ノーベル文学賞受賞記念・クラスナホルカイ・ラースロー『北は山、南は湖、西は道、東は川』レビュー再掲

2025年のノーベル文学賞ハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラースローに授与された。ずいぶん昔に読んだことがあるけれども内容は全然覚えてないなあと思っていたら、2012年に出した同人誌「幻視社第六号」に松籟社の叢書〈東欧の想像力〉の関係作品としてレビューを書いていたのを発見した。完全に忘れていた。受賞記念にここに全文再掲しておく。下のニュースでは本書の訳者早稲田みかがコメントを寄せている。
www.asahi.com


 本書は〈東欧の想像力〉叢書に含まれるものではないけれども、叢書第一巻の一年前に出版された作品で、本作の訳者はこの後エステルハージ・ペーテルの翻訳をし、編集は〈東欧の想像力〉を一人で担当している木村浩之氏ということで、これが叢書誕生のきっかけになったのか、それとも先んじて叢書企画が進んでいた所にこの本の話が舞い込んできたのかは分からないけれども、〈東欧の想像力〉第ゼロ番とでもいうべき作品と思われるので、ここで紹介する。
 クラスナホルカイは一九五四年生まれのハンガリーの小説家。現代ハンガリーを代表する作家として知られ、特にドイツでの評価が高いという。映画の原作も手がけ、同じくハンガリーの映画監督、タル・ベーラの作品の多く(『サタンタンゴ』『ヴェルクマイスター・ハーモニー』『ニーチェの馬』)で原作、脚本にかかわっている。
 旅行好きらしいクラスナホルカイは、はじめは日本に行く気はなかったものの、日本在住のハンガリー人の友人の強い誘いに乗って来日したところ、「自分の考えを一変させる決定的なことを見つけた」という。そして二〇〇〇年、「国際交流基金招聘フェローとして半年間京都に滞在して、観世流能楽師のもとに通いながら、寺社建築や日本庭園をはじめとする日本の伝統文化について研究を深める」ことになった。
 その結果書かれたのが「北は山、南は湖、西は道、東は川」に守護される位置に建立された寺社の庭園をめぐるこの小説だ。小説は冒頭、京都のある場所へ向かう列車に乗るところから語られ、どうやら何かを探しているようだけれど、これがいったい何者によるものなのかは、数章後にならないとわからない。また何を探しているのかは半分を過ぎないとわからない。本作は第一章を欠いた全四十九章からなる断章形式で構成されており、主人公らしき人物は第四章で「源氏の孫君」と呼ばれて登場する。基本的には源氏の孫君の都市探索の様子が丁寧にたどられるのだけれど、視点はそこにはとどまらず、源氏の孫君を探すお付きの人々、死にかけた犬、あるいは寺の建立を巡る歴史や、寺社建築の詳細な解説、庭園にある石をめぐる地質学的考察、ヒノキの種子がたどった中国山東省から京都への旅の科学的な解説等々、多彩な視点、認識から庭園を巡る語りが編み上げられている。
 クラスナホルカイの特徴的な、時にページを跨いで続く長回しの文体は、分析的で詳細に対象を描き上げていくもので、またさらに認識論的哲学的な考察が加えられていく。源氏の孫君を主人公ととりあえずは捉えられるけれども、視点はカメラアイのように突き放した距離感があり、無人の日本庭園を中心にすえた作品世界は独特の抽象性を持っている。クラスナホルカイは「日本では、人間よりも外界に重きが置かれています」と、日本文化の特徴を指摘している。庭園を中心に据えた作品世界は確かに、人間の心情や内面的なものが希薄で、彼が「人間の登場しない小説が書きたかったのです」とあるインタビューに答えて述べたという言葉に納得させられる。
 庭園を探索する源氏の孫君が既に、時間を超越した不可思議な存在だ。彼が探索する庭園は平安時代末期に手にした『名庭百選』に載っていたものだというから話が妙になって、源氏の孫君が現代日本京阪電車で移動する冒頭の描写ですでに、本作の時間感覚は歪まされており、時間も空間をも越える奇妙な視点から本作が語られていることがわかる。
 作中にも無限の数学についての架空の本について語られているように、無限がひとつのキーになってもいるようで、源氏の孫君が探している庭園については以下のように語られている。

それはどこかしら不安定な海面や、そこかしこに点在する荒々しい岩くれの間で渦まく潮を表象しているようにも見えたが、実のところは、そこにあるのは完璧にして単純な美にほかならず、そこではすべてが存在し、何も存在しないのであり、とらえるすべもない恐ろしい速度ですぎゆく事象の一瞬の瞬きや消滅の避けがたい無限性を内に封じ込めている一方で、目くるめく恒常性をも秘匿していて、近寄りがたく立ちはだかって解釈を拒む絶景を前にして人が覚える言葉の無力さのように深遠で、それははるかかなたの大洋で押しては寄せる無数の冷たい波のようでもあり、ある寺の庭そのものでもある。 (二八~二九頁)

その庭は見る者にとてつもなく大きな力を及ぼしたので、一目見たあとそれについて語ること、それを見たのちに語る言葉を見つけること、的確な表現を見つけること、本質を表現すること、そうしたことは何にもまして困難な課題であり、観察者がどんなに冷静であっても、最初の眩惑のあとにはさらなる深い眩惑に襲われて、眼前にあることを理解すればそれについて語るすべを失って、この庭を的確な言葉や表現を用いて記述する手立てを奪われるだけではなく、換言するなら、斜めに走る小道の右側、下の三角形の中にあるものを見た者、偶然にもそれを発見した者、ちらりとでもそれを目にした者は、以後、それについて何も語りたくなくなる、つまりこの庭は、まずもって語ろうとする欲求を、それについて何かを話そうという意志を消滅させてしまうがゆえに、語ること、適切な言葉と表現を見つけることが実に困難なのであり、それはひとえに庭のもつ真に無限の簡潔さによるものなのだった。 (一一七頁)

 庭の表象と、庭を認識することについて語る二つの部分では、ともに無限の語とともに人間が言葉を失う様子が描かれている。この庭にまつわる認識には、人を突き放す部分があり、人の作ったものでありながらも人を寄せつけない孤絶が感じられ、当の庭もついには源氏の孫君に見つかることなく終わるこの小説の展開がそれを裏書きしていく。平安時代から現代に至るまで源氏の孫君に発見されないこの庭は、それゆえに時空を越えて画然と孤立している。つまり、クラスナホルカイのいう「人間の登場しない小説」というのは単に人の心情や内面に寄り添わないことをいうのではなく、人間の認識、表現を拒む存在を描くこと、つまりはこの「庭」の芸術性が、人間を越え出ることを描こうとするところにあるということだろう
 時空を越えた人間を超越する庭、これがクラスナホルカイの見つけた日本の文化なのだろうか。

(体裁を整えたほか、数カ所の語句を訂正した以外は内容に手を加えていない)


以下出典。
gensisha.gumroad.com