読んでツイッターに投稿してからずいぶん経ってるのも多いけど、「最近」読んでいた諸々。文芸誌、エッセイ、怪談、SF。
木村友祐「殺しの時代における都市型狩猟の観察」(「すばる」2026年2月号)
害虫獣駆除の仕事をしている青年が子を救出する親ネズミと目線が合ったことからはじめ、動物飼育の趣味を持つ後輩との交流などを経て、動物と人間の、そして戦争の時代における暴力との関係を身体的に経験していく中篇小説。
パワハラ上司による売り上げ重視の仕事ぶりや小動物を安易に踏み殺すような暴力的なあり方を一方に置き、もう一方に同僚や後輩ら動物に関心がある人たちを置き、排外主義批判の運動に携わる元恋人への対抗心で純日本人を採用するといって問題になった会社に入った主人公が置かれる。害虫獣駆除の仕事、職場の人間関係、そして戦争という三層のレイヤーにおける暴力への感受を繋ぎ合わせ、小動物や虫相手などの場合では殺す・命を支配する側でも職場や社会のなかではいつ殺される側になってもおかしくない、という相対性や可換性のなかで暴力について描いていく。
元恋人の社会運動への拒否感や今の会社が炎上して是正されたとはいえ右翼的な体質があったことを理由に入社した主人公小熊は、しかし暴力を是とする人間ではない。飲食店でトラップに掛かった子ネズミを処置しようとして親ネズミの視線を感じて対面した時、「え、何。なんか用?」とつい人に対するように話し掛けてしまう。恐怖や動揺といった怯えから来るものでも、そこにはコミュニケーションの契機を発してしまっている。ネズミを交流可能な存在と見てしまうこの瞬間は今作でも重要な箇所ではないかと思う。
だからこそ上司のネズミを踏み殺すような暴力性には従えず衝突してしまう。害虫獣駆除の仕事とは言え、生命をもののように無残に扱うことには抵抗があるわけだ。たとえば虫ならわりとつぶせてしまっても、ネズミ程度の小動物を殺せるかと言われれば、結構難しいのは分かる。
今作は動物倫理といっても肉食の忌避ではなく、敬意をもった肉食を描いている。社内の窓口に通報してもうやむやにされてしまう上司岩倉の顔面を攻撃し美容上の理由と言って休職を余儀なくさせるという社内の誰もやれなかったことを達成したのは小さなネズミだった。その殺されてしまったネズミを、小熊はなんと食べようとする。これはだいぶ衛生的に問題があるだろうと思えて、読んでて抵抗感もあったけれども勇者のネズミ親子を丁重に葬送するためにさまざまな手順を踏んで、その肉から勇気を得るために食べようとする姿には何らかの倫理がある。
ラストに明示されてるように、本作はたとえば『イサの氾濫』などのような木村友祐の革命幻視小説の系列にもある作品で、だから必ずしも非暴力を訴えるわけではない。革命、抵抗のための力は常に必要とされている。肉を食うという生命の循環に即くことに命の価値を見いだしているかのようだ。
おそらくはガザ、パレスチナの惨状が想定されているように、イスラエル、アメリカの陰惨な暴力には人間を人間とも思わない、動物視する契機が含まれており、ガザのみならずイラン、レバノンへと戦線を拡大し続ける状況で政治家からこぼれる言葉が本作を想起させることもしばしばある。人間同士でも動物と見なされ虐殺される時代において、駆除すべき動物と向き合う立場からその様相を描いた作品だ。人間としての生活をする以上、肉も食べるし害獣も駆除しなければならない、そういうバランスの上にある倫理。
小熊、鵜飼、桑野といった動植物的名前に対して、パワハラ上司は「岩倉」という非生物的名前を持っている。岩倉もまた父の実家の奄美大島、妻の実家の石垣島に自衛隊基地があり、戦争への危惧を抱いている。しかしそれまでにやれることをやっておく方が良いという天災視した発言になってしまう。この戦争の天災視は「反戦」運動から距離を取る自分を正当化するロジックとしてありふれているようにも思う。
宮崎智之編『精選日本随筆選集 孤独』
「随筆復興」を掲げ、随筆もまた芸術だと主張する編者による随筆選集。最初のテーマは「孤独」として長短さまざまな作品を収める。本書のコアにあるのは文学に「絶対の孤独」を見る安吾「文学のふるさと」だろうか。
教訓すらないアモラルなものに突き放されたような物語や挿話を紹介しつつ「生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」を文学・人間の「ふるさと」だと述べる有名な一篇だけれども、文学のふるさとは孤独だとする随筆を孤独のテーマとして本書に選ぶことで随筆もまた文学だとする意図がありそうだ。孤独と言うとおり多くが家族との死別や距離感を主題にしていて、坂口安吾の「文学のふるさと」の前に同じ安吾の「石の思い」という一般に短篇小説と分類されている作品が置かれ、母との愛憎、父との距離が描かれ、これは「文学のふるさと」の孤独のその背景を描いているようだ。これらの文章を読んでいると安吾が愛される理由が分かる気がする。
安吾の二篇が本書のちょうど真ん中に配され、前半には編者がしばしば推奨している遠藤周作のデビュー作のフランス滞在時のことを描いたエッセイ集から二篇60ページほどを収め、後半にはこれもまた編者が薦めてバズっていた正宗白鳥の一冊から父母弟を見送る三篇50ページほどを選んでいる。
これらが概ね本書のアウトラインとも言うべき存在感を持っている。遠藤のフランス留学時のエッセイには自殺騒ぎを起こした女学生に触れたもの、そして独裁政権に抗したレジスタンスが地方で拷問処刑に手を染めたことを描きながら、ソ連に占領されて故郷を失ったポーランド人女性の孤独を描き込んでいる。
高浜虚子の「落ち葉降る下にて」は小説と分類されることもある作品のようで、ある温泉での体験を通して娘の死を経ての自己省察を描くもので、随筆と言われれば確かにそう読める文章になっている。温泉街での火葬場、火事、棺桶などを見ながらの無常観のようなものが現われている。
知らない名前の野々上慶一の文章は「『山羊の歌』のこと」として中也の生前唯一の詩集を刊行した人物によるもので、どのような経緯で引き受けたのかということなどを中也を中心に周辺人物のことなども触れた回想。中也の人物像も興味深いけれども突然お経を唱え始めるダダイスト高橋新吉が変すぎる。野々上は宮沢賢治全集を刊行した人物でもあり、そのことなどにも触れつつ、中也との縁になった小林秀雄のこと、装幀を引き受けた高村光太郎のこと、著者が家に入り浸っていた青山二郎のところに中也が訪れてきた時のこと、大岡昇平が中也について書き続けていることなど興味深い文学史の一断面になっている。
正宗白鳥の三部作は父、母、弟を見送る時のことを綴った文章。父の最後に立ち会いながら、「人間は苦痛なく死ねるようにつくられていないのだろう」という一文が印象的。老境で家族を見送り、冷静にその様を描いている様子にはなんとも言えないものがある。
川端の「末期の眼」は芥川の遺稿「或旧友へ送る手記」の「自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである」という文章を引いた有名なものだけれど、これを孤独のテーマとして据えつつ、直後に大庭みな子が川端と会おうとした時に空いていると言われた日に自殺されたというエッセイを置いて、
その川端自身の孤独を浮き彫りにするような編集になっているところも面白い。数ページの短い文章も多いので読みやすい。小説とされる文章を入れても違和感がないのも結構面白いところだ。
宮崎智之編『精選日本随筆選集 歓喜』
随筆選集第二弾。歓喜を題材に各人の喜びや愛したものなどについての随筆を収めていて、序盤は食べ物などから始まり、旅、風物、趣味芸術、動植物・自然などある程度カテゴリをまとめつつ並んでいる。中盤の薄田泣菫四連発は見どころ。
冒頭の武田百合子の作は蛇センターを訪れた時のことでそれもなかなか面白いんだけれど、てっきり一人で行ってるものと思われた文章の終盤に急に同行者「H」が出てきてかなり面食らった。連作ものの一篇なんだろうか。
開高健のタバコエッセイでオイルライターからガスライターへと時流が変わって行くことを嘆きつつジッポーのデザインを褒めているのだけど、私からすると100円じゃないライターといえばジッポーしかなく、ダンヒル、ロンソンというメーカーは知らないので代名詞的に生き残った理由を知れた気がする。
読む為に本を買っていると、そのうちに読まない本が沢山たまり、読まないことが苦になって、つくづく世の中がいやになる。119P
という福原麟太郎のエッセイの一節でほぼ自分と同じ感情が書かれていて笑ってしまった。
志賀直哉の随筆に「ゴー・ストップ」というプロレタリア文学が出てくるのが意外だった。貴司山治のこの長篇は大衆向けプロレタリア文学とも言われ、新聞小説でもあったためかエンタメ的な展開のうちに労働争議のノウハウが書かれていて実際に争議の手引きとして読まれたとも言われている。
北原白秋「ほう、ぽんぽん」は不思議な表題通り内容も不思議で、若山牧水の形容をした言葉なのか実際に鳴っている音なのか不明瞭なまま、この言葉の響きで一篇を仕上げている不可思議な文章。なるほど詩人の随筆らしいと思わせる魅力がある。
薄田泣菫の自然に関するエッセイが四つ続けて収められており、この自然に対する感受性の鋭さ、幸福を見いだす視点がかなり面白く、これだからこそ詩人なのだろうと思える。単に擬人化するとかではない、自然への共感のようなものがあり、魅力のある随筆だ。
夏目漱石「自転車日記」は、この本のなかで一番自由な日本語を使っている文章ではないかと思える。自転車に乗れない自分を描いて自虐的なユーモアを湛えつつ、様々な当て字や慣用句を改変したりした言葉を縦横に差し挾んでおり、自由自在の感がある。ちくま文庫の漱石全集10巻では註釈付きで本作が収められており、どのような参照先がありどういじっているかを指摘してあるので併読すると面白いと思う。豊かな学識、慣用句や故事成語を使いこなす文章力が己と自転車の関係をコミカルに描くことに全力で使われていて、とても読み応えがある。
長沢節「弱いから、好き」、戦時下の日本でマッチョさを排し、細身で弱々しく病的な人間像を美として提示し、美的な観点から反戦を体現するエッセイで、軍事教練を茶化したことで美大への道を絶たれたという経歴も合わせて非常に面白い文章だった。
佐多稲子の月に関するエッセイも面白いし、吉田健一の食に続いてある田舎町の魅力を描くエッセイなどなど、全体にそれぞれのポジティヴなものを描いている楽しさがある。第三弾も企画が進んでいる模様。
仙田学『スマホ野さだお君』
ボケバケ探偵団シリーズ第二弾、サブロー君シリーズでは通算第三作目の児童文学。いつもながら子供たちの関西弁も快調に、今作ではかわいいもの好きで従姉妹と女装を嗜む男子や、塾で遊べなくて友達に意地悪してしまう女子の話を妖怪との対決で解決していく。女装エッセイの書き手でもある著者らしい女装ネタも入れつつ、仲良くしたいのに意地悪してしまうような身近な子供の悩みを小さいうちに摘んでいく。サブロー君が無神経なキャラになりそうなところですべてを肯定していく言動なのが全体のポップさを支えている。
茨木のり子『歳月』
二十五年連れ添った夫が亡くなってから約三十年一人で暮らすなかで書きためていた夫への愛を綴った詩集。岩波文庫の茨木詩集にここから抜粋されたものがあり印象的だったのでちょうど文庫化されたこれを読んだ。孤独のなかで募る亡夫への思いを描いていてこんな真率な愛があるものかと思った。
その岩波文庫の詩集を読んだとき、自分の感受性くらい、など全体的には犀利な知性を感じさせる詩が多くて意外にも思ったけれど、最後に本書からの詩が出てくるとそれまでとはだいぶ違う色調の秘めた内心を露わにするような作風で驚かされた。見合い結婚だったらしい。生前発表するつもりがなかったというのが良く分かるような詩で、孤独と愛といえばやなせたかしの詩集のような平明で親しみやすさのある詩集だと思う。
アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
太陽を蝕むアストロファージなる宇宙微生物によって破滅する地球を救うためヒントがあると思われるタウ・セチ星系に送られた主人公が科学技術と友情で困難を解決していくSF小説。一言で言うと大長篇ドラえもんみたいな話。たぶん。
五年前に邦訳が刊行された時から大評判で、文庫化もし映画化によって既に著名すぎる作品となっているから特に説明も要らないだろうけれど、科学がプロットを推進する『宇宙の人』以来の作者の手腕が今回は異星系とファーストコンタクトにまでスケールを広げてやはり非常に面白い。だいたいの人は何が起こるかを伏せてとにかく読め、と言うのはこのファーストコンタクト部分の驚きを知らないまま味わわせたいからだろうけれど、私もファーストコンタクトということ自体は知ってたし、映画のPVで既にアピールされてるらしいのでそこを伏せてもしょうがないかな。
宇宙空間で遭遇した蜘蛛のような形をした異星人を出身星系からエリディアンと呼び、個体をロッキーと呼称して、それぞれの生息環境の違い、感覚の違い、技能の違いを知り合い、伝え合い、補い合いながらアストロファージ禍の解決を目指していく異星バディSFになっていくところは大変面白い。
ファーストコンタクトでの意思疎通、そしてアストロファージの研究とタウセチでその天敵を見つけ出して研究し、故郷を救わんとするプロセスは科学的探求が主軸となり、謎を解き明かし解決策を模索していくプロセスそれ自体の面白さで話が駆動していく。お互いの体のつくりの違い、常識の違い、そして最後のバディとしての相手への敬意と友情、旅の途中で偶然出会った相手との心の触れあいと、最後の決断、この感じは大長篇ドラえもんなんだよなと思わずにはいられなかった。そして最後は科学を教え伝えるというグレースの教師としての意識で締められる。
独身男性のグレースがたとえばストラットと恋愛関係になったりはせず、それは決死の片道切符を拒否する方便でもあるとはいえ一介の教師としての仕事を大事に思っていて、それが地球へ帰りたがる理由になっているのは愛する恋人や家族のためといったハリウッド映画的な枠組みから逃れる設定だろう。
『火星の人』が単独でのサバイバルだったのに対し、今作では二つの文明それぞれのサバイバルが出会うという順当な発展をたどっている。しかし第二作『アルテミス』はなんだか妙に影が薄くて私も未読だったりする。そのうち読んでみようとは思う。
本作の世界各国が協力して世界的危機に向き合うために中国、ロシアが大きな役割を果たしてアメリカ人が宇宙へ行く、というアメリカンドリームも、ロシアはともかく今やアメリカもがトランプによって公然と暴力を振りまく常軌を逸した国となってしまってはこの物語が夢物語すぎる感じが出てしまう。いや、アメリカは元からそうだよと言われればそうなんだけど。しかし同行者二人が死んだ原因はともかくかなり早い段階で葬送というか宇宙に投棄したのは何か意味があるのかと思ったけど別にそうでもなかった。
岩本敏男『ねむれなくなる本』
中公文庫のトラウマ児童文学シリーズ第四弾。シリーズはひとまずこの第四弾で区切りとのこと。児童文学とは何か、ということを問う「伝説の短篇集」らしい。離婚した家の子供、父に掛けられた冤罪、一家心中といった生々しい現実の事件・不安や、死者からの電話、UFOアブダクション、地球滅亡といった超常的な現象を扱う短篇が並列しており、両者を区分けできない子供の世界ならではの恐ろしさを描いているように思う。
最初の一篇は両親が離婚して母に引き取られたものの母は水商売で日銭を稼ぎ、そこで出会った男性と仲を深めたように見えつつ捨てられたのか泥酔して荒れていたところを子供に突き飛ばされ、冷蔵庫に頭をぶつけて死んでしまう様子を子供の視点から語るという嫌な話で、ここから本書が始まる。
嫌さということでは家族に望まれない祖母を引き取ることになった「一匹」が本当に生々しくて、家族に疎ましがられ、姉は鍵を掛けて自室に籠もり、主人公の子だけがおばあさんと一緒の部屋になってしまう。姉には匂いが移ったと難癖を付けられ、お祖母さんは姉の嫌がらせに遭う……。ボケ気味になった挙句に入院して記憶も怪しくなったまま亡くなるという……。
なかでも「あいつとおれ」では、ほとんど口を利かなかったクラスメイトとちょっとしたきっかけから縁ができ、父がサラ金に追われていて夏休みに引っ越してしまうことを知ったりという夏の少年のささやかな交流が衝撃的なラストを迎える。子供の世界を覆う大人の事情の陰鬱さ。
離婚した子供の話はほかにも、母に引き取られたものの父との面会で父の再婚相手と遭遇したりの微妙な状況のなかで自分の権利とは何なのかを考える「権利」、心中に巻き込まれた子供の視点で家族が全員死んだらしいことを知る絶望を描く「心中」など、子供の頃に読んだら本当に眠れなくなりそうだ。子供の視点ということでは、子供が行方不明になる事件をUFOのアブダクションなのか実際に誘拐されたのかが判然としない「坂道」の幻想性にその雰囲気が強く出ているように思う。大人たちは誘拐を言うけれど、当事者の子供は大人に連れて行かれたとは言わない、この不可思議さ。
徹底して子供の視線からこれらの諸篇が描かれているように思える。表題の本は全体の半分ほどで、増補されている連作短篇「あいうえお」は作者の自伝的なあれこれを五十音のキーワードごとに描いたもので、産まれる子供の視点など幾つかのアイデアが本篇と通底していて舞台裏とも読める。なかでも「イカとタコ」は熱心な理科の先生にこの二つの種が交配すると足の本数は何本になるのか、という質問を持って行ったら激怒されビンタされたという理不尽さを描いていて、しかも理由は一切分からず、大人の視点から腑に落ちる説明がされるわけではない子供の目線が印象的だ。
この増補短篇所収の本の後書きで、子供は純真無垢などではなく「悪党」なのだと書き、「そういうわけで、子どもは、殆どまるごと大人と同じなのです。人間なのです。忘れないでください、何をかくそう彼らは人間だったのです!」(273-4P)と書き記していることは特筆すべきだろう。
子供を理想化せず対等な「人間」として見る目線がこれらの諸篇の背景にあるわけだ。また、「子業」を務めたけれども「親業」はしなかったというエッセイのなかで、「家族」に対して感じる淫靡さや恐怖を述べた箇所も非常に印象的だ。
ひとり者のひがみなのだ。友人の家庭から解放されて、夜の道をあるきながら、私はそういいきかせます。そういうことにしておかなければ、私はたたかわなければならなくなります。家族といい家庭といい、かなしくて、このしたたかな集団とのたたかいをです。278P
子供や家族を理想化しないこと、むしろそれらへの怖れを抱くこと。「異端の児童文学者」と呼ばれた理由はこの辺りに窺える。子供、家族、そして日常。これらのものを当然と思わないスタンスがこれらの諸篇から滲む不安、恐ろしさの要因なのだろうと思える。
表題書や増補短篇にエッセイそして解説と、一読すると著者のスタンスがある程度まとまりのあるものとして見えてくる。もちろん本書だけ読んで全体像だと思うのは危ういとしても、一冊で著者のコアを提示するのが編集意図でもあるだろう。その役割は充分に果たしていると思われる。ツイッターでしか見たことがなかったからどういうものを書く人なのか知らなかった能町みね子の解説がなかなか読ませるものになっていて、へえこういう感じなんだ、と思った。
本書は担当編集様より恵贈いただきました。
小池壮彦『幽霊物件案内』
怪談界隈では著名な作者の有名な本のようだけれど私はまったく知らなかったので軽い気持ちで読んだ。実話怪談の祖型というのか、本人が体験したり知人から聞き知った話などで様々な怪談、奇談が語られるけど印象的なのはその文章の淡々としたドライさだろう。そのあっさりとした語り口で、怪奇な話、奇異な話が次々と語られていて、短い時には数行で終わったりするそのリズムで次々と読まされてしまう。おどろおどろしい話もあり、死者の呪いとかそういうのが匂わされることもあるけれど、あまり怪談でもない単に変な話もあったりするのが良い。途中で三津田さんという人が言及され、おや?と思ったら三津田信三が文庫版の解説を書いていてなるほど過去に出版社でホラー関連の本を担当していたのか、というホラー史の一幕がかいま見えるところも面白い。
小池壮彦『【完全版】日本の幽霊事件』
14年にわたり雑誌「幽」に連載されたものを元にした二冊の本を合本文庫化したもの。日本の、とはいうものの概ね東京近辺の事例を取りあげ怪奇事件の考証を試みるもので、怪談の裏にある陰惨な事件や話の改変などを跡づけていて面白い。ある陰惨な事件が起こり、その後にあった怪奇現象が事件と結びつけられて怪談、幽霊事件として成長していく様子を様々な事例から説き起こしていくなかで、鉄道事故、水難事故、戦前戦後のメディア史、文化史、風俗史を本人撮影の写真と共に垣間見ることができる。
前半では特に「八百屋お七」を「メディア・ミックスで盛り上げられた戦後最初の幽霊事件」と呼んで昭和30年代の怪談ブームの起点において戦後の怪談史に位置付けつるのも面白いけれど、番外篇での考証・推理が圧巻で非常に読ませるものになっている。鴎外『澁江抽斎』まで出てくる。
羽根木公園での幽霊事件から当時の不良グループの話になり、富裕な少女たちが悪行に手を染め、普通の少女を不良グループに売り飛ばす集団売春事件をおこし、しばしば首謀者が中学生だったりするなどの事件もすごいけれど、そこでソーラー族というのが出てくる。ミーハーの上なので音階の一つ上のソーラー族、というもじり方にも富裕層らしいところがあるけれど、後半13節、淀橋の箇所でこの一団が恋人と同士の進展をABCと名付けたというのが出てくる。新しい恋人のことを「おニュウ」、あるいは学校の試験に出題範囲があるのもこの一団の抵抗運動によるという。
ソーラー族というのは、ミーハー族よりも上と称する少年少女たちのことである。ドレミファのミファ(ミーハー)の上がソラ(ソーラー)という意味で、昭和三十年代に流行したグループだったが、あまり長続きはしなかった。しかし、この連中が編み出した造語が多少興味深いので紹介すると、新しい恋人のことを「オニュウ」と言ったり、 異性との関係がどこまで行ったかをA・B・Cなどと段階別にあらわすのは、もともとソーラー族の隠語だった。当初は「一塁」「二塁」「三塁」「ホームラン」と言っていた。「一塁」は手を握るだけの関係で、「二塁」がBの抱擁に該当し、「三塁」がAの接吻だった。細かい説明は省くが、いつのまにか「三塁」の価値が低下して、「一塁」は消えてしまったのである。
学校の定期試験に〝出題範囲〟があるのも、昭和三十年代にソーラー族の高校生が学校と交渉して勝ち取った成果である。それまでは定期試験に出題範囲というものはなく、どんな問題を出されても文句は言えないのが普通だった。ゆえに生徒が苦労したため、ソーラー族の連中が出題範囲を決めるように学校と団体交渉したのである。P297-298
ABCはともかく出題範囲もそうなんだろうか。
怪談の背景にある陰惨な事故は、それによって安全管理が整っていく歴史の一コマでもあるし、犯罪史、文化史、メディア史の要素もあり、怪談が生まれる場所をたどることはそうした歴史と密接に絡み合うことでもあるのを窺える好著だ。
自殺者が多い玉川上水のことは人食い川と呼ばれており、著者が高校生の頃死体の汁のおかげで水道水がうまいのかと水道局に問い合わせ、死体の汁を飲んだ方が滋養強壮に良いと信じていたので塩素殺菌なんかよせと抗議した、というだいぶ変な話も書いてある。谷中霊園の事件のところで、著者が話を聞いた公園にいた老人が、六十年ほど前の事件の重要な目撃者で意外な説を教えてくれるというところなど、信憑性を疑ってしまうようなマジで?みたいな箇所も時々あって、結構胡乱なところもあるのが面白くもある。戦後のテレビ時代になると幽霊も天然色になるというのはメディアと怪談の関係を示す一節だろう。