最近読んでた本2024.03

H・G・ウェルズ『盗まれた細菌・初めての飛行機』

年明けヴェルヌを読んだしウェルズが読みたくなって随分前に買っていたこれをさっと引き出して読み出したらおや思ってたのと違うな、と表紙を見たら南條竹則編訳作品集で、なるほど怪奇趣味もありつつのユーモア短篇が収められており意外な作風が読めて面白い。

訳者解説で、1890年代になるまでイギリスでは短篇小説が重視されていなかったということを当時の雑誌の興隆の歴史を踏まえて論じていて、初期ウェルズがその新興雑誌の波に乗って現われた作家だという側面を描き出している。本書収録作品とSFと見なされる代表作は同じ時期に書かれており、細菌、飛行機という題材を使いつつ笑いに落とす本書の短篇群は似た題材を使って別の書き方をしたものだということもわかって面白い。蘭の化け物に襲われたり、描いた絵のなかの悪魔に誘惑されたり、怪奇小説的でもある。

表題作の「盗まれた細菌」は研究所に現われた男にコレラ菌を盗まれるけれどもそれは冗談で盗まれた菌は有害なものではないオチがつくけれど、ここで無政府主義者が試みた水道施設への毒の投下という細菌テロという発想自体はSF的なネタに充分なりそうなものがある。ユーモア短篇にもSFの片鱗がある。

「初めての飛行機」は本当にスラップスティックといえる一篇で、飛行機に乗ろうとしたお調子者の男が買った飛行機で空を飛ぶには飛んだけれど、見張り係が用心のために鉄柱に翼を固定していたらそれごと空を飛んでしまい、その鉄柱が街中をぶち壊していくさまが描かれる。

こうしたギャグ調のもののほかにも、たとえば「失った遺産」は皮肉なヒューマンドラマの短篇としてまとまりが良いし、特に好きなのは「ハマーポンド邸の夜盗」の「夜間強盗がスポーツなのか、商売なのか、はたまた芸術と考えるべきかということは、議論の余地のある問題だ」(58P)という書き出し。

ただ、「紫の茸」は主人公の妻が悪いものとして書かれているのか途中まで判断付かなくて、この当時だったらこのぐらいの書き方で懲らしめるべき悪妻として通ったんだろうけど今読むと悪いとする描写が足りないなと思った。書き手と読み手の共通コードが変わったんだなとわかる。

いのり。『勇者になりたい少女と、勇者になるべき彼女』

アニメ化されたわたおしこと『私の推しは悪役令嬢』の作者による新作ガールズラブラノベ。人と魔族の戦争が終わり、人族の勇者学校に魔族の少女がやってきて、優等生の勇者の娘につがいになろうよとプロポーズするところから始まる。親と子、束縛と自由をめぐる話になっている。

わたおし同様こちらのルチカもこれと決めた相手にはグイグイ行くタイプだけど、「ボク」が一人称で子供っぽく自由気ままに見えてあえて距離を取ることもする。もう一方のレオニーは座学に優れた優等生で、実技に秀でたルチカと対照的だけど、勇者の娘故のプレッシャーがあり鬱屈を抱えている。得意なことが違ってお互いに憧れる同士という王道感。本作ではルチカの出身の魔族は同性でも子供が作れるらしく、だからこそレオニーへの求婚もおかしくはないけれど、人族は少子化同性婚が許されておらず、ここに現代日本と同様の自由をめぐる問題意識があると思われる。

人族の学生たちはギアという未来予測の魔道具の首輪をはめていて、戦闘時のアドバイスや特技や進路までもそのギアの助言に頼っている。しかもレオニーの亡母はギアの開発者だったことで、いっそうギアへの依存を深めており、ギアの歯車という意味も加味した束縛の示唆にもなっている。親とギアに密接な関係があり、この意味で今巻ではダニタがそのテーマの象徴となっていて、勇者学校最強と噂されるも母親が同校の教師なせいで日々母の言いなりにさせられている。ここからそれぞれの形で少女たちが親の束縛によらない自分の選択をする爽やかなエンディングは良い。

本書ではルチカがレオニーからもらった予備のギアの得体の知れない不良ぶりや、そもそもギアの謎などは掘り下げられず、予告された続巻への仕込みだろう。レオニーの友人ノールとのあいだで三角関係になりそうでもあり、また魔族はもしかして多妻もありならそういう展開の仕込みに思える箇所もある。

余談。「寮の部屋は十畳ほどの二人部屋だ」(122P)という一文があって、ファンタジー世界に畳の単位が出てきたことにさすがに違和感があったんだけど、広さを示す架空の単位を作るのも煩雑だし、違和感を抑えてパッと伝わるリーダビリティを優先したこの判断に感じ入るところがあった。たこ焼きが出てくるのはわたおしで牛丼が出てきたのと同じ作者だなっていう恒例のやつの模様。あとがきに、ルチカやわたおしのレイといった積極的な主人公キャラは作者の「パートナー」がモデルらしく、どうやら壮大な惚気を聞かされているらしいのは笑う。

神沼三平太、若本衣織、蛙坂須美『怪談番外地 蠱毒の坩堝』

三人の共著による実話怪談本。「棗」の不穏さを匂わせる気味の悪い話から始まり、人が煮えたり人から気味の悪いものが出てきたりのスプラッターなものから座敷童のような日常のなかにある怪異のようなものまで色々面白い。

今作で初めて読んだ若本氏の作品は結構好みのものが多かった。「盆の客」で子供がミニカーをプレゼントしたら怪異が収まったオチとか、「奥階段」の怪異が必ずしも脅威ではなく同居しうるものとして描かれてるところとか、「鍵」の不気味な建物を探索する緊張感とかが印象的。「冥途」の見慣れた場所にあるはずのないものがあるのに誰も他に気づいてない怪奇小説的な雰囲気も良い。

一番奇抜だったのは「サーペント・ハンドラー」で、笑っちゃうくらい異様な出で立ちの奇怪な人物が急に車の後ろに乗り込んでくる怖ろしさがあって、笑いとホラーの共存具合が相当良かった。蛙坂さんでは「しゃれこうべ」のデッドロックにはまってしまった逃げ場のなさも良い。

「街道沿いの廃アパート」の怪異の方が明かりでサインを送ってくるかのような奇妙なコミュニケーションが成立している不思議さもなかなか良かった。「恥さらしの仏壇」と「部屋中の井戸」の禁忌を破るか破らないかの対比的な二篇も神沼氏作として印象的。

これに限らず本書終盤の話はどれもなかなか圧があって追い上げが良かった。

中村光夫編『吉田健一随筆集』

吉田健一の英国、文学、恩師、旅行、酒、食べ物、金沢についてなどのエッセイに加えて代表的な短篇小説「酒宴」を収める選集。吉田のさまざまなジャンルの文章をそれぞれ集めていてページ数も少なめなのでコンパクトな入門篇といえるんじゃないかという一冊。

富裕というか高踏的というか、良いものを知る人生の豊かさを感じさせる趣味人ぶりは反感を感じさせないでもないけどその愉楽の様子は読んで悪いことはない。若き日の著者が親しんだ恩師F・L・ルカスについての文章は特に面白く読んだもののひとつ。そこには、例えばもし所謂、文学なるものに少しでも意味があるならばそれは本を読む楽みから出発して常にこれに即し、そこに結局は戻って行くのでなければならない」(58P)ともある。他にも「余生の文学」に

兎に角、何かはっきりした目的があってそれが他のことに優先している間は文学の仕事は出来なくて、その文学というものを何かの形で楽むにもその余裕が得られない。このもの欲しげな所がないというのが文学の一つの定義にもなって、これが無愛想に終る代りに親しく語り掛けるというもう一つの性格がそこから生じる。38P

悲みに堪えなくて書いた文章でも余生の安らいだ息遣いを感じさせ、それで始めてその悲みもその文章を読むものに伝わり、又その為にその文章を読むものがそれに堪えてそこに喜びを見出すことさえ出来るということが文学というものに就ての一切を語っているように思われる。41P

ほかにも、

探偵小説はその目的の点では猥本と一致しないが、読者を釣って行くように書いてある点では猥本と同じである。尤も、そう言えば、何でも名作は凡て読者を釣って行くから、それならば、我々の原始的な本能に訴えて我々を釣って行く点で、探偵小説は猥本と同じである。人殺し、恐喝、失踪、追跡、一つとして我々の胸が躍らないものはない。160P

というのもあったりする。

1937年以来の知り合いの中村光夫による編集で彼の解説によれば吉田の実体を作り上げたのはイギリスで、そこでは何よりも友情が尊ばれており、谷崎が言う、日本が西洋から受けた最大の影響は恋愛解放だという立場とは大きく異なる、という指摘をしている。

河﨑秋子『颶風の王』

直木賞作家になった著者の初長篇。東北から北海道へ馬一頭を連れて渡った捨造は、妊娠中の母が駆け落ちする途中で雪崩に飲まれ馬の血肉を食べて生きながらえた、いわば人と馬の子だった。その彼と孫娘が馬を手放した悲劇からさらにその孫娘がまた再び馬と出会う人馬の小さな年代記

親に認められぬ仲になった男女が駆け落ちするなかで男は殺され、女は雪崩のでできた雪洞で馬の血肉を食べて生き延びる壮絶で伝説的なところから物語は始まり、この馬と人との血の絡み合い、人間とその人智の及ばぬ自然とのかかわりが描かれ、どこまでも強く生き抜く懸命さが肯定される。

北海道の厳しい自然を生き抜いた北海道和種、道産子の歴史が語られており、軍馬として軍に買われていったこの馬たちは戦地から帰ることなく数十万頭が残されたという。それ以前明治期には日本の小さい牡馬を断種して外国馬に種付けさせる淘汰が計画され、そのわずかに辺境に残った純粋和種を捨造は育てている。

祖父も、和子も、他の和種を飼養する馬飼いも、単なる利便面だけではなく和種を尊重していた。部分的に外国産馬の血統を使いながらも、やはり純血の和種は残すよう努め、近隣同士で繁殖計画が差配された。
 こうやって自分達と共にあった道産子の血はずっと残されるだろうし、彼らが残る限り、馬と共に文字通り血肉を投じてこの地を拓いた自分達の歴史も消えることはない。祖父ら古い馬飼いはそう考え、その通りに道産子の血統を守り続けた。ワカもそのうちの一頭だった。126-7P

花島という島での昆布養殖の運搬に使われていたその馬たちは、ある台風の日に崖崩れによって道が消え、高台の馬たちを下ろすことができなくなり、馬飼いを廃業することになってしまう。ここに捨造からその孫娘和子とそのさらに孫のひかりへという女系に語りの焦点が移行する。

馬と共に生きることがなくなっても、和子は認知症になると馬と共に育った記憶を一番に思い出し、そのことで孫にこの家と馬の歴史の一端が伝わる。そうして花島に今も馬の生き残りがいることを知ったひかりは大学の調査に同行して島の最後の馬に会いに行くことを計画する。

多数の鹿が棲むこの森は、松の緑が濃い。ひかりが生まれ育った十勝も自然豊かな平野だが、自然の質が根本的に違うように思われた。十勝は早い時期から開拓が進み、山も緑も人の畑と調和した田舎といえる。一方、根室の地、それも内陸は人間の力及ばない森林を人間が間借りしているような印象を受けた。191P

ひかりは車から降りてまず強い海風を感じた。頬を撫でるというよりは削り、海の塩気を含んで鋭い、生き物を害して辞さない海風だ。195P

この花島で生き残る馬の末裔は、北海道に渡ってきた捨造の影絵のようでもあり、だからこそここで二つの血統は合流することなくそれぞれの場所で生きていくことになるのだろう。人と動物と自然の関係を二〇〇ページちょっとのあいだに描き込んだ動物小説。

孫と馬子という掛け詞を意識したりしてるんだろうか。作中の花島とは歴史がちょっと違うようだけれど、馬が取り残された島は実在していてユルリ島という。
ユルリ島 - Wikipedia

河﨑秋子『鯨の岬』

老婦人が小学生の頃霧多布で暮らした過去を回想する文庫書き下ろしの中篇と、江戸後期の野付半島で調査に訪れた役人が当地の人々の生死に触れる2012年北海道新聞文学賞受賞の中篇という、発刊当時の最新作と最初期作のカップリングとなっている一冊。

表題作「鯨の岬」は、札幌に住む家族関係に鬱屈を抱えている奈津子が、認知症初期の母のいる釧路の施設へ面会に行こうとした時、ふと出発する別方向の電車に乗り込み、自分が小学生の頃に住んでいたクジラの解体工場があった霧多布に向かいながら己の記憶や歴史と向き合う中篇。

汚い言葉を使い漂着クジラが腐敗して爆発する動画を大笑いしながら見ている孫や、祖母にお守りを任せて身勝手気味な息子夫婦や、ごく自然にお守りや家事を妻に任せる夫など、家庭生活の微細なストレスに晒される描写の嫌なリアリティを経ての、予定を無視して違う電車に乗っての解放感がまず地味に良い。その車中で数少ない自分一人の時間として本を読んだり、子供の頃の記憶を回想したり自分自身に向き合いながら懐かしの町や温泉や施設に行ってみる旅程のしみじみとしたところや、クジラの解体工場の匂いが充満する町での両親と姉との生活の細々とした描写が続く静かな小説としての良さがある。マッコウクジラの油を含んだ菓子を食べて寝小便のように尻から油が漏れてしまった事件なんかもインパクトがある。

孫の見ていたクジラの爆発を自分も見たことがあるという朧気な記憶を抱えつつ、クジラの町に向かってノスタルジーに浸る部分だけでも良いんだけれど、終盤、語り手の持つ不全感が何に由来し、何を隠していたかが露呈する部分はそれまでの叙述を反転させる劇的なギミックになっていて驚く。これそういう話になるの?と驚かされる部分だったので知らないまま読んだ方がいいけど、なぜこの作品で奈津子が越してきた年や年号が明確に書き込まれ、現在時が確定できるように書かれているのかは1965年昭和40年のある事件をモデルにしているからだと後でわかる。

起きた場所は変えられているけど事件の内容はそのままだ。そうした知る人の少ない悲惨な歴史を生きていくために一旦忘れてしまうのは仕方ないとしても、それを忘れられたままにすることへの批判、抵抗の意味がある。夫が実は事情を知っている可能性に思い至るところは印象的。*1

「東陬遺事」は江戸後期の野付半島を舞台にした歴史中篇。野付半島根室と知床の中間ぐらいの位置、国後島のほど近くにあり、砂嘴としては日本最大のものらしい。調査に訪れた役人がその土地に住む人たちと過ごすなかで、冷徹な自然の美しさを描写しながらそれが時に人を取り殺す様を描く。

月を見て死んだ男、馬を助けて流氷の海に落水し顔を鳥についばまれた若者、自らに火を放つ女、美しいものを求めて本土を夢みる少女。美しさは時に人を殺すという言葉が書きつけられながら、自然と共に生きるというようなロマンチシズムに冷や水を被せる。

麻に代わり木綿生地が一般化するにつれ、大量の施肥を必要とする木綿栽培のために鰊滓の肥料としての重要性が高まり、鰊の好漁場だった蝦夷地では安く使える人夫の需要が高まり、その担い手として蝦夷ことアイヌが使役されるようになったという動物を介した交易の歴史も書き込まれている。

人間・動物と自然・歴史がそれぞれ欠けることのないようなバランスを作品から感じる。鰊も鯨も近現代北海道の経済史に関わる存在としての側面がちゃんと書き込まれている。

ジョン・スラデック『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』

ロボットの良心を司るアシモフ回路が壊れたチク・タクが盲目の少女を手始めに、陰で人々を惨殺しながら美術家・起業家として成り上がっていくロボットピカレスクSF。トランプ大統領の現代にあっては寒気がするリアリティが出てしまってもいる。

獄中の回想記として書かれ、手始めに盲目の少女を殺してその血をリビングの壁に塗りたくって芸術を作り始めるチクタクの所業から始まるのだけれど、獄中と少女はナボコフ『ロリータ』を踏まえているんだろうか。チク・タクとハンバート・ハンバートという名前や、ある種のアメリカ論としての小説というのも含めて。チク・タクが冒頭のスチュードベーカー家に来ることになるまでの過去を語るいわばロボットの受難パートと、スチュードベーカー家のロボットだったチク・タクが絵描きロボットから実業家として成り上がっていく過程で人間に対して行なった陰惨な行為が描かれる人間の受難を交互に描く構成になっている。

現在時のチク・タクのアシモフ回路が壊れているがためになんの躊躇もなく残忍な所業に及ぶ様はシュールといってもいいものがある。最初の犠牲者から始まり社会的弱者をむしろ狙い撃ちにしており、同時に過去人間がロボットたちに行なった仕打ちも劣らず残虐なのが交互に描かれるわけだ。チク・タクの存在は人間の鏡でもあり、終盤の政治家として持ち上げられる過程は政治家という国民を映す鏡としての極点にあるといえる。人間の鏡としてのロボット、国民の鏡としての政治家、アメリカの鏡としてのフィクション。そして私の読み方のように、読者の鏡としてのフィクション。

APFこと「アメリカ人が第一」という反ロボット団体が出てくるのだけれど、「すべてのロボットを殺せ」「アメリカを人間の手に戻せ」というスローガンとあわせてあまりにもトランプ界隈を思わせるものになっている。

「愚かなロボットたちが互いに互いを打ち壊しあうのを見ながら、わたしはその無益さに、ほとんど人間的な何かを見たような気がした」81P
「実験なんだよ、ジョージ。ああ、金や権力に興味はないんだ。ただ、悪いことをするとどうなるか知りたいだけなんだ。罪を犯したいんだ」171P
「ナッシュがゲイで小児性愛者なのは周知の事実だし、オーバーンはむかしチンピラを雇って、自分に気づかなかった給仕長を失明させた。でもいまどき、素行が悪くて当たり前よね。パッカード大統領を見ればわかるでしょ、あいつがわたしたちの選挙の対抗馬で、自他共に認めるレイプ魔」229P

アメリカを題材に人間とロボットのスラップスティックな戯画を描いたら、陰謀論を垂れ流して自分の選挙結果を否定して議事堂襲撃を煽った信じがたい戯画を実践してしまった現実と重なり合った、そういう感触がある。アメリカのパロディが現実のものとなったというか。

チク・タクの会社がある国で稼働させている完全自動化肥料工場では何でも飲み込んで肥料に変換し現金を支払うというシステムになっていて、そこには皆が様々なゴミのみならず人間を放り込むようになり「死という新しい産業」が生まれてしまったというくだりは植民地を彷彿とさせる。

「閉鎖? でも、貧乏人にはそれしかないんですよ! いますぐ閉鎖なんかすれば、革命が起きるでしょうよ! ……それに、警察も使いはじめているんです。工場は、わが国になくてはならないものになりつつあるのです」236P

これなんかも実際のアメリカの産業のパロディなんだろうと思われるし、私は星新一の「おーい、でてこーい」を思い出した。

アメリカ論としての読み方は既に若島正の書評が鋭くかつ簡潔に書いていた。
『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』(竹書房) - 著者:ジョン・スラデック 翻訳:鯨井 久志 - 若島 正による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS

ロボットが芸術を作れるか、ロボットが市民権を得られるか、そんな話の最後のほうに、ロボットのチク・タクについて、「恐ろしい罪を告白したからこそ、人間は君を解放しようとするんだ!」248Pというくだりがある。どんなことをしても肯定的に評価される勘違いコメディの匂いもありつつ、ここにキリスト教の影響も感じられる。恐ろしい罪を告白する自伝を書いた存在は確かにただのロボットではないだろう。恐ろしく、ブラックな、反転した形でロボットの成長物語が本作なのかも知れない。

クリストファー・プリースト『落ち逝く』

落ち逝く | HAL-CON Japan Site
はるこんというSFファン主催のコンベンションのゲスト作家の未邦訳作品集を大会にあわせて出しているシリーズの一冊。90ページほどの小著で三篇を収録しており、死の寸前の想念や読書家もののホラー、拡張現実SFなど著者らしさもよく出ている。

「落ち逝く」は死ぬ寸前の走馬燈のようにベルギーでのダイビング体験を思い出していた主人公の一瞬の出来事を描く短篇で、あ、そうなるんだというオチはちょっとコミカルで面白い。ジャンルのお約束を捻ってる感じもあるか。初出はベルギーがテーマで王室と芽キャベツに言及することが条件の小説だったらしいけど、その二つはカットされてるのが可笑しい。

「波乱万丈の後始末」、ある日帰宅すると家に誰か侵入した形跡が、という文芸ライターの女性を主人公にしたホラー短篇で、ストーカーというかモラハラDV男性が侵入したのではというサスペンスを描きつつ、家にある本がなぜか整理されている?という奇妙な現象が見えてくる。sorting outという原題が示唆するように整理にダブルミーニングがあるホラーと思わせて、という話だけどこの現象の正体とカバーと本体を逆にすることの意味がよく分からなくてちょっと消化不良。出てくる作家や作品に作者の色々な背景が見えるというのも面白いところか。

「エピソードを排除せよ」、拡張現実で行なわれるゲームが何人もの死人を出しながら続いていく状況を描く近未来SF。異様な状況を所与のものとして進む展開でよく分からないところがあるなと思ってたら解説でオーウェル「象を撃つ」のパロディになっているというのを読んでなんとなく分かった。『2084』というオーウェルの百年後をテーマにしたアンソロジーに寄せた作品で、本作もオーウェルを踏まえつつ「象を撃つ」が根底に植民地主義を示唆するものだったのを踏まえて本作でも番組制作者と視聴者の共犯関係を描いているようだけれど、最初から状況が異様なのでそこはあんまりピンとこなかった。

ボルヘスシェイクスピアの記憶』

何らかの事情で一篇のみ未訳だったボルヘス晩年の短篇を表題作にした最晩年の短篇四作の邦訳。自分の将来の姿と出会う分身譚や自分がシェイクスピアの記憶に乗っ取られかける分身譚の逆を行く話など、100ページほどでボルヘスらしい作風を味わえる小著。ボルヘスの小説は『伝奇集』『砂の本』『不死の人』『ブロディーの報告書』を読んでまあ概ね読んだかなと思ったらまだいくらか未読のものがあった。久しぶりに読むとこの「分身、夢、記憶、不死、神の遍在」などのテーマがさらっと描かれた幻想小説でやっぱり良い。

「一九八三年八月二五日」、61歳のボルヘスが84歳のボルヘスに出会い対話を交わす作品で、SFというか分身譚というか、そもそもそういうロジックを転倒する、二人であって一人ではない、二人であり一人なのだという一足す一は二という式の崩れが楽しい。誰が誰を夢みているのか。ボルヘスボルヘスの「下手な模倣者」と呼ばれるような状況を描いて、「あらゆる作家が最後には、そのもっとも明敏ならざる弟子になるのだ」19P、と。ボルヘス自身を題材に書くことと夢みることのメタフィクショナルな仕掛けを重ねて眩惑的。

「青い虎」、ある男が見つけた青い小石はいくらでも増えたり減ったりして、算術的な論理を超越した性質を持っているという宇宙的秩序の崩壊を描くホラーチックな一篇。これもまたコスミックホラーと言えるだろうか。

最初、私は気が狂ったのではないかという不安に苦しめられた。時がたつにつれて、いっそ気が狂ってくれたほうがいいと思うようになった。私自身の錯乱など、この宇宙に無秩序が存在することの証左に比べれば、取るに足らぬことであったからだ。仮に三足す一が二であったり十四であったりするならば、理性は狂気にほかならない。45P

パラケルススの薔薇」、錬金術パラケルススと弟子入りを志願する若者との問答。本当に灰になった薔薇を元に戻せるのなら目の前で実証して欲しいという師となるべき相手を試すようなことを言う若者とのやりとりを経て若者を騙しきるパラケルススがなかなか良い。短く鮮やかな一篇。

シェイクスピアの記憶」、シェイクスピアの記憶を差し上げます、と言われたシェイクスピア研究者の顛末を語る。記憶を手に入れたからと言って一挙にそれを知ることはできず思い起こすための方法が必要だったり、記憶があっても物語る資質がなければ作品は作れないなどの困難が彼を待っている。そして記憶は彼を覆い尽くそうとしていく。シェイクスピアの不死の分身とも言うべき記憶が永遠に時間のなかを受け継がれていくわけで、また作品をいくら知悉したとしてもシェイクスピア作品を作れるわけではない点で、これは永遠となった作品の似姿にも見える。

本の三分の一を占める長文解説は作品の鑑賞は読者に任せているのか、ボルヘスの生涯と作品とのモチーフの照応を丁寧に論じ、背景情報の提供に徹している感じで色々参考になる。盲目になって口述筆記で書くようになって文章が平易になったというのは古井由吉の朗読会経験を連想させる。ボルヘスの国際的なブームのきっかけになった文学賞受賞以前に篠田一士が翻訳を出していたという話も面白い。1950年代にフランス語から「不死の人」を訳したというのは雑誌掲載かなと思ってたら59年刊の最初の単著『邯鄲にて』に訳出してたのか。

邯鄲にて : 現代ヨーロッパ文学論 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「ほとんど日本の読者に知られていないこの傑作」、とある。

エーリッヒ・ケストナー『独裁者の学校』

ナチズムを生き延びた作家による戯曲。大統領が暗殺されたと思った次の瞬間にはちゃんと大統領が演説を続け、政治犯の恩赦による釈放を宣言した、という始まりをもつ大統領のそっくりさんを集めて訓練を施し替え玉を用意している独裁国家をめぐる喜劇。

話が始まった時点で既に元の大統領は殺されており、無数の替え玉が学校で控えているさなか、紛れていた指導者が革命を試みる、しかし、という話で独裁のシステムは独裁者個人によるよりも独裁者というハリボテを掲げてシステムをまわす人間たちによって維持されているという作品。

無数の大統領のそっくりさんがいくらでも控えている学校も、体制をひっくり返す革命指導者も、その政治システムを牛耳る者たちにとってはいくらでもすげ替えられるものに過ぎないという趣旨はしかしそうかなあという気分にはなる。民衆が支持したという視点とも違う官僚システム批判みたいな感じ。

世論を弾圧する者は、抑圧する側よりも抑圧される側のほうが世論を知っていることを忘れてはなりません。弾圧者は容赦なく統制すればするほど、世論がわからなくなるものです。他人の自由をすべて取り上げたりすれば、その者がなにを考えているか皆目見当がつかなくなるでしょう。96-97P

仙田学・作、田中六大・絵『トイレ野ようこさん』

純文学作品や女装と子育てのエッセイで知られる著者の初の児童書。あわてものだけど人への親切を大事にするサブローくんと上級生のみんとちゃんが夜の学校でトイレのはなこさんとようこさんに出くわして、というドタバタコメディ。

セリフが関西弁で、二人のやりとりもボケとツッコミみたいなノリの良さがある。トイレを題材にしているけれども汚い話はほぼないのも特色か。夜の家をパジャマで抜け出して学校に忍び込んでのドタバタ劇という小さな冒険譚で、はなこさん、ようこさんの絵は結構きっちり怖いのも良い。ページをめくってカラーのはなこさんがでかく現われるの普通にビクッとなる。ようこさんから逃げる途中で札を使って追跡を逃れるの、なんかで覚えがあるなと思った。記紀神話黄泉醜女か三枚のお札か。

しかし、トイレの窓から外出たり入ったりは普通に危ないから気をつけようね。昔、鍵を忘れてトイレの窓から入った時、暗い中で足を踏み外して思いっきり膝を打ってしばらく捻挫の痛みに悩まされたことがある。夜の学校に入るのも危ないから子供たちは気を付けようね。

*1:詳しくは「共栄小学校炊事遠足事故」で検索するとわかる