言葉による不死 クリストファー・プリースト『不死の島へ』

「夢の文学館」叢書で読んだ『魔法』の後書きで知って以来、20年以上の時を経て翻訳されたプリーストの重要作品がようやく読めて感慨深い。*1

本書は著者がSFのみならず現代文学界にも知られるようになったSFアイデアとメタフィクションや語りの技法を組み合わせた作風の嚆矢となる長篇だ。長短諸作が属する「夢幻諸島」ものの最初の長篇で、「わたし」がまさにそれを創造する瞬間が描かれている。

夢と現実、虚構と現実の二つの世界の絡み合いや信頼できない語り手といった技法が大きく扱われ出したのが今作かららしく、『夢幻諸島から』『隣接界』といった夢幻諸島ものの原点で、『魔法』や『奇術師』『双生児』などといったSFと現代文学の融合的作風の始まりでもある重要作だ。一読して全容を把握できた気はしないけれども、「夢幻諸島」はフィクションの象徴のようでもあり、虚構、夢、不死性と死などが絡まり合い、「私」とは何か、「現実」とは何かが揺らぎ、そして通底するのは言語で現実・真実が指し示せるのかということへの疑念だろう。

本書では不死にまつわる記憶とアイデンティティの問題が物語や虚構性と密接に関わるところにSFアイデアの文学的応用がある。書くことによって自己自身を、人間をを定義し不死たらしめること。それは果たして可能なのかという問い。

とりあえずは内容について、以下途中までの話に触れるので注意。

架空の物語による自伝

1976年春28歳だったピーター・シンクレアは苦境に陥る。父が急死し、不況で会社を解雇され、家を追い出され、恋人と破局するという幾つものトラブルが立て続けに起こったからだ。そこで連絡を取った父の友人の計らいで田舎のコテージに住まわせてもらえることになり、彼はそこで自伝を書きはじめる。人生の危機にさしかかった自分を見つめ直すため、自己の人生を書くプロジェクトだ。しかしそれはすぐ暗礁に乗り上げ途絶してしまう。事実と記憶の違いなど様々な問題が現われ、ピーターは完全な真実を描くためには完全な偽りを書くことが必要だと思い至り、改めて書かれるのが「夢幻諸島」の物語だった。

ついにわたしの物語はどのように語られねばならないか、はっきりとわかった。より深い真実は偽りによってのみ――言い換えるなら、メタファーを通じてのみ――語られるとすれば、完全な真実を達成するためには、完全な偽りを創造しなければならなかった。わたしの原稿はわたし自身にとってのメタファーにならなければならない。
 わたしは想像上の場所と想像上の人生を創り出した。39P

比喩や虚構の力を通じて真実を描く。ここに本作の物語論・虚構論の一端が現われる。コテージに籠もって自伝や架空の世界に置き換えたフィクショナルな自伝を書く現実の舞台の話は、途中からその夢幻諸島での別のピーターを語り手とした作中作が始まる。

夢幻諸島と不死技術

夢幻諸島世界のピーターはくじ引きで不死の権利を手に入れる。宝くじコラゴ社は不死技術を発明し運用しているけれども、富裕層や権力者の独占などで不公平感与えるのを防ぐために処置対象者は完全な抽選で選ばれることになっており、ピーターは偶然買ったくじで当たりを引いた。夢幻諸島は北と南に大きな大陸があり、そこにある国同士が戦争をしている。その間にある海に独自の行政や文化を持つ多数の島が散在しており、ピーターはジェスラという都市から不死処置を受けるために夢幻諸島のコラゴ島へ向かうなかで、様々な島を経巡り、ある女性と出会い関係を深めていく。

このジェスラは現実におけるロンドンに当たる都市で、現実で破局したグラシアという女性は夢幻諸島ではセリというピーターの宝くじの代理人に当たる。虚構のなかでセリを創造し、彼女を通してグラシアを理解しようとしている、とピーターは言う。虚構の物語を通してグラシアを理解しようとしているわけだ。

コラゴに着くまで不死処置を受けるかどうか迷っていたピーターはまだ若く、死の危険を感じることもなく、自分が不死に相応しいとも思えず、ほぼ断るつもりでいた。しかし、直前の健康診断で機械が打ち出した余命は五年、医者によれば脳動脈瘤がいつ破裂してもおかしくない状況だと知らされることで話が変わってくる。死の不安とは無縁でいられたピーターに急な死の危険が迫ってきたことで、彼は不死処置を受けざるを得なくなる。そこで必要になるのが膨大な質問票だった。不死処置では記憶が失われるため元の人格を再現するには大量の情報が必要になるという隠されていた重要な事実が明らかになる。ハードウェアは同じでもソフトウェアがリセットされるとすれば、それは同じ人間と言えるのか。個人的にも明らかに別人だろうとは思うけれども、死の危険が間近に迫るなかではそんなことを考えている暇はない。ピーターはそこで自分が書いていた自伝を提出する。ロンドンが出てくる自伝だ。

夢幻諸島のピーターは現実のピーターとは逆に、ロンドンという架空の都市出身のピーターとしての自伝を書いていた。夢見たものが夢見られるというボルヘス的とも言える虚構の相互貫入。そして不死のピーターはその虚構から再構成された情報によって自己を形作らざるを得ない。夢幻諸島のピーターの自伝はロンドンやヒトラーなど、夢幻諸島にはない言葉で書かれており、担当者はそれらをいちいちカットしたり夢幻諸島で当てはまるものに置き換えてピーターに説明しなければならなかった。現実を虚構化しそれを更に現実化する手続きによって不死者ピーターが生まれている。

その原稿は独立したアイデンティティであり、瓜二つの自己だった。それでもそれはわたしの外にあり、固定されたものだった。わたしは年を取るが、それは取らない。破壊することさえ不可能だった。タイプライターで文字を打たれた紙を超えた生命を持っていた。仮にわたしが燃やしたとしても、あるいはだれかに奪われたとしても、それはどこかより高い次元に存在していた。純粋な真実は年を取らない性質を持っており、それはわたしよりも長生きするだろう。41P

不死技術とは紙に書かれた人間が永続的な命を持つこと、つまり創作の比喩にほかならない。人間が紙のなかに描き出した人間が現実の人間よりも長い命を持つこと。もちろん自伝や随想でもいいはずだけれども、今作ではそこに「完全な真実を達成するためには、完全な偽りを創造しなければならなかった」という創作性を加えており、それが今作の鍵となって複層的な構造を生んでいる。

虚構と現実の浸食

二つの世界で相互に描かれた虚構的な自伝を経て作中の虚構と現実、夢幻諸島とロンドンとの境界が揺らいでいく。現実には存在しないはずの虚構の人物が現実のロンドンに現われ、そして今まで現実だと思っていたものが虚構だったと暴かれる。そもそもフィクションによって仮構された「わたし」によって語られた現実とは何か。

物語・フィクションによって仮構された「わたし」が語るものが現実と言えるのか、という問いはソシュール言語学以降の、言語は実体を指し示しているのではなく恣意的な記号によって構成されるという言語の恣意性と重なるものだろう。本作冒頭でまさに言語の不確実性を語っている箇所を思い出してもらいたい。それ故、現実のロンドンと夢幻諸島のジェスラが相互にどちらが実体だと確定づけることはできず、しばしばそれらは入り交じり裏返り、メビウスの輪のように表が裏に繋がっていくような状態が現われる。指示するものと指示されるものの関係は不確定な揺らぎを抱え込む。

P・K・ディック的な現実崩壊感覚は初期プリーストも書いていたけれども、牧眞司氏が指摘するように『不死の島へ』の直前の作『ドリーム・マシン』はVR技術を題材に夢と現実が入れ替わるような話だった。本作はその構造を言語と物語・フィクションのレベルで再演したと考えられる。
【今週はこれを読め! SF編】相互に侵蝕するふたつの物語〜クリストファー・プリースト『不死の島へ』 - 牧眞司|WEB本の雑誌
現実が夢と入れ替わるような現実崩壊感覚を突き詰めていけば、小説としての基底現実となる言葉自体、そしてそれを語る主体を疑わねばならない。そうして、書かれた言葉や語ることそれ自体の危機を見いだすことで、SFの主題をメタフィクション・小説とは何かを問う小説として結実させたのが今作ではないか。

現実と想像の隙間

ここでは明かさないけれども、終盤の展開でなぜ今作が不死性をめぐって書かれていたのかがすとんと納得できるような箇所が出てくる。それも事実(本作においてそれは決定不能かも知れない)かどうかは判然としないけれども、言ってみれば死者をテクストにおいて蘇らせようとする不可能な行為をめぐる小説だったのだろう。しかしそれは決定的に不可能だというところから始められている悲しさがある。

さらにまた言葉が現実と一対一対応ではないからこそ、恣意性によって作られているからこそ、別様の形で幻想のなかで死者を蘇らせることもできるということかも知れない。死者をテクスト上に描き出すことで生き返らせようとするけれども、それは記憶の連続性を欠いた別人でしかなく、語り手の歪曲を得た上で作られたものにすぎず、テクストの範囲でしか存在できないものでしかない、そういう絶望がある。ピーターは自伝やフィクションを書きそれを恋人に読んで理解してもらおうとしたり、自己をめぐるメタフィクションにはエゴイズムの匂いがするけれど、同時にそれを責め苛むものとしての側面も感じられる。

ノミネートされた結果として、デロアンヌはのちに『拒否』という題名の熱のこもった本を書き上げた。そのなかで、デロアンヌは、不死を受け入れることは死を否定することであり、生と死は不可分に結びついているため、生の否定でもある、と主張した。自分の小説はすべて、避けがたい死を自覚していることで書かれており、いずれもその自覚抜きでは書けなかっただろうし、 書くつもりもなかったであろう、と作家は記している。彼は文学を通じて、おのれの生を表現しているが、これは本質において、ほかの人たちが自分たちの生を表現するやり方と変わりはしない。永遠の生を切望することは、生を犠牲にして生きることを獲得することになるであろう。98P

書くことによって対象を永続化することは、コラゴでの不死処置のような不連続的な偽物にしかならない。それは自分だろうと他人だろうとそうだ。しかし、人はいつでも自分なりの想像、物語、フィクションを紡いでしまう。その分裂が無数の島として生み出される、そういう印象も感じた。

本作で最初にぐっと来たのは父の兄ウィリアムおじさんのエピソードだ。悪ふざけの天才で幼い父にとって英雄だった彼は、語り手のところに現われた時も嵐のように興奮する体験をもたらし消えていった。その後両親はおじは海外にいるといい、幼い語り手はその英雄譚への想像を逞しくしていたけれど、事実は違った。ウィリアムおじさんは語り手と会った数日後に武装強盗を働いて収監され、獄死していた。幼い彼の想像のなかで海外で英雄的な冒険をするおじと、刑務所にいるおじ、想像に基づく真実と事実に基づく真実、この二つについて語り手が考える場面は本書の鍵とも言える。


原題に使われているaffirmationは、断言、肯定、確約といった意味があるようだ。信頼できない語り手による断言、不死の確約、自己の肯定と当てはめていくとどれも本書では皮肉な響きを持つ。人生の肯定を翻訳ツールで訳すとAffirmation of lifeと出てくる、そういう語のようだ。

書かれた自伝によって不死の人間を作るという設定は、VRの仮想世界に人格をアップロードするみたいなSFと似ているんだけど、話は逆で、前に書いたようにプリーストはこの前にVRもののSFを書いてからそのテーマを小説の仕掛けとして落とし込んだ今作を書いているのは面白い。

息詰まった人生、上手くいかない恋愛、架空の島々の観光を描きつつ(島の一つで有機物が石化する滝という奇妙で象徴的な挿話がある)、本書は仕掛けのある小説なのでそういうものが好きな人には特におすすめ。


「夢幻諸島」ものに属する『隣接界』は、不死のテーマが扱われていて今作の直接の延長と言える。「夢幻諸島」ものでは時間の進みの奇妙さや空間の歪みなどが諸島の特有の現象として出てくるけれども、本作ではまだそこまで設定が加えられていない、原初の姿がかいま見えるのも面白い。

今作は不死を通して小説というものへの問いがあるわけだけれど、小説というシステムをさらに掘り下げたところに『魔法』がある。そのことについては文庫化された時に書いた以前の記事がある。もう20年前の記事だけど、だいぶ頑張って書いてるなって思える。
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ついでに「われ、腸卜師」を読んだ。SFマガジン2004年8月号のプリースト追悼号掲載の中篇。最初はなかなか状況が分からなかったけれど、癌組織だかの肉片を口にすることで時間を止めたり巻き戻したりできる腸卜師が未来から来た別の腸卜師と遭遇するなかなかの怪作。

ゲーム会社からのクトゥルーに関連づけて欲しいという依頼元からのオーダーで、地下から襲い来る何者かがいるというものになっているようで、組織片を食べることでそれを留めているというのもだいぶ変なんだけど、戦間期の英国に第二次大戦時のドイツの軍用機が墜落してくるという話も入ってくる。軍用機は沼に墜落し掛かっているところで時間が止まっており、主人公の腸卜によって時間が止められ墜落を免れているなか、コックピットには主人公に助けを求める何者かがいて、腸卜で時間を巻き戻すことで彼を救出するという展開になっていく。バラード「時間の庭」を思い出しもする。肉片を調理してなんとか食べられるようにしてくれる館に務める夫人と、腸卜に絡んで体の関係を持っていて、この肉片と肉欲の関係も何か不気味で陰気なところがあり、この関係を未来の腸卜師に自分の役割、存在理由を奪われるといういわば寝取られる趣向でもある。

解説によると夢幻諸島もののいくつかの断章と関連があるらしいけれども詳細は把握していない。悪食趣味と女性関係の展開、それと第二次大戦にかかわる時間ネタと非常にプリースト的なモチーフがぎっちり詰め込まれた作品なのは確かだ。

*1:この影山徹による装画はベックリン「死の島」を思い出させる。タイトルが「死の島」を含んでいるし、踏まえているのではないか