この都市がいかなる状態か誰も知らない。
この都市にいくつの軍が存在するのか誰も知らない。
この都市でどの軍が優勢なのか誰も知らない。
この都市を統一することは誰にもできない。
この都市を完全に破壊することも誰にもできないだろう。
この都市に地図はない。
この都市には秩序もない。
この都市にはいかなる機能もない。
しかし、この都市には多くの名がある。18P
冒頭の一篇「レヴォリューション」はユートピアの提唱者トマス・モアを踏まえた南米の「モア国」でカストロ大統領がゲバラを呼んで革命を起こすも、完全に管理された社会でその革命もコンピューターによって準備されていたというユーモア掌篇ともいえる作で、この循環的な構図は全体の縮図でもある。
あるかないかも分からない軍、外の世界がないかのような空間。大統領候補とも言われた政治家の父を殺された少年がその殺した側のゲリラに身を投じる「国家はいらない」はじめ、収録作の多くはこうしたSF・幻想小説的な設定、循環的な構造を備えた作品としての面白さがある。分身、平行次元を思わせる「土人形」や「戦場からの電話」などのショートショートに圧縮された面白さというのもそう。一見アイデアストーリー的だけれども、収録作の多くが主人公が最終的にゲリラに身を投じる流れになっており、連作でその展開を執拗に反復している。この円環・循環的な構造はrevolutionという単語に革命の他、回転、旋回、周期、循環、一巡という意味があることと無関係ではないだろう。地球の公転もrevolutionだ。レヴォリューションは語義そのものに永続革命を胚胎させているとも言え、今作はそれを営々と書き続けているように見える。
「つもりがなくても権力は生まれるものよ」166P
「国家とは何と恐ろしいものだろう。平和とはこんなに恐ろしいものだったのか!」72P
人が二人いれば権力は生まれるというように、「平和」「国家」「権力」が生む抑圧に対する永遠に終わらない戦いを描いている。あるいは国家、社会、権力、自由をめぐる個人に立脚した批判・抵抗は常に続けられなければならない、という寓話と読むと優等生的、現代リベラル的な読解かも知れない。そうも読めるとは思うけれども、しかし本作はそうした穏当さからはみ出した危険さがあるのも確かだ。
全フリーランドの兵士諸君! 再び銃を持って戦おう。ゲリラにとって終戦はない。全ての権力は敵であり、全ての社会の存在は敵である。ゲリラには常に新しい敵が待っているのだ。ゲリラは戦いだけに生き、戦いによって死なねばならない。誰もがそう決意したはずだ。173P
営々と内ゲバが続き同士討ちを繰り返す「フリーランド」は、そうした組織が陥った帰結を受けとめたものとも思える。解説で背景情報が参照されているけれども、当然同時代的な政治状況は勘案されているだろうし、そもそもこうした幻想的な作風は現実での状況を受けてのものではないか。革命が実現しうるということを信じられるほど夢想的ではないけれども、革命への意志を諦めるほど絶望的でもない。しかし革命は無限の遠方にあり、いつまでもたどり着けない。この幻想的革命小説は現実と幻想のズレ・狭間にあるわずかな部分を執拗に描き出そうとしているのかも知れない。
そのあたりのことは最終篇「レヴォリューションNo.9」の「h 革命幻想」にこうある。
今にして思えば、あまりにもナイーヴなロマンチシズムで恥かしい限りだが、革命への志向がロマンチシズムによって育てられたものであることは今も否定できるものではない。当時の私たちにとって革命は遠い世界のものであり、夢の国での冒険でしかなかった。私たちはその国をフリーランドと呼んでいた。274-275P
もう一箇所、今作の核心と思われる一節が「レヴォリューションNo.9」の冒頭にある。
革命というものは実現しなければ夢のようなものでしかない。すでに六〇年の安保闘争も、六七年頃の学園蜂起も全て見果てぬ夢となっており、今となっては革命を夢想したこと自体アナクロニスムとしか思えない。たぶんそうなのだろう。革命はアナクロニスムを背負っているのだ。もし、革命が成立すれば、革命以前の全ての存在がアナクロニスムとなり、それまで夢想であったものがリアリティを獲得する。革命はその時代断層を生む時間の地すべりのようなものだ。260-261P
革命と夢と現実とをめぐるこの思索は今作がこのようなSF的・幻想的構造をもって書かれていることの根底だろうか。循環的時間構造を持った短篇が多いのもこの「時間の地すべり」故だろうと。脱政治的というよりも革命には幻想性が否応なく抱え込まれているということなのかも知れない。つまり革命の幻想性を通じて幻想の革命性を証し立てようとする、というと言葉遊びめいてくるけれども。くだくだしく書くまでもなく、解説に引かれている山田和子の「現実と理想の関係性を、幻想革命というファクターで見事に通底させたSF連作集」353P、が要を得た評だろう。
「革命狂詩曲」の末尾に、本書の帯にも取られた一節がある。
世界の革命家よ! 孤立せよ! 157P
労働者は連帯し、革命家は孤立せよというのは連帯や集団あるいは権力がもたらす内ゲバの暴力に対する抵抗手段として、そして書物を読むという孤絶した営みに対する希望としてあるのではないか。そこに今作がこのような小説として書かれた意味があるのかも知れない。
最後の「スペース・オペラ」まで読むと、現実と幻想、内宇宙の関係が思ったよりも本篇と密接な関係を持っているように感じられるけれども、そこら辺はうまく言語化できていない。現実と幻想、そして共同体内部での殺し合いといえば『花と機械とゲシタルト』もそうで、『レヴォリューション』と実はほとんど同じものが根底にあるのではないか。この二作の関係も案外に込み入ってる感じがある。
いつも通り解説も充実しているけれど、一点「土人形」のゴーレムがユダヤの伝説に由来するところから、この土人形と人間が入れ替わる話を、イスラエルによるパレスチナ虐殺を踏まえてそれを逆転させる仕掛けではないかと指摘するところは面白かった。パレスチナを蹂躙しているのは国家のない民族によって作られた国家なわけで、「国家はいらない」という作品もある本書においてはそういう含意を読み込むことも可能だろう。権力、社会、国家に対する抵抗運動の原理的なメカニズムとしての永久革命。
「レヴォリューションNo.9」のラストで主人公が、自分が兵士とならなかった口惜しさを吐露するところ、作者の心情を読み込もうとするのは如何なものとはいえ、この連作が描き続けられた理由として説得されてしまうところもある。
日常性に対するこの形容が印象的だった一節。
完全に日が暮れると、道にはリュウグウノツカイが泳いでいるように、うねうねと懐中電灯の列が続いた。人々は殆ど口を開かず、こうした事態が当然予想されたものであるかのように歩き続けている。或いは彼らの意識の中にも迷いがあるのかもしれない。だが、おそらく大部分の人々は革命を別世界のできごとのように受けとめようとしているのだろう。ずっとそうしてきたし、今もそうしている。今後もそうするというわけだ。彼らは次にどのような政府が生まれてもそれを受け入れることだろう。彼らの仕事があって、家庭がある限り、このリュウグウノツカイの潜む深海から出ていかないのだろう。295P