石川博品『アフリカン・ヴードゥー・ジュージュツ』と『魂たち』

『アフリカン・ヴードゥー・ジュージュツ』

二年ぶりの新刊。本書はこれまでの石川作品で一番ソリッドでタイトな小説かも知れない。アフリカで暮らす少年が柔道家の日本人と出会い、数代にわたる師弟らがジュージュツを洗練・変化させつつ受け継ぎ、憎悪・暴力・差別・国家の生む分断を超える理想の境地を求める生を描く長篇小説。

アフリカの少年ルヌエとその子供たちに伝えられた「柔術」を描いており、主人公は結婚し子供へと視点人物が移行するし、現代オタク文脈での小ネタもなく、キャラクターイラストもつかない今作は既にラノベという枠にはない。ブラジルの柔道という実例があるとはいえ、アフリカの国に柔道家の日本人が訪れて、という発端こそやや奇想的だけれどそこからの展開はずっとシリアスだ。版元も売り方を模索したのか『近畿地方のある場所について』の背筋氏が推薦文を寄せている。

「旦那」というフランス系と思しき外国人が支配するアフリカの小村にやってきたホンゴという男の謎の技、ジュージュツに魅了されて教えを請うたルヌエが旦那の息子と戦い腕を折ったことで恨みを買い、一家が殺され、家が燃やされて村を脱出することになるのが序盤の話になる。力に抗する力がさらなる暴力、憎悪を呼び込み、漁とジュージュツのみに打ち込むルヌエの知らぬ間に「ヨーロッパ人」を追い出して国は独立し、支配者を追い出したらそれまで誰も気にしていなかった二つの種族間に分断が生まれ、それにラジオが関与していることも示唆される。ただジュージュツと自分たちの家族の生活が大事なルヌエを、脱植民地化、民族差別、資本主義という近代化の流れが襲い、彼は否応なくそれに巻き込まれていく。

こういう設定で奇想小説、ポストモダンな現代小説にもなりそうだけれどそうではない。いや、ある程度はまさしく奇想小説なんだけれども、そういうものならもっとアフリカの話や柔術の話、横道や脱線など遊びや情報量を増やしていきそうなところがそうした色気がほとんどない。厳しく体重調整をした格闘家のような贅肉を削いだ小説になっている。

最初に川のなかでのルヌエが描かれ、折に触れ漁をしていた彼を語る叙述には川の比喩が散りばめられている。川は生きる糧を得るための場でもあり、交通路でもあり、そして虐殺において死体が浮かんだ生死の象徴のような場所だ。作中の国も独立した時もこの川の名がを国名にしているほどだ。ラジオを聴かないルヌエやマイクを知らずに「筒」と形容するその子ソソラといった自然のなかで生きる彼らに押し寄せる歴史・近代化の流れが「川」とともに描かれている。そしてその行き着く海の港町でアフリカの相撲と対決することになる。別の国、より広い世界と出会うのが海だ。村のなかでの憎悪の連鎖、民族差別による虐殺、様々な苦難を逃れて行き着いたこの港町で、格闘技によるショーへ誘われ、ジュージュツが金になる状況が生まれる。これが商業化・資本主義との遭遇と言えるか。

ルヌエによって一度は兄弟弟子を殺す手段になってしまったジュージュツは、義理の子ソソラによって別の形で高められ、そうしてルールのもとで公正に戦われる格闘技としての姿を得、そこに「ジュージュツ」の理念の実現がある。「呪い」と呼ばれる暴力の連鎖に対して力は必要としても、そのコントロールこそが重要になる。愛は呪いにもなり救いにもなると本作は告げる。ジュージュツに向けられた悪罵・呪詛は賞賛にも応援にも変わる。タイトルのヴードゥー・呪術が柔術・ジュージュツへ転じるところに今作の核心がある。ルヌエとソソラに直接の血縁はないけれどもこの二人が家族にして師弟という本作でもっとも重要な繋がりを持っているのは、民族・人種の血統をずらす意味があるし、理念は血縁ではない拡大家族を作るよすがになる証左だろう。力の理念は時に破られ暴力になるとしても。

そんなようなことを書いて、後から本書でメモした箇所を見返したら、そのものずばりのことは既に書かれていて、自分はこれをなぞり返しただけだったな、と思った。

彼はジュージュツがコビンマ川のようになればいいと思った。あの大河のように力強く、自然の法として相手を崩して押し流す。それだけでなく、多くの人を運び、養う。その先には海がある。海は彼のまだ見ぬ世界につながっている。ホンゴ・センシの生まれた国にも、いまだジュージュツを知らぬ国にも彼は行ける―― 208P

「いつも憎しみや恨みからはじまっていた。かならず誰かが大事なものを失って終わった。本当にひどいものだった。おまえにはそうなってほしくない。未来につながる戦いをしてもらいたいんだ」225P

共存していた民族がある時急激に憎悪を向け合い、隣人の虐殺に発展するというところにはラジオの煽動への言及もあってルワンダの話を思い出させる。ベルギー植民地時代の影響でルワンダはフランス語が公用語にもなっているというけれど、本作で出てくる「ヨーロッパ人」がフランス系と思われるのはそれもあってのことだろうか。実際フランスはアフリカに多く植民地を持っていたから直接にはそのためだろうけれど。

ラジオの話は最後に以下のような下りに繋がっている。

ブラジルといえば、われらが日頃食べている餅の原料である芋はブラジルから渡ってきたものだ、とコビムは言う。ラジオで聞いたからおれは知っている。森に囲まれたあのンコロ村もそうやって世界とつながっていたのだ。249P

虐殺を煽ったラジオを最後こうして世界との繋がりによって捉え返す。南米ブラジルが出てくるのは柔道の盛んな国として、そして今作のアイデアの元がそれだからだろう。


嘘・デマによって煽られる差別と排外主義が渦巻く現代SNS社会において、非血縁による家族、ルールに基づいた身体による格闘を描く本作のありようは、民主主義を支える公正な議論の比喩と言えないこともない。

ナゲ、ガリ、ジメ、ドーギ、タタミと日本語をカタカナに異化して語られるのはその柔術の理念が言語や国を超えて伝わりうる翻訳可能性のことでもあるし、柔道を詳しく知らなくても分かりやすくする工夫でもあるだろうか。異色の格闘小説を通じて真摯なテーマを描いた作品だ。

しかし、まわりの喧噪から逃れるためのようにルヌエがジュージュツに一人打ち込む場面を読んでいると中上健次を思い出す、特に『枯木灘』の序盤あたりに土を相手に自然と格闘するような描写があったな、と思ってたんだけど、Wikipediaを見たら石川博品が第一に挙げる作家は中上健次だった。

『魂たち』

2020年の『ボクは再生数、ボクは死』という仮想空間を舞台にした長篇のスピンオフ作品集。本篇の内容を大概忘れてしまっていたけれどある程度単独で読んでも楽しめるし、『アフリカン~』のシリアスな作風に対して現代文化盛り盛りの対照的な作風が読めて良い。電書限定。
石川博品『ボクは再生数、ボクは死』 - Close To The Wall
メインキャラだったキャッシュマネーの前史「キャッシュマネーフェスティバル」、娼館の用心棒ブラッドバスのクライムサスペンスアクション「殺戮の街」、本篇主人公のCGモデル制作者の同棲相手を描く「二十一世紀の乙女たち」の三篇を収める。

「キャッシュマネーフェスティバル」は、配信者として頭角を現していくキャッシュマネーが学校の文化祭でクラスの出し物のプロデューサーとなり、同時にVR空間サブライムでもDJイベントを行なう、という現実と仮想のイベント主催を描く話で、同時にクラスメイトの女子への思いを描く百合でもある。クラスの文化祭の出し物に生煮えの「ビジネス」感覚を持ち込もうとする青臭さ、痛々しさが描かれるけれども、配信でのアンチ、文化祭での厄介客に対する態度がマウント気質の攻撃性を共有しているところに彼女の問題がある。切ない結末で、本篇だと振り回されキャラの尖ってた頃の話という感じだ。

「殺戮の街」、娼館の用心棒ブラッドバスを主人公とする、ある配信者の五人しかいないフォロワーが皆殺しにされた事件を追う探偵もの、かな。VR空間の娼館で用心棒の役割を説明しつつ、盗撮やドラッグの取引といったものを描くVR犯罪小説になっていて、銃撃戦もありの派手な短篇。

「二十一世紀の乙女たち」、本篇での主人公シノのCGモデルを作った「ママ」ぱおぱおさんの同棲相手の男性を主軸にした短篇。弱いところに沁みる話だ。ぱおぱおは気鋭のデザイナーとして頭角を現しており、国外も飛び回る人気作家で、主人公はその才能を見てデザイナーを諦めた過去がある。彼女の古いアバターを使ってVR空間に入り、シノと遭遇することでVRプレイが異様に盛り上がってという屈折した性欲の描写の面白さとともに、このぱおぱお側にもまた存在する屈折ゆえに、「ママ」として多数のVRモデルを産出していく創作者とその恋人の関係がしんみりと良かった。「魂たち」という本書の総題はこの作品中のぱおぱおさんの手がけた作品名から来ている。

ジュージュツのタイトさに対してこちらは 欲望渦巻く街を舞台にして対照的な作風とも言える。VR空間でのドンパチはアカウントは消えるものの人が実際に死ぬわけではないという気安さは、どこかブルーアーカイブを想起させるところがある。『ボクは再生数~』は舞台設定を作ったことでスピンオフで一冊作れるわけだし、続篇とかもできそうな気はする。近作では一番派手だし。