『田中小実昌哲学小説集成』全三巻

『ポロポロ』『アメン父』『ミミのこと 他二篇』『香具師の旅』『田中小実昌ベスト・エッセイ』
の記事などで今年田中小実昌を読んでいたのは、本シリーズが出ると聞き、また編集者さまから恵贈いただいたのをきっかけに代表作を幾つか踏まえてから読もうと思ったからだった。刊行されたのは今年の頭だったのにだいぶ時間が掛かってしまったけれど全三巻を読み終えた。色々面白かったので以下まとめてみる。

田中小実昌哲学小説集成Ⅰ』

著者の「哲学小説」と呼ばれた作品群を集成する全三巻の企画。第一巻では『カント節』と『モナドに窓はない』を収める。小説を読めなくなったという著者がカントやスピノザライプニッツ等を読みつつ、グダグダと引用と思索を続けていく。

仕事は月に五日くらいやればいいといういつもの話をしつつ、映画の試写などで出かける時に往復二時間の電車のなかで岩波文庫哲学書の訳書を読んでいる、と生活のなかに哲学書を溶かし込んでいるような感触がある。そうしてカントとヘーゲルの違いを語り口に見いだしていて、「カント節」とカントの語り口、言い方の面白さを著者は強調している。それはまさしくこの小説群がストーリーや内容というよりも哲学書の語り口に触発されて書かれていることを示しており、『ポロポロ』とも同様の物語批判が含まれているのはそのためだろう。

そういう哲学書を題材にして語られる反小説の小説、と言っても仕掛けが凝ってるものではなく、ただ語り手が哲学書を読んでいるだけだとも言える。しかし著者の哲学へのこだわりは掘り下げていけばいつも父・キリスト教・神の問題に行き当たる。言ってみればこれは哲学小説でもあり神学小説でもある。

純粋理性にとって避けることのできない課題は自由および不死である。そしてこれらの課題の解決を究極の目的とし、一切の準備を挙げてもっぱらこの意図の達成を期する本来の学を形而上学というのである。260P傍点太字

と著者はカントの『純粋理性批判』の緒言を引用する。

純粋理性にとって避けることのできない課題……カントはそう考えたようだが宗教家はべつにして、ニホンでの古くはカント学者と言われた人たち、またはカント研究家が、神、自由、不死なんてことについて書いたものは、ぼくは読んだおぼえがない。これはどうしたことか。それとも、ほくが読んでないだけだろうか。260P

西洋の哲学者が書いたものには、かならず神がでてくる。それも、ついでに神のこともといったぐあいではなく、読んでいくうちに、根本的、基本的なことだとわかる。それは、こういった哲学者ないし思想家には、カントふうに言って、理性がさけてとおれないこと以上に、どうしようもなく、神がいるからだろう。294P

後藤明生鈴木貞美の対談時評(「文學界1984年10月号)で、短篇「カント節」について、後藤は彼の観点からテキストと対話しての語り手の変化がないということを言っていて、それはそうなんだけれど、田中の語り方というのはそういう出会い頭のぶつかり、アミダクジ式の脱線とは違う。

ともかく、電車のなかでカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』などの訳本をよんだ。どちらも岩波文庫で星五つの上中下巻、大部の本だ。もちろん時間はかかった。でも長い時間をかけて、すこしずつ日をおいて読んでいったので、おぼろげにうかびあがってくるものがあるような気がすることもあった。本がニンゲンかなんかで、電車のなかでは、その相手とつきあっている、それが長くなって、相手がわかるわからないといったことはぬきで、したしんできた、みたいなこともあったかもしれない。216P

哲学書の読みをほとんどモノローグ的なものにするまでその本と馴染んでみる、そうして内容自体を理解するということよりもその語り口、「節」を取り込んでいく、そういうやり方をしているかと思われる。哲学書も実は昔から行に「目をおいたり」していたというのが明かされているとおり。

えーっと、なにを言おうとしてたのか。あ、アイデンティティというのが、どうもわからないってことだった。こんなふうにしゃべっていて、自分がなにをしゃべってるかわからないのが、アイデンティティのない証拠だな。アイデンティティというのは、本人であること、自己が自己であることとされてるが、それは持続しなければいけない。ずっと自分で、自分でありつづけなければ、アイデンティティは出てこないのだろう。135P

アイデンティティに対するこのなんとも捉えようのない記述が象徴的とも思える。後藤的なスタンスの「私」は何かテキストにぶつかってその都度方向を変える、硬質のものがあるとすれば、田中の「私」は何かもっとぐにゃっとしている。語り続けるその持続自体が「私」でもあるかのような。

後藤は田中のことを父親崇拝的コンプレックスと言ったけれども、田中と父の関係はいくらかはキリストとその弟子との関係に擬されているように見えるところもある。

いや、イエスや宗教のこと以外で、父が言ったということは、ほとんど母からきいたこと、母が言ったことではないか。だれかの言葉としてつたわっていることでも、こんなのがおおいのかもしれない。216P

この父自身から直接聞いたわけではないというのは、イエスの言行を誰かが書き留めた聖書から理解しているというあり方や、プラトンの書いたものでソクラテスを理解していることといった間接的な受容と共通のものがある。父がイエスに向き合うように田中も父に向き合っているのかも知れない。

ただ、出てくるのは久布白直勝牧師という父に洗礼を施した人の方が多い気もする。彼の子供と会ったり、人のツテをたどってアメリカ、バークレイのユニテリアン神学校で彼の入学書類を目にしたり、特に『モナドに窓はない』は久布白牧師の関係する話が多い。

Kさんのお父さんは、いわゆる大正デモクラシーのひとで、ニホン人の牧師としてはめずらしくカントが好きだったらしい。プロテスタントには、かなりカントの影響がある。それも、こちこちのドグマ派ではなく、わりと自由な精神のプロテスタントの人たちが、よくカントを読んだ。Kさんのお父さんの著書のなかに自由キリスト教という言葉がある。キリスト教自由主義は私の生命となった、とその著書のなかで書いている。180P

面白いのはこの久布白牧師と結婚した久布白落実という人は後に矯風会の活動に参加し廃娼運動に携わった人で、徳富蘇峰、蘆花の妹の長女らしい。矯風会というと20世紀的な表現規制の主要アクターって印象があるけど最近はどうだろうか。

語り手がアメリカにいた時に知己から誘われて久布白牧師のいた学校まで行くんだけれど、それを目的にも思っていたのにずっと自ら動くことがなく、人に誘われてようやく現地まで行く、という怠け者ぶりを発揮していて、謎解きに全然前向きじゃないところが著者らしいとも言える。その久布白牧師の書類には、Shemmon Gakkoと書いてあるものがあり、九州出身だから専門学校がシェンモンと訛っているのが書き取られていて、これは後藤明生の「チクジェン訛り」を強く思い出させるものがある。後藤と田中の九州をめぐる繋がり。後藤もまた父に強くこだわりがあるのに、田中を「父親崇拝的父親コンプレックス」と言うのは同類の自覚があるからではないか、という気もする。

付録対談含めて二回ぐらい、田中が生まれた年に父親に何か決定的変化があったという話をしていて、これはあるいは田中自身は自分が生まれたことが父親の変化の原因ではないかと疑っているのじゃないか、という気がした。そういえば『ポロポロ』について種明かしは残念だと言った小説家というのは誰なんだろう。小島信夫、は違うか。とツイッターで書いたらそれは都筑道夫だと教えられた。

「哲学小説」ではないとして『カント節』から除外されたという「ブラディ・バスタード」、どういう話だったのか気になるな。バスタード=私生児の話っぽいけど。

田中小実昌哲学小説集成Ⅱ』

この巻は『なやまない』と『ないものの存在』の二冊を収めてある。四年ほどの期間にまたがる諸篇で折に触れて西田幾多郎が言及され続けており、全体のベースとなっている。そして浅田彰柄谷行人も登場しており、両者をとても面白そうに読んでいるのが印象的だ。

西田幾多郎は著者が戦前、高校の頃には手を出していて分からないながらもずっと読んできたものだ。けれども昔は西田が読めないことを恥ずかしく思い、分からないながらも繰り返し読み、お経のように覚え込んだということが「西田経」という最初の一篇の表題になっている。哲学がどこかで父・神学・信仰と必然的に関わってくるこの「哲学小説」において、西田の文章が「西田経」と呼ばれるのはそれもまた必然的なことかも知れない。事実、「西田幾多郎自身が、偉大な哲学者はかならず宗教のことを考えた」と本作には出てきている。

著者は戦争に行く前の高校の頃に西田を初めて読み、近年?も「神戸の三宮の古本屋」で買った『哲学の根本問題』を折に触れて読み込み、そうして繰り返し読み、お経のように意味も分からないながらも身体に覚え込ませるように繰り返し読んでいる。そしてそれが本書でも数年にわたって続いている。ここに田中の哲学書の読み方、というかあるいは思考・文章のスタイルがあるようにも見える。「くりかえすが」は本書でも頻出の言葉だけれど、哲学書を長年にわたって読み続け書き手の文体を身体に馴染ませていくことが読むことでもあり、繰り返し同じことを書くのも文章のリズムになっている。

なにかを対象化しないで小説を書く。対象として、はっきりかたちを見ないまま、ぐしゃぐしゃ、ぼんやり書く。まてよ、それはそうしか書けないぼくの書きかたか。対象化しないでも明晰な小説があるか。そもそも明晰な小説なんてあるだろうか。明晰とは、哲学者のなかでもある哲学者の考えぐらいではないか。西田幾多郎は明晰な考えかたをしたひとではないのではないか。明晰さはとことん明晰でなきゃいけない。だから、考えにふかみなどがあってはこまる。西田幾多郎も明晰さを尊重し、明晰に考えをすすめた、と自分ではおもってたかもしれない。9P

西田幾多郎の書いたものは、年とともに、ずいぶん変わってきているようだ。はじめから、ほとんど変わらないという人もいるが、これはつまらない。自分のいちばんの相手は自分で、たえず、この相手にはつっかかっていかなければいけない。そうなれば、変わっていくはずだ。52P

このようなことを言いつつ西田を読んでいくけれど、本の趣旨や要旨を取り出すような読み方ではもちろんなく、折に触れて付き合っていくことでその考えあぐねる迂回の様相をたどり直すようなところがある。以下の引用のところにあるように。

泳ぎと言えば、いくら泳ぎについてきいたり、おそわったりしてもだめで、実際に水のなかで泳ぐのでなければ、泳ぐことはできない、泳ぎを知ることはできない、とベルクソンが書いてるのを読んだとおもう。たいへんにいい例で感心した。」泳ぎは、どんなにたくさんの、それについての知識などがあっても、だめだろう。それこそ、水にうき、水のなかでからだをすすめてこそ、泳ぎなのだ。それではじめて泳ぎを知る。58P

本書表題の由来はいかにも田中小実昌らしい以下の一節から来ている。

文学をする者、哲学をする者は、みんななやんだ。なやむために文学や哲学をするというのはわるくちだが、なやみがある者が文学や哲学をやり、ますますなやんだ。この世にうまれてなやまない者は(とくに、そのころのニホンで)考えのたりない者、あるいは自分さえよければことたりるという者で、考えのたりない者、あるいは自分さえよければことたりるという者で、すくなくとも文学や哲学をやろうとする者は、なやむのが当然だった。
 ところが、ぼくはなやまなかったんだなあ。小説を読むのは好き、哲学もわからないのに好きったが、なやまない。なやみたくても、なやめないんだから、しようがない。64P

悩まないけど哲学書を読んでいる、というか悩まないからこそだろうか。小説が読めなくなり、代わりに哲学書を読んでいると本人は言う。なかでも翻訳に難があるような岩波文庫哲学書を好んで読んでいるのは、その難解な思考のプロセスに惹かれるところがあるからだろうか。

ある人の講演について、ときにはユーモアをまじえ、なんて書いてあったりするが、こんなアホらしいことはない。ユーモアは、ときどきまじえたりするものではなく、基本が(もし基本というものが、ただの考えではなく、実際にあるならば)ユーモアであり、すべてがユーモアなのだ。177P

『なやまない』には冒頭の「西田経」よりも三年前の「十字架」が番外的に収められていて、これは独立教会を建てた牧師田中父の言葉を多く引いた一篇。神学と哲学の関連から収められたのか、それもそのまま本書に収められている。その前の「その日」は夏に死んだ犬のことが底流する奇妙な追憶。


『ないものの存在』、引き続き西田のほか、パスカルハイデガー三木清などについてつらつら読んで死、生、存在やゼロなどに触れつつ、この80年代末から90年に書かれた諸篇には浅田彰柄谷行人といった名前が現われ、それぞれの著作の引用が多々現われるようになるのが意外だ。しかし確かに同時代に同じ誌面に書いてた人たちだろうし、柄谷のものなどは雑誌連載時点で読んでいたとも書いており、「哲学小説」として古典的な哲学をともかくも読み込んでいた田中にとって、そうしたものを踏まえて面白いことを書いてるのが柄谷や浅田だったようにも見える。

かと思えば「言うということ」など、語り手のちょっとした取り違えから始まり、娘を「娘」と書くとかその夫を「若い医者」と「若い」をつけるかどうかという些細な言葉に絡みつく気分のようなものについて言えるか言えないかを延々と考え続ける、思索のありようが窺える独特の一篇も印象的だ。

「たんきゅうする」はタイトル通り柄谷行人『探究Ⅱ』が主題となっている一篇で、ニーチェや神や「この私」の「この」性についての議論に興味を持って読み込んでいる。デカルトの「精神」と「身体」について「深読み」している箇所について田中はこんな風なことを言っている。

ときどき、ぼくがぶつくさつぶやくのは、柄谷行人さんは〝精神〟のことを言ってるのに、ぼくがそれに、〝身体〟をからませようとしてるのだろうか。326P

本書での田中の書籍からの引用とそれへのコメントはそういうことなんだろうか。身体と言えば西田についてこんなのも。

ぼくは、西田幾多郎も名文だとおもう。あのねちっこい、くりかえしのおおい文は、悪文と言ったほうがとおりがいいだろうが、ああいう書きかたでなければ、西田幾多郎の考えは言いあらわせないとしたら、それもまた名文ではないか。いや、また安易で便宜的な言いかたをした。西田幾多郎が書いてるもの以外に、その考えがあるというのではない。だから、あの文章がまるごと西田幾多郎ならば、あれも名文、と言ったほうがいいかもしれない。ただ、西田幾多郎は書きながら、じれったい気持はあったかもしれない。すらすらと言葉がでてくる人ではあるまい。292P 太字原文傍点

文章の綴り方それ自体に意味があるという発想は保坂和志も受け継いでいたものだなあと思い出す。非常に面白い指摘として巻末にある対談で堀江敏幸が、田中にとってバスの車窓はずっと見続けられる点で映画と同じようなものだったのではないかと言っているところだ。田中は面白いつまらないを問わず一日二回、延々試写を見続けていたことが繰り返し書かれており、またバスにも良く乗って外を眺めていたことが書かれている。なるほどそう共通点を見いだせるか。試写への行き帰りの電車で哲学書を読むのは、地下鉄で既に同じものを何度も見ているからだろう。

こう書くとどうにも大ざっぱになってしまう。上記のように「言うということ」での言い間違い、勘違い、娘の夫を「若い医師」と「若い」を付けるかどうかという細かなことにこだわる部分とかそういうところにこそ面白さがあるんだけれど、上手く書けない。

田中小実昌哲学小説集成Ⅲ』

第三巻は全篇単行本未収録作を収めた一冊。「哲学小説」と呼ばれる作品が既刊二巻分以外にも多数書かれていたこと、その外延を具体的に提示した形だ。描かれているのは哲学書を読みつつ電車に乗って映画を見に行き、海外へ長期滞在し、バスに乗る日々だ。

アウグスティヌス、カント、プラトン、西田、ベルクソンニーチェ、井上忠、小林秀雄などなど多彩な哲学者や本が出てきていて、ベルクソンを読みつつ自由について考えたり、井上忠を読んでその「言語機構」という言葉を使って自分と他人のズレについて考えたり、日々の雑事と思索が混ざり合う。読んでいると田中は常に何かしらの移動をしているようだ。電車に乗って毎日二本の試写を見に行ったり、娘の住むブレーメンに行ったり、シアトルの女性の家に居候したり、海外でバスの終点まで行ったり。移動をすると目に映るものが変わる、それに飽きると本を読むのかも知れない。

バスに乗っている時には本を読んでいないようだし試写に行く地下鉄で本を読むのは窓から何も見えないしいつも同じところを通っていて見飽きたからか。堀江が映画とバスの車窓は同じではという指摘をしたことを二巻のところで引いたけれど、見ていると言えばこの巻でも田中は海をじっと見ていたりする。海や川や雨といったものが本書には多く出て来ている気がする。ゆらめくもの、うごめくもの。しかし田中は妻も子供もいるのに色んな女性と付き合いがあって居候したりなんだりでこれが事実そのままかは分からないけど平然と不倫をしているようでこの人は何なのか、と思う……。

解説にあるように田中の文業それ自体が哲学小説だ、というのは妥当かも知れないけれども何も言ってないようにも思える。田中が哲学書に向かうのは小説に飽きたからと言っていて、それは物語批判とも関わるのではないか。本書では井上忠の「言語機構」を踏まえているところにそれが出ている。

「どんなタイプの女性が好きですか?」ときくやつがいる。こういうバカな質問には、ぼくはこたえないことにしている。
 なぜ、そんなことをたずねるのがバカな質問なのか? 週刊誌なんかでも、ごくふつうにそういう質問をしてるではないか、とおもう人がほとんどだろう。
 こういうのが、井上忠さんの言う言語機構のちがいってことにつうじるのかな。言語分析なんかのちがいではない。ある言葉、ある言いかたの解釈の相違なんてことではない。そこに住んでる言語の世界、つかってる言葉の世界がちがうってことだろう。249P

共通了解、常識、普通……そうした人々が普段意識せずに疑わずに行なう思考や叙述やコミュニケーションを「物語」として距離を取るのが『ポロポロ』などで見られる田中的な語り口で、小説を離れ、理屈張っていて難解な哲学書を読むのはその「物語」から距離を取る方法の一つではないか。

だいたい、ぼくは理由のない男だ。なぜか、理由が好きでない。なりゆきまかせ、無責任なのだろう。しかし、だれだって、なにかやるのに、理由なんかあるものか、などと断定するのは不遜なことだ。世間でも、人はそれぞれちがうと言ってるではないか。しかし、世間は、人をそれぞれちがうようにはあつかわない。そんなことをしていては、世間がまとまらない。世間でなくなる。18P

哲学小説とされる『カント節』収録作よりも一年前に書かれた「カント通りから百メートル」にはこうした一節がある。これと似たようなことを「言語機構」という言葉を使って語っているところが「ヴェラとか」の一節にあった。

「ともかく、共通の話題とか、おなじ興味なんてことばかりを、ぼくは言ってきたけど、それよりまえに、おなじ言語機構でなくちゃいけない。おなじ言語機構だからこそ、相談にものれるし、読者は書いたものを読んでくれる。
 しかし、かなりトンチンカンな相手でも、言語機構なんてことは意識しなくても、ぼくのことをへんな男だと感づき、相談なんかしないのだろう。
 ミナ子とぼくはたぶんおなじ言語機構だったとおもうが、ぼくにはなにも言わずに自殺した。ぼくたちの言語機構では相談などは不可能なのだ。相談はできない言語機構。会社でも通用しない言語機構。ぼくたちはそこにしか住めないが、たいへんに不安定で、不安定だってことが常態の言語機構、自分や会社や世の中の繭にとじこもり、安定している言語機構の人々と世の中に、ぼくたちはうんざりしているが、世の中の人たちはなんともおもわない。258-259P。

田中は随所で自分は変わった人間だ、と述べていてそれは実際に小説を読んでいるだけでも伝わってくるし、風呂に入っても体を洗わないと生活の基本ができてないと自分を語るところとかにも感じられる。気質的にもやはり独特のものがあって、世間に対してずっとズレを感じているんだろう。

犬はぼくを同類の犬だとおもっていて、ぼくが犬のくせに、ニンゲンみたいなこと(電話をかけたり)するなと吠えるんだ、とぼくはひとにはなしたりしたが、犬に同類におもわれるというのが、 ぼくは自慢だった。72P

こういうどうしようもない物語ニンゲン、制度ニンゲンばかりが世の中にいて、ぼくはやりきれない。物語の国の住人の不幸だろう。
 三島由紀夫が死んだときも、カンケイない人たちまでがはしりまわり、なにかさけぶようにしゃべってるのに、おどろいた。ぼくは、ぜんぜんどうってことはなかったのだ。あれだって、自分も三島由紀夫が登場するドラマのなかの人物だとおもったのだろう。218P

ぼくは自由でありたい。なぜ自由でありたいかという理由なんかは、ぼくは詮索しない。理由によって自由になるのではない。自由の定義が自由を制約し、自由を不自由にするのなら、理由も自由を制約する。ぼくはただ自由でいたい。228P

ニンゲン文化は(ニンゲン以外の文化ってものもあるのかな)根拠にあこがれつづけていても、 根拠を見ようとせず、こばんでいる。それは、ニンゲンが身をまもるためなのだ。なにかの物語のようにきこえるかもしれないが、根拠からの挑戦、根拠よりの迫りに目をひらいていたら、目は焼きつくされてしまう。こういう言いかたも物語すぎるならば、根拠からの挑戦に、井上忠さん流の言いかただと、身をひらいていたら、まず、世の中で出世なんかはできない。根拠にいくか、出世のほうにいくかってことになると、出世をとるのがふつうだろう。299P

こういう箇所は本書からたくさん見つけることができる。「物語」「制度」「言語機構」「ニンゲン」「世の中」といった言葉で自分と社会との違和感を記しつつ、そこに哲学書の論理や思考で自己や認識を常識を越えて掘り下げていく過程が田中にとって求められていたのではないかという気がする。

田中は自分を理屈くさいと言うけれど、ものを考えたことはないとも言う。これもなかなか難しいところだ。ある種感覚的なものへの違和を色々理論武装するけれども、自分で深く掘り下げて哲学的な記述として書かないからなのかも知れない。あくまで哲学書は読むもの、というか。ああでもないこうでもないと哲学書を読みつつ私小説的に雑事を交えて色々書いていくのが哲学小説のスタイルだけれど、それでいて田中は自分の作品を「作品」と呼ぶことすら拒絶する。「ぼくが書くものもけっして作品ではない」「おしゃべりしてるようなものだ」(342P)と言う。

ぼくはなにかのおしゃべりをはじめると、ひとつのはなしが、やたらによこにのびていったりする。こんな場合、本筋を忘れて、と説明すればわかりやすいだろうが、もともと本筋なんてないんだから、これまたこまってしまう。
 そんなふうなので、ぼくが書くものもけっして作品ではない。書きおわった瞬間から、作品は作品としてひとりあるきをはじめる、みたいなことが言われてるが、ぼくはカンケイないな、とうんとまえからおもっていた。だって、作品じゃないんだもの。じつは、ぼくの書いたものでも作品なのかなあ、とはうたがっていた。しかし、いまでは、はっきり作品ではないと言える。こうやって書いてるのも、道でだれかにあって、おしゃべりしてるようなものだ。おしゃべりが作品ではこまるんじゃないの。おしゃべりを作品だなんて、だいいちはずかしいよ。
 作品を書いてるのと、ただのおしゃべりはうんとちがう。だれよりも、ぼく自身がそのことをはっきり知っとかなくちゃ……。342P

ある程度構成や仕掛けがあったりして「おしゃべり」が「作品」化されているものもあるとは思うけれども、実際滔々と流れるおしゃべりという感じも確かにある。これらの小説は日々とその脳内のおしゃべりの時々の記録なのかも知れない。誰かが読むかも知れない独り言。プロテスタントの独立教会を開いていた父の独自の宗教的態度と、田中自身の「物語」に乗れない自分のありようと、哲学書が絡んでくるのがこの「哲学小説」ではないか、と思う。とは言っても小実昌作品は少ししか読んではいないのでどうとも言いがたいものはある。
全三巻、とにかくも面白く読んだ。

本書は担当編集の方より恵贈いただきました。ありがとうございます。