ずいぶん雑多な並びになったような気がする。
- 『北海道ミステリークロスマッチ』
- 金時鐘『猪飼野詩集』
- ロバート・A・ハインライン『スターファイター』
- 『随風01』
- 高原英理『夕凪姉妹と怨霊お祓い記』
- 板垣真任「おとうsea」(文學界2025.11)
『北海道ミステリークロスマッチ』
北海道のミステリ作家たちを中心に小説漫画評論を問わず作品を提出し、そこで票を集めた大賞作品四年分五作品および重複しない作家の上位作と編集部の推薦作を収めたものと。漫画から短めの短篇まで、倒叙や文学作品のパロディ、精神医療もの、異能力ものなどなかなかバラエティがありいずれも楽しく読めた。根本尚「鬼女の羽衣」、唯一の漫画作品、確かに面白い。というか、真相が分かるとそういう伏線やフリを存分にやってたしなるほどそうなるんだけどやられた感がすごかった。ちゃんと真相への手掛かりはたくさんあった。絵で見て状況が明確に分かるだけにいっそうそう。
柄刀一「心中トゥモロー」、婚約者だったはずの義兄が別の男性と心中してしまった後、残された妹が牧師とその謎を解く。心中当時の様子を推理によって復元することで何が起きたか、義兄がどう判断したかを読み取り納得へと導く話で、推理とは読解のことでもあることを改めて思った。
新麻聡「巨人の国へ」、暗号の解読パートよりも他の部分にデカイ無理がある気がするけど、なるほどという真相だった。しかし見知ったものを文章で読んで既視感があるだろうかというのは気になった。まあ実際に見慣れたものを丁寧に文章で描写される時の知ってる感はなくはない。
松本寛大「わたしはもう死んでいる」、コロナ禍の大学生の困難と鬱病の様相を描きながら、コタール症候群という自分が既に死んでいるという認識を用いた作品で、精神医療ミステリとしての読み応えがある。事実を解き明かすことが混沌とした事態から悪意に利用された者の存在を浮かび上がらせる。自分は大きな影響はなかったけれども、コロナ禍が直撃した学生、生徒の困難というのは本当に大きいものがあると思う。リモートで大学の講義を受けるとか、絶対に集中できない。
既晴(阿部禾律訳)「復讐計画」、トラック運転手の遭遇する奇怪な現象と恋人を殺されたと信じる大学生がその犯人を殺害するに至る倒叙ミステリとして進行していくなかで、死が露見してからの警察パートで知らない事実が浮かび上がる二段構えの展開は驚きとともに笑いがある。しかし、最初の恋人が死んだ事件で犯人が疑う人物が怪しいという根拠がほとんど示されていないのは、これは意図的なものだろうか。
櫻田智也「ハマナス」、キザというと聞こえが悪いけど非常に雰囲気を作って書かれた短篇。一筆書きのように回想と現在時とを語っていき、七年の間ハマナスの咲く喫茶店を守ってきた理由が明かされる流れはなかなか良い。
深津十一「不一致」、講評で仕掛けはすぐ分かったと書いてあったけれど私は最後まで気づかず、なるほど確かにこれは分かりやすい仕掛けだった。これは同名の別人? 夢?とか思っていたけど、序盤の下りを伏線にしてあってそうなるか、と。世にも奇妙な物語風と言っても良いかもしれない。
和久井清水「偽作 尼ヶ紅」、泉鏡花を探偵役にしてその助手の視点で作品の舞台裏を描くという趣向。鏡花の神経質な言動を導入として戦争帰りの男が神経を病んで人を殺した事件という、怪異な現象の謎を解く作品。未読でも読めるけれども題材の作品を読んでた方が良いかもしれない。
千澤のり子「名探偵になれなくて」、排卵期になると男性の衣服が見えなくなるという家系に生まれた少女を主人公とする奇抜な設定の作品で、アイドルグループのライブに行く途中の語り手が遭遇する事件を衣服が見えないというアイデアで話を展開させていくのは面白い。
ミステリークロスマッチのサイトをちらっと覗いたら現在も続いていて評論が勝った回もある模様。本書は松本寛大さまより恵贈いただきました。
金時鐘『猪飼野詩集』
在日朝鮮人たちの街として有名だったけれどもその地名がついているせいで土地家屋が買いたたかれ縁談にまで影響があるなどとして「周辺住民の民主的な総意」によって地名が消えたという「猪飼野」を主題にした詩集。冒頭の「見えない町」から引き込まれる良さがある。見えない町
なくても ある町。
そのままのままで
なくなっている町。
電車はなるたけ 遠くを走り
火葬場だけは すぐそこに
しつらえてある町。
地図になく
地図にないから
日本でなく
日本でないから
消えててもよく
どうでもいいから
気ままなものよ。略
どうだ、来てみないか?
もちろん 標識ってなものはありゃしない。
たぐってくるのが 条件だ。
名前など
いつだったか。
寄ってたかって 消しちまった。
それで〈猪飼野〉は 心のうちさ。
逐われて宿った 意趣でなく
消されて居直った 呼び名でないんだ。
とりかえようが 塗りつぶそうが
猪飼野は
イカイノさ。
鼻がきかにゃ 来りゃあせんよ。略
始まろうものなら
三日三晩。
鉦と太鼓に叩かれる町。
今でも巫人(ムダン)が狂う
原色の町。
あけっぴろげで
大まかなだけ
悲しみはいつも散ってしまっている町。
夜目にもくっきりにじんでいて
出会えない人には見えもしない
はるかな日本の
朝鮮の町。
朝鮮の町を匂い立つような空気感から描き出し、日本にある在日の町という微妙なありようを労働、喧噪、そして北と南に分断された朝鮮を遙かに見つつ、親しみやすいリズムで詩にしている。とはいっても本書の詩に刻まれた状況は分かりやすくはなく、時々背景の分からないところもある。
「うた またひとつ」での靴を打つ職人を題材にした詩で、「打ってやる。打ってやる。」とリフレインを重ねながら日本、朝鮮それぞれの国への思いを込めてリズミカルに刻む部分も良い。
後書き部分ではこんなふうにも書いている。
やはり私は猪飼野へ選ばれてきたようである。本国でさえ廃れてしまった習俗がいまだ金科玉条のように受け継がれている、地方弁まる出しの猪飼野だったからこそ、故郷を失った私であっても猪飼野の頑な伝承からつきない生気を得てもきたのだ。222P
生涯を端役で通す人もおれば、土と火の対話に一生を賭ける人もいる。人々は銘々が自分の詩を生きているのであり、詩人はたまさか言葉による詩を選んだ者にすぎない。ために詩人は特定の職能でもなければ権威の保持者でもないのだ。詩人が「言葉」に取りついて離れられないというのも、そこに他者の生と重なる、自分の生があるからである。228-9P
ロバート・A・ハインライン『スターファイター』
1958年刊行のハインラインのジュヴナイル長篇。月へ行きたいと熱望する少年キップは月世界旅行の懸賞に応募し、正賞ではない中古の宇宙服を手に入れる。それを修理してものの大学の学費のために売り払おうと思っていた時宇宙からの通信を受信する。キップはオスカーと名付けた宇宙服を相棒に、そこで宇宙人に囚われていた10歳ほどの少女を「虫けら面」の宇宙人から助け出し、「ママさん」と呼ぶ別の宇宙人と一緒に脱出を試み、月や冥王星をめぐる冒険が始まることになる。主人公の宇宙服が第二の主人公とも言えるSF小説で、中古の宇宙服をオーバーホールして使えるように仕立てあげる工学的描写、宇宙での距離や時間を計算する数学的思考、そして勇気を持って諦めずに行動すること、そうした少年向けSF小説の美点があってなかなか良い。
ウィアー『火星の人』にも通ずるマインドはなるほどアメリカSFの古典という印象もあるけれど、終盤にあるのは宇宙人に裁かれる人類というテーマで、未来の可能性を訴えるところもやはりSFのコアの部分という気もする。
数学、工学的知識を生かしつつ冒険をしていき、自分のやりたいことを見つけ出し、工学科の大学進学を決めるというまさに少年の成長物語。子供向け文学全集に福島正実の抄訳版が収録されていて、それで本書に触れた人が多いらしいのがレビューを見ると分かる。
「Have space suit―will travel」という原題は「Have gun, will travel」(銃あり、どこでも参上)という1957年、本作発表の前年からの西部劇が元ネタっぽくて、作中では「宇宙服あり――ご報参上」とあるのがその訳のようだけれど、このコミカルな調子だからタイトルに使われなかったのかな。「ご報参上」というのは最初意味が分からなかったけど、報せがあれば伺います、という意味になるか。西部劇以前に元々「Have ○○, will travel」という定型句があるらしい。ハインラインのは定型句から来てるのか、西部劇から来てるのかはちょっと分からない。
で、本作は抄訳版のタイトル『大宇宙の少年』に改題して現在新版が出ている。それも漠然としているけどスターファイターも全然具体的でないし、抄訳版が人気ならそれにならうのはまあ妥当なんだろう。
『随風01』
随筆を主題とした雑誌の第一号。随筆復興を掲げる宮崎智之による巻頭文をはじめ、「ともだち」をテーマにした随筆と随筆についての時評・批評が100ページほどあり、最後に本書とはあまり関係がない本についての森見登美彦らが参加した座談会を収めている。宮崎氏による巻頭文は「僕が書かなければ、おそらく誰かが書く文章」という題で、生の一回性、人間の有限性、文字の持続性、儚さなどに触れつつ、文章のオリジナリティについて考えていくのがあまり自分の考えたことのない視点で面白かった。随筆は特権的な一人称が「真実」を占有してしまう可能性がある散文ジャンルだと著者は言う。そうして書き手が占有して他者からの批評を拒絶すれば、随筆は開かれたものにはならない。内部化した真実を開かれたものにすることで文学になるという著者のスタンスにおいて表題文が重要になる。表題を残像としての文章と呼び、それと自分が書かなければ誰も書かない文章という随筆像との境界線を探っていくような思考があり、しかしそうした残像としての文章にも可能性を見て取る、随筆とは何か、についての一つの応答のような文章。
私も評論においては確かに、自分が書かなければ誰も書かない文章を目指すし、事実誰も書いてないから自分が書くしかない文章というのを書いてきたつもりもある。ただ、たとえば私がツイッター、ブログで日々生産する文章は誰かが書くかどうかというのは本質的にどうでもいい。何かを受け取った時、自分のなかに生まれた感情や思考を形にして納得・理解しようという思いで書いているだけだからだ。見たアニメについて何か書いたり、読んだ本についてまとめたり、日々書いているのはそういう文章で、様々なログ・記録に近い。なのでこの問いは実感的にはピンと来なかったりもする。まあツイッターと文章とは違うと言えばそれはそうかも知れない。
「随筆時評」の柿内正午は宮崎の別の文章から、同様に「私」が真実を独占する特権性の話から始め、国家との共犯関係を脱するおしゃべりの可能性を探っている。特に興味深いのはイロニーとユーモアの分別だった。メタ的に自己の苦痛を卑小化するのをイロニー、同様にメタレベルで自己を見下ろしつつ「何でもないよ」と激励するのがユーモアだ、と著者は言う。ユーモアは写生だ、とも。対象と同一化するのではなく言葉と物との隔絶に笑いを見いだし、自己との一定の距離をとることでその隙間に他人が介在するお喋りが生まれる、そんなような。
横田祐美子「わたしがエッセイである」もエッセイを作者と同一視するのではなく、エッセイそれ自体に立ち上がる現象としての「わたし」を作者とズラすことが試みられており、評論の論者が一様に作者と内容の同一化に懸念を抱いているのが良く分かるし、エッセイ論とは必然的にそうなる様相が記録されている。
本題のエッセイはともだちという題材でそれぞれ印象的な友人の話を書いていて面白い。ちょっとしたことから付き合いがあった故人、人生の重要な決断に影響を与えた人、好きな人の話をする女子のあいだにあって架空の好きな人を一緒に作った友人……。オルタナ旧市街のエッセイはやはり上手い。自分なら何を書くかを考えたりした。パッと思いつくのは二人の故人だけれど、片方は書くことがなさすぎて、もう片方は多すぎる。そしてやはりエッセイとして書くつもりになる題材でもなかった。
高原英理『夕凪姉妹と怨霊お祓い記』
「稲生物怪録」を題材に、ある姉妹が妖怪たちと繰り広げる怪異退治の顛末記。エンタメというか児童文学的な感触があって、夏休みに古めかしい屋敷で妖怪たちと出会い、長い時間を一瞬に閉じ込めた経験をする話が真夏に刊行されるのは季節感もあって良い。13歳の姉と10歳の妹が、祖母からこの夏休みに化け物が出る屋敷に住むという課題を課されて、びっくり箱みたいに次々色んな妖怪と出くわして持ち前の度胸と機知で切り抜ける状況がコミカルなんだけど、次第にこの物怖じせず正義感の強い姉へ託された任務がこの国を巻き込むような大きな話になる。
硬質な幻想小説の印象が強い著者だけれど、今作は正義感が強く快活な少女を主人公にした明快な筋書きの作品だ。過去に刊行した作品の加筆改題による再刊で、ラスボスとの対決部分を大幅に加筆したというけど、もしかして最初に剣で斬ったところで戦いが終わってたのかな。元タイトルとも絡む「神野悪五郎只今参上仕る」のところは抜群に格好良い。夢見る力を持つ妖怪を人間社会に恨みを持つ悪霊がジャックするわけだけど、それを逆に物語の上書きで平定するくだりは面白い。憎悪を物語によって馴致し、癒やす。「物語」の裏と表を描いているようだ。
板垣真任「おとうsea」(文學界2025.11)
近年は文学フリマで本を売ったりウェブで作品を発表したりしている文學界新人賞受賞者の久々らしい商業誌掲載作。冒頭見開きくらいは語り手が誰で語られている人物たちとの関係が判然とせず、「おとうシー」が何かも分からないままで、読み進めて次第に状況が分かってくることそれ自体が、名前をつけ、混沌を形にするプロセスそのものでもあるように感じた。
それはともかく、読んでいくと語り手は兄の「てる」、お父さんならぬ「おとうシー」と呼ばれる父「ひろむ」と一緒に住む三十代後半くらい?の女性だということが分かってくる。そして彼女はパニック持ちで電車に乗って三鷹から阿佐ヶ谷までしか行くことができないという困難を抱えている。皮肉にも、話はさまざまな海外の地名をめぐって進む。今認知症が進みつつある父が昔、どこからか手に入れてきたたくさんの英字地名入りのマグカップ。語り手は海外はおろか数駅先にも乗れず、代わりにというべきか、たくさんの外国語を勉強し、海外の人たちと話ができるアプリで卑猥なやりとりをしたりする。
「交通」事故を起こして早期退職して家にいる父、結婚も就職もだめになりパニックを抱えて実家に戻ってきた語り手。移動に因縁を持ち家から出られない二人と、家から出る結婚を控えている兄。母を早くに失った家で、一度外から退却した人間が、外に出るためのエネルギー欠乏に襲われている。
語り手が兄の結婚式に行く途中でやはりパニックに襲われ、二時間以上をかけて式場に歩きたどり着く途中にマッチングアプリ代わりにもなる海外の人間と話せるアプリで延々外国語を喋りつつ歩き続ける場面は、閉ざされている状況と外に出ることへの渇望が渦巻いていて印象的だ。海外というように、日本にとって外国は海を介して繋がるイメージを持っている。加山雄三の「お嫁においで」が海を越えるイメージと結婚を結びつけ、お父さんはおとうsunとおとうseaという海のイメージとともにマグカップを海外で買ってきたという虚構を引き連れてくる。
認知症が激しくなり息子の結婚式にも出られない父と、名前をめぐる話題がさまざまに織り込まれながら、名前を呼ぶこと、呼びかけることの大切さを描き、一度外から退却した人間のただ少しずつ歩くこと、海をもまた歩いて渡れるというイメージによって少しだけ励ます、そんな印象だ。
広い意味で言うのは、もう、いったんやめにしようか。広い意味で捉えなくても、この世界を泳ぐ方法は他にもあるはずだし、そう、「次」を呼びかけるために私が発明できることは他にもあるはずだし、そもそも、泳がなくても、空を飛べなくても、あなたは歩けばいい、この前みたいに。海はどこにでも繋がっていたとしても、ひとつしかないわけではない、ちがう海へ、どこにでも、安心そうな誰かを置いて、あるいは見守りながら、ちがう海へ歩き始めてはいけないわけではない、ああ、愛しのアントニオよ、メキシコにも、歩いていけばいいね、どこにでも。191P
ここに概ね私の書いたようなことは書かれているけれども。「広い意味で」という家族で口癖が一緒なところも面白かった。また、父が動画サイトの陰謀論動画を見ていることについて下記のように語っているところは印象的だけど、ここの「だって~いい、よりはずっといい」構文は板垣語って感じがある。
「おとうシーと世界が繋がっているためのトレーニング、その世界が陰謀だらけだって、いい、そこに「世界」がないよりはずっといい、おとうシーと世界が繋がっていることが大事だった」181P






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