イアン・ワトスン逝去の報を聞いた*1。最近でも「ナイトランド・クォータリー」誌で短篇が訳載され、インタビューも載っていたのでさすがに急な報せで一瞬何かの間違いかと思った。しかし。70年代以降の英国SF作家として、芸術派のクリストファー・プリースト、アイデア派のイアン・ワトスンと並び称された同年生まれの作家が二人とも没してしまったのは時代の流れを感じざるを得ない。二人とも、既訳書はほぼ読んでいる作家だった。
第十七回文学フリマに「幻視社」で参加します - Close To The Wall
この機会に、2013年の文学フリマで頒布した「幻視社」第七号で行なった〈未来の文学〉特集で私が『エンベディング』について書いた書評を再掲する。今何か書くよりもこの時の自分の方がワトスンに詳しいので。

『エンベディング』
ワトスンのデビュー作となるこの長篇では、アイデアの核としてフランスの作家レーモン・ルーセルの詩『新アフリカの印象』が使われている。作中では理解不可能な代物、として度々言及されるもののどういう詩なのかというのが具体的に書かれておらず、読者にとって隔靴掻痒の感がある。例として、日本で唯一訳された粟津則雄訳「第三の歌 血が出るまでなめると黄疸の癒る柱」(『シュルレアリスムの詩 シュルレアリスム読本1』思潮社1981年)から基礎部分を引用する。
英雄的治療法だ! 舌が貧血しないようにと
少しもひっこめたりはせず、他の無数の阿呆のあとで、
この柱の脇腹をなめてなめてすりへらすのは!
だが赴かぬ何があろう、従わぬ何があろう、
明らかなものにせよ架空のものにせよ、希望に心を奪われて、
己れの病気を癒そうという、希望に心を奪われて。これが第三の歌の基礎だ。この第五行、「希望」のフレーズをきっかけとして、その次の行に
(希望よ! 人を動かす挺の王よ! 思いもかけず訪れるあらゆるアメリカの伯父
という括弧が挿入される。そして、「アメリカの伯父」に触発されて次の行では二つ目の括弧が開かれ、アメリカについての詩文が挿入され、それが終らぬ内にその詩文の「鼻」という言葉によってまたさらに新しい括弧が開かれていくという形で、基礎部分の行間に四つや五つの括弧が開かれ、その括弧のなかにさらに注釈という形で別の括弧が開かれるので、ルーセル論で一冊書いたミシェル・フーコーによれば、最大で九重の深度で括弧が開かれていくという異様な形式を持っている。二行ごとに脚韻を踏んでいく形式なので、括弧が開かれる時や閉じる時、注釈に移行する時や戻る時にも脚韻で連続していくことで一つの連なりが出来ている、という詩になっている。さっきの引用の五行目以降は原文ではこうなっている。
Fasciné par l'espoir, palpable ou chimérique
( Espoir ! roi des leviers ! tout oncle d'Amérique
( Ce pays jeune encore, inépuisé, béni,結局、一つの話が終らないうちに次々と新しい話が展開していくため、順に読んでいくと理解が追いつかない。ルーセルの詩法はこれだけに留まらず、実は小説の方でも最初と最後の一文が意味は違えどほとんど同じになる文章を用意し、その間を埋めていくような形で書かれたものがある。『アフリカの印象』『ロクス・ソルス』での奇妙な見世物や発明品の数々はこうした地口によって言葉から言葉を生み出すようにして作られていく。ルーセルは当時としては珍しいキャンピングカーによる旅行で注目され、新聞記事にもなったのだけれど、実際にはアフリカへ行ったことがなく、車の中でずっと本を読んでいたらしく、さらに「私は、これまで一度も、これらの旅行を、私の本の素材にしたことがない。このことは、私にあって、想像力がすべてであるという事実を示している」というほど引きこもり気質の、言葉の世界に強い執着を持つ作家だった。
そしてルーセルの詩法を文章単位で行うのが、言語学で「自己埋め込み(セルフ・エンベディング)」と呼ばれるものだ。順番に繋いでいくならまだ理解できても、一つの文の真ん中に割り入れるように新しい節を埋め込んでいくマトリョーシカ的文章は、非常に理解しづらい。
この『新アフリカの印象』のような「自己埋め込み」言語を用いて子供を育てて行くことで、我々の一般的な言語の外に出ようとする試みが、作中でクリス・ソールの行う実験の眼目となる。そしてもう一つのプロットを構成するのが、南米のゼマホアと呼ばれる部族での社会人類学者ピエール・ダリアンの動向となる。ピエールはそのゼマホアでフィールドワークをしながら、文化と言語の関係を探っていく。ゼマホアの言語での時制にかんする特徴や、数や抽象概念を周囲の動植物などで表現する仕方から、ゼマホアはより直接に現実を知覚していると彼は主張する。でもゼマホアの心にとって、時間は直接的な体験としてある。そして時間は命題の持つ無限変化する抵抗に応じてシフトする。時間はジャングルの中の、まわりにあるモノという形で、直接的に知覚できる。
西洋の言語に対して、現実を直接知覚する「インディアン」の言語、という対立がここで示される。また、ゼマホア言語は周囲の生態系と密接に関連しており、ダムの底になって沈みそうになっている状況は、言語そのものの消滅を意味し、ここに南米諸国と北米の経済的対立からくるテロリズムが関係する。言語学を軸にしつつ、西洋と未開という優劣関係を逆転させる構図があるわけだ。これはこれで「未開」概念の安易な逆転でもあるけれども。
そして、ここで異星人「スプ・トラ」が現われることで事態は急展開する。異星人は宇宙を旅しながら、さまざまな技術を収集しており、特に言語を重要視している。それは、一万三千年まえに遭遇した別の異次元的な存在と再会するために、「この現実」を越えることを望んでおり、そのために地球の言語を、特に深い自己埋め込み構造を持つゼマホア部族の言語を取り引きの材料として要求することになる。
ここにおいて「埋め込み」概念は、現実を越えた別の現実へ逃れ出るための象徴と化し、南米のダムに沈むばかりとなっている部族が異星人との重要な交渉材料として浮上してくる。
どの陣営の者たちにとっても「言語」は現実を知覚するためのもので、そのため、この言語次第で現実を越えた現実を触知することができるのではないか、という思想が横溢している点が、今作のきわめて特徴的な点だろう。その意味で、言葉による創作に非常な熱意を注いだルーセルが本作の象徴的な存在として出て来るのは至極当然でもある。
言語学的理論を背景にしたハードSFといえ、そうした科学的な発想と同時に、西洋と未開という現実の構図と、そこに突っ込まれる異星人というぶっ飛んだアイデアの差し込み方は、今ある現実に「埋め込」まれたことを超え出たいという衝動を強く感じさせる。
しかし、異星人との交渉がリアルポリティクスの都合のなかで台無しにされてしまったり、ゼマホアでのドラッグ漬けにされた妊婦から生れる赤子とピエールの同行者カヤピの顛末など、今作の終盤はきわめて皮肉なリアリズムによって展開しており、別の現実、現実を直接体験すること、といったような熱っぽいスローガンがきわめてアイロニカルに見られている点も注目されるべきだろう。
これ以降も、クジラに人間の意識を刷り込む(インプリンティング)『ヨナ・キット』や、墜落した探査機から漏れた火星の土がアンデスの住民に意識の変容をもたらし、インカ帝王復活を唱える『マーシャン・インカ』といった他の長篇でも、またマイクル・ビショップとの共作『デクストロⅡ 接触』でも、同じく現実の認識、意識の変容といった人間の認識を超えるアイデアと、他の意識や生物とのファーストコンタクトの要素を持った作品を書いている。
本作では特に、その人間の認識を超える方策を言語に求めたところが特徴的で、さらにはレーモン・ルーセルという奇特奇態な作家をアイデアの核に持って来るという発想のとんでもなさがきわだっている。
山形浩生が言うように、小説としては確かにどれも似通ったプロットになっているけれども、このアイデア作家としての炸裂力と、いろいろなものを台無しにするような展開の皮肉ぶりはやはりとても面白いものだ。これ以降翻訳がされないようだけれども、驚異のアイデア作家の作品がもっと読めないものだろうか。
イアン・ワトスン
一九四三年、イングランド最北のノーサンバーランド生まれ。タンザニアや東京で英文学の講師などを経験した後、SF作家となる。日本滞在経験がSFを書くきっかけとなったというように、多くの作品で日本が出て来る。本文での言及以外に短篇集『スロー・バード』、ファンタジー三部作『川の書』『星の書』『存在の書』がある。
この書評、ここぞとルーセルについて詳しく書いているのが笑ってしまう。2005年頃に集中的にレーモン・ルーセルを読んでいたので。なお「ゼマホア」インディアンというのは伊藤計劃の「The Indifference Engine」でのゼマ族ホア族の元ネタだろう。これ以前に書いたものとして過去ブログでの2005年のワトスン記事もリンク。『エンベディング』に始まって、『オルガスマシン』と『ヨナ・キット』について書いている。
inthewall.hatenadiary.com
ここでリンクされてるbk1に投稿した書評というのがリンク切れしていて、bk1がhontoに変わりそして紙の本の取り扱いがなくなってしまったので直リンクできるURLがない。一応以下のレビュー一覧から一応見ることは出来る。というのも手間なので、こちらも転載してみた。
kingさんのレビュー一覧 - honto
下記の理由からレーモン・ルーセルファンとしてはとりあえず読んでおかないと、と思って手を出してみた。意外に、いろいろな意味でSFらしいSFという印象だった。最近は色んな所で、SFがミステリとかファンタジーとかのレーベルを付されて人気を博しているけれど、どう頑張ってもSFとしてしか売ることのできない、正攻法でかつ破天荒なSF小説だと思う。
この小説の基本アイデアは本書の解説や幾つかの書評なんかでも説明されているけど、簡単に言ってしまえば、言語と認識が密接に関係しているという(通俗?)言語学の知見から出発して、いかれた言葉を喋れるなら、いかれた現実を知覚できるのではないか、という仮定を立てる。作中では、人工的に作られた特殊な言語を幼児期から覚えさせ、それによって認識の限界を超えようという実験が行われることになる。そこで特殊な言語の下敷きになっているのが、なんとルーセルの“あの”いかれた詩、「新アフリカの印象」だ。
私のブログで邦訳の引用と説明を書いたので参照して欲しい。改めて簡単に説明すると、ひとつの文章が終わるあいだに数百行の付記事項(最大五重の括弧と、註)が夥しく内部にはめ込まれていくという独特の形式で綴られ、延々と長いその迂回を辿るあいだに、その前に何が書かれていたのかさっぱり思い出せず、どこをどう読めば意味が通るように読めるのかを判別することにすら困難を覚えるような代物である。
「変な詩です。実際問題として、現実的に読めない。ホントに文字通り読めないんです。できが悪いってことじゃない——とんでもなく独創的です。でも、それは言語学で“自己埋め込み(セルフ・エンベディング)”と呼ばれるものの、最もキチガイじみた実例なんです」59P
こんなものを子供に教え込む、といういかれてるとしか思えないアイデアだけれど、これは実は「人間の限界とは何か」という多くのSFが追求してきたテーマだろう。正攻法というのはそういう意味で、「認識の変革」だとか「センスオブワンダー」とか古典的なSFの形容詞に似つかわしい作品ではある。
ただ、正攻法とはいっても、この小説、その突き抜け方がかなりおかしいことになっている。ルーセルの詩を持ってくる部分もそうだけれど(主人公のクリス・ソールChris Soleという名はルーセルの長篇「ロクス・ソルスlocus solus」のもじりか)、ブラジルの少数民族のドラッグを使った儀式の結末や、とつぜんやってくる宇宙人たちが要求してくる品物とがそれぞれトチ狂っていて、なんだかたがの外れた展開へと突入していくクライマックスは笑いがこみ上げてくるほどしょうもない(つまらないという意味ではない)。ただ、訳者が解説に書いているように、誰が一番良い思いをしたのか、という点を考えると、皮肉の効いたラストではある。
旧作を読んでもそうなのだけれど、広げに広げた風呂敷を、クライマックス近くになってどうたたむのかという読者の期待を、確信的に大きく外してくる。その外し方がまたとんでもなくて、呆れかえるか大笑いするか、どちらかだろう。私は笑った。この頭のおかしさは積極的に肯定したい。
読んでいて思い出したのは、たとえばルーディ・ラッカーやバリントン・J・ベイリー。ラッカーはヒッピー文化の匂いがワトスンにも共通しているし、ベイリーは架空の物理論をでっち上げたり、宇宙最強の武器を猿に持たせて云々なんていうトンデモ展開を書いたりするところに似たものを感じたのだが、どうだろうか。そういえばベイリーの未訳はまだ結構あるようだけれど、いま出せるとすればこの叢書しかないんじゃないか。第二期はないものか。
*1:滞在中?のスペインのサイトで出ている訃報がソースの模様
