友田とん『「手に負えない」を編みなおす』

地下鉄の仮設の漏水対策に何故か興味を惹かれ日々その観察をしていたその記録から出発して、「手に負えないもの」として著者に見いだされた日々手当されて維持されるインフラというものへの関心が、言葉や記憶のインフラ性への発見に至り、そして記憶が再編成されるまでを描く特異なエッセイ。

第一部の「地下鉄にも雨は降る」のパートは柏書房のnoteでも連載されており当時から読んでいて、普段人が視界に入れつつもそこに大きな関心を持つことのない街中の些事に目を向けてみる街歩きエッセイとして面白く読んではいた。ただ、どういう発展性があるのかはその当時良く分からなかった。著者はこの地下鉄パートの後、他の手に負えないものとの向き合い方を付け加えて完成になる腹づもりだったようだけれど、まったく上手くいかずにかなりの時間を掛けて第二部を書き継いだようで、二部はまさに簡単にまとめられないようなものを含んだスケールの大きさがある。

第二部は読みながらわけも分からず圧倒されたような不可思議な感触があり、ロジックが通っているのかどうかも分からないままに漏水対策から著者自身の幼少期の記憶にまで足を伸ばし、元に戻ってきたかと思えば元の場所が前とはまるで違うものに書き換えられていた、という異様な筋道をたどる。

『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』の結末で著者は旅の果てで目的のものを最初から持っていたことを発見する、という旅のメカニズムを自ら再演していてそれが感動的だったわけだけれども、今作は似た旅路をたどりつつよりラディカルな主張が展開されていて驚かされる。

半導体技術者の大野稔さんという人物のことはこれまで著者が繰り返し書いている。NHKスペシャルで見た彼と知己を得て、書くことについてのアドバイスをもらい、幾つかは実践しながら、しかし植物事典を買って植物に興味を持ちなさいと言われたことはずっと果たせないでいた。このことは友田とん読者には周知のことだろう。しかし本書では漏水対策に興味を持つ自分とは何だろうと記憶をたどり返していく果てに、洗濯機の排水溝の網目で小豆から出た芽を見つけ育てていた過去を思い出し、しかし思いだしたのではなく今はじめて経験したかのようだと述べる。

「大野さんのアドバイスによって過去の私が植物に興味を持ったのだ」という一見意味不明な言明。カフカによってその先駆者が作り出されたと述べるボルヘスのようなロジックの転倒があって、しかしこれが著者の実感なのだという。ある謎を持って記憶をたどるなかで過去に今それを発見する。それは確かに今発見したことというに相応しい。むしろ元々そうだったのだ、という類の想起の仕方こそが実感に反した定型文での思考ではないか、と思わせる。ある本を再読してこんな文章があったんだと発見する時、それは今その時発見したもので元々知っていたものではない、というか。

この体験をしてから、私は植物にわずかながらも興味を持つ者へと変わった。大きな事件や出来事によって私が急に変わったわけではない。時間をかけて、ほんの些細な記憶をたどるうちに、過去の些細な出来事をありありと思い出すことによって変わったのだ。これは現在において変えられないはずの、手に負えない過去や因果を編みなおすような体験だった。229P 太字は原文傍点

言葉で過去を想起しつつそれによって今がまた変わること。日記を書く過程での過去の編み直し、今の編み直し。それによって自分自身が日々編みなおされていく。

近所の公園や道路の工事というインフラの手当は、翻って自分自身やその身体のことにも思考が進んでいく。「手に負えないことと可笑しさは表裏一体だったのだ」(233P)という一文があるけれども、人が年を取って自分の病気や身体のことを話題にするのはまさにその一例だと思った。民芸やウィリアム・モリスを引いての手仕事の重要性や、数学において具体例が重要なことなど、そして著者の昔住んでいた家の間取りを思い出すことや事務所の間取りにどう家具を置くかを考えたり、具体性の重要さが指摘されている。つまり漏水対策はインフラを考える必須の具体例なわけだ。

徹底した具象の観察があるからこそ抽象へ飛躍して広がることができる、第一部と二部はそういう関係になっている。「だいたいのアンザン」でミニチュアが出てきたことや本書の民芸や手仕事への言及は、思考において手で触れるものの重要性を示唆している。

そして漏水対策の観察は、自然と人工の違いがあるとは言え、どこか自然観察にも似ているのではないだろうか。日々変わるものごとのつぶさな観察はそのまま自然へもスライドしうる。土に浸みた水が漏れてくる漏水は、土の水を吸い上げる植物とまさに裏表、対の関係ではないだろうか。


記憶、言葉、身体。漏水対策についてのエッセイが、インフラという言葉を経て、生活のなかの手仕事や自分自身の日々の変容についてにまで話題が広がる、というか回帰していく。その過程がそうしてほとんど旅のように感じられる、そういうエッセイだった。長い旅をともにしたような感触がある。謎を携えながら年単位で時間を重ね、何かを見つけ出すまで続ける、その感嘆すべき粘り強さ。そして『『百年の孤独』を代わりに読む』も『パリのガイドブック~』も本書も、いずれも書くことについての大野稔さんの宿題をいかに果たすかというプロジェクトになっている。

大野さんという存在がいかに作家友田とんにとって重要なのか。そのことを思い知る一冊でもある。


「ジョン・ウィルキンズの分析言語」でボルヘスは中国の百科事典での奇抜な分類を示して、それをフーコーが『言葉と物』で引いたことが本書でも言及されるけれども、本書での想起のロジックはボルヘスの「カフカとその先駆者たち」での「おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである」を思わせる。そして、ある一つの具体例にはすべてがある、というのは回転するコマのような小さなものを本当に知ることができればすべてを知ることができる、というカフカの「こま」を思い出させる。本書はどこかカフカ、ボルヘス的なところがあるように思う。他に読んでいて思い浮かんでいたのはニコルソン・ベイカーの諸作やジャック・デリダの書名『たった一つの、私のものではない言葉』(文庫化で改題された)だったりした。

あと思ったのは、もっとも身近な手に負えないものとは自分の身体ではないかということだった。中高年の人が己の病状を笑い話にして話すのはそれがおかしいことだから。

おまけ 岩城一郎『日本のインフラ危機』

友田さんが紹介していたので参考にと読んだインフラ本。首都高速道路公団、東北大学を経て日大工学部工学研究所所長となり、コンクリートの耐久性向上、インフラメンテナンスを専門とする著者による新書。インフラ危機の啓蒙とともに産学官民が連携してインフラの維持管理を向上させる施策の取り組みを紹介している。

日本のコンクリート建造物、とりわけ橋梁に注目するとその建造ピークは1960、70年代に集中しており、これらが目安となる「50年」を経過するのがおおよそ現在となっている。国土が狭く地形も平坦でない日本は特に橋の数が他国と比べても膨大な数になっていて、橋の密度は数倍数十倍にもなる。橋梁、道路、高速道路、上下水道、さまざまなインフラの基礎知識を概説しており、特に二章のコンクリート構造物がどのように作られ、劣化するかを解説した箇所は土木の科学という感じで面白い。コンクリートの状態でどのような劣化が進んでいるかが簡単に把握できるようになるかも知れない。

コンクリートは耐荷重には強いけれども引っ張る力には弱く、そのため鋼材を入れることで強度を得ているけれども鋼材が錆びてしまうとコンクリートを破壊してしまうという仕組みになっており、これをいかに防ぐかという話や、寒冷地で凍結を繰り返すと劣化していく話、海近くでの塩害などなど。こうした劣化に対してさまざまな施策が行なわれており、著者は発電所などで生まれる微細な灰、フライアッシュをコンクリートに混ぜ入れて耐久性の向上を図った話などの工学的解説は面白い。

こうした工学的なものと、著者自身が各所自治体でインフラ管理においてどのような取り組みを行なってきたかという住民や行政の絡んだ話がそれぞれ触れられており、技術的対策と社会的対策が後半では重要なものとして描かれていく。人口が減少し、自治体でも専門的知識の持ち主が減っていくなか、地域住民が関わることでインフラ管理の目を増やしていくことを目指していく話は読者としても他人事ではない、というか本書はまあまったく他人事ではないんだけれど、大きな問題に小さな解決で構成されているきらいはある。

ピークが偏っているためにインフラの劣化が集中的に訪れるさなかにある現在、さまざまな対策が行なわれ、それぞれが効果を上げていくとしても、本書では悲観的な見方をあまり露わには書いてない印象がある。序盤で危機感を描いても後半で色々対策を示して終えるので一読それなりに希望が感じられる。しかし建設業の人手不足や後継者問題などネットで色々断片的な危機的な状況が指摘されるのを見ると、どうだろうか、と手に負えなさに茫漠とした気持ちになるところはある。焼け石に水の話をしているのではないかという気がしてしまう。大問題を提示して小解決を提示している感じがある。

最初の予算はいくらか高く付いてもそれによって長寿命のインフラを建てられればトータルコストは遥に安く付くという話があるけれど、貧乏人がものをこまめに買うことで損をするという事例のように、そうした予算が付けられるほど自治体に余裕があるか、という問題もありそう。