年初に読んでた本を今更記事にしてあげることになった。本当は他に三冊ほど積んでる~問題やQ&A本なども含めて一つの記事にしようと思ってストックしていたけれど年内には読む時間がなさそうなので、この三冊と特集記事についての感想で公開することにした。
- 周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』
- 「図書新聞」2023年12月16日号 周司あきら、高井ゆと里、岡和田晃、聞き手睡蓮みどり 鼎談「差別を「真に受けない」ために」
- 反トランス差別ブックレット編集部『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』
- 高井ゆと里編『トランスジェンダーと性別変更』
周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』
さまざまな議論の対象とされているトランスについて基礎的な知識を提供する新書。公衆トイレ・風呂といったシスジェンダー視点での限定的な論点ではなく、現に今どのような状況と課題があるかをトランス主体の視点で語ることに意味がある。だから本書は論争そのものについて書かれた本になってはいない。専ら「脅威」としてイメージ化されている状況に対して、トランスジェンダーが被る経済的、精神的、法的なさまざまな差別や困難な状態の事例を紹介し、シスジェンダー視点を切り返すことが試みられている。「お金がないと社会に受け入れられやすい外見や身分証を手に入れられないのに、そのお金を稼ぐために、社会に受け入れられやすい外見や身分証が必要になるのです」(100-101P)という就労にまつわるパラドックスが指摘されており、これはそのまま労働・生存・生活の困難さに直結する。
ジェンダークリニックを受診したトランスジェンダーに限定した日本のデータ(2010年公表)によれば、自殺念慮を経験したことのある割合は、トランス女性MtFで71.2%、トランス男性FtMで57.1%でした。自殺未遂の経験率は、トランス女性では14.0%、トランス男性では9.1%でした。119P
2017年に就学年齢のトランスの若者を対象に英国の慈善団体ストーンウォールが実施した調査によれば、衝撃的なことに92%のトランスの若者が自殺を考えたことがあり、全体の45%に自殺未遂の経験がありました。120P
特にトランスの場合、カミングアウトしたいわけではなくても、外見で周囲にトランスだと認識されたり、戸籍上の名前や性別を知られたりして、個人情報をコントロールできないことがあります。戸籍の情報を知られるのを避けるために、あえて雇用保険や社会保険の適用とならない短時間労働だけをかけ持ちするトランスの人もいます。このように、他者にアウティングされてしまうリスクに加え、自分の存在そのものが望まないカミングアウトになってしまうのを恐れて、就労に困難を抱える人が多いのです。97P
「生まれた時に割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティが異なる人」とトランスジェンダーを定義し、社会的、医学的な性別移行の過程を個別に説明しながら、それらは盤面のオセロを一つ一つゆっくりと裏返していくようなもので、たとえば性別適合手術はその一つでしかないと述べる。服装その他の社会的外形やホルモン治療などの医学的過程が種々様々存在し、性別というものが一般的な生活においては様々な条件、様相で認識されていることを指摘し、家族、学校、会社、プライベートなどがあるなかでたとえば戸籍の性別欄もまたその全生活という盤面の一マスになる。
つまり性別移行は個々それぞれに様態が異なる複数の過程によるもので、例えば何か一つのことが容易になったとしても幾つもの他の条件がある以上、ドラスティックに何かが変わるということではない、という現実を指摘する。本書では「性別は「場」で分散する」という言い方をしている。本書が個別の論争に深入りしないのはその盤面の一マスにすぎないものを過重に扱うことで全体像がぼやけるからだろう。シスジェンダーによって作られた社会における困難を指摘する際にシスジェンダー視点での「論点」を取り上げることはバランスを欠くことになるわけだ。
たかだか公衆浴場の話をわざわざ性別承認法と結びつけることには、何の合理性もありません。公的書類の性別が現実と食い違っていることに由来する社会的困難は、公衆浴場に矮小化されるような話をはるかに超えています。(中略)これはお風呂の話ではなく、人生の話なのです。166P
本書はこの当たり前の視点を再確認する。そして過少代表、ジェンダー規範、リプロダクティブライツなど「フェミニズムとトランスの政治には重なり合う目標があること、それどころかフェミニズムがフェミニズムであるためにはトランスの課題を必然的に考えざるを得ないこと」(196P)を改めて強調する。
こうして一部の論点に限定されない視野から基礎的な課題を提示する本になっている。また日本には以下のような問題も指摘されている。
日本には、LGBTについて学校教育で指導するカリキュラムが存在しません。直近の学習指導要領2017年改訂では、「LGBT」の項目を含めるよう運動が展開されましたが、結局盛り込めませんでした。各出版社の判断により、主に保健体育の教科書でLGBTのことが扱われてはいますが、国の定める指導要領からは漏れているという状況です。そしてそれ以前に、これらの「多様な性」についての知識の前提となる性教育の状況が、 日本は悲惨です。82P
個人的には、性別移行について、社会的なものと医学的なものとで求めるものが人によって違うことがあり、社会的な移行は望まないけど医学的なそれを望むなど、性別違和の現れ方がそれぞれ違うというのは発見だった。男性ホルモンを投与する影響も書かれており、性欲が高まり、声が低くなり、体臭が変わり、筋肉も付きやすくなるほか、涙が出にくくなると実感する人もいるなど、男性女性の違いの一端を窺うことができるのが興味深い。女性ホルモン投与では身体的な変化のほか概ねこの逆で、ただ声は変わらないらしい。
興味深かったのはノンバイナリーも含むトランスジェンダーのなかで異性愛者は全体の15%に過ぎないという調査結果の話だ。トランスの多くがバイセクシャルも含む同性愛者でもあるというのはつまり、性自認と性指向は個々独立していて、性指向は出生時に割り当てられた性別に紐付いてるんだろうか。
トランスヘイトの言説にはLGBTからT・トランスジェンダーだけを除外しようとするものがあるけれども、セクシャルマイノリティの分断を図ろうとする動きに対してはLGBTとして連帯する意味がやはり存在するなと考えさせられる。そして本書で指摘されるようにその課題は多くの部分で重なってもいる。
フェミニズムが問題にするジェンダーロールへの批判とは異なるトランス固有の問題として以下のものもある。
よくある勘違いですが、トランスジェンダーの人たちは「女らしさ」や「男らしさ」を受け入れられなかった、あるいはそれに納得できなかった人たちのことではありません。トランスジェンダーの人たちは、生まれた瞬間に課せられた「女性であること」や「男性であること」の課題を引き受けられなかった人たちのことだからです。38P
「図書新聞」2023年12月16日号 周司あきら、高井ゆと里、岡和田晃、聞き手睡蓮みどり 鼎談「差別を「真に受けない」ために」
図書新聞 3619号 (発売日2023年12月09日)
論争を相対化する新書に対して、ヘイトに染まりかけた人を想定した論争に対するQ&Aの新著を用意していることやより踏みこんだ話もされている図書新聞の対談記事。
フェミニズムと宗教由来の反トランス運動が融合していることへの問題意識が触れられており、今は攻撃しやすいトランスをターゲットにしているけれどその先には当然女性の権利、生殖の自由、性的自己決定権などを否定する反フェミニズムがあるということをきっちり指摘している。
そのなかで本来されるべき議論として、トランス男性やトランス女性をそれぞれ男性・女性と呼ぶべきだと言うことを前提としつつ、当然異なった経験を経てきているのでそのことを論じたくてもバックラッシュに利用されてしまうのでやりづらいということ。男女差別を背景に、男になれば賃金が上がるんだろうとトランス男性を非難する人がいて、しかしこれが見落としているのは一足飛びにシスジェンダーの平均像になれるというあり得ない想定や、トランスだとバレれば複合的な差別を受ける可能性で、これはトランス女性への「男性特権」非難も同様だろう。
「らしさ」というジェンダーロールの問題と、性的アイデンティティが異なる問題なのは新書でも強調されていたけれども、ここでも改めて触れられている。
トランスの人が性別を変えようとしているのを、「『らしさ』の調節をしようとしているだけだろう。そんなことなら性別を変えるまでもないのでは」と解釈してしまうのは、シスジェンダー的な規範で生きてきた人たちは性別を「らしさ」で代弁できると思っているからなのではないかと、実感します。
「ボーイッシュ」としてあくまでも「女性のわりには男っぽい」といった評価を得るよりも、いっそ「女の子みたいだね」と言われるほうが、「ああ、いま男だと見られているんだ」とわかるから嬉しい、と言う人もトランス男性のなかにはいます。
「女らしくて構わないから男がいい」というのはトランス男性あるあるです。
と周司氏は言う。さらに思春期のトランス医療については、そもそも医療的措置に手を出すのはシス的な発達について納得がいってない人なので後悔しても良いのではないか、と言うのは興味深かった。
高井氏が、トランスの医療と、シスジェンダーが自身の体をそのまま発達するにまかせることを選んでいる、として二つともを「選択」として並置している。私自身のいかにシスジェンダー視点で考えているかを相対化させられていたかを浮き彫りにするようで面白い。他のあらゆる医療的措置も一部で後悔したからといって全部否定するわけではないはずで、トランス医療だけがそう言われるのはそもそも否定しているからだろう、と。トランス医療への妨害を中絶薬の承認が遅いのと同じ事態だと指摘しているのはなるほどと思う。
映画の表象の話などもあり、新書の副読記事として興味深いものだった。さすがに書店にはもうおいてないけれども電子版などがある。
反トランス差別ブックレット編集部『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』
表題通りトランス差別に対して編まれた総勢20人以上が執筆する小冊子。トランス当事者も多数参加して、それぞれの個別的な体験を通してトランスジェンダーは既に存在していることを示すプロテスト。各人長くて四ページほどの文章を寄せており、そして各人プロフィール紹介などはなく、文章を読んでいくことでトランスジェンダー当事者だと分かったりするようになっており、書き手を特に区別することなく配置していることは本書のテーマの一つの現れだろう。反トランス言説への批判論説もあるけれども、トランスジェンダー当事者の体験はシスジェンダーをノーマルとする社会、言語に対して個別の存在による違和の表明となっており、そのそれぞれ個別な経験の諸相が、SNSなどでの喧噪とは一端切り離した場所で読めるのは貴重なことだと思う。
たとえば青本柚紀のエッセイでは自身がノンバイナリーだという「クィアな自認」に至るまでに十五、六年かかり、それを他者に示すまでさらに三年を要した経験が語られている。ないものとされた存在が自らを示す言葉を手にするまでの途方もない時間。「自認」という一言に包まれた長い時間のこと。
さとう渓のエッセイで、教員にトランスを告白したら異常だと言われてから七年経って、そのことを反省すると言われた話が書かれている。美談のように読んでいたら著者は「美談でもなんでもなく」社会構造の話なのだと続けていて、エピソードの情緒に引っ張られた自分を自覚させられた。この教員はトランスジェンダーを差別する社会に普通に生きて、そして著者を本心で心配したからこそおかしいとか本気なのかとか言っていたわけだ。そういう人だからこそ、著者の言葉の何かが突然通じることもありそれは美談として読まれることがあっても、構造の問題は残っていると。
堀田季何のエッセイでの、性別違和(GD)、トランスジェンダー(TG)、性分化疾患(DSD)が絡み合った状況にあることのメモはかなり複雑。出生時に割り当てられた性別は男性だけれど、自認としてはノンバイナリーに近い女性で、内分泌異常による性分化疾患ゆえに性別変更が困難だという。染色体異常のDSDだと出生時割り当て性別が間違いだと主張でき、性別変更手術も保険適用できるけれども、内分泌異常だと治療は男性ホルモンの投与になり、性自認と異なる性へ近づけるそれは「死よりも耐え難い」。DSDの苦痛がTGであることによって医療的に認められた治療ができないという困難。
トランスジェンダーの人々の人生はとてつもなく泥臭く、脆弱で、常に死と隣り合わせのものにもかかわらず、そういう現実には全く目を向けず、あたかも「キラキラしたトランスジェンダリズム」というものがあるかのように、それと必死に戦っている人たちって、一体何をしているのでしょうか? 32P
というのはかがみのエッセイの一節。ここにはネットでアウティングされるまでトランスの自分の直接の友人がトランスだと気づかなかったということにも触れられている。それくらい普通にそこにいる場合がある。
榎本櫻湖の「声について」は、トランス女性の著者の自分の声に対する考え方がさまざまな紆余曲折を経てそれなりに肯定的に捉えられるようになった過程が描かれていて印象的。身体と密接に結びつく声は自分のもののようで自分のものでないようなものでもあるからだろうか。この感想は三月に書いたのだけれど、某作家のトランスヘイトを批判するなかで氏の記事をRTしたりして、いつしか相互フォロワーだった榎本さんは四月に訃報が伝えられた。36歳だったそうだ。
そのほか映画ガイドやブックガイドなど様々な視点からの文章が集められた100ページほどの小冊子。
高井ゆと里編『トランスジェンダーと性別変更』
違憲判断がなされたことによる性同一性障害特例法改正に向けて編まれたブックレット。特例法に焦点を絞った解説が当事者の活動家、弁護士、国際法学者、医者と複数の視点から論じられており、時事問題をきっかけにした入門書になっている。当事者による成立経緯、国内・国際双方の専門家による法的な課題、そしてジェンダークリニックの医師によるトランス医療の実態などが論じられていて、同編者による基礎的な知識を解説した共著の新書『トランスジェンダー入門』に対して今まさに変わりつつある具体性から入る本書で相補的になっている。
野宮亜紀による一章では当事者による特例法制定の経緯がたどられていて、特に「子ども要件」(子なし要件)と呼ばれる、子どもがいた場合の性別変更を禁止する「諸外国の立法でも見たことのない」要件が寝耳に水のように差し込まれたというくだりには驚かざるを得ない。通常、トランスジェンダーの性別移行の生活実態があってそれと齟齬を起こす戸籍を変更するというのが順序になっていて、既に移行しているのに子どもが混乱するからという説明は実態に即しておらず、むしろ性別変更を阻止することで親の生活を困窮させて子どもの福祉に悪影響を与えるものだと指摘する。それでもこの要件を残したまま法案成立を急いだのは、強硬な保守派議員に火が付いてしまうと成立が難しくなることもあり、一度成立させた上で後の改正に賭けるという苦渋の選択だった。著者も保守的な風土でこの法律が成立したのは奇跡といって良い、と語っている。ロビーイングを行なっていた著者はこんな体験を書いている。
筆者が面会したある与党議員からは、君たちが苦しんでいることはよくわかる。だが、国家が少数者に譲歩することがあってはならんのだ」という発言もありました。26P
20年経って何も変わってないなと思う。
弁護士立石結夏による二章ではこれまでの判決を踏まえて個別の性別変更要件についての解説がなされている。「子なし要件」は既に「未成年の子ども」と改められており、また生殖不能要件が違憲無効となって実質的に意味をなさなくなるため、見直しが必要だと述べている。公衆浴場で異性の性器を見せられることの抑止という外観要件の目的は認めるとしても、既に外見的特徴で男女を分けることになっている公衆浴場にあえて元の性別で入ろうとする者を理由に全員に負担の大きい手術を要求することは達成手段として相当ではないという裁判官の個別意見はその通りだろう。
国際人権法を専門とする谷口洋幸の三章では、国際人権基準と性別変更についての関係が解説されている。ヨーロッパ人権裁判所の性別記載の変更に関する判例から以下の言を引いている。
性別のあり方を法的に承認することは人格的自律から導き出される重要な権利であって、国は個人のアイデンティティに沿って尊厳と価値をもって日常生活がおくれるようにしなければならないこと、そのために必要となる法政策の変更などに伴う一定の不便さは社会の側が甘受すべきだ、とも述べています。53P
日本での人権教育について思いやりという観点では見逃される点として以下の指摘をしている。
人権保障の義務は、第一義的に国が負うものであるという点です。人権が国による不当な介入から自由になるための道具として生み出されたことや、人らしい生活を送れるように国に適切な措置を求める根拠となってきた歴史は、義務教育課程でも必ず学ぶ事柄です。むしろその歴史を振り返れば、一人ひとりの優しさや思いやりより、人権保障が国に課された義務であるという視点の方が、人権のもつ本来の意味だといえます。ところが、日本のように人権啓発や人権教育の中で個々人の意識の面ばかりが強調されてしまうと、人権が保障されていない現状の責任があたかも人々の理解不足にあるかのような誤解が生じがちです。58P
ジェンダークリニックの医師中塚幹也による四章ではトランスジェンダー医療の実態について解説されている。医療者の現場から見たトランス男性とトランス女性の違いなど様々な事例が触れられており、処置に保険適用されるものとされないものがあり混合診療にならざるを得ない現状にも触れている。
医療側から提案された「性別不合」の定義が、「実感する性別」と「身体の性」の不一致ではなく、「実感する性別」と「出生時に割り当てられた性」の不一致という状態となったということは重要です。医療が身体の性を本人の望む性別に近づけるのみでは不十分ということになります。68P
「子なし要件」について、「「子どもがいなければ」と思う親や、「自分がいるから親が性別を変えられない」と思う子どもを生み出してしまう可能性があり、早急に削除すべきと考える人は多いと思います」(75P)と、要件が子どもに苦しみを与える可能性を指摘しているところは重要だろう。
外観要件について、トランス男性はホルモン療法で陰核が腫大して陰茎形成手術なしで要件を満たす事例が長年続いてきた、と語られているところは驚いた。しかしトランス女性はホルモン療法では性別変更は認められたことはないだろう、と述べている。トランス男性はまたホルモン療法を中止すれば排卵が始まり妊娠出産が可能だという。逆にトランス女性はホルモン療法を続けていくと精子が減少し、自然妊娠が困難になるという。トランスジェンダーの妊娠出産について論じたところでは、同性愛者のトランス女性の場合、第三者の関与がなくとも子どもを持てるといい、実際手術前に凍結保存していた精子で女性パートナーが出産した事例があるという。ただしこのトランス女性は親となることを求めて裁判になっている。
ハードルの高い「性別適合手術」を行なって戸籍の性別変更までした当事者が後悔することは稀ではあるもののないわけではないので特例法にない性別再変更の法的な整備も必要だと指摘しているところは重要で、その後悔を少なくするためにもGID学会認定医や支援者を増やしていく試みにも言及している。
このページ数で簡潔な四つの視点から問題を捉えられるのはかなり良いのではないかと思う。