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2019.8.31 「図書新聞」2019年9月7日号にはちこ著『中華オタク用語辞典』の書評が掲載
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2019.6.7 図書新聞陣野俊史さんとの後藤明生をめぐる対談が掲載
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2019.1.26 『骨踊り 向井豊昭小説選』の解説鼎談に参加
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2018.7.28 図書新聞につかだま書房の後藤明生本の書評
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2018.7.26 トーキング・ヘッズ叢書75号 ケイト・ウィルヘルム追悼特集に『クルーイストン実験』のレビュー
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2018.01.06 季刊メタポゾン第11号に鶴田知也論が掲載
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古井由吉『雪の下の蟹・男たちの円居』と『雨の裾』

二月末、古井由吉逝去の報があった*1。大学生時分に授業でお世話になっていた寮美千子さんに連れて行ってもらって、風花の朗読会に行ったことがあり、そこで寮さんの紹介で本にサインをもらったことがある。何か話したかも知れない。何も覚えてない。


古井風にいえば、以て瞑すべし、と言うべきだろう。

後藤明生を読み出した時には既に後藤は亡くなっていたけれども、読み出した頃の古井由吉は『忿翁』など(リアルタイムで新刊を買ったのはこれが最初かも)の連作短篇スタイルになって久しい時期でもあった。

私が古井について書いた文章では以下のものがある。
古井由吉 - 白暗淵 - Close To The Wall
東京SF大全29・30 『白暗淵』『終着の浜辺』 | TOKON10実行委員会公式ブログ
古井由吉 - やすらい花 - Close To The Wall
際限のない反復――古井由吉「辻」 - 「壁の中」から
読み返すと、『辻』についての記事が一番しっかり読み込んでる気がする。古井熱が特に高かった頃だと思う。『辻』は新潮文庫で手に入る。

小説本は概ね持っているのに十冊ほど未読が溜まってしまっているのと近作の追っかけができてないな、と思っていたところだった。訃報を聞き、『雪の下の蟹・男たちの円居』と『雨の裾』を読んだ。最初から二冊目の作品集と最後から三冊前の作品集になる。1970年と2015年、45年の時間を経た二冊だ。偶然にも『雨の裾』の「虫の音寒き」は金沢へ行く作で、「雪の下の蟹」で題材になった生活やその時住んでいた判子屋の下宿が回顧されている。

文芸文庫の元本『男たちの円居』は『円陣を組む女たち』に続く古井二冊目の本で、男女の「円」で対になったタイトルを持つ。

金沢の豪雪の経験を描いた「雪の下の蟹」は、雪で川があふれるのじゃないかという危惧のなかでどっちの岸が雪を下ろすかの対立が段々と極まってきて、「たのむで」「そやかて」のなしくずしになっていくやりとりにある笑いが面白い。外から聞こえる声の描写が古井らしい。分身のモチーフがあって、『雨の裾』にも時間軸的な分身が出てきたりする共通点がある。戦時下、山村にやってきた物言わぬ孤児を描く「子供たちの道」は冒頭、何気ない出来事が妙な雰囲気を帯び始めて危機的な何かが露出するような不穏な叙述がいかにもの感がある。孤児と孤児を保護する女、それを執拗に観察する少女ともども、女のもの狂おしさを描く一作。「男たちの円居」は山中で雨に閉ざされた数日、職のある男たちと職にあぶれた男たちという二組が同じく食にあぶれる状況が描かれる。「職」と「食」、「円居」と「惑い」の掛け詞だったりするんだろうか。

雨の裾

雨の裾

これら初期に比べると、『雨の裾』はほぼエッセイのような作や聞き書きのような作やら、物語性や虚構性があったりなかったり混在しつつ文章の密度はいやに濃くなっていて、そのなかで老いと死についての語りが延々と続く、煮詰まり切ったその果てのようだ。

いつものことだけれどとにかく死の匂いが瀰漫していて、八篇中全部か七つかで死が描かれる、というくらいで、義母の死の直前に見舞った一篇の一年後に一周忌に行った一篇があったりもする。最初の一篇と最後の一篇がほぼエッセイ的な古井本人と思しき「私」の語りに終始するんだけれど、なかほどになるにつれて伝聞が増える印象がある。この構成は意図されたものだろうか。中盤のほうで、ある男の話とか知人の話などが途中で始まって、いかにも古井的な語りで見てきたように語るんだけれど、最初がエッセイ風なだけにそういう構えで読まされるうちにいや、これは小説だし虚構では、と判然としなくなる。

最初の一篇は辞典を引くところから始まるくらいいかにも随筆、という感じでしかし次第に随筆と小説が渾然となった得体の知れないものになっていくところがある。作中15歳の時に大病をして、という記述があったので自筆年譜を見たら16歳でのことだと書いてあった。校閲で指摘されそうなものだけれど、この間違いはつまり、これが虚構だ、というサインなんだろうか。後藤明生も自分の住居の階数を小説のなかでは変えて書いていた。近作になると微細な身体感覚を丁寧にたどりながらそれがある種の逆説にも通じたりする不穏さはよりいっそう強まり、文章の「認識の構造」としての純度を高くしていくなかで初期のような小説っぽさは消え、随筆・エッセイに近似していくけれど、そのなかでやはり虚構性が迫り出しても来る、ということだろうか。

近作はその語りの技法にもよるけれど、何を読んでいるのか不分明になるところがある。しかし小説っぽいほうがなんとなくわかった気になる、読んだ気になるというのは、物語、お話を追うことでわかったような気がするだけで、じっさいは何もわかっていないということだろう。

それはともかく「雪の下の蟹」では「私にとって昼間の仕事は、どんなに神経を張りつめていても、しばしば眠りに似ていた。それにひきかえ、夜の眠りはこわばった目覚めに似ていた」11Pとあり、『雨の裾』の「死者の眠りに」では「人は覚めながら眠っている。眠りながら覚めている」56Pとある。似た感覚を書いてもこの短さ。物語性を排していき、文章の密度が異様に上がっていっている。

そういえば「雪の下の蟹」の分身のモチーフは近年では老いのなかに堆積する時間として、連続する背中、のようなイメージで出てくる。自身の後ろにもうひとり、その後ろにもうひとり、というように、過去の時間のつらなりがあり、ドッペルゲンガー的な対面のものではない、背中を見せる分身。

雨に降られた女が出てくる一篇の後で、高層ビルから降る雨脚の裾を眺めながら、あの雨のなかで男女の間違いが起こっているかも知れない、と男が呟くのは視点の移動が鮮やかなんだけど、セリフが決めすぎというかわざとらしいというか、ちょっと笑ってしまった。この二冊では「握り飯」も共通して出てくるものだけど、初期では微妙に戦争の記憶をまとって出てくるものという感触があり、それはあるいは現在もそうなのかも知れない。


生前からこうまで死について書いているというのも「来たるべき死」というか、生きていることのうちにある死、というか、古井的に言うと生きながらすでに幾分死んでいる、というか、まことに古井由吉らしいとしか言いようがない。死と生の表裏一体というのは古井由吉がおそらく『水』以来ずっと書いてきていることだった。

しかし古井由吉のここ二〇年とかずっとこういう短篇連作による本を書き続けていて、折に触れて読んできてはいるけれど、古井由吉古井由吉しているのを読んでいるという憾みを拭えない部分もある。熱心に読んでいた十年前ほど古井由吉をちゃんと読めてないだけだろうか。近作個々の試みや特性というのはどう分析されているんだろう。


後藤明生は最初の小説集を69年に同時に二冊出して、翌年に古井由吉は最初の小説集を一月違いで二冊ほぼ同時に出してて、後藤も古井も叙述のスタイルは対照的ながら揃ってヌーヴォーロマンとかアンチロマンとか言われるあたり似たもの同士な感じもある。九十年前後に揃って首まわりの手術をしていたり。後藤が最後まで仲良くしてたのが古井だとも言う。これは酒飲み同士だからというのも大きいかも知れない。また、高層住宅に住み続けたのも一緒だった。

*1:二月十八日に亡くなったことが二十七日に発表された

木村友祐『イサの氾濫』『幸福な水夫』『聖地Cs』

ため込んでいた木村作品をまとめて読む。

『イサの氾濫』

イサの氾濫

イサの氾濫

表題作は、東京で転職を繰り返してた男が震災を機に地元東北で荒くれ者として知られていた叔父イサについて調べながら、東京からもこぼれ落ちる「まづろわぬ人」として己を自覚し北からの怒りを叫ぶ叛逆の狼煙だ。切り捨てられる地方からぶつけられる濁音の響き。

イサが乱暴を働くようになった原因は他人にもイサ自身にもあるいはわからないかも知れないけれども、父親の苛烈な躾けとともに、里子にするかどうかの試しとして親戚の家に預けられたという捨てられかけた経験は本家への強い憎悪の一因になっていると思えるし、社会から脱落しつつある男自身とも重なるくだりだ。男自身が東京でも転職を繰り返し無職となり、死にたいと感じるような境遇で、家族のなかでも社交的な弟に比べて父親にいっさい褒められた記憶がない。しかし父もまた外からの規範ばかりを気にする「空っぽ」という点で男と重なる視点がある。イサと蝦夷を繋げて考える英雄への期待、だけではなく「無言の民」としての東北民でいてはならない、と自らが「身勝手でもなんでも、イヤなものはイヤど、思いっきり叫(さが)べ」と声を出すことへと逢着する。

本作の重要なくだりはルビを使って方言を記した本文をそのまま見てもらうのが良いだろう。50P。

後半、同級生からマルチビジネスの「銀河の破魔水」を売りつけられそうになる下りがあるけれど、このトンデモ素粒子物理と水、といえばまさに震災で大きな被害を被った原発津波と重なるのが気に掛かる。放射能の被害を逆転させたかのような効能をうたっていて、ここには密接な関係があると思われる。話を持ち出した小夜子は東京の人に自分たちが「お荷物」と思われているんじゃないかと気にしているんだけれど、「銀河の破魔水」でマルチ商法に取り込まれている彼女は、原子力と金をめぐる植民地主義的な思考に飲み込まれた存在でもあるだろうか。

併録の「埋み火」も面白くて、これは東京で成功している四十代の男の所に子供の頃の親友が電話を掛けてくるところから始まり、汚い身なりのその幼馴染みが男も忘れていたような子供の頃の経験を微細に延々語り続ける、東北弁に満ちた小説になっている。話を盛ったり幼馴染みが知るはずのないことを語ったり、信頼できない語りに見えるんだけれど、読んでいるうちにその東北弁の語りに飲み込まれそうになるうえに、男の父の会社がその地方で公害を撒き散らしたりした疑惑や男の罪の告発をも含んだ不穏なものになっていく。信頼できないのはいったいどちらかが次第に逆転していく仕掛けがあるわけだ。津波の被害とともに敷地にあった違法な猛毒物もまるごと流されてしまったという皮肉な話とともに、幼馴染みはそれでも流されない罪を問う。東北弁による地方を食い物にしていった企業への訥々とした告発の声の響きがいっそう印象的な一篇。

『幸福な水夫』

幸福な水夫

幸福な水夫

第二作の「幸福な水夫」と「突風」とあとがきエッセイを収録。東京で定職にない主人公が東北地元の荒くれた親族のことを知るとともに搾取するものへの怒りの声を上げるという話を著者が繰り返し書いてることが改めてわかる。

表題作は八戸から下北郡への原子力、軍の土地を目の当たりにする道中が描かれるロードノベルで、ウマの合わない乱暴な父親と兄弟の東北北上道中、この土地がどのようなものかということと同時に父親の歩んだ不自由な人生の一端も見えてきて、子猫の世話をする主人公も含めた、爽やかさと悲哀とおかしみに満ちた家族小説でもある。強権的な父が足を切断し脳梗塞の後遺症で口も回らなくなってもなお生命力、行動力にあふれいていて、しかし過去には諦めざるを得なかったアメリカへの憧れや恋愛を知って、土地と生活の帰結として自分もまたある、ということが立ち現れる、自分たちを蔑むものたちへの怒りの瞬間。著者自身が語っている改稿箇所は喧嘩の下りだ。ハッタリをかまして退散させるのではなく、小説に書き続けてきた方言の意味をより強調するように、「標準語」で喋れ、という東京者に対して「南部語」、「津軽語」を対置させてその傲慢さを批判する、というかたちに変わっている。そして自分の頭を瓶で殴るのは、傷ついた自分=土地を見ろ、ということだろうか。

「突風」は自衛隊国防軍となり徴兵制が始まった日本を舞台に、祖母の危篤、硫黄島で戦死した祖父、そして徴兵制を進めた保守政党を支持し続けた親たちの、子供たちが徴兵される事態になるとは思っていなかった、という保守性の一側面を描くような一篇。家族のつながりと戦争によるその切断。興味深いのは「幸福な水夫」で和郎が落ちる、落ちると危惧し続けていた家のなかの物干し竿が、今作での死んだ祖母を家に運び込む場面で落ちていること。物干し竿が落ちるのは死ぬ時で、「宇宙船ほどの巨大な物干し竿」の幻想がここに響いている。

書き下ろしのエッセイでは硫黄島で死んだ祖父の手紙が発見され、それまでの死亡日時と齟齬を来すことになり、戦死というものが死体も日付も曖昧にするということが描かれる。同時に、嫌われる地域猫を通じた地域社会との関係が描かれてもいて、捨てられたものへの視線が小説と重なる。

造本が非常に美しく、本体の浜辺の絵が半透明の表紙の裏側に描かれた老人と重ねられて、表から見ると一枚の絵になるようになっているのも凄いけれど、二つの短篇とあとがきのエッセイとで三種類の紙が使われているのも凝っている。装幀佐藤亜沙美は新体制文藝のアートディレクションの人。

『聖地Cs』

聖地Cs

聖地Cs

表題作と「猫の香箱を死守する党」の中篇二作による動物小説集ともいうべき一冊。いずれも人間の都合によって生を左右される牛、猫を通じて、力を持たぬ動物たちが虐げられる社会は人間もまた虐げられる社会だとの認識から、政治と動物と人間の関係を描いている。

「もうこんなに復興したんですよぉ、大丈夫、あんなことは忘れて、みんなでオリンピックを楽しみましょうってね」52-53P

表題作は福島の原発近くの居住制限区域内で牛を飼い続けている実在の牧場に取材したもので、DV夫から逃れて三日間その牧場で働く女性の一人称による中篇。語り手は、牛たちの食事と糞の泥にまみれた生活のなかで、社会から放置された場所が居心地が良いと感じてしまうような境遇にある。木村作品では主人公が演劇、小説などなんらかの芸術に携わっていることが多いけれど、今作では牧場主が牧場を「作品」と呼んでおり、牧場そのものが芸術性を与えられている。と同時にある人物から、抗議のために牛を巻き添えにしている、と批判されもする。これは当然今作への自己批判でもあるだろう。

そこへ語り手は牧場が「矛盾が矛盾のまま、ごろりと放りだされた場所」と見る。牧場主は、生かすのも殺すのもどっちも人間の都合ではないかと問われて「利用できなくなったら殺せばいい、というのは、いのちに対する礼儀を欠いてる」といい、牛に対する扱いは「棄民」「数減らし」として人間に跳ね返ると言う。礼儀、責任としての生そのものが国、原発の喉元に刺さるトゲなんだと牧場主の言うように、ここでは牛の生と牧場の経営と芸術と批判・抗議が一直線に繋がるものとしてあり、語り手は放棄される牛をまさに我となすことによってそこに連なる。前述の「芸術」批判を踏まえて、「喉元に刺さるトゲ」こそが自分の表現だということでもある。

「猫の香箱を死守する党」は政権に返り咲いた保守政党が矢継ぎ早にタブーを破って集団的自衛権の行使や武器輸出解禁、軍需産業の国家による推進といった軍国主義化した日本を舞台に、猫を飼い、野良猫に食事を与える語り手と右派カルト集団による猫の虐待とが衝突する。「ニッポン・イチ!」や「ジャパン・イズ・ナンバワン」と叫び続けて、「なんの役にも立たん猫」にかまう語り手に暴行を加える右派集団の滑稽なグロテスクさは笙野頼子作品とも一脈通じるものがあり、細部こそ異なってもほとんど現実そのものとも思える生々しさもそうだ。

クロタロの毛のやわらかさとからだのほのかなぬくみと息づかい。それを五感で感じるとそれまで冷えて無感覚になっていた自分のからだに気づかされた。からだが今ここにあるということをなんとなく意識させられる。この毛に覆われたちいさな生きものにかろうじておれは世界につなぎとめられているのか。P118

DVにさらされたり、定職につけなかったり、「社会のはじっこ」にいると感じる人間が、同じく社会の端で傷つけられる動物を自身のこととして認識し、そこに政治と社会と人間と動物の結節点を見いだす小説集となっている。

「いのちに対する礼儀」って文言を見て、あれ、と思って積んでる『いのちへの礼儀』のあとがき見たらやっぱりここから題を取ってると書いてあって、なるほどと。

上田早夕里『深紅の碑文』『夢みる葦笛』

『深紅の碑文』

『華竜の宮』の姉妹篇。人類に迫る、プルームの冬と呼ばれる地球凍結の危機を目前にしたなかで、救援団体、反抗する海上民、ロケット打ち上げ事業を軸に、血で血を洗う抗争、飽くなき交渉、空への夢、人間とは何か、さまざまなテーマを簡潔で淀みなくスリリングに、極限状況での言葉と交渉の意思とともに描く傑作。

海洋資源を奪取する陸上民と、それを襲撃する海上民の対立が激化し、前作『華竜の宮』主人公青澄は民間救援団体事業の理事長となって調停を試みる。同時に海上民の反抗組織ラブカのカリスマ、ザフィールがもう一方の軸となり、海上民という陸からの被差別者たちの尊厳をいかに受けとめるか、ということに作品の大部分が割かれている。陸と海の対立を描きつつ、オーシャン・クロニクルズという総題が示すのは、この「異質な他者」といかに向き合うかということで、じっさいそれに尽きると言っても良いかもしれない。

海上民や救世の子などさまざまな改変を施された人間たちとの関係があり、ザフィールはともかく、青澄はアシスタント知性との二人三脚の人生で理由があって家族を持たない独身者でもあり、そして星川ユイと救世の子マリエとの関係は、「女と生きる女」という沢部ひとみの定義で言うレズビアンだ。異者との関係がヘテロセクシャルな関係性とは異なるものとして現われる。そういえば「独身者たちの宴」とは渡邊利道さんの『華竜の宮』論のタイトルだった。資源を費やしてまでロケットを打ち上げるという夢に「リリエンタールの末裔」としての空への憧れがつながる部分も良い。

『華竜の宮』や「魚舟・獣舟」のシリーズなので、これらの設定やエピソードを既知のものとして進む部分があり(文庫で改稿したりしたかは知らないけど解説がついてるので補足できるかも)、いきなり本書から読むのは勧められないとはいえ、私も読み返さずに読んでいるのでなんとかなるのかも。いや、とにかく面白かった。危機が迫るなかでのどこまでも言葉での交渉を徹底しようという政治の貫徹にかなりのアクチュアリティがある。

『夢みる葦笛』

夢みる葦笛 (光文社文庫)

夢みる葦笛 (光文社文庫)

十篇を収める短篇集。多くが三十ページほどの短さながらぎゅっと凝縮されていて、『深紅の碑文』の諸テーマ――異民族や人間でない存在と人間との関係、空や宇宙への憧れ、そして国境を超える真理等々、が各篇に通底しつつ多彩な題材で展開されていて、作者の軸が強く感じられる。

表題作「夢みる葦笛」は合成音声を題材にし、不可思議な音楽の甘美さがもたらす人間でないものへの変身が人々に歓迎されているというファシズム全体主義を思わせる状況で、はぐれ者がひとり抵抗するさまを描く。百合っぽいなと思ってたら思った以上にストレートに百合でもあった。これは人間でないものへの変身が破滅的ホラーのタッチで描かれるけれども、「完全な脳髄」では合成人間が人間に近づくには人間を殺すことができなければならない、という皮肉な議論が展開される。ここにある人間とは何か、というテーマは諸篇でも随所に顔を出し、非人間の人間性にも繋がっている。

「氷波」では、遠い小惑星での宇宙現象を体感するため、実在の人間から抽出された人工知性と、宇宙開発用のより機械的な人工知性のコミュニケーションが描かれる。人間が宇宙へ出るために自身を非人間化し、しかしそれでもそこに人間の本質が現われるのではないかという逆説が鮮やかだ。「プテロス」では、「本当の意味で宇宙生物学者になるためには、科学者としての常識どころか、『人間であること』すら、捨てねばならない瞬間があるのかもしれない」(217P)とも述べられているように、科学的探究心は地球を、そして人間をも超え出るものとしてある。「上海フランス租界祁斉路三二〇号」は、戦前戦後の日中関係に翻弄された実在の科学者をモデルにとった平行次元歴史SF。エピグラフにある「真理は国家を超えるもの」の言葉が印象的で、戦争と民族で分断された過酷な状況における科学者の姿が描かれる。石井四郎が出てくるのも重要だろう。近作『破滅の王』は731部隊が関係するらしいので。

民族を、国家を、地球を、人間をも超えていくもの。「滑車の地」での作られた存在リーア、「アステロイド・ツリーの彼方へ」のバニラ、「氷波」の知性体などなど、地球環境に依存する人間にはなしえない彼方への旅は、人間でない存在へと託される。それは繁殖に因らない人間と科学の子孫たちで、どうも本書の登場人物達は異性同士で子をなしたがらないところがある。「上海フランス租界祁斉路三二〇号」も結婚が回避される展開があるし、人間でない存在を産むのは当然生物的繁殖ではない。上掲の青澄とアシスタント知性マキもこれだ。いや、「テクノロジーそのものも、人間の身体の一部なのだ」と「楽園(パラディスス)」にあるように、それをも含めて「人間」なのかも知れない。
そういえば、「石繭」は諸星大二郎の「不安の立像」っぽい。

図書新聞にトカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の書評が掲載

今日あたり発売の図書新聞2020年3月7日号にオルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の書評「繰り返されないすべてのものたちの時間」が掲載されました。ここに参考文献の一覧を載せておきます。
昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

逃亡派 (EXLIBRIS)

逃亡派 (EXLIBRIS)

参考文献

●邦訳三冊以外のトカルチュクの著作
オルガ・トカルチュク「文学にあらわれた《中欧》という名の幽霊(ファントム) : 中欧文学は存在するか(抄録)」、久山宏一訳、「早稲田文学」2013年9月
オルガ・トカルチュク「番号」つかだみちこ訳、飯島周、小原雅俊編『ポケットのなかの東欧文学』成文社、2006年
オルガ・トカルチュク「冬空の郵便馬車」つかだみちこ訳、「月刊ショパン」2011年2月(『逃亡派』312ページ「ショパンの心臓」の別訳)
●トカルチュクへの言及
小椋彩「土地の記憶と確定されない境界線――オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』を読む」、「スラヴィアーナ」19号、2004年(誌名は本来「Славиана」の表記)
小椋彩「トカルチュクの「東洋的側面」について」、「西スラヴ学論集」12号、2009年
小椋彩「オルガ・トカルチュク」、奥彩子、西成彦沼野充義編『東欧の想像力』松籟社、2016年
つかだみちこ『シンボルスカの引き出し』港の人、2017年
●その他の文献
坂倉千鶴「ポーランドユダヤ人とユダヤ人文学」、宮島直機編『もっと知りたいポーランド』弘文堂、1992年
井上暁子「想起される地域――現代ポーランド語文学における国境地帯の表象」、柴宜弘、木村真、奥彩子編『東欧地域研究の現在』山川出版社、2012年
西成彦「複数の胸騒ぎ」2019年10月14日の投稿(こちらで井上論文を知った)

ポーランド戦後の反ユダヤ主義の煽動については木村元彦の記事がネットで読める。
ポーランドがいま直視する加害の歴史~「3月事件」とユダヤ排斥という過去 | 連載コラム | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス

余談

オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』 - Close To The Wall
オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』とその目次 - Close To The Wall
本稿の内容は上掲ブログ記事ともいくらか重なるところもありますけれど、トカルチュクの邦訳著書と周辺の研究を参照して改めて書いたものです。ブログでもダニロ・キシュを引きましたけれど、ここを起点にして少しばかりユダヤ人に注目したところは他の書評にはないポイントかと思います。

ポーランドユダヤ人については本文ではかなり圧縮してしまいましたけれど、元々は「第二次大戦後、生き残ったポーランドユダヤ人は戦前の一割という惨禍に見舞われており、さらに戦後も反ユダヤの潮流は続き、六八年にも政府主導の反ユダヤキャンペーンが展開され、ポーランドユダヤ人はそのほとんどが国外に逃れ、国内に残ったのは二万人ほどだという」と書いていたのでここに置いておきます。さらに言うと、中近世のポーランドは例外的にユダヤ人に融和的で、戦前にはその数は三百万人を越えていたといいます。

トカルチュクの2014年の作『ヤクブの書』が18世紀のユダヤ人宗教指導者を扱ったものらしいことを知って、やはりユダヤ人のテーマがトカルチュクにはあるな、と思いましたけれど、つかだみちこの本によれば原書千ページの大著らしく、これはちょっと翻訳が出るかは怪しい気配がしますね。
18年ノーベル文学賞、オルガ・トカルチュクさんとは 絶え間ない越境、自由な想像力 沼野充義・東京大教授寄稿|好書好日

作中にしばしば描かれる終末論やルタが指摘するプラヴィエクの外にはなにもない、というような閉鎖性との関係なども気になったものの掘り下げられなかったところです。この点については小川洋子の書評がいくらか書いています。
死があり、レイプがあり、成功と失敗がある。ポーランド激動の歴史の揺らぎ | 文春オンライン

また、井上暁子「想起される地域」では、グダンスクを舞台にした作品としてパヴェウ・ヒューレ『ヴァイゼル・ダヴィデク』が論じられていて、これは東欧の想像力の続刊予定として名が上がってずいぶん経ってますね。非常に魅力的な作品に見えるんですけれども、さて。井上氏はプラヴィエクの書評を日経新聞に寄せてもいます。
プラヴィエクとそのほかの時代 オルガ・トカルチュク著 小さな村に流れる時間の物語 :日本経済新聞

第40回日本SF大賞候補作をいくつか読む

今年の候補作は以下。
第40回日本SF大賞・最終候補作が決定しました! - SFWJ:日本SF大賞

《天冥の標》全10巻 小川一水早川書房
『なめらかな世界と、その敵』 伴名練(早川書房
《年刊日本SF傑作選》全12巻 大森望日下三蔵編(東京創元社
『宿借りの星』 酉島伝法(東京創元社
『零號琴』 飛浩隆早川書房

一冊も読んでない状態から全部読むとすると32冊を読まなければならないというハードモードの今回。今年は全部読むのは最初から諦めた。年刊傑作選も四冊読み残しているし、『天冥の標』はまだ一冊も読んでいないからだ。というわけで天冥は読んでないので、その次のから。

伴名練『なめらかな世界と、その敵』

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

全六篇を収め、平行次元、改変歴史、別の自分、別の時間など、多彩なアイデアはいずれもがもう一つの・別の、という要素によって共通し、その「別の」ものとのすれ違いと交錯がしばしば少女らの百合をベースに描かれるSF作品集。表題作は人々が「乗覚」と呼ばれる複数の平行世界を自由に移動できる能力を持った世界のなかで、いまここにあるただ一つの世界の一人の人間と向き合う物語で、モーフィングするかのようなスムースな複数次元の移動を文章で描いていくところが印象的。「ゼロ年代の臨界点」はゼロ年代と言っても1900年代、三人の若い女性がSF草創期に時間SFで一世を風靡した、という評論形式の改変歴史百合SFメタフィクションで、歴史における女性の役割を再評価するフェミニズム的な文学史っぽくもある。ほかに伊藤計劃オマージュの人格、感情のコントロール技術をめぐるすれ違いの「美亜羽に贈る拳銃」や、改変歴史世界のなかでさらに改変歴史フィクションが語られてるディックネタもある「シンギュラリティ・ソヴィエト」など、どれも面白いし出来も良いと思うんだけれど、なぜか物足りない。好みとズレるといえばそれまでだけど、最初の一篇を読んだ時から感じたのは、巧みにSFアイデアを用いて「エモい百合」(男女関係もあるけど)に収斂するという印象で、なんというか、SF的アイデアがもつ現実への批評性や広がり(というと漠然としてるけど)が削がれている気がした。橋本輝幸氏が「SFが大好きな、優秀なSF職人の仕事が見られます。研鑽の成果が陳列されています」と、賞賛とも批判ともとれるやや突き放した言い方をしていて、この表現ちょっとわかる、と思った。書き下ろしの「ひかりより速く、ゆるやかに」がそうした関係や状況の「エモさ」の方向性を強めつつさらに突き抜けていて、一冊の読後感を爽やかにしているのが良かった。そして今作が、このブログの指摘のように物語を消費や逃避にではなく現実へ立ち向かうための想像力への転換を描いてるなら、私の違和感も織り込み済みかな、と。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選』

虚構機関―年刊日本SF傑作選 (創元SF文庫)

虚構機関―年刊日本SF傑作選 (創元SF文庫)

今年で惜しくも終了となった日本SFの年刊アンソロジーで、第一巻の『虚構機関』で伊藤計劃円城塔を読んで驚愕した出会いは忘れがたい。読了後検索したら伊藤計劃の逝去を知った時の衝撃も。さまざまな制約もあり収録作品の面白さはわりとばらつきを感じるけど、創元SF短篇賞出身作家の活躍や、巻末の日本SF概観等の資料的価値もあるし、ジャンルSF以外からのセレクトや雑誌や同人誌からの採録など、ここ十数年の日本SFにおいて貴重で重要な企画なことは確かだと思う。ただ、既発表作品のアンソロジーという性格上、SF大賞としてこの候補作と並べると評価が難しいと思う。もし賞を与えるとしても特別賞とするほかない気がする。SF大賞は評論や企画の別枠を作った方がいいんじゃないか。

酉島伝法『宿借りの星』

宿借りの星 (創元日本SF叢書)

宿借りの星 (創元日本SF叢書)

造語とイラストで彩られた、外骨格の殺戮生物たちが滅ぼしたはずの人類の密かな謀略への抵抗を描くポストヒューマンSF大作。異種族コンビの道中記にしてその視点から描かれる日常生活誌でもあり、その一人称を読むうちに途中で現われる人間が異形に思えてしまう認識の変容を食らうまさに異形の小説。人間が「内骨格特有の動き」をしていると描写される部分は鮮烈で、なかなか凄いんだけれど個人的にはちょっと楽しみきれなかった印象がある。濃密な小説で物足りないっていうのも違うんだけど、うーん、なんだろう。マガンダラも当初の認識から変容していくし、食料でしかなかったマナーゾとその種族との交流もいいし、砲戴さまがナウシカ巨神兵としか思えなかったり、指輪を捨てる話がどうとかいう小ネタとかも面白いけれども。

飛浩隆『零號琴』

零號琴

零號琴

飛浩隆『零號琴』――物語としての生を描く物語としての - Close To The Wall
これは既に感想を書いた。2010年に連載が始まり七年近い改稿期間を経て刊行された大作。いろんなジャンル小説やアニメの物語をさまざまに取り込み、引用しつつ、物語によって生を受け、物語により生を更新し、物語によって消えゆく存在としての人間を描く、メタ物語としての構造が濃密な音楽SFとして展開される高密度なエンターテイメントでもある。既読の候補作のうちでは一番良かった。


既読作のなかでは『零號琴』が一番面白かった。ただ、受賞作の予想をするなら『天冥の標』でどうだろう。いや、読んでないからじっさいの作品の出来はわからないんだけども、小川一水が放つ全10巻計17冊の大作、これに与えないわけにはいかないんじゃないかな、と。複数作品受賞ありとするならわからないな。年刊傑作選やっぱ特別賞とかかなあ。でも『NOVA』もそれだったし、難しいな。

オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』とその目次

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

『プラヴィエクとそのほかの時代』の次に書かれたトカルチュク四作目の長篇小説。ポーランドの国境近くに住み始めた「わたし」や人々の生活、聖人伝、独立性のある短篇など100近い断章(解説などでは111とある)によって構成された、昼と夜、夢と現実、男と女、ポーランドチェコ等、さまざまな「境界」そしてその流動を描いている。

「わたし」はポーランドチェコとの国境に近いノヴァ・ルダの町近くの村に三年ほど前から住んでおり、隣人のマルタや村や町のこと、近くで自殺した男の半生といったものから、夢のなかの男を捜す女性、訪れた教会で見つけた髭の顔を持った女性の聖人などの伝説、ポーランドの国境で死んだドイツ人など、「わたし」の身辺だけではなく、短くは数行、長いものは20ページを超える短篇の体裁を持ったものまでさまざまな断章がゆるやかな繋がりを持って並べられている。そしてタイトルにもあるような対比的なモチーフのさまざまな連なりが浮かび上がってくる。

夢と現実のモチーフは、夢のなかで逢った男を現実に捜そうとする女性を描いた「アモス」という短篇が典型的なように、章題でも頻出する本書の一つの主軸となっている。もう一つ繰り返し出てくるのは、クマーニスをめぐる伝説とそれを書こうとした修道士の話で、私は神の妻なのでと父の無理強いする結婚に抵抗していたクマーニスが、力尽くで犯されそうになったとき髭を生やしたキリストのような男の顔に変貌した奇跡が伝えられている。そしてそのクマーニスの伝記を書こうとするパスハリスは、自分の性別に違和を抱き、女性になりたいと願う今で言うトランスジェンダーで、男の顔になった女の奇跡を女になりたい男が書くという仕組みになっている。

クマーニスの書いたものは、自分でないべつのだれかになりたいという、パスハリス自身の抱えるのとおなじ、強い願いに貫かれていた。130P

最初、この部分だけを引用していたんだけれど、改めてページを見返すと、その前の文章がまさに今作の別の軸への言及だったのには驚いた。

彼女のラテン語の文章には、チェコ語とドイツ語とポーランド語の単語が、修道女の焼くパンケーキのなかの干しブドウみたいにはさまっていた。それでも、彼はゆっくりと理解しはじめた。

チェコポーランドがクマーニスの書く文章のなかに混ざっているということは後述する別の軸とかかわる。パスハリスの章では以下のような文章も面白い。

起こったことを書きとめ、出来事や行為のあらましをそのまま再現することだけが大切なのではない、とパスハリスは考えた。おなじように大切、あるいはもっと大切かもしれないのは、なかったこと、一度も起こらなかったこと、起こったかもしれないけれど、想像のなかで起こればそれでじゅうぶんであることのために、場所を残しておくことだった。150P

聖人伝とクマーニスの話は目次を見てもわかるように、細切れの断章が繰り返し出てくる構成で、今作のもう一つの軸とも言える流れを作っている。

他にもその名もエルゴ・スム、という男が極限状況で食人をしたがゆえに、その後もプラトンの一節を読んで、狼になるのではと怯える話も変身譚の系列にあり、こちらはなりたくないものになってしまう変身の恐怖の話になっている。

こうした私と他人、男と女の変身譚があるとすれば、ポーランドの国境という歴史とともに変遷してきた土地の話もあり、「ペーター・ディーター」の挿話もこれだ。ドイツ人が昔生まれ育った故郷を見ようと登った山のなか、ポーランドチェコの国境のベンチで、まさに両国に足を置いて死んでしまい、両国の国境警備員が自国にある足をそれぞれ向こうの国境におしやる、という挿話で、国境の狭間の悲喜劇となっており、ドイツとチェコの狭間を書いたボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』を思い出させる。ドイツ語地名とポーランド語地名に言及されるように、ここにも歴史の転変のなかで土地がさまざまな歴史を持っていることが示されてもいる。「お屋敷」のゲーツェン家がソ連兵に連行されていく挿話も、家、土地をめぐる暴力の歴史を伝えている。

また、ある夫婦それぞれの前に現われ、夫の前には女性、妻の前には男性の姿でお互いを不倫に誘う、アグニという名前の同一?人物が出てくる挿話があるけれども、このアグニと呼ばれるアグニェシュカという人物は序盤から「わたし」の挿話にも現われる近所の人間と同名で非常に謎めいている。アグニの名はもちろん火の神が踏まえられていて、「夜はいつも、水の流れるところで生まれる」(274P)とか、マルタは水や湿気を闇と同じくらい憎んでいる、とも書かれている本作において、この火と水のエレメントも夜と昼にかかわるものだと思われる。マルタは夢を見ないというのも示唆的。

「わたし」の家は地下水脈の上に建っていて、家にも水が入ってくることが冒頭で描かれている。そして夢はインターネットで匿名のテクストとして公開され世界に広がる様子も描かれており、夜と水と夢は人や家の境界を越えて染みこんでいく流動的なものとしてあるように思われる。

幾度もレシピが載っていて、「わたし」が人間でなかったらなりたかったものとして挙げるキノコは本作の重要なモチーフで、キノコは死体を分解し新たな生を生む存在だけれど、同時に毒で人を殺しもする。キノコで死んだ親子の話の直後にキノコのレシピが続くような黒い笑いがあったりする。そして、

わたしたちの世界とは、眠る人びとの世界です。人びとはすでに死んでいるか、生きているという夢を見ます。177P

などと書かれるけれども、どんなキノコでも食べてしまう「わたし」は果たして生きているのかどうか怪しくなってこないか。まあマルタも怪しい存在なんだけれど。こうした昼と夜の対比は以下のようにも書かれる。

わたしはマルタにこう言った。人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家、時間と空間のなかにしっかり固定された家。もうひとつは、果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会も永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいるのだと。259P

存在の境界で、みじんも動かずに、ただありつづける町。365P

ノヴァ・ルダという町はこの境界のその狭間としてさまざまな境界の交差する場所となっている。謎めいた細部も多く、最後に空のパズルを組合わせて一枚の空を作ると何かがわかる、という意味深な一文があって、丹念に読むと何か別のことがわかったりするつくりなのかも知れない。

なおノヴァ・ルダは地図でいえばここ。
www.google.com
ちなみにプラヴィエクの隣村とされるタシュフはここにある。ノヴァ・ルダが北東に見える場所。
www.google.com

はじめに書いたように解説などでは111の挿話、と書かれているけれども、目次のない本書を読む時に後から参照しやすいように自分で章の名前とページ数を書き取ったのを後で数えたら章の数が111もなかった。行空き大文字で始まる章は97個しかない。66ページからのクマーニス伝を引用する章では、小見出しで行空きされてる箇所があり、これを数えているのかと思ったら16節なので合わせると113で微妙に数が合わない。またクマーニス伝自体は20節あって、これを数えてるとしても違う。以下に自分で作成した目次を置いておく。これで97章のはず。

オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』目次
005 夢
006 マルタ
012 何某氏
016 ラジオ・ノヴァ・ルダ
018 「どうして、何某氏には幽霊が見えるのかしら、
019 マレク・マレク
032 夢
035 自動車の日
036 アモス
057 豆
060 シーラカンス
061 ピェトノについてのガイドブック
061 フラムリナ、あるいは野性のエノキタケ
065 キノコであること
066 Ego dormio et cor meum vigilat.(眠っていても、わたしの心は目覚めていました)
090 かつら職人
094 国境
095 彗星
097 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
111 雌鶏と雄鶏
114 夢
115 インターネットの夢
116 忘れられたもの
117 ドイツ人
119 ペーター・ディーター
126 ルバーブ
127 宇宙発生論
129 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
136 手紙
137 草のケーキ
144 インターネットの夢
144 天体暦
146 炎
148 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
155 草アレルギー
157 フランツ・フロスト
165 その妻と、子ども
169 シロタマゴテングタケスメタナソース
169 マルタの死に方
172 におい
174 「ヒラリア」より、クマーニスの幻視
178 聖体の祝日
179 夢
180 怪物
183 雨
187 洪水
188 釘
189 千里眼
204 鼠占い
205 二番手の男
207 白
208 七月の満月
210 聞くこと
212 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
220 夢
222 ウラベニイロガワリのスメタナ
223 暑さ
225 言葉
226 エルゴ・スム
232 哀しみと、哀しみよりももっと苦いもの
239 ふたつのちいさなインターネットの夢
240 髪を切る
242 マルタが類型論をつくる
245 お屋敷
255 わたしのお屋敷
259 屋根
262 刃物師派
264 音をたてて崩れ落ちる森
266 ノコギリ男
268 エルゴ・スム
273 人生の半分は闇のなか
279 キノコ
282 ホコリタケの甘いデザート
283 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか 
288 おわり
289 アロエ
291 焚火
293 神へ、ポーランド人より
301 錫の皿
302 乳母
305 刃物師派の聖歌
307 宝物
312 ダリア
314 反復、発見
316 ベニテングタケのタルト
317 彼と彼女
330 沈黙
331 彼女と彼
351 それから彼らはどうなったのかと、月食前にRが尋ねた
354 月食
359 マルタの目覚め
363 屋根裏の片づけ
364 ノヴァ・ルダ
365 創設者
369 救済の機械
370 わたしたち行くわと、わたしは言った。明日は万霊節 
373 空占い