ダニロ・キシュ『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓』

悪党やならず者を描いたボルヘス『汚辱の世界史』のオマージュかつアンチテーゼとして、ソ連の粛清などによって公的な歴史から消された者たちを描く短篇集。裁判沙汰になった論争を巻き起こし、作者のフランスへの亡命の原因となった話題含みの書。殺しや暴力に満ちた男たちの生、小見出しをつけて細かく節を分ける形式、資料や文献に依拠しつつ圧縮するドライな記述スタイルなど、ボルヘス『汚辱の世界史』を模範としつつ『悪党列伝』とも訳されたそれとは異なり、政治運動に携わるなかで無実の罪を着せられた者たちを描いている。スターリン時代の粛清を題材にしたとあり、そうして歴史から消された者たち「のための墓」、つまり墓標を記して記録すること。テーマに「死者の百科事典」と通底するものを感じさせるけれども、本書が先に書かれており、この試みを歴史性と離れた形で結実させたものが「死者の百科事典」だろう。

もちろんこの「消された人物」というテーマは、キシュが『砂時計』を含む三部作で描いた、アウシュヴィッツで消息を絶ったユダヤ人の父の延長線上にあることは間違いない。本書でも時代が異なる中世のユダヤ人虐殺を描いた『犬と書物』が含まれているのはそのためだ。

ソ連・東欧の共産党時代の歴史を知らないと背景が結構分かりづらいところはあると思うけれども、筋書きは明瞭で、『汚辱の世界史』あるいは『ブロディーの報告書』系統の短篇群のように読めるとも思う。恥辱と復讐を描く「めぐる魔術のカード」は特にボルヘス的な印象を持った。

この後に続く物語、疑念と困惑の中に生まれる物語において、唯一の不幸は(幸運という者もいる)、それが真実であること、誠実な人々と信頼しうる証人により記録された物語であることにある。7P

とは第一篇の書き出し。こうあるのもあって私は読んでいてこれは事実に基づいたものだろうかと思ったけれども、ノンフィクションの一節を膨らませたものなど依拠する資料やモデルはありつつも、史実ではないという。多々存在した状況をフィクショナルな人物で描いたもののようだ。その点も『汚辱の世界史』が実在の人物に取材しつつもなかば伝説的な風聞を物語にしていて、歴史的に正確ではないことと似ているのかも知れない。しかし、中世のユダヤ人に対する改宗をせまった「犬と書物」は概ね既存資料の翻訳になっているともいう。

概ね10や20ページほどの短めの短篇が収められ、七篇で160ページほどの短い本だけれども、表題作は40ページ近い本書でも長めの作品だ。偽名を複数使って上流階級のサロンに紛れ込んだり、革命家へ資金を流すために行なった強盗事件の首謀者だったりした人物が一転逮捕され拷問に掛けられる。このボリス・ダヴィドヴィチ・ノフスキという革命的情熱を抱いた人物が虚偽の自白をするよう拷問に掛けられ、そうしなければ目の前で人質を殺すと脅され実際に殺されたり、陰惨な仕打ちを受けながら、拷問官との対立が描かれていく。

二人は、結局、利己的で狭量な目的を超えた道理から行動したのだと思う。ノフスキは自らの死、自らの転落において、自らの人格のみならず革命家全般の人格の尊厳を守るために戦ったが、フェデューキンはフィクションと仮定とを探究する中で革命の正義とその正義の遂行者の厳格さと一貫性を守ろうとした。ただ一人の人間、一つのちっぽけな有機体のいわゆる真実が損なわれる方が、高次の法則と利益が疑問視されるよりも良いと考えたのである。そしてたとえ取調べの過程でフェデューキンが頑固な犠牲者を狙ったとて、それはしたがって一部に信じられているような神経症の男やコカイン中毒者の気紛れではなく、彼自身の信念のための戦いであり、その信念は、犠牲者同様に、利他的であり、不可侵であり、神聖なものであった。彼の中に怒りと誠実なる憎悪を喚起するもの、それはまさしく被疑者の痛ましい利己心、自分の潔白なり自分のちっぽけな真実なりを証明したいという病的な欲求、固い頭蓋骨の経線に閉じ込められたいわゆる事実の輪を病的に回り続けることであって、彼らの盲目の真実は、より価値が高く、より優れた正義の体系に位置付けえない、そうした正義は犠牲を求めるものであり、人間の弱さを考慮せず考慮しうるものでもない。それゆえに、義務のもとに自白書に署名することは論理的であるのみならず道徳的でもあり、したがって尊敬に値するという一目瞭然の単純な事実を理解しえぬ者は押し並べてフェデューキンの仇敵となった。ノフスキの一件がフェデューキンにとって殊更に衝撃的であったのは、彼を革命家として高く評価しており、十年ほど前には、手本としていたからである。119-120P

個人や革命家の尊厳と大義のために個を犠牲にする思想の対立。そのなかで、歴史から消された個々人の側に付き、スターリンによる粛清の波に飲まれた人々を描くのが本書の各章になっており、副題「一つの共有の歴史をめぐる七つの章」の意図するところもそうだろう。

このボリス・ダヴィドヴィチ・ノフスキという架空のしかし実在してもおかしくない人物の章を書き終えたところでキシュが見いだしたのが、600年前にノフスキと同日に捕らえられた、イニシャルが同じユダヤ人が改宗をせまられた異端審問の記録だった。これを翻訳したのが「犬と書物」になる。癌で死ぬ男を描いた「死者の百科事典」を書いている時に作者自身が死ぬことになる癌が進行していたという偶然をキシュは生きたけれども、ここでも信じがたい偶然に際会し、それを小説に取り込んだことになる。

「犬と書物」のなかで、トゥールーズ市民が「ユダヤ人に死を!」と叫んで雪崩れ込んでくる暴動の場で以下のようなくだりがある。

私が読み書きに没頭していたところ、そうした人の群れが部屋になだれ込んできました。棍棒のように重い無知と、刃物のように鋭い憎悪で武装していました。彼らの眼を血走らせたのは箱ではなくて、書棚に並んでいる書物でした。絹を外套の下にしまい込み、書物を床に投げ捨てて足で踏みつけ私の眼の前で破りました。革で綴じられて番号を付けられていた書物、学識ある人びとによって書かれた書物、そこには、もし彼らに読む気があるなら、その場で私を殺すべき理由が千と書かれていますし、もし彼らに読む気があるなら、そこには彼らの憎悪を癒す薬と軟膏があるのです。それで私は言いました、書物を破らないように、多くの書物は危険ではない、危険なのは一冊だけだと。私は言いました、書物を破らないように、多くの書物は読むことが叡智へとつながる、読むことが怒りと憎しみに満ちた無知へとつながるのは一冊だけだ、と。すると彼らは言いました、すべては新約聖書に書かれている、あらゆる時代のあらゆる書物がそのなかにある。そこに、ほかのすべての書物の内容が収められているのだから、ほかの書物は燃やさなければならない、この「一冊」に収められていない内容がほかの書物にあるのならば、なおさら燃やさなければならない、それは異端の書だからだ、と。138P

聖書だけがあればいいといのはトランプ政権の反学問的姿勢というかトランプを支持している一派の発想というのはこれに類するものか、という印象がある。

七篇200ページに満たない小著だけれどもキシュの作品においてもっとも翻訳されており、特に論じられることの多い代表作だという。本書によって、父を消したナチス、そしてスターリニズムと、ユダヤ人をめぐるもう一つの主題が読めるようになった。


訳者奥彩子には『境界の作家 ダニロ・キシュ』という著書があり、本作を論争と共に詳細に論じているので詳しくはそちらを読むのをおすすめ。本書の解説は非常にあっさりしているのでもうちょっと紙幅を割いても良かったように思う。

『境界の作家 ダニロ・キシュ』の本書に対する議論では、剽窃の疑いを掛けられた経緯を追い、キシュの作品が何を踏まえて書かれているかを明らかにし、裁判にも勝った顛末を記しながら論じており、非常に参考になる。またキシュのインタビューが訳載されていて、重要なポイントを含むので以下に引用する。

僕が異論を唱えているのは、ボルヘスは自分の本に『汚辱の世界史』という題をつけたけれども、主題から見ると、「汚辱の世界史」などというものではまったくなく、何ら社会性のない、小さな子ども向けの物語であるというところです。繰り返しておきますが、主題の面において、です。ニューヨークのギャングの話、中国の海賊の話、田舎のギャングの話、すべて似たような話ばかりです。ですから、僕の異論は、一義的には、内容とあまりにもかけはなれた、ボルヘスの本の表題に対してのものです(ボルヘス自身、 そのことをどこかで認めています)。僕が思うに、「汚辱の世界史」とは、強制収容所を生み出した二十世紀のことです。なかでも、ソ連の収容所。「汚辱」とは、より良い世界をという思想のもとに、多数の同時代の人々を抹殺すること。そういった人道的な思想のもとに収容所を作ったうえ、その存在を隠蔽し、人間だけでなく、人間のもっとも深いところに根ざしている、より良い世界への夢をも破壊することです。220P

「人道的な思想」という箇所は反語だろうし強調か傍点がついていそうだ。ともかく、ボルヘスの換骨奪胎を行なった理由がここにある。また、訳書解説では触れられていないけれども、構成を踏襲したのがボルヘス『汚辱の世界史』だとすれば、主題面で踏まえているのはアーサー・ケストラー『真昼の暗黒』だという。こちらは一応持ってはいるけれど未読だった。ブハーリンをモデルに、粛清のために虚偽の自白を強要される過程を描いたものらしい。


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