那須正幹『屋根裏の遠い旅』と上野瞭『ちょんまげ手まり歌』

中公文庫のトラウマ児童文学シリーズとして続けて刊行された二作を読んだ。鈴木悦夫『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の復刊の売れ行きが好調なこともあってシリーズ化されたようで、ここで取りあげた二作はいずれもSF的趣向で反戦、反全体主義の作風だ。その点鈴木作とはやや色合いが異なる。

両著とも担当編集様より恵贈いただきました。ありがとうございます。

那須正幹『屋根裏の遠い旅』

小学生の省平と大二郎の悪ガキ二人が学校の屋根裏で遊んでいたら、戦争に勝利し未だ戦争を続けている日本に迷い込み、その似て非なるパラレル日本で戦時下の人々を日常的に支配する軍国主義、全体主義の有様を体験する、平行世界反戦SF児童文学。ズッコケシリーズで知られる那須正幹の初期作品だという。

平行世界の日本ではクラスメイトや街並み、家族構成などさまざまなものが少しずつ変わっており、戦争に行って父が不在だったり、戦地で脱走した兵士の娘が顔は一緒だけれど姓も名前も違っていたり、自動車がコークスで動いていたり、その節々に戦時下の影響が現われている。最初は少年二人も違和感を覚えながらも戦艦大和が健在で見学に行けると知ってはしゃいでカメラを持ち込もうとして没収されたり、大和の弱点や元の世界での知識をついぺらぺら喋ったことから憲兵に睨まれたりしてしまう。大和や原爆のことを喋ったせいで家宅捜索をされ、級友にはスパイと言われて避けられたりと、現代日本の子供が軍国主義日本の空気が読めずにトラブルを起こしてしまう。そうした迫害の部分と、同じく転移者の仲間を見つけたことで帰還へのヒントが手に入る。この二つの軸が話を引っ張っていく。

学校教育の場で軍国主義的教育が行なわれていく細部の様子ももちろん反戦児童文学としての読みどころでもあるけれど、本書が非常に読み応えのあるものになっているのは、山上先生と金森千穂の存在にある。金森千穂は元々の世界では林昌子という悪ガキ二人にとっては小言を言われて面倒くさいタイプの同級生だったようだし、山上先生も怒りっぽい人だという描写があるけれど、特に山上先生は最後、二人を命がけで救出しようとすることで、省平に大きな影響を与えることになる。

山上先生はこの世界の常識に従って省平たちを怒ったりするけれど、それでもスパイを糾弾する憂国塾に土下座しに行ったり、二人のことを身を挺して守ったり、それがすべてこの世界においての常識に従いながらも児童のことを一心に思っての行動だと言うことが後からはっきり分かってくる。戦時下日本の善良な一般の人間の存在が本作に厚みを与えている。また、意地悪な同級生、愛国主義団体や憲兵たちといった悪意を向けてくる連中からの妨害には挫けなかったけれども、金森千穂や山上先生といったスパイとのつきあいを善意で本気にして心配してくれる人たちの行動こそが二人の元の世界への帰還を阻んでしまうという皮肉がある。

元の世界から来た正木先生、湯川さんの二人が省平たちにとって仲間で味方なんだけれども、うるさい先生もまた彼らのことを真に思っている人だったことが、この世界は自分が生きる場所なのだと彼らに思わせる。この世界のことにどこか他人事だった省平が真に自分がこの世界で生きることに向き合わせる。

権力や暴力を振るう存在、そうした悪玉と省平たちにとっての味方になる敵味方の二分法だけではなく、その世界の常識に則りながらも思いやりと善意でもって生きている普通の人間の普通の善良さを描いている、このことがとても大事だと思う。

本作の結末には驚いたけれど、戦時下に変わってしまったという状況から一瞬で元の世界に戻るという簡単な結末を許さない、それこそが肝だろう。平行次元のギミックはむしろ戦時へ至る空気への変化の比喩でもある。だとするならすぐ元に戻るようなものではありえないわけだ。そう考える時本書のSF設定は何一つ空想的なものではなくそのままの現実を描いたものとして読まれる必要がある。気づいた時には一瞬にして戦時下の空気になっている、という現実を描いたものとして。

それにしても……。おれは、きのうから考えつづけていたことを、もういちど自分にたずねていた。いったい、なぜこんなことになっちまったのか。山上先生を殺し、金森に大やけどをさせ、おれたちの屋根裏を灰にしたのは、だれなのか。260P

たしかにこわかった。目の前にころがった死体や、手にこびりついた人間の皮を地面にこすりつけながら、おれはぶるぶるふるえていたように思う。でも、そのこわさは自分が死ぬかもしれないというこわさと、ちょっとちがった感じのものだった。この世界の人間でもないこのおれが、この世界のできごとで死ぬはずがない。そんな自信みたいなものがあった。253P

誰か、という問いにはもちろん自分も含まれていて、それが最後の選択に繋がる。

しかしこれ、平行次元に行かずとも戦後生まれの子供が戦時下日本に行っても似たような話にはできそうだ。もちろん似て非なる人たちの平行次元のギミックが重要にはなっているけれど。現代人が数十年時間を遡れば、たとえばジェンダー観などでは異国に来たかのような違いを感じられるだろう。

上野瞭『ちょんまげ手まり歌』

六つになる子は「やさしい」子になるか「畑に入る」かして、大人たちはみな足を引きずって歩く「やさしい藩」でのおぞましい支配と管理のありさまを描くディストピア時代小説児童文学。

六つになる娘が家老から「やさしいむすめ」にしてやろうと言われる冒頭を読んで、普通こういうものだと娘を権力者に差し出せという類の話かと疑ったけれども、六歳だしさすがにそれはないだろうと思ったら、冒頭からずっとなんでこの人たちはこうなのかという謎の答えが分かるところで最初の戦慄がある。この藩では六つになる子は「やさしいむすめ」「やさしいむすこ」にさせられるというのがどういうことか分かってなかなかぞっとしていたら、「畑に入る」というもう一つの場合にどうなるかがわかるとさらにぞぞっとくる。

ディストピア管理社会が「やさしい」と言いくるめられ、疑うこと、知ること、外へ出ることすべてが禁じられ、それらが殿様による慈悲というコーティングをされて、人々を抑圧しながらそれに内心レベルでも違和感を起こさせないような言語レベルでの操作が描かれている。山を越えようとすると「山んば」に取り殺されて食われてしまうよという外敵の設定によって、危険な山に行かないようにされることがやさしさとして表現される。そしてこの藩では勇ましく戦う夢を見る「ユメミの実」だけが産物として外界との交易の材料として存在している。

この実は内心そして夢までも管理される象徴で、外への志向、「夢」そのものをも抹消するものでもある。また戦意高揚の幻覚剤めいていて、武器しか産業のない国のようでもある。人々を閉域に閉ざし、身体も生死も言語も夢も管理する恐るべきディストピアが児童文学の平易さで描かれているわけだ。

色々興味深い細部があるけれども「ユメミの実」の品質管理を描くところが印象的だった。各人の収穫した実をこれまでは六人が実際に食べて見た夢を照合することで出来を判断していたのがこの年、一人だけが試験者となり、しかも実際に食べずに判断することになった。極めて恣意的な業績評価をするわけだ。収穫したユメミの実をはねられると収穫者はその年の食糧を得ることができない、これは異分子に狙いを付けて苦しめるために行なわれている。そして産物の評価を属人的なものにするこの過程は、権力者への疑いを禁じ公正さを無視するもので、政治的な独裁や政策の検証をする学問の否定の示唆と読める。

「どうして、弥平は、考えようとするのか。どうして、じぶんの頭で考えようとするのか。考えることは、迷うことである。考えようとすることは、わしの言うことを、うたがおうとすることである。わしは、みなのため、やさしい藩一国のため、どんなことでも、きめておるのだ。わしの考え、わしの言うことは、みなの考え、みなの言いたいことである。」173P

家老はこうして人々の思考を否定する。「石になる」ことを人々に要求する。さむらいとその家族が勇ましい夢を見させるユメミの実を育てる以外に産業のないこの藩は軍事国家の比喩でもあるだろう。軍国主義、全体主義体制を時代小説のフレームで描いているわけだ。

今こことは異なる時間軸でディストピアを描く本作はほぼSFと言って良いものだけれど、これが時代小説の枠組みで描かれている意味を考えるなら、ディストピアは決して未来的テクノロジーに依存したものではないということではないか。いつの時代でもこうした社会は生まれうる危険性を示唆している。

作者が後書きでこれは時代小説ではなく「現代」を描いたものだと言う通り、1968年に刊行された本作は、今読んでも生々しいリアリティを持って迫ってくるものがある。『屋根裏の遠い旅』同様、SF的趣向で軍国主義、全体主義への警鐘を鳴らす作品群だろう。『屋根裏の遠い旅』と似た点としては最後の主人公の選択がある。大人になること、その社会で責任を持った一人の人間として立つこととはどういうことなのか、この二作で二人の作者も同じ選択肢を提示している。

しかし誰にも顔を見せずにすべてを家老の指示で済ませる殿様は天皇の露骨な示唆なんだろうけれど、現代でも議会を軽視し議論から逃げ他人の責任に押しつけ続けることで似たようなことができるとは思わなかったな。