最近読んでた本

エルネスト・ルナン『国民とは何か』

宗教学者による1882年の古典的な国民国家論を講談社学術文庫で新訳したもの。アルザス・ロレーヌ地方の割譲を踏まえつつ、言語、人種、民族という類似性によってではなく住民の意思において国家への帰属は決まるとする主張は現代でも古びていない。

ウクライナ生まれのブルガーコフの大作を読んでちょっと一休みで100ページもない薄い本を読んだらダイレクトに繋がるものだった。40ページもない講演の翻訳に40ページ近い丁寧な解説は国民国家論の概説にもなっていていろいろちょうど良い。

実際のところ、純血の人種など存在せず、政治を民族誌学的分析によって基礎づけるのは、政治を妄想に委ねるに等しいことです。イギリスやフランスやイタリアといった最も高貴な国々は、最も混血が進んだ国です。23P
ヨーロッパの最初の諸国民は、本質において混血の国民なのです。25P

ここら辺は混血性の称揚として面白いけれども同時にヨーロッパの優越の議論にもなっている点で象徴的な部分だ。事実、訳者解説ではルナンのレイシズムをはっきりと指摘している。その前に、本書の趣旨の部分について私が何か書くより適宜引用するほうが良いだろう。以下長めに引いておく。

スイスは実にうまくできていて、多様な部分の合意によって形成されたため、三つないし四つの言語が存在します。人間には言語に勝るものがある。それは意志です。地域言語の多様性にもかかわらず統一を求めるスイスの意志は、しばしば屈辱的な思いをして獲得した類似性よりはるかに大切なのです。28P

国民とは魂であり、精神的原理です。 本当は一つである二つのものが、この魂、この精神的原理を構成しています。一つは過去に、もう一つは現在にあります。一方は豊かな記憶の遺産の共有であり、他方は現在の同意、ともに生きたいという願望、共同で受け取った遺産を活用し続けようとする意志です。34P

国民とは、したがって、人々がこれまで払ってきた犠牲、これからも払うつもりでいる犠牲の感情によって成り立っている大いなる連帯です。それは過去を前提としますが、明白な事実によって現在のうちに凝縮されています。すなわち、共同生活を続けていくという、はっきりと表明された同意であり願望です。個人の存在が生命の絶えざる肯定であるのと同じように、国民の存在は(この隠喩を使わせてもらえば)日々の人民投票である。ああ、私は知っています。それは神授権ほど形而上学的でもなければ、いわゆる歴史的権利ほど乱暴でもありません。私がここで提示した考え方に従うなら、国民は王と同じく、ある州に対して「おまえは私のものだ、私はおまえを手に入れる」などと言う権利はないのです。州とは、われわれにとって、住民のことです。この問題に関して意見を聞いてみるべき者がいるとすれば、それは住民です。ある地方をその意に反して併合したり引き止めたりするのは、国民にとって本当の利益には決してなりません。結局のところ、国民の意向こそが唯一の正当な判断基準であり、つねにそこに立ち返らなければならないのです。35-36P

有名な、日々の人民投票という文言の文脈はこういうもの。「個人の存在が生命の絶えざる肯定である」という比喩もなかなか面白い。ルナンのレイシズムについては訳者は以下のように書く。

端的に言えば、ルナンにとってヨーロッパは和解の基盤だった。ヨーロッパの内部に文明化の使命という共通の課題を自覚させることで、人種の不平等を対等な国際関係に昇華させること――それはしかし、裏を返せば、「文明の共同作業」と無縁なヨーロッパ外部の世界に対しては、民族誌学的知見あるいは「人種の政治」が有効であるということを意味していた。ヨーロッパとその外部の関係は優等人種と劣等人種の関係に等しく、そこにはヨーロッパの内部で抑圧されたレイシズムの論理が回帰する。54P

ルナンのレイシズムを示す一節が『フランスの知的・道徳的改革』から引用されている。

「大がかりな植民地化は、まったくもって第一級の政治的必要事である。〔…〕優等人種 が劣等人種の国を征服し、その国を支配するためにそこに留まることは、何ら道理に悖ることではない。〔…〕対等な人種間の征服が非難されなければならないのと同じくらい、優等人種が劣等人種や退化した人種を再生させることは、人類にとって摂理に等しい。〔…〕自然は労働者の人種を作り出した。これが中国人種である。〔…〕大地を耕す人種、これが黒人である。〔…〕主人にして軍人である人種、それがヨーロッパ人種である。55P

清々しいくらいの人種差別思想だ。訳者解説は近年の研究も踏まえた概説で有用。

ルネ・デカルト『方法叙説』

同じく学術文庫の新訳。ざっと読んでみると、難解な哲学的著作と言うより『屈折光学』『気象学』を含めた著作の序文として書かれたとあるように、学問を行なうにあたって自分の来歴も含めて語った心得、方法論のようなわりあい実用的な印象がある。

副題に「自己の理性をよく導き、諸学の中で真理を探究するための」とあるように真理に到達するための手続きという感じで、有名らしい四つの準則では明証的なものだけを真理と受け入れること、部分に分割すること、単純なものから始めること、最後に全面的に見直すこと、というのがある。なるほどなあというか部分の分割は今もよく言われる。当時の学問状況についても色々触れていて、コペルニクスの件を受け、自分の学説を公表しない理由を述べたところが結構面白い。自分以外に自分の論説について有益な批判をするものがいなかったので公刊する意味がないと言ってたりする。そうした反論批判にかかずらうことで時間を無駄にすると。ここらの公刊をしない理由付けは色々今の学問的常識とは違ったところがある。

ちょっと面白いのは、実験する際、雇って有効なのは高給を望む職人で、無償で良いと言う人間は有害無益だと現実的なことを言ってるところ。

山野浩一『花と機械とゲシタルト』

精神病院で革命が起き、医者が患者を管理するものから、「精神分裂病」の患者たちが自主的に運営し「我」と呼ばれるゲシタルトに自らを委ね一人称を「彼」「彼女」とする生活を送るようになった反精神病院での幻想空間の拡大とその終焉を描く長篇。

何らかの才能を持っているものの自我を保ちえなくなっていた患者たちが「我」のもとで平穏に暮らしていけるようになっているけれども、オブジェを作って「我」に抵抗している者もいるなか、いつしか「我」は次第に現実を侵食し、市街は無人の空間へと変貌してしまうまでになる。集合的な「我」に自身を預けるという設定は、読んでいるとこれは天皇制のことかと思うしそれを先取りした言及もあるけど、そこに収まる話でもない。政治的な解釈をするなら、この病院はむしろ「革命」が成就した、革命のユートピアの破綻と読むこともできるけどそれも違うだろうと。

内ゲバの寓話でもなく、現実と幻想の関係がやはり主軸になっていて、個々人の幻想とそれを統括する存在との関係を通して幻想が現実を侵食していく変容が描かれ、リアリズムに対する抵抗が描かれてるように思える。内宇宙を通してこそ外宇宙へと繋げていくような。幻想の空間からUFOに乗って空へと飛び立つ場面があり、「全ての星がすべての人々の幻覚の有限です」という理論を話すところが印象的なんだけれども、これは内宇宙か外宇宙か、ではなく内宇宙から外宇宙へのルートが描かれてると捉えられるだろうか。

才能があったりなかったり、社会不適合者たちがその軋轢を起こさずに生活できる場所というアジールでもあって、ここにあるのは内ゲバ天皇制の隠喩ではなく、「ここに生活した彼や彼女たちがいかに幸福であったか」291P、という個々人の存在が肯定される場所でもあったというのが重要なポイントだと思われる。

岡和田晃による解説で山野のスタンスとして指摘される、「山野によれば「SFらしいSF」として「科学的整合性」を求める姿勢は、そのままリアリズム(小説)の論理へとすがりつく営為にすぎない」、「自由であるはずの狂気に、意味としての「病識」が付与される、その束縛こそが「科学的整合性」へ必要以上に拘泥する行為に類比的だと位置づけられていた」(355P)というあたりの、科学的整合性を追求するリアリズムに抵抗する、内宇宙を重視するアンチリアリズムSFととりあえずは見て良いだろうか。解説では山野浩一の「内宇宙からの抒情」の引用があり、

抒情性が悲しみとか喜びという一元的な感情の起伏ではなく、また単なる“事”や“物”に対する従属的なリアクションでないために、“内宇宙”と呼ぶべき主体的な思考世界がなければならない。そして、抒情とは、内宇宙を通じて“事”や“物”を変化させ、ゆがめて表現することになるだろう。305P

というところは本作の核心だろうか。「受動的な「日本的抒情」」のドラスティックな転換と解説で論じられていて、反SFのみならず反日本文学としての射程が指摘されている。解説では作品の内容や展開に沿って論じるというより、どのような文脈において書かれているかを濃密な情報量で周辺から詰めていくことで輪郭を浮かび上がらせつつ、様々な視点でアプローチする補助線をいくつも引いていく書き方になっている。

最初に書いたけれども本作で特徴的なのは、「我」という仮想的存在が想定されていて、随所に地の文で「我」と書かれているところだ。これが絶妙に読んでる自分が作中の「我」に浸潤してるような感覚を与えてくる独特の味がある。所内の人々を俯瞰し把握する「我」は実際半分くらいは作者・読者的でもあるのではないか。あるいは本作をゲシタルトの一人称小説として読むことはできるんだろうかと思った。

解説末尾に記載ありますように、本書で私は解説の校正に協力しました。前著で見つけた誤字脱字を報告したこともあって本当は本文の校正も協力したかったところですけれど、自著の出版間際だったのでさすがに難しかったですね。

友田とん『ナンセンスな問い』

代わりに読む、パリのガイドブックで東京を歩く、など一見意味不明のフレーズで本を書いてきた著者のエッセイ・小説集。突飛な問いは妄想空想を生み、今あるものと別のものを出会わせ、思ってもいない場所へ行ったり自分自身をも変容させる試みの記録になっている。カバーなしで本体そのままに帯を巻いてる造本も見どころ。装幀中村圭祐。

最初のエッセイ「共同開発されたうどんをめぐって」からかなり面白くて、なんてことないうどんの裏側を見て目に入った「私鉄系スーパーマーケット8社の共同開発うどんです」というフレーズについて色々考えて調べるだけ、なのがオチが鮮やかで笑ったし付記も面白くてちょっとしたミラクルが起こっている。

この「本屋に行く」という連載は問い、仮説、先行研究の参照という過程をパロディ的ではあれど踏まえたりしていて、ナンセンスなようでいながら本屋に行けばなんとかなる、本を開けばなんとかなる、そういう信頼が感じられる。そしてそれは思いつきを行動に移す足を動かすことへの信頼でもある。ふと立ち止まってみて問うてみる、考えてみる、本屋に行って知らない棚や本や雑誌を調べて読んでみることで色々な何かがわかったりわからなかったりする。そういう過程そのものへの信頼。そして本にはそうした先人の探求の蓄積があるという信頼。それに乗っかることで何かは書けるだろうという賭け。

「ユーモアこそが思いもしなかったところに連れて行ってくれるのだ」112Pという一文があるけれども、著者のその信念を支えているそういう基盤もまた見えてくる。そうした行動によって世界を見る目を変えるということは自分を意識して少しずつ更新していくということでもある。「本屋には行く、なぜなら、体にいいからだ。」というのが冒頭に掲げられているけれども、読んでみればこれは酔狂や比喩などではなく、足を動かし生活に新しいものを取り入れる精神の健康を保つという、事実そのままの意味で「健康法」になっているのがわかる。ユーモア、あるいは遊びと言い換えても良いかもしれない。そうした遊びによって自分を耕し、世界を耕すその試みの一端と言えるだろう。この行動力はやはりさすが、と思ってしまう。

小説では「私の応援狂時代」は模倣のモチーフといい途中の「みなさん」への呼びかけといい結句といい、色々後藤明生を意識したところがかなりある短篇小説で面白く読んでいたら、終盤の回想から戻る瞬間の鮮やかさにとりわけおお、と思わされた。

あといくつか。古井由吉のエッセイから競馬を始めてみたりするところでは、このあいだ引退となったエフフォーリアの名前が出て来ているのにおお、と思った。しかし、数日以上本屋に行かなかったことがない、というのは驚く。ネット書店なら毎日見てるけど本屋に日参することは自分はないなあ。大学に行ってた頃は大学生協の書店に必ず寄ってたのが一番頻繁だけど、現在は狭いところを行き来するだけの生活でその範囲では本屋を通らないので隔週くらいでしか行ってない。本町で電車を乗り換えたことがある、の子供の頃の回想の雰囲気も良い。

後藤明生首塚ツアーのことを書いたところはツイッターで見ていた私には当日の模様が色々読めて面白いけど、ここだけは嘘ではないと思うんです、という部分こそが嘘だったのが面白い。後藤が居住階を小説で変えていたのは知っていたので特に。そういや本書で一番後藤明生ぽいのは135Pではないか。

友田さんから恵贈いただいた時に同封されていた版元による特典、「H.A.B.ノ冊子15」は50ページ近くある読み応えあるものだったけど、ここには友田さんが宮沢章夫の訃報を聞いて自身のスタイルが彼に由来するものだったことを語っていて面白かった。宮沢章夫は私も大学生のころ『牛への道』『わからなくなってきました』は読んで、『サーチエンジン・システムクラッシュ』も読んで、近年『時間のかかる読書』を読んだ。いつか『時間のかかる読書』『『痴人の愛』を歩く』『『百年の孤独』を代わりに読む』を並べてツイッターにあげたことがある。その時は全部未読の状態で、後藤明生論を書いている時だったので、何かしら後藤明生繋がりということで並べたんだと思う。『時間のかかる読書』の単行本担当編集はつかだま書房の塚田さんだ。『サーチエンジン・システムクラッシュ』も後藤明生ぽかったように思い出すところがあるけれど、特に意識してるわけではないという。

宮沢章夫が自作についてしばしば後藤明生の影響を言われる話は以下のリンクの日記の18日の部分にある。この編集者は塚田さんだ。『サーチエンジン・システムクラッシュ』にそれを言ったのは前田塁つまり市川真人だという。
u-ench.com
サーチエンジン・システムクラッシュ』のあとがきは、なるほど友田さんに影響を与えていると感じられるところがある。塚田さんといい友田さんといい、後藤明生好きには宮沢章夫好きが多い気がする。

 歩くのはいつも表通りから一本か二本はずれた道だ。
 もう一つ、裏に回れば、いかにも裏にふさわしい場所が出現する。だが、それともまた異なる。一本か二本はずれた通りには、店先がにぎやかな商店は並んでいないし、ネオンや派手な看板もなく、人の気配もまばらで、あるいは夜の商売をする女たちの姿もない。ひっそりとたたずむ建物がある。まるで自分の正体をひた隠し、感情を表に出さないようにつとめて無表情でいる人を思い浮かべるが、そのほうが僕には興味がある。

オルタナ旧市街『往還』


著者が時折ネットプリントの形で発表していた文章のなかから、さまざまな場所を訪れたことについて書いたものを集めた40ページほどの小著。タイトル通り行って帰って来る日常のなかの些末な出来事をすくいとる小さなレンズという感じで、なんとなく良い。装幀の箔押し部分がキラキラしてて、部屋に積んでいるとかなりの存在感があった。

「移動を続けなければわたしはやがて何も書かなくなるだろう」13-14P、というくだりがあり、友田さんといい、書く人というのはなにかしら動いてる人なんだなという印象が強まった。池澤夏樹の世界文学全集もたしか移動がコンセプトだったように思うし、本を読むことを旅になぞらえる意見もよく見るものだけれど、移動という新しいものとの出会いというのが何か人をものを書く気にさせるところがあるんだろう。

そうした移動のきっかけになることについて、著者は「めまぐるしいけどいい仕事だと思う」16P、と書いていて、ツイッターでは労働への怨嗟が渦巻くことが多いなかで、仕事についてこう書ける幸福さは良いなと思った。

こんなくだりもある。

誰の記憶にも残らなければ、書き残されることもない。それはそれで自然なことなのかもしれないけれど、身の回りに起こったことの、より瑣末なほうを選び取って記録しておくことは、未来に対するちょっとしたプレゼントのようなものだと思う。覚えていたことすら忘れてしまう、心底どうでもいいことほど後から愛おしくなったりする。24P

ラジオパーソナリティ鷲崎健は散歩が趣味のようでよく歩いているらしく、休日なんかは時間があるだけ歩いてしまうから逆に休めないという話をしてたのを思い出す。

神沼三平太、蛙坂須美『虚ろ坂』

二人の共著による実話怪談集。まえがきの「この本は年末年始に贈る、そんなささやかな嫌がらせ」というくだりがユーモラスで、ジャンルの様式を感じさせる。古典的な因縁話もあるけれど、やはり突然陰惨な事態に陥る理不尽な話に現代的な感じを受ける。話がわかる怖さと話がわからない怖さ。

全体に蛙坂作の方が捻った話が多い印象がある。どうだろうか。劈頭「不明」の短文で区切りつつ擬音語で畳みかける話から始まり、「息止め橋」「飴おくれ」とマフラーで話が繋いでいくようなしりとり感のある配列がなされてるのが面白い。「入れ替え坊主」や「心霊写真のおじさん」の不気味さも良いし、「屋根首」の絵を想像させるところや「水詰まり」の気持ち悪さも印象的。「家族写真」の同じ文章を二度使う締めも効果的だ。しかし「愛故に」の怖さは怪談の怖さと違うだろって突っ込みたくなる。

「狐面」のラストは絶対死語り手は死んでるオチなんだけど、実話怪談は体験者からの聞き書きという体裁ゆえにこの人は生きて帰ってるはずなんだよな、っていう面白さがちょっとある。

顔が潰れる話が二つ、白いワンピースの女性が出てくる話も二つあったと思う。顔が潰されるのはやっぱり根源的なおぞましさという感じがするのと、白いワンピースの女性というのも定番なイメージだけど、これはこれで現代的な白装束の幽霊なんだろうか。

「おまえのゆうれいはこいつだ」という一作、タイトルは石川淳「おまえの敵はおまえだ」を思い出した。と思ったら作者蛙坂さんから確かにそれを意識してつけた、とのことだった。