的というか、そういう混沌の面白さがある。ゴーゴリの「鼻」以来の伝統なのかも知れない。

混沌の前半に対して主人公がようやく出てくる中盤から、巨匠とマルガリータの物語が本格的に展開し始める。主人公「巨匠」はイエスとピラトの物語として作中に挿入される作品を書きながら発表を禁じられ精神病院に入れられることになった人物で、彼に作者自身の投影は当然ある。もちろんそれだけではなくて、ここでは発禁作家、作中作で処刑されるイエスを救いたかった総督ピラト、恋人の作品を救いたかったマルガリータといった作家と読者と作中作の人物関係が重ねられ、またさらにイエスやピラトが巨匠の作品を読み、作者が作中人物に自由を与えるという複雑な関係にまで至る。

ここは作中作の人物というより史実の人物として出てきているんではないかとも思うけど、どちらとも言い切れないように思えるし、最後にヴォランドが「さあ、これであなたはあの小説を一つの文言で締め括ることができるのです!」(451P)と言っていて、メタフィクションの文脈も確かにある。

そしてそこでは自らが下したイエスヨシュア処刑の命令以来、2000年にわたって自問自答の軛に囚われてきた自らの小説の主人公に自由を与えることになる。「お前は自由だ! 自由だ! 彼がお前を待っているんだ」(451P)という救済。作者も作品も作中人物にも与えられる自由。

芸術をめぐる抑圧とその抵抗としての狂乱から、文学作品をめぐる様々な意味での救済にまで至る仕掛けがあり、感動的なものがある。読んでいる時より何故か読み終わった後の方がじわじわと来るものがあった。ファゴットの正体が示唆されてるけど誰か分からず、読み落としてるものもかなりあるだろう。諷刺的で幻想的でメタフィクション的。十数年積んでたけど、これはとても良かったですね。不倫して魔女になって空を飛ぶマルガリータもなかなかすごい。読んだのは郁朋社版中田恭訳の一巻本。大判なので寝転がって読むには不適だった。いつか文庫版なんかで再読してみたい気持ちはある。

ミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓・運命の卵』

犬に人間の脳下垂体を移植したら粗暴でトラブルを起こす人間に変容するドタバタを描いた長篇と、成長を促進する赤い光線が巨大な蛇の群れを生みモスクワが危機に陥る中篇の、人間が生物を意のままにしようとした顛末を描く諷刺的SF二作の新訳。

「犬の心臓」は犬の主観視点から始まり、野良犬コロがある学者の脳移植手術で言語を獲得し人間となり住民コロフとして市民の地位を得るもののの、犯罪者の脳下垂体由来の性格がトラブルになり再手術で犬に戻されてしまう。「優生学、人類の改良」の批判だというのは明確だろう。ただそれにとどまらず、ソ連という人工のユートピアそのものの批判でもあるという。犬の方も自分を「ブルジョワの犬」と呼んだり皮肉に満ちており、実験した教授も犬はそのうち自分に正しい説教をし始めるのではないかと危惧していて、立場が逆転しかかっているという構図もある。教授の立場から語られているし犬のほうも人間になるとかなりタチの悪い行動をするので一見すると教授に肩入れして読んでしまうけれども、当然教授の傲慢さは批判の対象なわけで、ある程度裏返して読む必要もある。多く部屋を占有する教授も体制に睨まれかねない存在でもある。

1920年代、都市に人間が集中することによる住宅難から部屋が共有財にさせられ、他人の住居として割り当てられるという政策が注釈になってるけどその背景がなかなか面白い。『巨匠とマルガリータ』でも部屋が重要な場所になっていたのはそういう都市政策が関連していたわけか。人間になり言葉を話すようになる犬はアルジャーノンっぽくもあるけれど、フランケンシュタインテーマというか、人々を領導しようとした人間が飼犬に手を噛まれる話なわけで、これは革命によって成立した政府が新しい人間を育成しようとしてもその新しい人間に革命されかねないという皮肉か。

「運命の卵」は古典的なパニックSFと言っても良いかもしれない。赤い光線で成長繁殖を促進させることができる発明と、鶏の感染症で地域の鶏が壊滅的打撃を受けた時、その光線で鶏を繁殖させようとして怪物を生んでしまう。この赤い光線というのが赤軍を指しているというのは気づかなかった。光線を当てられて怪物になるドイツから送られてきた卵というのがマルクス主義のことで、という解説での説明はこの作品の諷刺の背景の説明になっていてそういうのが無数にあるんだろうなというのがわかる。ジュラシックパーク未見だけどそういう話の参照先の一つかも知れない。

「運命の卵」は深見弾訳、水野忠夫訳、この増本・グレチュコ訳の三種類が文庫になってて手元にある。他にもあるかは知らないけど、卵に関する歌が出てくる箇所、本書だけが卑猥さのニュアンスを出してるんだけどこれが正しいんだろうか。

解説でブルガーコフスターリンに気に入られていて、特定の劇場で作品を上映できるようにしてスターリンは何度もお忍びで観劇に来たという話が語られていて、これ『巨匠とマルガリータ』のピラト提督とイエスの話の裏付けだと気づいた。

イサーク・バーベリ『騎兵隊』

ウクライナの港町オデッサで生まれたユダヤ人作家。1920年ソヴィエト・ポーランド戦争に従軍した作者がその体験を元にした掌篇30数篇で構成される一冊。家族が殺し合い、ユダヤ人が虐待される戦地の光景や兵士の身の上話など、事実に基づきながらも自在に改変されて詩的な表現によって描かれる虚構でもあるという。戦争の光景のスケッチや兵士たちの語る話には、地域的にアレクシェーヴィチの聞き書きを思い出すところもあるけれど、バーベリのものはより表現に技巧が凝らされていて、元々作品の素材を得るために従軍記者になったという通り、記録性を志向しているわけではない。

最初のページに「蜜柑色の太陽が切り落とされた首のように空を転がり落ちた。」という印象的な一文があり、これがなんとも全体の象徴のように思える。汽車として従軍する語り手が戦争の一断面を伝えているけれども、その語り手もインテリとしてコサックなどから軽侮の対象になっている。

俺たちのところでは、どうしても眼鏡をかけたやつへの悪さを止めることができない。どんなに勲功があろうと、眼鏡野郎はいたぶられるのさ。だがな、もしもあんたが女を――清らかな女を汚しでもすれば、兵士たちの親切を当てにできるぜ。57P

語り手は銃に弾を込めずに戦場へ出たことで殺されそうになったり、瀕死の兵士にとどめを刺せないことで友人を失う様子が描かれている。「ドルグショフの死」ではこう言われる。
「ぶっ殺すぞ! お前たち眼鏡野郎は、俺たちの兄弟を、猫が鼠を憐れむように憐れんでやがる……」
「ドルグショフの死」──バーベリ『騎兵隊』より|松籟社note|note

また語り手は自らがユダヤ人と言うことを隠して従軍し、そのさなかにユダヤ人が虐待される光景を目の当たりにしたり、同行者から今いるユダヤ人が1000万人だとすれば、戦後に残っているのは20万人くらいだろうな、と嘲笑される。語り手は暴力の間近で染まることもできない境界上にいる。しかし語り手についての話は今作では多くはなく、主たる部分は戦場でのさまざまな人物の話のほうで、兵士の手紙の引用など他人の主観による語りがあったりするのに聞き書きっぽい印象を感じる。自分の馬を奪われて離党宣言を出すことになる「ある馬の話」のフレーブニコフなどは特に印象的。

また「アポレクさま」という短篇には、市井の人々を聖像画にして描いた人物が出てくる。

最もうらぶれて悪臭を放っている百姓家にすら、そこに住む家族の戦慄すべき肖像画の数々が見いだされた。葦毛色の髪を真ん中で分けたヨゼフたち、ポマードで髪を固めたイエスたち、両膝をがっぱと開いて座っている多産な田舎女のマリアたち――これら冒涜的だが純朴で鮮やかな聖像画は、紙で作られた花々に囲まれて、百姓小屋の聖なる隅に掛けられていた。36P

これは本作の方法にも近いものがあるのかも知れない。解説で訳者は、

バーベリは『騎兵隊』において、それが生じた文脈から「事実」を取り出して「断片」と化し、聖書や神話中の人物・挿話といった異なる文脈に属する「断片」と結びつけて重層的な詩的ヴィジョンを作り出している。この操作によって人物や出来事のエッセンスだけを凝縮して表象することが、『騎兵隊』の詩学の根幹である。236P

と述べている。歴史的な時空間と切り離されたところで伝説的な人物を描く『オデッサ物語』と逆に、歴史的な空間のなかの人物を伝説化する試みが『騎兵隊』なのかも知れない。

バーベリは「真に喜ばしく明るい太陽の記述は、ロシア文学にこれまで存在したためしがないということにならないだろうか? ツルゲーネフが讃えたのは、露の朝や夜の安らぎだ。ドストエフスキーに感じられるのは[……]ペテルブルグの秘密めいて重苦しい霧である」226Pと述べる。ウクライナ出身のゴーゴリの明るい太陽の記述も文学史的には挿話に過ぎず、ロシア文学においてゴーゴリが重要なのは結局はペテルブルグもののゆえで、訳者は「ゴーゴリにおいてさえ、結局はペテルブルグの霧がウクライナの太陽を凌駕したのである」226Pとまとめている。バーベリはこのロシア文学の象徴性や思弁性、分析的な伝統に対して、オデッサ出身の自らの南方性を志向していたという。それを踏まえるとオデッサから来た語り手がヴォルィニ、ガリツィアで従軍する今作が「蜜柑色の太陽が切り落とされた首のように空を転がり落ちた。」と始まるのが実に象徴的に思える。

途中サヴィンコフの名が出てくるのはロープシンことあのサヴィンコフなんだろうか。今作については松籟社版訳者中村唯史の解説も参考になるけれど、そのベースにもなってる97年「スラヴ研究」誌発表の『騎兵隊』論文がより詳細で面白い。
『騎兵隊』論:その成立過程と構造について

「コサック」と「弱者」のタイプの対比を、「自然人」と「文明人」の構図として把握し、上でも引用したアフォニカ・ビダの位置づけを経由して、「バーベリは、本質的に「文明」の側に属しながら「自然」の氾濫を待望するという、アイロニカルな位置に立っていた」と結論づけている。本書は松籟社木村様から恵贈いただきました。ありがとうございます。

イサーク・バーベリ『オデッサ物語』

ウクライナ南部の多様な人種が集う港町オデッサでのユダヤ人ギャングらを描いた表題連作のほか自伝的短篇連作などを収める。誇張、デフォルメが施されたギャング伝説を描いた後に、彼らが赤軍に無惨に殺される伝説の終焉を語る短篇で締められるのがことに印象的。

四篇からなる『オデッサ物語』は、20世紀初頭のオデッサに君臨したベーニャ・クリク、フロイム・グラチらユダヤ人ギャングの一族を描いており、最初の一篇では結婚式の日に新任の警察署長がギャング一掃を狙ってると知り、「王」たるクリクが逆に警察署を炎上させる顛末が描かれる。結婚式、葬式、出生などの神話的な縁起譚を軸にして、「ベーニャ・クリクについて語り合おう。稲妻のようなその勃興の物語、また彼の悲惨な末路について語り合おう」24Pという通りの、内面性ではなく、肉体の讃歌とも言われた伝説めいた語りで事跡がたどられる。ギャングの話ではあるけれど、「我等ユダヤをロシアに住まわせ、地獄のような苦しみを味わわせた事は、果たして神の過ちではないでしょうか?」35Pというくだりがあるように、このロシアにユダヤ人が住むことの苦難が背景にあり、ポグロムに遭った体験を描いた「私の鳩小屋の話」にも通ずる。

自伝的連作「私の鳩小屋の話」は、子供の頃の作話癖などを絡めつつ、「ギイ・ド・モーパッサン」という短篇でモーパッサンの翻訳をする、ある意味作家誕生を物語る連作になっている。表題作にはポグロムに遭遇し、鳩を殺され、大叔父を殺され、自宅を破壊されたことが記されている。なぜユダヤ人が狙われ、自分たちが襲われるのかがわからない子供の視点から圧倒的な不条理として襲いかかるなんとも暴力的な一篇。ここにちょっと面白い文化の言及がある。

わが家の夕べの席で、彼らはハッシド派の歌をうたった。詞がたったの三語で成り立っているくせに、さまざまに面白おかしい抑揚をつけ延々と終わることのない歌である。過越しの日をハッシド派教徒の家で迎えるはめになったり、ヴォルィニの騒々しいシナゴーグに居合わせたことのある者でなければ、この抑揚に潜む魅力を理解することは難しいだろう。81P

作家誕生の自伝的作品だからか他にも例えばこんなくだりもある。

書物で読みかじった事柄に、私は自分の空想を次々に加味していった。それなしには、私はうまく話せなかったのだ。108P

特に面白いのは次のもの。

「君がものを書いているとは知らなかったよ」とニキーチチは言った。「そう言えば、たしかに君は、そういう、ちょっと独特の眼つきをしているね。まるで何ひとつ見ていないような、変わった印象の眼だよ……」133P

観察よりは何も見ていない空想的な側面が強調されているのが『オデッサ物語』のファンタジックな側面の傍証のようでもある。『オデッサ物語』のそうした語りに対して、この自伝的作品ではリアリズムに基づいた落ち着いた語り口になっていて、そうした空想性が相対化されているとも言える。

最後に収められた二篇はともにある種の終わりを描いたものだ。「カルル・ヤンケリ」は夫に無断で赤子に割礼を施したことが裁判沙汰になる一篇で、ユダヤ人としての伝統が世代間の軋轢に見舞われる様子が描かれている。そして「フロイム・グラチ」はまさにこの人物の終わりを描いている。

「フロイム・グラチ」は1919年、ベーニャやフロイムら『オデッサ物語』のギャングたちが赤軍に対して蜂起を起こし、殺されるまでの話になっている。神話的時代の伝説の終わりだ。非歴史的とも言われる『オデッサ物語』の時空間は歴史的な年号とともに記録され、終わる。

「それは壮大なる人物です」とボロヴォイは答えた。「奴に会われるというのは、つまり全オデッサがあなたの前に立ち現れるということです……」189P
「ただ、あなたはオデッサの方じゃない。だから、あの老人の一生が、そのまま一つの歴史であったという事が、あなたには分からないのです……」192P

オデッサ物語』はソヴィエトポーランド戦争以前の非歴史的空間で、冒頭から日時が明示され赤軍が二人を殺害する「フロイム・グラチ」によってその時空間が歴史によって寸断され、しかしその赤軍は『騎兵隊』では敗走していくことになる。バーベリのこの二冊で円環が閉じられるような印象がある。
バーベリ『オデッサ物語』論 : 「オデッサ神話」と「讃歌」について

訳者中村唯史の論文が読めるけど、『オデッサ物語』のクリクの喋りはオデッサの文学青年たちが真似したりしてた一種独特のものだったようで、オデッサでの言葉遣いとはやや異なりながらもいかにもオデッサ風だと受けとめられたものだったというのが面白い。ユダヤ人としてヘブライ語や聖書の教育を受け、英仏等ヨーロッパの言語、両親はイディッシュ語、子供たちはロシア語を使うという多言語環境にあった。モーパッサンの影響もあり、初期はフランス語で創作していたという。

バーベリは後に、英語やイディッシュ語の統辞法をロシア語の文章に巧みに取り入れ、「文体の名匠」と称えられるようになる。196P

自伝的連作の一篇が、バーベリの文学的抱負が破綻したことを自ら語ったものだという訳者の分析がこちらで読める。作家誕生の自伝と思いきや、太陽の讃歌がペテルブルグの霧に覆われる挽歌だ、と。
バーベリ『ギイ・ド・モーパッサン』をめぐって--「霧」と「太陽」の葛藤 | CiNii Research

高橋保行『ギリシャ正教

1980年に書かれたギリシャ正教の概説本。西欧カトリックを進歩的で中央集権的なものとしつつそれとの比較によって伝統的なスタイルを残す正教のありようを浮き彫りにしていく。『カラマーゾフの兄弟』を正教の思想がよく現われたものとして随所で言及するのが特色か。

ギリシャ正教は990年から1917年までロシアの国教にもなり、東欧諸国の文化的背景にもなっているだろう。著者は西の「発展」と東の「伝統」という対比をしている。また、西(カトリックプロテスタント)が原罪説を採るのに対し、東は「人間は神に善なるものとして創造されたことを強調する」(79P)。同様に東は聖と俗の二元論的構図も採らないとしている。ピラミッド型の組織を作る西に対して、同列のコミュニティを中心とする東、という伝統的スタイルも強調されるところだ。他にも正教の特色として、表現が記号化され、文字が読めなくとも一目瞭然な伝達手段としてのイコン美術の話もある。

ただ、疑問なのはイエス・キリストの神性についての話のなかで、神でもあるけれど同時にただの人でもあるという説と、「生神童貞女マリア」とも呼ばれるように父もなく処女のままマリアはイエスを生んだという説は並存できない気がするんだけどそれはどう解決しているのか。

藤井悦子、オリガ・ホメンコ編訳『現代ウクライナ短編集』

それまでの15年間に書かれた作品から選ばれ1997年に刊行された原書のうちから15篇を訳出し、2001年に書かれた一篇を追加した選集。1930年頃の大飢饉を神秘的に表現した作品から現代の賄賂にまつわる家庭の話などが印象的。

エウヘーニヤ・コノネンコ「新しいストッキング」、妻やパートナーは取り替えられるし子供は何人も作ることができるけど母はこの世にただ一人、というモットーが支配する家庭、という冒頭からなかなかの地獄めいた始まりをする一篇で、強権な母とそれに従う息子と妻の構図がある。その母の手術において貯金はあるのに使うのを惜しんで、賄賂の代わりに妻を執刀医に差し出せば良いと言い、夫もそれに従ってしまう。賄賂が普通の社会と、親の意見に抵抗できない気弱な夫のなかで妻がもっとも弱い立場に立たされてしまう状況を批判的に描いたもの。

カテリーナ・モートリチ「天空の神秘の彼方に」、本書で一番長い作品で、1930年代のソヴィエト連邦での人為的な大飢饉が襲った農村を、霊体視点も交えて描いたもの。ホロドモールという固有名詞が最近はよく使われるけれど、ちょっと古い本だとこの言葉はあまり出てこない印象がある。「死は存在しないのだから。死ぬことはひとつの生から別の生に移ることなのだ」104Pというフレーズが出てくるように幽体離脱する語り手を描きつつ、飢饉に陥れられる農村の様子を描いてウクライナ民族の受難と怒りをたどる。悲惨が極まり幻想的にしか描けないような印象がある。

ユーリイ・ヴィンニチューク「ミシコとユルコ」、幼い頃の親友同士の思い出をその父と出会ったことで思い返す短篇で、短篇らしいオチがついているのだけど、オチから考えるとこの主人公はどうして故人の父にあえて死んだ息子のことを思い出させるような話をしているのか謎ではある。

スヴィトラーナ・ピールカロ「彼と彼女の話」、本書で最も新しい新世代の作家の作品で、グローバル時代の現代を示すものとして収められた一篇。男女二人の視点を交互に行き来しながらその出会いと関係の深化を描いていて、本書での男性作家、女性作家の流れを綜合したかのような印象もある。「世界は二つに分かれている」というフレーズに分断を示しつつ、本作の男女の出会いにはそれを超える希望が込められているか。軽妙な語り口で現代のウクライナを描いているけれど、女性がウクライナ文学を選んだことなど、ロシアへの視点には微妙な陰影がある。

「人間はまったく愚鈍だ。人間は、ヒトラーやルカシェンコやジリノフスキイに投票してるじゃないか。強制されたわけではなく、自発的に。ばかは死ななきゃなおらないのさ」228-9P。

「世界は二つに分かれている」の直前にこのくだりがあるのは意味深でもある。「両親はオブヒフ州出身」で子供たちにロシア語で喋って欲しかったけど、反抗心から女性は大きくなってからウクライナ語で喋るようになりウクライナ文学を専攻したというくだりがある。田舎の町言葉としてロシア語があってウクライナ語が都会的なものなんだろうか。言語環境は結構わかりづらい。

イワン・ツィペルデューク「友の葬送」は、喪失のありようを一筆書きで鮮やかに抉った掌篇。

ワシーリ・ハーボル「未亡人」は、若い未亡人の元に夜這いに訪れた村長がそこで自分の息子を見つける俗っぽい喜劇なところは面白い。ワシーリ・ポルチャク「脱出」の寓話的な閉塞感溢れる一作なども印象的。

プロフィールを見ると五人ほど、三分の一が女性作家なのは本書の性格を表わしているようにも思う。訳者も女性だ。キエフ・ルーシから説き起こし、辺境の言語と見なされたウクライナ語を文学的言語として確立した国民的詩人シェフチェンコを経て現代に至るウクライナ文学史をたどる解説が貴重。解説の文脈から言っても本書の作品は全部ウクライナ語で書かれているものの直接訳だと思うけれど、自明すぎてそれが明記されてない気がする。ウクライナの作家といってもロシア語で書く作家もいるのでどっちなんだろうと思ってしまった。本書はウクライナ文学の原語訳という貴重な訳書、のはず。

服部倫卓、原田義也編『ウクライナを知るための65章』

2018年に刊行されたおなじみのシリーズの一冊。通例の地理、歴史、文化、経済、社会について多くの著者による視点から書かれた文章が集められており、クリミア「併合」以後、戦争以前のウクライナの状況も知ることができる。

とりわけドンバス紛争やオレンジ革命、マイダン革命などを経たロシアとの関係の綱引きぶりが興味深い。ガス価格などのエネルギー問題が政治と直結しており、ヤヌコーヴィチ政権がロシアからのガス値引きに応じてEUとの連合協定調印を延期したことがマイダン革命に繋がっている。クリミア併合に至る流れはよく知らなかったけれども、マイダン革命派がヤヌコーヴィチ支援の活動家を襲撃してガラスの破片を食べさせた映像を加害者側が撮っていたという話があり、警官の犠牲者とこのコルスンでの襲撃がクリミア住民に大きな影響を与えたという。そしてクリミアタタール系住民が投票をボイコットしたため、併合についての住民投票で90パーセント以上の賛成票が投じられたとある。クリミアは元々ロシア語話者が多く、1954年にフルシチョフが友好の証としてロシア共和国からウクライナ共和国にソ連内のこととして移譲された歴史がある。この住民投票がどれだけ適正に行なわれたかはよく分からないけれどもクリミア「併合」の成功体験は今時の作戦見積もりに大いに影響があったんだろう。しかしそれは元々のロシア語話者の多さや地理的歴史的経緯ゆえなわけで、ウクライナ全体を容易に落とせると見誤ったのは謎ではある。

ロシアのガスパイプラインがウクライナを通過していて、ウクライナはその通過料を得ることが出来るなど、経済的に相互に依存している関係だったのが窺える。ウクライナ側がEUに寄ろうとするとガス価格などでロシアが引き戻そうとする、そういう一進一退の綱引きの様子が述べられている。今回の戦争のようにウクライナの政権転覆、ウクライナ民族意識の消去を狙った大勝負に出なければ、賛否分かれる状態を維持したままドンバスの実効支配を固めていくこともできたかも知れないとは素人目には思うけれども、今回のことでどちらが悪かがきわめて明瞭になったのは自爆というしかない。

ウクライナの東西問題について、

専制君主制と抑圧を特徴とする帝政ロシアと、議会政治の伝統を持つハプスブルク帝国という異なる体制下に置かれた東西のウクライナ人の違いは、第一次世界大戦第二次世界大戦ソ連時代から独立後に至るまで、ウクライナ社会に大きな爪痕を残す。151P

という指摘がある。西部のリヴィウは第二次大戦後の住民交換によって80万人以上のポーランド人が強制移住させられた歴史があり、ある筆者は「ウクライナ人は、当時は農民だったくせに、私たちが建設したリヴィウのような美しい都市を奪った」47Pと言われたことがあると書いている。

独立以降のウクライナが経済的に落ち込み、かなり貧しい国でもあると指摘されている。またヤヌコーヴィチ大統領一家が国の資産を年間数十億ドル単位で簒奪していた、というどでかい汚職の話があったり、クリミア併合では数パーセントのGDPを失い、石炭や鉄鋼の産地が奪われた。しかしクリミア併合は「ウクライナNATO加盟に強く反対してきたクリミアのロシア系住民が切り離されたことで、ウクライナ内政における西側思考が強化され、したがってNATO加盟支持も構造的に上昇したのである」359Pという逆効果を起こしており、これは今度の戦争で決定的になった。ソ連内で第二位の経済規模だったけれども自由化後の諸外国相手では製品の程度が低く競争力がなかったという話があり、また農産物でも「小麦、大麦、とうもろこしの世界的輸出国として台頭し(ただし品質等の問題で家畜飼料用が主流)」312Pというくだりがあり、未だ問題多しというのが見てとれる。

そんな難しい状況だけれども、政治と絡んでガス料金が八倍に値上がりしたという状況下で、平均賃金が2013年から2017年で倍以上に上がっててきちんと経済成長してるのがすごいなと思った。四年で倍以上……。

巨大輸送機ムリーヤの写真があったり、さまざまな観光名所や文化遺産などの情報は今どれだけのものが破壊されているのかと思いながら読むことになるわけで、なかなかやりきれないものがある。ウクライナ情勢についてツイッターでも良く目にする人も幾人かいる。

しかし、地図を見るとポリッシヤ地方とポジッリヤ地方があるの、青梅と青海みたいなのがあるんだなと思った。

小泉悠『ウクライナ戦争』

ロシアの軍事研究者が今回の戦争を「第二次ロシア・ウクライナ戦争」と規定し、昨年九月までの戦争の過程と開戦理由を論じる新書。2021年から開戦前夜に至る経緯に半分近い紙幅を割いていて、著者自身も見誤ったプーチンの不可解さが印象的。

全五章の構成の内、最初の二章が開戦前、次の二章が戦争の経過、最後の章がこの戦争の意味を論じる形になっている。ウクライナ軍が東部で大規模な奪還作戦を成功させ、ロシアが第二次大戦以後では初めてとなる部分動員を発令した昨年九月頃までが本書で扱う期間となる。2022.2.24開戦以降のロシアの作戦見込みの甘さや指揮系統の混乱に対するウクライナの抵抗の強さなど、断片的な情報はウェブでも見知っていたことだけれど、専門家の立場から一貫した視点で整理されているのは事態を改めて振り返るのに良い。

本書で重要だと思えたのは開戦以前、個人として非常にロシアに甘かったトランプ大統領時代からバイデン政権に変わるあたりでの米露関係とウクライナとの関係を論じたところだ。開戦時からの情報は色々見たけれど、開戦直前までの経緯はほとんど知らなかったので参考になる。軍事演習をめぐってロシアが強硬な態度を見せればアメリカ側が宥和策に出てという緊張と緩和の綱引きが営々と行なわれていて、ここには政治的な駆け引きが存在しているように見える。だからこそ、軍事的には戦争へのカウントダウンといえる状況でも著者はまだ楽観的な見方を捨てられなかった。事前にプーチンウクライナ民族の否定を含む長大な論文を発表していたものの、そこから類推される最も過激なシナリオはロシアにも多大なダメージを与えることになるだろうし、そこまで不合理な方針をとるとは「ロシア屋」として考えづらかったということは繰り返し述べられている。

この「軍事屋」と「ロシア屋」の分裂、日本人とロシア研究者としての分裂は本書の基調とも感じられる。しかし一番の分裂は数として捉えざるを得ない個人の死があることを知りつつ、その名を伏してマクロな軍事的分析を続けていることだろうし、これは前書きや後書きでいくらか触れられている。そして、一貫して今の事態がどうして起こっているのかはわからないとする著者のスタンスが繰り返し明記される。何故こんなことになるのかわからない、そんな戦争を前にした茫漠とした気分にさせられる。

著者はプーチンについてこう述べる。

プーチンはその後も、自国や友好国での政権に対する異議申立てを外国の介入とする見方を繰り返しているが、そこに存在するのは「自発的な意志を持った市民」というアイデアそのものへの深い懐疑である。
(中略)
大衆が自分の考えで政治的意見を持ったり、ましてや街頭での抗議運動に繰り出してくることなどあり得ず、そのような事態が起きた時には必ず首謀者と金で動く組織が背後に存在するというのがプーチンの世界観なのである。41P

日本でも腐るほど見るおなじみの「世界観」だ。

「つまり、ウクライナを勝たせる方法自体はわかっているのだが、西側はそこに踏み込むことを躊躇い続けていた、ということになる」167Pとあり、ジャベリンやHIMARSなど大きな威力を発揮する西側の軍事援助が渋られているのは、戦争の拡大やロシアの核抑止を恐れているからというのもジレンマではある。

戦争の歴史を概観しつつ、個々の戦闘様態の変容はあれど「第二次ロシア・ウクライナ戦争は21世紀のテクノロジーを用いたハイテク独ソ戦とでも呼ぶべき戦争であり、根本的な「性質」の方はあまり変化していないのではないか」196Pというのがこの戦争のありようについての分析となっている。

帯に「全貌を読み解く」とあるけれど、著者はさまざまな点について体制が変わった後でもなければ本当のところは分からないと言うことを繰り返し強調していて、著者の慎重なスタンスを汲まない煽りだなとは思った。あ、「全貌を読み解」いても分からなかった、ってことになるから良いのか。

ロシアの息のかかった民間警備会社をウクライナ各地に作るために多くの資金が提供されていたと言う話があって、初耳だけどそんなことあったんだそれはヤバいなと思ってたら数ページ後に資金は着服されててそういう会社がちゃんと動いたニュースもないとあってそんなことなかったんだ、ってなった。さすがに笑ってしまった。

クラウゼヴィッツとかはまだしも、チェーホフやオースティンとかがさらっと引かれている語り口が面白いけど、貴族の没落を描いたロシアの戯曲が引かれるのと、プーチンの驕りに対してイギリスの『高慢と偏見』が引かれるの、それなりに含意を読みとることもできるだろうか。