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単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall
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2023.12.31岡和田晃編『上林俊樹詩文集 聖なる不在・昏い夢と少女』の制作に協力
上林俊樹詩文集『聖なる不在・昏い夢と少女』を刊行します | SFユースティティア

2023.06.24「リベラシオン 人権研究ふくおか」190号(2023年夏)に「鶴田知也再考――『リベラシオン』第一八九号を読む」を寄稿
「リベラシオン」190号に鶴田知也についての記事を寄稿 - Close To The Wall

2022.11.20後藤明生文学講義CDの付録リスニングガイドを執筆
後藤明生文学講義のCDの付録リスニングガイドに寄稿 - Close To The Wall

2022.09.30図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載
図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載 - Close To The Wall

2022.09.28単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall

2022.06.10『代わりに読む人0』に「見ることの政治性――なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?」等を寄稿
『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました - Close To The Wall

2022.04.30「図書新聞」2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載
図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載 - Close To The Wall

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最近読んでたラノベ 2025.09

最近読んでたラノベなど。変人のサラダボウルのラスト二巻とあと溜め込まれていた百合ラノベをざっと読んでいた。(一冊忘れていたので末尾に追記)

平坂読『変人のサラダボウル9』

次巻完結と予告されたクライマックス、リヴィアの旅館篇が決着し、彼女の会社にとって好都合な形となってますます発展の運びを見せ、サラも所属事務所の社長に抜擢されるなどして急速に成り上がりゆくなかで二人の本能寺がここに呼び出されることになる。

なるほどそうなるかという感じで、でもリヴィアって明智子孫キャラではなかったし確認してみたら森蘭丸の子孫とのことでそこが先祖とはズラしたところか。サラが表街道を行ってるとすればリヴィアはヤクザも抱き込んだ会社で成り上がり、旅館の母娘たちを風俗送りにするなどなるほど裏すぎる。

読んでてリヴィアが事態の決着を見て母娘まるごとやってしまうのはまあそうなるよねという感じだった。しかしその淫靡な性向を見て風俗送りにするというところにどん引きしたけどリヴィアのヤクザやカルトとの親和性がここに出ているというわけか、と理解はした。旅館でのクライマックスでリヴィアが古くからの自分の家という郷土へのこだわりを一言で切って捨てて、なるほど本作は難民・移民となった異世界人の話だった、と思い出させるところは面白いけれども。

サラとリヴィアの対決が出てくるなら怪盗アルバと友奈の関係は何か絡むのだろうか。そして惣助の恋愛物語についに決着が付いたけどまあ穏当なところに落ち着いて良かったな。さすがに友奈は相手にはならないわけで。閨がなんかショック受けてるのは笑った。

平坂読『変人のサラダボウル10』

シリーズ完結巻。それぞれの主要人物の物語が決着していき、最後に平行世界の歴史分岐にもケリを付け、隠されていたサラの物語が浮上するすさまじい終盤は圧巻で、しかしこれではあまりにも寂しいと思ったらそれを最後の最後でまたひっくり返すのもやられた。

惣助とブレンダの恋愛、リヴィアとサラの対決や望愛の話、友奈とアルバの探偵物語、涼子と弥生の臣下たち、その他その他必要な話をぎゅっと詰め込んでいてページ数に対しての濃さがすごい。色んな話がサクサクと進んでいってダイジェストを感じる間もなくぐいぐい読ませていく。

これが200ページちょっとで収まるのがすごい。サラの思いが回収され、岐阜が神話になり、登場人物たちの人生がたどられ、そうしてまた元に戻ってくる。あとがきが作品の一部になっていて、本作の語りのトリックをもう一度ひっくり返してフィクションを現実に接続する。このあとがきの使い方はあまり例がないのではないか。本篇を作中作のように書かれたものとして提示しつつ次のページのあとがきでその楽屋裏のような会話が始まるけれども、それは本篇の否定ではなくその続きのようでもあり、ちゃんと元の時間に戻って来れたサラを描いてくれる。そして一行空きもさせずに作者が顔を出すというなかなか法外なやり方が採られていて、サラという書き手と平坂読という書き手がそのまま並んでいるかのようだった。とにかくも、ワイドスクリーンバロックみたいな超時間スケールを広げて戻ってくるのがなんとも呆然とさせられる。

七巻の感想で、「六巻からの話で徐々に存在が大きくなっているのは「政治」の要素だろう」と書いたけれど、岐阜から出て来た政治家が日本を掌握してアメリカを支配して世界を手に入れるという岐阜神話のキーパーソンとして使われるとは。確かに重要だったけど思ってたのと違う!って笑ってしまう。

ギフトの話として恵まれたサラとホームレスから身を立てたリヴィアを相互に対決させ、恵まれていても唯一欲しいものは得られなかったと抗弁するところはそこまで筋が良いとは思わなかったけれども、超越的すぎて人間的スケールを超えて孤絶してしまうところには説得力があった。

シリーズとしては私が読み始めたきっかけになったアニメ化された三巻分、の後の法廷劇を描いた四巻に異世界転移と法律という今作の興味深いところが現れていて出色だと思っていて、その後の後半の巻は面白いけどやや話の方向が見えづらいなと思ってたら最後の最後で駆け抜けていってて良かった。

作者の最後のライトノベルと予告されていて、一般文芸にでも行くのかと思ってたけど、もう稼げるだけ稼いだので引退ということらしかった。まあ「僕は友達が少ない」、「妹さえいればいい」と今作で三作アニメ化作家だし最初のヒットはどでかいものだったし引退できるわけか。前二作はアニメは見ていたけど原作は読んでなくて、今作で初めて原作小説を全部読んだので何かもったいない気もする。まあ気になるなら過去作読めばいいんだけど。

深水紅茶『いばら姫とおやすみ。』

その肩で眠れたことを理由に、ある会社員が電車で隣り合った不眠症の高校生から私と添い寝してほしいと言われる百合小説。百合ラノベ? 添い寝テーマの百合ということで軽い気持ちで読んだらがっちりと恋愛小説でわりと性的な描写もあって驚いた。

富士見L文庫から出てる作品がきらら百合漫画みたいな描写ラインのわけないんだけどノイズキャンセリングイヤホンのところはドエロでびっくりしちゃった。美少女高校生の顔にやられて年上女性が受け身かと思えばこの主人公こそが同性キラーだったのもだいぶ面白かった。

それぞれの抱える悩みをお互いの存在によって乗り越えていく爽やかな恋愛小説で、良い雰囲気の作品だった。デザイン会社、雰囲気の良い喫茶店、あと高校生のアレなど、女性が好きなものの詰め合わせ感がある。添い寝と言うことで体が触れ合う感触の話になるかと思ってたけど、むしろ匂いフェチだった。
触れることのエロスという点ではイヤホンの場面でドエロのやつをやっているんだけど、もう少しセクシャルではない方向での触れあい描写もあれば良かったかなとは思った。ネット発と言うことでもしかして、と思ったらカクヨムで続きが書かれている。これは書籍化の予定はないんだろうか。本になる予定があるならそっちを待ちたいところだけど、どうだろう。

深見紅茶『人生全部賭けても、銀の魔女に勝ちたい』

魔法の天才として名門の家に育った令嬢が自分を遥かに上回る魔法の才能を見せた銀髪の少女に魔法学園に入学したら決闘しろと宣言して、しかし再会した時には彼女はなぜか落ちこぼれになっていて、というファンタジー百合ラノベ。

あらすじも特に見ないで読み始めたら、家格があってプライドが高い才女を視点人物として始まってて、その高貴な令嬢が外面を作るのに疲れて年の近い側付きのメイドと二人きりになったら足を舐めさせて気持ちよくなってるドエロい展開が出てきてビックリした。始まって10ページもいかないうちに。

この主人公フランドールさん結構アレな人なのではと思ったけど自分の才能を上回った相手にも真正面から立ち向かう気持ちの良い性格で、10歳の頃からあまり身長も伸びなかったらしく学園では小さい子として可愛がられていて、そういうツンデレライバルキャラ的な少女の主観視点がなかなか良い。メイドに足を舐めさせてるのは今作の身体接触での魔力の融通という基幹設定の前触れでもあり、母のいない少女が人に甘えたがっている描写でもあるのが分かってくる。今作、お色気ものでよくあったような主人公が魔力タンクでヒロインに身体を触れ合わせて魔力を与えるというエロ要素でできている。

才能があっても全力を出せず、それを補完できる主人公のペアというと同作者のいばら姫~と実は同種の仕掛けになっていて、体の触れ合いが先行しながら徐々にお互いをわかり合うという流れが似ている。作者曰く「ダブルツンデレ魔法学校ライバルものファンタジー百合」らしい。なかなか良かった。二巻が出たけどまだ読んでない。イラスト描いてる人は猫娘症候群を途中まで読んでいて、今やってるOLが異世界転移する百合ものも読んでいる人だった。

星奏なつめ『密かに推してた天使さまに逆プロデュースされることになっちゃいました!?』

経営学科と間違えてアイドルのマネージャー学科に入ってしまった「芋子」の主人公が、そこで出会った孤立する少女のマネをすることになったけれども彼女は主人公を原石と言い出して、というアイドル百合ラノベ。

アイドルというかアイドル学園ものだろうか。母の営む整体サロンを助けるために経営学科に入ったはずがアイドルのマネージャー育成の学校だったというトンチキな導入で、孤高で孤立して色々事情があるらしい凛莉と天然でアイドルに詳しくない颯輝の二人をじっくり描くのは良いと思う。予想を超えた何かってのはないんだけど悪くない百合ラノベという感じ。プロデュース要素が途中でちょっと消えてしまってどうしたかなと思ってたら終盤で戻ってくるのはよかったんだけど、颯輝の才能で何とかなるのはちょっとアレかな。

途中、「とんだ遣隋使ね」というセリフがあって、一瞬意味が分からなかったんだけど、「ダサの芋子」という小野妹子をもじったセリフがあったのを踏まえた一言だと分かってだいぶ面白かった。人生で使うことがないセリフ過ぎる。

としぞう『憧れのお姉様が「妹になりたい」って甘えてくるんだけど!?1』

主人公の通う女子校で皆に憧れられているお姉様を遠目から眺めて満足していたある日、シングル父が再婚する相手は彼女の母で、お姉様と急遽同居することになってしかも彼女はグイグイと距離を詰めて来るという百合ラノベ。

憧れのお姉様大庭撫子が普通の生徒の橘澄香に家では妹を装って甘えてくる様子にどぎまぎしつつ、しかしそんなに気に入られる理由が分からない謎がやがて判明し、特別でいたい撫子と特別になりたくない澄香の似た境遇が演技という要素で重なってくるというのは面白いところ。同居もののラブコメの楽しさと風呂場で急にキスされるエロさというのがあってそれはいいんだけど、撫子の心情と逆転姉妹シチュエーションやらがどうも接合し切れてない印象がある。最後まで読むとなるほどなとはなりつつ、だいぶ最初から性愛的に迫ってきているのはちょっと急すぎる気はした。

あと澄香のモノローグがちょっと男性オタクっぽくて、スラングの使い方がしっくりこないところもある。お姉様撫子はともかく、後ろの席の友人夏波は澄香の顔が気に入って近づいてきたというダイレクトすぎるキャラなんだけど、本篇で最初に出てくるのが夏波でこっちでいいのでは?と思ってしまった。

悠木りん『だれがわたしの百合なのか!?』

自分たち以外入る機会のない生徒会室の引き出しにラブレターが入っていたことで、主人公ひと葉は生徒会の残り三人の誰かが差出人だと疑い、その正体を突き止めるために各人とデートをして送り主を探ろうとする百合ラブコメラノベ。これはだいぶ良かった。

主人公のひと葉は凡人ながらも無謀にも生徒会長になろうと立候補している負けん気の強い性格で、彼女視点でもクラスメイトのみんなにいじられながらも愛されている様子が分かるし、三人からも好感を持たれているのが分かり、まず主人公が好きになれるようになっているのが良い。そうしてそれぞれのヒロインと半日ずつデートをしていくんだけれど、完璧才女の会長代理才原京、社交性激高のギャル小内鹿乃愛、生徒会会報のイラストが人気の吉野咲姫らとデートのなかでもう一つの顔を知って、それぞれのキャラを掘り下げていく。

三人のなかで京が本巻のヒロインなので一人描写も厚くて、こうなったら謎も解けてしまうのではと思うけれどもそれはまあ読んでもらうとして、咲姫のもう一つの顔はだいぶ面白かった。この設定でその性格出して良いのかよって思った。一巻しか買ってなくて二巻が出ていることは知ってたんだけど、二巻出てからだいぶ経ってるのに三巻出てないな、と思ったら作者が今書いてますってツイートしてて三巻は出るっぽい。なんとか三人それぞれの巻までは出して欲しいところ。

小林湖底『経学少女伝』

16世紀頃の架空の中国王朝を舞台に、きっちりと男装を決めるクールな雪蓮と、戸籍?を改竄して男性の証明を持ちつつ姉の服をまとってまるで男のフリをするつもりがない「女装」の梨玉、二人の少女が国を変えるために科挙に挑む百合ラノベ。

アニメは見ていた「ひきこまり吸血姫の悶々」の作者の新作を見つけて題材の面白さもあって読んでみた。百合といっても恋愛的なところまでは行かない友情だけど、科挙を題材に試験を突破するための権謀術数が駆使されるゲーム的エンタメとしてちゃんと面白いものになっているのが良い。洪水によって家族が亡くなり、その悲劇の原因になった手抜き工事が行なわれるような腐敗した行政を変えるために堂々と徳を説き、真正面から人の善性を信じる梨玉と、ある思いを胸に秘めて様々な策略を弄する闇を背負った雪蓮、この二人の明暗分かれるキャラのペアによって話は進んでいく。闇の雪蓮が光の梨玉に照らされてその明暗を際立たせつつも影響を受けてしまう、そういう二人の関係が描かれていくところが肝だろう。試験が進んでいくと仲間とも言える人間も増えて行くけれど、個人の試験がチーム戦になったり科挙といっても一癖ある監督者がルールを変えて立ちふさがる。

堅実な面白さがあるけど、二年前に二巻が出たまま続刊されずに作者はこのレーベルで新作を書いていて、三巻は出なさそう。

羽田宇佐『週に一度クラスメイトを買う話』

クラスの上位グループと下位グループの二人が偶然の出会いから、五千円で部屋に呼んでちょっとした命令を聞かせる遊びを繰り返してという百合ラノベ。タイトルに抵抗があったけど読んでみると微妙な感情と距離感をじりじりと丁寧に描く話で良かった。

五千円で買うと言ってもセックスは禁止と最初から条件を付けていて、とはいえ冒頭から足を舐めさせるとかフェティッシュではあり、でもそれは相手に嫌な顔をさせることで自分への感情を確認するというような試し行動に近いものがある。

平凡で地味な宮城と上位グループで八方美人を演じる仙台という東北過ぎる名前を持つ二人が、会う口実として五千円を利用しながら距離を詰めたり遠ざけたりして、決して好意を口にできないツンデレ同士の間接的なやりとりを描いていく。最後の最後であるゴールを迎えるけれども、そこでもお互いに好きだとかは言わないし、お互いの事情を詳しく話してもいない。二人とも家に親がいなかったりややネグレクト気味で、人恋しいところに相手を求める同士とも言えるけど、家に行ってそのことを察してもそのことを口にしたりはしない。

決して相手に好意を伝えず、かといって友達ということも宮城は否定していて、そんな友達でもない恋人でもない関係を成立させるために五千円は使われている。そういうツンデレ同士の面倒くさいやりとりを楽しむ作品だろう。起伏のある話で引っ張るのではなく、最近読んだ百合ラノベでは挑戦的な一作だ。

そういう作風なので漫画化や映像化は難しいだろうなと思ったけど漫画は出ている。一巻の初版を買ってるのにいつのまにか九巻まで出ていてビックリした。ファンの人からカクヨム連載版はすごいですよと言われたけどなんとそっちでは現在刊行されている分量の倍くらいの話数があるらしく、長さの意味でもすごいみたいだった。

零余子『GHOST CONCERT 東京灰燼』

偉人の霊を憑依させる怪作アニメ「ゴーストコンサート : missing Songs」のオリジナルストーリーをトンチキ偉人バトルラノベ『夏目漱石ファンタジア』の人が書くと聞いて、これは両方知ってる私が読むべきだろうと思って読んだ。アニメと比べて何の話をやってるのかちゃんと分かることに驚く。ちゃんと面白い作品になっていて、今作の道具立ては本来こういう作品になるはずだったんだなと思った。

ゴーストコンサートの枠組みを使いつつ、作者らしい歴史上の人物の強引とも言える解釈で話を作っていて、その語り口を含めてかなり『夏目漱石ファンタジア』の読み味がある。今作で主題となっているのは平将門と藤原純友の話で、しかも純友という名前由来なのか友情の話になっている。純友の話はまあまあ置いて行かれるところもあるけれど、アニメの全体に良く分からないような不親切さがなくちゃんと話を読ませる作品になっているのでゴーストコンサートって基本こういう話だったのか、みたいな面白みがある。でもこれをアニメの尺に収めたらやっぱりアニメみたいになる気もする。

『夏目漱石ファンタジア』の人らしく、冒頭から夏目漱石ネタを使ってて、しかもそれが『吾輩は猫である』由来の力で芹亜に猫を憑依させて発情期を起こさせるとかいうトンチキなネタなのは笑う。楓がそれにちょっとドキドキしてる挿絵まで入って。彷霊界の読みがアニメだと「ほうりょうかい」だと思ったのに小説だと「ほうれいかい」なのは何でだろうとか、芹亜が雪庭に思いを寄せているという事実にはえ、そうだったっけ?!ってなったりした。アニメで見ている人たちもこの事実には初見みたいな反応をしていたのは笑ってしまう。私は小説版で知っていたので事なきを得た。

今作で謎かけのようにメインキャラで怪しい人物が示唆されてるのは読み返すと別に意外ではなかった。純友がブラヴォーとかイタリア語を多用するのは何か元ネタがあるんだろうか。今作を読むことでアニメ版がなぜあのような怪作としか言いようのない独特の作品になっていたのかに思いを馳せよう。

岡和田晃編、山野浩一著『空とぶ怪獣ゴアラ/戦え!オスパー ドロメのさいごの戦い 他四編 山野浩一シナリオ選』

こちら、校正協力した本が刊行されました。

小鳥遊書房 本が本を産む|書籍一覧|空とぶ怪獣ゴアラ/戦え!オスパー ドロメのさいごの戦い 他四編

SF作家、批評家、サンリオSF文庫の監修者、日本におけるニューウェーブSFの紹介者、競馬評論家など、様々な顔が知られる氏の、主に子供向け作品での脚本をメインに編んだシナリオ集となります。雑誌に大きなイラストとともに掲載された怪獣ものの掌篇、人形劇の脚本二本、黎明期の伝説的アニメの脚本二本、そしてデビュー作の戯曲を収めています。そしていつもながらの編者岡和田さんの30ページを超える周辺状況を丁寧に捉えた解説が付されています。そこには三島由紀夫が柴野拓美に山野の「X電車で行こう」が面白かったけれど後半が載った雑誌を紛失してしまったので再送を依頼する葉書が掲載されています。貴重な日本SF史の一コマでしょう。

収録作品一覧は以下の通り。
「空とぶ怪獣ゴアラ」
「人形劇こがね丸シリーズ 大とかげの巻」
「人形劇こがね丸シリーズ 金眸つかまるの巻」
「戦え!オスパー 人魚のなみだ」
「戦え!オスパー ドロメのさいごの戦い」
「受付の靴下」

本書所収の「戦え!オスパー」は1960年代に放映された日本テレビ初の国産アニメシリーズとして知られていたものの、その後もソフト化に恵まれず伝説的な作品となっていました。近年幾つかの映像が見つかり、クラウドファンディングでメディア化されたりイベントで上映されたりと何らかの手段で見ることができるようになってきたところとのこと。

今作収録のなかで、オスパー最終回は脚本ではなくその見つかった映像から台本を起こしたものです。台本草稿を映像と照合してチェックをしたので私も校訂としてクレジットされています。

山野浩一レアアイテム集とも言える本書ですけれど、必ずしもマニア向けではなく、日本アニメ黎明期、1960年代のSF・子供向け番組の内実をたどれる興味深い作品ですし、決して子供向けといって軽く見ることのできない質を備えたものとなっています。

本書はこちらのオスパー上映イベントで先行販売されました。あっという間に受付が締め切られ、アニメ関係者も多く参加していた模様です。
【受付終了】「戦え!オスパー 放送60周年の集い Part2」 | 日本放送映画(日放映)公式サイト
当日流された岡和田さんのビデオ出演映像が山野浩一の簡潔な紹介になっていますのでぜひご参照を。
www.youtube.com

というわけで、ここからは一読者としての感想を。改めて読者として最初から読むと、こがね丸最終回、オスパーの二篇はことに印象的で、正義と悪を基本の構図にしつつも法治主義や勧善懲悪の拒絶や暴力への抑制が打ち出されていて、いずれも後に残る余韻があり非常に読み応えがある。

「人形劇こがね丸シリーズ 金眸つかまるの巻」

宿屋の主人を惨殺した宿敵金眸をめぐり、代官が頼りにならず江戸っ子の目明かしと共に金眸をいよいよ捕まえた時、宿屋の姪からの仇討ちの要求をはねのけ、裁判にかけて公正に裁かれるべきだとこがね丸は主張する。証人証拠を揃え、いざ裁きの時になって、敵方に代官を買収され、証言者を脅され、証拠品をすり替えられ、そうして目明かしが逆に追放され、こがね丸が牢へ入れられることになってしまう大逆転を食らう。公正たるべき法的手続きが毀損される状況を迎える。目明かしが最後に逃がしてくれて金眸との対決になるけれども、ここでもこがね丸はとどめを刺さない。憎くてやっつけるんじゃない、正義のためにやっつけるんだと言う。

「もう、二度とこんな殺し合いはしたくない」129P

最後になってもこがね丸は反省を主張する金眸を殺さない。裁判をハックされ、法的正義が果たされないところでそれでも暴力を最終的な解決に使わないというラストを迎える。この渋み。子供はどう見ただろうか。

「戦え!オスパー 人魚のなみだ」

オスパーと宿敵ドロメがムー人の貴重な生き残りの人魚、ヒロインの彼女を挾んで二人がおそらくは故郷の壊滅前のように笑い合える時間が得られて、一瞬の幸福を感じる様子が印象的だ。しかし、寂しくて自分のように人間も水中で生きられる能力を持った人がいるかも知れないと船を沈め人間を海中に引き込み続ける人魚を座視することができるはずもなく、オスパーをムー人の裏切り者として人間ごと攻撃してかかる人魚を国際警察は攻撃するしかなかった。同じムー人ながら人間に危害を加える人魚の味方になることはできないオスパーのダブルアウトサイダー的な苦みが味わい深い。そういえば、この話で人魚は泣いていないような……

「戦え!オスパー ドロメのさいごの戦い」

人魚では最初からシリアスだったけれど、ここでは序盤の滝口順平のあの声でのパンチョスによるコメディリリーフとしての活躍が見られるのが良い。ドロメが化けて出た、という幽霊騒ぎのドタバタを経て、地球を破壊する兵器を起動したというドロメとの泥臭い対決が訪れる。最後の最後にドロメは起動した兵器のありかを教えて降参するけれど、ここに明確な転機があるわけではなく、時間が迫るなか戦い続け言葉をやりとりし続けた最中に急にもうやめよう、となるドラマを排した展開がなにか不思議と印象に残る。ドロメとオスパーの善悪の鏡像のような二人はそうして大きな力を押さえ込むように表舞台から去って行く。善が悪を倒すのではなく、同じ存在の裏と表のようなものとして抱え込み、強大な暴力そのもののを抑止すること。こがね丸とも通じる暴力それ自体の抑制という側面が出ていて、ここにははっきりと「思想」がある。

「力」に対する批判的なスタンスがあり、子供向けだからこそダイレクトにかつ分かりやすくスタンスが出ているとも言える。「受付の靴下」もカフカ的な前衛劇という印象だけれども、「招待状」という人を動かす力と「受付」というはねのける力の拮抗とも読めるのではないか。

手塚治虫『ながい窖』

ながい窖

ながい窖

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帰化した在日朝鮮人をめぐる日本社会の差別を描いた1970年発表の全集未収録短篇50ページに六人の解説80ページを加えた一冊。奴隷的労働から脱して子供にも朝鮮語を教えず同化を試みるものの差別と暴力のなかで朝鮮人で何が悪いのかと叫ぶ一人の人間を描く。

帰化して日本名を名乗って大企業の重役にまで上り詰めた在日朝鮮人森山尚平こと趙は戦時下に地下壕開削の過酷な労働に従事させられた記憶がふと蘇ることがある。その時の知り合いから大村収容所を脱走して母を探しに来た朝鮮人の青年を匿うように頼まれ、突然訪れた彼を拒否できずに家に置くことになる。青年は森山の娘と関係を深め、母らしき人物を捜し当てるも私服刑事に見つかり逃げる途中でトラックに轢かれて二人とも死んでしまう。しかし森山は娘が朝鮮人の青年と事故死したことが露見するのを恐れて自分の娘ではないと否定して、友人を介して間接的に引き取る。そんななか、息子は親の煮え切らない態度に反抗し朝鮮学校に進学して朝鮮語、民族教育を受けることを選ぶ。そこで息子は日本人の高校生の集団から狙われリンチを受け重態となる。森山は加害者の高校に談判に赴くけれどもここでも己を朝鮮人と認めないままでいるところを会社に民族を通告すると脅される。こうして彼は「だまれ」「朝鮮人でなにがわるい」と己の出自を日本人に宣告することを余儀なくされる。

大略そういう話で、あなぐらを意味する「窖(あな)」とは逃げられない深い穴での労働とまといつくその記憶、そして朝鮮人としての出自を隠して生きる日本社会での己のありようを示している。対して朝鮮人の青年除英進は己の家族を引き裂く国境を越えるイメージを空を飛ぶ白い鳥に託して語る。深い穴と羽ばたく鳥のイメージの対比が作品の核に据えられている。

解説で指摘があるけれども、タイトルページの窖は白バックで穴の中から外を眺める構図になっていて、逆に幾度も森山に去来する窖のイメージは明るい外から穴のなかの漆黒の闇を覗く構図になっている。窖から外へ出るイメージと、窖に引き戻されるイメージ。強制労働のイメージはその穴のなかを照らすコードで繋がれゆらゆら揺れる裸電球として現われており、幾度も森山をその暗い記憶が苛むことになる。

完成度が高いわけではないと言われており、実際に途中から詰め込んだような脈絡の不自然さはあるものの、朝鮮と日本に引き裂かれる差別のありようを描き、力強く反差別を打ち出すメッセージ性のある作品でその試みを受け止める意義は大きい。同時に、同化を試みる人間が差別に加担する様子も描いていて、森山は会社重役として入社面接において韓国籍の青年に出くわして自身のトラウマを刺激され、朝鮮人だから会社に入れられないと言ってしまう。また日本酒が好きで朝鮮料理屋の焼き肉を避ける振る舞いなど、当事者だからこそ過剰に抑圧側に加担してしまう様子も描かれている。


以下解説パートについて。書き手のプロフィールは公式サイトを参照。
ながい窖 | 法政大学出版局

四方田犬彦「差別を見つめる人 手塚治虫」

本稿では手塚の生涯の主題とは「差別」だったと切り出す。作品の前半に対する後半の粗さなど作品の瑕瑾も指摘しながら、同様に朝鮮人を描いた手塚の別作品などや漫画史における意義などを解説し、朝鮮人差別を取りあげる先駆性、同時代的な特異性を評価する。手塚は日本人にとっての他者を描き、その先の人間にとっての他者を描くことが重要だったと論じる。安易に「ヒューマニズム」という言葉で括ってはならない、とも言っているけれど、差別や他者と出会った時の生々しい感情を描く姿勢を丸めた言い方がヒューマニズムなんだろうなとも思う。

本浜秀彦「単線的な手塚像の修正を迫る作品」

手塚にとっての沖縄を論じたという著者がその枠組みを用いつつ、ブラックジャックで復活する前の低迷期とされる本作が発表される頃の動向を追い、沖縄テーマなど日本の近現代という社会的な主題に取り組んだ時期だという別の見方を提示する。作中の強制労働の舞台の戸狩山の地下壕跡に足を運んで、手塚自身もここに来たことがあるのではないかと書いている。事実作中で具体的な地名が出ていることはちょっとした謎だ。そして初見で私には不可解で謎だった最後のコマに言及している唯一の論考でもある。最後は鏡か何かに反射した森山が小さなコマで映されて終わるけれど、この演出がやや不可解だった。論者は映画に元ネタがあるのではないかと疑っている。

李鳳宇「強く日本人であること」

「殺人の追憶」などの配給で韓国映画ブームの火付け役になり、「パッチギ!」のプロデューサーでもあった人物へのインタビュー記事で、「ながい窖」を読んだのは崔洋一の勧めからだったと説き起こし、映画業界、朝鮮、手塚の話を語っている。ある映画のなかで「強く日本人である」という言葉を語る下りがあるといい、賛否があったこの言葉を必ずしも「同化」とは受け取らない、この国に生きる覚悟だと思っていると述べているところが興味深い。

神谷丹路「在日コリアンと日本社会」

ハングル表記のこと、強制労働の舞台となった戸狩山に関すること、戸狩山を含む岐阜県南部の強制動員についてのこと、手塚の情報源として推測されるコリアンタウン大阪生野出身の葛西健蔵のこと、なぜ封印されたかの考察など、色々興味深い情報が多い記事だ。特に作中のハングルが不正確だという話が他の原稿で触れられていたけれど、具体的に個々のセリフを取りあげて翻訳してくれているのが非常に参考になる。この時期にハングルを漫画のセリフに出している先駆性についても指摘している。また戸狩山地下壕を訪れ、中国人犠牲者の慰霊祭に出くわしたという。ここで中国人犠牲者の数や名前は記録されているのに。数として三倍はいた朝鮮人については何も資料がないという、当時の国際情勢によって見過ごされたことも注記しているのが重要だろう。『鉄腕アトムを救った男』という評伝のある葛西健蔵が朝鮮関連の情報提供者だったのではという話も面白い。また、日本近代の大規模な土木工事は植民地朝鮮からの出稼ぎ労働者なくしては不可能だったという指摘は重要だ。植民地朝鮮にインフラを整備した日本の恩恵について語る者は多いけれども、それならば同時に日本のインフラ整備に貢献した人々についても触れなければならないはずだからだ。

林晟一「まっとうな世界への序曲」

「ながい窖」と同時代の朝鮮に関する歴史、文化史をたどりながら、作中に描かれた加害被害両方の「暴力」について論じ「ながい窖」の続きを求める一篇。特に興味深いのは三島由紀夫が金嬉老事件については日本の被害者イメージの方を重く見たスタンスについてで、単一民族単一言語の日本に朝鮮人問題などなく左翼の煽る欺瞞にすぎないと論じ、手塚治虫については左翼教師の「御用漫画家」と見なしていたという。これと吉本隆明の朝鮮人や中国人への虐待虐殺についてそんなことは知ったことじゃない、と述べた一節が引かれている。著名人のギョッとする朝鮮観を引いて世相の一端を示している。また手塚が当時江上波夫の騎馬民族説に関心を寄せていたことや、作中の朝鮮学校で教えられている朝鮮ナショナリズムに基づく歴史が北朝鮮の歴史家によるもので今では評価されていないという指摘も本篇への註釈として興味深い。

李英美「「朝鮮人」の物語を今読むということ」

出入国管理について詳しい人のようで、朝鮮人を理由に採用を取り消されたという本篇とも重なる「日立裁判闘争」の話などを踏まえつつ、大村収容所とはどういう場所なのかを解説したり、除英進の母はどういう境遇なのかの推論も行なわれている。大村収容所は朝鮮戦争が始まってから作られたもので、針尾にあった入国者収容所が1950年12月に大村市に移転して出来たという。なお針尾の施設は元々引揚者の滞在施設として使われていて、その所在地は今はハウステンボスとして観光地となっているという。大村収容所の歴史をたどりつつ、収容者の九割が朝鮮人だったことやベトナム戦争から脱走した韓国兵を支援するベ平連の活動で注目されたり、収容所が脱走を防ぐために要塞化していく過程をたどり、本篇のように脱走者がいなくもなかったというフィクションのリアリティについての註釈にもなっている。


ちょっと思ったのは、複数の論者が手塚の「朝鮮時報」に寄せた民族教育を支持する記事を参照・引用していて、編集部が各執筆者に共有したと思われるけれども、これを参考資料として本に載せることは出来なかったのだろうかということ。重要な部分は引用されているという判断だろうか。

さらに贅沢を言えば、在日朝鮮人文学や日本人の朝鮮人表象などと手塚作品との関係を捉えるものがあれば良かったかなとは思う。1970年頃と言えば李恢成(72年芥川賞)、金鶴泳、金石範らが登場してきた頃なわけで、この流れを手塚が意識していたかどうか。

発表の二年後に一度短篇集に収められた以外は今回が初の再録のようで、これがどういう理由によるものなのかはあまり調査されていない。ネットを見ると封印された作品かのように思われている節があるけれども、そういう事情があったのかどうかは不明だ。手塚の単発読み切りがどれくらいその後再刊されたりしているかについては私は知らないし、出た時の評判が良くなくてあまり良い思い出がないからとか、完成度の点で不満があって改稿するつもりだったからとか、色々な理由が考えられる。講談社の全集はそもそも自選作品集という性質のようで、生前のセレクトからは抜け落ちたのはともかく、没後の追加巻数からも抜けたのはそれが厄介なテーマだと見なされたからという理由はあり得るけれども。

『ドストエフスキー全短篇』


中公文庫の名作名訳ライブラリとして刊行された二巻本の米川正夫訳短篇全集。福武文庫の短篇集二冊を元に、『白夜』までの長さの作品を増補したもので元本の倍近い分量になっている。手持ちの新潮社版全集の解題を見ると本書に入ってない「家主の妻」は中篇とあり、100ページをだいぶ超えるだろう長さのこれと「白夜」の間に本書の想定するドストエフスキーの中篇と短篇の境界があると思われる。で、本書は江川卓の福武文庫版の解説に加えて、米川訳全集から収録作へのコメントを抄出して「訳者解説」として収録している。

米川訳はドストエフスキーの古い翻訳の代表例のように言われていて、実際新潮文庫などで作品を読んでいるとほぼ出会わず私自身もほとんど読んでこなかったけれど全然悪くないと思った。ただ使っている言葉が古めかしいのは避けられず、そんな場合本書では親切にも割注がついているので分からなくなることはないだろう。

『ドストエフスキー全短篇Ⅰ』

で、第一巻は『貧しき人々』でデビューしてからの1840年代の作品を収める。コメディタッチの短篇が多く、そのなかで「弱い心」の異様な心理を描いたものと「白夜」のロマンチックさが印象に残る。

「プロハルチン氏」(1846)

ある共同住宅で暮らすプロハルチンはとにかくもケチで、義理の姉のためにも倹約をする必要があると言い、おかみさんには気に入られていたけれど社交的ではなく、他の住民にはしばしば敵対的で気むずかしい人間だった。そんな彼があるとき火事を目撃して狂乱し始める。吝嗇家の哀れな最期という感じで、途中にゴーゴリの参照などもあり「外套」を意識しているところも感じられるのはドストエフスキーの初期作品らしいところだけれど、途中の自由主義やらナポレオンやらの言及に社会主義をめぐる当時の時代状況がかなり色濃く現われているようだ。

「九通の手紙に盛られた小説」(1847)

書簡体形式でやや状況が掴みづらいけど、お互いに慇懃に手紙を書きつつ相手から逃げ回ったり追いかけ回したりということをしているうちに、二人がお互いに送り込んだつもりのスパイがいつの間にか二人の妻と通じていた、という笑劇。

「ポルズンコフ」(1848)

ある屋敷でポルズンコフなる人物が朗朗と語り始める。役所で親愛なる上司と金と書類をやりとりしてその後上司とたいそう仲を深めてその娘と結婚間近というところまでいったのに、愛を試すためにエイプリルフールで辞表を出したらそれを正式に受理されてしまう。冗談のはずが正式に辞職する羽目に追い込まれたわけで、これは要するに汚職の関係者として口封じ代わりに上司から一杯食わされたらしい。共犯者ではあるけどそうした受難を滔々と語る、「滑稽な受難者」。ポルズンコフはどうしてもその元上司を非難する言葉が口に出来ない哀れさを持っている。しかし饒舌な上に事実関係がすっきり入ってこないので誰が何をしてどうなったか、というのが結構分かりづらいところがある。

「弱い心」(1848)

同じ部屋に住むアルカージィとヴァーシャはある時、ヴァーシャがめでたく婚約をしてきたことを明かしてから話はどんどん奇妙に転がっていく。めでたいはずなのにヴァーシャは上司から任された書類清書の仕事が締め切りまで間に合わないと大袈裟に騒ぎ始める。アルカージィが上司にこれはそんなに重要な書類なのかと確かめに行こうとするとヴァーシャは必死に引き留め、そして更に体調を悪くしていく。そんな状態が続き、いよいよ自分は兵隊に取られるなどと妙なことを口走り、ついには発狂してしまう。

そして、上司が頼んだ仕事はまったく急ぎでも何でもないもので、ヴァーシャはただひたすら自分で自分を追い詰めて死んでしまった。信じがたいような理由で死にいたるのは喜劇と言って良いのか悲劇と言うべきなのか、そういう悲喜劇的な自意識のドラマがドストエフスキーらしいとも思った。ロシア文学らしいのかも知れないけど。ポルズンコフもそうした要素はあるけれども、今作は親友の視点から描くことでより悲痛さを増しており、死後アルカージィに映った冬のネヴァ河の描写が非常に印象的で、本書でも特に読み応えがある一篇だった。

訳者解説でヴァーシャはすべてに感謝しているために義務を果たさなかった忘恩が自らを責め苛むことによって死ぬと述べている。近代資本主義的で官僚主義的で、すべての都市で最も幻想的な都市、フィンランドの沼地にピョートル大帝が築き上げた西欧風の都市が彼を殺したとドストエフスキーが述べているらしい。このくだりは後藤明生のドストエフスキー論『ドストエフスキーのペテルブルグ』の原点といってもいい箇所で、このドストエフスキーの主張を元にペテルブルグをフィクションと見なして拡大していったところが後藤の論だろう。

「人妻と寝台の下の夫」(1848)

元は二つの短篇だったのを合体させたものらしい。原型を知らないけれども、どちらも浮気された男のくだくだしいセリフのやりとりが面白くもあり冗長でもあるというのがドストエフスキーだなという感じもする。主人公は黙れと言われれば隠れている時でも言い返してしまうし、自分は独身者だと言い張り決して浮気された男ではないと言い張るプライドの高さがセリフから執拗に滲み出ている。間違って入った家で家主が帰ってきて寝台の下に潜り込んで見たら先客がいた、という喜劇的な場面でずっと喋り倒しているのはなかなか笑えるけれど、住人が飼っている狆が自分のところにやってきて鼻を齧られ、居場所がバレそうになったら思いっきり縊り殺してしまうのがすごい。それで飼い主が怒るんだけど、替えを買ってきますからと主人公が言ったらそれで納得するのもすごい。

「正直な泥棒」(1848)

本書では特に短い一篇で、小間使いの男が窃盗を疑われて否定をして、疑われたことに抗議するように出奔するけれども、結局死の直前に盗みを自白するという改心の話で、気の弱い善人という人物類型の一つでもあるようだ。『罪と罰』を思い起こさせるところがある。

「クリスマスツリーと結婚式」(1848)

商人の娘で高額な持参金を持つと噂されるまだ11歳の子供に目を付けた紳士が、仲良くしているみすぼらしい少年を怒鳴って追い出す様をクリスマスに見た語り手が、五年後の結婚式に行きがかり、あの時の紳士が苦い顔をしたあの娘の隣にいることを見つける。お話なら即刻誰かにとっちめられるような小悪人がその念願を果たす惨い話と思ったけれども、この紳士マスタコーヴィチは「弱い心」の穏当な上司と同一人物らしく、こういう一面もあるのかと思わされる。回想での追い払われるみすぼらしい控えめな少年も研究的には重要らしい。

「白夜」(1848)

角川文庫の薄い一冊でおなじみのロマンチックな一作。友人もいない孤独な青年があるとき橋で紳士にまとわりつかれる少女を助け、そこから仲良くなり、お互いの身の上話をするなかで、少女は一年前に結婚を約束した紳士と音信が不通なことを悩んでいることを知る。少女は自分を恋愛的に好きにならないからあなたが好きだ、という牽制を繰り返しつつ、いざ紳士から見捨てられたと思い込んだ時に青年が愛情を告白されて深い仲になりかけるけれども、その直後に紳士と連絡が付いてあっさりと青年は捨てられる、という良くある話ではある。幻想の崩壊。序盤の誰も友達がいない青年が街中を友達とみなして歩く場面が印象的だけれど、この夢想家のタイプは二葉亭四迷、宇野浩二や牧野信一なども含めて後藤明生が言うところの幻想喜劇派の水脈として重要だろう。「弱い心」の「ネヴァ河の幻」も含めてかな。

いずれも1846年から48年の間に書かれた初期作品。

『ドストエフスキー全短篇Ⅱ』

短篇全集後半は流刑前に書かれた「初恋」の他は流刑後の作品となり、世界を別の視点から見るような奇想が現われ、SFや幻想小説的要素が増えてくるのが見てとれる。少年の年上女性とのロマンチックな「初恋」と妻に自殺された男の独白「おとなしい女」の落差も見どころ。

「初恋」(1849)

ある館での集まりに出た少年が、年上の夫人にいたずらやいじわるをされたり、別の夫人に思いを寄せたらその夫人が若い青年と秘密の逢瀬をしているところに遭遇して失恋を経験するロマンティックな短篇。大人の女性のサディスティックさもなかなか雰囲気があるけど、それでも思いを寄せる女性のために彼女が落した不倫の証拠となる手紙を密かに拾って渡し、彼女の小さな英雄(本作は別訳では「小英雄」とされていてそれが原題に忠実らしい)となってキスの褒美をもらう純真なロマンス。後半の情景描写にグッと来るものがある。

1849年に書かれ、1857年に匿名で発表された。ドストエフスキー名義として刊行されたのは1860年という経緯をたどったけれどもこの年はツルゲーネフの『初恋』が発表された年だという。同じく少年の年長女性への恋を扱った今作にあやかって米川訳ではこう題されたのだろうか。

「いやな話」(1862)

60代の上役の誕生日祝いに訪れた先でもう一人の年上含め、三人の官吏が酒を飲み議論などをするなかで一番若いプラリンスキーが進歩主義をうたい、全人類への愛などを述べ立てる。車ごとどこかへ行った召使いを無視して徒歩で帰宅しようとしたところで部下の結婚式に出くわす。そこで己の鷹揚さや博愛を披露しようという酔った頭の利己的な夢想から式に踏み込んで、すべてが裏目に出ていく。ゴーゴリの名前が言及されるようにスラップスティックなんだけれど、幸福な式が冷え切り次第に彼にとって屈辱的な状況になっていくのを当人の視点から見ているため陰惨さが前面に出ており、闖入された式の主役も散々な目に合う、誰も幸せにならない話で、まさに文字通り「いやな」あるいは「いまわしい」話になっている。スラップスティックをリアリスティックに描いてグロテスクなまでに強調したような感触がある。

「鰐」(1865)

これはドストエフスキーの短篇としては異色で、色々なところで言及されるので有名なはず。ある見世物のワニに近づいた男が丸呑みにされ、男はそのワニの腹のなかから滔々と弁舌を繰り広げる奇想短篇。ワニに飲まれた男というアイデアはこの前年に発表された『地下生活者の手記』同様の、世界を別様に見る視点の設定に思える。地下ならぬワニの腹のなかから経済思想や世界について語るわけだ。

しかしわたしはね、たとえ寝ていたって、――いや、それどころか、ただ寝ていることのみによって、人類の運命を逆転させ得る人間だってことを、立派に証明して見せるよ。わが国の新聞雑誌に現われた偉大な思想や主義傾向は、すべて寝ている人間によって生み出されたのは、明々白々の事実だ。223P

続きが描かれるはずだったらしく、話としては尻切れとんぼに終わっている。

このワニの見世物を主宰していたのがドイツ人という外国人なのも案外に重要で、今作での背景に経済発展の課題がある。この国には工業が足りずにそれを発展させるブルジョワジーも資本も足りない、だから外国からそれを導入しなければならないという話があり、男がワニの腹に入ることで外国の資本を二倍の価値にしたのは外資導入のために喜ばしいことで腹を割るなんてとんでもない、というセリフが出てくる。「パッサージュ」での出来事という副題があるように、デパートの前身パッサージュを舞台に経済発展の話をしていて、当時のロシアの産業をめぐる課題を背景にした作品でもある。ゴーゴリ「鼻」を踏まえているととも言われているらしい。森鴎外の既訳がある。以下のページにおそらく舞台となったパッサージュの写真がある。
パサージュ - Wikipedia

「ボボーク」(1873)

『悪霊』と『未成年』の間に描かれた短篇。葬式に参加したある男が墓石の下からの声を聞く風刺的幻想譚。死者たちが騒々しく話し合い、あるものは役所で不正を行なっていたことを明かしたり、土の下からの声が世界の別の姿を現す。バフチンの言うカーニバル的な要素が色濃い短篇。

「キリストのヨルカに召されし少年」(1876)

病んだ母が冷たくなり地下から少年が外へ出ると辺り一面クリスマスの雰囲気で、ガラスの向こうの降誕祭樹(ヨルカ)、つまりクリスマスツリーを眺めつつ、死の淵で母親や子供たちなど死者の幻想と出会う、ヒューマンな幻想譚。

「百姓マレイ」(1876)

29歳、牢獄にいた頃粗暴な百姓たちの様子を見て拒否感があったけれど、子供の時に父の領地の村で優しい百姓に狼が来ると恐れて泣きついた経験を一挙に思い出す。この想起が牢獄での百姓への親近感への転機となったらしい。『死の家の記録』の補足とも言える。

「百歳の老婆」(1876)

ある女性が街中で見かけた少し歩いては座ってまた歩く104歳の老婆との経験を聞いた書き手が、その老婆がたどり着いた家族たちの元で往生を遂げる様子を想像して書くという短篇。100年の人生、どんな記録にも残らない市井の人間の生の尊さを描くスケッチ。ドストエフスキー夫人がこの話は事実だと言ったらしいけれど、つまり夫人の出会った人の話を聞いた夫がこの話を書いたということか。個人雑誌『作家の日記』に書かれたヨルカ、マレイ、老婆の三篇はいずれもヒューマニスティックな色合いが濃い。

「宣告」(1876)

退屈で自殺した男の述懐という形で述べられるひねくれたロジックが展開される短篇。短篇でたどる限り60年代中盤から世界を逆さまに見ることのモチーフが多く出てくるようになっている。鰐の腹のなか、墓場、そして今作。

「おとなしい女」(1876)

後期の短篇の代表的な一作だろう。妻に自殺され目の前に遺体がある状況で夫が結婚してから今に至るまでの状況を独白でたどりながら一体何が悪かったのかを延々と考え続ける自意識のドラマというドストエフスキーらしさに満ちた短篇。

軍人をやめて質屋を営んでいる夫がある時値段の付かないようなものを持ち込んでくる若い女性に目を留める。その後、彼女が親を亡くし叔母たちにいびられながら暮らしており、質屋に訪れるのは家を脱出するために住み込みの仕事を求めてのことだったと分かる。しかし高齢で肥満の近所の商人に嫁がされそうになったところで質屋が叔母や家族に充分な金を与えた上で求婚をし、晴れて二人は夫婦になることが出来た。けれども当初は好意的に振る舞っていた妻も、夫があえて冷たい態度を取って自分のことをすべて察して欲しいなどというプライドの高い理不尽な対応をとったことで溝が大きくなり次第に夫婦仲は冷え込む。そうして夫が軍人をやめることになった醜聞を妻は夫の知り合いだった軍人から聞きつけ、彼の元に通うことになる。その現場に夫が居合わせ修羅場になるけれどもそうした経緯から夫も態度を変えて妻への愛を訴えるようになるけれどもその豹変が理解しがたいのか妻を次第に追い詰めていってしまう。夫の一方的なモノローグで語られるために何故彼女が自殺してしまったかは夫には永遠に分からない、なぜならこのモノローグに現われる彼の自分のことしか頭にないプライドと自意識のあり方自体が事実への道を閉ざしているから、と読める。自意識に自意識を重ねて無限に後退していく語りの迂路。

失礼ながら――女、ことに十六やそこいらの娘が、絶対に男に服従しないわけにいかないことを、わたしは承知していた。女には独自性がない。これは、――これは公理である。今でさえ、今でさえ、わたしにとっては公理である! 355P

「おかしな人間の夢」(1877)

ある男の見たユートピア世界を描く短篇で、人々から疎外され自殺を選ぼうとしていた時、ある可哀想な少女の助けを振り払い、自死を決意した時に見た星を夢のなかで訪れる。そこは人々が争いも憎しみもなく自然にそして純粋に暮らしている美しい場所だった。

けれども、そこで語り手が彼らに「嘘」を教えてしまい、その嘘の黴菌が彼らに媚態、情欲、嫉妬、残忍さを生み、争い、戦争、奴隷と様々な俗悪が発生し、いつしか義人(ただしきひと)が現われたけれども人によって打擲される。そして目覚めた語り手はしどろもどろながら伝道に邁進することになる。決してたどり着けない理想郷だとしても、それを求めて伝道を続ける決意を語りながら、最後の一文であの少女を探し出したことが触れられ、この一篇がその少女の上にあることが分かる。キリスト教的なニュアンスもあるけれど自然と科学の対置など色々な読み方があるだろう一篇。

「現代生活から取った暴露小説のプラン」(1877)

匿名の手紙でさまざまな怪文書を役所やらに送りまくっていたある青年の物語。ゴーゴリ「狂人日記」のポプリーシチンを踏まえつつ、匿名で様々な社会問題に批判を行なう手紙を送り、社会のあり方に一家言を持つ青年がふと自分を匿名投稿者だと人に漏らしてしまい、そこから噂が広がって誰もが自分をそうした卑怯者だと蔑視しているのではないかと思い悩んでしまう。あるとき上司にすべてをぶちまけるのだけれど、その告白すら実際は自分の社会への提言が取り立てられ、褒賞される可能性を見込んでいたという、どこまでも自意識過剰な人間を描いている風刺的なスケッチ。


『地下生活者の手記』で語り手は「意識はすべて病気なのである」と言う。ドストエフスキーのデビュー作はゴーゴリのパロディだけれど、後藤明生はゴーゴリ作品の人物の自意識の空洞を言葉で埋め尽くし、自尊心と屈辱感の分裂病患者に異化することがその方法だと論じている(『ドストエフスキーのペテルブルグ』)。本書では「おとなしい女」がその好例だけれど、他の作品でも随所にゴーゴリが言及されたり暗に踏まえられているらしかったり、その影響の大きさが感じられる。前期作品より込み入ったもの、変わったものが増えているし大長篇と時期がかぶるのでその点からも興味深い作品が多い巻だ。


なお、「おかしな人間の夢」については沼野充義が『夢に見られて』で、ドストエフスキーが批判したチェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』というユートピア小説と今作とを対照的な性質を持っているとして後のロシア文学のユートピア小説と繋げて論じている。

バフチンも今作を「テーマ面から言えば、ドストエフスキーの主要テーマのほとんど完璧な百科事典である」として別作との比較対象などを行なっている(バフチン『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫300P~)。パラパラめくっていたらバフチンが「ボボーク」に言及しているところも見つけた。上の感想を書いた時にはこれを忘れていたけれど

『ボボーク』は、その深さと大胆さからいって、全世界の文学中最高のメニッペアの一つだと主張したとしても、おそらく間違いではないだろう。275P

とある。

山城むつみの『ドストエフスキー』でも三章で「おとなしい女」について詳細に分析していて圧巻。

米川訳になんとなく馴染みがある気がしたのは、ドストエフスキーの引用を全部米川訳で行なう後藤明生の文体は米川訳の影響があるからではないか。「のである」や終止の「ぬ」の使いどころ、「分別ざかり」などの語彙とか幾つかのポイントで何か馴染みのある感触がした。米川正夫は1891年生まれ、没年は1965年と川端康成の生没年のほぼ八年前。そのくらいの時代の人だ。

本書は担当編集様より恵贈頂きました。ありがとうございます。

最近読んだ文学フリマで買った本 2026.06

文学フリマで買った本とはいうものの、三年くらい前に買ったものから先月買ったものまで、雑多なセレクトで基準なんてあったものではない。

『随風02』

随筆雑誌第二号。これは昨年11月に買ったんだっけか。「好奇心」をテーマに随筆を収め、随筆批評のほかナナロク社社主へのインタビューが載っている。好奇心というとおり色んな人の好奇心のあり方が描かれていて、やはり面白いものを書くには好奇心が重要だよなと思いつつずっと同じことをしてても面白い人もいる。

巻頭の宮崎智之による随筆の条件を考える文は結構込み入ったことが書かれていてすぐ整理はできないけれど、生の一回性・有限性を踏まえ、「私」が「私」を書くということと「時間」の密接な関係の議論は、自伝による不死を主題とするプリースト『不死の島へ』を連想させて興味深かった。

古賀及子「暴走せよ好奇心のなさ」は書き手のいつも同じことをして同じものを食べるという好奇心のなさについて書いていてそこまでは自分も共感するところが多いんだけど、そこに危機感を抱いたとて英語も喋れないのにアメリカに行くくだりの暴走ぶりはなかなかすごい。私もかなり生活スタイルを固定して回すタイプで、たとえばwordleを未だにやってるのってフォロワーにもう誰もいないんですよね。フォロワーがやってるのを見てやり始めたことなのに惰性で未だにずっとやっててさすがに毎日ではないにしろやってる。他にもう誰もいないのに。続けるだけでたった一人になれる。良いか悪いかはともかく。

杉森仁香「豊橋転覆」、本書の感想でよく名前が出てて何だろうと思ったら確かに凄まじい。豊橋の違法コンカフェに出禁にされた顛末を語ってて笑わずにはいられなかった。この直後に「おもしれー女」の話があるけど、こっちはやべー女を当人の視点で書いた文章で、そりゃ出禁だわ、という説得力がある。気がつくと色んなところで名前を見る人で、最近の同人雑誌からの転載として「文學界」に小説が載っているのを見かけた。創作を読んだことはまだないけど、新進気鋭の書き手っぽい。

わかしょ文庫「科学者は真実を追究する」、蛍が見られる場所で無作法者をしかりつける老紳士の話を聞くと、そこで蛍を見られるようにした元理科の教師で何をして良いのか悪いのかをきっちり蛍の実物を使って犠牲を出しつつ検証した上にその注意があると言う在野の科学者ぶりが見えてくる。

柿内正午「随筆時評」、ここでは口語と文語、話し言葉と書き言葉の関係を考えつつ口語的な言葉を随時差し挾みながら「インターネットがもたらしたものは、「書く」と「話す」の両方を、同時的な相互コミュニケーションの道具としてほとんど同一視してしまえる環境である」(84P)を前提に、その癒着のなかで看過されやすい「書くこと」の危険性を、話すように書くのでもなく動画などで話すのでもなく、「書く」側から切り込む実践がエッセイだ、と述べている。なかなか入り組んだ話だけれど面白い。この流れで三宅香帆の批評を「「話す」、において突出している」とも評する。その後、よく自分に雑談や相談のLINEを送ってきた友達がAIに課金して以降ほとんどLINEを送ってこなくなったという話や、自分の日記をAIに読ませて感想を聞き、それに対して答えたりもする自主制作本の話が続いて、人は私が思う以上に社交欲、会話欲があるんだなと思った。私もないわけじゃないし会って話すことが楽しいのはあるんだけど、自分からそう言う場を設けるみたいな意欲がないし、AIと話そうと思うこともない。なんなんだろうなこれは。この文章やアニメの感想とかをツイッターに毎日のように数千字とか投稿しているけれど、直接のコミュニケーションは驚くほどしていない。

他に和氣正幸「独立書店の販売力」、明確に数字を挙げつつ独立書店とは何で、どのような本が売れているのかという観点から業界での立ち位置、そして売り上げ促進のための方策は何か、という話をしていて面白い。とはいえ私は挙げられている有名店をほとんど知らなかったし行ったこともない。

その独立系書店で存在感があるという詩歌の出版社、ナナロク社のことはあまり知らなかったけれど、社主村井光男インタビューは非常に面白かった。某自費出版会社の庶務課にいたのにそこで初めて作った本がビートたけしとホーキング青山の対談本というのも驚きで、後谷川俊太郎と本を作る話も面白い。

と、最後まで読んでページをめくっていったら最後のページに杉森仁香のサインがあってビックリしたんだけどこの本文学フリマで買ったサイン本だった。しかも宮崎さんから買った気がする。杉森さんと清繭子さんらしいサインは分かるんだけど他に書いてあるのは誰が誰やら分かっていない……。

友田とん『今を生きるための赤瀬川原平=尾辻克彦』

直近の文フリで買った新刊。しばしばあなたは赤瀬川原平に似ていると言われてきた著者が改めて読んでみることで、そこでの赤瀬川=尾辻の方法を読み取って、複製、ひっくり返す、フィクション、見立ての四節に区分けし、応用するための基礎固めを試みる小著。

千円札を複製する話から手仕事として時間を掛けて観察することで対象の具体的な細部が見えてくること、そこから社会を観察することを導くのは著者の近著がその具体例だろう。サバ缶の内側にラベルを貼り替えることでその外の宇宙を包みこむ「宇宙の缶詰」に外と内との反転を、さらにサバ缶を二つ並べる発想に至ったことで、アイデア、コンセプトだけではなくその具現化を通じてさらに別の形に変形されるという過程に着目する。これもまた具体物を時間を掛けて観察することの大事さだ。さらにのちにトマソンと総称される「純粋階段」の発見に先だって、まず住宅事情の雑談で住宅機能をどこまで分割できるかという分譲主義という想像力、フィクションを打ち立てるコンセプトが先にあって、その後でその実例たる「純粋階段」を見つけたという順序を指摘する。フィクションによって現実に「可笑しなもの」を見つける目を育てているという。

そしてそのフィクションが雑談、ブレインストーミングによって生まれたことは尾辻克彦名義の最初の作品、短篇「肌ざわり」が、作中の作家が書いた草稿を娘とともに読んであれこれ言い合うことでできていることに注目することに繋がっている。「私」だけではなく読者との「共犯的にフィクションを作り上げていく」ことで現実を地面から浮き上がらせる、と。そうして私の前にフィクションを付け加えていくことで現実を前に進める、という。フィクションと現実の相互作用で生まれるものの話。

最後の「見立て」では新明解国語辞典の語釈の奇妙さを「新解さん」という個人と見立ててその例文から性格を考えていく試みをヒントにしている。この見立てで、赤瀬川原平が辞書編者に問い合わせをしなかったことと著者が駅の漏水観察で駅に問い合わせたりしなかったことと繋がっている印象だ。見立てによって生まれるおかしさ。しかし著者は見立てを意識することでむしろ見立てをいつでも解除可能なものとして考えることをその後に述べる。見立てのフィクショナルな機能を意識することで、操作可能なものとして見立てが隠しているものが何かを見つけるヒントにもなるということだろう。

芸術家で小説家をヒントにしているから当然なんだけれど、ここに挙げられているポイントはどれも文学、小説を書くためのヒントのように見えるし、文学が実生活においてどのような意義を持つのか、という話をしているようにも見える。

「窮理」29号

ブースで売っていた「窮理29号」の友田とんインタビューも読んだ。長めのインタビューで科学系の雑誌ということもあり数学、経済学で友田さんが何をしてきたかが具体的に語られていて、専門的な研究内容がガンガン出てくるので本当に何が何だか分からないのがすごい。子供の頃は漫画を描いてもらってそれを本にしたり、近年は『百年の孤独』本を自主制作して自分で売り歩くという活動が一人出版社になったように、ずっとメディアごと自分で作ることをしていたけれども、就職して最初の五年は小説だけを書いていて、これがむしろ一番特殊な時期だというのが面白い。純粋に小説だけを書いていた時期にはあんまり充実感がなかった、自分は入れ物ごと作ることで創作を成り立たせている、という。メディアは中身を支える容器として、著者が関心を向けたインフラとも通じるものがあるのかも知れない。

全100ページくらいの薄い雑誌だしと最初から全部読んでみた。物理系の学者が中心になって読み物を寄せる雑誌らしく、物理学の偉い人の業績、近代の学術雑誌の歴史、大学の周辺の土地の歴史、AIと随筆の話などなどが載っている。宮沢賢治のオノマトペの話は有名だけれど、賢治を英訳しているロジャー・パルバースは英語には日本語と同じかそれ以上に擬態語が豊かだと主張する。日本のそれのように同音反復ではないので分かりづらいだけだと。glitters、sparkles、clinkling、tinklingなどの言葉で訳した実例を挙げている。他にユクスキュルの話や公募エッセイなんかも載っている。

オルタナ旧市街『Something-Good』

発刊されたのは確か初めて東京ビッグサイトで開催された2024年12月の文学フリマだけれど、その時は私が参加できず、その次の2025年5月の時はオルタナさんが不参加だった。そのことを朧気にしか覚えておらず、その次の11月にポルトガル旅行記を買って、既刊は買いましたっけ?と言ったらオルタナさんが買ってないわけがないと自信満々に言うのでまああなたが言うならと思って買わずにいたら帰り道で上記の経緯を思い出してやっぱり買ってねーじゃねーか!とひとしきり笑ってしまった。ので五月の文フリで最後の一冊を入手したのだった……

長くなった。これはショートエッセイ集。日常のちょっとした不思議だったり良いことだったりを短く切るタイトル通りの楽しい文集で、あえて感想を必要とするものではないだろうとも思う。歯のホワイトニングってそんな拷問みたいなやつなんだ、とかキムタク連作にちょっと笑ったりする。しかし「環境音楽」の南海トラフ地震が来るぞと言われていた日でニュースがうるさかったらしいという部分、この部分はフィクションか?と思った。いや、二月の花見に遭遇した話とかもあるいは虚構か?という感触もあり、著者らしい「ハーフフィクション」ということかも知れない。そういう虚実の揺らぎもまた楽しい。キムタクのYoutubeで初めてシリーズというのがあるという情報は流石にこれはフィクションではないだろうと探してみたら、「初めてのデパ地下」という動画があり、デパ地下が初めて?!となった。100円ショップ、ホームセンターが初めてなんてそんな人いるんだ?と思ったけどいるみたいだ。

オルタナ旧市街『ポルトガル退屈日記 リスボン篇』

というわけで去年の文フリで買っていた一冊。一週間のポルトガル旅行のうちリスボンでの数日を描いた旅行記。同行者リー・リーがグロックを使い、著者がChatGPTを「じい」と呼んで使いながらの行程が描かれているところは現代的だ。料理、文化、建築の日本とのさまざまな違いが面白い。

旅行は去年の夏、七月のリスボンはカラッと涼しいらしく、湿度の違いはやはり大きいようだし、街並みの様子、特に多くの家の屋根がテラコッタの瓦屋根でできておりその景観の鮮やかなことや、コーヒーを買うとエスプレッソが出てきてアイスコーヒーがかなり珍しいことなどへえ、となる。

リスボンの七月の気候は五月の鎌倉のようだといい、日本においては災害だけれどもヨーロッパにとって夏は待ち望んだ季節なんだろう、と推測する。特に面白かったのが、光線の違いで自撮りの映え方が違うというところだった。「光線のやわらかさが違う」らしい。だからヨーロッパの人はこんなに自撮りが好きなのか、と。高緯度のせいで陰影が作りやすいという話を「じい」が答えている。リスボンと言えば著者はサラマーゴ『象の旅』を読みながら飛行機に乗り、彼の通っていたレストランに入るとよく座っていた席に置かれたサラマーゴの写真の写真が載っている。

ペソアについても触れられている。『不穏の書』は持っているけれど拾い読みした程度で全部読んでない。しかしタブッキの『フェルナンド・ペソア最後の三日間』はなんか今高値がついちゃってるんだな。これ持ってないんだ。中継地のドイツは書店だらけだったけどリスボンでは本屋を全然見ないという話があり、そういうところも違うようだ。エッグタルトやポートワインや魚介料理その他、本書ではちゃんとおいしい料理が出てくるのも旅行記の醍醐味か。店内に作家の肖像がある店と言えば、妹が行ったというチェコの酒場もそうだった。私は邦訳書を全部読んでるけど妹は名前も知らないボフミル・フラバルゆかりの店だ。

羽織虫、佐野まいける、ごま『あなたと私のあいだに在るもの』

五月の文フリで買った一冊。思えば羽織虫さんは数年前の後藤明生オリエンテーリングの参加者同士で知り合ったんだった。文フリで入場列の目の前にいたり、ZINEを買ったりしている。本書は自分の考えを語った後それを聞いた人同士で意見を交わし、更にそれを聞いて語り手が再度語る、というオープンダイアローグの手法を用いて各人の悩みを「お焚き上げするZINEを作る」という試みの記録。

オープンダイアローグというのは自分の考えを一度語り、それが他の人によって語られるのを一旦外から眺める形で自分の考えを外在化して距離を取るプロセスを挾むことに特徴があるようで、またカウンセリングとも近いけれども相手と対等な関係でそれを行なうのもこの本では重要な意味があるようだ。それぞれカウンセリングを受けたりしているほどの悩みがあり、しかも羽織虫さんが書いてるようにいずれも「他人との境界線」に関わるもののようで、そのこととオープンダイアローグという己の考えを一旦他人に渡すというプロセスを通じてアプローチしようというのは面白い。

他人の期待に応じて人格を作ってしまい、しかし最近ようやく本当の自分に近い人格を出せるようになったという羽織虫さん、セクシャルマイノリティと母の過干渉もあり他人の感情のゴミ箱になることが常習となってしまった佐野まいけるさん、寂しさからかパートナーとの距離感が狂ってしまうごまさん。私はあまり積極的に他人と関わろうとするタイプではないので実はここら辺の悩みというのはどうしても実感できないところがあるけれど、人の悩みというのは皆どこか似ていてそれぞれに固有のものがあるんだなと思ったりもする。

佐野さんが自ら見いだした愛とは何か、の考えがエーリッヒ・フロムと同じことを再発明していたというのは、自分の考えが外からもやってくるというオープンダイアローグともどこか似たところがあるし、結局自分の考えは自分で再発明するほどでなければ実感できないわけで、必要な過程だと思う。

買ったときに同封された佐野さんの冊子「愛の前日」は片思いしていたのに相手の恋愛を手助けしてしまう、仲の良い友達でしかなかったことを描いた苦いエッセイ。人の打ち明け話を聞いたような感触がある。物語で幾つもこういう話を読んだ気もするけどそれはまったく架空の話ではないんだなと。

奥山さと(板垣真任)『ロビン』

三年前くらいに文フリで買ったもので、去年の文フリで増補された「定本版」が出ているけれどもこれは元版の第二刷。ツイッターで言われて思いだしたけど、本書所収のわかしょ文庫さんの本『うろん紀行』の感想記事に言及したのがネットで絡んだ最初らしく、たぶんそれでこの本を買いに行ったんだと思う。

これは著者がブログに書いていたエッセイ、書評、日記を一冊にしたもの。大江健三郎『キルプの軍団』について触れた記事から始まり、ブログで書いた文章がそのまま印刷して面白く読めるものになっているのはすごい。

10年ほど前に文學界新人賞をとったもののあまり小説家の知り合いがいないところから他の新人賞をとった知人と飲んだり、様々な映画、小説などについての感想、観察を記したり、そして貴重なのは最後の「金沢日記」でこれは後に再録されてないんだけど、こういう数年前の日記を時間差で読むのも面白い。

「雪かきに何かははない」という一篇で、村上春樹訳のカーヴァーを参照しつつ「雪は情緒を切断する空白といってよい」、とそこに「何か」はないと言いつつ何もないところを掘ったりするのも必要だと思う、と揺らぎを見せるところも面白く、またこれは「自分なら掛け軸の文字は読まない」での雑司ヶ谷に住んでいる人間は地元の寺や地蔵に関心がない、「自分が生まれる前から床の間に吊るされている掛け軸の文字を気に留めないのと同じだ」という一節から見慣れたものやあって当然で気に掛けないものをめぐる話とも似ていて、これらはまた自分ならどう書くかという話でもある。大江の章もまた読むことと書くことの話だった。著者はアメリカ文学者で小説家でもあるわけで、『『百年の孤独』を代わりに読む』での「代わりに読む」がproxyとして訳されていることに気を留めて書きはじめ、『うろん紀行』では「でも」の反復を丁寧に読みとっていくところにその「目」を感じる。

日記パートはこれらの記事を書いていた頃のバックヤードという感じで、ブログを書いた、映画や本の感想やツイッターでこんな話題を見た、パートナーが安部公房を読んでいたなど日々の出来事が綴られ、各文章を著者という台紙に糊付けしていくようなところがある。これだって書くことは取捨選択しているだろうけれど、単独記事では書かれない著者の人となりや世代的な感覚などが窺えて面白い。サニーデイサービスのLOVE ALBUMをよく聴いたというのは私もそうだったのでだいぶ懐かしく共感があったり、そういうところが印象に残る。

これは良かった一節。

そのときも「いいものを書けた」と思った。しかしそれは「いいものを読んだ」の言い換えに過ぎない、まあ悪いことではない。104P

柿内正午『r4ンb-^、m「^』

去年の五月の文フリで買ったもの。柿内さんは友田さんが『代わりに読む人』0号発刊記念で行なった後藤明生『挾み撃ち』読書会の参加者として会ったのが初めてだったかな。オリエンテーリングのゴール地点でも会った気がする。

本書は著者が猫を家に迎え、まだ生活に当たり前のものにならないうちの異物としての猫と向き合う様子を書き留めておくために制作したというZINE。タイトルはキーボードに猫が乗っかって入力した文字列で、表紙には隻眼の猫が描かれている。

シェアハウスのように暮らしていたマンションから夫婦以外はそこを去り、環境の変化もあり引き払うにあたり猫を飼える家に住もうと決め、保護猫譲渡会にも顔を出して出会った一匹の猫が気になって、翌週にもまだ引き取られていなかったその猫を家に迎え、そうして猫との生活が始まる。世の猫エッセイの類は食わず嫌いで読まなかったといい、猫は良いということを自明のものとして語ることも苦手だという著者が、そうして家にやってきた外のものと暮らし始める。

猫だし初めは懐かないものだろうという予断を裏切って、猫「ルドン」は当初から異様に人に懐く猫だったことの困惑が書き留められている。ネットで調べた猫と目の前の猫との落差に戸惑いながら、人だろうと猫だろうと一般的な観念ではなく目の前の個別の個体と向き合うことに著者は気づかされる。「振り回されるという愉悦」なんて章もあったりしてだいぶ早い段階で溺愛状態になっているし、猫の生活で著者のリズムが狂わされてしまってもかわいいというあたり、読まなかったと言った世にある猫エッセイのようになっているのが微笑ましい。

猫との生活の描写と猫と人間の関係を思考していく両輪で構成されている感じで、近代のパリ社交界では「メリット」という言葉は「実用性に馴染まない情緒的なよさ」を意味していて、ネズミ取りとしての猫を愛玩する風潮にはこのサロン的な文化が背景にあったという話も面白い。ちいかわが苦手、嫌いという話もなかなか面白くて、そもそも私はあの作品が良く分からない。ちいかわは自らの貧しい姿を戯画化し愛でるようなもので、犬に勝手にアテレコするよりタチが悪い、という著者の示す嫌悪は興味深い。

猫にとって良い環境を調整することを通じて自分は「人間」になる、と著者は書く。ケアされて「「人間」的緊張」を一時停止できなければ「人間」は維持できない。人間は人間で居続けることも難しく、かといって動物で居続けることにも耐えられない、とケアと動物の話は本書のコアのように感じた。

最近読んでいた本 2026.06

読んでツイッターに投稿してからずいぶん経ってるのも多いけど、「最近」読んでいた諸々。文芸誌、エッセイ、怪談、SF。

木村友祐「殺しの時代における都市型狩猟の観察」(「すばる」2026年2月号)

害虫獣駆除の仕事をしている青年が子を救出する親ネズミと目線が合ったことからはじめ、動物飼育の趣味を持つ後輩との交流などを経て、動物と人間の、そして戦争の時代における暴力との関係を身体的に経験していく中篇小説。

パワハラ上司による売り上げ重視の仕事ぶりや小動物を安易に踏み殺すような暴力的なあり方を一方に置き、もう一方に同僚や後輩ら動物に関心がある人たちを置き、排外主義批判の運動に携わる元恋人への対抗心で純日本人を採用するといって問題になった会社に入った主人公が置かれる。害虫獣駆除の仕事、職場の人間関係、そして戦争という三層のレイヤーにおける暴力への感受を繋ぎ合わせ、小動物や虫相手などの場合では殺す・命を支配する側でも職場や社会のなかではいつ殺される側になってもおかしくない、という相対性や可換性のなかで暴力について描いていく。

元恋人の社会運動への拒否感や今の会社が炎上して是正されたとはいえ右翼的な体質があったことを理由に入社した主人公小熊は、しかし暴力を是とする人間ではない。飲食店でトラップに掛かった子ネズミを処置しようとして親ネズミの視線を感じて対面した時、「え、何。なんか用?」とつい人に対するように話し掛けてしまう。恐怖や動揺といった怯えから来るものでも、そこにはコミュニケーションの契機を発してしまっている。ネズミを交流可能な存在と見てしまうこの瞬間は今作でも重要な箇所ではないかと思う。

だからこそ上司のネズミを踏み殺すような暴力性には従えず衝突してしまう。害虫獣駆除の仕事とは言え、生命をもののように無残に扱うことには抵抗があるわけだ。たとえば虫ならわりとつぶせてしまっても、ネズミ程度の小動物を殺せるかと言われれば、結構難しいのは分かる。

今作は動物倫理といっても肉食の忌避ではなく、敬意をもった肉食を描いている。社内の窓口に通報してもうやむやにされてしまう上司岩倉の顔面を攻撃し美容上の理由と言って休職を余儀なくさせるという社内の誰もやれなかったことを達成したのは小さなネズミだった。その殺されてしまったネズミを、小熊はなんと食べようとする。これはだいぶ衛生的に問題があるだろうと思えて、読んでて抵抗感もあったけれども勇者のネズミ親子を丁重に葬送するためにさまざまな手順を踏んで、その肉から勇気を得るために食べようとする姿には何らかの倫理がある。

ラストに明示されてるように、本作はたとえば『イサの氾濫』などのような木村友祐の革命幻視小説の系列にもある作品で、だから必ずしも非暴力を訴えるわけではない。革命、抵抗のための力は常に必要とされている。肉を食うという生命の循環に即くことに命の価値を見いだしているかのようだ。

おそらくはガザ、パレスチナの惨状が想定されているように、イスラエル、アメリカの陰惨な暴力には人間を人間とも思わない、動物視する契機が含まれており、ガザのみならずイラン、レバノンへと戦線を拡大し続ける状況で政治家からこぼれる言葉が本作を想起させることもしばしばある。人間同士でも動物と見なされ虐殺される時代において、駆除すべき動物と向き合う立場からその様相を描いた作品だ。人間としての生活をする以上、肉も食べるし害獣も駆除しなければならない、そういうバランスの上にある倫理。

小熊、鵜飼、桑野といった動植物的名前に対して、パワハラ上司は「岩倉」という非生物的名前を持っている。岩倉もまた父の実家の奄美大島、妻の実家の石垣島に自衛隊基地があり、戦争への危惧を抱いている。しかしそれまでにやれることをやっておく方が良いという天災視した発言になってしまう。この戦争の天災視は「反戦」運動から距離を取る自分を正当化するロジックとしてありふれているようにも思う。

宮崎智之編『精選日本随筆選集 孤独』

「随筆復興」を掲げ、随筆もまた芸術だと主張する編者による随筆選集。最初のテーマは「孤独」として長短さまざまな作品を収める。本書のコアにあるのは文学に「絶対の孤独」を見る安吾「文学のふるさと」だろうか。

教訓すらないアモラルなものに突き放されたような物語や挿話を紹介しつつ「生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」を文学・人間の「ふるさと」だと述べる有名な一篇だけれども、文学のふるさとは孤独だとする随筆を孤独のテーマとして本書に選ぶことで随筆もまた文学だとする意図がありそうだ。孤独と言うとおり多くが家族との死別や距離感を主題にしていて、坂口安吾の「文学のふるさと」の前に同じ安吾の「石の思い」という一般に短篇小説と分類されている作品が置かれ、母との愛憎、父との距離が描かれ、これは「文学のふるさと」の孤独のその背景を描いているようだ。これらの文章を読んでいると安吾が愛される理由が分かる気がする。

安吾の二篇が本書のちょうど真ん中に配され、前半には編者がしばしば推奨している遠藤周作のデビュー作のフランス滞在時のことを描いたエッセイ集から二篇60ページほどを収め、後半にはこれもまた編者が薦めてバズっていた正宗白鳥の一冊から父母弟を見送る三篇50ページほどを選んでいる。

これらが概ね本書のアウトラインとも言うべき存在感を持っている。遠藤のフランス留学時のエッセイには自殺騒ぎを起こした女学生に触れたもの、そして独裁政権に抗したレジスタンスが地方で拷問処刑に手を染めたことを描きながら、ソ連に占領されて故郷を失ったポーランド人女性の孤独を描き込んでいる。

高浜虚子の「落ち葉降る下にて」は小説と分類されることもある作品のようで、ある温泉での体験を通して娘の死を経ての自己省察を描くもので、随筆と言われれば確かにそう読める文章になっている。温泉街での火葬場、火事、棺桶などを見ながらの無常観のようなものが現われている。

知らない名前の野々上慶一の文章は「『山羊の歌』のこと」として中也の生前唯一の詩集を刊行した人物によるもので、どのような経緯で引き受けたのかということなどを中也を中心に周辺人物のことなども触れた回想。中也の人物像も興味深いけれども突然お経を唱え始めるダダイスト高橋新吉が変すぎる。野々上は宮沢賢治全集を刊行した人物でもあり、そのことなどにも触れつつ、中也との縁になった小林秀雄のこと、装幀を引き受けた高村光太郎のこと、著者が家に入り浸っていた青山二郎のところに中也が訪れてきた時のこと、大岡昇平が中也について書き続けていることなど興味深い文学史の一断面になっている。

正宗白鳥の三部作は父、母、弟を見送る時のことを綴った文章。父の最後に立ち会いながら、「人間は苦痛なく死ねるようにつくられていないのだろう」という一文が印象的。老境で家族を見送り、冷静にその様を描いている様子にはなんとも言えないものがある。

川端の「末期の眼」は芥川の遺稿「或旧友へ送る手記」の「自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである」という文章を引いた有名なものだけれど、これを孤独のテーマとして据えつつ、直後に大庭みな子が川端と会おうとした時に空いていると言われた日に自殺されたというエッセイを置いて、
その川端自身の孤独を浮き彫りにするような編集になっているところも面白い。数ページの短い文章も多いので読みやすい。小説とされる文章を入れても違和感がないのも結構面白いところだ。

宮崎智之編『精選日本随筆選集 歓喜』

随筆選集第二弾。歓喜を題材に各人の喜びや愛したものなどについての随筆を収めていて、序盤は食べ物などから始まり、旅、風物、趣味芸術、動植物・自然などある程度カテゴリをまとめつつ並んでいる。中盤の薄田泣菫四連発は見どころ。

冒頭の武田百合子の作は蛇センターを訪れた時のことでそれもなかなか面白いんだけれど、てっきり一人で行ってるものと思われた文章の終盤に急に同行者「H」が出てきてかなり面食らった。連作ものの一篇なんだろうか。

開高健のタバコエッセイでオイルライターからガスライターへと時流が変わって行くことを嘆きつつジッポーのデザインを褒めているのだけど、私からすると100円じゃないライターといえばジッポーしかなく、ダンヒル、ロンソンというメーカーは知らないので代名詞的に生き残った理由を知れた気がする。

読む為に本を買っていると、そのうちに読まない本が沢山たまり、読まないことが苦になって、つくづく世の中がいやになる。119P

という福原麟太郎のエッセイの一節でほぼ自分と同じ感情が書かれていて笑ってしまった。

志賀直哉の随筆に「ゴー・ストップ」というプロレタリア文学が出てくるのが意外だった。貴司山治のこの長篇は大衆向けプロレタリア文学とも言われ、新聞小説でもあったためかエンタメ的な展開のうちに労働争議のノウハウが書かれていて実際に争議の手引きとして読まれたとも言われている。

北原白秋「ほう、ぽんぽん」は不思議な表題通り内容も不思議で、若山牧水の形容をした言葉なのか実際に鳴っている音なのか不明瞭なまま、この言葉の響きで一篇を仕上げている不可思議な文章。なるほど詩人の随筆らしいと思わせる魅力がある。

薄田泣菫の自然に関するエッセイが四つ続けて収められており、この自然に対する感受性の鋭さ、幸福を見いだす視点がかなり面白く、これだからこそ詩人なのだろうと思える。単に擬人化するとかではない、自然への共感のようなものがあり、魅力のある随筆だ。

夏目漱石「自転車日記」は、この本のなかで一番自由な日本語を使っている文章ではないかと思える。自転車に乗れない自分を描いて自虐的なユーモアを湛えつつ、様々な当て字や慣用句を改変したりした言葉を縦横に差し挾んでおり、自由自在の感がある。ちくま文庫の漱石全集10巻では註釈付きで本作が収められており、どのような参照先がありどういじっているかを指摘してあるので併読すると面白いと思う。豊かな学識、慣用句や故事成語を使いこなす文章力が己と自転車の関係をコミカルに描くことに全力で使われていて、とても読み応えがある。

長沢節「弱いから、好き」、戦時下の日本でマッチョさを排し、細身で弱々しく病的な人間像を美として提示し、美的な観点から反戦を体現するエッセイで、軍事教練を茶化したことで美大への道を絶たれたという経歴も合わせて非常に面白い文章だった。

佐多稲子の月に関するエッセイも面白いし、吉田健一の食に続いてある田舎町の魅力を描くエッセイなどなど、全体にそれぞれのポジティヴなものを描いている楽しさがある。第三弾も企画が進んでいる模様。

仙田学『スマホ野さだお君』

ボケバケ探偵団シリーズ第二弾、サブロー君シリーズでは通算第三作目の児童文学。いつもながら子供たちの関西弁も快調に、今作ではかわいいもの好きで従姉妹と女装を嗜む男子や、塾で遊べなくて友達に意地悪してしまう女子の話を妖怪との対決で解決していく。女装エッセイの書き手でもある著者らしい女装ネタも入れつつ、仲良くしたいのに意地悪してしまうような身近な子供の悩みを小さいうちに摘んでいく。サブロー君が無神経なキャラになりそうなところですべてを肯定していく言動なのが全体のポップさを支えている。

茨木のり子『歳月』

二十五年連れ添った夫が亡くなってから約三十年一人で暮らすなかで書きためていた夫への愛を綴った詩集。岩波文庫の茨木詩集にここから抜粋されたものがあり印象的だったのでちょうど文庫化されたこれを読んだ。孤独のなかで募る亡夫への思いを描いていてこんな真率な愛があるものかと思った。

その岩波文庫の詩集を読んだとき、自分の感受性くらい、など全体的には犀利な知性を感じさせる詩が多くて意外にも思ったけれど、最後に本書からの詩が出てくるとそれまでとはだいぶ違う色調の秘めた内心を露わにするような作風で驚かされた。見合い結婚だったらしい。生前発表するつもりがなかったというのが良く分かるような詩で、孤独と愛といえばやなせたかしの詩集のような平明で親しみやすさのある詩集だと思う。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

太陽を蝕むアストロファージなる宇宙微生物によって破滅する地球を救うためヒントがあると思われるタウ・セチ星系に送られた主人公が科学技術と友情で困難を解決していくSF小説。一言で言うと大長篇ドラえもんみたいな話。たぶん。

五年前に邦訳が刊行された時から大評判で、文庫化もし映画化によって既に著名すぎる作品となっているから特に説明も要らないだろうけれど、科学がプロットを推進する『宇宙の人』以来の作者の手腕が今回は異星系とファーストコンタクトにまでスケールを広げてやはり非常に面白い。だいたいの人は何が起こるかを伏せてとにかく読め、と言うのはこのファーストコンタクト部分の驚きを知らないまま味わわせたいからだろうけれど、私もファーストコンタクトということ自体は知ってたし、映画のPVで既にアピールされてるらしいのでそこを伏せてもしょうがないかな。

宇宙空間で遭遇した蜘蛛のような形をした異星人を出身星系からエリディアンと呼び、個体をロッキーと呼称して、それぞれの生息環境の違い、感覚の違い、技能の違いを知り合い、伝え合い、補い合いながらアストロファージ禍の解決を目指していく異星バディSFになっていくところは大変面白い。

ファーストコンタクトでの意思疎通、そしてアストロファージの研究とタウセチでその天敵を見つけ出して研究し、故郷を救わんとするプロセスは科学的探求が主軸となり、謎を解き明かし解決策を模索していくプロセスそれ自体の面白さで話が駆動していく。お互いの体のつくりの違い、常識の違い、そして最後のバディとしての相手への敬意と友情、旅の途中で偶然出会った相手との心の触れあいと、最後の決断、この感じは大長篇ドラえもんなんだよなと思わずにはいられなかった。そして最後は科学を教え伝えるというグレースの教師としての意識で締められる。

独身男性のグレースがたとえばストラットと恋愛関係になったりはせず、それは決死の片道切符を拒否する方便でもあるとはいえ一介の教師としての仕事を大事に思っていて、それが地球へ帰りたがる理由になっているのは愛する恋人や家族のためといったハリウッド映画的な枠組みから逃れる設定だろう。

『火星の人』が単独でのサバイバルだったのに対し、今作では二つの文明それぞれのサバイバルが出会うという順当な発展をたどっている。しかし第二作『アルテミス』はなんだか妙に影が薄くて私も未読だったりする。そのうち読んでみようとは思う。

本作の世界各国が協力して世界的危機に向き合うために中国、ロシアが大きな役割を果たしてアメリカ人が宇宙へ行く、というアメリカンドリームも、ロシアはともかく今やアメリカもがトランプによって公然と暴力を振りまく常軌を逸した国となってしまってはこの物語が夢物語すぎる感じが出てしまう。いや、アメリカは元からそうだよと言われればそうなんだけど。しかし同行者二人が死んだ原因はともかくかなり早い段階で葬送というか宇宙に投棄したのは何か意味があるのかと思ったけど別にそうでもなかった。

岩本敏男『ねむれなくなる本』

中公文庫のトラウマ児童文学シリーズ第四弾。シリーズはひとまずこの第四弾で区切りとのこと。児童文学とは何か、ということを問う「伝説の短篇集」らしい。離婚した家の子供、父に掛けられた冤罪、一家心中といった生々しい現実の事件・不安や、死者からの電話、UFOアブダクション、地球滅亡といった超常的な現象を扱う短篇が並列しており、両者を区分けできない子供の世界ならではの恐ろしさを描いているように思う。

最初の一篇は両親が離婚して母に引き取られたものの母は水商売で日銭を稼ぎ、そこで出会った男性と仲を深めたように見えつつ捨てられたのか泥酔して荒れていたところを子供に突き飛ばされ、冷蔵庫に頭をぶつけて死んでしまう様子を子供の視点から語るという嫌な話で、ここから本書が始まる。

嫌さということでは家族に望まれない祖母を引き取ることになった「一匹」が本当に生々しくて、家族に疎ましがられ、姉は鍵を掛けて自室に籠もり、主人公の子だけがおばあさんと一緒の部屋になってしまう。姉には匂いが移ったと難癖を付けられ、お祖母さんは姉の嫌がらせに遭う……。ボケ気味になった挙句に入院して記憶も怪しくなったまま亡くなるという……。

なかでも「あいつとおれ」では、ほとんど口を利かなかったクラスメイトとちょっとしたきっかけから縁ができ、父がサラ金に追われていて夏休みに引っ越してしまうことを知ったりという夏の少年のささやかな交流が衝撃的なラストを迎える。子供の世界を覆う大人の事情の陰鬱さ。

離婚した子供の話はほかにも、母に引き取られたものの父との面会で父の再婚相手と遭遇したりの微妙な状況のなかで自分の権利とは何なのかを考える「権利」、心中に巻き込まれた子供の視点で家族が全員死んだらしいことを知る絶望を描く「心中」など、子供の頃に読んだら本当に眠れなくなりそうだ。子供の視点ということでは、子供が行方不明になる事件をUFOのアブダクションなのか実際に誘拐されたのかが判然としない「坂道」の幻想性にその雰囲気が強く出ているように思う。大人たちは誘拐を言うけれど、当事者の子供は大人に連れて行かれたとは言わない、この不可思議さ。

徹底して子供の視線からこれらの諸篇が描かれているように思える。表題の本は全体の半分ほどで、増補されている連作短篇「あいうえお」は作者の自伝的なあれこれを五十音のキーワードごとに描いたもので、産まれる子供の視点など幾つかのアイデアが本篇と通底していて舞台裏とも読める。なかでも「イカとタコ」は熱心な理科の先生にこの二つの種が交配すると足の本数は何本になるのか、という質問を持って行ったら激怒されビンタされたという理不尽さを描いていて、しかも理由は一切分からず、大人の視点から腑に落ちる説明がされるわけではない子供の目線が印象的だ。

この増補短篇所収の本の後書きで、子供は純真無垢などではなく「悪党」なのだと書き、「そういうわけで、子どもは、殆どまるごと大人と同じなのです。人間なのです。忘れないでください、何をかくそう彼らは人間だったのです!」(273-4P)と書き記していることは特筆すべきだろう。

子供を理想化せず対等な「人間」として見る目線がこれらの諸篇の背景にあるわけだ。また、「子業」を務めたけれども「親業」はしなかったというエッセイのなかで、「家族」に対して感じる淫靡さや恐怖を述べた箇所も非常に印象的だ。

ひとり者のひがみなのだ。友人の家庭から解放されて、夜の道をあるきながら、私はそういいきかせます。そういうことにしておかなければ、私はたたかわなければならなくなります。家族といい家庭といい、かなしくて、このしたたかな集団とのたたかいをです。278P

子供や家族を理想化しないこと、むしろそれらへの怖れを抱くこと。「異端の児童文学者」と呼ばれた理由はこの辺りに窺える。子供、家族、そして日常。これらのものを当然と思わないスタンスがこれらの諸篇から滲む不安、恐ろしさの要因なのだろうと思える。

表題書や増補短篇にエッセイそして解説と、一読すると著者のスタンスがある程度まとまりのあるものとして見えてくる。もちろん本書だけ読んで全体像だと思うのは危ういとしても、一冊で著者のコアを提示するのが編集意図でもあるだろう。その役割は充分に果たしていると思われる。ツイッターでしか見たことがなかったからどういうものを書く人なのか知らなかった能町みね子の解説がなかなか読ませるものになっていて、へえこういう感じなんだ、と思った。
本書は担当編集様より恵贈いただきました。

小池壮彦『幽霊物件案内』

怪談界隈では著名な作者の有名な本のようだけれど私はまったく知らなかったので軽い気持ちで読んだ。実話怪談の祖型というのか、本人が体験したり知人から聞き知った話などで様々な怪談、奇談が語られるけど印象的なのはその文章の淡々としたドライさだろう。そのあっさりとした語り口で、怪奇な話、奇異な話が次々と語られていて、短い時には数行で終わったりするそのリズムで次々と読まされてしまう。おどろおどろしい話もあり、死者の呪いとかそういうのが匂わされることもあるけれど、あまり怪談でもない単に変な話もあったりするのが良い。途中で三津田さんという人が言及され、おや?と思ったら三津田信三が文庫版の解説を書いていてなるほど過去に出版社でホラー関連の本を担当していたのか、というホラー史の一幕がかいま見えるところも面白い。

小池壮彦『【完全版】日本の幽霊事件』

14年にわたり雑誌「幽」に連載されたものを元にした二冊の本を合本文庫化したもの。日本の、とはいうものの概ね東京近辺の事例を取りあげ怪奇事件の考証を試みるもので、怪談の裏にある陰惨な事件や話の改変などを跡づけていて面白い。ある陰惨な事件が起こり、その後にあった怪奇現象が事件と結びつけられて怪談、幽霊事件として成長していく様子を様々な事例から説き起こしていくなかで、鉄道事故、水難事故、戦前戦後のメディア史、文化史、風俗史を本人撮影の写真と共に垣間見ることができる。

前半では特に「八百屋お七」を「メディア・ミックスで盛り上げられた戦後最初の幽霊事件」と呼んで昭和30年代の怪談ブームの起点において戦後の怪談史に位置付けつるのも面白いけれど、番外篇での考証・推理が圧巻で非常に読ませるものになっている。鴎外『澁江抽斎』まで出てくる。

羽根木公園での幽霊事件から当時の不良グループの話になり、富裕な少女たちが悪行に手を染め、普通の少女を不良グループに売り飛ばす集団売春事件をおこし、しばしば首謀者が中学生だったりするなどの事件もすごいけれど、そこでソーラー族というのが出てくる。ミーハーの上なので音階の一つ上のソーラー族、というもじり方にも富裕層らしいところがあるけれど、後半13節、淀橋の箇所でこの一団が恋人と同士の進展をABCと名付けたというのが出てくる。新しい恋人のことを「おニュウ」、あるいは学校の試験に出題範囲があるのもこの一団の抵抗運動によるという。

ソーラー族というのは、ミーハー族よりも上と称する少年少女たちのことである。ドレミファのミファ(ミーハー)の上がソラ(ソーラー)という意味で、昭和三十年代に流行したグループだったが、あまり長続きはしなかった。しかし、この連中が編み出した造語が多少興味深いので紹介すると、新しい恋人のことを「オニュウ」と言ったり、 異性との関係がどこまで行ったかをA・B・Cなどと段階別にあらわすのは、もともとソーラー族の隠語だった。当初は「一塁」「二塁」「三塁」「ホームラン」と言っていた。「一塁」は手を握るだけの関係で、「二塁」がBの抱擁に該当し、「三塁」がAの接吻だった。細かい説明は省くが、いつのまにか「三塁」の価値が低下して、「一塁」は消えてしまったのである。
 学校の定期試験に〝出題範囲〟があるのも、昭和三十年代にソーラー族の高校生が学校と交渉して勝ち取った成果である。それまでは定期試験に出題範囲というものはなく、どんな問題を出されても文句は言えないのが普通だった。ゆえに生徒が苦労したため、ソーラー族の連中が出題範囲を決めるように学校と団体交渉したのである。P297-298

ABCはともかく出題範囲もそうなんだろうか。

怪談の背景にある陰惨な事故は、それによって安全管理が整っていく歴史の一コマでもあるし、犯罪史、文化史、メディア史の要素もあり、怪談が生まれる場所をたどることはそうした歴史と密接に絡み合うことでもあるのを窺える好著だ。

自殺者が多い玉川上水のことは人食い川と呼ばれており、著者が高校生の頃死体の汁のおかげで水道水がうまいのかと水道局に問い合わせ、死体の汁を飲んだ方が滋養強壮に良いと信じていたので塩素殺菌なんかよせと抗議した、というだいぶ変な話も書いてある。谷中霊園の事件のところで、著者が話を聞いた公園にいた老人が、六十年ほど前の事件の重要な目撃者で意外な説を教えてくれるというところなど、信憑性を疑ってしまうようなマジで?みたいな箇所も時々あって、結構胡乱なところもあるのが面白くもある。戦後のテレビ時代になると幽霊も天然色になるというのはメディアと怪談の関係を示す一節だろう。