笙野頼子 - おはよう、水晶−おやすみ、水晶

おはよう、水晶―おやすみ、水晶

おはよう、水晶―おやすみ、水晶

笙野頼子が二年間筑摩書房の「ちくま」に連載していた作品。2006年6月から2008年6月までのを加筆して収録したのに加え、最終章を書き下ろして単行本化したもの。

作中の重要な部分の欠落について、以下で訂正記事が出ています。
筑摩書房からのお知らせ / INFORMATION&TOPICS


最初はエッセイ集かななどと思ったんだけれど、そのうち妙な幻視が混じってきて、これが小説として書かれていることに気づかされた。基本的な事実関係はフィクションではないようだ*1けれど、エッセイと小説の境界を「文章」の力業で跨ぎ越えていく書き方は笙野頼子得意の筆法だと言える。

これが連載されていた二年間といえば、「おんたこ」三部作の完結と、「私」をモチーフとした「金毘羅」から始まり「君」を書いた「萌魂分魂譜」そして「彼」を書いた「海底八幡宮」の人称三部作(と便宜的に呼んでおく)へと展開していく時期にあたる。

この時期は「仏教的自我」論を展開しだしたころから比べても、さらに射程を広くし、フォイエルバッハを読み込み、マルクスのドイツイデオロギー批判を作中に織り込むようになっていて、フォイエルバッハマルクスも読んでいない私にはそこら辺の理論的背景が全然分からなくなってきた。もちろん、読むにさいしてはそこまで気にしなくても良いと思う。ただ、読んでこれは凄いと思っても、いざそれを文章にしたり論じたり整理したり、という段になると途端に途方に暮れるばかりになってきた。

おんたこ以前の諸作についてはそれなりに目処が付けられていた*2けれど、近作については、かなり難しいと感じる。この本はその間の笙野の思考のあとをある程度トレースできるようになっていて、ここ数年の近作のベースにあるものをうかがい知ることが出来るという利点がある。作中のヒトトンボという幻視の生物は「萌魂分魂譜」に引き継がれたものだろうし、フォイエルバッハの読みなどについても述べられている。


しかし、なにより重要なのは、笙野の猫の死が起こってからの流れにあると思う。三割程度連載が進行したところで起こった猫の死はその後の流れをがらりと変え、喪失の痛みを抱えながらの重々しい雰囲気が立ちこめるようになる。この本は、戦友でもあり、伴侶とまで呼ばれるほど著者にとって大切な猫の死について書かれている。

本来、そしていまでも猫好きというわけでもない笙野がなぜ野良猫をわざわざ引き取り、また猫のために千葉に家まで買ったのかは「愛別外猫雑記」や「S倉迷妄通信」に詳しい。家はほぼ猫のために買ったというくらい、笙野にとって猫たちは重要な存在であり、それは自らを虐げる世間に対する戦友意識のようなものも相俟って、きわめて意味深い存在として笙野の作品に現れてくる。「伴侶」という言葉の持つ意味と、そして千葉に越してから二匹目の死に直面したことのショックは一読者にとってすら重い。

野生だったはずの猫は七年の間に少しずつ慣れていった。但しそれでも彼女の芯には野生があると私は思い込んでいた。私の複数の、たまたま自分の縄張りに入ってきた人間と彼女は最初認識していたはずであった。この「サポーター集団」に対して見せる美しい「面従腹背」に、彼女の強かな愛に私は驚嘆していたのだ。「あら、今日はあなたなの久し振りね」と言われても平気だった。おっとりと見えて結局一番動きが早く少しの事でふいに野生に戻る動物。ところが、それがいつのまにか飼い主の判る猫に「なってしまっていた」のだ。保護猫というよりそれでは伴侶だ。最後に心の内を見せてくれたのも結局は野生の強い証拠のような気はしたけれど、しかしそれ以上の贈り物はない。ありがとうという言葉はそのためにあった。が、気持ちが通じる相手と分かった後、私は残されたのだ。
147P

その、猫の死を報告した10章のラスト、「自分が死のうとする事は予想外であった。でも心は抵抗しても結局、体が死のうとした」という結語に、リアルタイムで連載を読んでいた人はどれだけ心配しただろうか。この一文が連載時にあったかどうかは分からないけれど。

小説はその後、猫の死をうけてさまざまな思考がめぐらされていく。そこで、小説序盤から登場していた架空の生物「ヒトトンボ」が活きてくる。このヒトトンボをめぐる記述は幻覚的というよりは明晰なもので、架空であることを自覚しながらも行われている点で明晰夢のような奇妙な狂いを含みつつ進行していく。しかしそれは狂気を増幅していくと言うよりは、死への傾斜を押しとどめている役割を果たしている。

このヒトトンボ、「ろむる」は書き手の記憶を遡って自分を埋め込んでいく奇怪な存在であるらしく、そう聞くとなにやら寄生虫のようだけれど、自己のなかにある自分とは違うものの存在のかかわりを通じて、ろむるは猫の死を経験した書き手の死の苦悩を救済するように死んでいく。

何によって何を根拠として、彼がここに生きる私に哀れをかけて、私と共にいて私を支えるようになってくれたのか、そんなことはまったく分からないままだ。ただ理不尽な世界に適応出来ない私の、生きる力の象徴のようなものにヒトトンボはいつか変わっている。というか彼といる事で私は理不尽に生かされているとは感じなくなっている。
140P

ろむる、それは辛い記憶を私の代わりに預かっておいてくれて、退治出来る時になったら
すっと返してくれる「妖精」である。
225P

ろむるが取り戻せる存在である事をその時の私は知らなかったのだ。というか、記憶そのものであれば記憶の中でだけ生きる生物であれば、取り戻せる場合があるのだった。記憶は何度も繰り返しその生を生きる事が出来るのだ。権現の世界から彼は来ている。生きる力の根源にあるのが成長よりもむしろ蘇りである世界。というか、本当の別れを相対化してくれる、心の中の生死の彼は象徴だ。
 そんな彼は私を導き時期に合わせて様々な事を思い出させる。私にとってそれはフォイエルバッハ・テーゼ批判の後。そんな時なら「死んだものも蘇る」かもしれないのだ。そして、その時を待ってまさにヒトトンボは「死んでみせた」のだ。ちゃんと蘇ってくるために死んでみせたのだ。
245P

さて、作中ではこのような重要な記述がある。

「自己の中の他者」、それが私の考える素朴な「神様」の定義だった。
101P

この観点からするとヒトトンボもまさに神様だ。そして、この「自己の中の他者」というのはずうっと笙野が書き続けているテーマの端的な要約でもある。そして、この作品のタイトルでもあり、核となるモチーフになっている、その内側に傷を持つ水晶が、まさにこの象徴として現れていることがわかる。内側に傷があったり、歪んでいたり、途中で折れてまた成長をはじめたセルフヒールド水晶など、そういうものに自分をなぞらえたりして、透明なクリスタルとしての水晶ではなく、不純物を含むクオーツとしての水晶を取り上げるのは、内部の他者ということと不可分だ。

フォイエルバッハへの傾倒はここにかかわる。フォイエルバッハを批判するマルクスを批判する笙野のスタンスはたとえば以下の記述から見て取れる。

人間の内面を認めない態度、ドイデに関してそこには何の猶予も私は認めない。マルクスフォイエルバッハの、自己の中に他者を見いだす態度を一応認めている。でもそれと同時に「実践」や「活動」が上だと言っている。そこをテーマに出している。が、それは問題が違うのだ。違うのだけれど同じレベルに下げて喋っている。どっちも馬鹿ではない。でもマルクス側は欲望に駆られているのである。それは近代の欲望だと思う。平均化しよう、自分自身も通貨であろうとするような欲望である。マルクスは忘れている。心と物とを分けられない領域がある。個人と歴史とが混在するものが。それこそが肉体だ。ヒトの心身だ。そしてこれが物と心の境界であり同時に最重要ファクターなのだ。
220P

このマルクス読解が妥当かどうかは私には分からないけれど、この問題意識がたとえばネオリベ批判へとつながり、おんたこ三部作に結実したのだということは言える。まあ、そもそも、富者の所有と自我の発生に関係を見いだす議論に触発された頃から、経済に問題を見いだすこの展開は自然なことだったのだろう。

また、このことと絡んで木村カナさんが冒頭の叙述についてこう指摘している。

「要するに私は「風景」を所有しているのだ」。ここで「風景」にカギカッコが付いているのはなぜか? 「風景」が「発見」されるのではなくて、「私」が「風景」を「所有」しているから、だ。この一言に表現されているのは、柄谷行人に対する批判的な意識である。

Kuchinashi/magic memo

この一文は見事に見過ごしていたので、さすがに繊細な指摘だ。そして、この柄谷批判というのは、柄谷が依拠するマルクスへの批判も当然射程に入っている。つまり、この柄谷−マルクスに対して、笙野−フォイエルバッハという対立線が引かれている。笙野はそこにドゥルーズを接いでいくというのがこの後の構想なのだろう。

さて、笙野が所有した「風景」のうちで、本書から強く印象に残った場面を一つ。

明日はただたまたまあるというだけ。「後何年か」はいてくれるだろう、というだけの事。でもそれは妥当な不確定に過ぎない。自分だって、「上」より先に死ぬかも知れない。そこで、自動掃除機を注文して、ただ猫といる。明日死ぬか判らないからずっと側にいるけど、死ぬからこそ楽な事や楽しい事をその側でする。猫は窓にいて私は夜明けの階段に腰掛け、鮭茶漬けを食べる。どのポイントでそれを食べるかが重要になって来る。
283P

なんと感動的な場面だろう! と思った。


いま笙野はドゥルーズの「千のプラトー」を小説化したい、ということを言っていて、たぶんそれはこの問題意識のさらなる展開なのだろうと思う。しかし、フォイエルバッハマルクスドゥルーズとか、私は全然読んでないので(そしてたぶん読めないので)ここら辺に強い思想系の人に是非とも解説なり批判なりして欲しいなぁなんて。id:dozeoffさんとか、id:Thornさんとか。


というかですね、この本の特に後半でそうなのだけれどファンサイト会長ことid:cachamaiさんとか、私やdozeoffさんが仲俣暁生とやりあった論争(実名でメールを出せ論争。仲俣暁生で検索からどうぞ。というか、私の文章今読むと攻撃的すぎる)とか、群像新人賞の評論で惜しくもThornさんが落選したこととか、そしていまなお続く「絵に描いたようなラカヲタに粘着」事件とか、知ってる事件、人が言及されることがしばしばあってネタが何とも身近すぎる。もちろん作者と直接連絡があるとかではないのだけれど、がっつり見てるね笙野さん。というか「だいにっほん、ろりりべしんでけ録」の帯のネット野武士ってあれやっぱり私?

作中で言及されている事件等については、そのある程度の部分は以下のファンサイト会長さまが作ってくれた掲示板を見るとわかるかも。
Don Quixote BBS


そして、作中でも「人気の精読ブロガー」として言及されているPanzaさんですが、この正月に旦那さんが急逝されています。そのすぐ直前には笑っていたというくらい突然だったそうで、非常に心痛む出来事です。そのことで、いまPanzaさんはブログを休止しています。Panzaさんが笙野精読を続けているという安心感に甘えて難しい近作の読みを書くことを中断していたところもあります。そのPanzaさんが休止するとなると、これはちょっと頑張らないといけないな、となんとか記事をあげてみました。やっぱりなんだか図式的で大雑把ですが。笙野をメインにした記事はこのブログに越してきてこれが初めてでした。

で、私はPanzaさんの事情を知ってから、この本を読んだ。猫を亡くした笙野頼子と、旦那さんを亡くしたPanzaさん両者の悲しみを思わずにはいられない。とりあえず哀悼するしかない。笙野資料室などを公開されているモモチさんのブログで、喪の作業ということに触れられている。
「喪の途上にて」の喪の作業 | ショニ宣!

笙野頼子さんとPanzaさんが十二分に悲しめるよう、「喪の作業」に障害が少なきよう、祈る。

私も同意です。この本は「喪の作業」の過程そのものだと思います。

熱心に近作を追いかけている馬場秀和さんの記事。
『おはよう、水晶-おやすみ、水晶』(笙野頼子):馬場秀和ブログ:So-netブログ

*1:だいたいの人物名はぼかされたり渾名だったり、イニシャルだったりする。ただ、佐藤泉という評論家だけはフルネームで登場するのは何故なのだろう

*2:つもり