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単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall
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2023.12.31岡和田晃編『上林俊樹詩文集 聖なる不在・昏い夢と少女』の制作に協力
上林俊樹詩文集『聖なる不在・昏い夢と少女』を刊行します | SFユースティティア

2023.06.24「リベラシオン 人権研究ふくおか」190号(2023年夏)に「鶴田知也再考――『リベラシオン』第一八九号を読む」を寄稿
「リベラシオン」190号に鶴田知也についての記事を寄稿 - Close To The Wall

2022.11.20後藤明生文学講義CDの付録リスニングガイドを執筆
後藤明生文学講義のCDの付録リスニングガイドに寄稿 - Close To The Wall

2022.09.30図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニアルーマニア』の書評が掲載
図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載 - Close To The Wall

2022.09.28単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall

2022.06.10『代わりに読む人0』に「見ることの政治性――なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?」等を寄稿
『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました - Close To The Wall

2022.04.30「図書新聞」2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載
図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載 - Close To The Wall

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最近読んでいた本 2026.06

読んでツイッターに投稿してからずいぶん経ってるのも多いけど、「最近」読んでいた諸々。文芸誌、エッセイ、怪談、SF。

木村友祐「殺しの時代における都市型狩猟の観察」(「すばる」2026年2月号)

害虫獣駆除の仕事をしている青年が子を救出する親ネズミと目線が合ったことからはじめ、動物飼育の趣味を持つ後輩との交流などを経て、動物と人間の、そして戦争の時代における暴力との関係を身体的に経験していく中篇小説。

パワハラ上司による売り上げ重視の仕事ぶりや小動物を安易に踏み殺すような暴力的なあり方を一方に置き、もう一方に同僚や後輩ら動物に関心がある人たちを置き、排外主義批判の運動に携わる元恋人への対抗心で純日本人を採用するといって問題になった会社に入った主人公が置かれる。害虫獣駆除の仕事、職場の人間関係、そして戦争という三層のレイヤーにおける暴力への感受を繋ぎ合わせ、小動物や虫相手などの場合では殺す・命を支配する側でも職場や社会のなかではいつ殺される側になってもおかしくない、という相対性や可換性のなかで暴力について描いていく。

元恋人の社会運動への拒否感や今の会社が炎上して是正されたとはいえ右翼的な体質があったことを理由に入社した主人公小熊は、しかし暴力を是とする人間ではない。飲食店でトラップに掛かった子ネズミを処置しようとして親ネズミの視線を感じて対面した時、「え、何。なんか用?」とつい人に対するように話し掛けてしまう。恐怖や動揺といった怯えから来るものでも、そこにはコミュニケーションの契機を発してしまっている。ネズミを交流可能な存在と見てしまうこの瞬間は今作でも重要な箇所ではないかと思う。

だからこそ上司のネズミを踏み殺すような暴力性には従えず衝突してしまう。害虫獣駆除の仕事とは言え、生命をもののように無残に扱うことには抵抗があるわけだ。たとえば虫ならわりとつぶせてしまっても、ネズミ程度の小動物を殺せるかと言われれば、結構難しいのは分かる。

今作は動物倫理といっても肉食の忌避ではなく、敬意をもった肉食を描いている。社内の窓口に通報してもうやむやにされてしまう上司岩倉の顔面を攻撃し美容上の理由と言って休職を余儀なくさせるという社内の誰もやれなかったことを達成したのは小さなネズミだった。その殺されてしまったネズミを、小熊はなんと食べようとする。これはだいぶ衛生的に問題があるだろうと思えて、読んでて抵抗感もあったけれども勇者のネズミ親子を丁重に葬送するためにさまざまな手順を踏んで、その肉から勇気を得るために食べようとする姿には何らかの倫理がある。

ラストに明示されてるように、本作はたとえば『イサの氾濫』などのような木村友祐の革命幻視小説の系列にもある作品で、だから必ずしも非暴力を訴えるわけではない。革命、抵抗のための力は常に必要とされている。肉を食うという生命の循環に即くことに命の価値を見いだしているかのようだ。

おそらくはガザ、パレスチナの惨状が想定されているように、イスラエル、アメリカの陰惨な暴力には人間を人間とも思わない、動物視する契機が含まれており、ガザのみならずイラン、レバノンへと戦線を拡大し続ける状況で政治家からこぼれる言葉が本作を想起させることもしばしばある。人間同士でも動物と見なされ虐殺される時代において、駆除すべき動物と向き合う立場からその様相を描いた作品だ。人間としての生活をする以上、肉も食べるし害獣も駆除しなければならない、そういうバランスの上にある倫理。

小熊、鵜飼、桑野といった動植物的名前に対して、パワハラ上司は「岩倉」という非生物的名前を持っている。岩倉もまた父の実家の奄美大島、妻の実家の石垣島に自衛隊基地があり、戦争への危惧を抱いている。しかしそれまでにやれることをやっておく方が良いという天災視した発言になってしまう。この戦争の天災視は「反戦」運動から距離を取る自分を正当化するロジックとしてありふれているようにも思う。

宮崎智之編『精選日本随筆選集 孤独』

「随筆復興」を掲げ、随筆もまた芸術だと主張する編者による随筆選集。最初のテーマは「孤独」として長短さまざまな作品を収める。本書のコアにあるのは文学に「絶対の孤独」を見る安吾「文学のふるさと」だろうか。

教訓すらないアモラルなものに突き放されたような物語や挿話を紹介しつつ「生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」を文学・人間の「ふるさと」だと述べる有名な一篇だけれども、文学のふるさとは孤独だとする随筆を孤独のテーマとして本書に選ぶことで随筆もまた文学だとする意図がありそうだ。孤独と言うとおり多くが家族との死別や距離感を主題にしていて、坂口安吾の「文学のふるさと」の前に同じ安吾の「石の思い」という一般に短篇小説と分類されている作品が置かれ、母との愛憎、父との距離が描かれ、これは「文学のふるさと」の孤独のその背景を描いているようだ。これらの文章を読んでいると安吾が愛される理由が分かる気がする。

安吾の二篇が本書のちょうど真ん中に配され、前半には編者がしばしば推奨している遠藤周作のデビュー作のフランス滞在時のことを描いたエッセイ集から二篇60ページほどを収め、後半にはこれもまた編者が薦めてバズっていた正宗白鳥の一冊から父母弟を見送る三篇50ページほどを選んでいる。

これらが概ね本書のアウトラインとも言うべき存在感を持っている。遠藤のフランス留学時のエッセイには自殺騒ぎを起こした女学生に触れたもの、そして独裁政権に抗したレジスタンスが地方で拷問処刑に手を染めたことを描きながら、ソ連に占領されて故郷を失ったポーランド人女性の孤独を描き込んでいる。

高浜虚子の「落ち葉降る下にて」は小説と分類されることもある作品のようで、ある温泉での体験を通して娘の死を経ての自己省察を描くもので、随筆と言われれば確かにそう読める文章になっている。温泉街での火葬場、火事、棺桶などを見ながらの無常観のようなものが現われている。

知らない名前の野々上慶一の文章は「『山羊の歌』のこと」として中也の生前唯一の詩集を刊行した人物によるもので、どのような経緯で引き受けたのかということなどを中也を中心に周辺人物のことなども触れた回想。中也の人物像も興味深いけれども突然お経を唱え始めるダダイスト高橋新吉が変すぎる。野々上は宮沢賢治全集を刊行した人物でもあり、そのことなどにも触れつつ、中也との縁になった小林秀雄のこと、装幀を引き受けた高村光太郎のこと、著者が家に入り浸っていた青山二郎のところに中也が訪れてきた時のこと、大岡昇平が中也について書き続けていることなど興味深い文学史の一断面になっている。

正宗白鳥の三部作は父、母、弟を見送る時のことを綴った文章。父の最後に立ち会いながら、「人間は苦痛なく死ねるようにつくられていないのだろう」という一文が印象的。老境で家族を見送り、冷静にその様を描いている様子にはなんとも言えないものがある。

川端の「末期の眼」は芥川の遺稿「或旧友へ送る手記」の「自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである」という文章を引いた有名なものだけれど、これを孤独のテーマとして据えつつ、直後に大庭みな子が川端と会おうとした時に空いていると言われた日に自殺されたというエッセイを置いて、
その川端自身の孤独を浮き彫りにするような編集になっているところも面白い。数ページの短い文章も多いので読みやすい。小説とされる文章を入れても違和感がないのも結構面白いところだ。

宮崎智之編『精選日本随筆選集 歓喜』

随筆選集第二弾。歓喜を題材に各人の喜びや愛したものなどについての随筆を収めていて、序盤は食べ物などから始まり、旅、風物、趣味芸術、動植物・自然などある程度カテゴリをまとめつつ並んでいる。中盤の薄田泣菫四連発は見どころ。

冒頭の武田百合子の作は蛇センターを訪れた時のことでそれもなかなか面白いんだけれど、てっきり一人で行ってるものと思われた文章の終盤に急に同行者「H」が出てきてかなり面食らった。連作ものの一篇なんだろうか。

開高健のタバコエッセイでオイルライターからガスライターへと時流が変わって行くことを嘆きつつジッポーのデザインを褒めているのだけど、私からすると100円じゃないライターといえばジッポーしかなく、ダンヒル、ロンソンというメーカーは知らないので代名詞的に生き残った理由を知れた気がする。

読む為に本を買っていると、そのうちに読まない本が沢山たまり、読まないことが苦になって、つくづく世の中がいやになる。119P

という福原麟太郎のエッセイの一節でほぼ自分と同じ感情が書かれていて笑ってしまった。

志賀直哉の随筆に「ゴー・ストップ」というプロレタリア文学が出てくるのが意外だった。貴司山治のこの長篇は大衆向けプロレタリア文学とも言われ、新聞小説でもあったためかエンタメ的な展開のうちに労働争議のノウハウが書かれていて実際に争議の手引きとして読まれたとも言われている。

北原白秋「ほう、ぽんぽん」は不思議な表題通り内容も不思議で、若山牧水の形容をした言葉なのか実際に鳴っている音なのか不明瞭なまま、この言葉の響きで一篇を仕上げている不可思議な文章。なるほど詩人の随筆らしいと思わせる魅力がある。

薄田泣菫の自然に関するエッセイが四つ続けて収められており、この自然に対する感受性の鋭さ、幸福を見いだす視点がかなり面白く、これだからこそ詩人なのだろうと思える。単に擬人化するとかではない、自然への共感のようなものがあり、魅力のある随筆だ。

夏目漱石「自転車日記」は、この本のなかで一番自由な日本語を使っている文章ではないかと思える。自転車に乗れない自分を描いて自虐的なユーモアを湛えつつ、様々な当て字や慣用句を改変したりした言葉を縦横に差し挾んでおり、自由自在の感がある。ちくま文庫の漱石全集10巻では註釈付きで本作が収められており、どのような参照先がありどういじっているかを指摘してあるので併読すると面白いと思う。豊かな学識、慣用句や故事成語を使いこなす文章力が己と自転車の関係をコミカルに描くことに全力で使われていて、とても読み応えがある。

長沢節「弱いから、好き」、戦時下の日本でマッチョさを排し、細身で弱々しく病的な人間像を美として提示し、美的な観点から反戦を体現するエッセイで、軍事教練を茶化したことで美大への道を絶たれたという経歴も合わせて非常に面白い文章だった。

佐多稲子の月に関するエッセイも面白いし、吉田健一の食に続いてある田舎町の魅力を描くエッセイなどなど、全体にそれぞれのポジティヴなものを描いている楽しさがある。第三弾も企画が進んでいる模様。

仙田学『スマホ野さだお君』

ボケバケ探偵団シリーズ第二弾、サブロー君シリーズでは通算第三作目の児童文学。いつもながら子供たちの関西弁も快調に、今作ではかわいいもの好きで従姉妹と女装を嗜む男子や、塾で遊べなくて友達に意地悪してしまう女子の話を妖怪との対決で解決していく。女装エッセイの書き手でもある著者らしい女装ネタも入れつつ、仲良くしたいのに意地悪してしまうような身近な子供の悩みを小さいうちに摘んでいく。サブロー君が無神経なキャラになりそうなところですべてを肯定していく言動なのが全体のポップさを支えている。

茨木のり子『歳月』

二十五年連れ添った夫が亡くなってから約三十年一人で暮らすなかで書きためていた夫への愛を綴った詩集。岩波文庫の茨木詩集にここから抜粋されたものがあり印象的だったのでちょうど文庫化されたこれを読んだ。孤独のなかで募る亡夫への思いを描いていてこんな真率な愛があるものかと思った。

その岩波文庫の詩集を読んだとき、自分の感受性くらい、など全体的には犀利な知性を感じさせる詩が多くて意外にも思ったけれど、最後に本書からの詩が出てくるとそれまでとはだいぶ違う色調の秘めた内心を露わにするような作風で驚かされた。見合い結婚だったらしい。生前発表するつもりがなかったというのが良く分かるような詩で、孤独と愛といえばやなせたかしの詩集のような平明で親しみやすさのある詩集だと思う。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

太陽を蝕むアストロファージなる宇宙微生物によって破滅する地球を救うためヒントがあると思われるタウ・セチ星系に送られた主人公が科学技術と友情で困難を解決していくSF小説。一言で言うと大長篇ドラえもんみたいな話。たぶん。

五年前に邦訳が刊行された時から大評判で、文庫化もし映画化によって既に著名すぎる作品となっているから特に説明も要らないだろうけれど、科学がプロットを推進する『宇宙の人』以来の作者の手腕が今回は異星系とファーストコンタクトにまでスケールを広げてやはり非常に面白い。だいたいの人は何が起こるかを伏せてとにかく読め、と言うのはこのファーストコンタクト部分の驚きを知らないまま味わわせたいからだろうけれど、私もファーストコンタクトということ自体は知ってたし、映画のPVで既にアピールされてるらしいのでそこを伏せてもしょうがないかな。

宇宙空間で遭遇した蜘蛛のような形をした異星人を出身星系からエリディアンと呼び、個体をロッキーと呼称して、それぞれの生息環境の違い、感覚の違い、技能の違いを知り合い、伝え合い、補い合いながらアストロファージ禍の解決を目指していく異星バディSFになっていくところは大変面白い。

ファーストコンタクトでの意思疎通、そしてアストロファージの研究とタウセチでその天敵を見つけ出して研究し、故郷を救わんとするプロセスは科学的探求が主軸となり、謎を解き明かし解決策を模索していくプロセスそれ自体の面白さで話が駆動していく。お互いの体のつくりの違い、常識の違い、そして最後のバディとしての相手への敬意と友情、旅の途中で偶然出会った相手との心の触れあいと、最後の決断、この感じは大長篇ドラえもんなんだよなと思わずにはいられなかった。そして最後は科学を教え伝えるというグレースの教師としての意識で締められる。

独身男性のグレースがたとえばストラットと恋愛関係になったりはせず、それは決死の片道切符を拒否する方便でもあるとはいえ一介の教師としての仕事を大事に思っていて、それが地球へ帰りたがる理由になっているのは愛する恋人や家族のためといったハリウッド映画的な枠組みから逃れる設定だろう。

『火星の人』が単独でのサバイバルだったのに対し、今作では二つの文明それぞれのサバイバルが出会うという順当な発展をたどっている。しかし第二作『アルテミス』はなんだか妙に影が薄くて私も未読だったりする。そのうち読んでみようとは思う。

本作の世界各国が協力して世界的危機に向き合うために中国、ロシアが大きな役割を果たしてアメリカ人が宇宙へ行く、というアメリカンドリームも、ロシアはともかく今やアメリカもがトランプによって公然と暴力を振りまく常軌を逸した国となってしまってはこの物語が夢物語すぎる感じが出てしまう。いや、アメリカは元からそうだよと言われればそうなんだけど。しかし同行者二人が死んだ原因はともかくかなり早い段階で葬送というか宇宙に投棄したのは何か意味があるのかと思ったけど別にそうでもなかった。

岩本敏男『ねむれなくなる本』

中公文庫のトラウマ児童文学シリーズ第四弾。シリーズはひとまずこの第四弾で区切りとのこと。児童文学とは何か、ということを問う「伝説の短篇集」らしい。離婚した家の子供、父に掛けられた冤罪、一家心中といった生々しい現実の事件・不安や、死者からの電話、UFOアブダクション、地球滅亡といった超常的な現象を扱う短篇が並列しており、両者を区分けできない子供の世界ならではの恐ろしさを描いているように思う。

最初の一篇は両親が離婚して母に引き取られたものの母は水商売で日銭を稼ぎ、そこで出会った男性と仲を深めたように見えつつ捨てられたのか泥酔して荒れていたところを子供に突き飛ばされ、冷蔵庫に頭をぶつけて死んでしまう様子を子供の視点から語るという嫌な話で、ここから本書が始まる。

嫌さということでは家族に望まれない祖母を引き取ることになった「一匹」が本当に生々しくて、家族に疎ましがられ、姉は鍵を掛けて自室に籠もり、主人公の子だけがおばあさんと一緒の部屋になってしまう。姉には匂いが移ったと難癖を付けられ、お祖母さんは姉の嫌がらせに遭う……。ボケ気味になった挙句に入院して記憶も怪しくなったまま亡くなるという……。

なかでも「あいつとおれ」では、ほとんど口を利かなかったクラスメイトとちょっとしたきっかけから縁ができ、父がサラ金に追われていて夏休みに引っ越してしまうことを知ったりという夏の少年のささやかな交流が衝撃的なラストを迎える。子供の世界を覆う大人の事情の陰鬱さ。

離婚した子供の話はほかにも、母に引き取られたものの父との面会で父の再婚相手と遭遇したりの微妙な状況のなかで自分の権利とは何なのかを考える「権利」、心中に巻き込まれた子供の視点で家族が全員死んだらしいことを知る絶望を描く「心中」など、子供の頃に読んだら本当に眠れなくなりそうだ。子供の視点ということでは、子供が行方不明になる事件をUFOのアブダクションなのか実際に誘拐されたのかが判然としない「坂道」の幻想性にその雰囲気が強く出ているように思う。大人たちは誘拐を言うけれど、当事者の子供は大人に連れて行かれたとは言わない、この不可思議さ。

徹底して子供の視線からこれらの諸篇が描かれているように思える。表題の本は全体の半分ほどで、増補されている連作短篇「あいうえお」は作者の自伝的なあれこれを五十音のキーワードごとに描いたもので、産まれる子供の視点など幾つかのアイデアが本篇と通底していて舞台裏とも読める。なかでも「イカとタコ」は熱心な理科の先生にこの二つの種が交配すると足の本数は何本になるのか、という質問を持って行ったら激怒されビンタされたという理不尽さを描いていて、しかも理由は一切分からず、大人の視点から腑に落ちる説明がされるわけではない子供の目線が印象的だ。

この増補短篇所収の本の後書きで、子供は純真無垢などではなく「悪党」なのだと書き、「そういうわけで、子どもは、殆どまるごと大人と同じなのです。人間なのです。忘れないでください、何をかくそう彼らは人間だったのです!」(273-4P)と書き記していることは特筆すべきだろう。

子供を理想化せず対等な「人間」として見る目線がこれらの諸篇の背景にあるわけだ。また、「子業」を務めたけれども「親業」はしなかったというエッセイのなかで、「家族」に対して感じる淫靡さや恐怖を述べた箇所も非常に印象的だ。

ひとり者のひがみなのだ。友人の家庭から解放されて、夜の道をあるきながら、私はそういいきかせます。そういうことにしておかなければ、私はたたかわなければならなくなります。家族といい家庭といい、かなしくて、このしたたかな集団とのたたかいをです。278P

子供や家族を理想化しないこと、むしろそれらへの怖れを抱くこと。「異端の児童文学者」と呼ばれた理由はこの辺りに窺える。子供、家族、そして日常。これらのものを当然と思わないスタンスがこれらの諸篇から滲む不安、恐ろしさの要因なのだろうと思える。

表題書や増補短篇にエッセイそして解説と、一読すると著者のスタンスがある程度まとまりのあるものとして見えてくる。もちろん本書だけ読んで全体像だと思うのは危ういとしても、一冊で著者のコアを提示するのが編集意図でもあるだろう。その役割は充分に果たしていると思われる。ツイッターでしか見たことがなかったからどういうものを書く人なのか知らなかった能町みね子の解説がなかなか読ませるものになっていて、へえこういう感じなんだ、と思った。
本書は担当編集様より恵贈いただきました。

小池壮彦『幽霊物件案内』

怪談界隈では著名な作者の有名な本のようだけれど私はまったく知らなかったので軽い気持ちで読んだ。実話怪談の祖型というのか、本人が体験したり知人から聞き知った話などで様々な怪談、奇談が語られるけど印象的なのはその文章の淡々としたドライさだろう。そのあっさりとした語り口で、怪奇な話、奇異な話が次々と語られていて、短い時には数行で終わったりするそのリズムで次々と読まされてしまう。おどろおどろしい話もあり、死者の呪いとかそういうのが匂わされることもあるけれど、あまり怪談でもない単に変な話もあったりするのが良い。途中で三津田さんという人が言及され、おや?と思ったら三津田信三が文庫版の解説を書いていてなるほど過去に出版社でホラー関連の本を担当していたのか、というホラー史の一幕がかいま見えるところも面白い。

小池壮彦『【完全版】日本の幽霊事件』

14年にわたり雑誌「幽」に連載されたものを元にした二冊の本を合本文庫化したもの。日本の、とはいうものの概ね東京近辺の事例を取りあげ怪奇事件の考証を試みるもので、怪談の裏にある陰惨な事件や話の改変などを跡づけていて面白い。ある陰惨な事件が起こり、その後にあった怪奇現象が事件と結びつけられて怪談、幽霊事件として成長していく様子を様々な事例から説き起こしていくなかで、鉄道事故、水難事故、戦前戦後のメディア史、文化史、風俗史を本人撮影の写真と共に垣間見ることができる。

前半では特に「八百屋お七」を「メディア・ミックスで盛り上げられた戦後最初の幽霊事件」と呼んで昭和30年代の怪談ブームの起点において戦後の怪談史に位置付けつるのも面白いけれど、番外篇での考証・推理が圧巻で非常に読ませるものになっている。鴎外『澁江抽斎』まで出てくる。

羽根木公園での幽霊事件から当時の不良グループの話になり、富裕な少女たちが悪行に手を染め、普通の少女を不良グループに売り飛ばす集団売春事件をおこし、しばしば首謀者が中学生だったりするなどの事件もすごいけれど、そこでソーラー族というのが出てくる。ミーハーの上なので音階の一つ上のソーラー族、というもじり方にも富裕層らしいところがあるけれど、後半13節、淀橋の箇所でこの一団が恋人と同士の進展をABCと名付けたというのが出てくる。新しい恋人のことを「おニュウ」、あるいは学校の試験に出題範囲があるのもこの一団の抵抗運動によるという。

ソーラー族というのは、ミーハー族よりも上と称する少年少女たちのことである。ドレミファのミファ(ミーハー)の上がソラ(ソーラー)という意味で、昭和三十年代に流行したグループだったが、あまり長続きはしなかった。しかし、この連中が編み出した造語が多少興味深いので紹介すると、新しい恋人のことを「オニュウ」と言ったり、 異性との関係がどこまで行ったかをA・B・Cなどと段階別にあらわすのは、もともとソーラー族の隠語だった。当初は「一塁」「二塁」「三塁」「ホームラン」と言っていた。「一塁」は手を握るだけの関係で、「二塁」がBの抱擁に該当し、「三塁」がAの接吻だった。細かい説明は省くが、いつのまにか「三塁」の価値が低下して、「一塁」は消えてしまったのである。
 学校の定期試験に〝出題範囲〟があるのも、昭和三十年代にソーラー族の高校生が学校と交渉して勝ち取った成果である。それまでは定期試験に出題範囲というものはなく、どんな問題を出されても文句は言えないのが普通だった。ゆえに生徒が苦労したため、ソーラー族の連中が出題範囲を決めるように学校と団体交渉したのである。P297-298

ABCはともかく出題範囲もそうなんだろうか。

怪談の背景にある陰惨な事故は、それによって安全管理が整っていく歴史の一コマでもあるし、犯罪史、文化史、メディア史の要素もあり、怪談が生まれる場所をたどることはそうした歴史と密接に絡み合うことでもあるのを窺える好著だ。

自殺者が多い玉川上水のことは人食い川と呼ばれており、著者が高校生の頃死体の汁のおかげで水道水がうまいのかと水道局に問い合わせ、死体の汁を飲んだ方が滋養強壮に良いと信じていたので塩素殺菌なんかよせと抗議した、というだいぶ変な話も書いてある。谷中霊園の事件のところで、著者が話を聞いた公園にいた老人が、六十年ほど前の事件の重要な目撃者で意外な説を教えてくれるというところなど、信憑性を疑ってしまうようなマジで?みたいな箇所も時々あって、結構胡乱なところもあるのが面白くもある。戦後のテレビ時代になると幽霊も天然色になるというのはメディアと怪談の関係を示す一節だろう。

最近邦訳されたイアン・ワトスンの短篇その他

イアン・ワトスンが亡くなり、前々記事で追悼として以前書いた書評を再掲したけれど、昨年から怪奇幻想文芸誌「ナイトランド・クォータリー」でワトスンの短篇の翻訳紹介が進んでいたので改めてそちらを読み、また逝去の時に出ていたのを知ったファン出版の短篇集などをつらつらと読んでいたので感想をまとめておく。NLQ誌には2025年6月の39号から今のところ四号連続で訳載されている。ナイトランドクォータリー掲載のワトスン作品はいずれも大和田始訳。

「慰めの散歩」(NLQ39号)

中国が覇権国家となった時代の英国ノーザンプトンで、チンパンジーの母親が死んだ子供を抱き続けることをヒントに、子を死産した母親がその遺児を科学的処置によって少しずつ縮んでいくように加工して、抱きながら道を歩くという奇妙なグリーフケアを描く一篇。中国人医師のテストケースに選ばれた主人公の女性がただ道を歩いているなかでのモノローグが作品の主体となっていて、奇想をベースにしながらも淡々とした調子を持っている。

乳房は知らない
赤ん坊が死んで産まれたことを。
だからキャベツの葉は湿っている。

と、漏れ出る母乳を薬で止めずにキャベツの葉を当てている様子を含めて詩にしてインタビューに答えるラストが印象的で、途中でもサイモン&ガーファンクルのスカボローフェアの詩が引かれるように詩の存在が重要なのも面白い。ノーザンプトンの通りには二重螺旋を発見したフランシス・クリックの碑石があるというのも面白い箇所だった。そういえば人種差別発言があった同じくその研究でノーベル賞を得たのはジェームズ・ワトソンで作者と同姓でもある。

「異星人がボトル詰めのために駐留する時」(NLQ40号)

人間たちが異星人の資源としてボトル詰めにされる様子を描く異星人侵略SFホラー掌篇。基本は書いたままの異星人侵略SFだけれども、インベーダー(侵略者)がインカマー(到来者)と言い換えられる冒頭のように様々な言葉遊びが核にある。ボトルよりバトル、オキュペイションの「職業」と「占領」といった二重の意味も重ねつつ、「アイ」デンティティ、「アイ」デニティ(視力検査)、「アイ」デアのアイ=私が、デカルトの一節に至り、語り手が異星人とデカルトの話をする奇妙な展開をたどる。そんななか、異星人へのテロ攻撃に及んだ人間に対する罰として巻き添えを食らい、語り手は片目を奪われることになる。ラスト、アイデンティティは「眼の身分証明」とルビを振られている。植民地化された人間が懲罰として目を奪われることで眼帯・「パッチ」のあだ名を自分に付け、「ペット」みたいだと自嘲する。植民地支配とアイデンティティの関係を風刺的に描いた短篇だろうか。

「溝の底にて」(NLQ41号)

魔術師とも呼ばれる学者から制作を命じていた天体儀を献上される「高帝陛下」の「余」の一人称で厳かに語られる、円盤形をしているという不可思議な世界の秘密とその危機の訪れが描かれる。読んでいるとこれはもしや?と思った辺りでジョークSFだと明かしてくれる。タイトルがダイレクトにそうなんだけど、これレコードの溝を都市として生きている世界の話だよな。円盤形の世界、二つの山の間にある都市、逆ピラミッド型のものが山を削って行く様子、「われらが宇宙はジョーク・ボックスである」というラストのセリフ。SFマガジンで「ライフ・イン・ザ・グルーヴ」として既訳がある。

「巨大な小人」(NLQ42号)

フランスの洞窟から広がる地下空間への冒険にジュール・ヴェルヌが参加し、語り手の女性は彼からの女性差別的発言を受けたりするなか、地下空間で意外な存在と出会う『地底旅行』オマージュ短篇。女性差別と人種差別が通底する話にも思える。ヴェルヌの才知と女性差別が同居するところから、地下で出会った人間たちのレイシズムを主人公アントワーヌは目の当たりにするわけだけれど、この女性の目から差別主義を見ていくことがヴェルヌの批判的読解でもあり、現代史のアレをそこに繋げるのも単なる奇想ではない意図があるだろう。『地底旅行』で同道するのがドイツ人のリーデンブロック教授とアイスランドの現地人ハンスで、今作でドイツがテーマになり人種差別が出てくるのはこの事情を踏んだものだろうか。『地底旅行』は主人公が旅を経て婚約者を得るという大枠だったわけで、女性を主人公にし、ヴェルヌ自身を作中に出すことで、彼の旧弊な価値観を俎上に上げている。それでもヴェルヌが世界大戦への批判的企図でもってSFを書こうとする様子を描くことでSFの反戦的意義を拾おうとしているように思える。最後の部分はなんとなくウェルズぽい気もするけどヴェルヌにタイムマシンが出てくる世界戦争ものってあるんだろうか。

イアン・ワトスンインタビュー(NLQ41号)

これがなかなか面白い。東京教育大学で教えていたというのは日本滞在歴があるというので知っていたけど東アフリカ大学でも教えていたという。また芸術史を教える学校でギー・ドゥボール流のシチュアシオニストパンフレットを配っていたというのはなるほどと思った。そして詩作もしていてブレイク、キーツ、ボードレール、ランボーの他セネガルの大統領で詩人サンゴールやフランス海外県マルティニーク島の詩人で政治家のエメ・セゼールなどを挙げている。かなり明確に左派としての立場を取っている印象だ。

「ろくに詩も書けない小説家が、フィクションの登場人物に詩人を名乗らせてはいけません」という痛烈な一節がある。『エンベディング』ではレーモン・ルーセルの詩が題材になっていたし、詩集も幾つか出していて、ワトスンにとって詩は思ったより重要らしい。

評価している書き手を問われて、まずアラスター・グレイを挙げ、次いでウエルベック、そしてバリントン・ベイリーやホセ・カルロス・ソモザ、そして親友だったジョン・ブラナーと続く。スタニスワフ・レム、安部公房そしてロバート・アーウィンの名が挙がっている。アーウィンは『アラビアン・ナイトメア』というのが国書から出ていたことだけを知っている。最愛の本はデイヴィッド・リンゼイ『アルクトゥールスへの旅』とのこと。サンリオSFで読んだなあ。ここ、原題に引っ張られたのか「旅」ではなく『アルクトゥールスへの航海』と記載されていて書名が間違ってますね。あと訳者が中村保男と中村正明の連名なのに後者が脱落している。

スーフィズムへの関心、日本の停滞への別視点、「アイロニーは知的なものですが、ユーモアとは身体的なものです」という一節、そしてさほど遠くない将来に世界は終わるので私はものごとを真剣に受け止めすぎることはできない、と興味深いことを言っている。我々の存在そのものの「滑稽さ」を指摘するところはワトスンらしい。長篇で悪い冗談のような結末に至る感じなのはこれか、という。キューブリックが企画しスピルバーグが映画化した「A.I.」で脚本を担当した話のワトスンサイドでの話も語られていて面白い。キューブリックが薦めたピーター・セラーズ主演の「チャンス」、このコジンスキーの原作は読んだな。

ナイトランドクォータリーは最近出たファン出版の短篇集と比べると、結構異色作を選んで紹介している印象がある。これからも紹介を続けていずれ一冊にまとめてほしいところだ。

『地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短編集』

というわけでファン出版として刊行された短篇集。本城雅之、木下充矢訳。本文140ページに加えてワトスンの詳細な作品リストがあり、既訳作品の探索にも未訳作品の把握にも便利だ。75年から90年までの短篇が七つ収められており、きちんと読み応えのある一冊。本文が短めのように見えるけれども雑誌サイズなので文庫にすると200ページ分くらいはあるのではないか。

「免疫の夢」、自分がガンになるという強迫観念に取り憑かれた主人公エイドリアン・ローゼンが、寝ている間に夢からの信号を体に伝えることを制止するストッパーを除去する脳外科手術を行なおうとするという話で、夢と現実の境界を裏返そうという主題は本書でも繰り返し出てくるその序章と言える。正直言って話が全然入ってこなくて三回くらい読み返してもいまいちどういう作品なのかが分からないけれど、癌は遺伝子の完全なコピーを保持する保守システムという理論や、夢は免疫系の管理をしており癌の発症を予測できるなどのSFアイデアが絡んでいく。

「ジェインといっしょに鉱泉室へ」、渇水によって鉱泉室に水を取りに行かなければならず、しかも階級によって時間に制限があるという時代に、ジェインは母と共に水を取りに行き、そこで八年前に婚約しかけた男性と出会う。彼はその後艦長という立場に成り上がっておりこの再会が幸福をもたらす。娘らしいロマンスへの期待や母の現実的な説得から婚約を断った男性を逃げた魚は大きいと諦めの悪い女性を描いた話だけれど、ジェインという名前や「分別と娘らしい思慮分別に説きふせられていなければ」という一節など、オースティンのパロディによって夢想と現実の落差を描いた作品だろうか。

「帰郷」、ソ連とアメリカが放射能兵器での戦争で壊滅し、アメリカが使っていたのは人間だけを殺す兵器で、ソ連が使っていたのは人工物をすべて破壊する兵器だったので、生存していたアメリカ人が脱け殻となったソ連へ移住を始め、次第に人々はソ連的になっていく、という諷刺短篇。冷戦時代、米ソ戦争の結果アメリカ人がソ連人になっていくというストレートな諷刺で、アメリカの爆弾は資産を破壊しない「超放射能爆弾」でソ連からは「超資本主義的爆弾」と揶揄され、ソ連の生き物以外の人工物をすべて壊す爆弾は「社会主義者爆弾」と呼ばれている。

「オオカミの日」、イギリスの田舎を再び森深い環境にしようという計画のなか、老婆が狼に殺される事件が起こる。その謎を追ううちに老婆は狼に変身したのではないかという疑いが主人公に兆す。赤ずきんの物語を踏まえつつ、開発した土地を再度森に戻すことは前近代の世界の復活を示唆する幻想譚。主人公がケニア出身のようでタンザニア製のランドローバーに乗っており、近場の工業地域はアフリカ人によって維持されているなど、この時代のイギリスはアフリカの勢力下にあり、イギリスが前近代へ戻る話なのも植民地主義、開発主義への批判意識だろう。

「地球の鏡の中で」、人々が眠りを必要としない「球地」、最低一人多くても九人の一日八時間眠る「眠る人」が存在する世界。その「眠る人」は「沈世」という世界の話を語ることができ、その内容はどうやらその世界と違う、つまり「地球」の話のようで、という裏返しの世界を描く一篇。我々の知る世界とは地名などが異なるこの世界は「霊紀史」と称されている。「球地」の人々は眠らずにいられると同時にその眠りの力を溜め込むことで時折放出して夢を具現化する現象を起こすことができる。それはしばしば何かと何かを繋ぐ建築物の姿を取ることも多い。夢を放出する力を持つ眠らない人々のうちの一人でアクィーノのトマス、トマス・ダクィーノを名乗る語り手と、その世界の鏡写しの別世界のことを知っている眠る人ラウールという二人の関係を描く話で、奇抜な設定でもっと長い小説にもできそうな不思議な感触のあるファンタジー。語り手の名前がトマス・アクィナスをもじったものなのは明らかだけれど意味は判然としない。ラウールが彼の元を去った後、語り手が横と横を繋ぐのではなく、高さという概念をラウールに教えられて塔を建てるラストも印象的だけれど、これは天あるいは「沈世」と繋ごうとしているのだろうか。

「スターリンの涙」、検閲と秘密主義ゆえに地図を意図的に不正確にすることが繰り返され、もはやオリジナルの地図、正確な地図とは何かが分からなくなってしまったある国で、その土地を詳しく知る人間だけが行ける地図にない場所が存在するという幻想小説。本書で最も長く、「地球の鏡の中で」とも似た別の世界がすぐ隣にあるという幻想性が都市幻想小説として現われている。ワレンチンは自宅に帰る道かから分かれ道に入り、愛人への道を選ぶとその道を歩いている家に時間が巻き戻り、若い姿になって愛人と会うことができる。あるいは、ある男性が女性と行為に及ぼうとしたら女性器からエクトプラズムが湧きだし、その男性のコピーとして本人と成り代わり、地図作成に従事するようになるという奇態な物語が語られ、地図作成部には行方不明者やスパイが入り交じる空間になっていく。しばしば不条理小説の舞台になってきた社会主義国の官僚組織テーマの一つと言えるだろう。面白いのは、地図に描かれない謎の場所があるというより地図の歪みがその未知の場所を作り出したという転倒が起こっており、卵のなかに世界地図が描かれているなど、真偽や表裏がひっくり返る趣向がある。これはそのままラストの展開になるのだけれど最後にトーンが変わるところはなかなか面白くて良かった。ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』や、イスマイル・カダレ『夢宮殿』などを思い出す。

「アーヤトッラーの眼」、イラクとの戦争で片目を失ったイランの少年アリは、指導者アーヤットラーが死刑を宣告した西洋の作家を見つけ出し処刑するためのプロジェクトに参加し、国は作家を見つけ出すために衛星を打ち上げ「アーヤットラーの眼」と称し、アリの義眼にその映像を映し出す。アーヤトッラーはイスラム教の高位の学者を指す用語らしいけれども、西欧ではイランのホメイニ師およびイランの最高指導者を指す言葉として知られているらしい。ということでサルマン・ラシュディにホメイニ師が死刑を宣告した話を受けて書かれたものなのは明らかだ。『悪魔の詩』は1988年に出版され、翌年に死刑宣告がなされ、本作は1990年に書かれている。ここで暗殺者アリは見つけ出した作家の前で自分の眼とアーヤットラーの眼、どちらが本当の自分の眼なのかに迷うことになる。この現実ともう一つの世界の主題は本書短篇群に多々現われるテーマだ。そしてラシュディは実際に近年襲撃を受け、片目を失明してしまう。片目のアリと作家の遭遇を描くこの一篇が奇妙に預言的になってしまった。

いずれも奇想短篇としても読めるけれど、かなり政治的、社会的批判精神が窺えるものもあり、ナイトランドクォータリー訳載分の女性視点の多い諸短篇と合わせて読むとイアン・ワトスンの批判精神が際立って見えてくる。初期長篇も西欧以外へ題材を取っていたことを思い出す。そして、夢と現実、偽の地図と本当の地図、アメリカとソ連、鏡の世界などなどの現実ともう一つの世界という構図が幾つもの作品で繰り返されているところも本書所収短篇では目立っている。これなどクリストファー・プリーストとも似ている資質のように思える。それでいてプリーストの繰り返し描く恋愛が結構保守的な印象があるのともかなり対比的な感じがする。小説としてのまとまりや形式に意識的なのはプリーストだけれど、西欧中心主義、植民地主義など世界の近代性というものに意識的なのはワトスンの方だろう。

私はAmazonのプリントオンデマンドで注文したけど、BOOTHでの注文の方が安いようだ。
地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短篇集 - vitaminsfpicopub - BOOTH

「アミールの時計」(『アザー・エデン』)

イギリスの大学生リンダと親しくなった首長国の王子のバニーは、ある時リンダを誘ってバーフォード教会の時計を見に行くことになる。その大時計は中世の時計と現代の時計の「進化の一段階」だというところから話は広がる。神は自らに似せて人を作ったと言うけれど、神にも内臓があるのか?とバニーは問う。人間が自分に似せてロボットを作ってもそこには基盤や半導体があるばかりで人間とは似ても似つかない。機械のなかに血と肉が見つかったら、オリジナルは一体どっちなんだと彼は問う。その後父をテロで喪い首長国の王となったバニーはそこで機械知性を研究する大学を設立し、この世界に機械知性の世界を上書きしようと試みていることをリンダに明かす。肉の世界と別の、機械の世界を幻視するまさに「アザー・エデン」という表題に相応しい作風。正直色んなことが未消化で分かったとは言えないんだけど、別世界を幻視してみせる強烈なアイデアはワトスンだなあという感じだ。ざっと検索してみると時計の進化は制作者を介して神の意志が関わっていて、機械を進化させるために人を進化させているというアイデア、でいいのかな。アラビア語の音楽性、アラブの建築のメッセージ性、キリスト教とイスラム教を対比しつつこのアイデアを組み立てているところが肝でもあるだろう。

今作のなかでメッセージを様々なピースに分解して送りつけて相手に解読をさせるくだりがあるけれど、今作も一読してはっきり分かるようには書かれてないように思えるのはこのように作品内容を精査して読解することを読者に要求しているからなのかも知れない。読者の知性を高く見積もりすぎている気がしないでもない。

言葉による不死 クリストファー・プリースト『不死の島へ』

「夢の文学館」叢書で読んだ『魔法』の後書きで知って以来、20年以上の時を経て翻訳されたプリーストの重要作品がようやく読めて感慨深い。*1

本書は著者がSFのみならず現代文学界にも知られるようになったSFアイデアとメタフィクションや語りの技法を組み合わせた作風の嚆矢となる長篇だ。長短諸作が属する「夢幻諸島」ものの最初の長篇で、「わたし」がまさにそれを創造する瞬間が描かれている。

夢と現実、虚構と現実の二つの世界の絡み合いや信頼できない語り手といった技法が大きく扱われ出したのが今作かららしく、『夢幻諸島から』『隣接界』といった夢幻諸島ものの原点で、『魔法』や『奇術師』『双生児』などといったSFと現代文学の融合的作風の始まりでもある重要作だ。一読して全容を把握できた気はしないけれども、「夢幻諸島」はフィクションの象徴のようでもあり、虚構、夢、不死性と死などが絡まり合い、「私」とは何か、「現実」とは何かが揺らぎ、そして通底するのは言語で現実・真実が指し示せるのかということへの疑念だろう。

本書では不死にまつわる記憶とアイデンティティの問題が物語や虚構性と密接に関わるところにSFアイデアの文学的応用がある。書くことによって自己自身を、人間をを定義し不死たらしめること。それは果たして可能なのかという問い。

とりあえずは内容について、以下途中までの話に触れるので注意。

架空の物語による自伝

1976年春28歳だったピーター・シンクレアは苦境に陥る。父が急死し、不況で会社を解雇され、家を追い出され、恋人と破局するという幾つものトラブルが立て続けに起こったからだ。そこで連絡を取った父の友人の計らいで田舎のコテージに住まわせてもらえることになり、彼はそこで自伝を書きはじめる。人生の危機にさしかかった自分を見つめ直すため、自己の人生を書くプロジェクトだ。しかしそれはすぐ暗礁に乗り上げ途絶してしまう。事実と記憶の違いなど様々な問題が現われ、ピーターは完全な真実を描くためには完全な偽りを書くことが必要だと思い至り、改めて書かれるのが「夢幻諸島」の物語だった。

ついにわたしの物語はどのように語られねばならないか、はっきりとわかった。より深い真実は偽りによってのみ――言い換えるなら、メタファーを通じてのみ――語られるとすれば、完全な真実を達成するためには、完全な偽りを創造しなければならなかった。わたしの原稿はわたし自身にとってのメタファーにならなければならない。
 わたしは想像上の場所と想像上の人生を創り出した。39P

比喩や虚構の力を通じて真実を描く。ここに本作の物語論・虚構論の一端が現われる。コテージに籠もって自伝や架空の世界に置き換えたフィクショナルな自伝を書く現実の舞台の話は、途中からその夢幻諸島での別のピーターを語り手とした作中作が始まる。

夢幻諸島と不死技術

夢幻諸島世界のピーターはくじ引きで不死の権利を手に入れる。宝くじコラゴ社は不死技術を発明し運用しているけれども、富裕層や権力者の独占などで不公平感与えるのを防ぐために処置対象者は完全な抽選で選ばれることになっており、ピーターは偶然買ったくじで当たりを引いた。夢幻諸島は北と南に大きな大陸があり、そこにある国同士が戦争をしている。その間にある海に独自の行政や文化を持つ多数の島が散在しており、ピーターはジェスラという都市から不死処置を受けるために夢幻諸島のコラゴ島へ向かうなかで、様々な島を経巡り、ある女性と出会い関係を深めていく。

このジェスラは現実におけるロンドンに当たる都市で、現実で破局したグラシアという女性は夢幻諸島ではセリというピーターの宝くじの代理人に当たる。虚構のなかでセリを創造し、彼女を通してグラシアを理解しようとしている、とピーターは言う。虚構の物語を通してグラシアを理解しようとしているわけだ。

コラゴに着くまで不死処置を受けるかどうか迷っていたピーターはまだ若く、死の危険を感じることもなく、自分が不死に相応しいとも思えず、ほぼ断るつもりでいた。しかし、直前の健康診断で機械が打ち出した余命は五年、医者によれば脳動脈瘤がいつ破裂してもおかしくない状況だと知らされることで話が変わってくる。死の不安とは無縁でいられたピーターに急な死の危険が迫ってきたことで、彼は不死処置を受けざるを得なくなる。そこで必要になるのが膨大な質問票だった。不死処置では記憶が失われるため元の人格を再現するには大量の情報が必要になるという隠されていた重要な事実が明らかになる。ハードウェアは同じでもソフトウェアがリセットされるとすれば、それは同じ人間と言えるのか。個人的にも明らかに別人だろうとは思うけれども、死の危険が間近に迫るなかではそんなことを考えている暇はない。ピーターはそこで自分が書いていた自伝を提出する。ロンドンが出てくる自伝だ。

夢幻諸島のピーターは現実のピーターとは逆に、ロンドンという架空の都市出身のピーターとしての自伝を書いていた。夢見たものが夢見られるというボルヘス的とも言える虚構の相互貫入。そして不死のピーターはその虚構から再構成された情報によって自己を形作らざるを得ない。夢幻諸島のピーターの自伝はロンドンやヒトラーなど、夢幻諸島にはない言葉で書かれており、担当者はそれらをいちいちカットしたり夢幻諸島で当てはまるものに置き換えてピーターに説明しなければならなかった。現実を虚構化しそれを更に現実化する手続きによって不死者ピーターが生まれている。

その原稿は独立したアイデンティティであり、瓜二つの自己だった。それでもそれはわたしの外にあり、固定されたものだった。わたしは年を取るが、それは取らない。破壊することさえ不可能だった。タイプライターで文字を打たれた紙を超えた生命を持っていた。仮にわたしが燃やしたとしても、あるいはだれかに奪われたとしても、それはどこかより高い次元に存在していた。純粋な真実は年を取らない性質を持っており、それはわたしよりも長生きするだろう。41P

不死技術とは紙に書かれた人間が永続的な命を持つこと、つまり創作の比喩にほかならない。人間が紙のなかに描き出した人間が現実の人間よりも長い命を持つこと。もちろん自伝や随想でもいいはずだけれども、今作ではそこに「完全な真実を達成するためには、完全な偽りを創造しなければならなかった」という創作性を加えており、それが今作の鍵となって複層的な構造を生んでいる。

虚構と現実の浸食

二つの世界で相互に描かれた虚構的な自伝を経て作中の虚構と現実、夢幻諸島とロンドンとの境界が揺らいでいく。現実には存在しないはずの虚構の人物が現実のロンドンに現われ、そして今まで現実だと思っていたものが虚構だったと暴かれる。そもそもフィクションによって仮構された「わたし」によって語られた現実とは何か。

物語・フィクションによって仮構された「わたし」が語るものが現実と言えるのか、という問いはソシュール言語学以降の、言語は実体を指し示しているのではなく恣意的な記号によって構成されるという言語の恣意性と重なるものだろう。本作冒頭でまさに言語の不確実性を語っている箇所を思い出してもらいたい。それ故、現実のロンドンと夢幻諸島のジェスラが相互にどちらが実体だと確定づけることはできず、しばしばそれらは入り交じり裏返り、メビウスの輪のように表が裏に繋がっていくような状態が現われる。指示するものと指示されるものの関係は不確定な揺らぎを抱え込む。

P・K・ディック的な現実崩壊感覚は初期プリーストも書いていたけれども、牧眞司氏が指摘するように『不死の島へ』の直前の作『ドリーム・マシン』はVR技術を題材に夢と現実が入れ替わるような話だった。本作はその構造を言語と物語・フィクションのレベルで再演したと考えられる。
【今週はこれを読め! SF編】相互に侵蝕するふたつの物語〜クリストファー・プリースト『不死の島へ』 - 牧眞司|WEB本の雑誌
現実が夢と入れ替わるような現実崩壊感覚を突き詰めていけば、小説としての基底現実となる言葉自体、そしてそれを語る主体を疑わねばならない。そうして、書かれた言葉や語ることそれ自体の危機を見いだすことで、SFの主題をメタフィクション・小説とは何かを問う小説として結実させたのが今作ではないか。

現実と想像の隙間

ここでは明かさないけれども、終盤の展開でなぜ今作が不死性をめぐって書かれていたのかがすとんと納得できるような箇所が出てくる。それも事実(本作においてそれは決定不能かも知れない)かどうかは判然としないけれども、言ってみれば死者をテクストにおいて蘇らせようとする不可能な行為をめぐる小説だったのだろう。しかしそれは決定的に不可能だというところから始められている悲しさがある。

さらにまた言葉が現実と一対一対応ではないからこそ、恣意性によって作られているからこそ、別様の形で幻想のなかで死者を蘇らせることもできるということかも知れない。死者をテクスト上に描き出すことで生き返らせようとするけれども、それは記憶の連続性を欠いた別人でしかなく、語り手の歪曲を得た上で作られたものにすぎず、テクストの範囲でしか存在できないものでしかない、そういう絶望がある。ピーターは自伝やフィクションを書きそれを恋人に読んで理解してもらおうとしたり、自己をめぐるメタフィクションにはエゴイズムの匂いがするけれど、同時にそれを責め苛むものとしての側面も感じられる。

ノミネートされた結果として、デロアンヌはのちに『拒否』という題名の熱のこもった本を書き上げた。そのなかで、デロアンヌは、不死を受け入れることは死を否定することであり、生と死は不可分に結びついているため、生の否定でもある、と主張した。自分の小説はすべて、避けがたい死を自覚していることで書かれており、いずれもその自覚抜きでは書けなかっただろうし、 書くつもりもなかったであろう、と作家は記している。彼は文学を通じて、おのれの生を表現しているが、これは本質において、ほかの人たちが自分たちの生を表現するやり方と変わりはしない。永遠の生を切望することは、生を犠牲にして生きることを獲得することになるであろう。98P

書くことによって対象を永続化することは、コラゴでの不死処置のような不連続的な偽物にしかならない。それは自分だろうと他人だろうとそうだ。しかし、人はいつでも自分なりの想像、物語、フィクションを紡いでしまう。その分裂が無数の島として生み出される、そういう印象も感じた。

本作で最初にぐっと来たのは父の兄ウィリアムおじさんのエピソードだ。悪ふざけの天才で幼い父にとって英雄だった彼は、語り手のところに現われた時も嵐のように興奮する体験をもたらし消えていった。その後両親はおじは海外にいるといい、幼い語り手はその英雄譚への想像を逞しくしていたけれど、事実は違った。ウィリアムおじさんは語り手と会った数日後に武装強盗を働いて収監され、獄死していた。幼い彼の想像のなかで海外で英雄的な冒険をするおじと、刑務所にいるおじ、想像に基づく真実と事実に基づく真実、この二つについて語り手が考える場面は本書の鍵とも言える。


原題に使われているaffirmationは、断言、肯定、確約といった意味があるようだ。信頼できない語り手による断言、不死の確約、自己の肯定と当てはめていくとどれも本書では皮肉な響きを持つ。人生の肯定を翻訳ツールで訳すとAffirmation of lifeと出てくる、そういう語のようだ。

書かれた自伝によって不死の人間を作るという設定は、VRの仮想世界に人格をアップロードするみたいなSFと似ているんだけど、話は逆で、前に書いたようにプリーストはこの前にVRもののSFを書いてからそのテーマを小説の仕掛けとして落とし込んだ今作を書いているのは面白い。

息詰まった人生、上手くいかない恋愛、架空の島々の観光を描きつつ(島の一つで有機物が石化する滝という奇妙で象徴的な挿話がある)、本書は仕掛けのある小説なのでそういうものが好きな人には特におすすめ。


「夢幻諸島」ものに属する『隣接界』は、不死のテーマが扱われていて今作の直接の延長と言える。「夢幻諸島」ものでは時間の進みの奇妙さや空間の歪みなどが諸島の特有の現象として出てくるけれども、本作ではまだそこまで設定が加えられていない、原初の姿がかいま見えるのも面白い。

今作は不死を通して小説というものへの問いがあるわけだけれど、小説というシステムをさらに掘り下げたところに『魔法』がある。そのことについては文庫化された時に書いた以前の記事がある。もう20年前の記事だけど、だいぶ頑張って書いてるなって思える。
inthewall.hatenadiary.com

ついでに「われ、腸卜師」を読んだ。SFマガジン2004年8月号のプリースト追悼号掲載の中篇。最初はなかなか状況が分からなかったけれど、癌組織だかの肉片を口にすることで時間を止めたり巻き戻したりできる腸卜師が未来から来た別の腸卜師と遭遇するなかなかの怪作。

ゲーム会社からのクトゥルーに関連づけて欲しいという依頼元からのオーダーで、地下から襲い来る何者かがいるというものになっているようで、組織片を食べることでそれを留めているというのもだいぶ変なんだけど、戦間期の英国に第二次大戦時のドイツの軍用機が墜落してくるという話も入ってくる。軍用機は沼に墜落し掛かっているところで時間が止まっており、主人公の腸卜によって時間が止められ墜落を免れているなか、コックピットには主人公に助けを求める何者かがいて、腸卜で時間を巻き戻すことで彼を救出するという展開になっていく。バラード「時間の庭」を思い出しもする。肉片を調理してなんとか食べられるようにしてくれる館に務める夫人と、腸卜に絡んで体の関係を持っていて、この肉片と肉欲の関係も何か不気味で陰気なところがあり、この関係を未来の腸卜師に自分の役割、存在理由を奪われるといういわば寝取られる趣向でもある。

解説によると夢幻諸島もののいくつかの断章と関連があるらしいけれども詳細は把握していない。悪食趣味と女性関係の展開、それと第二次大戦にかかわる時間ネタと非常にプリースト的なモチーフがぎっちり詰め込まれた作品なのは確かだ。

*1:この影山徹による装画はベックリン「死の島」を思い出させる。タイトルが「死の島」を含んでいるし、踏まえているのではないか

イアン・ワトスン追悼、『エンベディング』評再掲

イアン・ワトスン逝去の報を聞いた*1。最近でも「ナイトランド・クォータリー」誌で短篇が訳載され、インタビューも載っていたのでさすがに急な報せで一瞬何かの間違いかと思った。しかし。70年代以降の英国SF作家として、芸術派のクリストファー・プリースト、アイデア派のイアン・ワトスンと並び称された同年生まれの作家が二人とも没してしまったのは時代の流れを感じざるを得ない。二人とも、既訳書はほぼ読んでいる作家だった。

第十七回文学フリマに「幻視社」で参加します - Close To The Wall
この機会に、2013年の文学フリマで頒布した「幻視社」第七号で行なった〈未来の文学〉特集で私が『エンベディング』について書いた書評を再掲する。今何か書くよりもこの時の自分の方がワトスンに詳しいので。

『エンベディング』

 ワトスンのデビュー作となるこの長篇では、アイデアの核としてフランスの作家レーモン・ルーセルの詩『新アフリカの印象』が使われている。作中では理解不可能な代物、として度々言及されるもののどういう詩なのかというのが具体的に書かれておらず、読者にとって隔靴掻痒の感がある。例として、日本で唯一訳された粟津則雄訳「第三の歌 血が出るまでなめると黄疸の癒る柱」(『シュルレアリスムの詩 シュルレアリスム読本1』思潮社1981年)から基礎部分を引用する。

英雄的治療法だ! 舌が貧血しないようにと
少しもひっこめたりはせず、他の無数の阿呆のあとで、
この柱の脇腹をなめてなめてすりへらすのは!
だが赴かぬ何があろう、従わぬ何があろう、
明らかなものにせよ架空のものにせよ、希望に心を奪われて、
己れの病気を癒そうという、希望に心を奪われて。

 これが第三の歌の基礎だ。この第五行、「希望」のフレーズをきっかけとして、その次の行に

(希望よ! 人を動かす挺の王よ! 思いもかけず訪れるあらゆるアメリカの伯父

という括弧が挿入される。そして、「アメリカの伯父」に触発されて次の行では二つ目の括弧が開かれ、アメリカについての詩文が挿入され、それが終らぬ内にその詩文の「鼻」という言葉によってまたさらに新しい括弧が開かれていくという形で、基礎部分の行間に四つや五つの括弧が開かれ、その括弧のなかにさらに注釈という形で別の括弧が開かれるので、ルーセル論で一冊書いたミシェル・フーコーによれば、最大で九重の深度で括弧が開かれていくという異様な形式を持っている。二行ごとに脚韻を踏んでいく形式なので、括弧が開かれる時や閉じる時、注釈に移行する時や戻る時にも脚韻で連続していくことで一つの連なりが出来ている、という詩になっている。さっきの引用の五行目以降は原文ではこうなっている。

Fasciné par l'espoir, palpable ou chimérique
( Espoir ! roi des leviers ! tout oncle d'Amérique
( Ce pays jeune encore, inépuisé, béni,

 結局、一つの話が終らないうちに次々と新しい話が展開していくため、順に読んでいくと理解が追いつかない。ルーセルの詩法はこれだけに留まらず、実は小説の方でも最初と最後の一文が意味は違えどほとんど同じになる文章を用意し、その間を埋めていくような形で書かれたものがある。『アフリカの印象』『ロクス・ソルス』での奇妙な見世物や発明品の数々はこうした地口によって言葉から言葉を生み出すようにして作られていく。ルーセルは当時としては珍しいキャンピングカーによる旅行で注目され、新聞記事にもなったのだけれど、実際にはアフリカへ行ったことがなく、車の中でずっと本を読んでいたらしく、さらに「私は、これまで一度も、これらの旅行を、私の本の素材にしたことがない。このことは、私にあって、想像力がすべてであるという事実を示している」というほど引きこもり気質の、言葉の世界に強い執着を持つ作家だった。
 そしてルーセルの詩法を文章単位で行うのが、言語学で「自己埋め込み(セルフ・エンベディング)」と呼ばれるものだ。順番に繋いでいくならまだ理解できても、一つの文の真ん中に割り入れるように新しい節を埋め込んでいくマトリョーシカ的文章は、非常に理解しづらい。
 この『新アフリカの印象』のような「自己埋め込み」言語を用いて子供を育てて行くことで、我々の一般的な言語の外に出ようとする試みが、作中でクリス・ソールの行う実験の眼目となる。そしてもう一つのプロットを構成するのが、南米のゼマホアと呼ばれる部族での社会人類学者ピエール・ダリアンの動向となる。ピエールはそのゼマホアでフィールドワークをしながら、文化と言語の関係を探っていく。ゼマホアの言語での時制にかんする特徴や、数や抽象概念を周囲の動植物などで表現する仕方から、ゼマホアはより直接に現実を知覚していると彼は主張する。

でもゼマホアの心にとって、時間は直接的な体験としてある。そして時間は命題の持つ無限変化する抵抗に応じてシフトする。時間はジャングルの中の、まわりにあるモノという形で、直接的に知覚できる。

 西洋の言語に対して、現実を直接知覚する「インディアン」の言語、という対立がここで示される。また、ゼマホア言語は周囲の生態系と密接に関連しており、ダムの底になって沈みそうになっている状況は、言語そのものの消滅を意味し、ここに南米諸国と北米の経済的対立からくるテロリズムが関係する。言語学を軸にしつつ、西洋と未開という優劣関係を逆転させる構図があるわけだ。これはこれで「未開」概念の安易な逆転でもあるけれども。
 そして、ここで異星人「スプ・トラ」が現われることで事態は急展開する。異星人は宇宙を旅しながら、さまざまな技術を収集しており、特に言語を重要視している。それは、一万三千年まえに遭遇した別の異次元的な存在と再会するために、「この現実」を越えることを望んでおり、そのために地球の言語を、特に深い自己埋め込み構造を持つゼマホア部族の言語を取り引きの材料として要求することになる。
 ここにおいて「埋め込み」概念は、現実を越えた別の現実へ逃れ出るための象徴と化し、南米のダムに沈むばかりとなっている部族が異星人との重要な交渉材料として浮上してくる。
 どの陣営の者たちにとっても「言語」は現実を知覚するためのもので、そのため、この言語次第で現実を越えた現実を触知することができるのではないか、という思想が横溢している点が、今作のきわめて特徴的な点だろう。その意味で、言葉による創作に非常な熱意を注いだルーセルが本作の象徴的な存在として出て来るのは至極当然でもある。
 言語学的理論を背景にしたハードSFといえ、そうした科学的な発想と同時に、西洋と未開という現実の構図と、そこに突っ込まれる異星人というぶっ飛んだアイデアの差し込み方は、今ある現実に「埋め込」まれたことを超え出たいという衝動を強く感じさせる。
 しかし、異星人との交渉がリアルポリティクスの都合のなかで台無しにされてしまったり、ゼマホアでのドラッグ漬けにされた妊婦から生れる赤子とピエールの同行者カヤピの顛末など、今作の終盤はきわめて皮肉なリアリズムによって展開しており、別の現実、現実を直接体験すること、といったような熱っぽいスローガンがきわめてアイロニカルに見られている点も注目されるべきだろう。
 これ以降も、クジラに人間の意識を刷り込む(インプリンティング)『ヨナ・キット』や、墜落した探査機から漏れた火星の土がアンデスの住民に意識の変容をもたらし、インカ帝王復活を唱える『マーシャン・インカ』といった他の長篇でも、またマイクル・ビショップとの共作『デクストロⅡ 接触』でも、同じく現実の認識、意識の変容といった人間の認識を超えるアイデアと、他の意識や生物とのファーストコンタクトの要素を持った作品を書いている。
 本作では特に、その人間の認識を超える方策を言語に求めたところが特徴的で、さらにはレーモン・ルーセルという奇特奇態な作家をアイデアの核に持って来るという発想のとんでもなさがきわだっている。
 山形浩生が言うように、小説としては確かにどれも似通ったプロットになっているけれども、このアイデア作家としての炸裂力と、いろいろなものを台無しにするような展開の皮肉ぶりはやはりとても面白いものだ。これ以降翻訳がされないようだけれども、驚異のアイデア作家の作品がもっと読めないものだろうか。
イアン・ワトスン
一九四三年、イングランド最北のノーサンバーランド生まれ。タンザニアや東京で英文学の講師などを経験した後、SF作家となる。日本滞在経験がSFを書くきっかけとなったというように、多くの作品で日本が出て来る。本文での言及以外に短篇集『スロー・バード』、ファンタジー三部作『川の書』『星の書』『存在の書』がある。

この書評、ここぞとルーセルについて詳しく書いているのが笑ってしまう。2005年頃に集中的にレーモン・ルーセルを読んでいたので。なお「ゼマホア」インディアンというのは伊藤計劃の「The Indifference Engine」でのゼマ族ホア族の元ネタだろう。これ以前に書いたものとして過去ブログでの2005年のワトスン記事もリンク。『エンベディング』に始まって、『オルガスマシン』と『ヨナ・キット』について書いている。
inthewall.hatenadiary.com
ここでリンクされてるbk1に投稿した書評というのがリンク切れしていて、bk1がhontoに変わりそして紙の本の取り扱いがなくなってしまったので直リンクできるURLがない。一応以下のレビュー一覧から一応見ることは出来る。というのも手間なので、こちらも転載してみた。
kingさんのレビュー一覧 - honto

下記の理由からレーモン・ルーセルファンとしてはとりあえず読んでおかないと、と思って手を出してみた。意外に、いろいろな意味でSFらしいSFという印象だった。最近は色んな所で、SFがミステリとかファンタジーとかのレーベルを付されて人気を博しているけれど、どう頑張ってもSFとしてしか売ることのできない、正攻法でかつ破天荒なSF小説だと思う。
 
この小説の基本アイデアは本書の解説や幾つかの書評なんかでも説明されているけど、簡単に言ってしまえば、言語と認識が密接に関係しているという(通俗?)言語学の知見から出発して、いかれた言葉を喋れるなら、いかれた現実を知覚できるのではないか、という仮定を立てる。作中では、人工的に作られた特殊な言語を幼児期から覚えさせ、それによって認識の限界を超えようという実験が行われることになる。そこで特殊な言語の下敷きになっているのが、なんとルーセルの“あの”いかれた詩、「新アフリカの印象」だ。
 
私のブログで邦訳の引用と説明を書いたので参照して欲しい。改めて簡単に説明すると、ひとつの文章が終わるあいだに数百行の付記事項(最大五重の括弧と、註)が夥しく内部にはめ込まれていくという独特の形式で綴られ、延々と長いその迂回を辿るあいだに、その前に何が書かれていたのかさっぱり思い出せず、どこをどう読めば意味が通るように読めるのかを判別することにすら困難を覚えるような代物である。
 
「変な詩です。実際問題として、現実的に読めない。ホントに文字通り読めないんです。できが悪いってことじゃない——とんでもなく独創的です。でも、それは言語学で“自己埋め込み(セルフ・エンベディング)”と呼ばれるものの、最もキチガイじみた実例なんです」59P
 
こんなものを子供に教え込む、といういかれてるとしか思えないアイデアだけれど、これは実は「人間の限界とは何か」という多くのSFが追求してきたテーマだろう。正攻法というのはそういう意味で、「認識の変革」だとか「センスオブワンダー」とか古典的なSFの形容詞に似つかわしい作品ではある。
 
ただ、正攻法とはいっても、この小説、その突き抜け方がかなりおかしいことになっている。ルーセルの詩を持ってくる部分もそうだけれど(主人公のクリス・ソールChris Soleという名はルーセルの長篇「ロクス・ソルスlocus solus」のもじりか)、ブラジルの少数民族のドラッグを使った儀式の結末や、とつぜんやってくる宇宙人たちが要求してくる品物とがそれぞれトチ狂っていて、なんだかたがの外れた展開へと突入していくクライマックスは笑いがこみ上げてくるほどしょうもない(つまらないという意味ではない)。ただ、訳者が解説に書いているように、誰が一番良い思いをしたのか、という点を考えると、皮肉の効いたラストではある。
 
旧作を読んでもそうなのだけれど、広げに広げた風呂敷を、クライマックス近くになってどうたたむのかという読者の期待を、確信的に大きく外してくる。その外し方がまたとんでもなくて、呆れかえるか大笑いするか、どちらかだろう。私は笑った。この頭のおかしさは積極的に肯定したい。
 
読んでいて思い出したのは、たとえばルーディ・ラッカーやバリントン・J・ベイリー。ラッカーはヒッピー文化の匂いがワトスンにも共通しているし、ベイリーは架空の物理論をでっち上げたり、宇宙最強の武器を猿に持たせて云々なんていうトンデモ展開を書いたりするところに似たものを感じたのだが、どうだろうか。そういえばベイリーの未訳はまだ結構あるようだけれど、いま出せるとすればこの叢書しかないんじゃないか。第二期はないものか。

*1:滞在中?のスペインのサイトで出ている訃報がソースの模様

友田とん『「手に負えない」を編みなおす』

地下鉄の仮設の漏水対策に何故か興味を惹かれ日々その観察をしていたその記録から出発して、「手に負えないもの」として著者に見いだされた日々手当されて維持されるインフラというものへの関心が、言葉や記憶のインフラ性への発見に至り、そして記憶が再編成されるまでを描く特異なエッセイ。

第一部の「地下鉄にも雨は降る」のパートは柏書房のnoteでも連載されており当時から読んでいて、普段人が視界に入れつつもそこに大きな関心を持つことのない街中の些事に目を向けてみる街歩きエッセイとして面白く読んではいた。ただ、どういう発展性があるのかはその当時良く分からなかった。著者はこの地下鉄パートの後、他の手に負えないものとの向き合い方を付け加えて完成になる腹づもりだったようだけれど、まったく上手くいかずにかなりの時間を掛けて第二部を書き継いだようで、二部はまさに簡単にまとめられないようなものを含んだスケールの大きさがある。

第二部は読みながらわけも分からず圧倒されたような不可思議な感触があり、ロジックが通っているのかどうかも分からないままに漏水対策から著者自身の幼少期の記憶にまで足を伸ばし、元に戻ってきたかと思えば元の場所が前とはまるで違うものに書き換えられていた、という異様な筋道をたどる。

『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』の結末で著者は旅の果てで目的のものを最初から持っていたことを発見する、という旅のメカニズムを自ら再演していてそれが感動的だったわけだけれども、今作は似た旅路をたどりつつよりラディカルな主張が展開されていて驚かされる。

半導体技術者の大野稔さんという人物のことはこれまで著者が繰り返し書いている。NHKスペシャルで見た彼と知己を得て、書くことについてのアドバイスをもらい、幾つかは実践しながら、しかし植物事典を買って植物に興味を持ちなさいと言われたことはずっと果たせないでいた。このことは友田とん読者には周知のことだろう。しかし本書では漏水対策に興味を持つ自分とは何だろうと記憶をたどり返していく果てに、洗濯機の排水溝の網目で小豆から出た芽を見つけ育てていた過去を思い出し、しかし思いだしたのではなく今はじめて経験したかのようだと述べる。

「大野さんのアドバイスによって過去の私が植物に興味を持ったのだ」という一見意味不明な言明。カフカによってその先駆者が作り出されたと述べるボルヘスのようなロジックの転倒があって、しかしこれが著者の実感なのだという。ある謎を持って記憶をたどるなかで過去に今それを発見する。それは確かに今発見したことというに相応しい。むしろ元々そうだったのだ、という類の想起の仕方こそが実感に反した定型文での思考ではないか、と思わせる。ある本を再読してこんな文章があったんだと発見する時、それは今その時発見したもので元々知っていたものではない、というか。

この体験をしてから、私は植物にわずかながらも興味を持つ者へと変わった。大きな事件や出来事によって私が急に変わったわけではない。時間をかけて、ほんの些細な記憶をたどるうちに、過去の些細な出来事をありありと思い出すことによって変わったのだ。これは現在において変えられないはずの、手に負えない過去や因果を編みなおすような体験だった。229P 太字は原文傍点

言葉で過去を想起しつつそれによって今がまた変わること。日記を書く過程での過去の編み直し、今の編み直し。それによって自分自身が日々編みなおされていく。

近所の公園や道路の工事というインフラの手当は、翻って自分自身やその身体のことにも思考が進んでいく。「手に負えないことと可笑しさは表裏一体だったのだ」(233P)という一文があるけれども、人が年を取って自分の病気や身体のことを話題にするのはまさにその一例だと思った。民芸やウィリアム・モリスを引いての手仕事の重要性や、数学において具体例が重要なことなど、そして著者の昔住んでいた家の間取りを思い出すことや事務所の間取りにどう家具を置くかを考えたり、具体性の重要さが指摘されている。つまり漏水対策はインフラを考える必須の具体例なわけだ。

徹底した具象の観察があるからこそ抽象へ飛躍して広がることができる、第一部と二部はそういう関係になっている。「だいたいのアンザン」でミニチュアが出てきたことや本書の民芸や手仕事への言及は、思考において手で触れるものの重要性を示唆している。

そして漏水対策の観察は、自然と人工の違いがあるとは言え、どこか自然観察にも似ているのではないだろうか。日々変わるものごとのつぶさな観察はそのまま自然へもスライドしうる。土に浸みた水が漏れてくる漏水は、土の水を吸い上げる植物とまさに裏表、対の関係ではないだろうか。


記憶、言葉、身体。漏水対策についてのエッセイが、インフラという言葉を経て、生活のなかの手仕事や自分自身の日々の変容についてにまで話題が広がる、というか回帰していく。その過程がそうしてほとんど旅のように感じられる、そういうエッセイだった。長い旅をともにしたような感触がある。謎を携えながら年単位で時間を重ね、何かを見つけ出すまで続ける、その感嘆すべき粘り強さ。そして『『百年の孤独』を代わりに読む』も『パリのガイドブック~』も本書も、いずれも書くことについての大野稔さんの宿題をいかに果たすかというプロジェクトになっている。

大野さんという存在がいかに作家友田とんにとって重要なのか。そのことを思い知る一冊でもある。


「ジョン・ウィルキンズの分析言語」でボルヘスは中国の百科事典での奇抜な分類を示して、それをフーコーが『言葉と物』で引いたことが本書でも言及されるけれども、本書での想起のロジックはボルヘスの「カフカとその先駆者たち」での「おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである」を思わせる。そして、ある一つの具体例にはすべてがある、というのは回転するコマのような小さなものを本当に知ることができればすべてを知ることができる、というカフカの「こま」を思い出させる。本書はどこかカフカ、ボルヘス的なところがあるように思う。他に読んでいて思い浮かんでいたのはニコルソン・ベイカーの諸作やジャック・デリダの書名『たった一つの、私のものではない言葉』(文庫化で改題された)だったりした。

あと思ったのは、もっとも身近な手に負えないものとは自分の身体ではないかということだった。中高年の人が己の病状を笑い話にして話すのはそれがおかしいことだから。

おまけ 岩城一郎『日本のインフラ危機』

友田さんが紹介していたので参考にと読んだインフラ本。首都高速道路公団、東北大学を経て日大工学部工学研究所所長となり、コンクリートの耐久性向上、インフラメンテナンスを専門とする著者による新書。インフラ危機の啓蒙とともに産学官民が連携してインフラの維持管理を向上させる施策の取り組みを紹介している。

日本のコンクリート建造物、とりわけ橋梁に注目するとその建造ピークは1960、70年代に集中しており、これらが目安となる「50年」を経過するのがおおよそ現在となっている。国土が狭く地形も平坦でない日本は特に橋の数が他国と比べても膨大な数になっていて、橋の密度は数倍数十倍にもなる。橋梁、道路、高速道路、上下水道、さまざまなインフラの基礎知識を概説しており、特に二章のコンクリート構造物がどのように作られ、劣化するかを解説した箇所は土木の科学という感じで面白い。コンクリートの状態でどのような劣化が進んでいるかが簡単に把握できるようになるかも知れない。

コンクリートは耐荷重には強いけれども引っ張る力には弱く、そのため鋼材を入れることで強度を得ているけれども鋼材が錆びてしまうとコンクリートを破壊してしまうという仕組みになっており、これをいかに防ぐかという話や、寒冷地で凍結を繰り返すと劣化していく話、海近くでの塩害などなど。こうした劣化に対してさまざまな施策が行なわれており、著者は発電所などで生まれる微細な灰、フライアッシュをコンクリートに混ぜ入れて耐久性の向上を図った話などの工学的解説は面白い。

こうした工学的なものと、著者自身が各所自治体でインフラ管理においてどのような取り組みを行なってきたかという住民や行政の絡んだ話がそれぞれ触れられており、技術的対策と社会的対策が後半では重要なものとして描かれていく。人口が減少し、自治体でも専門的知識の持ち主が減っていくなか、地域住民が関わることでインフラ管理の目を増やしていくことを目指していく話は読者としても他人事ではない、というか本書はまあまったく他人事ではないんだけれど、大きな問題に小さな解決で構成されているきらいはある。

ピークが偏っているためにインフラの劣化が集中的に訪れるさなかにある現在、さまざまな対策が行なわれ、それぞれが効果を上げていくとしても、本書では悲観的な見方をあまり露わには書いてない印象がある。序盤で危機感を描いても後半で色々対策を示して終えるので一読それなりに希望が感じられる。しかし建設業の人手不足や後継者問題などネットで色々断片的な危機的な状況が指摘されるのを見ると、どうだろうか、と手に負えなさに茫漠とした気持ちになるところはある。焼け石に水の話をしているのではないかという気がしてしまう。大問題を提示して小解決を提示している感じがある。

最初の予算はいくらか高く付いてもそれによって長寿命のインフラを建てられればトータルコストは遥に安く付くという話があるけれど、貧乏人がものをこまめに買うことで損をするという事例のように、そうした予算が付けられるほど自治体に余裕があるか、という問題もありそう。

那須正幹『屋根裏の遠い旅』と上野瞭『ちょんまげ手まり歌』

中公文庫のトラウマ児童文学シリーズとして続けて刊行された二作を読んだ。鈴木悦夫『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の復刊の売れ行きが好調なこともあってシリーズ化されたようで、ここで取りあげた二作はいずれもSF的趣向で反戦、反全体主義の作風だ。その点鈴木作とはやや色合いが異なる。

両著とも担当編集様より恵贈いただきました。ありがとうございます。

那須正幹『屋根裏の遠い旅』

小学生の省平と大二郎の悪ガキ二人が学校の屋根裏で遊んでいたら、戦争に勝利し未だ戦争を続けている日本に迷い込み、その似て非なるパラレル日本で戦時下の人々を日常的に支配する軍国主義、全体主義の有様を体験する、平行世界反戦SF児童文学。ズッコケシリーズで知られる那須正幹の初期作品だという。

平行世界の日本ではクラスメイトや街並み、家族構成などさまざまなものが少しずつ変わっており、戦争に行って父が不在だったり、戦地で脱走した兵士の娘が顔は一緒だけれど姓も名前も違っていたり、自動車がコークスで動いていたり、その節々に戦時下の影響が現われている。最初は少年二人も違和感を覚えながらも戦艦大和が健在で見学に行けると知ってはしゃいでカメラを持ち込もうとして没収されたり、大和の弱点や元の世界での知識をついぺらぺら喋ったことから憲兵に睨まれたりしてしまう。大和や原爆のことを喋ったせいで家宅捜索をされ、級友にはスパイと言われて避けられたりと、現代日本の子供が軍国主義日本の空気が読めずにトラブルを起こしてしまう。そうした迫害の部分と、同じく転移者の仲間を見つけたことで帰還へのヒントが手に入る。この二つの軸が話を引っ張っていく。

学校教育の場で軍国主義的教育が行なわれていく細部の様子ももちろん反戦児童文学としての読みどころでもあるけれど、本書が非常に読み応えのあるものになっているのは、山上先生と金森千穂の存在にある。金森千穂は元々の世界では林昌子という悪ガキ二人にとっては小言を言われて面倒くさいタイプの同級生だったようだし、山上先生も怒りっぽい人だという描写があるけれど、特に山上先生は最後、二人を命がけで救出しようとすることで、省平に大きな影響を与えることになる。

山上先生はこの世界の常識に従って省平たちを怒ったりするけれど、それでもスパイを糾弾する憂国塾に土下座しに行ったり、二人のことを身を挺して守ったり、それがすべてこの世界においての常識に従いながらも児童のことを一心に思っての行動だと言うことが後からはっきり分かってくる。戦時下日本の善良な一般の人間の存在が本作に厚みを与えている。また、意地悪な同級生、愛国主義団体や憲兵たちといった悪意を向けてくる連中からの妨害には挫けなかったけれども、金森千穂や山上先生といったスパイとのつきあいを善意で本気にして心配してくれる人たちの行動こそが二人の元の世界への帰還を阻んでしまうという皮肉がある。

元の世界から来た正木先生、湯川さんの二人が省平たちにとって仲間で味方なんだけれども、うるさい先生もまた彼らのことを真に思っている人だったことが、この世界は自分が生きる場所なのだと彼らに思わせる。この世界のことにどこか他人事だった省平が真に自分がこの世界で生きることに向き合わせる。

権力や暴力を振るう存在、そうした悪玉と省平たちにとっての味方になる敵味方の二分法だけではなく、その世界の常識に則りながらも思いやりと善意でもって生きている普通の人間の普通の善良さを描いている、このことがとても大事だと思う。

本作の結末には驚いたけれど、戦時下に変わってしまったという状況から一瞬で元の世界に戻るという簡単な結末を許さない、それこそが肝だろう。平行次元のギミックはむしろ戦時へ至る空気への変化の比喩でもある。だとするならすぐ元に戻るようなものではありえないわけだ。そう考える時本書のSF設定は何一つ空想的なものではなくそのままの現実を描いたものとして読まれる必要がある。気づいた時には一瞬にして戦時下の空気になっている、という現実を描いたものとして。

それにしても……。おれは、きのうから考えつづけていたことを、もういちど自分にたずねていた。いったい、なぜこんなことになっちまったのか。山上先生を殺し、金森に大やけどをさせ、おれたちの屋根裏を灰にしたのは、だれなのか。260P

たしかにこわかった。目の前にころがった死体や、手にこびりついた人間の皮を地面にこすりつけながら、おれはぶるぶるふるえていたように思う。でも、そのこわさは自分が死ぬかもしれないというこわさと、ちょっとちがった感じのものだった。この世界の人間でもないこのおれが、この世界のできごとで死ぬはずがない。そんな自信みたいなものがあった。253P

誰か、という問いにはもちろん自分も含まれていて、それが最後の選択に繋がる。

しかしこれ、平行次元に行かずとも戦後生まれの子供が戦時下日本に行っても似たような話にはできそうだ。もちろん似て非なる人たちの平行次元のギミックが重要にはなっているけれど。現代人が数十年時間を遡れば、たとえばジェンダー観などでは異国に来たかのような違いを感じられるだろう。

上野瞭『ちょんまげ手まり歌』

六つになる子は「やさしい」子になるか「畑に入る」かして、大人たちはみな足を引きずって歩く「やさしい藩」でのおぞましい支配と管理のありさまを描くディストピア時代小説児童文学。

六つになる娘が家老から「やさしいむすめ」にしてやろうと言われる冒頭を読んで、普通こういうものだと娘を権力者に差し出せという類の話かと疑ったけれども、六歳だしさすがにそれはないだろうと思ったら、冒頭からずっとなんでこの人たちはこうなのかという謎の答えが分かるところで最初の戦慄がある。この藩では六つになる子は「やさしいむすめ」「やさしいむすこ」にさせられるというのがどういうことか分かってなかなかぞっとしていたら、「畑に入る」というもう一つの場合にどうなるかがわかるとさらにぞぞっとくる。

ディストピア管理社会が「やさしい」と言いくるめられ、疑うこと、知ること、外へ出ることすべてが禁じられ、それらが殿様による慈悲というコーティングをされて、人々を抑圧しながらそれに内心レベルでも違和感を起こさせないような言語レベルでの操作が描かれている。山を越えようとすると「山んば」に取り殺されて食われてしまうよという外敵の設定によって、危険な山に行かないようにされることがやさしさとして表現される。そしてこの藩では勇ましく戦う夢を見る「ユメミの実」だけが産物として外界との交易の材料として存在している。

この実は内心そして夢までも管理される象徴で、外への志向、「夢」そのものをも抹消するものでもある。また戦意高揚の幻覚剤めいていて、武器しか産業のない国のようでもある。人々を閉域に閉ざし、身体も生死も言語も夢も管理する恐るべきディストピアが児童文学の平易さで描かれているわけだ。

色々興味深い細部があるけれども「ユメミの実」の品質管理を描くところが印象的だった。各人の収穫した実をこれまでは六人が実際に食べて見た夢を照合することで出来を判断していたのがこの年、一人だけが試験者となり、しかも実際に食べずに判断することになった。極めて恣意的な業績評価をするわけだ。収穫したユメミの実をはねられると収穫者はその年の食糧を得ることができない、これは異分子に狙いを付けて苦しめるために行なわれている。そして産物の評価を属人的なものにするこの過程は、権力者への疑いを禁じ公正さを無視するもので、政治的な独裁や政策の検証をする学問の否定の示唆と読める。

「どうして、弥平は、考えようとするのか。どうして、じぶんの頭で考えようとするのか。考えることは、迷うことである。考えようとすることは、わしの言うことを、うたがおうとすることである。わしは、みなのため、やさしい藩一国のため、どんなことでも、きめておるのだ。わしの考え、わしの言うことは、みなの考え、みなの言いたいことである。」173P

家老はこうして人々の思考を否定する。「石になる」ことを人々に要求する。さむらいとその家族が勇ましい夢を見させるユメミの実を育てる以外に産業のないこの藩は軍事国家の比喩でもあるだろう。軍国主義、全体主義体制を時代小説のフレームで描いているわけだ。

今こことは異なる時間軸でディストピアを描く本作はほぼSFと言って良いものだけれど、これが時代小説の枠組みで描かれている意味を考えるなら、ディストピアは決して未来的テクノロジーに依存したものではないということではないか。いつの時代でもこうした社会は生まれうる危険性を示唆している。

作者が後書きでこれは時代小説ではなく「現代」を描いたものだと言う通り、1968年に刊行された本作は、今読んでも生々しいリアリティを持って迫ってくるものがある。『屋根裏の遠い旅』同様、SF的趣向で軍国主義、全体主義への警鐘を鳴らす作品群だろう。『屋根裏の遠い旅』と似た点としては最後の主人公の選択がある。大人になること、その社会で責任を持った一人の人間として立つこととはどういうことなのか、この二作で二人の作者も同じ選択肢を提示している。

しかし誰にも顔を見せずにすべてを家老の指示で済ませる殿様は天皇の露骨な示唆なんだろうけれど、現代でも議会を軽視し議論から逃げ他人の責任に押しつけ続けることで似たようなことができるとは思わなかったな。