荒巻義雄、巽孝之編『SF評論入門』

SF評論入門

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十二のSF評論と巽孝之による序説や各部の前書き、荒巻義雄による終章とで構成されたSF評論集。目次を見れば分かるけれどもSF評論入門とはいってもさまざまに書かれたSF評論の実作を集めたもので、SF評論を書くための入門書、ではない。九回にわたって開催された日本SF評論賞の受賞者の受賞作や別稿等で編まれた、実質的な日本SF評論賞アンソロジーだろう。雑誌発表されたままになっていて気になっていた入選作品がいくつか読める貴重な機会だ。大判450ページとボリューム満点。

ただし、収録論文の初出情報がなく、SF評論賞の入選作との関係や、書き下ろしのものなのか既に発表されたものなのかも書き手が論文のなかで触れているもの以外は不明になっている。著者プロフィールにも評論賞との関係を触れていない人も多く、日本SF評論賞出身者によって構成されている本にもかかわらずそことの関係がかなり曖昧になっている。このような本で初出は重要な情報だと私は思うのでその点不満がある。その点を除けば相当に読み応えのある論集なのは確か。索引も付いている。

序説 巽孝之「SFをいかに語るか――SF評論入門のために」

編者による序説。メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』をSFの祖と見る定説の吟味から始まり、それがレマン湖畔ディオダティ荘でのロマン派談義から生まれたことに着目して、そこに「共作的想像力」を見いだし評論の意義を語る。この『フランケンシュタイン』や、A・C・クラーク批判としての『家畜人ヤプー』、『日本沈没』と『日本以外全部沈没』などを事例にSFを語ることがSFを書くことの母胎となりうることを(日本)SFの論争史もさらいつつ提示していて、啓蒙性とアジテートが共存するさすがのスタイルになっている。日本のSF評論家の始祖として石川喬司をとりあげ、そのジャーナリスティックなセンスを評価しつつ、SFの魅力を「日常生活への衝撃」に求める論旨を、「認識的異化作用の文学」とSFを定義したダルコ・スーヴィンよりも14年早いと再評価を試みてもいる。また、タイムマシンや「冷たい方程式」ものなどが次々と書かれる様相をフォーミュラフィクションの「共作的想像力」として論じる部分は、大喜利的フォーミュラフィクションの現在としてなろう系作品にも転用できるロジックだろう。それは内輪ネタとも紙一重でもあるけれども。

ディオダティ荘のロマン派談義から生まれ落ちたものを、ここでロマン派文学をめぐる最良の解釈共同体(インタープリティヴ・コミュニティ)の対話的想像力(ダイアロジック・イマジネーション)から織り紡がれた「共作的想像力」(コラボレイティヴ・イマジネーション)と呼ぶことにしよう。

このルビ芸、ここがサビって感じがある。サイバーパンク

「第一部 古典SFをどう語るか」

各部には巽孝之による各論への導入が置かれていて、ここでも日本SFの黎明期には古典と言えば19世紀以降の作品群を指していたけれども既に半世紀が過ぎ、20世紀中葉の作品が既にして現代の古典として扱われている様子を論考への導入としている。第一部はレム&タルコフスキーとディック論。

第一章 忍澤勉「『ソラリス』に交差する二人の視線――レムの「神学」とタルコフスキーの信仰」

タルコフスキー論の単著を出した著者のSF評論賞第七回(2012年)選考委員特別賞受賞作で10年前SFマガジンに掲載されたデビュー作の改稿版。飯田訳ロシア語版と沼野訳ポーランド語版とで削除箇所を比較する丁寧な具体例の分析から始まり、ロシア語版序文は圧制下でのカモフラージュではないかと仮説を立て、ロシア語版で削除されたレムの欠陥を持った神という神の実在性の仮説とタルコフスキーの信仰を対置し、この神についての主題においては二人ともメビウスの輪のようにつながっているのではないかと推測していく。

レムのソラリス学は神学のように本質に近づけない。あるいは近づかない。レムはソラリスとの接触が困難であるとし、そこに類似性を持つ「神学」を置いたのだろう。だがタルコフスキーは、人間一人一人の贖罪によって「客」と呼ぶことになる「人間」が生成されることに着目した。レムはこのタルコフスキーが捉えた「神学」の一片が自身の「神学」を明るみに出すことに恐怖したのかもしれない。43P

第二章 藤元登四郎「ディック『高い城の男』と易経

P・K・ディックの生育歴や結婚歴などをさらいつつ、死んだ双子の妹がいることやアンフェタミン常用が統合失調症的な幻覚症状を呈することと作品の関わりを指摘しながら、『高い城の男』についてその易経の意味と内容について解説していく。易経の卦の陰と陽の二元性と引っかけてディックにとって主流小説とSF小説が陰と陽の関係にあるとし、主流小説の『戦争が終り、世界の終わりが始まった』と『高い城の男』のアジア観に対照的なものがあることを指摘しているのが面白い。第六回(2011年)選考委員特別賞受賞作とタイトルが似ているのでその改稿版だろうか。

藤元さんは精神科医としての著訳書も多く、フランスSF論の翻訳もあり、荒巻義雄論の単著や江戸時代を舞台にした歴史医療小説シリーズの新作が最近出た。

「第二部 SF作家をどう語るか」

第二部はこれも古典的作家といえるアシモフ論と光瀬龍論。

第三章 石和義之「アイザック・アシモフの想像力――帝国主義の時代に生まれて」

アシモフ心理歴史学の発想元の熱力学の数学的アイデアは、資本主義=帝国主義時代精神とも共振したものとし、またアシモフアイルランド系のジャック・フィニイをSFとファンタジーの対立として考える。

アシモフの中には父祖の審級に属するサイエンス・フィクションの作品群と、幼児の審級に属するファンタジーの作品群があって、前者は「ファウンデーション」シリーズであり、後者は「ロボット」ものの作品へと分かれている。「ロボット」ものの一部の作品には、非常に柔らかい感触がある。98P

アシモフ司馬遼太郎を同年生まれの、「創設」(foundation)的発想として並置して司馬のアイルランド紀行につなげるところは面白い。帝国主義的膨張性、植民地拡大の想像力を指摘したあと、ロボットものの閉鎖的な親密さを指摘し、この両面が住まうものとしてのアシモフの穏健さがあるとする。第四回(2009年)優秀賞受賞作と同趣旨と思われる。

第四章 宮野由梨香光瀬龍『百億の昼、千億の夜』の彼方へ」

これは異様な面白さがある。しかしこれをなんと呼んでいいのか迷うところもあって、大学生の頃から光瀬と交流があった著者とのやりとりが『百億の昼と千億の夜』の改稿のきっかけだったらしく、著者と対象に深い関わりがあるからだ。『百億の昼と千億の夜』など自作を私小説とうそぶく光瀬龍のそのプライベートな事情とは何かを、韜晦癖のある光瀬の言動から推測していき、著者が推理した家族歴にかかわる私的な事情は確かに関係者にはデリケートな話になっている。作家論と作品論とノンフィクションの混成体の趣がある。

最初これは著者がSF評論賞を受賞した論文自体か改稿したものなのかと思っていたけれど、SF評論賞受賞作はその私的な事情が真実「ではない」と確かめるため、光瀬の岳父コンプレックスを仮説とした観測気球だったらしく、受賞後に著者の真の推理の方が正しいことがわかる事態が起きたという。光瀬との私的な会話が多く引かれていて、つまり第三者に確認できる根拠ではないけれど、光瀬といつ会ってどんなやりとりがあったかの日時が明確で、当時からつけている日記などなんらかの細かい記録が著者にあるんだと思われる。

表題にある『百億の昼、千億の夜』は誤記ではなく、光瀬自身がしばしば自作をこう呼んでおり、森優氏に訊いたところ作者にも編集長にも勝手に書き換えた、らしい。元のタイトルのリリカルさを少女趣味と感じてのことだったという。光瀬龍ペンネームが井上靖の短篇「チャンピオン」に出てくる韓国人ボクサー(雑誌版のみの「龍」表記由来)からだということも聞かされていて常識だと思っていたら選考委員も編集者も誰も知らなかったというエピソードなど、光瀬と著者の関係もいったい何だろうとも思わされる。

内容にはあまり触れていないけれども、なんにしろ、この光瀬龍作品に由来するペンネームを使う、この著者にしか書けない圧巻の評論だということは確かだ。論のきっかけとなっている『百億の昼と千億の夜』の三千字ほどの「あとがきにかえて」というのが、93年に改版・改稿される前のハヤカワ文庫版についているものらしく、私の持っているのは門坂流の版画が表紙の新装版なのでついていなかった。第三回(2008年)受賞作との関係は文中で触れている。

文中で触れられている本名名義での著作。

「第三部 SFジャンルをどう語るか」

ハインラインのミリタリーSFと山野浩一ほかのニューウェーヴディストピアSFと、ヒューガートのファンタジー『鳥姫伝』についての論考。

第五章 礒部剛喜「国民の創世再び――第四次世界大戦下のハインライン『宇宙の戦士』」

第二次世界大戦アメリカのドイツ系移民が産業、軍事に貢献しつつ、ナチスであっても心情的にドイツに味方していたさなか、真珠湾攻撃がその立場を難しくしたという歴史的背景を指摘する。ドイツ系移民で軍人を志していたハインラインの『宇宙の戦士』の執筆動機にはこのことが深く関わっており、作中に有色人種のフィリピン系人物が出てくるのも、歴史的困難を抱えた存在でも戦争を介した国家への貢献によってアメリカ国民になれるという物語だからだ、と。

この未来宇宙戦記は実に長い間、大いなる誤解を伴って読まれてきた。フィリピン人を祖先とするこのアメリカ市民の物語は、多民族国家としてのアメリカを描いた古典的な小説の親族と言える。民族的なマイノリティに向けられたこの激励の視線は一九六○年代に興隆する公民権運動の魁とも看做せる。185P

しかし、軍務への称賛を意図して書いたのなら美化された徴兵制が描かれたはずが今作では自由志願になっていることが重要だというのは微妙だ。実質的な強制は実際の強制よりも悪いといえば言える。

『宇宙の戦士』論としては興味深いのだけれど、ウクライナ戦争で妙にロシア側の立場を擁護するるような書きぶりになっているのはともかく、戦争を仕掛けたのはアメリカだとするエマニュエル・トッドを重要な参照先にしている評論でもあって、そこら辺のロジックを背景にしていると思われる「分離戦争」などよく分からないところも多い。第二回(2007年)優秀賞受賞作のウクライナ戦争以後改稿したものだと断りがある。

第六章 岡和田晃「「未来学」批判としての「内宇宙」――山野浩一による『日本沈没』批判からフェミニストディストピアまで」

小松左京の未来学の濫用が加速主義にも通じてしまっている現状において、当時それはどう批判されたかを山野浩一を振り返ってたどりなおし、「ポリコレ左翼は学級委員」などと放言する加速主義のマイノリティ軽視の風潮に対し、山野の終末思考を対置し、三枝和子谷崎由依フェミニズム的「村」小説にも論及する。未来学SFからディストピアSFへと、SFから純文学に至る想像力を示して、斎藤美奈子の同時代小説史を転倒させる目論見がある。

孫引きだけれど山野の『日本沈没』批判がなかなか辛辣。

「政治を思想としてとらえず、技術として割り切っているのも極めて不満で、国家危機を国家機密で乗り越えようというような雑な政治理念にはいささかあきれる。この面では全く防衛省のPR小説でしかないとしかいいようがないだろう。」200P

山野は未来学が死へのおそれから死を無限に繰り延べさせるために未来という概念を召喚していることを見て取り、その原因を追求する。山野はそしてニューウェーヴSFに「無意識的な終末感のアイデンティティ」を看取し、ディストピア小説の追究へと進んでいく。

山野はニューウェーヴSFの受容に、「無意識的な終末感のアイデンティティ」を看取したのである。ヴェトナム反戦運動を表象する際、なまなかな救いを描いて「死」を繰り延べさせては、かえって帝国主義的暴力性を把握できなくなってしまう。あるいは核兵器や自然破壊が、終末への身近な感覚を培ったと言えるのかもしれない。ゆえに山野は、「破滅を免れる盲目的な進歩信仰から、いかに意識を逆流させるかが問題」であり、「いかに破滅し、いかに滅亡し、いかに死ぬかを考えねばならない」のだと論じたのだ。それはまごうことなき、ユートピア/ディストピアアSFの追究であった。199P

山野浩一がなぜ終末や内宇宙を執拗にテーマにしているかを小松左京との対比によって論じていて、山野作品のサブテクストとして興味深いうえに山野ばりの同時代批判を行ないながら書かれた評論とも言える。「季報 唯物論研究」第160号と162号(2022、2023年)に掲載されたもの。第五回(2010年)優秀賞受賞作は以下収録。近年著者は山野浩一作品の復刻を精力的に行なっている。

第七章 横道仁志「バリー・ヒューガート『鳥姫伝』論――断絶に架かる一本の橋」

SF評論賞(2006年)第一回受賞作。圧巻の作品論。アメリカ人が架空中国を舞台に書いたファンタジーを題材に、不思議の国のアリスや西洋の文物が埋め込まれた架空中国はヨーロッパの写し絵で、ここにオリエンタリズムを超える契機を見出し、おとぎばなしキリスト教の伝統、西洋と東洋の架け橋としてのスケールで論じる。アメリカ人の中華ファンタジーを有史以前から中国の文物を輸入してきた日本で生まれ西洋中世思想を専門とする著者が論じるという出会い、これこそが著者が主張する東洋と西洋に架かる橋の一つの実例でもあるという、一つの論文として奇跡的な出会いの産物とでも言うべきか。

西洋思想をプラトンにまで遡り、キリスト教信仰の核心を取り出しつつ、この世界が存在することの喜びを論じながら、『鳥姫伝』にSFジャンルとしてのセンス・オブ・ワンダーのありようを見いだしていく。密度とスケールは随一だ。

『鳥姫伝』は或る意味で、これっぽっちも中国を描こうとしていないからである。「ヒューガートは徹頭徹尾、オリエンタリズムの向こう側に西洋を見据えている。だから、もし誰かからかわれているものがいるとしても、それは東洋ではなく、われらこそ世界の支配者だと自惚れている西洋中心主義以外にない。229P

キリスト教と聞くと、一面では、禁欲を美徳と見なして快楽を蔑視し、過剰な苦行を信徒に強制するというイメージがあるかもしれない。しかし実際には、「芸術」や「文学」という発想はキリスト教の文化を母体にして生まれてきたのだし、世界に驚異を認める感性を肯定して大切に育んできたのもやはりキリスト教だった。アウグスティヌスを見ればわかるとおり、キリスト教徒は世界の善を信じている。「信じている」とはつまり、目の前に悪を見てもなお絶望することなく、その向こう側に善を信じるということである。239P

目に見えるものも見えないものも丸ごとひっくるめたあるがままの美こそが、ヒューガートにとっての目指すべき理想に他ならない。そんなものはフィクションの中にしかないとしても、フィクションから得られるよろこびは真実である。257P

横道さんは論集『北の想像力』で一緒になった時、そこで書かれた武田泰淳ひかりごけ』論も圧倒的な出来だったのを強く覚えているけれど、なるほどデビュー論文もすごい。

第四部「SFとテクノロジーをどう語るか」

荒巻義雄「柔らかい時計」のナノテク論と、イーガン『ゼンデギ』のAI論と、ペリー・ローダン・シリーズと長崎・原爆の関係を問う論考。

第八章 ドゥニ・タヤンディエー「荒巻義雄「柔らかい時計」――シュルレアリスムナノテクノロジーのイマジネーション」

ナノテクノロジーの発展とナノテクSFが相互に影響を与えあってきた歴史をたどりつつ、表題作をナノテク以前にそれを比喩的に表現した作品として論じるもの。

ナノテクノロジーという分野の形成において、SFの概念は欠かせないものであった。SFの概念があったからこそ、ナノテクノロジーという分野が今日まで発展してきたと言っても過言ではないのだ。272-3P

この観点からナノテク、SF、シュルレアリスムを巧妙に噛み合わせた作品として「柔らかい時計」を論じていて、面白いのは英訳版も扱われていることで、ルイス・シャイナーによる英訳では技術的説明に補足が行われていて原作とはまた違った解釈が可能になっているという。ナノテクとSFの相互影響を語りつつ、英語翻訳のアップデートをフィードバックしているのも面白い。第八回(2013年)選考委員特別賞受賞作と同趣旨か。

第九章 海老原豊「生成AIは作者の夢を見るか?――グレッグ・イーガン『ゼンデギ』の作者機能」

マインドアップローディング・人格仮想化技術を描いた作品を題材に、チャットGPTなどの生成AIの普及を横目に見つつ、作者とは何か、人間とは何かを問い、人間の有限性と物語の不死性を論じる。

私たち人間は神の言葉を侵犯し、私たち人間の物語を、個人の名義作者として語るようになった。チャットGPTが侵犯する言葉は、私たち人間のものである。となると、こういう図式が成立しないか。人間が神の言葉を侵犯し、人間独自の物語を語るようになったように、チャットGPTがチャットGPTにとっての神=人間の言葉を侵犯し、チャットGPT独自の物語を語る作者になったのだ、と。317P

バルト以後作者は死に、インターネットとスマホの普及によって誰もが作者となってしまうなかで読者も死んだ、という時代のなかでイーガンを読む試み。

SF評論賞第二回(2007年)優秀賞受賞作は改稿の後こちらの四章になったらしい。

第十章 鼎元亨「ナガサキ生まれのミュータント――ペリー・ローダン・シリーズを中心に」

本書でもとりわけ面白いアプローチを取った一篇。長大なシリーズの初期の日本人人名や地名から、作家チームのなかに原爆投下時長崎のある村で捕虜にされていた人物がいるのでは、と大胆に推理していく。

ローダンシリーズでは原子力放射能によって超能力を持ったミュータントが生まれており、ローダンの理想に共鳴するミュータントをスカウトして世界中から集めるなかで日本生まれのミュータント八名が登場する。イシ・マツ、ウリウ・セング、ドイツ・アタカなどやや違和感のある名前だ。しかし一見でたらめに見える名前はいずれも名字なのではないかと推測し、長崎在住の著者らしく、野茂姓が野球選手野茂英雄以前にはあまり知られていない五島列島に多く分布する姓だということや、カシリという一見不思議な名前が川尻の当地的な訛りだったとか、当地出身者を生かした指摘がいくつも出てくる。

なかでもタナカ・セイコの故郷として「フカボリ」という村が出てくることについて、たとえば当人が訪れたことがあるのではないかという仮説を実地に取材して確証がないとするところは面白い。戦前からの外国人の来訪は住民に記憶されていて、どんな人が来たかは証言があるという。地図にはフカホリと表記される深堀村が「フカボリ」と近在の人々に呼ばれるかたちで表記されているのは近くに滞在していた可能性が強い、と推測したなかで浮かび上がるのが、深堀に隣接する香焼(こうやぎ)地区に捕虜収容所が存在したという事実だった。これはなかなか面白い推理だ。

そして爆心地から10キロほど離れた香焼、深堀の地域は当初は慢性の放射線障害が知られていなかったことや行政区分が異なるのもあって被爆の調査対象ではなかったことや、共産党町政に対する牽制のために被爆認定を政策誘導の道具にしていたといった歴史がたどられるところも興味深く、だからこそ、被爆認定されていなかった深堀村が国外のSF小説放射能によって生まれるミュータントの故郷として設定されている謎は、原爆投下時に収容所にいた外国人が関わっているからではないかと推理するわけだ。長崎周辺の歴史も踏まえつつの推理で、当否はともかく魅力的ではある。

想定される命名者は被曝者差別を怖れて経歴を隠しているのではないか、という推理からさらに想像を膨らませた小説パートが加わり、本書収録に当たっての再調査パートなども付加されている。決定的な回答が得られるわけではないけれども、この推理自体の面白さがある章だ。第一回(2006年)の選考委員特別賞受賞作に再調査を加えたものとの断りがある。

『SF評論入門』第五部「現在SFをどう語るか」

倉田タカシ論と藤本タツキ論という新しめの作家についてのパート。

第十一章 渡邊利道「エキセントリックな火星――倉田タカシ試論」

短篇「火星のザッカーバーグ」を題材にその矛盾とズレが反復される断片的な作品世界をベケット筒井康隆などのメタフィクションを引きつつ、多世界SFとしての可能性を最大化した作品ではないか、と評価する。クンデラ入沢康夫、バルトやドゥルーズなど豊富な人文的バックボーンを感じさせる論立ての鮮やかさはいつも通りという感じで、なかでもブランキ『天体による永遠』をSFの先駆的な書物だと援用しているところは面白い。宇宙では同じものが永遠に反復される、というメランコリックな宇宙論

こうして可能世界論、多世界解釈などの作品として近年のSF作品や議論をさらいつつ、交流不可能な多世界を想像する一見無意味な行為の意味を死やコミュニケーションへの抵抗としての芸術でもあると論じて、情報社会の現代における芸術の存在意義にまで話を進めていく。

ジル・ドゥルーズは、一九八七年の講演で、創造行為とは抵抗であると述べている。(中略)何に対する抵抗かと言えば、それはまず第一に死に対する抵抗であり、現在の我々を取り囲んでいる情報社会への抵抗であると。一度きりの人生において、情報は準自律的な流れとして流れ、死ぬと同時にその流れは完結し、運命に変わる。そこでは人はコミュニケーションに仕える/使える記号、道具に過ぎない。死に対する抵抗は、人が情報として流通し、消費されること、コミュニケーションへの抵抗なのである。308P

著者は第七回(2012年)、上田早夕里『華竜の宮』論で優秀賞を受賞した。

第十二章 関竜司「藤本タツキチェンソーマン』とZ世代――再帰モダニズムと〈器官なき身体〉の肖像」

現在も連載が続く漫画作品を題材に、鬼滅の刃や呪術廻戦のまじないに対してまじないで解決する作風に対する物理的破壊にチェンソーマンの画期を見、そこにZ世代の置かれた状況の反映を見る。

「呪術廻戦」と「チェンソーマン」の決定的な違いは、前者が悪意や呪いを呪術という精神的な手段で払おうとするのに対して、後者は呪われた対象(呪物)を物理的に破壊して解決・解消しようとする点だ。この違いは些細に見えるかもしれないが、ゆとり世代とZ世代を分ける決定的な違いとなる。404P

都市の破壊の表現や人間の身体をもモノとして捉える表現において藤本タツキ大友克洋とに共通性を見いだしつつ、大友の延長線上に人間を人形的な滑稽なものとして描いている、と藤本作品を位置づけ、その身体表現をアルトードゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」と重ねる。そうしてグローバル化した社会で人間が解体され、情報としての存在へと変貌している時代性、人間の精神や生命はすべてデジタル情報でしかないというデジタルネイティブの感性を書いたとして藤本を評価する。

情報社会と芸術について論じた前章でもこの章でも、引かれているのがドゥルーズだったのが面白い。著者は第六回(2011年)『Serial experiments lain』論で優秀賞を受賞した。

終章 荒巻義雄「六〇年代からの証言――あとがきに代えて」

序説や各部の前書きを担当した巽孝之に対しもう一人の編者が自身のSF作家となるまでの履歴や時代状況を語る第一部、各章へのコメントを付していく第二部、アフォーダンスSFという自身のSF観について語る第三部で本書を締めくくる。人が家に住むのではなく、家が人を住まわせると主語を逆転させる思考をもたらすアフォーダンス理論を援用しつつ地球環境と人間の問題を考えることが今後のSFに有用だとする。アフォーダンス理論自体はかなり前からあった気がする。まあしかし理論に古いも新しいもないかも知れない。


ソリッドでコンパクトなものから50ページほどの長いものまで収めるけれどもやはり長いものに印象的なものが多い。私としては本書のなかでは光瀬龍論とヒューガート論を双璧として挙げる。論文の対象作品を読んでないものが多かったので、おいおい読んでいきたいところ。

WikipediaにSF評論賞受賞者・受賞作がまとめられているので幾つかの論文はこれが初出か、と推測できるけれども改稿されているのかどうかはよく分からない。
日本SF評論賞 - Wikipedia

なお、私も参加した大部の評論集『北の想像力』は本書参加者岡和田晃編で本書とかなりメンバーが共通しているので興味のある方はどうぞ。コンパクトな新書の『しずおかSF』もSF評論賞出身者メインの本。

本書は岡和田晃さまより恵贈いただきました。ありがとうございます。