告知記事一覧

北の想像力 《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち いま読みたい38人の素顔と作品アイヌ民族否定論に抗する
新着順
2018.7.28 図書新聞につかだま書房の後藤明生本の書評
図書新聞につかだま書房の後藤明生本の書評 - Close to the Wall
2018.7.26 トーキング・ヘッズ叢書75号 ケイト・ウィルヘルム追悼特集に『クルーイストン実験』のレビュー
トーキングヘッズ叢書ケイト・ウィルヘルム追悼特集に『クルーイストン実験』のレビュー - Close to the Wall
2017.11.1 北海道新聞連載企画「現代北海道文学論」に山下澄人論が掲載
北海道新聞「現代北海道文学論」に山下澄人論が掲載されました - Close to the Wall

2017.3.28北海道新聞連載企画「現代北海道文学論」に笠井清論が掲載
北海道新聞に笠井清論を書きました。 - Close to the Wall
未來社のPR誌 季刊「未来」で後藤明生論を連載
未來社のPR誌 季刊「未来」で後藤明生論を連載します - Close to the Wall

続きを読む

図書新聞につかだま書房の後藤明生本の書評

バックナンバー

図書新聞2018年7月28日号四面、つかだま書房の後藤明生著作を扱った枠にて「後藤明生の再読のために」という3000字ほどの書評を寄せました。対談集、座談集、『引揚小説三部作』『壁の中』を手がかりにしつつ、後藤明生における朝鮮引揚げ体験の意味を探るものです。

「未来」の連載以後の後藤論の展開を小ネタを交えて凝縮して、私の後藤論のダイジェストのようなものになっています。隣には後藤明生ゼミ生でもあった倉数茂さんの『壁の中』論があり、一面を使った後藤特集になっています。

トーキングヘッズ叢書ケイト・ウィルヘルム追悼特集に『クルーイストン実験』のレビュー

アトリエサードのトーキングヘッズ叢書75号におけるケイト・ウィルヘルム追悼特集に、『クルーイストン実験』のレビューを寄せました。
『クルーイストン実験』は読んだウィルヘルム作品のなかで一番良いと思ったので、それを担当できたのがとても嬉しいですね。「女」がいかに排除されるか、という生々しいホラーでもあります。一点補足したいところとして、ディーナという同性愛者的描写のある女性が出て来ますけど、アンに近づきながらも拒絶されたことでアンへの疑惑を吹聴するようになっていて、つまりアンを愛する男女それぞれからアンは追い詰められる展開になるという。

ウィルヘルム特集は短いなかにぎゅっと詰まってる濃さで、レビューは小説に埋め込まれた挑発や悪意を掬おうとしていて、あたりさわりのない紹介にはならないように書かれています。私も『クルーイストン実験』で、オープンエンドに見えてしまうのは何故なのか、ということを示したつもりだったりします。

ウィルヘルム作品のなかでは、SFは読んだという人にもSF読まない人にも勧めるとしたら『ゴースト・レイクの秘密』かな、と思ってます。これ夫を亡くしてその代理を務める女性判事が主人公だけど、判事としてはじつは夫よりも優秀で、生前はいわば夫を立てていた過去がある。夫婦ともにそのことを分かっており、刑事事件を扱わなくなったのは、法廷で出会えば夫に勝ってしまい結婚生活が破綻するからだ、という描写がある。「女にとって未亡人になることは自由を意味する――」なんてフレーズも。女として生きることを描く非常にいい小説だと思います。 これもまったく過去のことではありませんね。

四月に読んだある程度最近の海外SF

積み本消化強化月間、四月は海外SF。

グレッグ・イーガン万物理論

万物理論 (創元SF文庫)

万物理論 (創元SF文庫)

最初っから最近ではなくてアレだけど、原著が二十年、訳書も十四年前になる積み本をようやく読んだ。面白く読めるんだけど主観的宇宙論ものというとおりの大ネタがいまいち納得しづらい点がなかなか難しい。あと長い。詳細に描き込まれた未来社会の技術、社会、環境は興味深くもあるけど、長い。そういえば短篇に比べて、消失、順列等長篇はどれもどっか手放しに面白いって印象はないなそういえば。松崎有里の「あがり」を連想した。

ジャック・ヴァンス『竜を駆る種族』

竜を駆る種族 (ハヤカワ文庫SF)

竜を駆る種族 (ハヤカワ文庫SF)

改めて浅倉久志の訳文は良いなと思った。ドラゴンマスターズがこの題名になるのも。遠未来のSF的設定を背景に持つファンタジー風世界での、抗争とディスコミュニケーション異世界描写も鮮やかな一篇。ヴァンスを最初に読んだのは『ノパルガース』で明らかにB級SFなんだけど、そもそも力ある作家だからかなんか楽しく読める作品で、自分はSF好きなんだなと思ったことがあった。

B・W・オールディス『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド

ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド (河出文庫)

ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド (河出文庫)

最初Barefootの方かと思ったら自作をもじった題の別作。そりゃそうだ。循環系を共有するうえに三つ目の頭がついている結合双生児兄弟が、ロックバンドとして大成功を収めたのちにたどる末路。相手といかなる時でも一緒にいることによる不和から生まれる悲劇。お互いを憎み合うしかない運命を描いていて、後半の不気味さはなかなかのものだった。イアン・ポロックによる挿絵がまたそれを倍加しているんだけど、この絵の不気味さは覚えがあるなと思ったら小林ゆうの絵だ。

J・G・バラード短編全集1』

ようやく一巻を読んだ。これだけ一気にバラード短篇を読むとむちゃくちゃ濃密だ。各短篇集ごとにバラされていた諸作が通時的に並ぶことで、さまざまなかたちで変奏されるバラード特有のモチーフがなんとなくわかるようになってる気がする。

デビュー作「プリマ・ベラドンナ」は倦怠と停滞の熱砂のリゾート、ヴァーミリオン・サンズ連作のはじまりでもあるけれど、「大休止」というようにまるで時間が止まる=終わるかのような感覚があり、ほぼ同時に書かれたもう一つのデビュー作「エスケープメント」がタイムループものなのもとても示唆的。時間の循環、停滞にくわえ、第三作「集中都市」はこの時間軸が空間軸に変換されており、西へ向かったはずが東へ向かっているという不気味な積層都市が描かれている。近づいてくる終末、逃げ場のない空間、いずれもが脱出できない閉鎖系で、初期作品はこうした逃げ場のなさが繰り返し描かれている。西が東に循環する「集中都市」や、ミニチュアがリアルスケールに繋がる「ゴダードの最後の世界」のような、ループ、循環的構造も特徴的で、これはまさに外宇宙と内宇宙の関係そのもので、宇宙を探究することが人間の心理や精神の内宇宙への潜行に転位する。逃げ場のなさはそれが自己自身の精神だからだろう。睡眠を除去し多大なる時間を得たと思ったら精神的牢獄への囚われとなる「マンホール69」のように、時間と空間の変換も特徴か。SF的設定が人間心理への探究に繋がるバラードの方法はこの時期、閉鎖された時間と空間を舞台に問われている。テクノロジー三部作も監視社会の三部作も舞台の閉鎖性がその最大の特徴だけれど、時間の終わりと閉ざされた空間の密接な関係性がごく初期から現われているのがよくわかる。そして「集中都市」にはバラードのよく知られたオブセッションのひとつ、空を飛ぶことが描かれているのに気づいた。

で、もう一つの特色が音。バグルスのラジオスターの悲劇の元ネタと言われる「音響清掃」の残存する音のアイデアも印象的だけれど、自己増殖する音響彫刻を描いた「ヴィーナスはほほえむ」の「いまに、全世界が歌いだすときがくる」という一節は「時の声」にも共振するものがある。終末を告げるカウントダウンを示唆する宇宙からのメッセージが描かれる「時の声」での、「頭上では星が歌っていた。地平線の端から端まで空にぎっしりとつまった幾千の宇宙の声、真の時の天蓋」という一文は、「ヴィーナスはほほえむ」の一文と似た終末的感触がある。黙示録的というか。「深淵」の「魚は海という鏡に映ったわれわれ自身」とあるように、外こそ内、内こそ外、という鏡像関係。閉ざされた時空間の濃厚な存在感があって、上下二段の山盛りのバラード短篇にはなかなか中毒的、蠱惑的な味わいがある。

ただ、この全集翻訳情報がない。創元SF文庫からのものはかなり置きかえられてるんだけれど、それがこの全集のための新訳なのか、既に雑誌や書籍に載せられたものの採録か改訳だったりするのかがわからない。「時の声」の伊藤典夫訳って1966年のSFマガジンに訳されているみたいだけれど、これはさすがにそのままではなさそう。パラ見した四巻では『残虐行為展覧会』からの翻訳の法水金太郎というのは横山茂雄ペンネームで、工作舎版から改稿して収録、と情報があるのに。

アンディ・ウィアー『火星の人』

火星の人〔新版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)

火星の人〔新版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)

火星に一人残された宇宙飛行士がその知識と技術を用いてなんとかサバイバルするという話自体面白くないわけがなくて、その細かなプロセスを丹念に描写していくさまはまるで出来の良いノンフィクションかのようなハードSF。悲観することもなくユーモアを交えつつできることは何かを考え宇宙飛行士も地球側も最大限のベストを尽くしながら生還のための方策を練り続ける手に汗握る迫真のエンターテインメント。ある種の楽天性、まさにアメリカSFの精神性って気がするけど、まあ素直にとても面白い。とりあえず面白いSFを、と言われたら前置きなしに勧めていいだろうっていうポピュラリティがある。

ケン・リュウ『紙の動物園』

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

評判だったけども帯で泣ける小説とかあって、どんなもんかと思ったら確かに表題作は感動話だけどかつ、中国系アメリカ人が置かれた差別的状況が正面から描かれていて、他作品も難民や先住民といった民族の問題に取り組んだものだったのには良い意味で驚かされた。表題作は歴史の悲運をたどった中国人女性がアメリカ人男性に買われるように結婚し、その息子がアメリカで「シナ人」呼ばわりされ母親との疎隔が生まれるという関係を主題にしているし、「月へ」も亡命申請にまつわる困難がファンタジックな比喩に託して語られるものだし、「結縄」は先住民文化の搾取と彼らを資本主義市場に取り込む植民地主義の問題、「太平洋海底横断トンネル」は日本の炭鉱での強制労働を想起させる改変歴史ものでもあり、「心智五行」も植民地主義への批判意識がある。「文字占い師」も漢字文化と反共弾圧の歴史と異邦人の境遇が描かれる。文庫二分冊のうち『紙の動物園』はとくにこうした問題を軸に編まれているように見える。物語とこうした問題意識が不可分のものとしてあり、中国系アメリカ人としての作者自身の関心が強く出ているように見える。アジア文化アメリカSFを架け渡す意識が強く感じられる。

ケン・リュウもののあはれ

もののあはれ (ケン・リュウ短篇傑作集2)

もののあはれ (ケン・リュウ短篇傑作集2)

こっちの方は冒頭の表題作の日本文化論にはややそうかな、って部分も感じた。そのお話は「もののあはれ」かな、という。それはともかく、カルヴィーノ「柔らかい月」を思わせる「潮汐」、さまざまな「本」を描く「選抜宇宙種族〜」、中盤の三篇はデータ化人格や不死性といった生の問題を扱いつつ、そして「良い狩りを」は、妖狐と妖怪退治師の時代が蒸気時代に飲み込まれていく様を描きながら、そうくるか、という展開の妙を見せる中華スチームパンクの傑作だろう。失われていくものとその現代的再生を描く本作は作者自身の作家性についてのメタ物語とも読める。

作者が中国SFの翻訳を精力的に行なっている理由が伝わるような作品群で、中国、アメリカのあいだにある、という自身の来歴、位置を正面から受けとめ、生かしているような本だった。二つの表題作のようにややベタな感動ものに傾きがちなところは気にはなるにしても。Twitter文学賞トップというのも頷ける、海外現代文学好きには非常にアピールするだろう作品だ。

アンナ・カヴァン『氷』

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

全世界的に厳寒期が訪れ氷が世界を覆いつつあるなかで、「私」という語り手が「少女」を探し歩き、再会したり別れたりを繰り返す、何処とも知れぬ場所で固有名が欠けた物語は心理と世界とを重層的に描いているかのようにも感じられる奇妙な傑作。「外の世界の非現実性は、尋常ならざる形で私自身の乱れた心の状態を延長したもののようにも思えてきた」とあるように(ちくま文庫101頁)。しかし、語り手のというよりは「少女」のそれ、のように思える。アルビノの銀灰色の髪を持つ少女は繰り返し、犠牲者、服従者、傷つけられる者として描かれるからだ。中盤までは章ごとに唐突にそれまでとは話の繋がらない少女が殺されたりするような場面が挿入される。少女は夫のもとから出奔して以降、「私」と「長官」とによる争奪戦のトロフィーとしてある。この同一人物ともいえる二人の男による奪い合い。全体主義国家の寓話やヘロインのアレゴリーなどともいわれるけれども、私にはこの作品は、「少女」という存在が受ける抑圧や受苦・絶望を描いた一種のフェミニズムSFのように見える。バラードがしばしば熱帯的な原始性あるいは宇宙的なものと繋がるのとは違う、氷、という酷薄な絶望がある。かといってラストに見るように男性性への否定に貫かれているわけでもない。「少女」は愛を求めている、と言うとおりに。カフカを思い出すのはそうだけれども、よりいっそうバラード的な世界の純化したものを感じる。「私」が熱帯から戻ってきた人間で、歌うキツネザル「インドリ」がしばしば言及されるという熱帯的なものが「私」に仮託されているかのようにも見える。

解説で川上弘美が「狭い」と言っているけれども、この小説の叙述は重層性ではなく、すべてが何らかの自己言及でもあるかのような強烈な狭さかも知れない。「私」も「長官」も「少女」も。「少女」の造形から薄々感じてはいたけど、サンリオ版の序文でオールディスが「アンナは富裕な母親に支配されていた。人生においても著作においても、彼女は遂にこの支配の重圧から逃れることができなかった」とあるのを読んで、やはり、とは思った。カヴァンは文遊社がいまたくさん出してて既訳はほとんど入手できるけれど、カヴァン名義の第一作『アサイラム・ピース』だけが品切れなので文庫化なりされないかな。

ちくま版で相当改訳されているのは冒頭見比べてもすぐにわかる。サンリオ文庫版はオールディスの序文があるのと、山田和子の訳者後書きがかなり力入っていて見所。バジリコ版でかなり親しみやすいように解説をリライトしたのが分かる。ちくま版もインパクトあるけど、サンリオ版のらしい装画がなかなかいい。

ピーター・トライアス『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』

ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン 上 (ハヤカワ文庫SF)

ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン 上 (ハヤカワ文庫SF)

表紙に描かれたメカ要素はむしろ少なく、皇国日本に占領されたディストピア社会でアメリカが日本に勝ったというゲーム「USA」の製作者を探す改変歴史SF。作者が韓国生まれでアメリカに育ち、八歳から二年韓国に住んでいたというアジア系アメリカ人でもあって、改変歴史の核に、アメリカが日本人日系人を「強制収容所で数万人を拷問した」という「自由と勇気の国」への疑念があるようにも感じる。作品世界では歴史改変でソ連アメリカが日独で分割されていて(太平洋と大西洋の帝国って感じか)、合衆国は皇国日本の全体主義体制下にあり、天皇への批判は許されず叛逆の意ありとみれば即座に処刑されてしまう。そしてこの歴史の根底にあるのが、冒頭の日系人強制収容所じゃないかと思う。この第二次大戦時アメリカでの差別と弾圧を反転した、日本人によるアメリカ占領というのがUSJの歴史改変の基軸に思える。だからこそ、今作には拷問が頻出するのでは、と。プロローグと本篇での「拷問」はつまりいずれの社会も収容所としてあるからではないか。反抗のあり得ない収容所と化した社会。トランプ政策に対する批判か、と思ったけどそれより前だった。とはいえ、そうしたテーマが前面に語られるわけではなく、一読テンポの良いエンターテインメントとして楽しめる。特にすごいのは槻野昭子で、狂信的天皇主義の特高ぶりは半端ない。重要っぽく出てきた人物も不敬を働けばさくさく殺していくので、え、マジで?みたいになるし、それと主人公がコンビを組んでいくのもマジで?こいつ連れて行くの?ってなる展開が面白い。キャラとしてパンチが効きすぎている。文庫カバーは上下巻で一枚絵になる。でもこんな場面あったかなー。

チャイナ・ミエヴィル『ジェイクをさがして』

ジェイクをさがして (ハヤカワ文庫SF)

ジェイクをさがして (ハヤカワ文庫SF)

面白いもののどこか波長が合わない感じがした。ロンドンの出来事、細部に宿るもの、仲介者、使い魔なんかの不気味な何かを想像させるホラー系短篇は良かったけど、中篇「鏡」がこう、長いわりに話に興味続かなくてだらっと読んでしまったなあ。「クリスマスTM」でいきなり笑わされたクリスマス管理社会というブラックユーモアの短篇もなかなかよかった。面白いところとあまりわからないところがある感じだけど、長篇もそのうち読みたいところ。『都市と都市』は読む。

ハーラン・エリスン『死の鳥』

これはさすがレジェンドと言われるだけある作品集だった。圧倒的。スタイリッシュに描かれる性、暴力、金のエネルギー。表題作は手塚治虫のと何か関係があるのかどうか。一冊通して読むのは初めてだったけど、このレベルを連発されるともう何も言えん。「「悔い改めよ、ハーレクィン! 」とチクタクマンはいった」って本当に「悔い改めよ、ハーレクィン! 」とチクタクマンが言うもんだから笑った。この凝ったスタイル、文章のエネルギー、やはりベスターを思い出す。「プリティ・マギー・マネーアイズ」は既読だけど、これはやっぱり良い。そして「鞭打たれた犬たちのうめき」「ソフト・モンキー」などの冴えを見るに若島正編のクライムノベル作品集、じつに期待大ではないか。未来の文学三年出てないけど。まあその前に既刊短篇集の二冊を追々読まないと。

バリントン・J・ベイリー『ゴッド・ガン』

エリスンに比べたら語り口が普通だけどネタの飛び方はなかなかのベイリー。神を殺す銃の一発ネタみたいな表題作も笑えるけど、訳者が言うように地底潜艦の話や不死の話もその多くが出口のなさ、をモチーフにしているものが多くて、脱出が新たな牢獄になるようなアイロニーが頻出している。そういやベイリーの追悼特集のSFマガジンは読んでいたので表題作と「蟹は試してみなきゃいけない」は既読だった。蟹、当時結構好きだったんで、今再読するとそのセックスに血道を上げるホモソーシャルな男コミュニティな感じがちょっと厳しいなあ、と思って読んでいるとまあ蟹だし、最後の苦いエンドには結構良いじゃないかってなるのでやっぱり良かった。

川名潤カバーデザインによる二冊、明らかに対照的な作りで面白い。この二冊は刊行が三ヶ月差だったはず。

最近読んだ最近の日本SF

かねてよりかかり切りだった案件を一区切りした(まあまったく終わってはいないけれども)ので、ここ数年ため込んでいたものを読むか、と。三月は最近の日本SF月間を設定してざざっと読んだ。感想をツイッターに随時書いていたものをまとめておく。日本SFは少なくともこの三倍以上積んだままだけど、ここ数年に出たものを主に。

飛浩隆『自生の夢』

自生の夢

自生の夢

発刊時に買ったのをSF大賞を受賞したころようやく読む。やはり非常に良い。飛浩隆、人体損壊と音楽が好きだなって感じるけど、「情報」を介するとこれは似たことで、「海の指」のように情報を奏でて存在を再構成する「描写」が全体で重要で、作中の描写を描写する文字表現の二重性が面白い。詩、音楽なんかの芸術と情報技術の関係性というか、比喩的な関係として重ね書きしている、か。現在SFマガジン連載作の改稿中らしいけれど、「空の園丁」の続きもどうか。

仁木稔『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』

これも刊行時に買ったのを四年積んでいた。SFマガジン掲載作に書き下ろしを含めてまとめられた連作集。社会的な暴力とそのコントロールの問題を「妖精」と呼ばれる人間をダウングレードした人工的亜人種を通じて描き、また「英雄」と「物語」をメタ的に問いかける小説で、とても生々しい肌触りがある。それは、冒頭の一篇がその妖精撲滅派の人間、言ってみれば排外主義的レイシスト、作中でも「真正の異常者」と呼ばれる、妖精虐待殺害の犯人によって語られることで、読む者を居心地悪くさせる手法を用いていることもある。ツインタワーが健在だった改変歴史世界で、妖精という亜人種をあえて人間の下位存在として単純労働をさせ、あるいは暴力をふるっていい存在となすことで、人間は「絶対平和」を享受している、というディストピア設定――人間は差別対象を設定することで秩序を維持している――がなされている。つまりエンタメとしての差別、という観点。

後半のアキラという記号設計者(キャラクターデザイナー)を共有する連作では、妖精をデザインし、歴史的舞台を設定し、戦いの物語を創作することで、世界の暴力性をコントロールする興業化された戦争が描かれており、キャラクター、キャラデザ、スタジオなど、アニメを意識した用語が用いられている。それぞれの戦いにおいて、自分自身はそこまで複雑な感情を持ち合わせない妖精の戦いに、人々が物語を、キャラを見いだすという物語化を描いていて、同時に第一篇の「異常者」がある運動のなかで英雄化されるくだりも並置することで、物語化をアイロニカルに眺めるかたちで展開していく。妖精、という虐待され殺され、物語の登場人物として戦闘させられ、平和の礎にさせられる亜人種、という存在、途中まで読んでいて思い出したけれど、解説でも指摘されるル・グインの「オメラスから歩み去る人々」を思い起こさせる。猖獗を極める排外主義と差別主義の暴力を見据えつつ、暴力という人間にとってのエンターテインメント、を批判的に描き出して、これまでの仁木稔作品の前史としても書かれた興味深い作品集。「はじまりと終わりの世界樹」なんかやたらに密度が高くてわりとついていけてないくらいだ。

宮内悠介『エクソダス症候群』『アメリカ最後の実験』『彼女がエスパーだったころ』『スペース金融道』

四冊ほど宮内悠介をがっと読んだけど、この貪欲な好奇心とそれをこのアベレージで作品化する力がすごい。デビューからゲーム、内戦・テロ、精神医療、音楽、疑似科学、金融、ポストヒューマン、などなど多彩。

エクソダス症候群』 精神医療史をたどりながら未来を見据える趣向で、面白いし興味深くもあるものの、作品としてもう一つピンとこないなと感じてたんだけど、一種の叙述トリック的な後半の一ネタには唸った。フィクションの枠を破ってぐさっとやられた感じ。しかし、昔から構想してたものだったため若かりし頃のアイデアが古層のようになっている作品で、いまだったらセフィロトの樹型に並んだ病院とか恥ずかしくて書けない、と著者がいうのはなるほどと。やっぱりあれかな、エヴァ世代だからかな、セフィロト。あの当時のエヴァファン、私のように謎本や用語事典などからSF、宗教、心理学、精神分析神秘主義とかのワードにたまらない魅力を感じていた人がいるはず。天使の事典、悪魔の事典、カバラ等の青土社の本買ったりを読んだりした気が。著者がエヴァファンかどうかは知らないけれども。

アメリカ最後の実験

アメリカ最後の実験

アメリカ最後の実験』 わりと爽やかな音楽小説で良かった。父親の謎、外からきた青年など、『エクソダス症候群』とプロットに似た要素も多いのは執筆時期の関係もあるだろうけれど、音楽、医療における、テクノロジーが人間をどう変えるか、という問いの相似性があるからか。三人の音楽学校受験生の関係も描いた青春小説の趣もあって、それでいて音楽を通したアメリカ論でもあり、またチャールズ・マンソンが出てくるし、どっかバラードの『二十二世紀のコロンブス』(『ハロー・アメリカ』として復刊された)を思い出すところがある。

彼女がエスパーだったころ

彼女がエスパーだったころ

『彼女がエスパーだったころ』 雑誌記者の「わたし」による超科学、オカルトものの連作短篇集で、水にありがとうといったり、ホメオパシー、カルト宗教などが出てくる。理想的なロボトミー手術があったとしたら、の「ムイシュキンの脳髄」での人格の問題や、「薄ければ薄いほど」での、薄めきったレメディの効能という逆説をさらにひねったくだりが印象的だった。その二作が「年刊日本SF傑作選」にも採録されている。近々文庫化される。

スペース金融道

スペース金融道

『スペース金融道』 はじめて植民に成功した星で、差別されるアンドロイドにも金を貸す高利貸しを主人公にしたバディものコメディの要素を持つ。スラップスティックさと主人公が常に悲惨な目に遭うのは「血界戦線」を思い出した。面白サイバーパンクなところもありつつも、アンドロイドと人間がテーマでポストヒューマンものでもあって、アンドロイド・人間との差別で同化が一種の解決策になるくだりはどうかと思ってたら、それをさらに捻ってきてて面白い。

伊藤計劃円城塔屍者の帝国

単行本刊行当時に買っていたのに、その後文庫が出てもまだ読んでなかった2012年作品をようやく読んだ。伊藤計劃の言語や意識のテーマを引き継ぎ、円城作品としては意外なほどの冒険小説的エンタメとしての魅力を備えつつも書くことと読むことの円城塔的なテーマで枠取りし、甦った屍者を書くフライデーによる感謝の言葉はそのまま円城自身の伊藤への言葉でもあるような重層性にはどうしてもぐっとくる。フライデーという書記機械は物語生成プログラムの名前が由来の円城塔のあらわな化身だし、ワトソンとの「三年に満たない旅」は、伊藤と円城の「二年半」のつきあい、と対応しているはずで。「屍者の話」は当然伊藤という死者についての「わたし」の話となり、これこそ伊藤がどう書いたか、ではなく、伊藤が書いたものを通じて自分がどう考えるかだ、ということの意味だろう。意識や私、アイデンティティのテーマに対し、随伴し書く存在という円城的テーマとしてのフライデーを置き、それぞれを言葉というポイントで交差させる目論見、と言ってしまえるかは判然としないけれども。

屍者設定、世界一周、絢爛たるパスティーシュ等々、豪奢な作りとその密度には圧倒される。ただ、伊藤の筆になるプロローグから円城の第一部に入った瞬間、語りの温度が変わったというか、語り手の青年臭さが抜けてしまった感じがした。改めて検討してはいないけれど、このワトソンの人物像がどうにも立ち上がらない感じはある。だから映画版でワトソンとフライデーの関係がかなり変わったらしいのはなるほどと思った。動機から人物像をはっきりさせたんだろう。「下着ではないから恥ずかしくない」は伊藤計劃らしい小ネタで笑わされた。でも円城塔もわりとこういうことする気もする。伊藤の影響だったり? しかし、おそらくは英語のやりとりのなかなんでナンセンスな指摘なんだけど、芥川龍之介の初出以前に「藪の中」って表現が使われるの面白いな。この作品の手法的に意図的かな。「藪の中」発表以前、「藪の中」という慣用句で示される意味はどう表現されていたんだろう。

そういえば、と岡和田さんの書評などを読んでみると、そうかそう読むか、と驚きがあった。パスティーシュの意味というか。それぞれのジャンル小説の祖を取り込むメタ的な意味、とか。まあ一読して射程や深度が測れる作品でもないだろう。そもそも主要引用作もかなりわからないのが多い。諸ジャンルを横断するパスティーシュ、SFの起源としてのフランケンシュタイン推理小説のホームズ、ポーへの言及、近代文学の巨星ドストエフスキー、スパイものの007、進化論のダーウィン、人造人間『未來のイヴ』その他たくさんだけど、では近代小説の祖としてのドンキホーテ要素はあるか。

樺山三英ハムレット・シンドローム』『ジャン=ジャックの自意識の場合』

ハムレット・シンドローム (ガガガ文庫)

ハムレット・シンドローム (ガガガ文庫)

ハムレット・シンドローム』 シェイクスピアの『ハムレット』をネタにした久生十蘭の『ハムレット』とその原型「刺客」を翻案し、さらにシェイクスピアのほうをも取り込むように何重にもフィクションを重ねつつ、演じることを演じること、という「嘘」を迷宮的に折り重ねたメタ幻想小説ハムレットを演じることは正気をなくしたふりのふりだ、と語られるけど、この狂ったふりの問題って『ドン・キホーテ』に直結する話で、多重化したフィクションもまたそうだから、『ドン・キホーテの消息』とも重なる部分が多いなって思っていた。「ぼくはすべてを書き換えたいんだ」、という台詞、さまざまなフィクションを幾重にも書き重ね書き換えていく本作らしい。みんな大好きヘソムラアイコさん、小柄メイドスモーカーは確かに魅力的。ざーっと読んでたらいろいろ読み損ねてる感じなのでまたそのうち読み返した方が良い。

先だって久生十蘭ハムレット」を久しぶりに読み返したけど、世情、服飾を取り混ぜて流麗に語る文章が本当に魅力的。人相で他人の性格を残忍な犯罪者気質だと断定する性格学語法、完全に旧時代的差別主義でいまやギャグに見える。でもこの、見ただけで相手の性格がわかってしまう語り口、十蘭の文体を支えるハイセンスさ、博覧ぶりとも相補的に見える。

ジャン=ジャックの自意識の場合

ジャン=ジャックの自意識の場合

『ジャン=ジャックの自意識の場合』 驚くべき作品でこれがSF新人賞を通ったのはすごい。選考委員の度量だろうか。一応はSF設定もあるあたりポストモダン文学っぽい。というかスペキュレイティヴ・フィクションです、って言うしかないというか。子供しかない孤島の学校での反倫理的実験、ジャン=ジャック・ルソー=私だと名乗る島の王から書かれる手紙にはJ・Dという宛名があり、サリンジャージャック・デリダが重ねられ、ルソーそしてロビンソン・クルーソーコロンブスアメリカ発見、フランス革命とハイチ革命の植民地問題、等のポストコロニアルな問題をも濃密に溶け合わせながら、天使=アンジュと呼ばれる少女と「ぼく」との幼いロマンスでもあったりして、エロス、血と暴力、ゾンビの幻想文学というか、メタSFってこういうことかなって思ったりもする。イメージ的に飛浩隆を思い出すところも。

あとがきからすると、どうも本作はルソーを起点として教育と革命の問題や、フランス革命が白人の革命だとしてハイチの黒人による革命を対置する構図もあって、いやー、わからんなあ、と思いながら読んでた。相当ハイコンテクストな小説。衒学と奇想のごった煮。「人権宣言それ自体の中に奴隷制を維持しあるいは植民地支配に通じるようなものが、ひょっとしたらあるのではないか」と西川長夫がコメントしている『ハイチ革命とフランス革命』という本がある。
コメント:「ハイチ化」と人権宣言 西川長夫

初読で面白ーいってなれた『ドン・キホーテの消息』ってかなりわかりやすくなってるんだと思った。ドンキホーテはある程度調べたことがあったからか? しかしとにかく、「わたしは世界を、両手で粉々に砕いて潰し、それを見て笑うあなたが見たい」というイエイツのエピグラフが素晴らしい。出典がわからないけど。ゾンビとフライデーといえば『屍者の帝国』も浮かぶ。屍者による単純労働を担わされた『屍者の帝国』と、妖精が単純労働に従事する仁木稔の『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』があって、円城塔は意識の問題、仁木稔は社会性、統治の問題につながってて、類似と差異がいろいろある。

宮澤伊織『裏世界ピクニック』

表紙のotherside picnicはストルガツキー兄弟の『ストーカー』の英題Roadside Picnicのもじりだろう。ふとした拍子に迷い込んだ不思議な世界で、人を探す鳥子と出会った空魚は、二人で探索しながらくねくね、八尺様などネットロア的怪異・怪物と遭遇するというホラーSF。都市伝説、実話怪談をベースにしているけど、本作では怪異を認知、認識論をかませてSF的骨組を与えている。それでいて、裏世界を探検するなかで浸食を受け、目や手に異常が生まれたり、現実世界へ訪問してくる怪奇存在などがあり境界の揺らぎ的怖さも出てくる。訪問者は怖かったな。

金髪美人帰国子女で銃器の扱いも得意な鳥子に見とれて、鳥子が探すサツキに嫉妬を燃やす、「コミュ障サブカルオタクと見せかけて依存性サイコパス」呼ばわりされる空魚との百合小説でもある。作中の「アルファ・フィメール」というのはアリアAAの女人望ですか。人間の認知・認識の可塑性が扱われており、サツキへの感情の真正性もまた揺るがされる展開もあるかな。小桜はまあ感づいている描写がされているし。二巻もそのうち。

長谷敏司『あなたのための物語』

あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)

あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)

サマンサは自己免疫疾患による苦痛から逃れられないなか、物語創作の実験として立ち上げられた人工知能と対話を続け、神経接続を抽出し移植できるITPという新技術の研究に取り組むというのが大きな筋書きで、苦痛に歪む身体という牢獄の存在そのものが人間の核心でもあるという悲痛な作品。ITPは人間の神経の連結をプロトコル化したもので、それをインストールすることで技能や感情を移植することが出来るという技術で、人間の神経操作、ひいては人格そのもののコピー可能性が浮上してくる。執拗なサマンサの苦痛描写と、小説を書く創造性の実験体《wanna be》という仮想人格とサマンサの対話が描かれ、脳神経のコピー可能性技術の軸上に人格と身体の対比がある。平板化というITPの技術的問題はそのまま意味の優先順位の欠落、つまり物語の不在とも捉えられるわけで、創作機械のそれと同時に敬虔なキリスト教信徒のサマンサの母親が意味を持ってくる。人間とロボットの話でもあり、そして難病小説でもあるという情緒的感傷的枠組ながら、その感傷を突き放した距離感がある。苦しいとき、身体がなんらかの故障をしたとき、その苦痛や絶望が、身体こそ逃げ場のない痛みの牢獄だと思わされるときがあって、そういう痛ましさを切々と思い出させる作品で、そこから仮想人格や物語の意味を問うていく語りは目が離せないものがある。作中のロジックを整理できてもいない気もする。

「層 ―映像と表現 vol.10 特集1=SFの再定義 特集2=映画論の諸相」

層 Vol.10―映像と表現 特集:SFの再定義/映画論の諸相

層 Vol.10―映像と表現 特集:SFの再定義/映画論の諸相

北海道大学大学院の出してる雑誌、前号に続いてSF関係の論文が載っている。SF特集、藤元登四郎論文は、短篇群からバラードの時間論を探り、金沢英之論文は小松左京水見稜飛浩隆の系譜をたどったもの。左京水見の諸作はぜひ読みたくなった。石和義之「飛浩隆の享楽」は、精神分析理論を援用して飛浩隆を論じたもので、理論と相性がいいのか面白く、飛作品の人物はAIではなく、計量可能な人間のメタファーというのが興味深い。柳瀬善治論文は宮内悠介、樺山三英を論じつつ、満洲表象において瀬川深と対比してSFの語り技法を論じた部分が面白く、また樺山の関心を群衆や歴史との関係で探っておりそこでの「歴史的な生のありよう」も重要。

忍澤勉論文は、タルコフスキーの映画八作についての煙草や病、そして死の表象を詳しく追ったもので、これはタルコフスキーソラリスしか見てない身にはまだ読む段階ではないな、と思った。どうでもいいけど、「執拗に喫煙の害を訴えた映像作家」、覚えている限りではアニメ「世界征服――謀略のズヴィズダー」三話が、喫煙批判でなかなか話題になった作品。監督岡村天斎はヘビースモーカーらしいけど、他にも喫煙批判がちょくちょく作品に出てくると聞いたことがある。

樺山三英論文は日本文学における団地の表象を小論としてまとめたもので、安部公房後藤明生古井由吉久保寺健彦、宮内悠介、角田光代重松清原武史、あるいはウルトラマンなどを例示しつつ、画一性の典型とされるなかの歴史性個別性を見ていこうとする。

また榊祐一論文は、「サブカルチャー」という用語の概念整理を試みた労作で、サブカルチャーという言葉が指し示しているものはなにか、を膨大な資料博捜のなかで位置づけたもので、担い手集団、コンテンツ、その他(いわゆるヴィレバン的「サブカル」)などの分類を試みている。

本誌は石和義之さまに恵贈いただきました。ありがとうございます。

樺山三英「団地妻B」

すばる2018年4月号

すばる2018年4月号

「すばる」4月号掲載の中篇。団地住人とも団地そのものともあるいはまた別の何かが重なり合ったような奇妙な一人称「わたしたち」によって語られる幻想的団地史あるいは団地に仮託された戦後日本小史、か。「マダムB」という凡庸な夫人がおそらくは凡庸ゆえに拡散、複数化していく幽霊譚。読む前にこれは『ボヴァリー夫人』ネタかなと思ってたら冒頭は「気の触れた男がひとり、わたしたちの前に姿を現わす」で、この複数人称、『ボヴァリー夫人』の冒頭のあれじゃね、と思ってたら「マダムBはわたしだ」というフレーズが出てくるし、マダムBが蓮實重彦読んでるんだから笑ってしまう。『ボヴァリー夫人』を論じた蓮實重彦を、『ボヴァリー夫人』の数百年後のパロディ的人物がその「凡庸さ」について語った講演や著書を読んでいるんだからたまらない。マダムBも「最初にして最後の団地妻」とか称されるのも。「層」vol10での柳瀬論文、樺山自身の団地論は、この作品の興味深いサブテクストにもなっていて、柳瀬論文での「歴史的な生のありよう」は、マダムBという装置を使ってなにを語ろうとしたのかのヒントになるようにも思う。

牧野修『月世界小説』

月世界小説 (ハヤカワ文庫JA)

月世界小説 (ハヤカワ文庫JA)

すでに世評高く期待してて、確かに面白くはあるけど物足りなさもかなりあって、どう言ったものかと。なぜか敗戦とともに存在そのものが消え去ったらしい「ニホン語」をめぐる謎の探究、反政府活動、公安あたりの展開はなかなか面白いし、世界を物語り改変する異能言語もいい。ただ、記号破壊砲だとかの「言語戦」描写がどうにも物足りなくて、言語による書き換え合戦のメタフィクショナルな描写が最後の最後にしかない。脚注弾とか校正赤色弾とか落丁爆弾とか面白いのが一瞬しか出ない。「言語戦」が普通の戦いの用語を置きかえただけという部分が多い。ラストのリレー小説合戦は盛り上がりはするんだけど。また気になるのが「日本語」をめぐる設定や歴史改変の部分。敗戦後「米国領ニホン列島自治区」となった作中では、70年代の反日武装戦線とかの爆弾闘争が日本独立を目指す国土回復運動に置きかえられているのが大きなところで、それはともかくとしても、日本語が他者を取り入れるシステムを持ち、大和言葉と漢語を同時使用できるメタ言語だから異能がつかえるという設定があって、いや日本語は漢字を使ってるけど漢語ではないのではって。失われたニホン語の文脈で『古事記』が出てくるけど、『古事記』は和化漢文といういちおう漢文ベースの文章なのでちょっと場違いだったり。日本語の特殊性は学術的に否定されているとあるしもちろん設定でしかないけど、そこに日ユ同祖論を引っ張ってきて、ユダヤ人と日本人が多く「魔術師」になれる、という「民族」主義的発想につながってるのがどうも。

「穢れ」云々や原発を防御する展開、本作で意識されているのは震災以後の放射能汚染だとも思える。震災を黙示録的に導入しつつ、それとの戦いを組織しハッピーエンドを夢見ることが物語られる祈りの小説でもあるのはいい。ただ、それが言語ナショナリズムに併走している感があるのが気になる。主人公らが神に否定されるゲイだということが、本作の神あるいは運命との戦いの起点にもなっているという多様性をめぐる宗教的闘争でもあるのもいいんだけど、ニホン語を守る戦いが人類の戦いにスライドしているあたりも気にはなる。

會川昇『超人幻想 神化三六年』

超人幻想 神化三六年 (ハヤカワ文庫JA)

超人幻想 神化三六年 (ハヤカワ文庫JA)

昭和ではなく神化の元号が採用され、超人が実在する改変歴史世界を舞台とするアニメ「コンクリートレヴォルティオ」の前日譚でもある小説で、リプレイ型のミステリSFでもある。アニメと独立しつつも別視点を補完し、なおかつメインテーマは共通していてとても良い。冒頭のテレビ放送黎明期、ドラマが生で演じられていた時代の裏方などは文化部ラジオでゲストの辻真先が語っていて面白かったところだ。起こらなかった226事件、開催された戦前の東京オリンピックなどのパラレルな並行次元、時間を戻せる忍者の劇中劇とのシンクロなどなど、別次元のリンクが随所に仕込まれており、またこの作品の主人公自身アニメコンレボに脚本を書いた辻真先をモデルにしているという虚実入り乱れる雰囲気。1961年、GHQの影も生々しく、戦争の傷跡が大きなテーマとなるなかで、正義とは何か、を暴力への抵抗と捉えているのかな、と感じられる。主人公はモデルが辻真先だとして、友人たちのモデルは手塚治虫平井和正らしい。ひとつ、主人公の重大な選択のとき、戦争の拡大と東京が焼け野原になると聞いたのにそのことを考慮していない部分がものすごい違和感があった。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 さよならの儀式』

2013年の傑作選をようやく読んだ。660ページオーバー、これまでで最厚じゃないか。宮内悠介、石川博品作品は既読だったので除くと、良かったのはオキシタケヒコと草上仁、藤野可織あたり。門田充宏の受賞作もSF的に尖ってはいないけど読ませる。オキシタケヒコの音響ミステリSFは結構気に入ったのでこの短篇集をいずれ読もう。藤野可織も二冊持ってて読んでないのでそのうち。冲方丁のは平安ワードをちりばめて、八〇年代にOVAか劇場アニメになかった?という風合いをあえて、というSFロボット活劇でなにか懐かしい王道感があった。円城塔も良い。藤井太洋も面白いけどエンジニアもので私にはややわかりづらい。宮部みゆきも悪くないけど、という感じで、田中雄一のは人身御供ディストピアもので気持ち悪さが出ている。問題なのは筒井康隆含めた中盤の大家の三作。筒井のはセクシズムジョークを工夫なく書いただけという感じでさすがにこれを採るのは。式貴士の未完作は私家版刊行の歴史性をアンソロジーに含みたいという話ならわかるけども、という。とはいえこれだと傑作選の名には悖るのでは。荒巻作品は、うん。大家の三作はカットしてもう一つの短篇賞受賞作をいれれば、と思ったけど、選考段階と作品選定の時期の関係で、もしかしたら掲載許可を取ったあとに収録見送りには出来ない、と言うことかも知れない。

高島雄哉「ランドスケープと夏の定理」、創元短編賞の傑作選に入らなかった方、電子版を買って読んだけど、宇宙論、知性定理、人格コピーなどなど濃厚なSF設定がギュウ詰めされてていやはやなかなか。SFとしての読み応えは相当だけれど、改稿してあるはずだから、「風牙」とどっちとは言いづらいか。あんまり分かったとは言いづらい濃さだけど、SF的な世界の広がりというか圧倒的なスケール感は良かった。しかしこれボール入ったときの感覚器官ってどうなってるの。あと、これってラノベ的人物造形かなあ。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』

2014年。宮内が既読でほかに良かったのは長谷敏司、下永聖高、草上仁、オキシタケヒコあたり。円城、酉島、短編賞もまあまあ。諸星大二郎は台詞回しが変だなと思ったらそれか、と。いや途中の大ゴマで明らかにネタばらししてるけど。堀晃のはSF作家私小説でもあって以前このシリーズに収録されてた眉村卓のとも並べたい感じだ。ちょっと興味深かったのは、三崎亜記「緊急自爆装置」、このあり得ない設定で平然と話が進んでいく奇想小説とは言え、人が自爆できる権利があるというだけではだから、としか思えずあまり好きではないんだけど、公務員経験者の役所小説として興味深い。納税免除されているだろう貧困者に対して「市民の一人」ではあるけど「健全な市政」を支える市民ではない、という一文は役所の政治性なるものが如実に出た部分にも思えるけれども、さてこれは意図的なものか。業務上の正しさとは正義でも公正さでもなく、手続き上の瑕瑾がないことを意味する、というのはそうだろうと思える。編者も言うようにいろんな制約やらがあるので、600ページあっても半分も楽しめたら良い方だなくらいの感じで年一の雑誌としてとらえるのが良いなこれは今更だけど。選評や年間SF概況あたりが参考になる。これを読むならNOVAも読んどくのがいいんだけど、あれ二巻をまだ読んでないな。

ゴンチャロフ - オブローモフ

オブローモフ〈上〉 (岩波文庫)

オブローモフ〈上〉 (岩波文庫)

年始と言うことで十五年ほど積みっ放しにしてきた長篇を読むことにした。ゴンチャロフの『オブローモフ』、2002年秋の一括復刊されたものを買ったのをいまに至るも読んでいなかった。ゴンチャロフといえば二葉亭四迷が『浮雲』でその文体の手本にしたロシア文学者の一人だけれど、おそらくこれを買ったのは、後藤明生の長篇『四十歳のオブローモフ』の影響のはずで、後藤論を書きつつも読んでいなかった。

というわけでようやっと読んでみたけれど、全三巻にわたる長篇で、波瀾万丈ということはなく、ある一地主オブローモフの特にどうということもない生涯を哀切に語っている。そして親友シュトルツ、下男ザハール、恋人オリガ、そして妻アガーフィヤらの周辺人物を丹念に描きつつ、「オブローモフ気質」という倦怠と退嬰の性質を浮かび上がらせる。

無用者、余計者の代名詞ともなったオブローモフという通り、序盤はベッドから出ることもなく、そして下男ザハールもそれにつられて無自覚の無能者として描写されている。ゴンチャロフ自身が有能な官吏がゆえか、オブローモフ気質を打ち出すのではなく、寝こけて怠惰なオブローモフは空想的退嬰に逃げ込んでいる人間という否定的人間像でもある。

中巻は第二篇、第三篇が収められており、第二篇はオリガとオブローモフの恋愛関係が始まりそして盛り上がるけれども、ここでオブローモフは関係の頂点で私はオリガの幸福のためならオリガを誰かに譲っても良いんだ、と誰か恋人候補がいるわけでもないのに勝手に言い出している。しかしこれはただの空想的自己陶酔でオリガを無視したロマンでしかない。

この空想的恋愛の高揚に対し第三篇では現実的側面が強調されてくる。いざオリガと結婚の約束をしたあと、ザハールからオリガと婚礼の話が飛び出るとオブローモフは恐慌に陥る。結婚資金やら準備が調っていないことに気づいて、見栄から噂の広まりを恐れて会わなくなる。むしろオリガの側は、オブローモフの困窮を聞き知って、自分の土地だか何かを提供すればとも思っているんだけど、オブローモフはただただ噂を恐れ、デートも気が気でなく、会うことすら避けてひたすらおどおどとしているばかりだ。これもまた俗世と見栄のエゴイズムでまったくオリガを見ていない。

オブローモフは自尊心の要求につり込まれて、オリガの心に犠牲を強要し、それに陶酔したくてたまらなかった。中巻293P

オリガもこう批判する。

「要りもしない、できもしない犠牲を申し出るのは、それは狡猾な人たちの手よ、要らない犠牲を捧げなくてもすみますからね。」中巻430P

結局オリガとの恋愛は破綻して、オリガの側が自分の恋愛は空想だったと省みるんだけど、もっと空想的なのはオブローモフ自身で、彼の行動がエゴイズムと自己憐憫への甘えでしかないことがグリグリと掘り下げられていくのが中巻で、なかなかすごい。

「オリガ、なんだってあなたはそう自分で自分をさいなむんです? あなたはぼくを愛しているんだから、とても別れてはいられないでしょう? あるがままのぼくを受け入れてください、ぼくのなかにあるいいところを愛してください。」中巻469P

オブローモフ気質というのがキーワードだけど、オブローモフのこの性格、いらつくと同時に、ある種の自分自身でもあるので、身につまされる面白さもある。さすがに酷すぎるだろと思いつつも、シュトルツに連れられないとどこにも行けない引きこもりぶりとか思い当たりすぎる。

下巻においてオリガとの恋愛が破綻したあとに見いだした、借り家の女主人は、家事を万端如才なく差配する有能な人物だけれど、自分の感情については無自覚な、無私の奉仕をこととする女性で、ある意味で旧時代的な主婦の理想像のような人物だ。このアガーフィヤの無私のオブローモフへの愛情は、オブローモフ自己憐憫の自意識の恋愛との対比ともなっており、進取の気性にとんだオリガとも対比的な人物だ。

じつはザハールの無能さとその妻となったアニーシャがきわめて有能に用事を全うするあたりにも、オブローモフとシュトルツの関係の似姿が埋め込まれていて、ラストにシュトルツが出会うのがザハールだということの意味がここにもある。

オブローモフ気質とは、怠惰と破滅の柩に入っているような生、という否定性のワードなので、オブローモフが終盤築いた何も変わることない「完全な幸福」はすぐに崩壊してしまう。もっと『怠ける権利』を主張したいところだ。働かないで生きていきたいよな。

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

しかし、オブローモフの怠惰が成立するのは農奴制の地主だからでもあるので、もちろんそれを擁護するわけにも行かない。オブローモフ気質、というのも、近代化も進み発展していく現実において、まどろみのごとき農村での安穏とした暮らしなどもはや成立しないという旧時代への鎮魂歌でもある。

空想的ロマンにたゆたうオブローモフと対比されてる「ドイツっぽ」シュトルツの有能さ、勤勉さは近代資本主義社会のそれで、妻となる女性とのお互いに知性を高めあう関係と、オブローモフの日々変わる事なき生活およびその家主アガーフィヤが何の知識もないながら家事労働をきわめて有能に差配する様子の保守性とが、未来と過去として描かれるわけだ。

オブローモフ気質が否定性としてあるとしても、オブローモフの優しさ、人間的魅力については称揚されていて、特にアガーフィヤにとって太陽だったという件はなかなか泣かせるところがある。とはいえ、中巻あたりのエゴイストぶりが目立つので、その人間的魅力の真実性が感じられるかというと個人的にはやや疑わしい。未開人は心優しい、という類いのオリエンタリズム、というか、近代化しゆく時代において、滅び行く懐かしいロシアの典型としてオブローモフがあるようにも感じられる。過ぎゆく過去へのノスタルジーというか。柩に入っているようだ、とか、オリガにあなたは死んだ人だ、と言われる場面だとか、オブローモフはそういう象徴性を持っている。

それゆえにこそ、オブローモフ主義、というある種の典型を描き出したとして時代に名を残すことにもなったんだろう。ドブロリューボフの評論はそのうち読んでみたい。

しかし、アガーフィヤやアニーシャ、オリガなど、時代性はありつつも特に女性に対しては書き方がとても肯定的な感じがあるのはこの人の特質だろうか。オリガのオブローモフへの批判はいずれも的確で正しい。


中身も十五年の年月を感じさせるように、紙面が焼けていた。はじめて読むのに古書のようだ。