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単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
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石川博品『アフリカン・ヴードゥー・ジュージュツ』と『魂たち』

『アフリカン・ヴードゥー・ジュージュツ』

二年ぶりの新刊。本書はこれまでの石川作品で一番ソリッドでタイトな小説かも知れない。アフリカで暮らす少年が柔道家の日本人と出会い、数代にわたる師弟らがジュージュツを洗練・変化させつつ受け継ぎ、憎悪・暴力・差別・国家の生む分断を超える理想の境地を求める生を描く長篇小説。

アフリカの少年ルヌエとその子供たちに伝えられた「柔術」を描いており、主人公は結婚し子供へと視点人物が移行するし、現代オタク文脈での小ネタもなく、キャラクターイラストもつかない今作は既にラノベという枠にはない。ブラジルの柔道という実例があるとはいえ、アフリカの国に柔道家の日本人が訪れて、という発端こそやや奇想的だけれどそこからの展開はずっとシリアスだ。版元も売り方を模索したのか『近畿地方のある場所について』の背筋氏が推薦文を寄せている。

「旦那」というフランス系と思しき外国人が支配するアフリカの小村にやってきたホンゴという男の謎の技、ジュージュツに魅了されて教えを請うたルヌエが旦那の息子と戦い腕を折ったことで恨みを買い、一家が殺され、家が燃やされて村を脱出することになるのが序盤の話になる。力に抗する力がさらなる暴力、憎悪を呼び込み、漁とジュージュツのみに打ち込むルヌエの知らぬ間に「ヨーロッパ人」を追い出して国は独立し、支配者を追い出したらそれまで誰も気にしていなかった二つの種族間に分断が生まれ、それにラジオが関与していることも示唆される。ただジュージュツと自分たちの家族の生活が大事なルヌエを、脱植民地化、民族差別、資本主義という近代化の流れが襲い、彼は否応なくそれに巻き込まれていく。

こういう設定で奇想小説、ポストモダンな現代小説にもなりそうだけれどそうではない。いや、ある程度はまさしく奇想小説なんだけれども、そういうものならもっとアフリカの話や柔術の話、横道や脱線など遊びや情報量を増やしていきそうなところがそうした色気がほとんどない。厳しく体重調整をした格闘家のような贅肉を削いだ小説になっている。

最初に川のなかでのルヌエが描かれ、折に触れ漁をしていた彼を語る叙述には川の比喩が散りばめられている。川は生きる糧を得るための場でもあり、交通路でもあり、そして虐殺において死体が浮かんだ生死の象徴のような場所だ。作中の国も独立した時もこの川の名がを国名にしているほどだ。ラジオを聴かないルヌエやマイクを知らずに「筒」と形容するその子ソソラといった自然のなかで生きる彼らに押し寄せる歴史・近代化の流れが「川」とともに描かれている。そしてその行き着く海の港町でアフリカの相撲と対決することになる。別の国、より広い世界と出会うのが海だ。村のなかでの憎悪の連鎖、民族差別による虐殺、様々な苦難を逃れて行き着いたこの港町で、格闘技によるショーへ誘われ、ジュージュツが金になる状況が生まれる。これが商業化・資本主義との遭遇と言えるか。

ルヌエによって一度は兄弟弟子を殺す手段になってしまったジュージュツは、義理の子ソソラによって別の形で高められ、そうしてルールのもとで公正に戦われる格闘技としての姿を得、そこに「ジュージュツ」の理念の実現がある。「呪い」と呼ばれる暴力の連鎖に対して力は必要としても、そのコントロールこそが重要になる。愛は呪いにもなり救いにもなると本作は告げる。ジュージュツに向けられた悪罵・呪詛は賞賛にも応援にも変わる。タイトルのヴードゥー・呪術が柔術・ジュージュツへ転じるところに今作の核心がある。ルヌエとソソラに直接の血縁はないけれどもこの二人が家族にして師弟という本作でもっとも重要な繋がりを持っているのは、民族・人種の血統をずらす意味があるし、理念は血縁ではない拡大家族を作るよすがになる証左だろう。力の理念は時に破られ暴力になるとしても。

そんなようなことを書いて、後から本書でメモした箇所を見返したら、そのものずばりのことは既に書かれていて、自分はこれをなぞり返しただけだったな、と思った。

彼はジュージュツがコビンマ川のようになればいいと思った。あの大河のように力強く、自然の法として相手を崩して押し流す。それだけでなく、多くの人を運び、養う。その先には海がある。海は彼のまだ見ぬ世界につながっている。ホンゴ・センシの生まれた国にも、いまだジュージュツを知らぬ国にも彼は行ける―― 208P

「いつも憎しみや恨みからはじまっていた。かならず誰かが大事なものを失って終わった。本当にひどいものだった。おまえにはそうなってほしくない。未来につながる戦いをしてもらいたいんだ」225P

共存していた民族がある時急激に憎悪を向け合い、隣人の虐殺に発展するというところにはラジオの煽動への言及もあってルワンダの話を思い出させる。ベルギー植民地時代の影響でルワンダはフランス語が公用語にもなっているというけれど、本作で出てくる「ヨーロッパ人」がフランス系と思われるのはそれもあってのことだろうか。実際フランスはアフリカに多く植民地を持っていたから直接にはそのためだろうけれど。

ラジオの話は最後に以下のような下りに繋がっている。

ブラジルといえば、われらが日頃食べている餅の原料である芋はブラジルから渡ってきたものだ、とコビムは言う。ラジオで聞いたからおれは知っている。森に囲まれたあのンコロ村もそうやって世界とつながっていたのだ。249P

虐殺を煽ったラジオを最後こうして世界との繋がりによって捉え返す。南米ブラジルが出てくるのは柔道の盛んな国として、そして今作のアイデアの元がそれだからだろう。


嘘・デマによって煽られる差別と排外主義が渦巻く現代SNS社会において、非血縁による家族、ルールに基づいた身体による格闘を描く本作のありようは、民主主義を支える公正な議論の比喩と言えないこともない。

ナゲ、ガリ、ジメ、ドーギ、タタミと日本語をカタカナに異化して語られるのはその柔術の理念が言語や国を超えて伝わりうる翻訳可能性のことでもあるし、柔道を詳しく知らなくても分かりやすくする工夫でもあるだろうか。異色の格闘小説を通じて真摯なテーマを描いた作品だ。

しかし、まわりの喧噪から逃れるためのようにルヌエがジュージュツに一人打ち込む場面を読んでいると中上健次を思い出す、特に『枯木灘』の序盤あたりに土を相手に自然と格闘するような描写があったな、と思ってたんだけど、Wikipediaを見たら石川博品が第一に挙げる作家は中上健次だった。

『魂たち』

2020年の『ボクは再生数、ボクは死』という仮想空間を舞台にした長篇のスピンオフ作品集。本篇の内容を大概忘れてしまっていたけれどある程度単独で読んでも楽しめるし、『アフリカン~』のシリアスな作風に対して現代文化盛り盛りの対照的な作風が読めて良い。電書限定。
石川博品『ボクは再生数、ボクは死』 - Close To The Wall
メインキャラだったキャッシュマネーの前史「キャッシュマネーフェスティバル」、娼館の用心棒ブラッドバスのクライムサスペンスアクション「殺戮の街」、本篇主人公のCGモデル制作者の同棲相手を描く「二十一世紀の乙女たち」の三篇を収める。

「キャッシュマネーフェスティバル」は、配信者として頭角を現していくキャッシュマネーが学校の文化祭でクラスの出し物のプロデューサーとなり、同時にVR空間サブライムでもDJイベントを行なう、という現実と仮想のイベント主催を描く話で、同時にクラスメイトの女子への思いを描く百合でもある。クラスの文化祭の出し物に生煮えの「ビジネス」感覚を持ち込もうとする青臭さ、痛々しさが描かれるけれども、配信でのアンチ、文化祭での厄介客に対する態度がマウント気質の攻撃性を共有しているところに彼女の問題がある。切ない結末で、本篇だと振り回されキャラの尖ってた頃の話という感じだ。

「殺戮の街」、娼館の用心棒ブラッドバスを主人公とする、ある配信者の五人しかいないフォロワーが皆殺しにされた事件を追う探偵もの、かな。VR空間の娼館で用心棒の役割を説明しつつ、盗撮やドラッグの取引といったものを描くVR犯罪小説になっていて、銃撃戦もありの派手な短篇。

「二十一世紀の乙女たち」、本篇での主人公シノのCGモデルを作った「ママ」ぱおぱおさんの同棲相手の男性を主軸にした短篇。弱いところに沁みる話だ。ぱおぱおは気鋭のデザイナーとして頭角を現しており、国外も飛び回る人気作家で、主人公はその才能を見てデザイナーを諦めた過去がある。彼女の古いアバターを使ってVR空間に入り、シノと遭遇することでVRプレイが異様に盛り上がってという屈折した性欲の描写の面白さとともに、このぱおぱお側にもまた存在する屈折ゆえに、「ママ」として多数のVRモデルを産出していく創作者とその恋人の関係がしんみりと良かった。「魂たち」という本書の総題はこの作品中のぱおぱおさんの手がけた作品名から来ている。

ジュージュツのタイトさに対してこちらは 欲望渦巻く街を舞台にして対照的な作風とも言える。VR空間でのドンパチはアカウントは消えるものの人が実際に死ぬわけではないという気安さは、どこかブルーアーカイブを想起させるところがある。『ボクは再生数~』は舞台設定を作ったことでスピンオフで一冊作れるわけだし、続篇とかもできそうな気はする。近作では一番派手だし。

ノーベル文学賞受賞記念・クラスナホルカイ・ラースロー『北は山、南は湖、西は道、東は川』レビュー再掲

2025年のノーベル文学賞ハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラースローに授与された。ずいぶん昔に読んだことがあるけれども内容は全然覚えてないなあと思っていたら、2012年に出した同人誌「幻視社第六号」に松籟社の叢書〈東欧の想像力〉の関係作品としてレビューを書いていたのを発見した。完全に忘れていた。受賞記念にここに全文再掲しておく。下のニュースでは本書の訳者早稲田みかがコメントを寄せている。
www.asahi.com


 本書は〈東欧の想像力〉叢書に含まれるものではないけれども、叢書第一巻の一年前に出版された作品で、本作の訳者はこの後エステルハージ・ペーテルの翻訳をし、編集は〈東欧の想像力〉を一人で担当している木村浩之氏ということで、これが叢書誕生のきっかけになったのか、それとも先んじて叢書企画が進んでいた所にこの本の話が舞い込んできたのかは分からないけれども、〈東欧の想像力〉第ゼロ番とでもいうべき作品と思われるので、ここで紹介する。
 クラスナホルカイは一九五四年生まれのハンガリーの小説家。現代ハンガリーを代表する作家として知られ、特にドイツでの評価が高いという。映画の原作も手がけ、同じくハンガリーの映画監督、タル・ベーラの作品の多く(『サタンタンゴ』『ヴェルクマイスター・ハーモニー』『ニーチェの馬』)で原作、脚本にかかわっている。
 旅行好きらしいクラスナホルカイは、はじめは日本に行く気はなかったものの、日本在住のハンガリー人の友人の強い誘いに乗って来日したところ、「自分の考えを一変させる決定的なことを見つけた」という。そして二〇〇〇年、「国際交流基金招聘フェローとして半年間京都に滞在して、観世流能楽師のもとに通いながら、寺社建築や日本庭園をはじめとする日本の伝統文化について研究を深める」ことになった。
 その結果書かれたのが「北は山、南は湖、西は道、東は川」に守護される位置に建立された寺社の庭園をめぐるこの小説だ。小説は冒頭、京都のある場所へ向かう列車に乗るところから語られ、どうやら何かを探しているようだけれど、これがいったい何者によるものなのかは、数章後にならないとわからない。また何を探しているのかは半分を過ぎないとわからない。本作は第一章を欠いた全四十九章からなる断章形式で構成されており、主人公らしき人物は第四章で「源氏の孫君」と呼ばれて登場する。基本的には源氏の孫君の都市探索の様子が丁寧にたどられるのだけれど、視点はそこにはとどまらず、源氏の孫君を探すお付きの人々、死にかけた犬、あるいは寺の建立を巡る歴史や、寺社建築の詳細な解説、庭園にある石をめぐる地質学的考察、ヒノキの種子がたどった中国山東省から京都への旅の科学的な解説等々、多彩な視点、認識から庭園を巡る語りが編み上げられている。
 クラスナホルカイの特徴的な、時にページを跨いで続く長回しの文体は、分析的で詳細に対象を描き上げていくもので、またさらに認識論的哲学的な考察が加えられていく。源氏の孫君を主人公ととりあえずは捉えられるけれども、視点はカメラアイのように突き放した距離感があり、無人の日本庭園を中心にすえた作品世界は独特の抽象性を持っている。クラスナホルカイは「日本では、人間よりも外界に重きが置かれています」と、日本文化の特徴を指摘している。庭園を中心に据えた作品世界は確かに、人間の心情や内面的なものが希薄で、彼が「人間の登場しない小説が書きたかったのです」とあるインタビューに答えて述べたという言葉に納得させられる。
 庭園を探索する源氏の孫君が既に、時間を超越した不可思議な存在だ。彼が探索する庭園は平安時代末期に手にした『名庭百選』に載っていたものだというから話が妙になって、源氏の孫君が現代日本京阪電車で移動する冒頭の描写ですでに、本作の時間感覚は歪まされており、時間も空間をも越える奇妙な視点から本作が語られていることがわかる。
 作中にも無限の数学についての架空の本について語られているように、無限がひとつのキーになってもいるようで、源氏の孫君が探している庭園については以下のように語られている。

それはどこかしら不安定な海面や、そこかしこに点在する荒々しい岩くれの間で渦まく潮を表象しているようにも見えたが、実のところは、そこにあるのは完璧にして単純な美にほかならず、そこではすべてが存在し、何も存在しないのであり、とらえるすべもない恐ろしい速度ですぎゆく事象の一瞬の瞬きや消滅の避けがたい無限性を内に封じ込めている一方で、目くるめく恒常性をも秘匿していて、近寄りがたく立ちはだかって解釈を拒む絶景を前にして人が覚える言葉の無力さのように深遠で、それははるかかなたの大洋で押しては寄せる無数の冷たい波のようでもあり、ある寺の庭そのものでもある。 (二八~二九頁)

その庭は見る者にとてつもなく大きな力を及ぼしたので、一目見たあとそれについて語ること、それを見たのちに語る言葉を見つけること、的確な表現を見つけること、本質を表現すること、そうしたことは何にもまして困難な課題であり、観察者がどんなに冷静であっても、最初の眩惑のあとにはさらなる深い眩惑に襲われて、眼前にあることを理解すればそれについて語るすべを失って、この庭を的確な言葉や表現を用いて記述する手立てを奪われるだけではなく、換言するなら、斜めに走る小道の右側、下の三角形の中にあるものを見た者、偶然にもそれを発見した者、ちらりとでもそれを目にした者は、以後、それについて何も語りたくなくなる、つまりこの庭は、まずもって語ろうとする欲求を、それについて何かを話そうという意志を消滅させてしまうがゆえに、語ること、適切な言葉と表現を見つけることが実に困難なのであり、それはひとえに庭のもつ真に無限の簡潔さによるものなのだった。 (一一七頁)

 庭の表象と、庭を認識することについて語る二つの部分では、ともに無限の語とともに人間が言葉を失う様子が描かれている。この庭にまつわる認識には、人を突き放す部分があり、人の作ったものでありながらも人を寄せつけない孤絶が感じられ、当の庭もついには源氏の孫君に見つかることなく終わるこの小説の展開がそれを裏書きしていく。平安時代から現代に至るまで源氏の孫君に発見されないこの庭は、それゆえに時空を越えて画然と孤立している。つまり、クラスナホルカイのいう「人間の登場しない小説」というのは単に人の心情や内面に寄り添わないことをいうのではなく、人間の認識、表現を拒む存在を描くこと、つまりはこの「庭」の芸術性が、人間を越え出ることを描こうとするところにあるということだろう
 時空を越えた人間を超越する庭、これがクラスナホルカイの見つけた日本の文化なのだろうか。

(体裁を整えたほか、数カ所の語句を訂正した以外は内容に手を加えていない)


以下出典。
gensisha.gumroad.com

原爆・戦争文学月間、2025年夏。

ここ数年毎夏原爆文学を読んでいたけど、今年はちょうどお送り頂いたものやちょうど目についたものを含めて戦争文学月間って感じで何冊か読んでいた。私には珍しく詩とか童話とかいくらかバリエーションがある。

峠三吉『原爆詩集』

夏の原爆文学読書週間その一。自身も広島で被爆した詩人による詩集。原爆投下直後の広島の街中にあふれるただれた死体、死んでいく人々の生々しい惨禍に込められた原初的な怒りがみなぎるものから、その無念・悲劇をより広い核問題へも繋げ、平和運動など社会的な動きへと接続していく詩へと展開していく。

以下は詩碑にもなっている有名な「序」。



ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

しかし本書を読んで鮮烈だったのは三つ目の「死」という詩だった。原爆投下後の混乱した状況を切り詰めた言葉と語を複数行に跨がらせて読む速度を上げつつ切迫感とともに描いていくこの詩はなんともモダニズムというか新感覚派的なスタイリッシュさがある。「!」から始まるこの速度。

「死」


泣き叫ぶ耳の奥の声
音もなく膨れあがり
とびかかってきた
烈しい異状さの空間
たち罩めた塵煙の
きなくさいはためきの間を
走り狂う影
〈あ
にげら
れる〉
はね起きる腰から
崩れ散る煉瓦屑の
からだが
燃えている

(略)

灼ける咽喉
どっと崩折れて

めりこんで

おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

「としとったお母さん」、夫に先立たれ苦労して育てた子が嫁をもらって孫が出来て半年、という時に三人がいずれも帰ってこなかったという悲惨な境遇を持つ老母への呼びかけの詩。

かなしみならぬあなたの悲しみ
うらみともないあなたの恨みは
あの戦争でみよりをなくした
みんなの人の思いとつながり
二度とこんな目を
人の世におこさせぬちからとなるんだ

その呟き
その涙のあとを
ひからびた肋にだけつづりながら
このまま逝ってしまってはいけない
いってしまっては
いけない

「一九五〇年の八月六日」という詩は、朝鮮戦争において米国は核兵器の使用を検討しており、反原爆運動の高まりを危惧したGHQの指令により、広島平和記念式典が中止された事件が題材になっている。

一九五〇年の八月六日
平和式典が禁止され
夜の町角 暁の橋畔に
立哨の警官がうごめいて
今日を迎えた広島の
街の真中 八丁堀交差点
Fデパートのそのかげ
(略)
一九五〇年八月六日の広島の空を
市民の不安に光りを撒き
墓地の沈黙に影を映しながら、
平和を愛するあなたの方へ
平和をねがうわたしの方へ
警官をかけよらせながら、
ビラは降る
ビラはふる

この朝鮮戦争での核兵器使用検討の話は「その日はいつか」の一節でも触れられている。

生き残っている人々でさえ
まだまだ知らぬ意味がある、
原爆二号が長崎に落されたのは
ソヴェート軍が満州の国境を南にむけて
越えつつあった朝だったこと
数年あとで原爆三号が使われようとした時も
ねらわれたのはやはり
顔の黄色い人種の上だったということも、

「夜」という詩では原爆症のことに触れて原爆実験の後調査委員会が立ち上げられたニューメキシコの名前が書き留められており、世界的な反核運動への意識が窺える。

ひろしま
原爆が不毛の隆起を遺すおまえの夜
女は孕むことを忘れ
おれの精虫は尻尾を喪ない
ひろしまの中の煌めく租借地
比治山公園の樹影にみごもる
原爆傷害調査委員会のアーチの灯が
離胎する高級車のテールライトに
ニューメキシコ沙漠の土民音楽がにじむ
夜霧よ

原爆文学というと重苦しさや説教臭さを先入観として持つかもしれないし間違いではないかも知れないけれども、「死」など極限の状況を描こうとする方法の実験性もまたそこにはあるわけで、そういう面からも面白いと思う。

ただ、気になるのは少女というものへのスタンスで、若い娘が惨たらしく死んでいる描写が複数あり、惨禍の悲劇性を高めるために利用されている印象がある。「としとったお母さん」の詩でも女性を前面に出すところに似たものを感じる。

作者は1953年に亡くなったので青空文庫に全篇公開されている。岩波文庫では大江健三郎アーサー・ビナードの解説がついている。しかし、岩波文庫なら通常カバーに作者の生没年が記載されるのに、これにはないのは何でだろう。
峠三吉 原爆詩集

原民喜『夏の花・心願の国』

夏の原爆文学読書週間その二。「夏の花」三部作は既読だったのでそれ以外を読んだ。作者にとってはあるいは原爆よりも妻の死こそが根源的な事件で、その既に死んでいるかのような目で原爆に際会し、その被害を記録し作品化するという任務を果たした後でようやく自殺できた、という風に見える。

「夏の花」がなぜ妻への供花をタイトルにしているのか、それが三部作だけを読んだ時に気になっていたけど、やはりそうか、という感じ。「夏の花」三部作だけを読むと原爆文学の文脈が表になるけれど、こうして前後の作品も含めると原民喜の人生という文脈が前に出てくる。

彼にとって、 一つの生涯は既に終ったといってよかった。妻の臨終を見た彼には自分の臨終も同時に見とどけたようなものだった。たとえこれからさき、長生したとしても、地上の時間がいくばくのことがあろう。81P

僕は人間が滅茶苦茶に怕かったのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだった。しかも、そんなに戦き脅えながら、僕はどのように熱烈に人間を恋し理解したく思っていたことか 200P

ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思います。僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と死別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だったような気がします。287P

急に批評家佐々木基一宛ての手紙が出て来て驚いたけど、義弟にあたるのを知った。

大江は新潮文庫版のこの作品集の編者で、解説では原を日本現代文学のもっとも美しい散文家のひとりとして称揚し、最後に以下のように書いている。

原民喜は狂気しそうになりながら、その勢いを押し戻し、絶望しそうになりながら、なおその勢いを乗り超えつづける人間であったのである。そのように人間的な闘いをよく闘ったうえで、なおかつ自殺しなければならなかったこのような死者は、むしろわれわれを、狂気と絶望に対して闘うべく、全身をあげて励ますところの自殺者である。原民喜が、スウィフトとともに、人類の暗愚への強い怒りを内包して生きた人間であったことと共に、ほかならぬそのことをも若い人々に銘記していただくことをねがって、僕は本書を編んだ。295P

鈴木比佐雄、座馬寛彦、羽島貝、鈴木光影編『広島・長崎・沖縄からの永遠平和詩歌集――報復の連鎖からカントの「永遠平和」、賢治の「ほんとうの幸福」へ』

夏の原爆文学読書週間その三、というか月間になった。編者が採録したものに加えて編者の詩誌での呼びかけに応じた参加者、計269名(『句集 広島』の作者を除く)の詩、短歌、俳句を集めた反戦平和アンソロジーウクライナ、ガザという現在形の事態をも題材にした作品が集まっている。

収録作品名と作者のリストは以下を参照。
アンソロジー『広島・長崎・沖縄からの永遠平和詩歌集 ―報復の連鎖からカントの「永遠平和」、賢治の「ほんとうの幸福」へ(日本語版)』|コールサック社|詩集、詩論集の自費出版・企画出版

最初の広島篇などは峠三吉原民喜など著名な被爆者の作品が採録されており、古典的な作品を選んだ本なのかなと思っていたけれど、他の章へ進むと多くの作者は現役の書き手で、出典が記された既発表作品もあるけれど、多くはこの本のために書かれたもののように思われる。そして読み進めていくごとに気づくのは、作者のプロフィールには生年、経歴、存命ならばどこそこに在住と現在形で書かれており、生年が1930年代はおろか、1920年代生まれの書き手までが何人もいることだった。戦争を10代20代の頃に直に体験した人の作品が幾つも掲載されていて驚く。20年代生まれから80年代生まれの書き手まで、幅広い年齢の参加者が集まっていて、読んでいくと個々の作品それぞれが持つ声が集まってより大きな声となっていくのを体感しているような気分になる。名前と二、三行のプロフィールと一、二ページほどの作品が束となって大きな存在になっていく。

目を通すだけでもだいぶ時間が掛かる、上下二段組でA5判の事実として大きい本で、これだけの人数による作品が集成されているのにはなんとも言えない迫力を感じる。全国各地、さまざまな年代の人たち、在日朝鮮人アメリカ出身者やアフガニスタン出身者のほか、聾者を詩にした作品もある。

全体を原爆被爆者の作品を配した「被爆者の声」から始め、「広島を語り継ぐ」「長崎を語り継ぐ」「沖縄を語り継ぐ」「空爆・破壊の記憶」「アフガニスタンウクライナ・ガザ・世界は今」「戦争に駆り立てるもの」「喪失・鎮魂・反戦」「永遠平和」の全九章からなる。広島長崎沖縄に加えて種々の空襲の記憶を扱ったものから現在の戦争虐殺にかかわるもの、そしてテーマごとに配列されている。

このなかで印象的だったのは八月十五日の明け方にかけて日本最後の空襲の一つ土崎の聞き書きから構成された作品があることだった。佐々木久春「あの日――土崎 日本最後の空襲(聞き書きにて)」というのがそれで、幾つかの聞き書きが集められ生々しい当時の情景が記されている。短いものを二つ引いてみる。

道を曲がって行ったら何かにつまずいて どんと倒れた 何かモチャモチャするところに倒れたが それは死んだ馬だった 地下足袋拾ったら足首入ってたり 前の日まで一緒に遊んでだ同級生の首が爆弾でもがれて ポンと高いところにあったりしました 191P

臨海鉄道の線路に死体が並び 生きている人足の無い人 手をもがれだ人が泣き叫んでいた民間人も兵隊も 二百メートルくらい 線路の枕木よりももっと多く並んで転がってました 191P

祖母に二人しか子供を産まなかった理由を聞いたら、これ以上生めば戦争に取られるからだ、とそういう反戦の生き方を描いた小川道子の「私のおばあちゃん」、「正義は人の数ほどあるけれど/道理はひとつしかないんだよ」と「じいちゃん」がこぼす杉谷昭人の「道理はひとつ」なども印象に残る。堀場清子「花の季節」には前書きに「だれが書いたのか/「安らかにお眠り下さいなどと」とあり、次のように始まる作品もある。

どうしてねむれよう
剥げおちた皮膚の痛みも去らないのに

命が内から崩れてくる
苦悶がいまも 火となって駆けるのに 64P

傷、痛みなど受苦とそこからの抵抗の意思がそれぞれにあり、広島長崎沖縄を基盤に据えた本書の反戦詩歌集としての性質もそこによるものが多く、非常に重量感のある本になっている。

けれども、日本のそうした言説の通例として被害体験を強調する故の加害性への意識の薄さというのも感じる。そんな時に戦中世代の加害体験を聞いた話をネットで書いたら炎上して投稿を削除することになった出来事を見て、加害の告白というのはそう簡単なものではなく、ネットでは左右から非難が集まったりするなど、ひどく取り扱いの難しいものになっている状況もあるわけだ。

本書には英訳版があり今年の夏に刊行された。英訳版の訳者は岡和田晃、堀田季何、熊谷ユリヤ、大田美和、与那覇恵子、結城文、郡山直、水崎野里子。日本語版と英訳版を岡和田晃さまより恵贈いただきました。英訳版はちょこちょこ拾い読みをするくらいだけれど、俳句の英訳などは日本語以上に即物性を感じたりもする。

野坂昭如『戦争童話集 完全版』

こっからは特に原爆文学とかではないけど戦争文学月間として続けて読んでいた。全篇が「昭和二十年八月十五日」から始まる、それぞれの終戦・敗戦を描いた75年刊の童話集に今世紀書かれた沖縄篇を増補したもの。ほとんどの主要人物が最後に死んでいく陰惨さがあり、それをやや距離を取った語りとファンタジックな描写を交えてえぐみを抑えつつ書いている印象だ。

潜水艦に恋した鯨、防空壕のなかで隠れていたオウムと男の子、脱走したら危険だと動物園の動物を殺す話は有名だけれどその殺される象をかばっていたおじさんの話など、群れのなかからはぐれて孤立した存在がそこでかりそめの救いを得つつも皆死んでいく、そんな話が多い。戦時下の全体主義的抑圧のなかでそこを外れたところに自由はあるかも知れない、けれどもそれは死への道でもある、そんな感覚。

「ぼくの防空壕」は珍しく主人公は生き延びるけれども、戦死した父が掘った防空壕に父を感じていたのに戦後には崩されてしまう。生き残ってしまったものの悲哀が描かれる。巨大な風船を気流に乗せて直接アメリカへ送って爆撃する風船爆弾を扱った「八月の風船」は興味深かった。銃後の女子を含めた学生らも直接敵を攻撃できると仕事にも力が入り熱心だったという話、興業をできない劇場を使って試験した話も面白いけれど、ジェット気流については日本だけが気づいていたという記述は本当か?と思ってWikipediaを見ると、気流に接触した事例は各国にあったけれども、学術研究を行なっていたのは日本だけだったのは事実のようで、風船爆弾のこともジェット気流の項目で触れられている。概ね間違いではないのか。

元版のあとがきで作者は原爆、沖縄、満洲引揚げのことは書けなかったと述懐していて、これから30年近くたって沖縄篇として書かれた二篇が追加されている。どうして書こうと思ったのかは気になる。

野坂昭如アメリカひじき・火垂るの墓

二つの表題作で直木賞を受賞した著者の代表作たる短篇集。映画は幼い頃に見ただけの「火垂るの墓」の原作を初めて読んだけれども、神戸を舞台に関西弁が飛び交い、助詞を省いて読点で文節をどんどん繋げていく饒舌な語り口調のような文体の質感がまずもって印象深い。最初文節ごとの視点が揺れているようで、助詞が省かれているのもあってだいぶ読みづらい気はしたけれども、この文体は特に空襲から避難する清太を描く三ページほどにわたった描写を一文でこなす部分で頂点に達するように思えた。

内容についてはジブリの映画もあり省くけれども、清太の荷物から売れるものをあさって売った金で作った料理でも清太たちには具のない汁を与え、取れるだけとって放り出してしまう未亡人の姿は、外国人にかかわる今の日本そのものの姿に見えてくる。妹と逃げ出した洞窟のなか、蛍の光で明かりを取る場面は印象的だけれども、この蛍の光のイメージは「敵の曳光弾」とも重ねられ、さらに爆撃機の落とす爆弾や、妹の死後灯火管制が明けた町の明かりにも繋がっていくように思える。表題には光と火が重ねられており、死と生もまた一繋がりだろうか。

そして、集団からはぐれたものがそこに一瞬のユートピアを築くもののそれは必然的な死への道行となる、というのは『戦争童話集』収録作とほとんど同一の構成を持っているのに気がついた。野坂の戦争体験の根源的な形がこれなのかも知れない。

アメリカひじき」はタイトルだけだとなんのこっちゃと思ったけれど、敗戦直後の占領下にアメリカの捕虜収容所へ投下された物資を自分たちで分配し、そのなかに入っていた紅茶の茶葉が何か分からずアメリカのひじきだろうとそのまま食べてしまった話に由来している。物語は敗戦から22年、発表時のほぼリアルタイムの頃を舞台にしており、そこで語り手は敗戦時のことなどを想起しつつ、妻がハワイ旅行で知り合ったアメリカ人夫妻を家に招くことになり、そこで味わう複雑なコンプレックスを描写している。小島信夫アメリカンスクール」を思い出すところがある。

「焼土層」、自分を育ててくれた養母の死の知らせを聞き、何十年ぶりかに養母の住んでいた場所を訪ねていくなかで語り手の経験を回想していく短篇で、戦後の経済成長で豊かな稼ぎを得ているなか、置き残してきた養母という戦争の痕跡に再び直面する話という印象だ。

「死児を育てる」、母が実子を殺した事件を導入とし、彼女が幼い頃に戦時下で妹を死なせてしまった事件へと語りが進んでいく。「火垂るの墓」で理想化した野坂昭如自身の戦時下のリアルに近いのはこれなんだろうなと思わせる。妹を死なせた罪の意識が心中的な行動へと繋がっていく。

「ラ・クンパルシータ」、少年院に入った高志がなぜここに来たかを過去に遡って明かしていくけれど、昂進する食欲のままに何もかも食べ尽くして、母の大切な服も売って食べ物に換えてしまう異常な食欲で身の破滅を招いていく物語。これも戦時下の野坂昭如自身のカリカチュアの一つなんだろう。

「プアボーイ」、一つ前の短篇の高志と同じ少年院の同室だった辰郎を主人公とする短篇。父を亡くし、母は娼婦として働いていてあまり愛情もなく育てられた辰郎が、子のいない親族に養子としてもらわれたところ、愛情豊かな養母への感情に性欲が絡んでくるさまを描く。

少年院の同じ部屋にいた二人をそれぞれ、食欲を描いた「ラ・クンパルシータ」と、性欲を描く「プアボーイ」とで対のものとして発想されていると思われるし、この二作がともに音楽を表題に持ってきているのも二つでセットの意識があるからだろう。欲望のたがが外れる危うさが共通してもいる。この二人がともに少年院にいたのも欲望を檻に入れて抑制する、そういう象徴的な状況設定になっていると思われる。

短篇集としての本書がどういう性質のものか読む前は知らなかったけれども、読んでみると野坂昭如の自伝的要素が随所に感じられるものに思える。「火垂るの墓」で妹に対して理想的に振る舞った自分の姿をメルヘン的に描き出した後、「アメリカひじき」は清太が戦後生き延びた場合という説もあり、養母をめぐっては幾つかの短篇に見え、後半の三つは「火垂るの墓」から排除したものを強調して描いたもののように見える。

火垂るの墓」だけを知ってるのとこの作品集を読むのとでは、物語と作者との関わりはだいぶ違うものが見えると思う。以下の記事も参照。
波 対談 野坂昭如 × 高畑勲 | 新潮社の電子書籍
というか、野坂昭如っておもちゃのチャチャチャの作詞者だったのか。

小山田浩子『作文』

慶輔と苑子、戦争を知らない世代が平和教育の一環で書いた作文にそれぞれ虚偽や誇張が含まれているという「物語」のズレから、継承と今の問題への向き合い方を描く中篇小説。広島在住の作家が広島での平和教育・作文をいかに今に生かす道筋があるかを探ろうとしたものかと思われる。

読み始めてすぐ、作者は過去のエッセイ集で広島の平和教育があってなお投票率が低いこと、平和教育が「物語」にしかなっていない懸念を書き留めていたことを思い出した。このことに自ら創作を通じて答えようとしているのが本作なのだろう。

学校で課題を出されて祖父に戦争体験を聞いたら何も答えてくれず、近所に住んでいた謎のおじさんに戦争に行った体験があり、飯盒に銃弾を受けて命が助かった話を聞いてそれを祖父のものとして発表した慶輔は、ある種の間違った受け取りをして真実とは異なる物語を生んでしまう。その作文は家族にとっての祖父をめぐる感動的な物語として受け継がれてしまい、しかも見つかった飯盒がその物語の「物証」として虚構は真実に変化してしまう。そうしたなか、彼はティッシュと間違えてパレスチナ問題についてのチラシを受け取ってしまい、主旨に賛同するわけでない形で娘はスイカの絵を描く。

慶輔はややネガティヴな書き方がされているようにも思うけれども、祖父ではなくとも謎のおじさんマルミツの体験としては事実だったものを聞き書きし、パレスチナ反戦チラシを受け取り、娘が描く絵によってパレスチナを示すスイカの意匠が継承される過程にもなっている。

苑子は祖母から聞いた八月六日の体験を作文にするのだけれど、本にして10ページ以上続くのはさすがに書きすぎで、この過剰さとともに随所に誇張をし、また祖母に被爆者の話をする時失明したことを勝手に追加したりと「物語」の引力に囚われてしまう。これは上手さの弊害とも言える。何かを語ると言うことは聞き手の反応によって原理的に変形を不可避にするものでもあり、その語ること、書くことに「取り返しのつかないことをしてしまった」(86P)という感覚を触知し、語ることの罪過を示唆する。作文はその都度新しいことを作り出してしまうことで、その時々で話はズレ、変形し、歪む。

慶輔は作文について教師から虚偽の可能性を匂わされ、その腹いせに苑子に対して中傷を投げかけ、それをきっかけにしたいじめもあり苑子は成人式にも顔を出さず、二人の関係はそこで断絶する。それでも、SNS反戦の投稿が広まるように、手製のチラシが手に渡ることによって、二人に知らないうちに繋がりもまた生まれている。

義妹がパレスチナ問題にかかわるなかで苑子も影響を受け、本を参考にチラシを制作する時に、子供の頃の作文を書いた気持ちを思い出すところで、「作文」が再度言及される。平和教育の作文が反戦平和運動のチラシ作りに繋がる、ここに作者の願いがあるのだろうし、本作が『作文』と題される理由だろう。本書もまた歪みや変形をともなった、平和運動にかかわる作文としての意味がある。

しかし苑子はともかく、義妹が精神的安定を崩しながら問題にかかわるのを見ると距離を取った方がいいようにも思うけどそれほど思い入れずには運動に踏み出すこともできないか、と複雑な気分になる。

外国人、弱者などさまざまなマイノリティを敵として異物侵入の物語という暴力を大々的に煽動して金や権力を得ている者たちがいるなかで、物語が変形歪曲を不可避に抱え込むとしてもそれを意識しつつ平和を「作文」に埋め込む試みの一環が本作でもあるだろうとは思う。なんとも漠然としてしまう感想だけれども。

しかし、慶輔の祖父が語りたがらなかったのはつらい経験だったからとか、あるいは加害体験だった可能性もあるわけで、マルミツが一体どんな人物でどの戦争の話をしたのかという謎も残っている。ここに語られない戦争、語っても取り違えられる体験があるのは重要なポイントだろう。

本書はU-NEXTの出版活動のなかで、100分ノベラという中篇小説をカバーなしの新書版ペーパーバックとして刊行するレーベルから出ている。100分というから100ページ前後が基準なのかと思ったけど180ページくらいのものもあり、結構分量はばらけている。

本書刊行についての著者のコメント。


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インスタの埋め込み引用だと全文表示できるのに今気づいた。
と、今回の話とは関わらないけど「作文」という同タイトルのエッセイがある。
第24回「作文」 | twililight

C・S・ルイス『ナルニア国物語』(新潮文庫版)


新潮文庫版の新訳が始まったので未読だったこれを月一くらいで読んでいこうかと思って読んだもの。キリスト教の考え方が埋め込まれているとも言われていて、まあそれは節々に感じるけれど一応子供向けなのでするっと読める作品。ただ最終作はなかなかすごくて、キリスト教徒にとってファンタジーが書かれる理由の一端を見た気がする。そういう面白さもある。

ナルニア国物語1 ライオンと魔女

第一巻。戦時中に疎開した四きょうだいが暮らす屋敷で、衣装ダンスの奥にナルニアという国があり、半獣の人と出会い、魔女の支配を打破するための戦いに加わるファンタジー

異世界に迷い込んで恐怖政治の魔女から国を救う四人のきょうだい、しかし魔女に魅入られた裏切り者がいて、という流れでゼリー状のお菓子のようなものとして出てくるターキッシュ・ディライト(トルコの輝き)、この何かが想像できない不思議な響きがなかなか印象的だけど求肥とかわらび餅に近い味とか。

一巻ではナルニア国を救う物語が展開され、冒険の末国は救われるんだけれど、その後きょうだいが成長して大人になって国を治めてってところまで行くのに驚いた。物語のなかのように時間が進んでいて、そして元の世界に戻ると時間が経過していない、夢のような終わりを迎える。読書経験の比喩のようなものは児童文学の基礎って感じがある。ここからどう話が続くのかが気になる終わり方だった。

成長した四人を語るところでお菓子に釣られて魔女に加担したエドマンドが「正義の王」となっているところが良かったな。その反省故の正義、なんだろう。

ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』

第二作ではナルニアと現世での時間の進み方の違いから、以前いた時から千年ほどが過ぎたナルニア国へと赴くことになる。征服王朝が否定した過去の伝承の復活をめぐる話になっていて、その当事者が主人公たち、といだいぶ時間が飛んでるのが意外だった。そしてこの外来の民族が元からいる人たちを侵略して、というのはケルト人の話を意識しているのかと思わせる。どうなんだろう。女の子は地図が読めないというシーンがあって、この話は歴史が長いんだなと思った。

ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』

二巻の時代から数年後、カスピアン王子が叔父に追放された七人の貴族を追って東の海へ航海に出た時にルーシーたちが現われ、様々な危難を乗り越えながらアスランの国があるという東の果てへと旅する海洋冒険小説の巻。

前巻までの四人のうちエドマンドとルーシーの二人と、いとこでなかなか性格の悪いユースティスが海を行く船の絵を見ていたらその絵に吸い込まれて荒れ海のさなかに投げ出され、助けたのがカスピアンたちの船だった。そこで七人の貴族の後を追って東への船旅に同行することになる。奴隷商から始まり人が竜になったりなどファンタジックな危険を乗り越えていく船旅は冒険小説の面白さがある。

ナルニアに来ても英国領事館に言いつけてやると語気を強めるユースティスの心変わりが読みどころの一つだけれど、そのきっかけとなった事件に食人の契機を読みとる解説が面白い。植民地支配の形骸化した社会で奴隷商に囚われた仲間を救出する話の後に、人間が竜に変じて同じく人間が変身した竜の死体を食べたかも知れないエピソードが続くあたり、解説にある野蛮と文明、人間性の危機についての意識が感じられる部分だ。しかし、わがままな子供が竜になって「野蛮」な行為をするところはやはり懲罰として与えられたものではないかという気もする。ここでユースティスに優しいのが人間でないネズミなのは面白いけれど、彼はアスランを強く求めて東へ赴く求道者でもあり、救世主の分身だからのようにも見える。

ユースティスの改心は良いんだけど最後、良い子になったユースティスをアルベルタおばさん、母親がつまらない子になってしまったと思ってる一節はとても良かった。意地悪な悪い子のように見えても母にはそうではなかったのは一種の救いでもあるのではないか。教導に対しての自己批判というか。

ナルニア国物語4 銀のいすと地底の国』

前巻で冒険をともにしたカスピアンの息子の王子が行方不明となっているさなかのナルニアに、前巻のユースティスとともに同じ学校のジルという少女が訪れ、王子を見つけ出すために荒野と地底の国を旅することになる。

言うことは悲観的だけれどここぞの時にはしっかりと行動するドロナゲキのキャラクターがなるほど魅力的で、彼が想像力の重要さを訴えるところに本作のファンタジーとしての核心があるのは良く分かる。けれども今作自体はそれなりという感じもあった。時代的に二巻から四巻までがカスピアン三部作といえそう。

「しゃべる雄ジカを食べている」、カニバリズムだ。獣人的な存在がいるけれども、食べて良い肉かそうでないかは喋るかどうかという区分けなのが示唆的だ。

ナルニア国物語5 馬と少年』

シリーズ第五弾は第一作で省略された、ルーシーたちが治めるナルニア黄金時代を舞台にしている。孤児の少年と老人の妻にされそうになった少女が、喋る馬たちとともに南の国を脱するシンプルな冒険物語で、この世界の子供たちが主人公となっているのが珍しい。ルーシー、エドマンドの懐かしい面々が既にいるから新たに地球から紛れ込む者たちはいない、ということだろう。

ナルニアの敵国カロールメンで漁師の息子として育ったシャスタ少年は売り飛ばされそうになった時に、ナルニアの喋る馬だったブリーがその場にいたことで二人して逃亡の旅に出る。同じくして老いた宰相の妻にされそうになったカロールメンの貴族の娘アラヴィスが死のうとしたときに愛馬フインが急に喋り出して一緒に逃走を試みたところで、二人と出会う僥倖を得る。二頭はともにナルニアからさらわれて来たことでカロールメンでは喋れることがバレないように振る舞っていた。

プライドが高い軍馬の雄馬ブリーと、貴族の娘でシャスタと話さないようにしていたアラヴィス、と男女雌雄で傲慢な態度の問題を描いているというのは解説にあるとおり面白い所だと思う。同時に、独裁的なカロールメンの文化は明らかに中東のイメージで、オリエンタリズムというかヨーロッパの人種差別の具体例になっている。

読んでて興味深いのはドラマ的に盛り上がりそうな部分が異様にさらっと済まされてしまうところだ。最後の素性が明かされる所とかもだけれど、ここはもっと描写を増やしても良さそうなところでさっさと次に行く淡泊さがある。これはむしろ現代小説が濃すぎるのかも知れない。あるいは大人になって読んでいるからというのもあるか。子供向けとしての取捨選択があると考えた方が良いかもしれない。

しかし、前巻のところでも書いたけど、普通に肉食する世界をベースにしながら、動物と亜人種との境に話が出来るという知性の有無を持ってきているのはキリスト教的人種主義なのかなとも思える。あと、アスランを仰々しく迎えすぎている、という気もするけどこれこそ宗教観の違いかも知れない。

ナルニア国物語6 魔術師のおい』

第一巻よりもっと以前の1900年頃のロンドンで、テラスハウスで隣同士の少年と少女が雨模様の退屈さから屋根裏を探検していたら魔術研究をしている伯父の奸計にはめられ異世界に飛ばされることになる。ナルニア創成に立ち会い一巻冒頭に繋がる第ゼロ話。

世界と世界を繋ぐ森を介して、黄色と緑の指輪によって現世や凶悪な魔女のいる世界、そしてアスランによってナルニアが作り上げられる世界を経巡る冒険が描かれている。第ゼロ話らしくシンプルな冒険譚に見えて、異世界と現世を往還する仕掛けは六番目に読むことで驚きが生まれる作りだろう。

異世界で好奇心からポリーの制止も振り切ってベルを鳴らしてしまい、世界を滅ぼした魔女が復活し、ついてくるのを振り切れずに現世にまで連れてきてしまい、そこでドタバタが起こるというのはなかなかファンタジーらしい展開に見えるけれど、こういうパターンの定番ってどこから始まったのか。

基本的にナルニアに地球の人間たちが赴いての冒険が主だったこのシリーズでこうして向こう側から脅威が訪れるというのは初めてのことで、それだからこその新鮮さがあって面白い。ディゴリーもだけれど伯父もまた女王の美貌に惹かれるけれどもポリーは特別魅力を感じないという相対化がされてもいる。

衣装箪笥や街灯、ナルニアの魔女などの第一巻の状況がこうして出来上がった、という後付けの説明という感じもあるけどそれはそれとして一巻に繋がっていくのは面白い。ただ、現世の人間をあっちにつれていって勝手に王と女王にアスランが仕立て上げるのは拉致にしか思えずビビった。良いんだ、それ……って思わないではいられなかった。馬車の御者が成り行きで異世界に行ってそこで急に王になる、サブキャラだからって扱いが適当すぎないか。

それはそれとして、この冒険のコンビのポリーとディゴリーがずっと友達だったと書かれていて、恋愛関係にならないのが今読むと面白い。思春期以前の子供たちを描いているからでもあるんだろうけれど、冒険とラブロマンスを混ぜないのが基本になってる感じがある。たぶんそれは私なんかが少年漫画なりアニメなりだと冒険と恋愛がセットになっているのを当然のものとして見てきているせいだろうとも思う。

ナルニア国物語7 さいごの戦い』

シリーズ最終作は偽アスランの登場によって混乱に陥ったナルニア国がカロールメンに侵略されるばかりか、星が落ち海が押し寄せる世界の終末という劇的展開で驚かされる。仮初めの世界の奥にある真の楽園の光景は、死者の宗教的な救済にも見えた。

どうもこのシリーズはアスランを仰々しく応対しすぎているなと思っていたから、暴虐を命じる偽アスランにも従ってしまうという展開は、ナルニア人の自立心のなさを描いているようで面白いと思っていたけれど、あんまりそういう意味ではなかったかな。ドワーフの描き方からしても。

さいごの王と呼ばれさいごの戦いと称される預言的な言葉が出てくるので何かしら終わりを迎えることは明らかだったけれども、怒濤の如く押し寄せる終末の光景は大スペクタクルな読みどころにもなっていて、創成を描いた前巻はこの終わりを迎えるための布石だったわけだ。

賛否両論巻き起こるのも納得の終結で、宗教的救済をプラトンイデア論も用いてやや異端的に描いたもののような気もする。しかしこのラスト、藤枝静男の「一家団欒」のようなもんだよなとも思う。世界の誕生と終焉そして信じるものの死後の救済。

最初の四人の一人、スーザンだけがナルニアを忘れ、現実の大人として生き、それを非難されているんだけれど、ナルニアにいないということは事故で死なずに一人生き残っていると見て良いんだよな。これも賛否があるけど、スーザンは現実へのアンカーなのではないかとも思った。

三巻でユースティスの改心を母が残念がっている描写が印象的だったんだけれど、それと同様のナルニアの相対化の契機ではないか。作者は普通にドワーフともども救われぬ人々として描いたかも知れないけれども、それ故にこそ今作の描写の絶対化を批判的に見うる視点を埋め込まれている。

馬小屋やイエスその他キリスト教的モチーフもふんだんに散りばめられているけれども、そういうのを気にしないで読むと、亡くなった人たちもまたあの世で楽しく生きていて欲しいというひどくシンプルな願いとも読める。一巻で献辞がある子供はあるいは亡くなったのか、とも思ってしまった。

ただ、このシリーズ通例として、肌を塗り三日月刀を使ってカロールメンの仮装をしていた面々が、その肌の色を落とす時に「真の人間になった」気がするというところの人種差別ぶりはすごくて笑ってしまった。

そういえばこのニール・ゲイマン『壊れやすいもの』所収の「スーザンの問題」はナルニアを読んでからじゃないとダメだな、と思ってこの本も積んでいたんだけれど、ようやく読んだ。とは言ってもあまり感想はない。生き残ったスーザンが老教授になり児童文学についての本を出していて、そこにインタビューに来た女性との対話のなかで、列車事故で家族を失った後その陰惨な状態の死体を検分したトラウマ的な体験を語る下りは重々しい気分になる。ナルニアの世界にも死はあったけれど、グロテスクな死や性の描写を与えて、そこから排除されたものの存在を描いているような印象がある。

別の翻訳は見ていないのだけれど、岩波少年文庫瀬田貞二訳の三巻タイトル、『朝びらき丸 東の海へ』というのはなかなかすごいなと思った。新潮版は「夜明けのぼうけん号」で素直な訳だと思うけど、「朝びらき丸」は格好いい。ただ、子供の頃の自分だったらむしろこれはダサいと思いそうだ。

最近読んだ本 2025.08

最初にあげた本いつ読んだんだろうってくらい前な気がする。『猟奇歌』は四月か。

夢野久作『猟奇歌』

殺意、死、血、狂気、犯罪、恐怖などなど、夢野久作が「猟奇」その他の雑誌に発表していた猟奇趣味の横溢した短歌251首を一首一ページにて掲載し、日記や手帳に記された同趣向の短歌を資料として巻末にまとめ、寺山修司の解説を付した一冊。

人の来て
世間話をする事が
何か腹立たしく殺し度くなりぬ

殺しておいて瞼をそっと閉ぢて遣る
そんな心恋し
こがらしの音

だしぬけに
 血みどろの俺にぶつかつた
あの横路次のくら暗の中で

頭の中でピチンと何か割れた音
 イヒヽヽヽヽ
……と……俺が笑ふ声

何故に
草の芽生えは光を慕ひ
心の芽生えは闇を恋ふのか

にんげんが
皆良心を無くしつゝ
夜のあけるまで
ダンスをしてゐる

白塗りのトラツクが街をヒタ走る
何処までも/\
真赤になるまで

自殺しても
悲しんで呉れる者が無い
だから吾輩は自殺するのだ

真鍮製の向日葵の花を
庭に植ゑた
彼の太陽を停止させる為

毒薬と花束と
美人の死骸を
    積んだ
フルスピードの
  探偵小説

このSF的な逆説を思わせるものや、「毒薬と花束と美人の死骸を積んだフルスピードの探偵小説」はかなり良いキャッチフレーズだ。

「何故に 草の芽生えは光を慕ひ 心の芽生えは闇を恋ふのか」、あまりにも中二病の歌で良い。

日常にふとした殺意や死を見いだす視点もあるけれど、幻想小説的な分身のテーマやどこかユーモラスな光景、あるいはSF短歌と言えるものもあったりして「猟奇」に非主流派文学のもろもろが流れ込んでいるようなところがあるのが面白い。

仙田学『ジンジャ野みまもりさん』

著者の児童書第二弾で前作『トイレ野ようこさん』でのサブローくんとみんとちゃんのコンビが「ボケバケ探偵団」シリーズの第一巻として新スタート。不思議なアイテムをくれる見魔森さんというおばあさんの力を借りて化け物騒ぎを解決していくお話。

しっかりした良い子だったお姉さんが夜中に家を抜け出して泥だらけになって帰ってくるという事件と、給食がおかわりできなくなったという二つの事件が描かれている。子供の悩みを化け物という題材で形にして解決していく話だけれど、母がいない家庭の描写などさらっと描かれていて面白い。
優しく善意からの行動をするけど前後の考えなしに動いてしまうサブロー君を今はそんなことをする場合ではないとツッコミを入れていくみんとちゃんの行動力と知性のコンビがなかなかいい。

千早耿一郎『悪文の構造』

タイトルに惹かれて買った本だったけどなるほど確かに面白かった。悪文をメインに好例も含めて100以上の文例を引きつつ、どこが悪いのかを適宜指摘していきながら、誤解を生まない文章を書くための要件を論じている。一言で言えば、文章を短くする、これだろう。

だらだら続く文章は主語と述語の距離が離れ、文意が不明瞭になりがちだ。そして句読点の打ち方を間違えれば、どことどこが対応しているかが不明確になり、誤解を招くものになる。著者がしばしば箇条書きを推奨しているのは、文を短くし、趣旨を明確にする一つの簡便な方法だから。

題目語としては「は」という表現、ツイッター構文にも似てるよなと思った。←の文章の「、」がだいたい同じ役割な気がする。後半で例文として挙げられた文章がなかなかリズムも良く読めるのでこれ好例として引いてるのではと思ったら実際そうで中野重治の文だったのはなるほどなあと思った。ついでに本多勝一の『日本語の作文技術』も読んでこれも結構面白かった。

安部公房大江健三郎三島由紀夫『文学者とは何か』

三者の鼎談を最初に置き、他にそれぞれの組み合わせの対談を配置した一冊。鼎談・対談はだいたい三島健在の50、60年代のもので、最後の安部と大江の対談のみ90年代のもの。安部大江の対談で三島の話が出ると歴史を感じる。

最初の鼎談だと大江が江藤淳を高く評価していて、戦後の文学は作家と批評家の二人三脚で出てきて、これからそうなっていくかも、という話をしている。それはともかく、安部は花田清輝とという認識らしく三島は共産党系の作家で安部と花田だけは贔屓していて後は嫌いと言ってるのが面白い。

そういえば三島だと伴走する批評家って誰になるんだろう。ファシズムをめぐって、大江が日本文学でファシストという概念を考えるとすればそれは三島だ、と言うのに対して安部が反対して擬似ファシストだと返したら大江が「擬似というのは芸術的という意味です」とさらに返すのは面白い。

大江も政治体制や政治的人間ということを考えて最も美的な感動があるのはファシストだ、と発言して三島が「君もファシストか」と返していて、三島が政治的に無関心だと言いつつ美学的にファシストだというのは大いに悪影響がある、とも大江が言う。ここらのやりとりは色々示唆的というか。

政治に無関心でファシストの美学を奉ずる、自決に至るロジックまんまって感じがしてしまう。大江が若い作家の光る細部を褒めることはマイナスに働く、若い作家は修行してその光る細部をなくしていく必要があるというところから議論が始まり、三島の返答に対して大江が自分は混乱していたと認めるところがある。ここは細部が光るには夾雑物が必要だけど現代小説はそれを排撃して小粒になってて云々と実際よく分からないところがある。

66ページあたりの戯曲と小説の違いについて三島が論じているところは面白い。戯曲は完全に過去の話を舞台で現在形進行していくからすぐ神話と結びつく、逆に小説は終わっていない現在的なことを扱うからこそ現在性が希薄になるので、少し過去に時間をおいたりして処理することになり、だから小説は作者より四、五歳下の人に愛される、と話を結んでいる。三人は誰もそうだろうというところはあるけど三島の話はサービス精神があって面白い。

大江は安部との対談で、エッセイと短篇を作る頭のメカニズムは似ているといい、森鴎外の『渋江抽斎』はエッセイの積み重ねだけれどもその幾つかが時折素晴らしい短篇に転化しているところがあるというのも興味深い。事実良いエッセイは良い短篇と区別が付かないのはある。最近読んだのだと須賀敦子のとか。

安部が三島との対談で、自分の主題はいかにして隣人を、隣人思想を、共同体思想を絶滅するかということなんだと言っているのが面白い。過激だ。偽の隣人ばかりで他者との対決がない、という話のようだ。そこで島尾敏雄の話になって、三島があれは他者との対決が必要だから他者を作り出す小説だ、と言っていてそれはそうらしいけれど『死の棘』は昔読んだきりだな。

そういえば、三島の安部評として有名なものが大江と安部の対談のなかで出てきた。『他人の顔』が出た直後、大江がニューヨークで三島と会った時に聞かされた言葉として以下のように言っている。

「安部君は最新式の技術と部品と、それに古いガラクタもあれこれ集めて、ものすごく大きな戦車を作る。さあできた、といって動いた瞬間ゴトンとエンコして小説は終わる」175P

これの出典は90年朝日新聞の対談だったんだな。

中央公論は最近この新書判より一回り大きいハードカバーの対話集や編集本をいくつか出していてこれもその一つ、なかなか手軽で良い。中公文庫の全集月報座談シリーズを思い出す。

宮崎智之・山本莉会『文豪と犬と猫』

両者それぞれ犬と猫を飼っている体験から漱石、百閒、志賀、谷崎、川端、森茉莉幸田文、犀星、安吾、三島、遠藤周作、四迷にいたる近現代の作家を愛猫家、愛犬家として浮き上がらせ、意外な視点から作家の新しい側面を見せてくれる往復書簡。

書き手二人がそれぞれに過去や現在、犬や猫との経験を重ねてきているからこその実感的な動物への感覚を持っており、それ故にこそ時に見過ごしてしまいそうな作家の犬猫に注ぐ愛情を見て取ることができるようで、漱石が犬をこそ愛していた話に始まり、読んでいる作家でもそうだったんだと気づかされる。

宮崎さんが犬好き、山本さんが猫好きとして、それぞれの作家を担当して往復書簡の型式で各作家を扱う形になっており、各回作家の履歴を基礎から紹介しているので知らなかった作家についてはここから入れるし、知ってる作家についても犬猫の観点からへえと思わせる軽妙な文学ガイドと言える。

後藤明生は志賀の自己本位の目線というものを批判的に論じていたけれども、志賀がそこまで動物好きだったというのは意外だった。もちろんベタベタするのは拒否しているところにらしさがあるけれども、迷子になった「駄犬」を必死で探すくだりはまさにツンデレという感がある。

同様に、冷徹な目線の印象がある川端康成が愛犬家だったというのはこれまた意外だった。作品を読み込んでないので犬が出てくる印象がなかったけれども、読んだことのあるものにも犬が出てくると書かれている。また天涯孤独の身の上から犬を愛したという単純な見方を排して川端の犬観に近づこうとしている。川端の「愛犬家心得」などから、擬人化したりするような犬の見方を排した態度を読みとり、草花や自然を愛でるように犬を通じて自然の心に入る、という認識を引用しているのが面白い。自然の一つとしての犬。

コリー犬を愛した安吾の「堕落論」のロジックと、ベタベタとした忠義の犬を否定し「猛獣性」を肯定する犬へのスタンスは同一のものではないか、と作品と犬との共通性を見いだしたり、愛猫家なのに作品には犬が重要な出方をしている三島の作品と作者の区別を見いだしたり、そして遠藤周作の、キリスト教という母の与えた「合わない洋服」の話をしながら、大連時代の遠藤の友でもあった犬の話がある。そのクロという犬は大連に置いて行くことになったけれど、後年聖書を読んでイエスが自分を捨てたペテロを見る目に自分を追いかけるクロの目を重ねた文章が書かれている。遠藤のなかでキリスト教と犬とがきわめて重要な部分において遠藤のなかで絡み合っているかも知れないこと。犬をめぐって作家の心奥を覗くようなここは面白かった。

また最後の二葉亭四迷のところ、四迷と犬猫といえば『平凡』で懐いてた犬が「犬殺し」に殺された衝撃的な箇所は覚えていて、そこが扱われるのはそうなんだけれど、猫も飼っていたのは知らなかった。猫にはしつけをせず人間の道徳で縛ろうとすることに否定的だったらしい。

本書の最後に近代文学最初の四迷を最後に置いて「人畜の差別を撥無して」という四迷の動物への態度を引用して本書が閉じられるのはなかなか良い構成だ。読んでいて思うのは、犬猫との出会いは何か人以上に偶然の仕業に思えるということだった。その偶然・運命への態度。

余談。山本さんが団地に住んでいたとあり、猫と団地と言えば後藤明生ですね。猫を主題にした長篇『めぐり逢い』や『行き帰り』での猫の危篤を描いた箇所、そしてその猫を埋葬した短篇「夢」の一連の作品群。元々動物が嫌いだったところから溺愛するようになった典型の一人だろう。

『ナイトランド・クォータリー vol.21 空の幻想、蒼の都』

中野善夫インタビューの他、空をテーマにした創作、翻訳、論考等を収載。創作では気球が大西洋を横断するポーの嘘新聞記事作品の新訳に始まり、ドーヴァー海峡を空を歩いて渡ろうとするローレンスの短篇で締められる目次なのが面白い。

中野善夫インタビュー、幻想文学訳者として知られる人だけれどSF研究サークルとの縁が深いのは元々SF読みから始まってハヤカワあたりではFT文庫もまだなく、SFとファンタジーの区分がそれほどはっきりしていなかったというのもあるようで面白い。SFマガジンでのファンタジー特集がデビューという。

ダンセイニの河出文庫の選集、当時第一巻を買って読んで、いまいちピンとこなくてそのまま続刊は買わなかったら今結構な値段になってる。ピンとこなくても買っておくべきだったものだろうな。まあそれはともかく。

エドガー・アラン・ポー「軽気球夢想譚」は新訳で、当時の新聞記事に載った記事の体裁を採った小説というか、ネタ記事というのが良いのだろうか。もっともらしく気球の仕組みの解説を滔々と述べるところが面白くて、読んでいるとあれ、そんなことできるか?みたいに虚構なのが分かってくる。

アーネスト・ヘミングウェイ「パリからストラスブールへの飛行機の旅は、ナマのキュビスム絵画の展覧会だ」、なんとヘミングウェイの本邦初訳のジャーナリスト時代の記事という。ポーに対して実在の飛行機の旅を若々しい文体で綴ったもので、空から見えた景色を表題のように表現するところが肝か。

フーゴ・ハル「失物之城 ピレネーの魔城・異聞」、『ブラマタリの供物』のゲームブック作家でもある作者らしい仕掛けに満ちた幻想譚。ピレネーの城に住まう複数の民族は一つの空間を地横天の三つの足場で暮らしているという怪奇な話をまさに文字通りの仕方で表現していて愉快な一作。

アダム=トロイ・カストロ「赤い雨」、赤い血の雨が降り注ぐ奇抜な状況が、全ての文章が疑問符付きの二人称で語られ、その不可解な語りに巻き込まれながら叙述が進んでいくと徐々にその状況が何なのかが分かってくると言う逆回し的な小説。

井上雅彦「〈ミライ妖カイ幻視行〉第二話 彼方でいつまでも」、短篇連作の二つ目。江戸文化をモチーフにし、生人形や上空600メートルで外壁全てが透明になる仕掛けを持つ玻璃の空飛ぶ寝台特急などをめぐる殺人を描くミステリ。絢爛な江戸芸術と空という近未来を掛け合わせた趣向が魅力。

カリーナ・ビセット「毒娘の花園」、インド神話を元にした世界観に七人の姉妹が登場していて、主人公の少女は触れたものを毒殺する能力があるのだけれど、ファンタジーのように始まり話が進んでいくとSF的設定が見えてくる小説。ジャックと豆の木ホーソーンなど色々な示唆がニュアンスを伝える。

アラン・バクスター「鴉酒」、悪魔と契約したミュージシャンというテーマでロバート・ジョンソンを踏まえつつ、ブルースの真髄に目覚めたとうたわれた主人公は人の魂を吸い取る秘密のウィスキーによって成り上がっていっている、という怪奇譚。雰囲気が良い。

M・ジョン・ハリスン「混乱の祭主たち」、クロミス卿が訪れた、都市からの援軍をずっと待っているある館での出来事を描いた短篇。重厚な描写で読ませるけれど、これまでに三度ほど読んでいるのに一体何の話なのかサッパリ分かっていない。「過去が全く固有の言語で私たちに語りかける場所」。

薙刃「ボーダレス・ブルー」、正体不明の敵性生物の襲来を機に新たなエネルギー源を入手し作られた可変形戦闘機を操るパイロットたちの演習中に遭遇した人間同士の一瞬の戦闘を描いたミリタリーSF。テキパキと進んでリーダブルだけど知らない作品のスピンオフという印象がある。

マージョリー・ローレンス「宙を歩いた男──あるいはビグルスウェイド氏のブーツ」、空を歩くことが出来るブーツをふとした偶然で作ってしまったある男をめぐるメディアを介した狂騒に巻き込まれ、ドーバーを渡り、月まで歩こう、と過熱する期待の挙句に。スラップスティックで楽しげな一篇。


音楽、映画、ゲームと空をめぐるコラムや評論、編集長の幾つものブックガイドなど、エッセイパートもいつもながら充実していて読み応えがある。原民喜訳の『ガリバー旅行記』があるとは知らなかったしそれが文芸文庫で出ているというのも知らなかった。
各篇の訳者などより詳細な情報は以下。
https://athird.cart.fc2.com/ca8/294/p-r8-s/

小澤實選『近現代俳句』

池澤編日本文学全集の俳句パートの独立文庫化。『近現代詩』が選ばれた詩をただ配列しているだけなのに不満だったけれど、本書は俳人50人のそれぞれ五句を選び、ルビ・現代語訳と丁寧な鑑賞を付けており、俳句の歴史もかいま見える良い入門書になってると思う。

各句口語訳と五行ほどの鑑賞がついてて、句の正確な意味はもとより新奇性や文脈など歴史のなかでどういう重要性があるのかというのも分かるので、句自体にピンとこなくてもそういう背景があるのかというのが分かるのは良い。こういう理由で選ばれているというのがあるとやっぱり違う。

内藤鳴雪の「夏山の大木倒す谺かな」というのは大木を倒す谺というなにか幻想的な句かと思ったけど違った。しかし子規のところでの「写生」というのは以前の句の描写とどこが違うのかが良く分からないとかもある。

「寒からう痒からう人に逢いたからう」の子規の句では、前書きにある情報からこれは碧梧桐のことを詠んだ句だという話だとか、句単独では分からない前書きなどの情報も併せて紹介してくれる。

永田耕衣の「白梅や天没地没虚空没」という阪神大震災を詠んだ句があるんだけれど、1900年生まれで、基本生年順に並んでいる本書で前半の方にいるのに、97年没だからこのような句もあるんだなというのが興味深い。

山口響子「海に出て木枯帰るところなし」という句が、元は文字通りの句だったものが西東三鬼の特攻隊を重ねた解釈によって作者自身もそう捉えるようになったという経緯も面白い。

「戦争が廊下の奥にたつてゐた」、渡辺白泉。強烈な印象を残す句だ。

桂信子「雪たのしわれにたてがみあればなほ」、この句の「あれば」は仮定形の「あらば」ではなく確定系の「あれば」なので、この句の詠み手は既にたてがみのある馬に転生している、というのはなるほどそう読むのかと面白かった。

鈴木六林男「寒光の万のレールを渡り勤む」、操車場で貨車を捌く労働者を描いた句とのことで、俳句が初めて社会と向き合った社会性俳句の代表的作品と評価されてて、1957年の句集までそういうのはなかったのか、と。

三橋敏雄「あやまちはくりかへします秋の暮」、広島の原爆慰霊碑の一節をもじった句、これもまた寸鉄という感じ。

田中小実昌『アメン父』『ミミのこと 他二篇』『香具師の旅』『田中小実昌ベスト・エッセイ』

田中小実昌哲学小説集成』を読むためというのも兼ねて、代表作をざっと読んでいた。『ポロポロ』は以前の記事で書いた。

アメン父

十字架もなくそこを教会とすら呼ばないなど、個性的な牧師だった田中の父についての事績をたどるように見えて、資料を引用しながら勝手に変えていると平然と述べる方法や脱線する語りなど、本書の体裁もまた評伝の枠には収まりきらない、独特の長篇小説。

明治の頃にアメリカで洗礼を受けた田中種助――遵聖の洗礼名を持つ父について、自身の記憶も含めて父のありようを描いていくけれども、伊藤八郎という妹の夫が揃えてくれた資料を自分にはちゃんと使う資格がないのではないかと言いながら適宜書き換えながら使っていると自ら明かし、宗教の問題を心の問題として捉えることに一貫して反対し、『ポロポロ』でも示したような「物語」性を批判して、伝記的な書き方・出来事を順序立てて語るという方法も否定し、そうして父の信仰のありようを田中小実昌の視点から描こうとする特異な作品になっている。

たとえ伝記ふうではなくても、ぼくたちがなにか言ったり、書いたりするときは、順序だってはなしたり、書いたりする。そうでなければ、実際に書けないのかもしれない。しかし、そんなふうに父のことを書いても、ちがうんじゃないか。なんにもならないんじゃないか。
 父は、師であり、洗礼もうけた久布白直勝牧師の考えから、だんだんはなれていき、ちがってきた。とこんなふうに言う(書く)のがふつうで、こういう言いかた(書きかた)はわかりやすいが、事実はそうではない。47P

そういう方法意識かと思えば方法的という書き方でもない。「不マジメさに徹底はない。だらだらとマジメでないだけだ」(55P)と語り手が自己言及するように、不真面目さをだらだらと続けること、真面目な方法意識から逃げ続けることが一種の方針としてあるような印象を感じる。

旧約聖書でも新約聖書でも、偶像を拝するな、ということが、くりかえし書いてある。そのことばかりと言ってもいい。
 それは、よその神さまをおがまれちゃ、こっちの商売にさしつかえるからというよりも、ほとんどの人が偶像こそは宗教だとおもっており、偶像はついおがみやすいので、その安易さをいましめたのだろう。偶像はおがみやすく、自分にもしたしみやすいが、インチキでニセモノで、おがみやすいからって礼拝しても、むだなことではないか。31P

きよらかさや、聖なるものへのあこがれ、いや、はっきり言ってしまうと、ココロのはたらきみたいなことは宗教にはカンケイない、逆に、つまずきになるだけだ、と父は言っていた。
 だれでも、宗教はココロの問題だとおもってる。ところが、宗教はココロの問題などとおもったら大まちがい、と父は言う。これは、ふつうの考えとはうんとちがう。ちがってもしようがないが、泣きごとめいたくりかえしになるけど、こんなことも、なかなかわかってもらえない。34P

父は荘重な男ではなかった。かるいことと重いことでは、かるいことを好んだ。世間では、人間に重みがついた、などとほめたりするが、父は、そんなのはきらいだった。イエスによってかるくされるのであって、イエスのために、その人に尊厳さがくわわったりするのではない。65P

そのころの父は、まだアーメン一辺倒ではなかったかもしれないが、宗教でしか生きられない、とおもっていただろう。この世のことは、知識でも経験でも財産でも、持つことからはじまるが、宗教では持たないことがだいじとされる。
もっとも、信仰をもてというけどさ。あとで、父は、信仰をもてないことになやみ、アーメンを受ける。そして、これまた受けるだけで、もってはいけない。もってると、それこそ信仰や信念になる。アーメンは信念ではない。81-82P

偶像でも宗教でもない信仰。そういうダイレクトにこれだと指し示せない、否定形の迂遠な過程を経ることでしか語れないものについてぐだぐだとしかし何らかの確信を持って続いていく叙述、方法的とも言い得ない語りのなかから描き出そうとする試み。

「この本は父の伝記でもなく、ぼくの父へのおもいででもなく、(いまでも)アメンが父をさしつらぬいていることを、なんとか書きたかった」とあとがきにあるように、その父のありようにさしつらぬかれた作者の応答だろう、とそう感じるほかないものがある。途中で教会の看板がなくなった話が脱線していってついになぜ消えたかが語られないまま終わるのに面食らったけれども、看板の消失の話が消失するみたいなダジャレだったんだろうか、と思った。

『ミミのこと 他二篇』

直木賞受賞作の二短篇「ミミのこと」「浪曲師朝日丸の話」に加えて候補作の長篇『自動巻時計の一日』を併録した作品集。どれも1970年初頭に発表されており戦災孤児や戦後の米軍関連施設で働く人たちが描かれていて、戦後の生活の空気が色濃く感じられる。直木賞受賞作の二短篇はともかく、『自動巻時計の一日』が品切れなので復刊を考えていたら受賞時のエッセイを追加して直木賞シリーズとして一冊に出来るな、と考えたのかどうかは不明だけれど、中公文庫には田中の小説がラインナップにないので哲学小説集成とあわせて代表作を編んだかと思われる。

「ミミのこと」、米兵が通りに立っている娼婦を捕まえる「パンパン狩り」から逃れてきた聴覚障碍の娼婦ミミと語り手が広島の米軍基地で出会い、その後東京で奇跡的に再会して生計を立てさせるために耳が聞こえないのにストリップをさせる、という顛末を描いた短篇。聴覚障碍でコミュニケーションが難儀なのでそう見えるだけなのか、知的障碍もあるのか、そういうどこか不思議な女性「過去も未来もない女」との交流とやりきれない幕切れが、語り手のハッピィというあだ名の褪せた感触を通して描かれている。ソルジャーズ・メスで兵士の食堂って意味になるのは良いんだけど、そこで働く人のことを「メス・ボーイ」と呼ばれるとだいぶ卑猥な意味に見えてしまう。

浪曲師朝日丸の話」、語り手の軍人時代の友人が広島の原爆孤児を引き取って育てていて、それが美談として新聞に載った。そこから戦時中の二人の交流を回想したりするんだけれど、朝日丸は育てた孤児たちに次々子供を産ませていてそれを週刊誌に書かれないか語り手の妻が心配しているという話。原爆孤児を育てていた朝日丸が、その孤児のうちの年長の少女から乞われて体の関係を持って、他の孤児たちも羨ましがって次々関係を持って赤ん坊がたくさん生まれる、というなんというか、戦後というのはそういう現代的な倫理観・家族観が成立しない状況なんだろうなと思わされる。しかも「自分のメカケ」にしたばかりかストリップ劇場に出して稼いでいるらしく、本当にとんでもなくてすごい話だなと思うんだけど、こうして戦後の人たちは子供を産み育てていたのか、と思いもする。父方の縁がある妻との関係を語り手がどうも近親相姦くさい、と思う奇妙な感触が全体を覆っている。

『自動巻時計の一日』

もう、だいぶ前から、おれは、一日のことを、書いてみようとおもってた。そして、 とつぜん、かたいような、やわらかいような、あったかいみたいで、つめたいものにふれ、びっくりして、目をさますところから書きはじめるつもりでいた。123P

著者自身にも似た、妻と二人の娘を持ち、駐留軍の施設に勤めながら通勤の合間に英語の小説の翻訳をしている語り手の一日を描く長篇小説。だらだらと一日を描いてるとも言えるけれど、著者ならではの観察思索とともに翻訳小説そのものが差し込まれ、重層性があり退屈はしない。

目が覚める時から眠る時のあいだの出来事や思ったことを書き並べていくことで小説が成立するというのは驚くべきことのようにも思えるし、だらだら書くだけなら誰にでも出来るとも言えそうで、しかしそれで読ませる作品にするのは誰でも出来ることではないだろう。

途中に出てくる翻訳小説の内容やそれをどう訳すかを語り手が考えているところや、基地での金貸しに関するエピソードもかなり面白い。とはいえ、語り手がトイレで大をした後手を洗わないことにしているという妙なこだわりは勘弁して欲しいなって思った。本当に。今もそういうおじさんいるけど。

翻訳している小説(これは実在のものなんだろうか)から連想して、「ジャスト・ハッピィ」になりたい気持ちを自分が持っていることに気づき、金があるとか家族仲とかとは別の、「ただしあわせ」というものへの思索が、最後、子供に怒っている妻は今が一番幸せな時かも知れない、と思うところが、あえて言えば今作のベースラインのようにも思うけれども、そういう読み方に作者は興味を持たないような気もする。幸福へのぼんやりとした思いや、やはり戦後の米軍基地が舞台なのもあり、戦争についての誰彼の発言がところどころに差し挾まれるところがある。

幾つか長めの引用を。最後の一節は特に良かった。

小説には、つまらない話を、おもしろおかしくしゃべり、みんなを笑わせ、あとで、 つまり自己嫌悪におちいる人物(たいてい作者とおもわれる人物)がよくでてくる。しかし、おれには、あんまりそんな経験はない。はずかしい、というような気持とも関係があるみたいだが、こっちのほうも、ひとにくらべて、程度がかるいようだ。なぜだろう、と考えてみたこともあるけど、生れつきなんだな、とおもっちまう。「生れつき」のようなどうしようもないことを、自分や、ひとに説明しようとするのには、 やっぱり小説かなんかでないとだめかもしれない。114P

なまけ者ばっかりだったら、戦争もおこらない。戦争って、しんどいもんだからさ。とうてい、なまけ者には戦争はできない。戦争に負け、こんな、あわれなことになったのも、みんな、日本人が勤勉すぎたせいだ。ねえ、きみ、こりゃ、どうしても、革命が必要だよ。なまけもの革命さ。人類の永遠の平和をねがうならば、みんな、すべからく、なまけ者になるべきだ。242P

「ね、殺されちゃいけない。殺されちゃ損? おまえ、おまえ……ぜんぜん、わかってないんだな。殺されるのは、いけないことなんだよ。損や得はカンケイない。Just that's not right (to) be killed. わかる? 殺されるのは損だなんて……おまえは、わるいやつだ。人殺しだよ。おれも殺した。だから、殺されちゃいけない。殺すのと、殺されるのと、どっちがいけないか、なんて、かってなおしゃべりをきいてると、ゲロがでる。いいか、わるいかの問題じゃないよ。殺されちゃだめだ。」250-251P

香具師の旅』

普段行かない本屋で小学館P+Dブックスのを見つけたので河出文庫の中古を探すより良いかと思って買った。税込み715円で確かに安い。直木賞受賞作の二短篇が収録されている短篇集で、なぜ本書全体が受賞ではなかったのか良く分からないな。中公文庫で二篇は読んだので残りを読む。

表題作「香具師の旅」は恐喝で刑務所に入れられた知り合いの保釈金作りで北陸を旅する香具師の語り手が、賭博師(ブショウシ)、旅(ビタ)、靴修繕針(ゲソマッバ)、商売(バイ)、東京(ドエ)、女郎(ビリ)、易者(ロクマ)、催眠(ミンサイ)術、乳房(パイオツ)とスラングまみれで語る一篇。この業界用語というか、ただ単純に順序を入れ替えたものだったり、略していたり、東京=江戸=ドエと変換過程が分かるものや分からないものなど色々で面白い。そのなかで乳繰り合うだけだった娘と急にそれをすることになった冬の季節の初体験のセンチメンタリズムが描かれる。

「母娘流れ唄」、同じく冬を舞台に、寂れた地方の雪国での親子との数奇な運命を描く一篇。これは特に書き出しがなかなか格好良くて、おおと思った。ハードボイルドものを訳していた経験が生きているのかなと思うけれど、中身は母とも娘とも関係を持った男の話でなかなか節操がない。

「鮟鱇の足」、語り手の妻の麻子は、麻子の兄とその妻由子との食卓に誘われても決して顔を出さず、兄の二度の結婚式にも顔を出さなかった。そして語り手は妻が初めてだけれども妻はそうではなく、初体験の相手の名前を決して出さない、と近親相姦を匂わせ続けて終わる妖しい一篇。出されたものは何でも食べるから好き嫌いがあるわけではない、と麻子が兄のことを語っているのは、自分を差し出せば兄はえり好みせず関係を持った、という示唆なのだろうか。「浪曲師朝日丸の話」にも近親相姦のモチーフがあって、それが連繋しているかのような印象もある。

「味噌汁に砂糖」、セックスを拒絶しつづける妻とのいざこざのなかで不倫相手と結婚を決意した時に彼女が作った味噌汁が砂糖を入れた「バケモノの味」でその決意が引っ込んでしまった、という話。拒絶云々はともかく、とにかく挨拶を嫌うという語り手のこだわりが印象的。儀礼嫌いだからか二人の関係も、夫が妻の下宿に転がり込んだだけだから夫婦でも恋人同士でもない、と妻に言われる奇妙なもので、夫婦関係のバランスの不可思議さがある。基本的にどれもシモの話から人情を描くようで、昭和の小説という感じがする。

大庭萱朗編『田中小実昌ベスト・エッセイ』

ちくま文庫で出ていた六巻本のエッセイコレクションから概ねそこでのテーマごとに採録し、未収録のものも多数追加したベスト盤的な一冊。ひと、おんな、旅、映画、コトバのテーマとともに自伝的な長めのエッセイも収められている。

なかには小説で読んだエピソードの元ネタのような文章もあって、ある程度事実を元にしつつ書いてるんだろうなというのはまあ思った通りでもある。両方読んでいるとどっちが事実として書かれているのかごっちゃになりそうだ。ストリップを始めたエピソードはかなり歴史的に重要な気もする。

途中で後藤明生の名前が出て来る。田中はだらだら飲むのが好きなのに、後藤は軍歌を一字一句正確に歌い上げたり「玉砕調で暴力的で」、朝まで酒が続く上に逃げようとすると怒鳴って追いかけてきたりする、と体育会系の悪いところがバリバリに出ている話が出て来て、なるほどなという感じ。

小説家なんてのは週に五日ほど仕事をしてれば充分だという話を何回かしているんだけれど、にわかには信じがたい話だ。そんなに筆が速かったのか。小説とエッセイは別にカウントしてるのかとも思ったけど、どうも違うような。その空いた時間で映画を見尽くし、バスに乗ったりしている。

翻訳家の師匠として中村能三の名前が出てくる。ヨシミと読むけどノウゾーさんと呼ばれていて、大久保康雄と並んでプロの翻訳家の草分けだったらしい。最近文庫化されたステープルドン『シリウス』の訳者だ。亡くなった時麻雀をしていて、そのメンツが海渡英祐、永井淳柳瀬尚紀というのが面白い。

著者の小説へのスタンスとしてテーマがないので題名もいらない、『自動巻時計の一日』にしても自分は題名をなしで出したかったけどダメだったという話もある。

「哲学ミステリ病」というエッセイで哲学もミステリも謎を追うことでは同じだと言いつつ哲学のミステリは解決を目指すのではなく、「ミステリにフンサイされる」という言い方をしているところがあり「ミステリをうける」というのは著者のキリスト教についての言い方と非常に似ている。

抄録された「昭和19年……」というエッセイには次のようなくだりがある。

あの戦争が、物語なのか? ぼくにとって、あの戦争は、じつは、あの﹅﹅という言葉もつかない。言いかえれば、ぼくにとっては、歴史﹅﹅でもないのだ。歴史とは、あの﹅﹅毛虫がこの﹅﹅蝶になるのを見るようなものだろう。毛虫を、げんに目の前に見ている者には、蝶の姿は見えない。見えるなんておもうのは、観念がつくりだす錯覚だ。274P

これもまた著者の物語批判の一例だろう。

日本の私小説とは別のことだとして、「客観性がないことこそ、小説の本領ではないか」(186P)と述べているところは気になるところだ。

しばしば小島信夫が出てきていて、田中小実昌もまた小島信夫の弟子筋という感じがある。世代としては小島信夫の次が後藤明生田中小実昌で、田中小実昌の次が保坂和志という感じだろうか。むろんそう単純な訳もないけれども。