ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ』


去年五月の文学フリマ幻戯書房の社長さんもいたヴェルヌ研究会のブースで本書を買い、十一月のフリマで会誌を買い、年始で読み終えた。

本書は地中海を舞台にした物語が展開される、エンタメ性溢れるヴェルヌ中期の大作。ハンガリーの独立を志して蜂起を計画していたシャーンドル伯爵たちが計画が漏洩し処刑目前となった時、監獄で密告者の名前を知り天誅を心に脱獄を試みるところから物語は始まる。旧訳タイトルは『アドリア海の復讐』で、序文のデュマ・フィスへの書簡にある通り、ヴェルヌは今作を彼なりの巌窟王こと『モンテ・クリスト伯』だと呼んでおり、監獄からの脱出や十数年をかけた復讐劇などでオマージュを捧げているというと概要が掴みやすいかも知れない。私はデュマ読んでないけれど。

ヴェルヌらしい暗号解読や、監獄での避雷針の感電から始まり高速船の名前に至る電気のモチーフなどSF的な要素もあるけれどもなにより、明快な善人と悪役の構図でハッピーエンドに至る物語性、トリエステからモロッコリビア北部まで地中海全域を舞台にする広がりがあるのが楽しい。巻頭に三種類の地図が置かれており、どんどん地図の範囲が広がっていくさまを見るだけでも面白い。トリエステで捕まり、クロアチアのパジンで幽閉され、第二部ではラグーザことドゥブロヴニクを舞台にし、シチリア、マルタ、最後はジブラルタル海峡からリビア北部のシドル湾を股にかける。

序盤の200ページほどを使って、伯爵たちの人物像や敵対者の銀行家たちなど主要人物と因縁を描き、そこから15年の時間を経て悪党の陰謀と、伯爵たちの追跡劇が一種の小説的地中海観光案内の様相を呈しつつ、さまざまな謎、人間関係がぐぐっと収束していく終盤の展開は楽しいエンタメになっている。

このエンタメ性の一端を支えているのが偶然性だろう。この大作の驚くほど多くの場面であっさりと大胆に偶然が仕事をこなして、展開をスピーディにしていく。横光利一「純粋小説論」で大方の意見として通俗小説と純文学の違いの一つは偶然性にある、としたけれどもまさに本作は偶然の奔流と言える。それもそのはずこの広大な土地を舞台にした物語をそれなりの紙幅に収めるには偶然の力を借りるほかないわけだし、高所からの飛び降りや決死の覚悟の困難なミッションの成功は最終的に運に頼るほかない。「神がかり的な偶然」(下巻21P)、に鼻白む人もいるかも知れないけれども、個人的には逆にそれが面白かった。特に「神がかり的な偶然」が指す上巻最後の場面はおいおいマジかよ!と笑うしかないドラマチックさで良いところで巻を区切るなあと思ったところだった。ヒキが決まってる。序盤では伝書鳩で運ばれた暗号を解読するくだりは『地底旅行』を思い出させるところがあり、しかもなかなか手が込んでいる。悪党が偶然出会した伝書鳩の暗号文からすべてが始まっていて、物語は偶然から始まる以上、最後まで偶然が決定的な場面を支配するのも宜なるかな

もう一点、電気がなかなか重要な役割を果たしている。牢獄の塔から脱出する時に頼みの綱となるのが避雷針のアース線で、これを頼りに絶壁から降りていくのだし、電信や地中海に距離などないかのように移動する高速船はエレクトリック号と名付けられている。ヴェルヌ研究誌に、本作には実は海洋冒険小説としての側面が薄く、ヴェルヌ自身が遭遇したことを題材にしたというマルタ島近くでの嵐の場面以外では実は航海の場面がほとんどないという指摘がある。その旅程のショートカットを可能にするのがこの電気や電信だったりもする。また非常に重要な役割を果たすのが磁気催眠というものでこれまた極めて便利なガジェットになっているけれども、これとあわせて電磁気と言って言えないこともない。ただ、これらのガジェットはそこに掘り下げがなく、まさにガジェットでしかないというのは確かにそうだろう。

キャラクター的にはやはりフランス人曲芸師のペスカードとマティフーのコンビが一等印象に残る。力持ちの優しい大男マティフーと、小柄で知性があり潜入捜査もやってのけるペスカードの片時も離れたくない二人組の軽妙な活躍とやりとりは本作の活劇的な魅力を支えている。また、地中海を舞台にしているだけあって主人公はハンガリー人だし、コンビはフランス人、コルシカ人やトリポリタニア人やイタリア人、モロッコ人など多彩な人種が登場する小説でもあり、とりわけ主人公をシャーンドル・マーチャーシュとハンガリー人名として表記している点は新訳の特色だという。

原題のフランス語ではMathias Sandorf・マティアス・サンドルフとフランス風に表記されており、それを概ね原音主義に基づいて人名地名を表記することで、多文化を行き来する雰囲気を醸し出している。伯爵が多言語をマスターしているのはその便宜。とはいえ、サヌーシー教団という実在のイスラム神秘主義教団をざっくり悪役にして戦闘が展開され、リビア北部の島に植民地を作ってハッピーエンドというあまりにも19世紀的な構図はさすがに時代性の刻印が露わだと言うほかない。

また、バートリとサーヴァのロミオとジュリエット的なラブロマンスをめぐって、結婚が家長たる父との強い関係においてなされるべきものという暗黙の前提が据えられているところも今読むと気になるところではある。仇敵の家との結婚という枷をどう解決していくかが読みどころの一つではあるけれども。

また本作ではマーチャーシュ伯爵の動機は復讐ではないとされていて、私も復讐劇と書いたけれども、密告者の名前を知って復讐だと逸る仲間を制して、違う「天誅」だといい、一貫して主人公は「裁き」を与えることを目的として動いている。個人の私怨ではなく裏切り者の制裁というのがマーチャーシュ伯爵の「正義感が強く、あらゆる不実な行為を憎」む厳格さと恩人に報いる性格の描写になっていて、だからこそ最後の裁きは彼自身ではなく偶然が下すことで、天というか神がその裁きを下すことで伯爵の意志と同調している、のかも知れない。ただ、むしろ今読むと「裁き」には傲慢さを感じるところもあるし、それはともかくとしても最後の裁きは伯爵自身が下すべきだったのではと思ってしまう。最後のところは、自らの手を下さずに?という考えがよぎる。ここら辺で主人公像がややぼやけているところはある。

ヴェルヌ研究誌ではエンタメとしては失敗しているという指摘もある。私も当初のハンガリー独立のことが概ね忘れられてたり、アンテキルト博士がイシュトヴァーン夫人と出会っても大丈夫だったので正体は別人かと思ったら違ったり、サーヴァの名前そのままってありなの?とか粗も結構ある。悪党がやや小粒ではあって、まあでも「銀行家の良心は妥協しやすく、いかなるビジネスとも折り合いをつけることができた」(上巻78P)、といった皮肉なフレーズが金銭欲に駆られた悪党と正義の主人公たちの対比にはなっているか。

正月休みに読んで楽しい小説で良かった。造本も良いけど、本体の青が海の色だとして(叢書の他の海洋小説も本体は青系の色だ)、赤が復讐・裁きの苛烈さだろうし、ではカバーの緑は何だろう。

ヴェルヌと言えば、と偶然持っていた新島進編『ジュール・ヴェルヌとフィクションの冒険者たち』という論集をめくってみたら、訳者三枝大修が『シャーンドル・マーチャーシュ』の解説で省いた『モンテ・クリスト伯』との比較を行なった論文が載っていてびっくりした。開いてみるまで知らなかった。「十七回」という数字に関連を見出したり、「肌をなす」という独特の表現が括弧付きで使われているのは明らかな引用だと指摘するところなど面白い。よく買ったなこれと自分を褒めておきたい。まあヴェルヌはルーセル繋がりでも興味があってこれにもルーセルを絡めた論考が載っていたから買ったんだと思う。

ジュールヴェルヌ研究会「Excelsior!」18号

『シャーンドル・マーチャーシュ』特集の特集部分を読んだ。訳者も参加した読書会はかなり面白い。ここでも「偶然」が大きく取り上げられているのがやっぱりね、と思った。いくつかの指摘は感想のなかで参考にしたけど、シャーンドル演出家説とか、「墓のない死者」という自己紹介を踏まえたシャーンドルは第一部の終わりで死んでいる、という主張はなかなか面白い。独立は忘れて復讐にだけ動く亡霊というとつまりゴーゴリの『外套』になってくる。革命についてのことは最後で忘れられていることについて、新島進のこの発言が辛辣で笑ってしまった。

いいんですよ、どうしょうもない政党が国を動かしていようが、殻に閉じこもって好きなアイドルのDVDを見られるならば。だから現代人はヴェルヌ好きなわけですし、ルーセルはその最初のひとりということでしょう。62P

物語としてはシャーンドルはフェラートの姉のマリアと結婚するべきという話があって、それはそうかも知れないと思いつつ、強姦なしでの『モンテ・クリスト伯』を書こうとした企図があるためサーヴァも大事にされてるしそういう艶っぽい話はないんだ、という指摘がある。また、本作の偶然性はネタも尽きてきたことで、

偶然性に頼らないとあっと言わせられなくなった。でも偶然性にはセンスオブワンダーがないから読者は驚かない。むしろこのあたりを境に、読者はヴェルヌの仕掛けを知ったうえで知らんぷりしてつき合って、最後に一緒に驚いてあげる、そのお約束が楽しくてヴェルヌを読むようになった、この作品のシステム化こそが現代においてヴェルヌを読む意味なんですね。69P

という新島氏の指摘が興味深い。出てくる発明が概ねガジェットに過ぎないこととあわせて、ジャンルというかエンタメという形式化の問題を指摘している。

あと旧題『アドリア海の復讐』が森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』に出てくるのは知らなかった。10年以上積んでる本だ。

島村山寝「砕け、波よ! 砕け…」は読書会を受けて、『シャーンドル・マーチャーシュ』と『神秘の島』『エクトール・セルヴァダック』との比較検討を行なってヴェルヌの語りの形式を初期作品からの変遷、「初期作品群の超人的な独身者」たちの黄昏として位置づける評論。ヴェルヌ作品は確か『海底二万里』と『地底旅行』しか読んでないからあれだけど、作品の位置づけや語りとヴェルヌの想像力のあり方とを絡めてて面白い。

会誌の装幀と編集がじつはルリユール叢書と同じ人が関わっているのは今回奥付を見て気づいた。