ノンフィクションとか

二月にどうも気分がふさいだり寝落ちしてしまったりして本が読めなくなってた時期があって、小説とかは虚構を受けとめるのに結構ハードルがあるし、あんまり重い社会問題について読むのも負荷があるし、積んでて宿題みたいになってる本を崩すのも億劫で、気分転換に書店で見つけたいつもならまず読まないような面白そうなノンフィクション、エッセイを思いつきで買って読もうと思って読んだのが最初の二冊。都市伝説本は薄いしついでに。

河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』

「単独無酸素」でのエベレスト登頂を標榜しながら幾度もの失敗の後下山中に滑落死した登山家について、最初にテレビで取り上げた元北海道放送のディレクターが書いたノンフィクション。毀誉褒貶激しい人物の活動の実態が窺えて面白い。

「エベレスト劇場」という通りメディアを巻きこんだ自身のアピールを積極的に行なっていた登山家が滑落死に至ったのは彼自身が自分の物語に飲まれてしまったためともいえ、本書はその共犯の一人ともいえる著者が真相の究明を試みたもの。結論にはやや疑問が残る。

もともとネットで争論になっている登山家というのが私が知ったきっかけで、2015年当時はいくらか話を追った気がするけどほとんど忘れてるところから本書を読むと、「夢の共有」という登頂の中継という発想などにマルチビジネスや自己啓発の影響があって、なるほどそういう界隈か、といやな納得があった。特に、アムウェイディストリビューター主催の講演会に出たり、営業のネットワークにアムウェイがあったり、連鎖取り引き販売で措置命令を受けたことのある水を売る会社から資金提供されたことなどが書かれていて、彼の「夢の共有」というキャッチコピーの胡散臭さは結構なものがある。

登山と自己啓発を組み合わせたものとしての「夢の共有」。すぐに連想するのはプペルとかあのあたりの雰囲気だ。夢の実現が何より大事だと唆し、一足飛びに結果を欲しがって堅実な努力を軽視する、登山の訓練より資金集めや見栄えを気にする栗城の行動にはそうした匂いがかなりある。そこに電波少年の土屋プロデューサーが「ニートアルピニスト」という虚偽の売り文句を使ってたことも書かれている。七大陸最高峰での「単独無酸素」という初期からのウリもそもそもエベレスト以外では酸素吸入をするものではなく、意味のないキャッチコピーでもあったという。初期の登頂として出てくるマナスルでも、認定ピークという偽の山頂に登った時点でそこから見える山頂を目指さずに下山していて、登山に詳しくない著者は騙されていたことが書かれている。しかしそこそこ登れてしまう人だったことが悲劇を招いたとも言える。

元恋人の影響からで元々登山が好きではなかったという話だけども、それでも登山にこだわったのはその物語性ゆえか、母を早くに亡くして障碍者だった父が数十年掛けて温泉を掘り当てたという家族環境からくるハングリー精神か、ビジネスとしての才覚か、さまざまな観点がある。学生時代に文化祭で三年続けて劇をやって、それらが続き物になってるという企画を立てたりするところにはなるほど企画力の才覚は感じられる。しかし才能とはいっても実際に死んでしまったように自分を危険にさらす行為なわけで、ある人物にはビジネスの才能はないとも言われている。積極的な行動は人を動かすけれども、それだけではビジネスとは言えないか。自己啓発、ビジネス、登山、色々な理由や文脈はありつつ、嘘をついたり演出で自分を危険にさらしてもなお登頂を試みたところに謎が残る、そういう感じ。安易に夢を語る人間には気をつけろ、が実際的な教訓と言える気はする。

著者は義家弘介についてのドキュメンタリーを制作した人で、平和憲法の大切さを説いていた彼がその後愛国教育の旗振り役となり保守系教科書を採用するよう沖縄の竹富島教育委員会に乗り込んだことが大きな後悔としてあるらしい。本書の背景にはそういうメディアの自省もある。

水野一晴『地理学者、発見と出会いを求めて世界を行く!』

植生地理学者がアフリカや南米に高山地帯の氷河や植生の研究に赴いた時のことをまとめた紀行文。子供の頃は一日が長いのに大人がそうではないのは新しいものを見ないからだ、と積極的に海外に赴くバイタリティがすごい。面白く読んでも自分なんかはまあやっぱり海外は大変だな、と思ってしまうんだけど、危険や苦難を省みず冒険に赴く話は楽しく読める。高山の研究で高山病に苦しめられてるさまが度々書き込まれていて、そんな状況で調査しないといけないのはかなりのハードルだ。

インドなどでも調査をしているらしいけれど、本書で書かれているのはアフリカ、南米の調査旅行とドイツでの滞在経験だ。アフリカでは英語が通じる国は植民地支配されていたところで、独立を保った国では英語が通じないという国ごとの違いが描かれていて面白い。

ボリビアは安全だけどペルーとケニアでは治安が歴然と違っていて命がけらしく、リマでは警官に麻薬を持っていると因縁を付けられ、著者は窮地を脱せたけど、金がないとそのまま刑務所へ入れられて10年以上入ってる日本人もいるという話、ラテンアメリカ文学みたいな時間感覚で驚く。本当なんだろうか。

ドイツではラーメンや丼のような深い皿がなくスープ皿のような浅い器しかないとか、リサイクルの進み方とか、女性でも大きな音を立てて鼻をかむのはずっと鼻をぐしゅぐしゅ言わせていることのほうがみっともないと思われているからだとか、面白い観察がある。

著者は「ブラタモリ」にも出演したことがあり、予備校の人気講師でもあったらしく、地理、文化、言語、民族などについて折に触れて解説しつつ、現地の人との親交や、異国での日本人とのほっとする出会い、数年掛けた調査での再会やなどなどが描かれ、氷河の後退という異変を危惧もする。

地形や気候が優先され、植生地理はほとんどの大学で職に就けないこととか、著者のマイナーな研究分野ゆえの苦労も描かれる。巻末にはやや専門的な何を調査して何がわかったのかの議論も付されており、調査研究としての紀行文らしい構成になっている。

春日武彦屋根裏に誰かいるんですよ。都市伝説の精神病理』

ツイッターから復刊した本。屋根裏に誰かがいるという妄想をとっかかりに、精神科医が症例、ニュース、文芸作品などを題材に、妄想や都市伝説のような物語の生まれる「物語の胚珠」の場所としての家を論じる。

屋根裏に誰かがいていたずらをしたりものを盗まれたりする、「幻の同居人」という妄想の類型を提示し、「精神分裂病」の妄想が脅迫的で余裕がないのに比べて、そのほかの部分では思考に問題がない老人の訴える屋根裏の妄想は恐れとともにどこか親近感を感じさせることがあるという。認知症の老人にとって家のなかに誰かがいるという妄想はほぼ25パーセントあるらしく、トップの盗害妄想が30パーセントほどあるものの次に位置している。妄想としては非常にポピュラーなもののようで、かといって必ずしも認知症ではない老人がそういう言動をする事例も多いことを著者は述べる。

乱歩に始まり文学、ミステリ、冒険小説など多彩に引用して、妄想の陳腐な物語のありかたを照射する。本書のテーマは妄想や狂気の凡庸さでもある。

都市伝説にせよ妄想にせよ、それらはオリジナリティーの乏しさこそがリアリティーを保証している事実を忘れるわけにはいかない。161P

「天井裏というものには、無気味さと近しさといった両義性が備わっているのではないのか」(46P)ともあり、家屋の究極のプライベート性は同時にそこが他者に観察されない狂気の孵卵器でもある、というのが著者の主張するところだ。症例のほか座敷牢や少女監禁事件など、家の中の不気味さが主軸といえる。

屋根裏にいる誰かに私物を盗まれるという妄想が高じて家のみならず街、自分もまた入れ替わっているというアメリカでの妄想の症例を論じる時、P・K・ディックにも色濃く漂う冷戦の影がうかがえるSF作品にまったく触れないので、SFはあまり読まないんだろうか。ちょうど古本で本書で言及されてる折原一の『天井男の奇想』を買ってみたら、扉ページに引かれてる作品の多くが本書で言及されてて、ネタ本の一つだ、と思った。

著者が冒頭で引く乱歩の「屋根裏の散歩者」では、イメージに反して舞台が新築の屋根裏なので綺麗で存外明るいとあってそれは面白いなと思ったら、著者は興醒めだ、という。批評ならなぜ乱歩はそう書いたのか当時の状況やモダニズムとかから分析しそうなフックのに。屋根裏の空間は新築の建造物ゆえの新しいものだったんだろうか。屋根裏っていつからあるんだろう。乱歩と聞いて暗くおどろおどろしいものを思い浮かべるのは、当時の新奇な文物を取り入れた側面を捨象してる可能性があるな、と思った。