寮美千子『小惑星美術館』『詩集 水の時 Voice of St.GIGA』『詩集 星の時 Voice of St.GIGA』『名前で呼ばれたこともなかったから 奈良少年刑務所詩集』

寮美千子さまからセント・ギガ詩集を恵贈頂いたのを機に、まだ読めていなかった寮さんの編著書を続けて読んだのでその感想を。寮さんは奈良に移住する前、私が学生だった頃に和光大学で物語創作の授業を受け持っていて、私は受講者だった。その縁で文壇バー風花での古井由吉の朗読会に誘われたり、アイヌの音楽家安東ウメ子氏を相模大野の相模女子大学に招いたライブではムックリを吹くボランティアをしたり、受講者のなかでつるんでいたメンツをベースに結成したのが同人文芸サークル「幻視社」だったりする。それも20年も前のことになる。

小惑星美術館』

ある少年が地球とよく似た世界の別の自分と入れ替わったらそこはマザーコンピュータに支配された宇宙コロニーで、12歳になると小惑星美術館という場所への遠足が義務づけられていた。環境破壊を押し止め地球再生への祈りを込めた1990年刊行の長篇SFファンタジー

母を亡くした少年がある日遠足に行こうと家を出ると事故に遭い、気がつくと元いた世界とは異なり母が存命で父が不在、景色も社会もなんだか様子が違っていてもう一人の自分と入れ替わっているらしき状況に出くわす。そして今から行くこの世界の遠足は宇宙船に乗って行くらしい。その目的地、小惑星美術館は文字通り小惑星帯の天体にさまざまな生き物の彫刻がなされた宇宙に浮かぶ美術館だ。この宇宙への旅行、このスペースコロニーは何なのかという不可解な状況から、管理社会の真実が次第に明らかになっていく。

ガイアという言葉が使われているように、地球、生命、人間それぞれを繋がったものと見る発想を背景に、私たち一人一人が美しい夢を見続けることを強く訴える作品で、このテーマには二十世紀末のSFらしい懐かしさがあるけれども、気候の変化が著しい今になってこそ生々しく感じられるのではないか。

オゾン層は破壊され、空気中の二酸化炭素濃度は上昇する一方だった。大気も海も汚染され、森林は伐採された。砂漠は広がり別のところでは洪水にみまわれた。放射性廃棄物による奇形の急増、遺伝子工学によって創り出された未知の細菌やウイルスによる汚染。バランスは急激に崩れ、
さまざまな動物や植物が人間のために絶滅していった。
 ガイアは瀕死だった。それでも、美しい夢を見ようと力を振りしぼっていた。なんとかしてバランスを回復しようとしたのだ。そう、何十億年と、ガイアは、まるでひとつの巨きな生き物のように、自らを育て、癒してきたのだ。241P

自然現象に人間的見方を読み込むことには注意がいるとも思うけれども、スペースコロニーの遠心力による重力と地球の引力による重力を区別して語るところは面白い視点だった。フィクションでも、コロニーの人工重力をニセの重力、と呼ぶ場面があったりもするわけで。

遠心力は孤独な力だ。だけど、引力は違う。ぼくたちは引きつけられ、いつもひとつになろうとしていた。
 きっとそこから、すべてがはじまったんだ。たがいに引き合う力が惑星をつくり、生命を産み出し、育て、やがてぼくたちが生まれた。地球の上で、ぼくたちはいつも、そのやさしい引力を感じていた。254P

以下のくだりは本作の核心とも言えるところだけれど、今作がセントギガの理念と共鳴し、作者に執筆を依頼するきっかけになったというのが良く分かる部分でもある。

「きみたちは、わたしよりずっと険しい道を歩むことになるかもしれない。
 しかし、きみたちは夢見る力を失ってはいけない。きみたちのひとりひとりが、夢見る天体になって、強い電波を発するんだ。そうすれば、たくさんの心がそれを受信して、いつかほんとうに、閉じた環を開く力となるだろう」264P

ぼくたちは、惑星から切り離されて、ひとりひとりが小さな天体だ。だけども、ひとりっきりで暗い宇宙に浮いているわけじゃない。ぼくたちは、みんなつながっている。木や草のように感星から生えて、見えない原形質に満たされている。
 だから、わかるんだ。みんなの感じたことが、ラジオのように。265P

ラジオというモチーフが個々人の意思と連帯のテーマに繋がっている。ラジオグリーン、略してラグと呼ばれるロボットが主人公の相棒のような存在になっていて、愛嬌ある振る舞いをするのが読んでいて楽しい良いキャラだった。

『詩集 水の時 Voice of St.GIGA』『詩集 星の時 Voice of St.GIGA

セント・ギガという基本的に自然音と音楽を流すだけの先鋭的な衛星放送ラジオ局で二時間ごとに読まれた「ヴォイス」のうち作者が書いた約600篇から編集された二つの詩集。今はもうないラジオの面影を窺うことができる。

両書のあとがきに当時の経緯が書かれているけれども、有料の衛星放送でCMも時報もDJもトークもなく、自然音と音楽とヴォイスによる24時間の音の潮流を作りたい、衛星から見れば国境のない地球に美しい音楽を反射させたい、というJ-WAVE設立に関わった横井宏とその盟友桶谷裕治が企画したものという。地球という星を衛星からの視点での言葉を贈りたいというそのコンセプトにちょうどぴったりとくるのがその年出たばかりの『小惑星美術館』だったといい、二人の熱烈な申し出を受けて著者が91から97年にかけて書い「ヴォイス」が本書の元になっている。

セント・ギガでは24時間を二つの番組、日の出から日の入りまでの「水の時」と日没から日の出までの「星の時」に分ける。またその境界となる、日本で日の出が始まってから終わるまでの二時間を、日本の何処で日が出たかをアナウンスする特別な時間に据える。そして各地での満潮と干潮の時間が時報代わりにアナウンスされるという。月の満ち欠けの告知もあり、音楽や自然音で構成された音の潮流は満月になるにつれて高揚し、新月になるにつれて落ち着いていくようにデザインされていたという。この二時間を基本区分としてその区切りに読まれたのが複数の書き手によるヴォイスと呼ばれる詩篇となる。

日の入り日の出の地球の回転と、満潮干潮の月との関係を基軸にしたように、「二」を基本単位としているようで、それ故にこの詩集もまたセント・ギガの編成にならって水、天候、四季、自然現象などを詩にした『水の時』と、月、夜、夢、鉱物、星を詩にした『星の時』の一対で編まれている。そしてこの「二」への意識は既に亡くなられた二人の企画者、横井宏と桶谷裕治の二人を連星・双晶になぞらえたエピグラフにも現われている。私家版として20年前には編集製本していたという本が今一般に刊行されたことで、セント・ギガという放送局があったことを思い起こすためのモニュメントといえる一冊になった。

『水の時』冒頭に置かれた「音楽が降りてくる」(最後に引用)が最初に書かれた二篇のうちの一篇とのこと。ヴォイスの様子がよく分かる一篇で、ここまでセント・ギガの放送形態のことを書いたのは、この詩がどのような状況で読まれるものなのかが本書を読む上で非常に重要だと思うからだ。「音楽が降りてくる」という詩がその文字通り宇宙から降りてくるわけで、詩という可搬的な形態の面白さがある。この空と繋がるイメージのほか、四季のめぐりや自然と人間とに流れる水の循環を描く詩の数々は人が何かの輪のなかにあること、詩自体もまたそういう音の流れのなかにあることが重なる。

夜の詩は夜に流れ、夏の詩は夏に読まれ、潮の満ち引きの詩はそのタイミングで衛星からラジオとして流れていた、ということを想定しながら読むと雰囲気が感じられて良いと思う。

『水の時』は四季や自然現象を題材にする昼の詩で「水の彫刻」や「秋の海」など水と生命の循環が底流しているのが印象的だ。

 水の彫刻

その夏の ある日
ふいに まぶしい鏡の光が目に入ると
急に すべてが 透きとおって
ただ 水だけが 見えた

樹木は ゆるやかな噴水
透明な大地から 静かに水を吸いあげ
葉は 青空を映して 揺れる

走っているのは 子どもの形の水
追いかけているのは 子犬の形の水
笑い声が 光になって きらめきながら こぼれる

飛びたつ鳥も
はばたく蝶も
咲き誇る花も

命あるものはすべて 水の彫刻
めぐりながら流れる 水の彫刻

その夏の ある日
いたずらっ子の鏡の光で 目を射られると
急に すべてが 透きとおって
ただ 輝く命だけが 見えた

『星の時』は夜や月、夢、鉱物などの題材でも分かるように幻想小説の欠片のような感触があり、「月の夢」「月の神殿」「星の楽譜」「結晶都市」「銀河の船」などが良かった。

 星の楽譜

きらめく星は
あれは ほんとうはオルゴール

北極星を軸に ゆっくりと回る
推奨の円盤に埋めこまれた 金と銀のピン

耳を澄ませば
ほら 聴こえる
星座たちの旋律

 結晶都市

都市が 夢見ているから
夜は美しい
まるで 光でできた森

以下が最初に書かれたという「ヴォイス」。

 音楽が降りてくる

音楽が降りてくる
空から 星から
音楽が流れる
川のように 絶え間なく
天の河の 透明で希薄な水が
地上に 流れこむ
水晶の水に浸されて 洗い流される地上の塵
都市は 美しい廃虚になる
潮の満ち引きのリズムを
ゆっくりと 思い出しながら

時が ゆるやかに 流れだす
わたしたちは いままで
なにをそんなに 急いでいたのだろう

体のなかの海が 静かに満ちてくる
水平線から 月が現われる

音楽が打ち寄せる
わたしのなかの 海から
そして 遥かな星から

星のしぶきをあげて 砕ける波
わたしは じっと 耳を澄まし
小さな 渚になる

『名前で呼ばれたこともなかったから 奈良少年刑務所詩集』

編者は長年少年刑務所で詩の授業をしており、受講者が書いた詩を集めた詩集の第二弾が本書となる。セント・ギガ詩集から続けて読むと、作者にとって世界と人を繋ぐものとして言葉・詩があるのが通底していると気づかされる。

編者はレンガ造りの名建築を見に、奈良少年刑務所を見学した折に刑務所の教育官と話したことがきっかけで「社会性涵養プログラム」の一環として詩の授業を受け持つこととなり、本書はそこで書かれた詩を収め、各篇に編者のコメントを付し、末尾に解説などを収めている。

「彼らはみな、加害者になる前に、被害者であったような子たちなんです。
極度の貧困のなか、親に育児放棄や虐待をされてきた子。
発達障害を抱えているために、学校でひどいいじめを受けてきた子。
きびしすぎる親から、拷問のようなしつけをされてきた子。
親の過度の期待を一身に受けて、がんばりすぎて心が壊れてしまった子。
心に深い傷を持たない子は、一人もいません。
その傷を癒やせなかった子たちが、事件を起こして、ここに来ているんです。ほんとうは、みんなやさしい、傷つきやすい心を持った子たちなんです」4P

これは前書きにある刑務所の先生の言葉だ。傷つきやすいその心を教室に向けて開くための言葉として詩があり、自分の受けた痛みや後悔、大事にしている思い、記憶など色々なものを言葉にして他人と共有すること。そうして自分の思いを自分で見つめ直し、自己を安定させ、自分がここにいてもいいのだという感覚を育てることが試みられている。

解説で詩の教室を行なうための条件が列挙されているけれども、人の作品を否定しないことや辛抱強く待つことなどの教室のあり方は、アルコール依存症の人たちが自分の「底付き」経験を人前で語り、依存症からの脱却を目指すグループワークにもよく似ている。よく似ていながら詩の教室ではそこに詩という作品を挾むことで、必ずしも自身のつらい経験を告白しなくてもいい、とハードルを下げている側面もあるだろう。言葉、作品として作った上でいったん自分と切り離して、作品への感想を共有することでワンクッション置いている、と思える。

自分を大事にできない時に他人を傷つけた痛みを理解するのはおそらく難しい。そうして、社会から脱落してしまった彼らを社会に再び包摂するため、あるいは更正のスタートに立つための自己の見つめ直しが行なわれ、コミュニケーション、自己肯定感の涵養へのルートを踏み固めているのだろう。

もちろん、心を表現しきれている詩ばかりではない。しかし、大切なのは、本人が「詩」だと思って書いたものを、「詩」だと思って受け止めてくれる仲間がいること。その瞬間、どんな言葉も「詩になる」のだと、わたしはこの教室で学ばせてもらった。「詩になった言葉」は、その人の人生を変えるほどの力を持つことがある。「すぐれた詩」だけに、価値があるのではない。どんな言葉であろうと、人と人の心をつなぐものになったとしたら、それは本人にとって、かげかえのない言葉になるのだと思い知った。181P

詩、言葉をラジオの比喩を使ったりしながらそれぞれの意思が伝わるというモチーフは『小惑星美術館』にもあり、セントギガ詩集を経てずっと作者の信念として流れているのだろうと思える。

そうじゃないんだ。わたしたちは、ひとりひとり、まったく別の人間だと思っている。けれどわたしたちは、もっと大きなものの、その一部かもしれないんだ。わたしたちの間を、見えない原形質が満たしていて、それが、何かを伝える。『小惑星美術館』225P

表現でもあるけれども私的な事情のカムアウトでもあったりと、個々の詩は本の流れでコメントとともに読んだ方が良いとも思うのでここには引かない。しかし刑務所にあって刑務所を批判するパンクな詩が面白かったので引用してみる。

 SILLY PRISON おろかな刑務所

右向け右 前にならえ 五指揃えろ
これはなにかの宗教か?

コンビニの列で 前にならえ
釣り銭片手に 右向け右
ここは一種の バカ製造機

ほんとうに大事なものを見失い
いらぬものばかり 身にまとう
オヤジのための整列で
オヤジのための行進で
なにがおれらの更生か?

だから増える
ゴマスリ野郎 ゲスなチンコロ クソなシャリ上げ
負け犬が 負け犬をいじめる 負のスパイラル
こんなクソ溜めから 早くサイナラ
そのために……

右向け右 前にならえ 五指揃えろ
バカな宗教にのめりこむ 132P

以上の文章をツイッターに投稿したら、寮さんのフェイスブックで紹介していただきました。ありがとうございます。「いままで、わたしの多ジャンルの作品を、このように横断し通底して紹介してくれる人はいませんでした」とのことで、長年のキャリアのある書き手ですらそうなのか、と驚きました。そしてこれはひとえに寮さんの文業に強固な一貫性があるからこそだと思います。