前巻を「読むことの「フィクション」」だと書いたけど、今作は「ない」ことを示すメッセージをはじめ、不在、否定、アナロジー、見立てなど言語の機能そのものに突き当たったようなところがあるなあと思っていたら、驚くようなところへ連れて行かれてしまう体験になった。
その第三章は圧巻で、帯に付された「お玉です!」は一体何なんだろうと思い、しかしどうもこれがなんかすごい場面らしいと言う人もいて、果たしてと読んでいてその場面にたどり着いた時は実に感動的で、しかもそれが本当にとつぜんでかつ本作の主題をも貫くもので圧倒された。間違っている、だけど本当以上に真実を担っている。「お玉」にはそういうものがこもっていて、しかもこの間違い方には「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」という本作のテーマと同じものがある。そしてそれをそのタイトルを準備している頃の記憶から再発見するわけだ。
旅をすることが必要だったのだ。53P
偶然、間違い、迂回の果てにその前章で書いていた『オズの魔法使い』のように旅の果てで目的のものを既に持っていたことを見出す話をそのまま演じてしまうこと。それが作者友田さんの人生を決定づけたドキュメンタリー『電子立国 日本の自叙伝』との縁が絡んでいる。ここでは氏の人生において重要な転機となったそのドキュメンタリーについての話から、その登場人物でMOS型トランジスタを開発した技術者大野稔さんから連絡を受けて親しく付き合うことになった流れが描かれ、氏の助言がガルシア=マルケスについての自費出版本『『百年の孤独』を代わりに読む』の始まりにも影響していたことが記される。因果はめぐる。
本書を友田さんからお送り頂いた時の便箋に、「私の「挾み撃ち」になったような気もしています」と書かれていて、これは本当にそうだと思った。紆余曲折の果てに自身の人生を決定づけた何かへと語りが引き込まれていくこと。「お玉です!」は『挾み撃ち』における外套から落ちてきたそら豆ではないか。
「お玉です!」は、大いなる間違いとともにこれはあれだという直観、言い換えれば繋がるはずがないものが繋がる回路のショートにも似ている。そして四章では平家物語で流罪にされた者たちがその島で熊野信仰を行なうために何かを見立てようとしていたことについての話になる。見立てというならそこらにあるものを勝手に見立ててしまえばいいかも知れないけれども、そこに時間を掛けて見立てられるべきものを探すことが重要だという。時間を掛けて見つけ出すこと、旅の果てに出発点にこそ目的のものがあったという話形のこと、本書はその実演になっている。
見出された時というか、元からそれを知っていたとしても大がかりな迂回の果てに見出されることで、それが根源、本質、核心の姿をまとって新たにまったく別のものとして見出され、現われる。
数学研究から電気会社、一人出版社へというアミダクジ式と言っていい幾つもの人生の選択の仕方は、本書の歩き方そのものとも重なっていき、そのようにして本書がたどった道筋は作者の人生の似姿として浮かび上がってくる。本書は、書くことで自分自身を見出していくその得がたい過程と言えるのではないか。大野さんが磁性体の研究をしていたことからのアナロジーで結晶面特許という大きな発見に繋がったという話も、別の分野での体験が重要だという点で著者を勇気づけたもののように思える。
大野さんについての話では、戦時中のことをあっけらかんと明るく話している時、奥さんから近くに爆弾が落ちてきたんですよねと言われた途端、その話はするなと大野さんが大きな声を出して静かになってしまったくだりが印象的だ。語りを止めてしまうトラウマの体験。本書の裏面のような感じがある。
その他色々あるけれど、ユーモラスでナンセンスなエッセイが、ある瞬間に著者の人生のかたちそのものに変貌するのを見たようで、これはなかなか驚くべきものを読んだ。