- SF乱学講座「山野浩一において「世界文学としてのSF」とはなにか」(前田龍之祐)
- 『やなせたかし詩集 てのひらを太陽に』
- オルタナ旧市街『Lost and Found』
- 小山田浩子『パイプの中のかえる』
- 小山田浩子『かえるはかえる パイプの中のかえる2』
- 小山田浩子『小さい午餐』
- 橋場弦『賄賂と民主政』
- 田中小実昌『ポロポロ』
- 樺山三英「藪/地獄」(『逆光線 第二十号』)
- 高原英理『愛らしい未来』
SF乱学講座「山野浩一において「世界文学としてのSF」とはなにか」(前田龍之祐)
本と言うよりイベントだけれど簡単な感想をここで。
実はこれはまだ通読していないのだけれど該当論文は読んだ。『批評の歩き方』(人文書院)と「SF乱学講座」の告知|前田龍之祐(麻枝龍)
1月12日のSF乱学講座で「山野浩一において「世界文学としてのSF」とはなにか」が開催 - 山野浩一(Koichi Yamano)公式ウェブサイト(新)
以上のページで概要及び当日読み上げられたレジュメが読めます。これだけでも面白いので興味のある方はどうぞ。
前田さんの講義は初めてと言う割には非常に能弁で、内容も『批評の歩き方』論文のおさらいから始まり、近代論からゴシックとSFそして「ネオゴシック」と言う山野浩一の概念へと繋いで最後に終末論へと逢着する構成の整ったもので、これから書かれる論文のエスキスのようでした。レジュメが二万字と聞いて時間内には収まらないだろうと思っていたらなんとか時間内に語りきっていたのもすごい。論文を読んでいたのでその続きのような近代論、ネオゴシック論がとても興味深く、この内容をまとめて発表されることを期待したいと思います。
『やなせたかし詩集 てのひらを太陽に』
そして上掲の乱学講座に行く車中で河出文庫から出てたこれを読んでいた。これは良かったですね。孤独のさびしさとそこから生まれる人への愛という繰り返されるテーマを平易な言葉で詩にしていて、私にも誰にでも伝わるんじゃないかと思う。代表作を中心に選んだとのことで有名どころは入ってるんじゃないかと思われる。アンパンマン関連や表題作、あるいは「しあわせはカタツムリにのって」など。戦地で亡くなった弟のことや、アンパンマンが子供たちによって見いだされ売れていく経緯なんかも詩として収められていて、年譜もあり、やなせたかしという人の輪郭がざっと掴める本にもなっている。解説を書いてる小手鞠るいという人の評伝がつい最近文庫化されたけどやなせたかしを題材にしたドラマがやるようで。
年譜にあるけれど、やなせたかしの詩集を出すために山梨シルクセンター(サンリオ)が出版部を作ったわけで、山野浩一が監修するサンリオSF文庫が生まれる遠因がやなせにあるというのが面白い。
オルタナ旧市街『Lost and Found』

本屋lighthouseの通販に挾み込まれた紙片に書かれていた?という短文を集めた小冊子。独特の由来を持つ通り、不可思議な、異界的な一瞬を切り取って駆け抜けるような感触の、いつものスタイルをより圧縮した散文詩的なたたずまい。目次にタイトルを付された文章はそういうスタイルだけれど、左ページに日付とともに載っているのは短い日記のような文章で、抽象と具象を反復していくような体裁を持つ本になっている。
小山田浩子『パイプの中のかえる』
日経新聞夕刊連載のエッセイ集。タイトルは家のパイプに住み着いたカエルのように狭い所に住み、時折外界を覗く姿を己になぞらえたもので、なるほど作者の体験や考えを短く切り取った文章の連なりになっており、広島という土地ならではの文章でもある。日常の出来事や気づいたことを短く書き留めている、それぞれは三ページほどの短い文章になっていて、「全部私小説だと思って書いている」とあるけれども確かにたくさんの小説の小さな芽のようでもあり、まだそれが本格的に成長する前のスナップショットという感じがある。平和教育、平和都市の広島に住んでいてなおなぜ投票率が著しく低い都市になってしまっているのかという問い、平和教育が「物語」にしかなっていないのでは、という懸念が書き留められており、著者が様々な政治運動にかかわり、ツイッターでも毎回戦争反対絶対反対と付記していた姿勢が覗える。
近くに遠くにいろいろなものが潜んでいて、それに気づくことの面白さと不思議さがいままでもこれからも多分私になにかを書かせてくれる。115P
著者にとっての書くことの原点をこんな風に表現してもいる。しかし「小山田浩子」ってペンネームだったのか、とちょっと驚いた。
小山田浩子『かえるはかえる パイプの中のかえる2』
今度は本書版元本屋twilightのウェブサイトに発表された著者のエッセイ集。タイトル通り前作と似た形式での短文が連なっている。日常の出来事、考えたこと、広島のこと、生き物のこと、食べ物のこと、アントニオ猪木のこと。以前イベントでも話されていたけれど、東京に来て出会った最初の有名人がアントニオ猪木だったため、とうきょう、と聞くと猪木のイメージが不可分になってしまっているという話は笑ってしまう。あと最近流行りのかき氷を「複雑なかき氷」と表現してるのがだいぶ良かった。
読んでいても慄然とするのは「お金」の章、家具類を整理することになって色々ひっくり返していたら棚から出るわ出るわの合計12万円の現金が出て来た話はすごかった。多めに用意したピン札を取っておいたのが出てくるのとかはまだ分かるけど、由来の分からないお金がたくさんあるのは怖い。
子供の頃の作文でお題を出されて物語を書くという課題が出た時、空想が広がる余地などなくただ子供二人を宝島に到達させるにはどうすれば現実的に可能かを考えいつまで経っても物語が始まらない長文を提出したという話は、ある種ありふれた小説を書くことに躓いたからこそ作家をやっている、とも思えて、これはこれで作家らしいエピソードでもあると思った。たとえば後藤明生がストーブの説明書きを書き写したような。
小山田浩子『小さい午餐』
新潮社のウェブサイトで2019年から二年間連載されていた作者の外食エッセイ。初の連載だったという。『パイプの中のかえる』よりも一回がずっと長いのでより小説的な状況の描写が多くなり、周囲の雑談が記録されていてその場の空気感を味わえるのが面白い。エッセイなら普通もっと必要に応じたものが書かれていくものだと思うけれども、ここでの雑然とした人の会話などの描写によって状況を構成する要素を積み上げていて、書き手の文脈、物語に回収されないものがそこにあり、空間や状況の再現を試みているような独特の読み味がある。確かに小説的。書いているうちに虚実が混ざり、複数回の経験が圧縮されていたり、まえがきに曰く、「エッセイなのですが私小説であり、事実でありフィクションでもある」、著者ならではの文章になっている。刊行が遅れて別の版元から出たのは担当編集が退社して連載が宙に浮いたからか、と窺えるところもある。
イタズラをする子供を叱って泣き出してしまい、周囲の客から非難のように聞こえる言葉を耳にして、とてもじゃないけど落ち着いた気持ちにはなれない状況で食べたために一切味の記憶がないラーメン屋を再訪する話がなんともいたたまれないエピソードもある。しかし概ねおいしい料理を味わったエピソードでもあって、そこにまつわる周囲の状況や過去の回想という食事を媒介にしてさまざまな話が語られていて、コロナ禍での状況や女性としての困難、あるいは「河合夫妻逮捕」といった時事問題と不可分の生活が語られるのも連載という形式の面白みだ。
「思い出のお好み焼き」という章は、お好み焼きを出前で届けてくれるという広島特有ではないかという場面から回想が始まり、母の作ってくれていたお好み焼きの味や自分たちで作ってみたら案外難しかったり、行列のできるお好み焼き屋が自作よりだいぶまずかったという幾つもの思い出を経て、冒頭の出前が届くという構成のうちに広島人のお好み焼きにまつわる思いを詰め込んだ、とりわけ見事な一篇だった。
書き下ろしの最後の一篇「ファミレスのハッピーアワー」は平日昼間、ビールが格安のファミレスのハッピーアワーに一人で来た時のことを書いたもので、帯に取られた「誰もがハッピーなアワーを過ごす権利がある、それを忘れないようにする」の前に「誰もが、パレスチナの人々ももちろん」とある。
どうしたらいいのか本当は全然分からない。でも、でもだからなにもしない見ない知らない聞かないでいることをしない、誰もが、パレスチナの人々ももちろん、誰もがハッピーなアワーを過ごす権利がある、それを忘れないようにする。ちょっと酔っている。でもまだ普通に歩ける。266P
後半の部分だけなら雰囲気の良い文言だけれど、実際に読んでみるとそこにはさまざまな社会的政治的な意味合いが込められたものだったことが分かるのが読んでいて刺さる瞬間だった。私小説的スタイルにつねにこの意識があるのが作者の抵抗の実践でもあるんだろう。
橋場弦『賄賂と民主政』
古代ギリシャのアテナイにおける賄賂が当時どのように見られていたかの歴史的変遷をたどる小著で、ペルシア戦争での敵国からの買収事件をその画期として犯罪視されるようになっていく過程も面白いけれど、アテナイの有権者は五万人というサイズなのが改めて興味深かった。民主政の起源とも言われる制度がそのような人口規模での話だというのはまあやはり前提として大きいよな、とは思った。これはまあ当時の有権者として成人男性だけをカウントしている数だけれど。少数者が政権を独占していた貴族政にあっては、役人も役人を裁く側も、どちらも狭い範囲のエリート階層出身であった以上、収賄罪をきびしく摘発するしくみは期待できなかった。民衆がエリートの犯罪を裁くことができる民主政の世の中になってこそ、贈収賄といった公職者の罪を告発することが、一般市民にも可能になったのである。賄賂に対するきびしい社会規範や法的訴追制度の発展は、やはり民主政の完成を前提条件としたものであった。141P
デモステネスいわく、
つまり、富裕者が富の力によって正義をゆがめることこそ、賄賂が悪であるゆえんである、というのである。富の力が司法という民主政の意思決定過程に、賄賂という形で影響をあたえることに、彼は不正義を見いだしたのであった。144P
田中小実昌『ポロポロ』
谷崎賞受賞の連作集。最初に牧師の父を題材に言葉にならない言葉をこぼすさまをポロポロと形容する作から始まるけれども以降は著者自身の戦争体験を語っていく構成は一見奇妙で、しかしそれがいかに「物語」から逃れるかというテーマとして父の話と密接に繋がっている。人を殺すことはなかったけれども強烈な下痢、マラリアなど病続きで過酷な軍隊経験を語っていくわけだけれども、そこには常に疑いと後悔とがあり、語りを蛇行させていく。
だが、こんな物語は、北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくにはなしてくれたのとは内容がちがうというのではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。いや、それを内容にしてしまったのが、ぼくのウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。65P
この「内容」と「物語」をめぐる逡巡。語る時にはどうしても「物語用語」を使った「物語」になってしまうという逃れられなさ。
「そんなのには、説明用の時間がある。変化には時間がある。しかし、これは、ひょいと、そこに、ウドンがあったのだ、気がついたら、ひょいと、そこに……というのもちがう。気がついたら、というのにも時間がある。なにかがウドンになったのではない。なにかになるのには時間があるが、ひょいと、そこにあるのには、時間はない。
なんにでも時間があるとおもうのは、ある視点にたっての、そういう見方だろう。実際には、こんなふうに、時間がないことも、ちょいちょいあるのではないか。なにかを物語るときには、どうしても、時間がいるのだろうか……。」187P
「ぼくは、なにかを事実とよぶことにも、疑いをもつ。事実といえば、事実そのままで、これくらいはっきりしたものはない、とおっしゃるだろう。しかし、そういうことになっているのが事実で、これも、やはり物語用語ではないかともおもうのだ。」213P
「寝台の穴」という一篇はコレラ患者がわざわざトイレまで行かなくて良いように寝台に尻をはめるための穴があることから始まる。軍隊では軍靴の方に足を合わせろ、という言葉を「合理」と語り手は呼んでいるけれども、この下りは「物語用語」に合わせてものを語ることについての話でもあるだろう。人に通じる言葉を使って語る以上、「寝台の穴」「軍靴」のようなできあいの形に自分をはめていくことが「合理」となる、という「物語」の引力をめぐり蛇行と逡巡を重ねながら語りを続けていくような連作集だと思った。
樺山三英「藪/地獄」(『逆光線 第二十号』)

芥川龍之介の「地獄変」を「藪の中」の語りの手法で再解釈するという短篇。この二作を女性への暴力が埋め込まれた「レイプ小説」として捉え、結び合わせ、近代文学の名作のミソジニーを批判的に裏返すという批評的再読の試み。
芥川の短篇を踏まえたものと知ってまず「地獄変」と「藪の中」を久しぶりに読み返すことから始めたけれど、「藪の中」は殺されたのは女性だという印象があったけど違っていて、それでいて終盤の展開にはいずれにしろ女性を悪女として描くところがあって、これは結構記憶と印象が違っていた。「地獄変」はちょっとさらっと読んでしまったところ、最後になっても妙に釈然としないところがあって、作者のコメントで「信頼できない語り手」の作品とあってその発想はなかったので、なるほどそう考えると字面を読んだだけだと受取り損ねるなと。
「娘に懸想した大殿様の横暴に、絵師が芸術の次元で打ち克つ」というのが「地獄変」の定番の解釈らしく、これも結構意外だった。絵師自身は娘を捧げたのではなく、大殿から取り戻そうとしており、燃やされる時も助けに行こうとしていて、決して捧げるつもりではないのも読み返して気づいた。
今作は「地獄変」において、娘と大殿と絵師の父との関係を複数の視点でそれぞれの解釈によって何度も塗り替えながら展開していく、物語読解の多様性それ自体を主題にしたような短篇になっていて、「藪の中」がそれ自体物語の複数の解釈のモデルでもあると見るようなメタフィクションになっている。
芥川龍之介は二十年くらい前に文庫版全集はとりあえず小説部分だけは揃えて読み始めていたんだけど、一巻100ページくらい読んだところで止まったままだった。樺山さんはこの同人誌で日本近代文学の再読と読み換えを試みる短篇を連作として続けていくのだろうか。「団地妻B」とかそういう読み換え系短篇は既に結構ある気がするけど、まとまることはないのかな。
高原英理『愛らしい未来』
短篇三つによる連作集。可愛らしいものに感度の高い語り手が人の死に際に咲く花を幻視する美とグロテスクの表題作のほか、詩を小説的に展開したような感触がある連作で、特に第三篇は二人による言葉遊びによって展開していて『詩歌探偵フラヌール』の姉妹篇のよう。「愛らしいものはいつも誘拐される」、表題作のこの不穏な言葉、キュートアグレッションを思い出すくだりでもある。「眠りの代わりに死を願いそうになる」語り手など、美的なものを求めつつどこかで死や終末を待望する生と死の狭間の感覚がある。
第三篇の「れいめい」は玲と明、二人のあいだでやりとりされる言葉が切り詰められたり造語をしたりと二人にしか分からない言葉が次々と作られていく様子が親密さを示唆しながら、次第に言葉がほとんど祝詞のようにもなっていく呪術的雰囲気がある。この雰囲気は『祝福』にも通じるし、この小著を高原入門として読んでみるのも良いかもしれない。
物語的というよりは詩的と言った方が良いようなニュアンスの本で、ミルキィイソベによる造本も美しい一冊だ。







