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2022.09.30図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニアルーマニア』の書評が掲載
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2022.09.28単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の方法』が刊行されます - Close To The Wall

2022.06.10『代わりに読む人0』に「見ることの政治性――なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?」等を寄稿
『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました - Close To The Wall

2022.04.30「図書新聞」2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載
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2021.02.27「図書新聞」2021年3月6日号に仙田学『ときどき女装するシングルパパが娘ふたりを育てながら考える家族、愛、性のことなど』の書評が掲載
図書新聞に仙田学『ときどき女装するシングルパパが娘ふたりを育てながら考える家族、愛、性のことなど』の書評が掲載 - Close To The Wall

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最近読んでた本と怪談本と津原泰水の積んでた本

森崎和江『まっくら』

1959年から連載された、明治後半から昭和初期にかけて鉱山労働に従事していた女性坑夫たちの聞き書きを方言もそのままに記してまとめた一冊。人間として男たちに伍して働くそのタフさや矜持はアレクシェーヴィチの書き留めた女性兵士たちの声を思い出させる。

炭鉱地帯として知られる九州筑豊を舞台としており、方言の強い人は時々なにを言ってるのかわからないところも結構あるんだけど、それくらい喋り口調そのままに書き記した文章で、何人もまわりの人が死んでいく過酷な坑夫の仕事を生き抜いた女性たちの文字にならない話が語られている。

「おなごは男と喧嘩するがいちばんいい。理屈とケツの穴はひとつしかなか。男でもおなごでも道理はひとつじゃ。まっすぐかことはおなごも言い通さな。」186P-

と言ったようなセリフも飛び出す強い自恃の精神はしかし、そうでなければ脱落したり死んでしまうからではないかという気もする。

「赤不浄は入っちゃならんというが、あれは嘘。わたしはかすり傷ひとつせんだった。赤不浄・黒不浄でけがれるというが、あれは地の上の話たい。入っていいか悪いか、これは信心できめるもんじゃなかよ。意志ばい。人間は、意志ばい。
 わたしはそれから赤不浄も坑内で垂れ流し。尻までの腰巻ひとつだけど暗いから人にはわからん。垂れ流しだけど暫くするとばりばり乾いて、股くらにくっついて働きにくい。昔は今の人のように、当ててパンツするのと違っていた。当てるとじゃない、いれると。このくらいに丸めていれるとよ。」226P

『戦争は女の顔をしていない』にもあった生理話、ここではいっそうタフだ。著者はこう語っている。

「「働かなうそばい」という採炭気質があふれてきて、しぼられてもしぼられても能動的に生きました。後山たちは家というわくのなかで消えていく労働を、「働く」という概念にふくませておりません。主として労働力の再生産部門を受けもっていた家族制度内の女たちの、そのモラルをふみにじっていく快感が、あんたんとした坑内労働にちりばめられました。その場で愛と労働を同時に生きようとしました。その共感と抵抗が後山たちを一様に朗々とした女にさせています。いまも坑内労働をしている小ヤマの女たちは、息もつかぬす早い運搬に従事しながら、地上の生活では破りがたい意識の壁をくだいています。まっくらな地底で突如としてけたたましく笑うのですが、息をのむような虚無感とまんじともえとなっている明るさです。」300P
「組織化されなかった無産階級婦人の抵抗は、ひとりひとりのおばあさんのなかでは消えておりません。けれども抵抗集団そのものは挫折しました。そしてそのあとにつづくものは何も本質的には生まれてはおりません。一度の挫折も経験したことのない日本的母性は、いまもなお女坑夫の意識を奇型としてまるでかえりみることもしないのです。」302P

ここら辺に本書の位置づけがある。戦後はダメだ、自分はこんな仕事をするはずではないと思っていると引揚者を非難したり、なじめず夫の稼ぎで暮らす主婦にあれは民主主義ではなく利己主義で、あれは共産党のことじゃろ、という人もいたり、率直な認識が窺える箇所も興味深い。

教育を受ける間もなく労働に駆り出されて文字もわからないまま働きづめに働いた女性たち10人の声を書き留めた一冊。しかしこの頃の聞き書きってどういう風に話を記録していたんだろう。持ち運べるテープレコーダーがあったのか速記だったのか。

上坂高生『有馬賴義と丹羽文雄の周辺』


有馬頼義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と「文学者」の通販/上坂 高生 - 小説:honto本の通販ストア
後藤明生が有馬賴義の「石の会」に参加していたことを知って参照していたんだけど通読してはいなかったので改めて読んだ。ジャリ=石と自称した若手文士たちの親睦会の様子には、こういう時代があったんだなあとなかなか面白かった。

石の会は1968年発足の親睦会で、度々集まっては有馬賴義持ちで会合や合宿を企画して、部外秘の会報を出していたりする様子を著者が手持ちの資料なども参照しながら回想している。有馬賴義は直木賞を受賞した作家で、旧華族のなかで自分だけが自らの力で働いて食べていることを誇ってもいたという。五木寛之は既に人気作家で、その後色んな賞をとったりもする作家たちの雰囲気みたいなのが感じられて良いんだけれど、その後有馬賴義の自殺未遂やらで次第に雰囲気が暗くなっていき、それまでは有馬が全部出していた会合での支払いが割り勘になるくだりはもの悲しさがある。

後藤氏らの「オサワリ戦術」というくだりがあり、まあこの頃は普通に女性陣の尻とかに触ったりしてたんだろうなというあたりとか、出てくる女性をめぐる考え方にも時代性が色々あってノスタルジックになるだけではない読後感もある。

後藤明生高井有一早乙女貢が会のムードメーカーらしく、この三人が揃えば豪快な笑いが絶えないというくだりがある。あと、サロンとしてのこの会で雑誌を出そうという話になったら、後藤が「チャンバラを書く人といっしょの同人誌は出せません」と言った話も興味深い。後藤明生の会報に書いた文章が転載されているので、単行本未収録記事にカウントしても良いのかも知れない。

競馬の有馬記念というのがこの有馬賴義の父親が農林大臣だったときにイギリスにならって競馬を日本に導入したことに由来しているというのは知らなかった。

名前を挙げておくと、最初の頃の会員は「有馬賴義、池田岬、五木寛之色川武大、大森光章、後藤明生早乙女貢、下江巖、高井有一、高橋昌男、高樋洋子、武田文章、立松和平、佃實夫、福井馨」。次に声を掛けたのが「山田力、原田康子渡辺淳一、黒須重彦、梅田昌志郎、諸田和治、中里迪弥、姫田浩代、上坂高生、桂英澄」で、特別会員に新庄嘉章の名がある。その後、萩原葉子三浦佐久子、笠原淳、北原亜以子、岡田睦、井出孫六、松島一義、梶野豊三、三浦哲郎、森内俊雄」が70年までの入会。そののち、「倉島斎、中山あい子、太田経子、山崎柳子、新村鼎」が入っているとのこと。中里介山の甥がいたり、色々面白い名前が並んでいる。

種村季弘『詐欺師の楽園』

空いた時間に読む用にしていたら読み終わるのに二ヶ月くらいかかったエッセイ集。偽エチオピア皇帝事件にはじまり、大泥棒、魔術師カザノヴァ、女装の剣士、魔術師、霊媒師、奇跡の治癒者、贋金作りの事件など、欧州の様々な詐欺師を描いたもの。

詐欺やトリックにまつわるさまざまな読み物として面白く、序論にある詐欺とはシステムの裏を掻く仕事だとしてバルトを引きながら記号論、言語論的な背景が語られているあたりが時代的なものを感じさせもするけれど、詐欺が言語、文学の虚構論ともかかわるというのはなるほどと思わせる。

だから、読み始めて偽エチオピア皇帝事件にヴァージニア・ウルフエチオピア皇女役で参加していたところで若い頃にはそんなこともしてたんだとビックリしたけれど、単なる逸話ではなく、霊媒師の章でトーマス・マンについても掘り下げられているのは序論の延長線上だからだろう。

藤野可織『私は幽霊を見ない』

ホラーや怪談が好きでもいっさい幽霊を見たことがないと語る著者が、自身の体験や周囲のさまざまな人たちから聞いた不思議な話を聞き書きする一冊。怪談というか奇妙な出来事というのも多くて、人はその行間に幽霊を想像してしまうものなのかと思わせる。

面白いのは破滅、滅亡に著者が惹かれてるところで、物語のなかの滅亡のイメージに「つくりあげられたおそろしさや悲しみはどうしてあんなに途方もなく美しく甘く胸をしめつけるのだろう?」107Pと語るところや、ポケモンGOで人が集まるところを世界の終末のように感じて胸を打たれたりするところ。

その一環のように「死というのは生きているのではないか?」149Pと語って、家においていたホワイトゴーストという多肉植物がダメになってしまった後も黴びて変質していく過程をずっと観察していたくだりは著者の資質を感じさせて面白い箇所だ。

特になるほどなと思うのはここだ。

「でも実は、自分が幽霊だと感じることがしょっちゅうある。それは、本を読んでいるときや映画を見ているときだ。私は目の前の世界の住人ではない。その世界のいっさいに介入できない」210P。

その時自分はその世界の住人からは幽霊ではないか、と。小説を書いてるときもその世界の人にとっては自分は幽霊なのだと。物語の世界と一線を画した境界の向こうの存在が幽霊だとするなら幽霊を見ないのは自分自身が幽霊だからなのかも知れない。今気がつけば最初のポストに「行間に幽霊」と書いてたのが繋がってくる。

朱雀門出『第六脳釘怪談』

上のは怪談にまつわる実話(エッセイ)だったけれども、怪談はともかく「実話怪談」なるジャンルというのは初めて読む。それぞれに誰彼から聞いた話として一応の名前が記されており聞き書きの体裁なのもどこまで信じて良いものやらとは思うけれども、怪奇譚から不気味な偶然、笑い話のようなものまで50話以上を収める一冊。

『裏世界ピクニック』は例えばネット掲示板に書き込まれた話を題材にしていてそういうのかなと思っていたけれどあちらは匿名掲示板での発信によって生まれたネットロア、都市伝説という流布された不確かさがあるのに対し、こちらは一応出元がはっきりしている体験談になっていて素性が異なる。

ある程度共通の素地があるとも思うけれども。怪奇ショートショートとでも言えそうな印象で、スプラッターやホラーや幻想小説のコアのようなものをスルッと切り出してきたような感じもある。「ウォーキングベッド、中身はデッド」なんか、タイトルが完全にコントだ。

そもそも怪奇譚やスプラッターや笑い話は截然と区別できるわけではないというのがこの短さで出てくるともいえるか。シリーズという点を生かした読者からのコメントを組み込んだメタフィクション的な「こぶん」なんかもあって、なかなかやるなと思う。

読んだきっかけは「代わりに読む人0」で後藤明生と怪談について書いていた蛙坂須美が去年の一冊として挙げてたからだけれど、実話怪談、なるほどよくわからないところがあるなと思って読み返したら「怪談とはなにか、もっとわからなくなる」とあって笑った。怪談を「世界のバグ」と呼んでいるのは良かった。

蛙坂須美、卯ちり、高田公太『実話奇彩 怪談散華』

こちらはその蛙坂さんも参加したトリオの怪談集。トリオなのもあって、聞き書き形式ではない三人称視点の叙述もあったり小説的でもあったり対話体だったりの形式性や、アジアンなり国外のものもあるなど内容面でも多彩な語りが特徴だろう。

「蝙蝠エリちゃん」の結句は本書の締めとして決めてきたなって感じだ。異なるものとの出会いによる認識の変容といえば「いなくなったほうのおかあさん」もそれに近いものがある。気のせいと言えば言えてしまうけれどもどうしたって気のせいにはできないようなもの、それが怖さだとも言えるか。

「水に嫌われてるのよ」や「ギリギリ」も気のせいや偶然の境界線上にあるような話だ。グロテスクな怪奇譚のおぞましさも怖いと言えるんだけれど、そうした認識の隙間に兆すものを扱うもののほうが真に怖い気がする。そこらへんがSFとの共通性だろうか。「コート」なんかSFショートショートにありそう。

後半の蛙坂須美ラッシュはちょっと笑ってしまう勢いがある。三人のなかでは高田公太が一番小説的な書き方をしているようで、読み始めると一番作者がわかりやすかった気がする。

大森望編『ベストSF2021』

2020年の日本SFから編者が選んだベスト短篇集。円城塔のグーグル翻訳を使った小説の生成過程を描いた奇妙な一作から柴田勝家の論文形式のSF、斜線堂有紀の物語をめぐる幻想譚、麦原遼の労働ディストピアSFとあるなかで私には藤野可織の一篇がことのほか傑作と思えた。

柞刈湯葉「人間たちの話」は既にこのブログでも収録短篇集の記事で感想書いたので省略。円城塔「この小説の誕生」は日本語を英語にそして英語を日本語にというGoogle翻訳によって差異が生まれていく過程を、遺伝子、RNAの「翻訳」と生命の誕生発展と重ねるなんとも円城的で不思議な読み心地の、しかしまさにSFな一篇。

柴田勝家「クランツマンの秘仏」は過日論文体SFブームの起点になったもので、なるほどジョークのごとき荒唐無稽な発想を真面目な知識や歴史を背景に滔々と語っていて面白い。勝山海百合「あれは真珠というものかしら」の短いなかに知性化動物たちが集う学校とその別れを描いていて良い。

伴名練「全てのアイドルが老いない世界」、「関係性」って言い方にピリッとくるところがあるんだけどこれはまあこの界隈の人はそう使うよなって感じはある。オタク用語というか。アイドルが聴衆から生気を奪って長生きするっていう吸血鬼アイドルの設定がどうにも違和感がある。金銭を吸い上げるのはそうだけどその代わりに全力のパフォーマンスを与えるわけで、そのパフォーマンス自体に聴衆の寿命を吸い取る効果があるのはもうなんか違うんだよな。幽霊や気力のないアイドルがファンに生きる気力を与える神クズアイドルを見たせいかも知れない。なんとも微妙な読み心地。

藤野可織「いつかたったひとつの最高のかばんで」、タイトルも良いけど、コールセンターの多様な経歴を持つ女性たちがそれぞれに自分にとって最高の唯一のかばんを見つけてどこへともなく出かけて帰ってこない奇想小説で、このファンタジックな幸福のありようには涙が出るような良さがある。「腰掛け」とされるコールセンターでの非正規雇用からの「逃散」を描いたような社会派的意味合いも込められているんだけれど、それがこういう幻想的な幸福の描写に繋がるのがかなり良かった。

堀晃「循環」は年刊傑作選でもよく入っていたSF功労者の私小説なんだけど自身の歴史を語ってなかなか読ませるし、SFを書きたくて時間に余裕のある会社を選んだというそのはじまりからオチ以外にもある意味でメタSF私小説になってるという一作。

しかしどんでんを返すやつ、あの人の作品あんまり面白いと思ったことがない。出オチというか。『野﨑まど劇場』読んだ時と似た感じの印象を抱いた。最後にSF概況を読んで、日本SFの長篇この頃のあんまり読んでないなとかあれもこれもまだ読んでないなと言うことを確認した……

津原泰水『11 eleven』

表題通り十一篇を収めた短篇集、SFや幻想小説、ホラーその他多彩な側面がうかがえるショーケースでもあるけれど、なかでも広島や一族の歴史に取材した「五色の舟」「土の枕」の二篇が圧巻だった。「土の枕」は読み終わったときにこれが二〇頁に満たない短篇なのかと目を疑った。

「五色の舟」の原爆と平行宇宙を用いたフリークスへの愛惜はやはり非常に心に残るものだけれど、テレパスを主観視点に置くゆえに発話が()の丸括弧で示されてるのを読んでいたところに、テレパスの念話が「」カギ括弧で括られてるのが初めて出てくるところは鮮烈に読む者の認識を覆してくれる。

「延長コード」はSF作品集にもなぜか採録された一作で、家出した娘が入り浸っていた夫婦の家に残していた電源の延長コードを遺品として渡されるという謎めいていながら何か非常に切実なものを感じさせる不思議な作品。なんとなく解釈すれば、家のどこにいても電源を取ることができる延長コードによって玄関口でもドライヤーを付けて歩いていた娘の延長コードとはその家出にも繋がっていて、死後にはその延長コードによって娘の足跡をたどる父たちの行動に変換され、しかし、たどりつけない断絶にもなる。

短く切り詰められた切れ味鋭い短篇集という感じで、そして不気味。「追ってくる少年」も簡潔で良いけど元々は朗読用に書かれたという「琥珀みがき」がオチも含めて良い。

津原泰水『たまさか人形堂ものがたり』

祖母の人形店を受け継いだ女性が人形好きの青年と経歴不詳の人形職人との三人で人形修理を請け負うことにして再開した店を舞台にしたミステリタッチの短篇集。テディベアから人形浄瑠璃、そしてラブドールまで多彩な人形をめぐる人間模様を描く。

再読になるけどさらっと読めて面白いんだけどなんかあまり書くことがないな。『11』にも人形を表紙にあしらう作者がラブドールの製作者などに改めて取材をした上で書かれており、ラブドールにも真摯な視線を向けて描いているしその製作者が主要な人物になるあたりも面白い。最初の一篇の「毀す理由」がやっぱり面白い。シリーズ第一弾は人形職人師村の過去が明かされてからの幸福な夢が訪れるラストは良い。幻想的な「最終公演」は寝落ちしつつ読んでたので本当に夢だかなんだか分からなくなったのが印象に残っている。

津原泰水『たまさか人形堂それから』

シリーズ第二弾でこれは短篇連作の書き方がかなり変わったのもあってぐっと面白くなった印象。各篇のサブプロットが絡んで緩やかな長篇になるようになったのと一篇のページ数が増えたためか、より充実した読後感があった。

特に髪の毛が伸びる人形の謎を追い求めた先に「無限」が引き出される第二篇は印象的だった。人形の価値を決めるのは持ち主という視点がよく出た「醜い人形すなわち恥ずかしい人形ではない」という第五篇は「ものがたり」第一話の「毀す理由」と表裏一体という印象がある。第二弾は冨永篇でもあって、どうこれにオチを付けるんだと思ったら一時不在は第三弾で帰還篇が書かれる想定だと思うんだけど作者逝去によってどちらにしろ望めなくなったのが改めて惜しまれる。創元推理文庫から再刊されたのはこの版元でシリーズを再開するためだったんじゃないか。

この解説で津原作品には「文学史に題材をとったポストモダン小説」があるとあって、はてそんなのあったかなと思ったけど『瑠璃玉の耳輪』がそうなのかな。尾崎翠読んでからと思ってスルーしてた。

津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』

幻冬舎との曰く付きの本作、多くの引きこもりを担当する怪しげなカウンセラーが名高いハッカーとひきこもりを繋げて胡散臭いプロジェクトを起こして世間を騒がせるというジュヴナイルの香りのある爽やかなエンタメ小説で良かった。

いじめだったり外人顔で英語が喋れないことで外国人・語嫌悪症になってしまっただとかさまざまな事情で引きこもっている者たちを、「不気味の谷を越える」人間を創るという目標を掲げていわばバーチャルアイドルを作ろうとするのが最初の目的としてある。ひきこもりもネットを通じて参画できるという形でそれぞれに孤立した才人を見出した怪しげなカウンセラー竺原の目的は謎めいていながらその過程でそれぞれのひきこもりたちが人との繋がりを少しずつ獲得していく。はぐれ者たちの抵抗と祝祭、「巨大な文化祭」と呼ばれる騒ぎが本当にジュブナイル的。

引きこもり観は少々古い気がするし、皆何らかの才能を持っているわけだし、計画が成功を収める過程は説得力が薄いと思うけれど、フィクションが世間を騒がせ引きこもりたちの居場所を作る、そういう創造への願いが込められているところが本旨だろうと思う。

フィクション・虚構・創作・芸術が人にとって救いとなること、それを通じて孤独な人達が繋がりあえること、世間を騒がせる悪童としての愉しみ、そうしたもろもろの祈りにも似たものがかなり直接現れていてそこに打たれる。「夢を売るって、楽しいね」316Pというセリフがある通りの。

とはいえ、プロジェクトの影響で塩酸をかけられたアイドルや、たぶん貞子を想定した有名小説の人物と名前が同じ人物が「人を苦しめる物語でお金を稼ぐなんて」と言ってたらハリウッドで映画化と聞いて「あの作家、殺したい」200Pと吐き捨てる場面など、フィクションの罪の部分を書き込んでもいる。

「人は誰でも他人を苦しめ、不幸にする、たとえその気がなくともね。誰かの役に立たねばならない、周囲を幸福にせねばならないなんてさ、考えないことだ。もしそんなことが実現できていると感じたなら、それは思い上がりってもんだ」277P

「云わせてもらうけど丈吉、人間はみんな特別なんよ。うちも特別なんじゃけえ」375P

自分を直視しなくては、と芹香は痛感した。ほかの人生は無いのだ。
 ほかの人生は無いのだ! 384P。

前述した粗もあるんだけれど会話主体でテンポ良く進む良いエンタメ小説だと思うし、竺原の韜晦も含めて、やっぱり小説全体が創作の寓話になってる印象だ。サイモン&ガーファンクルから始まったと思ったらビートルズへ行き着くのは単行本がリボルバーのジャケット描いた人の絵だったからか。

与太話だけど芹香に同性愛者と思われてる友人から水族館に誘われるエピソードがあったのは、百合作品には水族館デートがあるというネタがこんなところにまで、と笑ってしまった。

図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載

図書新聞10月8日号にて、住谷春也『ルーマニアルーマニア』(松籟社)の書評が載っています。エリアーデをはじめルーマニア文学翻訳の第一人者として知られる著者の訳者解説や評論、翻訳者となった来歴を語った文章などを集成した貴重な一冊です。書評本文にも援用した『「その他の外国文学」の翻訳者』という本がありますけれども、その拡大版という趣もあって、日本のルーマニア文学翻訳の重要な一断面だろうと思います。こういう本が出るというのもかなり貴重だと思いますし、〈東欧の想像力〉叢書のスピンオフとも言えます。

全体の半分を占める分量でエリアーデについての論考がまとめられているのも貴重ですけれど、東大仏文出身で辻邦生とのかかわりがあったり東欧革命のさなかに現地にいた著者自身のエッセイも面白いです。

以下書評に使ったり使わなかったりした本。

白水社編集部『「その他の外国文学」の翻訳者』

ヘブライ語チベット語ベンガル語、マヤ語、ノルウェー語、バスク語タイ語ポルトガル語チェコ語の翻訳文学としてはマイナーな言語九人の翻訳者それぞれにどうしてその語を選び翻訳者になったかその翻訳の仕方などを取材したもの。

学ぶ言語を選ぶ理由はそれぞれだけど、他の人が選ばないもの、まだ訳されてないものを読みたいといったマイナー指向の持ち主が多く、辞書や文法書など語学学習の重要な教材すら手ずから作ったりといったバイタリティもあって、そうした訳者の個性を導き手にしたブックガイドにもなっている。

私がこのなかで読んだことがあるのはチェコ語阿部賢一の訳書くらいで、訳者解説などで文章に触れていてもここに語られた訳者の背景は知らなかったし、チェコ語以外にフランス語で論文を書いていて、三言語での立体的な見方を試みていることは知らなかった。そしてチェコではチェコ語学習者に暖かく、現地ではどうしてチェコ語がそんなに上手なのかと人に驚かれることが毎週のようにあったらしいけれど、フランスにいた二年間では一度もなかったというから面白い。各言語の話者がマイナーメジャーをどう自認してるかが窺われる。

マイナーどころかスペインのバスク語などある時期禁止された言語もあり、翻訳されることでその言語の存在や価値が知られる機会になればとバスク語訳者金子奈美は言う。だから、バスク語作家が自らスペイン語版を出していても、直接バスク語から訳してきたという。この言葉は自分が初めてバスク語から日本語に訳しているのかも知れないと思うこともあるらしい。対して同じスペイン語と親和的なマヤ語の作家は自作のスペイン語を自ら出していることが多く、吉田栄人はスペイン語から訳して後から突き合わせるという方針の違いもある。翻訳は言語を置き換えるだけではなく、音・喋りを踏まえることで初めてわかることや、人の考え方、文化、歴史、その他の背景もあってのもので、文章からだけでは難しいということがしばしば語られている。

口に出すことで翻訳にも反映される経験を語るのは一人ではなく、現地に行ってみたりさまざまな体験を通して、翻訳される文章のそう書かれる必然性が見えてくる。読めない言語とそこから広がる世界を私たちに見せてくれる翻訳という営為の、普段は影に隠れた見えなかったものを見せてくれる。

翻訳者たちの異言語体験記でもあり、その飛び込んだ先から翻訳という形で私たちに成果を持ち帰ってきた。訳者たちが開いた異なるけれどしかし同じ人間の描いた文芸の世界への九つの窓がここにあり、その景色を見せてくれるように整えたその窓枠の形も込みで読める一冊になっている。

『「その他の外国文学」の翻訳者』、表紙を見ると『その他の外国文学』なんだけど、白水社のサイトや奥付では「その他の外国文学」になっててAmazonも同様だけど、hontoだと『その他の外国文学』とカギ括弧か二重カギ括弧かが統一されてない。

ミルチャ・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』

エリアーデの初期幻想小説二篇を収める中篇集。双方ヨガ、タントラを題材にしながら、こことは別の時間、別の世界の様相が垣間見える瞬間を描く幻想小説で、特に表題作での「時間からの脱出」は発想としてはほぼSFではないだろうか。

「ホーニヒベルガー博士の秘密」は実在したホーニヒベルガー博士という人物の事跡を追っていたゼルレンディ博士という人の妻とふと知り合い、ゼルレンディ博士の残した未完のホーニヒベルガー博士の伝記を完成させて欲しいと依頼され、家に通って博士の残した資料の調査を始める。タイトルのホーニヒベルガー博士より、基本的にはその後明らかになるゼルレンディ博士が突如消えた謎を追うのがメインだ。そして博士たちが渉猟した東洋文化、オカルティズム、神秘主義なんかの話が出て来て、さらに博士の手記が発見されその解読を続けるうちにその真実に突き当たる。序盤、「われわれの生活のなかにも神秘は生き生きと働いている」17Pという一節があり、これはエリアーデ自身の「聖と俗」にまつわるテーゼでもあるらしく、本作もそういう感じの展開になる。ゼルレンディ博士の顛末もSF的で、語り手の顛末もSFっぽい。

「セランポーレの夜」、ブカレストが舞台の表題作に対し、こちらはインドの地方が舞台。学者や資産家たちとの忘れられない付き合いを回想しながら、ある夜、迷うはずのない道から不可思議な場所に迷い込んだ経験は何だったのか、という謎を残す幻想小説。こちらはタイムスリップネタといえる。建物近辺には三人で迷い込んだような植生の場所はなく、そしてたいていの人は喋れる英語もそこで出会った人は理解できない様子で、そこで聞いた人名からはどうやら100年以上前のある事件に際会したのではないか、という論理的推理を行なっていくのだけれど、そうした近代的理性は最後に覆される。ヒマラヤの修道院で出会ったタントラの修行者にその旨を話すと、この世の全ては幻影で人は何一つ実在物を生み出すことはできず仮象のたわむれを作るのみだ、という理論によって理性的推測、言うなればSF的発想は退けられてしまう。そこで幻想小説としか言いようのないものになる感じ。

ローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル』

異なる言語から翻訳するという行為において、時にさまざまな編集、歪曲が行なわれる事例をたどりつつ、メジャー文化への同化圧力に対してマイナーな異物としての異化的翻訳の重要性を説く翻訳研究の古典と言われる一冊。

翻訳が時にマジョリティ文化のステレオタイプの維持に貢献してしまうなどのメジャー/マイナーの権力の問題など政治性についての議論がベースにあって、ドゥルーズ=ガタリの「マイナー文学」が援用されるなど、なるほど九〇年代の本だけあって現代思想的雰囲気が随所に感じられる。

著者がイタリア語から英語に訳した翻訳を題材にした章や、「ビリティスの歌」というギリシャ語からの翻訳という体裁で出された創作を扱った章、翻訳がその言語の配列において原文とは異なる著作権を持つことを論じる章、英米の出版社が翻訳をほとんどせず多くは訳される側に立つ非対称性の章などなど。

アメリカにおける日本文学の翻訳が川端谷崎三島といった日本へのオリエンタリズムに偏っていることを論じながら、英語にとっては異化的な翻訳となった吉本ばななの『キッチン』に触れた章も面白い。futonなどの語彙を交ぜ、「アメリカナイズされた日本」を翻訳において実現する興味深い事例だ。

1994年のアメリカでは書籍の総出版点数における翻訳は3パーセント弱という低さで、解説での補足によれば翻訳大国と呼ばれた日本も2004年の7.7パーセントが2019年には5.7パーセントへと急減している。

多国籍企業が組み込む翻訳は、根本的にヨーロッパの植民地主義と同じように機能するものである」333P。

といったポストコロニアリズム的な問題意識もあり、帯にある通り翻訳において「世界の文化、政治、経済を覆う不平等」が現れる場面を抉りだし、それを「スキャンダル」として露わにする。

直野敦、住谷春也共訳編『ルーマニアの民話』

住谷春也の最初の訳書なのかな。恒文社の東欧民話シリーズの一冊で、美童子ものの色々なヴァリエーションを読んでると道中で誰かを助けて後のボス戦でみんなが集まってくる展開、構造が露骨かどうかの違いくらいで今も物語ってそうだよなと思える。民話を読んでると物語の原型、構造を意識することになってそれがなかなか楽しい。童話の採取者というか記録者のなかにルーマニアの詩聖といわれるミハイ・エミネスクのものもあって、この人の翻訳って珍しい。

「馬鹿のグーラ・カスカの物語」という一篇が前近代の発達障碍者か何かの話に思えてなかなかつらい気持ちになる。悪意がないけど、要領が悪くてミスをしてキレられるし、寝過ごしてやることが一杯になった時一度に片付けようとしたら全部ダメになって固まってしまう。「哀れな馬鹿を、目から火花が飛ぶほど、みんなでひどくなぐりつけた」ってラスト。馬鹿を殴ってすかっとするようにもその悲哀を語っているようにもとれるけど、笑話として並んでる。

2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます

honto.jp
別記事でも書きましたけれども、先年一部を雑誌連載した後藤明生論が『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』として刊行されます。九月末に入手できるのではないかとのことです。

本書は2017年から未來社のPR誌、季刊「未来」に六回連載した「『挾み撃ち』の夢――後藤明生の引揚げ(エグザイル)」を第一部とした、全三部構成の評論です。「未来」でのタイトルは主題が第一部のタイトルで副題が全体のタイトルになっていて、これまでは「後藤明生の引揚げ(エグザイル)」として言及していたと思いますけれど、第一部タイトルを生かしつつ諸々協議の上、『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』と改題しました。

内容は表題の通り、詳細は下記の目次をご覧頂ければと思います。後藤明生の作品を植民地朝鮮からの引揚者という視点を重視しながらおおよそ通時的に追っていくものとなっています。後藤明生といえば蓮實重彦による『挾み撃ち』評価や、渡部直己芳川泰久らによる初期短篇の分析が批評としては存在感があり、『挾み撃ち』『夢かたり』、引揚げ三部作などについてのポストコロニアルの観点からの研究も朴裕河西成彦らのものや論文等も書かれていますけれど、後藤の作家活動全体を概観したものは今までありませんでした。

もちろん『挾み撃ち』や引揚げ三部作なども重要ですけれど、「異邦人」などの初期の短篇や『使者連作』、『スケープゴート』といったほとんど言及されることのない作品も朝鮮・引揚げという文脈からは重要ではないかということなどを論じています。大阪に朝鮮を見出す『しんとく問答』も然り。

文学評論に必要な素養や、そもそも後藤が言及している作品をきっちり読んでいるかと言われればまだ全然というところの私が後藤明生論を書くのに相応しいかと言われれば我ながら疑問に思うところもあるのですけれども、誰も一冊通して書いていなかったのだからしょうがない。何か忘れていないか、この論じ方で良かったのかはつねに考えることですけれど、私なりにひとまず一本線を引いたので、これからの後藤論のとっかかり、叩き台になってくれれば良いと思います。

本書の原型は「未来」連載以前に、岡和田晃さんと未來社編集さんとで執筆が始められ、私が書いた原稿を三人で集まって意見や感想を述べ、ここはもうちょっと書いた方が良いとかこれならこの文献があるなどの助言を元にリライトして、という過程を経て書き上げられたものです。この三人での会合で2017年には終章まで書き終えられていたのが、紆余曲折あって現在のかたちになりました。このお二方がなければ本書は書かれませんでした。

以下、細かい目次を載せておきます。

目次

序章 私という喜劇――後藤明生の「小説」

第一部 『挾み撃ち』の夢――〈初期〉
 第一章 「異邦人」の帰還――初期短篇1
  日本ポストコロニアル文学の裏面
  「赤と黒の記憶」の喪失感
  「異邦人」とは誰か
  「関係」の多重化される〝関係〟
  「無名中尉の息子」の恐怖
 第二章 ガリバーの「格闘」――初期短篇2
  「わたし」への遡行――「笑い地獄」
  記憶喪失の現在――七〇年連作1
  健忘症者の戦い――七〇年連作2
  漂着と土着――七〇年連作3
  「挾み撃ちにされた現代人」
 第三章 「引揚者」の戦後――『挾み撃ち』の夢1
  上京の「夢」
  「土着」からの拒絶
  「挾み撃ち」の戦後
 第四章 「夢」の話法――『挾み撃ち』の夢2
  「とつぜん」と「当然」のあいだ
  夢の話法
  「わたしの『外套』」
  『挾み撃ち』のその後

第二部 失われた朝鮮の父――〈中期〉
 第五章 故郷喪失者たちの再会――『思い川』その他と「厄介な問題」について
  忘れられた朝鮮語――「虎島」ほか
  父を訪ねる旅――『思い川』
  故郷喪失者たちの位置――後藤明生、李浩哲、李恢
  「厄介な問題」と「わたしの記憶」
 第六章 引揚者の傷痕――引揚げ三部作1『夢かたり』
  「不思議な別世界」――日本人と朝鮮人の境界
  民族共存の(悪)夢―― 映画作家日夏英太郎
  引揚者たちの戦後――植民地主義の傷痕
  二色刷りの絵
 第七章 それぞれの家/郷――引揚げ三部作2および『使者連作』
  今と過去の家/郷――『行き帰り』
  「居心地の悪い場所」――『噓のような日常』
  死者たちの追悼――『使者連作』
 第八章 「わたし」から「小説」へ――一九七九年・朝倉連作と『吉野大夫』
  亡父という呪縛――朝倉連作
  「小説」の「小説」――『吉野大夫』
  「小説」への問い――方法としての「異説」

第三部 混血=分裂の近代日本――〈後期〉
 第九章 分裂する日本近代と「転向」――『壁の中』
  『挾み撃ち』を書き直す
  「ゼンキョートー」と『悪霊』――ロシアの百年後の日本
  「舶来のマドンナ」――キリスト、マルクス、近代日本の「転向」
 第十章 メタテクストの方法――八〇年代1
  汝、隣人ソクラテス――『汝の隣人』1
  言葉と愛――『汝の隣人』2
  「ふるさとを取り上げられる」――津軽連作『スケープゴート
  手紙というメタテクスト――『謎の手紙をめぐる数通の手紙』
  「超ジャンル」としての小説
 第十一章 戦・死・墓――後藤明生の〝戦争文学〟・八〇年代2
  模倣という戦い――『蜂アカデミーへの報告』
  不参戦者の〝戦争〟――『首塚の上のアドバルーン
  失語の危機との闘い――『メメント・モリ――私の食道手術体験』
 第十二章 日本(文学)を分裂させる――九〇年代
  文芸学部という場――教師としての後藤明生
  志賀直哉天皇共産主義――『この人を見よ』
  混血=分裂=増殖のメカニズム――『しんとく問答』
  「模倣」という方法――『日本近代文学との戦い』
  異邦人の見た日本

終章 自由と呪縛――引揚者という方法

引用・参照文献
後藤明生略年譜
あとがき
索引

詳細な年譜は講談社文芸文庫や『日本近代文学との戦い』などでの乾口達司氏によるものがあり、『後藤明生コレクション』にもそれらを元にした年譜が載っていますので、本書では本文を読むのにガイドとなるよう既存の年譜を縮約した略年譜をつけました。

また、索引は人名索引、事項索引、題名索引と三種あり、私の要望で人名索引をできるだけ充実させました。「針目城」のなかで出てくる歴史的人名などはともかくとして、訳書の訳者も全てとはいかなかったのですけれど、できるだけ。事項と題名は編集の方からの草案にいくらか私で追加したくらいです。網羅的なものではありませんけれども、なかなか面白いのではないかと思います。

後藤明生『挾み撃ち』オリエンテーリング参加の記

はじめに

www.kawariniyomuhito.com
もう二週間以上前になる2022年8月6日土曜日に行なわれた、代わりに読む人主催の後藤明生『挾み撃ち』オリエンテーリング企画に参加した。

参加者もそうでない人もハッシュタグ付きでリアルタイムにツイッター投稿していて、当日の模様はそちらで見られる。せっかくなので、ツイッターでは投稿してなかった写真も含めてブログでも私の視点から色々書いておきたい。
#後藤明生オリエンテーリング - Twitter Search / Twitter
チェックポイントとルートは『挾み撃ち』で主人公の通ったルートから往復行程などを省略したもの。松原団地からはじまり、蕨、上野、亀戸を経由して御茶ノ水がゴールだ。しかもスタートとゴール以外は各人個別行動推奨だった。

ただし、正しい意味でのオリエンテーリングではありません。なにしろ、速さは競いません。速さより遅さです。すべてのチェックポイントを回りきらなくても構いません。訪ねた街で、あるいは横道にそれてよその街にも足を伸ばしてください。気楽に、しかし、時に現実と作品との距離、現在と過去との距離を確かめながら、偶然飛び込んでくるものを見つけてください。

趣旨は引用の通り、後藤作品になぞらえたものになっている。

まあそうは言っても誰かについていけば良いだろうくらいに思っていたのだけれど、結局単独行動することになった。私は今年ようやく携帯をスマホに変えたのだけれど、これがなかったらかなり厳しかったと思う。多くの土地が訪れたことのない場所で、乗り換えや目的地がどこかなどに始終スマホを活用した。

撮った写真をツイッターに投稿し、ハッシュタグで各参加者の動向を見ながら、ここはさっき誰かしらが通った場所だと後追いしたり、すれ違いをしたり、一人だからこそ適当に歩いていくこともできる自由というか適当というか、なんとなしの探検の雰囲気があった。

各人個別の行動がSNSでの連携による緩やかな繋がりによって成立する、これは個々の読書とその連携としての読書会を思わせるイベントだった気がする。街のなかで何に注目するかが人によっても違うわけで。

草加松原団地

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最初の目的地は元「松原団地駅」、現在「獨協大学前駅」。草加での乗り換えにミスって10分遅れたらまだ時間内だったけれど私が最後だったようで、友田とんさんが待っていた場所には既にほかに誰もいなかった。わかしょ文庫さんが配っていた塩タブレットをもらって、まずは友田さんと松原団地を歩いた。

駅前のURコンフォール松原は団地を高層化して棟数を減らし、空間を広く取る設計になっていて、見ての通りかなり開放感がある。そしてこの曇り空は助かった。気温が30℃程度に抑えられ、この酷暑のなかでもまだマシな天気だった。



この藤幼稚園は後藤明生長女松崎元子さんが通っていたところだそう。「草加藤幼稚園」という表記を見て最初「加藤幼稚園」かと思った。ほかに団地周辺ではいくつもの幼稚園や小学校、保育園に出くわし、なるほど子供が多い場所だ。昔隣に郵便局があったりしたけれど、藤幼稚園のまわりはいまは団地の外縁で、更地になって道路だけが整備されていた。下の写真は幼稚園の裏手にあたる。



まだ新しい道を進む。

すると団地とその外の境界になっている草加バイパスに出る。

ここに見える歩道橋は後藤明生の小説で言及されたり、写真に映ったりしたもの。当時はフェンスで覆いがされていた模様。 この写真は「創」1975年2月号より、佐伯剛正撮影。

往時のこの道を逆から見たのが下のグーグルマップのリンク。草っ原の写真と見比べてみると面白い。ストリートビューで撮影日時をずらすと団地の建物がどうなったかがわかる。
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URの隣にはソライエシティという別企業のマンションが建っていたり建設中だったりするんだけれど、URのものが上に載せたように空間が広いのに対して、別企業のものは建物と駐車場だけで構成されていて、設計思想が如実に違う。

壊れた時計。演出がわざとらしいぞって思った。何かしらの電子部品が散らばってもいた。

団地の境界には味わい深い商店の並びがあった。小学校脇にリサイクルおもちゃと薬局が一体の商店。

これは駅に近い公園にある謎の遊具。

駅前の地図。駅からほぼ真っ直ぐ下に降りていって公園を左横にそれて下へ行き、草加バイパスに突き当たってから引き返した。獨協大学の方には行っていない。
駅前のハーモネスタワー。指写っちゃってる。

このタワーの隣には草加市立中央図書館があり、そこに後藤明生コーナーがあるという話を後で知った。

スマホカメラの使い方に慣れておらず、縦固定の設定を戻すのに難儀したりしてた。

『挾み撃ち』当時の団地はすでに更地になるか建て替わっており、かなり雰囲気が変わっているけれど、なるほどこういうところだったのか、と実地に歩いてみてなんとなく雰囲気を感じとることはできた気がする。ここで友田さんと別れ、さてどうしようか、と思って別の参加者の方が近くにいたので合流しようとしたのがうまくいかず、結局一人で蕨に行くことに。

獨協大学前駅から隣の新田駅に行く途中で「草加明生苑」という建物が目に入り、何だと?と思って帰ってから調べたら老人ホームだった。
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核兵器廃絶のメッセージを広島原爆の日に眺める。

その日は機(はた)まつりという織り姫と彦星にまつわるお祭りがやっていた。偶然行き会ったお祭りだ。しかもよく見ると「さよなら私のクラマー」という去年やっていた女子サッカーアニメの舞台だったらしく、市の後援があるのか幾つもの幟が立っており、商店には色あせたポスターも貼られていた(写真を撮らなかったのが痛恨)。このアニメは見ていたので、おお、お前か!そういやワラビーズだったわ、と不意の再会をした気分だ。



とりあえず駅前通りをずっと歩いていったんだけど、旧中山道に突き当たるまで続くこの商店街がとにかく長かった。しかも一キロにわたる商店街にずっと屋台が並んでいて、歩いても歩いても屋台が終わらないエンドレスフェスティバル、これは凄かった。20分は歩いたけれどそのあいだで屋台のバリエーションが三周くらいはした気がする。スパイファミリーのグッズ売ってる屋台が三つはあった。


中山道に突き当たったあと祭の終端の警備の人に道を聞いて、小説にも出てくる蕨郵便局へ。この時点では乗り換え以外でまだグーグルマップを使うことに気づいてない。何故か郵便局の写真を撮る不審者の私。下のは駅前の郵便局。ただ、『挾み撃ち』に出てくる郵便局は中山道に突き当たったあと右に曲がったところにあり、その先に中村質店があるという記述になっている。今の蕨郵便局は中山道を左に折れた先にある。建物だけではなく立地も当時とは違う。


先行する参加者の方が写真を上げていたのを見て自分も、と蕨市立歴史民俗資料館を訪れた。入館無料。

新しめの展示にはカメラマークがあって撮影可なんだと思って館内のを色々撮ったけど、もしかしてそれ以外は禁止だったのかも知れない。戦争関連の展示があって、色んな代用品とか千人針の実物とかもあった。ここを出た後に友田さんがここに入館していったのを見つけ、『挾み撃ち』の語り手がせんべいを買ったところではないかと思われる店を見に行って戻ってきたらちょうど出てきたところに行き会った。手を振って私は別の道へ。


友田さんはきっちり店の人に話を聞いていた。私は警備の人以外誰とも喋ってない。

せんべい屋から戻る道で呉服屋とネクタイ屋が向い合う場所があった。中山道沿いゆえだろうか。たぶんこのあたりに質店もあったんじゃないか。

『挾み撃ち』では駅前通りから右に折れるとたどりつく蕨神社こと和楽備神社。私は中山道から引き返しながらだったので、左手に見つけて進む。


ここを通り抜けた先に下宿があったらしいけれどもどぶ川も見えず、下宿の場所は判然としない。

屋台のなかを引き返しながら何か買って食べるのも良いかなと思ったけど、ゴミの処理とか面倒だなと思ってたらそのまま駅前についてしまった。駅前には松屋、マイカリー食堂、松のや、と同系列チェーンが三つ並んでて何なんだと思った。松屋で牛丼食べて昼にした。通りすがったところに無人馬肉販売所というよくわからない店があり、看板から色々怪しい店のようにしか見えなかった。



これはただの良い感じの路地。この向かい側に古書店の看板があり近くへ来たら休業だった。

蕨は古い宿場町なのもあって歴史資料館もあり、街並が自分の住んでるところとはやはり違うなあという感触がある。

草加のハーモネスタワーに似てるなと思って撮った高層マンション。似てる、か?

『挾み撃ち』と蕨と言えば一つ面白い記事があって、それがこの潮地悦三郎「蕨市を舞台とした長編小説・後藤明生著『挾み撃ち』について」という文章。前読書会にも持参したやつ。

蕨市立図書館の職員の人が書いたもので、蕨郷土史研究会から出ている「ふるさとわらび」第五号(1975年6月15日)に載っている。面白いのは、作中で石田家とあるのはこの著者の教員時代の教え子「I君」の家だと書かれていること。石田家の門の前に停まっている黒い車という『挾み撃ち』の描写について、著者は「日本一流の大会社の管理職になっているI君が、上司にゆずり受けた外車のように大きな黒い車で、一昨年、同窓会が終った夜、I君は筆者をその車で自宅まで送ってくれたのだった」(91頁)とコメントをしている。ただこの記事、誌面に紹介するためか蕨の描写を小説から長々と引用していてしかも引用と本文との区分もできてなくて読みづらい。引用しながら住民の見地からのコメントが時々あってそこは興味深くもある。なお、著者は台湾からの引揚者だそうだ。あと、『挾み撃ち』自体ははあまりお気に召さなかった模様。この記事、どこで存在を知ったのか覚えてないな。

上野

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アメ横ってここで良いのかな。
『挾み撃ち』では上野の銀行に勤める久家に電話し、映画館の思い出を回想する上野。『挾み撃ち』作中の記述がいまいちどこなのかわからないけれども、三件並んだピンク映画館といえばこのオークラ劇場なんだろうか。公園の地図で言えば風俗資料館の近くにある。

これを見たら特に用事がなくサクッと次の場所へ向かった。


途中よくわからんもんが見えた。どうでもいいけど、このあたりのどこかの電車内のドラマの広告で「対象的な二人」っていう誤記があったのを覚えている。

亀戸

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左の地図はちょっと範囲が狭すぎて亀戸天神や三丁目あたりが入っていない。右上の広域図はちょっと小さいか。下のいり豆店は地図にある四丁目の交差点にある。

但元いり豆本店、『挾み撃ち』読者にはお馴染み、かな? あの外套のポケットから転がり出る豆。

この店を写真に収めようとしていたところを参加者のわかしょ文庫さんとオルタナ旧市街さんに目撃されていたということをゴール地点で合流した時に聞いた。あの店を撮ってる人なんてオリエンテーリング参加者しかいないだろうと声をかけるか迷ったらしい。あとで写真を見返したら豆を買っているお二人の姿が私の撮った写真に写っていた。見ていると思ったら見られていたし実は見ていた。お二人とは御茶ノ水で初対面だったので、松原団地で顔を合せていたらここで双方気づいた可能性がある。

亀戸天神に寄っていく。「和魂漢才」、後藤明生がよく言ったのは「和魂洋才」。亀戸天神の亀も見た。


境内に「国産マッチの創始者 清水誠の頌」という石碑があった。そうなんだ。
清水誠 (実業家) - Wikipedia
石碑の前を通って行くと亀戸天神の裏手に出る。亀戸三丁目は昔花街だったといい、『挾み撃ち』にも出てくるけれども、うろついていてもそういう雰囲気は感じられなかった。住宅街と古い建てものはちょくちょくあったけれど。後々聞いてみると私が歩いたのとは一つ違う路地がそうだったらしい。知らないと分からなかっただろう。

横十間川に突き当たり、親水公園になってるところには釣り人がいた。スカイツリーを眺めて引き返した。

御茶ノ水

そしてゴール地点、御茶ノ水駅へ。すぐ近くの山の上ホテル河出書房新社文藝賞贈賞式でおなじみのところ。松崎さんによれば後藤明生もたいそう気に入っていたらしくよく使っていたという。阪神大震災の時、「しんとく問答」の原稿を持って大阪から脱出し、山の上ホテルで続きを書き上げたというのが年譜に載っている。


駅前の丸善で少し時間を潰す。白水社〈ロシア語文学のミノタウロスたち〉という新しい叢書の一冊をふと手にとって、何か馴染みのある感じだなと装幀者を見たら仁木順平。〈東欧の想像力〉叢書の担当者だったのでなるほどなとなった。

ここでこの日三本目の500mlポカリスエットを買って、一日で計三本1.5リットル飲んだんだけれど、トイレに行ったのは一度だけだった。どれだけが汗になったのか。陽差しがさほど強くないこの一日でもそうだった。

外語大へ出て行くバスはこの並びから出発していたのだろうか。

作中待ち合わせ場所になっていた喫茶タイガーはこの通りにあったのかなと思う。

個別行動でハッシュタグの繋がりだった人たちが揃い、谷保の『挾み撃ち』読書会で会った人たちも集まった。これにてオリエンテーリングの終了。

私はこれ以上帰宅を遅らせると翌日に響くのもあって打ち上げには不参加。松崎さんが持参したという『挾み撃ち』の生原稿を見ることはできなかった。まあ、それはまたいつかの機会があれば。

おわりに

小説の舞台を訪れることはほとんどしたことがなかったので、実地に歩いてみるのは貴重な経験になった。ストリートビューでどのような場所かをチェックすることはあるけれども、自分の足と目で土地を歩いてみることはそれとはやはりかなり違った経験だった。


「大人の夏休み」、まさに、という表現。汗をだらだら流しながら見知らぬ土地をスマホと小説をたよりに歩き回って、ふと面白いものに出くわしたりする探検。

参加者の方によるブログ。
tubeworm37.hatenablog.com


一日の歩数は二万五千ほど、歩数アプリを入れてから歴代一位だった。

後藤明生の近所に住んでいたこともあるという忍澤勉さんの番外レポートのツリーも参照のこと。

大阪では『しんとく問答』のワークショップが行なわれるとのこと。『しんとく問答』は私も小説を読みながらストリートビューを見てルートを確認しながら読んでいた。

そして、ツイッターでは告知してましたけど、うまく行けば来月末に私の後藤明生論が刊行される予定です。

季刊「未来」に2016年から2018年まで連載した第一部に加え、未発表の二部と三部もあわせた長篇評論です。朝鮮引揚げを軸に後藤明生の主要作品を俎上に上げて初期から後期にいたる変遷を追っています。書きはじめてからは七年近く、図書新聞の対談で刊行予告を出してからは三年が経ってしまいましたけれど、めぐりめぐって『この人を見よ』の幻戯書房からの刊行となりました。略年譜や索引もついて思った以上にしっかりした本になりそうです。よろしくお願いします。
honto.jp
genkishobo.exblog.jp

コナン・ドイルの本とコティングリー事件本

岡和田さんにドイル『妖精の到来』を恵贈されたので、ついでにと氏の編集する「ナイトランド・クォータリー」の増刊号を読み、他にドイルの積んでた小説を幾つか読んだのでまとめて記事にしておく。『失われた世界』と『妖精の到来』は去年読んで一度ブログ記事にまとめたけれど、本当は増刊号などもまとめて一つの記事にしようとしたのに時間がなかったために中途半端なものになってしまったものなので、最初の二冊は過去記事とも同一文章。

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』

南米の台地に恐竜の生き残りがいるという情報を得たチャレンジャー教授と、思い人から結婚の条件に名声を求められた新聞記者が出会い、科学者と冒険家を加えて探索に赴くSF長篇。有名すぎる作品で、こうしたサブジャンルの始祖となったという定型の力強さがある。

現地民との友情関係を加えて換骨奪胎するとドラえもんの長篇になるような感触があり、四人のパーティの個性などとともに未知の世界への冒険は今では使い古された話のようでもやはり面白い。偏屈で攻撃的なチャレンジャー教授のクセの強さはホームズとはまた違った個性だ。記者の語り手の動機から始まり、チャレンジャー教授の話が非難を受け意固地になっておりそのハードルを越えるためのやりとりや、同行者からその資質を認められるまでなど、キャラクターの描写や旅立つまでに三分の一を費やしていて、荒唐無稽な旅へきちんと手続きを踏んでる感じなのも良い。

しかし進化のミッシングリンクとしての野蛮な猿人が出てくるあたりは、ヨーロッパ白人を頂点にした種のヒエラルキーからくる時代的な描写だ。「優越種であるはずの人類」215Pとか、「人間が覇者となり、人間未満の野獣はふさわしい住まいへ追い返された」266Pとか。驚いたのは、語り手を旅立たせる動機になってる女性が英雄になった男の妻となることで羨望されたい、というトロフィーワイフならぬトロフィーハズバンドというかそういう欲望をあけすけに語ってるところで、これはヴェルヌの『地底旅行』を踏まえてずらしたものなのかな。

この創元SF文庫での新訳、チャレンジャー教授シリーズ全五作は文庫三冊に収まると思うのでほかのも新訳で出して欲しいところ。『毒ガス帯』と『霧の国』はSF文庫に古い訳があるけど。『霧の国』は心霊現象を扱ったものらしく、ドイルの妖精への傾倒とも関連して気になるところ。

アーサー・コナン・ドイル『妖精の到来』

コティングリー村の事件として知られる妖精を写した写真をめぐって、ストランドマガジンにドイルが書いた記事やそこに至る経緯、批判と反論をまとめ、ドイルの元に送られてきた妖精目撃証言や神智学から見た妖精についてなどを論じた一冊。

今では、紙に描いた絵をピンで固定して撮影したものだと明らかになっているものの、本書は1922年に書かれたもので同時代の証言として色々と面白い。写真について、「絵画的な飛び方であって、写真的な飛び方ではない」78P、というそのものずばりの指摘がある。写真自体は偽造や加工がされたものではないというのは再三書かれているけれど、それはつまり特撮というかトリック撮影だからだ。読んでいて思ったのは、霊視者とか識者みたいな人が妖精の分類やら知識を滔々と述べるところにくると途端に胡散臭くなるな、ということだった。ドイルの元に送られてきた世界各地からの妖精証言なんかはまだ微笑ましく読めるんだけれど、後半のやけに妖精に詳しい識者の話になると見てきたように話をする詐欺師という印象しか持てなくなる。

たとえ目には見えなくても、そういう存在があると考えるだけで、小川や谷は何か新しい魅力を増し、田園の散歩はもっとロマンティックな好奇心をそそるものになるであろう。妖精の存在を認めるということは、物質文明に侵され、泥の轍に深くはまりこんだ二〇世紀の精神にとって、たいへんな衝撃となると思う。54P

とドイル自身は言っている。

つまり地球上には、想像もつかない科学形態を後世に切り拓くかも知れない不可思議な隣人が存在しており、われわれが共感を示し援助の手を差しのべれば、彼らは奥深いどこからか、境界領域に現われるかも知れないのである。114P

怪奇現象の謎を解いていくミステリにしろ、南米に恐竜が生き残っている可能性を描くSFにしろ、方向性は両者で逆とはいえ、どちらも現実の隣にある不可思議なものを志向する点では似ているし、ここにある妖精への関心もやはりそれらとは別のものではないんだろうなと思える。

アーサー・コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』

ホームズ三つ目の長篇。濃霧が立ちこめ、底なし沼や荒れ野もあるダートムアという土地を背景に、バスカヴィル家の当主が急死したそばに巨大な猟犬の足跡があり、二百年前から伝わる魔犬伝説がにわかに真実味を帯びて、という怪奇ホラーの雰囲気に満ちた作品。特に人気のあるものらしくなかなか面白い。

ホームズ長篇といえば話のなかで別の物語が始まる二部構成の印象があったけれども、ロンドンとダートムアという舞台転換はあれど本書ではそこまで明快な分節はない。多忙なホームズをおいてワトスンが一人現地捜査に乗り出す状況は良い感じに心細さを煽ってくる。ホームズと再会するところでは大長篇でドラえもんが出てくるところみたいな安心感があり、なるほどヒーローの貫禄。内容を知らないときに「犬」と聞いて子犬みたいなものを想像したけれど、原題はハウンドとあるように猟犬、あるいは魔犬というほうが内容には見合っている。

繰り返し映画化されたというのは二部構成でないストレートな進行だからというのもありそう。しかし光文社文庫版訳者解説ではロビンソン代作説もあることを示唆しながら慎重な触れ方をしているけど、島田荘司のエッセイでは代作説を完全に前提にしていてなかなかの温度差がある。

アーサー・コナン・ドイルシャーロック・ホームズ最後の挨拶』

1908年から1913年に発表されたホームズ隠退前の事件と、1914年8月の第一次世界大戦開戦の渦中60歳前後になったコンビがイギリスのために活躍する1917年作とを収める第四短篇集。

「瀕死の探偵」はほんとホームズらしくて笑える。「瀕死の探偵」もそうだけど、「ぼくが犯罪者でないというのは、この町の人たちには幸いだな」とか、危険薬物を自分たちで人体実験するバカみたいな場面のあと「ぼくらは、毒なんか使うまでもなく狂ってたのかもしれないな」とかなかなか面白い。

グロテスクさから恐怖はほんの一歩だという「ウィステリア荘」や、恐怖に歪んだ死に様と未知の死因が不安を煽る「悪魔の足」などのホラー系統のものや、死体の発見場所のトリックなど推理小説らしい展開「ブルース・パーティントン型設計書」なんかも印象的。

さっと読んで面白いけどあんまり書くこと浮かばないな。でもこのレトロな時代背景とキャラクターの強さでもっとずっと読んでいたいと思える作品で、未読はあと『恐怖の谷』と『事件簿』だけか。

『ナイトランドクォータリー増刊 妖精が現れる!』

同社のドイル『妖精の到来』や青弓社の『コティングリー妖精事件』と連動した企画で、コティングリー事件や妖精にまつわる様々な記事や複数の現地訪問記のほか、妖精テーマの小説作品が和洋どれも面白くて読み応えがある。

『妖精の到来』は既読だけど最近の新事実を踏まえた論考があるらしい青弓社本は読んでないので、井村君江の所持しているエドワード・ガードナーの鞄から発見された文書がどういうものなのかは分からないけれど、本誌には青弓社本から漏れたガードナー自身の文章が訳載されている。30頁超の長文のガードナーの原稿はドイル本の別視点という感じで事実関係を述べたところはなるほどなとは思うけれど、やはり途中から神智学、心霊主義の正当化のロジックが強くなってくるな、というドイル本と似た味わいがある。写真を広めた当事者の貴重な証言ではある。

そのほかに面白いのは、2018年にコティングリーを訪れた旅行の参加者ら五人ほどがそれぞれに現地訪問記を執筆していることで、建物裏手の小川(ベック)を写した、画角は違えどほぼ同じ写真が複数枚載っていて、同じ事態をそれぞれ別の視点から語っているのが読めること。コティングリーやリーズ大学のコレクションなど、複数視点の叙述で見てるものの違いなどより立体的にわかることというのはあるにしろ、妖精という現象は見えるか見えないかという視点の差異による違いが大きな特徴でもあるわけで、この複数筆者というのが妖精テーマの一環にもなっていると思う。

創作では、タニス・リー「エルフの眷属」は人間の子供を攫う妖精と母子家庭の姉弟の物語で、あちらの世界と取り引きをすることで富を得る代わりに、という異界との関係が描かれる。苦しい境遇のなかにあって妖精物語が求められる理由を描いたような物語にも思える短篇。

パトリシア・A・マキリップ「ウンディーネ」は、扉に載った『ヒュラスとニンフたち』という妖しい絵に着想を得たものらしく、人間・定命者をかどわかして水に引きずり込むニンフが逆に現代の地上に招かれ汚染された川の保護運動に駆り出される皮肉でユーモラスな現代妖精譚。

フーゴ・ハル「鈍色の研究」は、ホームズがドイルの妖精本を批判的に検証するという大変愉快なパスティーシュメタフィクションになっているだけでなく、得体の知れない著者の出くわしたオレオレ詐欺が虚構と事実というテーマにも絡み、何が事実かという現代的な問いにも繋げている一作。ホームズ自身は以下のように言っているのを読んだばかりなのでことに面白かったしこういう企画もの雑誌の場を生かした快作だなあと思った。

「まず初めに、人間の世界に悪魔だか何だかが手出しをするなんてことを、ぼくら二人とも認めるわけにはいかない。そんな考えはきっぱり頭から追い出すこと、それをはっきりさせるところからスタートしようじゃないか」、ドイル「悪魔の足」、光文社文庫シャーロック・ホームズ最後の挨拶』146P

ジェフリー・フォード「イーリン・オク一代記」、浜辺に作られた砂の城に居を構え、崩れるまでのあいだだけ生きる妖精の短い生涯を描いたもので、淡々としながらもそこに確かに十全に生きた人生を感じられる、小さいものに大きな存在感を見出す視点がことに印象的な一篇。ラファティの「スロー・チューズデイ・ナイト」をなんか思い出す。新訳とのことだけど既訳は未読。

石神茉莉「左眼で見えた世界」、取り替え子ものテーマで、左目と弟を妖精に奪われた少女がかわりに弟のフリをしたおじいさん妖精と妖精を見る目を手に入れる。妖精事件を踏まえてカメラが出てきたりしつつ、少女の一人称で異界に半歩足を踏み入れ帰ってくる経験を描いている。

高原英理「縞模様の時間」、〈精霊語彙集〉という連作に属するけれど私はこれが初遭遇。ポストモダン思想華やかなりし頃の学者と関係があった語り手が、詩を一つも文字に残さず死んだ詩人の録音を求めて寺に向かう、という話で妖精は出てこないけれども現実と縞模様を形作る異界を垣間見る話。妖精にまつわる記録や異界という西洋的なテーマを妖精を用いず、仏寺を絡めて東洋的な解釈を通して描くようなアプローチになっていて、それは件の学者がポストモダン思想の輸入と紹介を行なう哲学者だったことにも示されている。同作者の芸術家小説で『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』と通じるのは、八〇年代の裏面史の要素で、ポストモダン・オカルティズムとでもいうような雰囲気がある。ちょっと三輪太郎『あなたの正しさと、ぼくのセツナさ』や倉数茂『名もなき王国』あたりを思い出したけど時代がやや違うか。

マンリー・ウェイド・ウェルマン「取り替え子」、アメリカの作家による文字通りの取り替え子、チェンジリングものの短篇で、死人が続出している小さな町で疑惑の家族のなかに花を贈る子供がいるけれど、死者の傍らにはつねにその花があった、という怪奇よりの解釈という印象。

妖精テーマの文学のガイドやコティングリー事件にまつわる小説の紹介、コティングリー本の立役者による背景事情のエッセイ、映像面からのアプローチなどもあり非常に充実した一冊。ただ校正が甘いのが惜しい。多くの記事に助詞やら一字脱落してたりする箇所がある。

書肆 海と夕焼けでの『挾み撃ち』読書会

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六月十八日、書肆海と夕焼けにて開催された後藤明生『挾み撃ち』読書会に参加してきました。『代わりに読む人0』刊行記念として、社主友田とんさんと後藤明生著作権継承者の松崎元子さんを迎えての会でした。

コロナもあって対面イベントというのも数年ぶりでしたけれど、初めて読む、再読してハマった、ずっと読んでいた、そういう色々な読み方からの感想がうかがえて、たいへん面白い体験ができました。私も季刊「未来」の連載で何十枚も既に書いているわけですけれど、それでも再読してイベントにきてみて、自分が論じた箇所などごく一部でしかないしこの不可思議さを捕まえてはいないなと思いました。

こうした一見要約できない作品だからこそ色々な注目箇所が生まれて話が尽きない状況になっていて、友田さんたちも仰ってましたけれど、読書会向きの作品という感じがあります。演劇と引きつけた意見が面白くて、例えば今作の語りは後藤明生が「わたし」を演じているものでもあって、限りなく後藤明生自身に近いけれどもそこにはズレがあります。推敲、日和という言葉で文章を連ねている上手い箇所もありつつ、「紅陵大学の丘の上は、荒涼としていた」式の完全に滑ってるダジャレも意図されたものではないかという話にも繋がっていき、二等兵の格好の下りで出てくる「演技」と「仮装」の違いというのは何なのかと考えさせられます。「演技」と「仮装」の区分は「笑い地獄」にも出てくるもので、歴史への「不参加」とも重なる意味があって、ここでの拳突きの停止というのが戦後における軍人=暴力の消失と絡むものという文脈もあります。

一番面白かったのは松崎元子さんの父後藤明生の九州弁は非常にわざとらしかった、という証言でした。チクジェン訛りはともかくバッテンゲナバイはマスターしたという話が『挾み撃ち』にはありますけれども、それは装ったポーズだったわけです。演技か仮装か。文字からは読み取れない情報でたいへん貴重でした。

もう一つ、後藤が「とつぜん」とひらがな表記をするのは、それが子供の時間感覚だから、という松崎さんの指摘はまさしく、と思いました。何が起こるかわかっている大人の「当然」とわからない子供の「とつぜん」という構図は八章の核心なわけで、その「「とつぜん」論」からして確かにそうです。言われてみれば確かにその通りだけれど、そういえばそういう表記なのはそういうものとして通り過ぎてしまっていたな、と。

友田さん以外に『代わりに読む人』執筆者のうち三人が参加していて、名前が私のツイッターのフォロワーにいる人じゃんと思っていたら、現地にいた人が実はフォロワーだったのを帰ってから気づいた人もいたりとなんだか間接的な知り合いが多い会になりましたけど、私もツイッター後藤明生についてよく書いてますし、いま後藤明生で何かするというとそういう密度になるのはそりゃそうでしたね。

現地では作中に出てくる石田家の人の教師をしていた、という人が蕨の雑誌に書いた記事や、季刊「未来」で私が書いた後藤論が載っている号の残部を持っていきました。「未来」の残部は連載全部が載った六号分の揃いはだいたい全部配ってしまいました。あとはバラのものがまあまああるくらいですね。


書肆海と夕焼けのある谷保駅は初めて降りましたけれど、高層の建物が少なくて、色々な個人商店が点在していて、団地脇のアーケードの前には公園が広がっている立地が面白いです。ローカルな住宅街という感じ。こんな小さいアーケードのなかにあるお店に山尾悠子のピンクの本とかがあるんだ、という。よく行く街の大きな本屋にはないですからね。打ち上げで寄ったカレー屋はチーズナンが抜群に美味かったです。

公園から団地をつなぐ小さなアーケードを入ってすぐのところにお店があって、良い雰囲気のところでした。小鳥書房という看板があって、最初は違う店なのかと思いましたけど、一つの店舗に二つ書店が入っているニコイチのお店という変わったかたちのところでした。
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写真の一つも撮ってないのかよと帰ってから気づきました。