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単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall
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2023.12.31岡和田晃編『上林俊樹詩文集 聖なる不在・昏い夢と少女』の制作に協力
上林俊樹詩文集『聖なる不在・昏い夢と少女』を刊行します | SFユースティティア

2023.06.24「リベラシオン 人権研究ふくおか」190号(2023年夏)に「鶴田知也再考――『リベラシオン』第一八九号を読む」を寄稿
「リベラシオン」190号に鶴田知也についての記事を寄稿 - Close To The Wall

2022.11.20後藤明生文学講義CDの付録リスニングガイドを執筆
後藤明生文学講義のCDの付録リスニングガイドに寄稿 - Close To The Wall

2022.09.30図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニアルーマニア』の書評が掲載
図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載 - Close To The Wall

2022.09.28単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall

2022.06.10『代わりに読む人0』に「見ることの政治性――なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?」等を寄稿
『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました - Close To The Wall

2022.04.30「図書新聞」2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載
図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載 - Close To The Wall

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去年の文学フリマで買ったものを読んでいた

文学フリマ東京37で買ったものの、全部ではないけど読んだものを。

羽織虫「熱水噴出孔より」シリーズ

vol.3から5までと1.5を読んだ。後藤明生オリエンテーリングで初めて会って、相互フォローになったり文学フリマで会ったりした氏にこんな趣味や体験があったのか、という面白さもあるし、単体のエッセイとして良かった。『前歯』の加齢の実感的によくわかる感じや『佐藤さんの手』の急展開にびっくりしたけど特に『ショーツの畳み方』は良かった。ニュージーランドで一年過ごしていた時のことを書いていて、急な雨で同居人の女性のショーツを畳んだ、というところにフォーカスするのが印象的で、特に年上の女性に軽くあしらわれているのが一番安心するのは、幼い時姉にいじめられていたからだ、という部分に姉を持つ弟のなんか「質感」というのが伝わってきた。

わかしょ文庫『そこにあるだけ』

小さい手のひらサイズの短歌集で、西夏文字だったかを配したデザインも含めて良い。節タイトルの「色んな場所に死に蝉が……」で既に笑ってしまった。これは何か自分の知らないものについて言っているっていうことだけがわかるものもあったりする。幾つか印象的なものを。
「ディスプレイ星空みたいに見えるごみ」、うちのにもほこりがついてそんな感じ。
「目も見ずにそこになければないですね」、特にリズムが良いしスパッといくつれなさが良い。
「ぶちのめす静かな湖畔の森の影」、これは笑った。
「幸せを噛みしめている嫌なのに」、吸引力がある。
「欠けた歯をアロンアルファでくっつける」、え、できるの? と思った。私も今歯科医で処置した前歯が割れてるので気になった。その後歯医者行って直したけどこれが結構手間取った。前歯なので強度を確保するのに他の歯と絡ませて補強する必要があって……。

サワラギ校正部『校正のたね』

校正者の人が基礎的な仕事を18項目挙げて30ページほどで記した小冊子。私も共著などで校正協力することがあるけれど、プロの仕事は流石だなと思わされる。とにかく辞書を引くこと、というのがあり、これは私はあまりしてないな、と反省するけどATOKで見てた。ATOK、変換する時に三省堂国語辞典ジーニアス和英辞典の項目が横に出てくる機能があって、これはかなりよく見てた。

『別冊代わりに読む人 試行錯誤1』

メルマガの後継の小冊子。メルマガは未読だった。わかしょ文庫「なぜ相撲川柳を作るのか」、著者の短歌本の付録としても読めるもので、私は相撲はわからないので背景情報とともに川柳が出てきていて、相撲という伝統がある分野については既存の様々な意味がこもった単語が使えるという利点があり、それはある決まった型を使いやすいということだろう。言葉がない、面倒な状況を指すのには韻文、短詩型に収まらない散文性があらわれる。

陳詩遠「なにがなんだか」、人とぶつかって弾け飛んだスマホケース(ケースだけ飛ぶということ自体がまず不可解だけど)を草むらに放置したまま出社し、帰りにそこを通りがかった時におもむろに草むらから拾ったそれをスマホにつけるところを人に見られた話が相当笑った。

伏見瞬「蓮實重彦論」、吉本隆明アドルノ、フランス語の蓮實に向き合うための三つの迂回をめぐるエッセイ。蓮實の教科書を使ってのフランス語学習を続けて合格した仏検二級の凄さはわからないけど論じるための準備に相当手間が掛かってて、これは脱線かも知れないけど脱線に本気なのが圧巻。

友田とん「取るに足らないものを取る」、電車のなかで出会った、手品を見せられたようなオチがないような体験と、マティス展での目の前からものが消えた不思議な体験が描かれていてこれ自体がなにかそういう手品のような感触がある。マティスの告解室の扉、検索したら確かに手拭いになってる。

オルタナ旧市街『一般』

二冊目三冊目を読んでいて著者の第一文集を読んでいなかったのだけどこれは出色の一冊。祖父の死、珊瑚の死骸でできた砂浜、ストビューに記録された母、生まれる予定だった弟や消えていく言葉たちというきらきら輝く星のごとき生と死そして生活その総体「一般」を描く。

日常を切り取るエッセイや海外・国内への紀行文、恋人のほくろから発想したようなファンタジックな掌篇、実は小説なのかエッセイなのか不分明な(第三作『ハーフフィクション』)それぞれ小さい文章が、読んでいる者のなかにも時に記憶に留まり時に忘れられる掬った砂のように流れていく。

機上から見える無数の明かりがいのちの数だとしたら、あの砂浜には幾つのいのちがあったのだろう。限りなくまぼろしに似て、それでも確かに指のあいだを通り抜けていった、うつくしい死骸たち。88P
話し終わった言葉はたましいを失なって、その瞬間ばらばらと雹のように足元に落ちてゆく。毎秒数センチ、堆積した言葉の残骸によって地表は高さを増す。街はいずれ塔のようになるだろう。98-99P
人は一生のうちにどれだけの数の言葉を発し、忘れていくだろう。忘却は救済だ。99P

という終盤の箇所に差し掛かると、誰にも記録されずに消えていくような言葉たちといったばらばらのかけら一つ一つにすべてを見てとるような、ミクロなものの大きさを描き出すような方法だなと思わされる。「一般」とは奇妙なタイトルだと思ったけれど、よく付けたものだと思った。

春の台湾留学の思い出から始まり、六月の香港旅行でデモにすれ違った話や、二十歳の頃真夏に認知症の祖父が亡くなった話、そして真冬の沖縄旅行などのエッセイは第二作の表題『往還』の要素もある。特に面白いのは自分の存在が揺らぐ描写だ。「旅先でその街の暮らしぶりを体験しようとする行為は、じぶんでないものになりきるという、極めて個人的な演劇のようだと思う。」(13P)と台湾留学の経験を語るあとに、認知症の祖父は自分のことを覚えておらず、毎回違う誰かとして認識するさまが語られているのが面白い。

ある日は「母の親友の女子高生」であり、またとある日は「祖母のパート先の同僚」、ある日は「よく遊びに来る近所の坊や」であった。別段、悲しいとも思わなかった。それよりもわたしという不変の一個人が、祖父を介することで輪郭はおろか、同時代性すら失った複数の存在に変換されるという不可思議さのほうに興味をひかれてしまっていたのだ。53P

誰でもない者になることは誰にでもなることでもある。つまり人間一般。この祖父の徘徊について、祖父の言うことを否定しないで受け入れていたらストレスが減ったのか勝手に出て行くことが少なくなっていったというのは統合失調症の対応のようでもある。

まだ誰でもない生まれてこなかった弟は、相手が誰かを認識できなくなり誰でも目の前に見出す祖父と対応しているような印象がある。「よーいどんで星までとどけ」は弟の生まれる予定が果たされなかった話だけれど、ここで「星」が定番の比喩としてのみならず、本書全体にも掛かってくる。上で引いた沖縄旅行でガイドの人から聞いた、宮古島の砂浜は珊瑚の死骸からできているという話は、星になった弟の話と続けて配置されており、重ねて読まれることが期待されているだろう。小さな命が降り積もり大きな砂浜になること、星が集まって夜空を描くこと。そうした小さいものによって大きいものが出来上がることのイメージが散りばめられており、それは短い文章の連なりによって四季をたどる本書の構成とも無縁ではないだろう。そうした仕掛けに本書の『一般』が掛かっているのではないか。実際本書の表紙デザインは星や砂のようでもある。

こう見た時、香港デモにすれ違った一節の意味もまた色々と考えられる。

本書からも幾篇か採られているという商業デビュー作。

奥山さと『ちっとも懐かしくない町』

前作よりも長めの20ページほどの短篇を主に収めた作品集。いじめっ子の帰郷を描いた表題作や卓球台と家庭の食卓を強引に重ねた「ラバーソウル」、美術部の中学生とその姉貴分の関係を描く「石工」や、孤独をめぐる「ほりほりクラブ」など、微妙な関係が面白い。

「文脈がないってことは懐かしくないってことなんだ」、というセリフの出てくる表題作のいじめた経験のある人間が故郷に帰っても色々なものから切断されてしまっている描写や、「帰れない」での同棲相手に閉め出されて回覧板を持ったまま東京まで出て来る話の戻る場所のない感じ。

「石工」は中学の美術部に入っている少年の語りで、イラストレーターをしている近所の姉貴分や部員同士の関係を描きながら、なんでもない石を形にする工程に子供たちが何かの卵だということを重ねた描き方になっていて、本書では特に爽やかな感触が良い一篇。実は部の後輩が姉貴分の妹だとわかって、妹が姉のことを「ブス」だと呼んでいて、語り手も姉貴分が美人ではないから気安い関係を続けられると思う部分はおいおいと思いつつ、妹もなんだかんだ言いながら学校でのことを姉に話しているのがわかるところは印象的だった。「世の中のかわいいものは、むかし子供がそこにいた痕跡だ」(77P)、幼くして死んだ子のために建てられたマイメロの石像から石と子供のモチーフが繋がる。作中スピッツのフェイクファーの話をしてるけど、私もこのアルバムは好きで、高校の文芸部の時「楓」をモチーフになんか小説書いた覚えがある。

「ほりほりクラブ」、「墓穴」という言葉を流行らせた子供時代のことから、恋人というわけではない男女の間柄を描いている。「死ね」や「死にたい」の代替として使い勝手の良い「墓穴」という言葉が流行った様子を描きながら、孤独とそれを癒す友達の関係がなんかちょっと、良い。ナルシストがかって「孤独」が口癖の男子が土手に立っているところを、「あいつはヨーヨーをそそくさと仕舞い、午後六時の空をすべて背負いながら、「翼が治ったけど夕陽がまぶしくて飛べねえ」みたいな顔をしながら肩をすくめてみせた。」(116P)、と描写するくだりは笑った。

「わたしは、とても孤独だ。わたしは、孤独は嫌だ。機会がくれば、誰かにはっきりとそう言う。それが墓穴を掘ることになっても、いい。好きなひとに、好きになっていくだろうな、というひとに、「なにしているの?」と呼びかけられたい。電話や手紙ではなくて、土手のうえとしたのように、ちゃんとお互いの姿が見える場所がいい。呼びかけられてそのとき、孤独がおわったと信じることが、ひとつ、身を滅ぼすことになるとしても、いい。」123P

ここはシンプルで率直で良い。

にちようだな『たなおろし 聞いてないこと』

にちようだなさんによるZINEで、ここでは聞いてないをテーマにする幾人かのエッセイや、読んでなかった本の読書会、そしてルーマニア語で小説家デビューという聞いたことがない体験をした済藤鉄腸さんへのインタビューなどが掲載されている。

前回の文学フリマでにちようだなさんと延々立ち話をしていて、そこでも思ったけれど本書を読んでも扱う話題が後藤明生、東欧とかちょこちょこかぶってて、読んでいてそこも面白かった。家族がコロナに罹っての長めのエッセイはまさに随想という感じで膨れあがる注釈も楽しい。

読んでない本の読書会は、買った理由、読んでない理由、その場で読んでみてあるいは読まなくてどうだったか、というのが話題になっていて、その本にまつわる参加者のパーソナリティが伝わってくる。本との関係をその外側からたどる不思議な面白さがある。グリオール、私も積んでる。

アーリーバードブックスの松崎元子さんが父後藤明生について書いたエッセイでは卒論についてアドバイスを欲しいと言いつつ実際には聞かなかった経験について語られていて、文学部にいながら父の作品を読まずにおり、友人に作品について質問されて困ったという作家の子の心情が綴られている。

小沼理さんのエッセイは、人から同じ話を聞かされる時、その旨指摘せずあえてそのまま聴き続けることで、適切な相づちや感嘆を差し挾めるようになりそれは二人で踊るダンスのようだ、という美しい比喩が印象的。

済藤鉄腸インタビュー、元々本は知ってて読もうとは思ってるんだけどこれを読んでもなかなか面白い。近所のフードコートでクリプキを読んでたら声をかけられて以後、その人と親友になったという話から意外性が高い。「フードコートでとなりの人の話がすごかった、という文体」を目指してる、と。特権を自覚して後ろめたくなるのではなくそれを生かすことを考える方がいい、というのは確かに、と思う。あと、本ならバーッと読めるけど映画が遅く感じるようになってきたという話は、たぶんこの人はかなり早く本が読める人なんだろうなと思った。

にちようだなさんのコロナ禍エッセイは後藤明生が引かれるように脱線しながらゆるゆると日々が語られていってて、なんとなしの面白さがある。ジョンケージの4.33秒のアプリとか、落語やトークの音声とBGMを混ぜて聞くというのも不思議だ。後藤明生とジャズを合わせて聴いてるという。

三浦祥さんのエッセイはほとんど誰にも言ったことがなかった、自分の中で物語を考え、一人で何役かを演じるという昔からの習慣について。自分はやらないけど、そう変わったことでもないかも知れない。フィクションを読むことは擬似的なその再演ではないかとも思う。

柿内正午『会社員の哲学 増補版』

自身も会社員の著者が会社員とは何かについて、「町でいちばんの素人」として自身の知見と読みかじったマルクスなど色々な参考文献を踏まえつつ「生煮えの持論を振りかざして」論じていく小著。会社を利用しつついかに全人格を預けず距離を取るか、その試み。

本書では会社員を労働力を売る「賃労働者」として定義している。この時真面目に働き過ぎることは自身の販売する労働力を自らダンピングしていくことになるわけで、働けば働くほど己をすり減らし「自己肯定感」を損なっていくと説く。現代の貧しさ、息苦しさの一端はおそらくはここにある。

僕たちは懸命に働けば働くほど自信をなくし、ますます自分を安売りするようになっていく。この社会は、そのような仕組みで機能しているのではないか。僕たちは真面目に働けば働くほど自己肯定感が損なわれていく。資本主義というシステムは、個々人の自由を保障する代わりに個々人の自己肯定感を徹底的に毀損していくような仕組みなのではないか。25-6P

土地から切り離され自由な個人として独立してしまった近代人は将来の夢、自己実現を職業の形としてしか想像できない、その貧しい自由について著者は問う。「真面目に働き過ぎないという提案」は著者自身屁理屈と謙遜するけれどもその一つの回答ではあるだろう。できるかできないかはともかく。

そして「会社」ではなく「社会」とのコミュニケーションの通路を確保すること。

勘違いされがちだが、会社は社会そのものではない。なんなら社会に参与できるものでもないかもしれない。会社の不正よりも、社会の不正に声を上げるべきだ。会社の責任をその構成員が個人として引き受ける必要はない。

責任は、会社ではなくこの生や世界に持つものだ。会社での労働はなるべく体力や気力を節約し、時に盗み取り、よりよい世界に向けての取り組みに投入しようではないか。74P

ただ、そのように働ける会社ばかりではないし、この処方は誰にでも適用できるわけではなく、そこに「素人」の思考の良くも悪くもの特性があるとは言える。ただ、一定の妥当性はあると思う。私自身も真面目に働き過ぎない、というのはずっと心掛けていることだ。休まず働いて不調になっても会社は責任なんて取りはしない。

僕が批判したいのは、個人の全人格的な規格化=ルールを全面的に内面化することであり、ルールの存在それ自体ではない。僕にはルールは可変のものだという信念がある。資本主義というシステムに問題があるとすれば、それは分配の仕組みがいまいちであることであり、この仕組みを解消していく方法を模索すべきだ。現行のルールが特定の個人に対して抑圧的なのであれば、より公平なあり方は是正していくほうがいい。システムやルールの存在自体を全面的に否定するのではなく、現状不完全な形で運用されているシステムやルールをよりいい形に変えていくことを試行した方がよいのではないか。94P

会社において「自由」な自己を実現したかのような錯覚を持ち、その延長線上に社会を幻視する限り、僕たちはいつまでも経済や政治を「自由」の原理で語ることから脱却できない。経済の場である会社では部分としてある程度の主体性を手放すこと。それは政治の場において、自分自身の当事者性や特異性をいちど括弧に入れる練習にもなるだろう。自分自身の固有性や「自由」をいちど相対化することで初めて、物質的窮乏や制度的煩雑さが、ある特定の属性をもつ個人に偏在している現状の不平等や不正義に憤ることができるし、これを改善するための議論が建設的なものになりうる。115P

管理社会とはむしろ現場のアドリブあってこそ成立するものだという指摘や会社論、組織論、そして著者が実践している日記や対話、このようなZINE活動などについてもこの思考と繋げられていて面白い「極私的サバイバルマニュアル」。コラムのゾンビ論、FateGOのネロにはまった話とかも印象的。

『HAMBURG RESTAURANT』

文學界新人賞受賞者奥山さと(板垣真任)、当時はまだ新潮や文學界の最終候補者だった文學界新人賞受賞者の旗原理沙子、ことばと新人賞受賞者福田節郎という新鋭の作家による中短篇を収めた一冊。去年の文学フリマで頒布されていたもの。

奥山さと「諸悪と根源」、大筋の話はいじめを受けたことのある高校生男子のその克服をめぐる青春小説という感じだけれど、あだ名で呼ばれる登場人物たちがどんな関係かは読んでいかないと分からない説明的でない語りで、それ故にこそぐつぐつとした心情、関係を濃密に感じられる独特の印象がある。最初から出てくる「みきし」という名前が性別年齢関係が不明瞭のまま、状況がすぐには飲み込めないような出来事が起きていて、最初はページを行き来しながら読んでいくことになるけれど、そうして描き込まれた情報がある程度分かってくると後半はグッと引き込まれるように読んでしまう。この語り、もしかしてフォークナーなのかな。人質に取られた犬にも抵抗の余地はある、と言ってこう続く箇所がある。「いや、銃を突きつけられた犬に恐怖心がないのなら人質の意味をなさないのだから抵抗になっている。」16P。なんかちょっと印象に残った箇所。

福田節郎「暴力」、兄の要請によって実家に帰ったら変な同居人はいるし兄から聞いた父の問題は外国人タクシー運転手に人種差別発言をしたというものだし、同居人は自分がしたヤバイ話をしてくるし、色々なカオスな状況を長回しの饒舌体で滔々と語っていく短篇。一筋縄ではいかない人たち。タクシー運転手に差別発言をして殴られた父に対して語り手は異様に憤りを向けていて、差別発言を繰り返させようと妙な行動に及ぶけれど、ここでの語り手の行動はちょっと不可解で、兄や妹や他人が父の世話になっている縁から自分が疎外されていることへの意趣返しが入っているような感じがある。妻にも離婚され、父が兄や妹に自分が知らないあいだに金銭なりでの手厚い支援をしているということを知らなかった語り手が、殴られても通報したりせずある程度自分の悪さを自覚してるような父を、繰り返しレイシストだと責めていくことに、一種の関係の貧困があるような。

旗原理沙子「沖の砂」、タバコを落としてぼけっとしているうちに火事になりかけて部屋に消火器をぶちまけてしまう女性の場面から始まり、この語り手はどうも色々社会生活上困難を抱えているようで、仕事も続かず彼氏の部屋に住んでいて、家事も失敗して、という生活のさまざまな厳しさが綴られていく。最初は彼氏がキレたりしててDVか?と思うんだけど、部屋に消火器を噴霧して粉だらけになったり、二槽式洗濯機を回す時に寝てしまって部屋中を水浸しにしてしまったりと、度重なる失敗を見ても別れたりしない彼氏はなかなかすごいなと思った。家電壊されてキレたり心配したり、彼氏も大変そう。それでいて語り手は母が死にたいとかいうメッセージを送ってくるのを真に受けて色々しようとするけど、同居してる弟がいて母はいつも通りだからと元気な様子を伝えてきているのは、罪責感でコントロールされていて明らかに実母にすらおもちゃにされている感じ。仕事、生活の失敗、母のモラハラ、そんな追い詰められたような状況でも、粉と水とが撒かれた部屋をピンクの砂浜のように眺め、生を保っていくかのような様子が描かれていて、ずっしりとした重さが感じられる。

最後の本書の半分ほどを占める「忘れられたくない」は福田節郎が本名名義で書いた過去作品とのことで、著者名が記されずに掲載されている。自分と同じテツロウというあだ名を持った年上の友人が自ら死んでしまった、それを知ってからの数日間の様子を描いた中篇。テツロウという友人をめぐって、酒やら恋愛やらで繋がり合う語り手の人間関係のなかでそのことが知られてからの日々が描かれていて、その死を受けとめるというか受け入れられなさも含めて饒舌体といえる文章で思索が綴られていく。グダグダとした作風そのものに死を受けとめる過程が刻まれている。

福田作ではキンミヤ(私は知らなかったので検索した)とかアンクルトリスの置物だとか、酒にまつわる固有名詞がさらっと説明なしで出てくるのがそういう文化背景を感じさせてちょっと面白い。

吟醸掌篇vol.4」

相互フォロワーさんの短篇を読もうと思って買ったけどついでに他のも全部読んでなかなか面白かった。特に栗林佐知の「蟻の王様」はしんみりしてたらこうくるか、と驚いた。短篇小説を愉しむ雑誌とのことでエッセイも短篇ベスト3とかブッツァーティの紹介とか色々と参考になる。

創作。志賀泉「爆心地ランナー」、原発避難区域に家があった高校生が、言葉も話せず家を出て泣き叫んでいた姉を父が殺したのではないかという他人の非難に抗いながら女装して爆心地を走るという行動に感情をぶつける話で印象的。歌舞伎町のゲイバーというのもコロナで疎外された場所でもあるか。

片島麦子「ヌスット透視図」、実家にいる母へ送った荷物がなくなることがあると聞いて語り手の娘が色々調べるなかで、同年代の子がいる隣家の女性からその子より受験が上手くいって憎悪を向けられた過去などが思い出され、とても微妙に生々しく嫌な感じを描いてて印象深い。

スーザン・グラスペル「黄昏どき」、この雑誌の流れで読むと急に重厚な文章になるのでおや、と思ったらやはり二十世紀初頭の小説。哲学を教えている老教師のその仕事の意味、意義が描かれていて、人に何かを伝えることに人間の不死性を見出す物語になっている。

栗林佐知「蟻の王様」、ラストで驚いたけど伏線は確かにあった。宮澤賢治のよう、と呼ばれた動物を慈しむ心を持ち道義心にあふれ菜食主義をしていた従兄が自殺したとの知らせを聞いて幼い頃に懐いていた女性がその葬儀に行く過程で想起する彼との思い出。良かった、とばかりは言えないけど。

藤本紘士「鳥の餌を盗む」、ある文芸サークルの参加者が奴隷のように働かされている技能実習生の実話だとして小説を提出してきたけれど、実は嘘が交えられていて、というところから語り手がそのモデルのベトナム人と交流が始まる冒頭がまず面白い。事実と虚構の関係が問われるのはもちろんこの小説もそうだし、クエット、グエンという技能実習生のその後は伝聞でしか伝わらない間接性にも繋がっていて、他者と関わることの限界を感じつつも日常の行動を変えていくことへと至る倫理になっていく。ベトナムの国鳥は鳩らしく、ベトナムから日本に来たということ、殺されたベトナム人が鳩に変身したという噂話、鳥になったのに行く先々でエサを盗まれるという詩など鳥に幾つものイメージを重ねて最後の鳩に流れ込んでいく。しかし日本で働くのに百万円初期コストが掛かるのに、韓国なら七万円でしかも寮費や食費は無料で最低賃金が支払われるという話は本当にひどくて、どうしようもない。

全体にコロナ禍をテーマにしている雰囲気があるのはそもそもそういうサブテーマがあったのか原稿募集のタイミングなのか。

イスマイル・カダレを読む(「幻視社第五号」より)

アルバニアの小説家イスマイル・カダレが亡くなった。
アルバニアの著名小説家が死去 イスマイル・カダレさん、88歳(共同通信) - Yahoo!ニュース

15年ほど前に『誰がドルンチナを連れ戻したか』を読んだのをきっかけに東欧文学に関心を抱いて〈東欧の想像力〉叢書その他を読みはじめ、その挙句に二年後の2011年にはイスマイル・カダレと〈東欧の想像力〉特集として同人誌「幻視社第五号」を出したきっかけになった作家だ。後に『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』にもカダレの項目を書くことになった。

イスマイル・カダレ - 誰がドルンチナを連れ戻したか - Close To The Wall
2011 幻視社第五号PDF版

ノーベル文学賞でも取ってもっと翻訳が出て欲しいと思っていた作家の筆頭だったので惜しい気持ちはあるけれども、死去を機に「幻視社第五号」で私が担当したカダレガイドの部分をこちらに掲載することにした。十数年前の時点で読めるものをある程度抑えたうえで書いたので今でも結構参考になるのではないかと思います。

なお、カダレの特集にはあと渡邊利道さんのエッセイが載っています。それと〈東欧の想像力〉ガイド全体のほうは上掲の電子書籍をチェックしてみてください。文中にもリンクしていますけれども、以下で書いた時点よりも井浦伊知郎氏のウェブサイトにはカダレ含めてアルバニア文献の翻訳がより増えていますのでご参照ください。
井浦伊知郎web


ブログ掲載に当たって適宜書影を差し込んでいます。☆マークは空きスペースに差し込まれたコラム。

はじめに

 アルバニアの小説家、詩人のイスマイル・カダレは国際的な評価は高いものの、日本での翻訳はまだまだ少ない。そのうえ、カダレを有名にした『死者の軍隊の将軍』が2009年に翻訳された以外は既訳書が全て品切れという状況にある。
 そんなカダレのさらなる読者増加を願って、本項では、未刊のものも含めてカダレの翻訳された(おそらく)全作品の紹介等を掲載し、カダレ作品へのガイドとしたい。
 補足説明として、簡単なアルバニア小史とカダレ略歴を冒頭に据えた。数奇なアルバニアの歴史自体が興味深いうえに、カダレ作品はアルバニアの歴史、政治を題材にした作品も多い。アルバニアの歴史をある程度把握しておくことは作品理解に資するところが大きいだろう。
 カダレの作品全体をつらぬくのは、アルバニアとは何か、という問いだ。

アルバニア小史 Shqipëria

 カダレの紹介のまえに、「世界一マニアックな国」「ヨーロピア北朝鮮」とまで呼ばれたアルバニアという国について手短に紹介しておきたい。以下はおおよそ『アルバニア・インターナショナル』の概説部の適宜要約なので、詳しくはそちらを参照。
 日本語の表記としては「アルバニア共和国」。正式にはRepublika e Shqipërise。通称はShqipëria(シュチパリア)となっている。
 アルバニアはヨーロッパの南東にあるバルカン半島の西岸側に位置し、アドリア海エーゲ海黒海に囲まれた小国で、アドリア海を挾んでイタリアと向かい合っている。また、モンテネグロコソヴォマケドニアギリシャと国境を接する。人口は350万人。ただバルカンの常として他国にもアルバニア人は多く居住し、特にコソヴォの人口180万人のうち、およそ九割がアルバニア人となっており、このことはコソヴォを歴史的に重要視するセルビアとのあいだで紛争を起こし、今もコソヴォ共和国の独立をめぐって対立が続いている。
 アルバニアの地は古代にはイリュリア、イリュリクムとも呼ばれ、現在のアルバニア語、アルバニア人はこの時代から続くものだとされている(カダレの作中にバルカン半島ホメロスが生まれた場所で、偉大な詩の故郷だという下りがある)。中世はオスマン帝国支配下にあり、住民の多くがイスラム教に改宗した。このこともあって、「無神国家」を経た今でもイスラム教徒が多い。ただし、戒律に対しては非常に柔軟で世俗的。
 独立運動露土戦争オスマン帝国が弱体化したことをきっかけとして始まり、第一次バルカン戦争後の1912年アルバニア独立が宣言される。
 その後、アフメド・ゾグによる王制が敷かれ、イタリアに対して政治的経済的に依存していくようになった。イタリアは1939年アルバニアを武力制圧し、ゾグ夫妻は国外逃亡した。イタリアが降伏するとかわってドイツによる支配がはじまり、これに対するアルバニア人抵抗運動が組織される。ユーゴのチトー率いるパルチザンに支援された共産党系の組織が主導権を握り、1944年アルバニア全土を解放する。戦後アルバニアに40年にわたって君臨した独裁者エンヴェル・ホジャはこの解放軍の指導者だった。
 親ソ、親ユーゴだったアルバニアは、1948年コミンフォルムでユーゴが除名されると国内の親ユーゴ派を粛正し、スターリンへ接近する。
 東欧史では大きな事件として、1956年のスターリン批判、ハンガリー革命、1968年のプラハの春チェコ事件)、そして1989の東欧革命の三つの年号が重要だと思われる。これらはアルバニアにおいても重要な転機をもたらしている。
 1956年、フルシチョフによるスターリン批判が表沙汰になり、ソ連がユーゴとの関係見直しを始めると、親ユーゴ派を粛清してまでスターリンに寄り添ったアルバニアソ連を批判、1961年には国交断絶に至り、同時に国内の親ソ派を追放する(『大いなる冬』『草原の神々の黄昏』の時期)。
 この時期、中ソ対立を背景に、ソ連と敵対したアルバニアソ連の敵、中国へと接近する。後にホジャは毛沢東文化大革命に共鳴し、国内でも宗教活動を禁止し世界初の「無神論国家」となった。1968年のプラハの春では、ワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻を批判し、機構を脱退。
 中国との関係も長くは続かなかった。中国がアメリカとの関係を深めていくとこれを批判し、1978年中国政府はアルバニアに対して経済的軍事的援助の全面停止を発表し、事実上絶縁、アルバニアは実質的な鎖国国家となる。
 米国を「帝国主義」とし、ソ連、中国他の社会主義国は「修正主義」と見なして孤立の度合いを深め、外国からの借款停止など「鎖国」と呼ばれる政策をとることになる。
 同時に、イデオロギー統制、監視に始まり、国内の至る所に塹壕・トーチカを設置し、国民に軍事教練を義務づけ、武器を配備し、国民総武装体制を敷いた。
 鎖国とは言っても最低限ながら外交、貿易は維持されており、日本とも1981年に国交を樹立している。
 1985年、ホジャの死去とともに権力はラミズ・アリア第一書記に移る。そして1989の東欧革命の波にさらされることになる。反政府デモや国外逃亡などの煽りを受け、民主化路線をとり、東欧諸国に比べればかなり遅れた1991年、ようやく複数政党制の選挙が行われたものの、従前の労働党がそのまま政権に居座った(『アルバニアの雪どけ』の時期)。
 この後徐々に自由化が進められ、労働党が政権の座を降りたものの、90年代中盤、有名な「ネズミ講」事件が起こる。国内大手金融会社による「ネズミ講」が行われ、しかも政府による黙認もあって、人口の三分の二が投資していたと言われるこれが破綻、抗議運動は加熱して反政府暴動へと発展し、アルバニア無政府状態に陥った。この事件でおよそ二千人が死亡している。
 欧州最貧国とも呼ばれたアルバニアも、いまはNATO加盟を果たし、EU加盟へ向けて努力を続けている。

イスマイル・カダレ略歴 Ismail Kadare

 1936年、アルバニアはジロカスタル(ギロカステル、ギロカストラ等とも)に生まれる。戦後のアルバニアを代表する作家として知られ、2005年には英語圏の作家を対象としたブッカー賞の国際版として作られた第一回国際ブッカー賞に選ばれるなど、国際的にも高く評価されている。
 1958年、ティラナ大学の文学・歴史学科を卒業すると、モスクワのゴーリキー文学研究所に留学する。しかし60年頃のアルバニアソ連の関係悪化を受けて帰国を余儀なくされる(この時期のことは『草原の神々の黄昏』に詳しい)。この留学での同期生に同じくアルバニアの作家、ドリテロ・アゴリがいる。
 帰国後はジャーナリストとして活動しつつ、かたわらで詩、小説を書く。1963年には「死者の軍隊の将軍」を発表し、30以上の言語に翻訳されるなど国際的にも知られるようになる。
 同郷のエンヴェル・ホジャとも親しく、作家芸術家同盟や人民議会の代議員、アルバニア民主戦線(労働党指導下の大衆翼賛組織)の副議長(議長はホジャの妻)などの要職を務め、きわめて体制側に近い知識人だった。自身も自分が反体制の人間だったことはないとも言っている。しかし作品のいくつかは発禁(『怪物』等)になるなど、保守派の批判を受けてもいた。
 90年代東欧革命の大きな流れを受けて、アルバニアでも経済的危機から民主化改革への要望が高まっていく。カダレは時の最高指導者ラミズ・アリアと接触し、改革への要望を伝えたり、党指導部への批判を行っていた。しかし改革の挫折とともにフランスへ亡命することになる(『アルバニアの雪どけ』でこの経緯を詳しく描いている)。現在はアルバニアに戻っている。

 作風は幾つかの傾向を持つものに分けられる。
 第一に、『死者の軍隊の将軍』のように、アルバニアの戦後を描いたもの。未訳のものに、『婚礼』、自伝的な『石の年代記』等がある。
 第二は直近の政治情勢を扱ったもの。アルバニアソ連の関係悪化を描いた『大いなる冬』、その状況を当時留学生だったカダレ側の目から描いた『草原の神々の黄昏』がある。未訳のものにはアルバニアと中国の関係悪化を題材にした『コンサート』がある。
 第三に、アルバニアの伝説伝承や因習を取り上げたもの。『誰がドルンチナを連れ戻したのか?』『砕かれた四月』の『冷血』二部作や、未訳のものでは『城』や、ユーゴのアンドリッチが『ドリナの橋』でも触れた橋に塗り込められた人柱の伝承をモチーフにした『三本柱の橋』がある。
 第四に、より幻想的なものや古代に材をとったものがある。オスマン帝国時代を舞台にして夢を管理する機構を描いた『夢宮殿』や短篇「凶夢」、未訳のものでは『アイスキュロス、この偉大なる敗北者』、『ピラミッド』がある。
 後に紹介する初期の長篇『怪物』はこのうち二、三、四の要素を併せ持つ作品で、カダレ世界のプロトタイプとも呼ばれているやや特殊な位置づけになる。

アルバニアとカダレ

 アルバニアといっても普通はあまりなじみがないと思われるけれども、マザーテレサといえば誰でも知っているだろう。彼女はマケドニア出身のアルバニア人だ。本名をアグネス・ゴンヂャ・ボヤヂウといい、姓は「ペンキ塗り職人」の意らしい。彼女自身はインドのほうにより親近感を持っているようで、特にアルバニアについて発言することは少ない。また、サッカーの神様と呼ばれるペレがカダレの作品を読んでいて、大変感銘を受けた、と発言したことがある。ちなみに、『砕かれた四月』がブラジルで映画化されており、日本その他では『ビハインド・ザ・サン』というタイトルになっている。他にも『死者の軍隊~』はマルチェロ・マストロヤンニ主演で映画化されている。

カダレ邦訳作品ガイド

死者の軍隊の将軍 1963

(井浦伊知郎訳 松籟社 2009年)

 松籟社の〈東欧の想像力〉第五巻。
 これ以前にも詩集の発表はあったようだけれど、小説デビュー作はおそらく本書。ただし、元々は中篇だったらしく、幾度かの改稿を経て現在のものになったとのこと。
 戦後二十年ほど経ったある国の将軍が、戦死した兵士の遺骨回収を命じられて、アルバニアの地を踏むところから話は始まる。将軍、それとアルバニア語を解する司祭の二人を中心人物として物語は進む。将軍は戦時中にアルバニアを占領していたイタリアの軍人であろうことは歴史的経緯からも確実なのだけれど、作中では一度も明示されない。作中では一貫して、将軍、司祭、技師、中将、兵隊さんといった呼ばれ方をしている。固有名で呼ばれるのはアルバニア人あるいは一部の女性ばかりだ。
 この作品が書かれたのは1963年。作中での時間とほぼ差はないだろう。二十年前という時間は、戦ったことを忘れるには短すぎ、死んだ兵士を掘り起こす作業は、アルバニア人の微妙な敵意を呼び起こす。ひどく暗い、徒労感にあふれた作品で、物語には断絶が刻み込まれている。
 戦後の二十年という時間が遺骨の発掘を難しくし、敵国同士の遺恨は消えず、生者の将軍が率いるのは青いナイロン袋に入った死者の軍隊で、言葉の壁もあり、さらには同行する司祭との仲も離れていく。この圧倒的な溝の深さには唸るほかない。死者を掘り起こし、死者の記録、村人たちの記憶に触れ、同行する男の死に見舞われ、延々と死に近づいていき、将軍はさらに自分の身長が遺骨を持ち帰らねばならぬ大佐と同じ一メートル八十九センチであることに気がつく下りは怖気を震う。かといって彼は死者ではなく、孤独のなかに突き放される。
 面白いのはこの断絶を書くに当たって、カダレはイタリア人将軍の目からアルバニアを描いた、というところだ。アルバニア人が異国に赴くというのでもなく、アルバニア人であるカダレが、イタリア人の目からアルバニアを描く、と言うひねりを加えた方法がとられている。そして描かれるアルバニアがまたなんともいえず野蛮さや後進性を強調したものになっている。
 司祭は言う。

アルバニア人というのは、粗暴で後進的な民族ですよ。彼らは生まれたばかりの頃から、揺りかごに銃を置いてもらっていて、だからこそ銃は彼らの生活に欠くことのできない部分になっているのです。
―中略―
アルバニア人はいつだって、殺し、殺されたいと望んでいるんですよ。彼らは殺し合いますが、戦う相手が誰であるかはどうでもいいのです。彼らの血の復讐について、お聞きになったことは? 36頁

 司祭はこうしたアルバニア人を蔑んだような持論を繰り返し展開する人物だ。かと思えば、アルバニア人技師が「復讐でアルバニア人の心理が説明できると思う外国人は時々いますがね、失礼ながらそんなものは、ただのたわごとですよ」と釘を刺す。
 司祭と対照的に、将軍はもうすこしアルバニアに親しもうとしている。ただそれもやはり断絶に押し返されることになる。アルバニア人の婚礼の場にふらりと訪れ(アルバニアの風習として、こういう場では身も知らぬ他人も歓迎されるものらしい)、なんとか親しもうとするところからの展開は本作のクライマックスをなしている。
 自虐的なようでいて強烈な皮肉のようであり、アルバニアの前近代性を批判しているように見えて、逆のようでもある。かなりアンビヴァレントなものが見え隠れする書き方で、国外留学組の知識人が自国を批判するというような単純なものではないだろう。これは後の『砕かれた四月』『誰がドルンチナを連れ戻したか?』あたりにも感じる。これらの作品では「アルバニア」とは何か、という問いがつねに大きな背景として存在している。自国を肯定的に見る目と批判的に見る目とがねじれて繋がっているような印象だ。『草原の神々の黄昏』も、国外留学の時の話に関わる自伝的作品で、「アルバニア」というのが各作品を貫く大きなテーマとしてある。
 トーンは常に暗いのだけれど、そのなかでも印象に残るエピソードが二つ。街に娼館ができ、そこに軍人が出入りするようになって、というものと、脱走兵が脱走先の農家に雇われて、そこの娘に恋をする話。どちらもやはり暗い結末なのだけれど、巻末の解説を読むと、娼館の話の舞台になっているジロカスタルという街はカダレの故郷で、他の作品にも同一のエピソードが出てくるらしく、これはたぶん実際の話なのだろう、と訳者は見ている。
 山岳地帯や復讐とかのモチーフが作中にさらっと出てくるところは後の『砕かれた四月』を予示しているようだ。

草原の神々の黄昏 1978

(桑原透訳(仏語より重訳) 筑摩書房 1996)

 刊行されている訳書のなかではもっとも自伝的要素の強い作品。カダレ本人と同じくモスクワに留学しているアルバニア人が主人公で、彼は『死者の軍隊の将軍』を思わせる作の構想を練っている。作中には多数の作家らが実名で登場していて、さらには中央アジア出身者、ラトビア人、アルメニア人、ギリシャ人、グルジア人など多彩な出身の留学生らが集まっていて、多民族国家ソ連の縮図となっている。
 留学生活と共に、ロシア人の女性、リダ・スニェギーナとの恋愛が全体を貫く大きな筋となっている。この恋愛はさらに、主人公が語るアルバニアの「コンスタンチンとドルンチナ」伝説をモチーフに展開していくことになる。主人公は一時の迷いからリダと別れ、友人にリダを譲り、リダには自分は死んだと伝えてくれ、と願う。そのため、リダにとっては主人公は死者となってしまうのだけれど、約束を果たすため、彼女ともう一度会うことになる。この展開は約束を果たすために墓場からよみがえるドルンチナ伝説が下敷きになっていて、作中でも自身をコンスタンチンに擬す表現がしばしば現れる。

私は、いったん口にした約束についての崇高な伝説が生きているバルカン半島のいにしえの国からきた人間なのだ。 7頁

 こうした伝説を軸にした恋愛に介入するのが当時の政治状況だ。作中では、主人公がとつぜん寮の管理人から身分証明書の提示を求められたことに始まり、アルバニアソ連の関係が冷え込みつつあることがわかるようになっている。そして終盤では、そのことを受けて、アルバニア人に対しロシア人との恋愛を禁止する通達が出されるまでになる。
 作中の時代は1958年頃、フルシチョフによるスターリン批判のあとにあたる。中盤からの主要な軸は、ボリス・パステルナークにノーベル賞が授与されることが発表されたことによる騒動だ。そのことはソ連中のメディア、そして主人公のいる大学などまでを巻き込んだ大騒動に発展し、「国際ブルジョア階級の代理人パステルナーク批判とノーベル賞受賞辞退を迫る大キャンペーンが展開されることになる。
 社会主義国家の抑圧、弾圧を如実に示すこの騒動と、アルバニアとの関係悪化とが、主人公のソ連に対する見方を印象づけることになる。タイトルにある「草原の神々」とは、クレムリンつまりソヴィエトの指導者たちのことを指している。

この連中が社会主義圏の貧相な神々なのだ。私の国を地表から一掃せんとして、その恐ろしげな頬をまさに膨らまらそうとしていたステップ草原のスキタイ人の神々よ。 198頁

 神話的な表現ながらソ連批判を示唆していることが見て取れる。そしてドルンチナ伝説を意識しながら、アルバニア人は約束を守るということを重視し、アルバニア人というアイデンティティを強く意識している。ドルンチナ伝説、またはホメロスの国という自負と、スラブ主義、ステップの神々という対立が埋め込まれている。
 このように、モスクワ留学生の恋愛とソ連アルバニア間の政治状況などが、アルバニアの伝説や神話的な表現によって重層的に描かれている。つまり現在の状況に古代の伝説をのぞき見ているわけで、中世の幻想的な物語から現代を映し出す『ドルンチナ』とは対照的な位置づけにあるといえる。
 こう見てくると、ソ連との関係が悪化し、社会主義圏での孤立の危機に立たされるアルバニア人の主人公が自身を死者コンスタンチンに擬す意味が明瞭になる。孤立しつつあるアルバニアは埋葬された死者と重ねられ、約束あるいは妹ドルンチナを求めて国外のロシア人を愛するものの、それは死者と生者という絶望的な断絶によって遮られる。
 アルバニアソ連の国交断絶は、カダレ自身を直撃したせいもあってか重要なモチーフのようで、後述するカダレの大作『大いなる冬』ではこの当時の状況を指導者に近い視点から描き出している。むしろ発表順としては『大いなる冬』が73年と先になるけれど、大幅な改稿が施されたのは77年頃なので、この時期に立て続けに国交断絶期の作品が書かれたことになる。

誰がドルンチナを連れ戻したか 1981

平岡敦訳(仏語より重訳) 白水社 1994

 『砕かれた四月』と共に『冷血』の書名で刊行された長篇。中世アルバニアを舞台に、カダレが多くの作品中で言及する民間伝承「ドルンチナ伝説」を正面から取り上げている。
 ある夜、遠い異国の地に嫁いだはずのヴラナイ家の娘ドルンチナが、ただ一人残された母親の元に帰ってきたということが警備隊長に報告される。不可思議なのは、対面した親子ともにショックで寝込んでしまったことと、ドルンチナは三年前に死んだはずのコンスタンチンという長兄に連れられて帰ってきたと主張したことだった。人々は、これはコンスタンチンが誓い(ベーサ)を果たしたのだと噂しあった。
 三年前にドルンチナが結婚相手を決める時、近い場所の相手か、遠方の国かということで論争となり、そのさい、コンスタンチンは強硬に遠方に嫁ぐべきだと主張した。そのことに不安を抱く母を説得するため、コンスタンチンは母が望む時はいつでも自分がドルンチナを連れ戻る、と約束しており、ドルンチナの帰還はこの約束を果たすべくコンスタンチンが墓から蘇ったのだと人々は受け止めた。
 これは本当に死者の蘇りなのか、それともドルンチナの誤解か狂言なのか。
 この魅力的な謎を導入に、墓からの蘇りなど信じるはずもない警備隊長ストレスがその謎を解明すべく奔走する。幾つかの説が提示され、捜査が進み、真相が明らかになったかと思うとさらに異なる展開が待つという、推理小説の形式が採用されており、170ページほどの短さのなかで間断なく物語が進行するため、非常にスリリングかつ密度の濃いものになっている。
 捜査がすすむものの、いったい誰が連れ戻したのかということがいっこうに明らかにならない状況は、次第に大きな問題へと発展していく。この頃、アルバニアローマ・カトリックコンスタンチノープルを中心とするビザンチン正教会とで勢力を二分しており、舞台となっている公国は半世紀前に正教会派になったばかりで、カトリック勢力は自派に取り戻す意志を捨ててはいない。キリスト教のもとでキリスト以外の者が復活を果たすなど、認められるはずがなく、ストレスは、いかなる方法を以てしても蘇りを否定するよう公国の大主教の厳命を受ける。死者の蘇りの噂が広まると、ローマ・カトリックに弱みを握られることになるという宗教対立の状況が事態をいっそう複雑にしていた。
 こうしてドルンチナの帰還は国家的なスケールの問題に移行する。さらに、婚姻する先は遠方か近郷かという論点は、外部とのコミュニケーションをいかに行うかという政治的な問題とも重なってくる。
 ここにおいて、この小説が中世の伝説の描写に現代の政治状況を映すような二重性において書かれていることが明らかとなってくる。主人公ストレスの思考様式もまた中世人のそれのようにはとても見えず、むしろ意図的に現代人の思考を描いているように見える。
 この小説は、コンスタンチンは母親が求めるときにはどんなことがあっても娘を連れ戻すという誓い(ベーサ)を立てたこと、この伝統的観念をひとつの国家的倫理として、「アルバニア」を立ち上げようとしている。国民国家を形成する過程で一定の役割を果たす文学を、「近代文学」と呼ぶことがあるけれど、本作にもそういう意図がうかがえる。作中でも、生前のコンスタンチンの口を借りて述べられているのは、外から押し付けられたような外的な制度ではなく、この危機的な状況においてアルバニアという存在を守るためには、誓いのように自らの中に「永遠で普遍的な機構」を作り出さなくてはならないという主張だ。
 つまり、カダレは「誓い」のこの超自然的な民間伝承のなかに、「アルバニア」という「永遠で普遍的な機構」の核を見いだしたということだろう。作中のアルバニアがおかれた状況や、コンスタンチン、ストレスの主張はそういう読み方を明らかに誘っている。
 独裁と孤立化の迫る現代アルバニアの危機において、いかにアルバニアあるべきか、という問いを民間伝承の生まれる瞬間へと時を遡って描き出したのが本作だと、とりあえずは言える。
 ただ、このような解釈は、終盤の長広舌で今作を読み解こうとするとこうなる、という体のものだ。そうした意図は確かにある(解説でもそういう読解が引用されている)けれど、小説として面白いのはもうちょっと違うところで、中世で現代を書く、というこの設定が生み出すねじれの部分だ。
 自然主義的なリアリズムをベース(とも言い切れないところがあるけれど)に、墓から亡霊が蘇って生前の誓いを果たした、というオカルト的な解釈は主人公ストレスに拒絶され続けるのだけれど、民衆の噂などのレベルでは常に優勢を誇っている。このような土俗と理性的なストレスとの対立を思わせるけれど、むしろ両者は密接に絡んだものとして現れてくるところがある。
 中世によって現代を書くために、土俗的なものをも同時に召喚してしまっている印象がある。この小説は、中世と伝承と現代などの複数のレイヤーを雑巾を絞るようにぎゅっとねじったような絡まり方をしている。ラストの長広舌のところでも、この絡まりが踏まえられていて、そう簡単に「近代国家」がどう、とかでまとめきれない複雑さがある。
 超自然的なファンタジーとまではいかず、幻想的なモチーフが現実にうすくベールのように被さるような不穏さがあり、「神話的」というより「伝説的」な感触をもつ点がきわめて特徴的だ。
 個人的には、既訳のカダレ作品のなかではもっとも重要かつ、エンターテイメント的面白さを併せ持っていると思うので、手始めにカダレを一作読むとすればまず本作を勧める。

砕かれた四月 1981

平岡敦訳(仏語から重訳) 白水社 1995

 『冷血』二部作のもうひとつ。おそらく20世紀初頭の現代を舞台にしている。高地(ラフシュ)を訪れた作家夫妻と、掟に縛られた血の復讐を遂行しようとする青年がそれぞれ視点人物となり、近代国家の管理の外にあるという風習の支配する土地を描く。
 作家のベシアン・ヴォルプシと妻のディアナが新婚旅行で訪れる高地(ラフシュ)は、「近代国家の一部を成しながら、法律も、法組織も、警察も、裁判所も、つまりはあらゆる国家機構を拒絶している」、独自の「道徳律」を持った、「国家管理の外」にあるという場所だ。そこを支配している掟は、『誰がドルンチナ~』で展開されたコンスタンチンの伝承を礎石としたものと語られる点で、繋がりを示唆している。
 『誰がドルンチナ~』について、中世の舞台に現代の問題を重ねた手法で書かれている、と書いたけれど、今作では、現代のなかに中世の掟を保持する場所が存在しているように、時間的な操作に対して空間的な操作というふうに手法を変えているのが分かる。
 もう一人の視点人物は高地の住人で、掟によって対立する一族の青年を今殺したばかりのジョルグ・ベリシャ。
 そこでは一人の客人が殺されたことに端を発する何十年にも渡る復讐の連鎖があり、ジョルグはまさにその渦中にたたき込まれたところだ。掟によって相手の一族の人間を殺さなければならないことを運命づけられ、復讐を遂げると、次は相手の一族からの復讐が待っているという血の応酬に青年は閉ざされている。ジョルグは復讐を終えると、復讐に伴う「血の税」を納めに「オロシュの塔」というところへ行かねばならない。
 小説は終始息苦しさで覆われている。掟や誓いはここでは人々を拘束する鎖のように感じられ、ジョルグはその復讐の檻の中にとらわれて決して出ることができない。だからこそ、ジョルグは一目見た外部の人間、ベシアンの妻ディアナを探し求めることになる。
 高地の掟、誓いもまた、外部の人間たちに「血の産業」と批判され、掟は変質し、血の奪還が利潤に基づく資本主義事業になってしまったと論じられることになる。事実、血の管理官と呼ばれる人物は、血の奪還つまりは復讐による殺人が減少してきたことを悲観し、一件も奪還が行われない日が来るのではないかと戦々恐々とし、ジョルグがいなければ記録上初めて一日も血の奪還が行われない日になるところだったなどと考えている。血の管理官はその外部の論説を悪書として蔑視している。
 私は「ドルンチナ」を、古い伝承に「アルバニア」の普遍を見いだす国家の立ち上げを企図したものでもあるだろうと考えたけれど、こちらはその「永遠で普遍的な機構」が時代を下るにつれて形骸化し、色褪せてしまった状況を描いているように思える。
 この二部作は同時に読んでこそ、より面白くなる。手法的な類比、主題的な類比等々、様々なコントラストを成していて、非常に興味深い。ただ小説として吸引力があるのは『誰がドルンチナ~』の方だと思うので、そちらを読んでからこれを読むのが丁度良いだろうか。
 この二作において掟とともに重要なものが、客人、外部ということだ。『誰がドルンチナ~』でコンスタンチンが妹を遠い国に嫁がせることに賛成したのは、内にこもることの弊害と外部との交流を求めたからだという。そして今作では掟の核心として、客人はもっとも神聖なものであり、どんなものであっても最大級のもてなしをしなければならず、もし迎えている間にその客人が殺されるようなことがあれば、一族を挙げて復讐しなければならないとされている。客人はほとんど神そのものとも言われている。そして、『砕かれた四月』では、高地の外部から来た人間と高地の内部の人間との一瞬の出会いが描かれる。しかし、この二作において、外に出たドルンチナ、外に出たいと願ったジョルグらには苦い結末が待っている。
 この客人に対するもてなしというのは現代アルバニアでも生きているようで、民族的風習として根強いものらしい。同時に、共産主義時代に禁止されていたこの「血の復讐」(「血讐」あるいは「ジャクマリャ」)は、政権崩壊と共に八十年を経て復活している。本作で扱った問題は、今もって復讐におびえる数千人の家族が存在している点で、過去になってはいない。

夢宮殿 1981

村上光彦訳(仏語から重訳) 東京創元社 1994

 本文によると執筆は1981年、しかし発表は90年代に入ってからだと思われる(井浦氏は発表年を95年とし、アルバニア語版wikipediaには96年の表記が認められる。本書のクレジットによるとフランス語版が90年に出ており、日本語訳書はそれに基づいたもの)。
 本書は訳されたもののなかではもっとも幻想的な作風となっており、迷宮的な不安が充満した雰囲気はカフカ的とも評された。本書で舞台となっているのは、帝国全土から夢を回収し、選別し、解釈し、特に重要なものを皇帝(スルタン)に献上する、不可思議な官庁「夢宮殿(タビル・サライ)」だ。宮殿というと絢爛なものを想起しがちだけれども、アルバニア語原題は「夢宮殿の職員」という程度の意味合いだといい、描写としても官僚機構そのものといっていい。
 この夢宮殿に、キョプリュリュ(橋の意)というアルバニアの名家の青年、マルク=アレムが勤務することになる、というところから物語は始まる。かつては何人ものオスマン帝国宰相を輩出した代々続く名家で、青年自身は名字こそ異なるものの、大臣の伯父をもち、彼らの尽力によって宮殿への勤務が決まったらしいことが語られる。
 幻想性が強いながらも、オスマン帝国治下という具体的な舞台を設定してあり、最終章では露土戦争が終わり、ギリシャが帝国から離脱、バルカン全土が独立への気運を高めている時代だと言うことが明らかになる。コンスタンティノープルが舞台だと思われるけれども、街の描写はアルバニア人にはティラナを思わせるという。キョプリュリュ家の人々はアルバニア系らしく、アルバニア系とスラヴ系の双方の武勲詩の違いが重要な意味を持っている。非現実的な設定を持ちながらも、オスマン帝国下のアルバニアという背景が意外に大きな意味を持っていることがわかる。
 さらに、これは結局マルク=アレムおよび読者にははっきりとは見えてこないのだけれど、キョプリュリュ家と皇帝他の派閥で権力争いがあるらしく、マルク=アレムはその争いのひとつの駒として宮殿に送り込まれたらしいことがわかる。しかし、彼には何が起こっているのかほとんどわからず、迷宮的な不安に襲われる。
 物語はこの青年が、夢宮殿で何故かトントン拍子に出世していくなかで、宮殿の働きがいかなるものかを知っていく、というのが主軸となっている。この異例の出世そのものがマルク=アレムには不安の種でもある。
 夢は重要かそうでないかでまず選別され、次に夢が何を意味しているかを解釈され、なかでも特に重要なものは皇帝に献上されるということになっていて、それぞれの課をマルク=アレムが勤めていく。
 統治者の運命を予想するために、古代からの夢の役割が語られ、夢解釈を制度化したものが夢宮殿だ。帝国全土の夢を精査することで、事前に危機を知ることがその大きな目的となっている。夢の解釈、というきわめて不安定なものに立脚していて、この夢宮殿の機構は「事実を基礎としない、恐るべき権力」とも呼ばれている。
 宮殿は、重要な夢の細部を夢見人自身に聞き質すのだけれど、本人にしてみればもう時間の経った夢など覚えておらず細部など調査しようがないのに、延々と拷問のごとく尋問を続けた挙げ句に棺桶になって部屋から出てくるさまをマルク=アレムは目撃する。
 夢宮殿のシステムは、夢という私的な内面をも回収監視するというかたちで、あからさまなまでに「全体主義の悪夢」をあらわしている。
 これらの宮殿の仕組みは検閲等のイデオロギー統制を悪夢的に誇張したものと考えられ、当時強まっていたアルバニアでの独裁体制の強化を背景にしたものなのかもしれない。
 当然そのとき発表することは不可能だろう。
 とはいっても、作風は淡々としており、「全体主義の悪夢」を告発するというよりは、夢宮殿であれ権力争いであれ、いずれもその核心にはたどり着けない曖昧な不安の印象が強い。アルバニア人という民族意識について随所で示唆されているあたりはカダレらしいところでもある。

短篇 災厄を運ぶ男 1985

平岡敦訳(仏語から重訳)岩波書店 1997

 岩波書店から出ていた叢書『世界文学のフロンティア』の第三巻『夢のかけら』所収の短篇。
 オスマン帝国時代、併合したばかりのバルカン半島に対してチャドル(イスラム教徒の女性が付けるヴェール)着用の勅令が出され、五十万枚のチャドルをバルカンに運ぶことになった官吏が主人公として話は始まる。
 旅の途中、バルカンでヴェールを付けない快活な美しい女性たちを見て、彼はすっかり魅了されてしまう。彼は自分が女性たちの顔を覆う五十万枚のヴェールを運んでいるということに苦悩する。『死者の軍隊の将軍』の将軍と同じように、本作も「アルバニア」を外から眺める視点から語られていて、自身とアルバニアの断絶を知る。
 また、帝国が辺境を文化的に同化する、というあたりこれはむしろ現代的な話にも思える。オスマン帝国はもちろんイスラムが主要な宗教だけれども、それ以外の宗教も、一段低い位置に置かれるとはいえその信教に対して干渉しなかったという。
 なお、勅令発布にはある人の見た夢がきっかけだとされていて、『夢宮殿』らしき組織の話が出てくるところに、作品同士の繋がりが暗示されている。

未刊作品

井浦伊知郎web
 『死者の軍隊の将軍』の訳者井浦伊知郎氏のサイトには長篇を含めたいくつかのカダレ作品(と、インタビュー等)が訳載されている。いずれも本邦初訳で単行本化されていない。ただし、最後まで訳されている長篇は『怪物』一作のみ(当時)。なお、翻訳時期は書かれていないものが多く、おそらくだいたいが90年代末から2000年代前半にアップロードされたものと思われる。それ以前にアルバニア関係の雑誌に連載していたものらしいけれど誌名は不明。当然以下のすべての著作は井浦伊知郎訳。

怪物 1965

 1965年に部分的に雑誌発表されるも発行禁止となった作品で、カダレのごく初期の作品。歴史的には、ソ連アルバニアの国交断絶以後の状況が背景となっている。このことは序盤に示唆される程度だけれど、作品全体に大きな影響を与えていると思われる。本作ではいくつもの層において、政治と外交が主たる関心として扱われているからだ。それを象徴するのが、ギリシャ神話の「トロイの木馬」で、これは表題の「怪物」の別名でもある。
 前面で語られるのは、国交断絶でモスクワから帰還せざるを得なかった留学生ゲント・ルヴィナと、恋人レナ、そして元レナの婚約者マックスの三角関係だ。婚約パーティの会場から連れ出して略奪したゲントは、マックスに恨まれていて、ここに緊張関係が生まれている。なお、レナは「トロイの木馬」という映画を見た子供たちによって、「トロイのヘレナ」と呼ばれ、そこからヘレナという通称で呼ばれるようになっている。ここで、トロイア戦争でのヘレネーと、作中のレナとは、ともに奪われた女性として二重写しにされていることがわかる。
 そして、ゲントとレナと平行に語られるのが、町の外にうち棄てられている「ワゴン車」についてだ。このワゴン車、車体部分しか残っておらず、何故か短い四本の杭によって持ち上げられたままになっているという描写が冒頭にある。冒頭では「ワゴン車」だけれど、第三章では「巨大な木馬」と呼ばれ、しかも中には数人の男たちが虎視眈々と町をにらんで、何かしらの計画を立てている様子が描かれる。その男たちのなかには、オデュッセウス・Kという人物がおり、「トロイの木馬」およびトロイア戦争を示唆している。またレナの元婚約者マックスも木馬の中でゲントに対する憎しみをふくらませている。
 この木馬の内部の話は非現実的でファンタジー的なのだけれど、その存在のおかしさ以外の登場人物たちの会話などはリアリスティックでゲントやレナのパートと比べて特別に空想的なわけではない。そして、この木馬の存在は作中では夢や幻ではなく、他の一般人たちからも認識されている。
 というように一点きわめて奇妙なこと以外は三角関係の愛憎を軸に展開されるのだけれど、もうひとつ重要なのが、ゲントが書いているギリシャ神話、トロイア戦争についての再解釈を主張する論文だ。ゲントは、「トロイの木馬」のような稚拙な作戦が奏功したとは考えづらい、として思考を重ね、最終的に実際にはトロイア内部に親ギリシャ派を形成する政治工作が行われたのだと結論する。そして「トロイの木馬」とは、「和平協定のための使節団」という策略を味方の目からも隠すためのおとりでしかなかったのだ、と。和平の調印によって油断したところに、ギリシャ軍勢力が襲いかかり、トロイアを陥落させたのだ、とゲントは解釈している。この解釈、というより解釈の姿勢や語彙は明らかに現代政治を思わせるものとなっている。
 ここでの再解釈されたトロイア戦争の経緯と、ゲントがマックスからヘレナを奪ったというトロイア戦争のきっかけを思わせる物語展開がリンクし、作中では本当にトロイの木馬が町の外れに佇んで、侵入する時機をうかがっている。そして木馬のなかの人物の夢想として、町に侵入し人々を虐殺する光景が描かれる。
 さらには、古代ギリシャを舞台にしたトロイア戦争後のヘレナとメネラーオスの様子が描かれたり、ラーオコオーンの迫害や、ホメロスに接尾辞を加えて逆さ読みしたスレモフという詩人に対する検閲、弾圧の状況が描かれるなど、非常に暗示的に現代を描いたような描写もある。
 作中では、ゲントとレナとが社会主義陣営におけるアルバニアのあり方について不安を抱いてる様子も描かれている。ソ連との関係悪化の後を受けてのことだろうか、レナは他国から見放されるのではないかと不安を語っている。「怪物」という言葉は、その流れを受けて作中に初めて現れ、郊外の「木馬」に触れつつ、あの「怪物」への恐怖におびえて暮らすのか、と語る部分がある。
 何かしら明確に政府を批判している、という感じはしないけれども、トロイア戦争トロイの木馬、などを現代的に読み解きながら、トロイアの滅亡を示唆しつつ、アルバニアという小国が孤立することのへの不安が表れているのだともいえるかもしれない。
 神話、幻想、政治状況などが絡み合ったやや複雑な作品で、後の作品の全ての萌芽があるプロトタイプという評価があり、初期の重要な作品と見なされている。実際、ここでのトロイア戦争の現代的解釈は、「ドルンチナ」での演説がきわめて現代政治的な言葉で語られていたことを彷彿とさせる。
 井浦氏のサイトにある未刊の翻訳としては唯一完訳されている作品で、なおかつ神話を題材にして幻想が入り交じり、全体主義国家の不安が描かれている作風は、『誰がドルンチナ~』や『夢宮殿』とも通じる。

大いなる冬 1977

 1973年『大いなる孤独の冬』として発表されたものを増補改訂したもの。
 カダレの最大長篇。訳出されているのは第二部までで(執筆当時)、それでもおよそ六百枚ある。もっともリアリズムに徹した作品で、1960年頃のソ連アルバニアの関係が悪化していく状況が描かれる。人々の生活から指導者同士の会談の様子と、上から下まで総体的に描き出そうとした野心的な作品。
 主人公はいるものの、視点人物はさまざまに転換していき、ドキュメンタリーの要素も併せ持っている。フルシチョフとエンヴェル・ホジャとの会談の様子が具体的に描かれる部分では、実際に行われたやりとりも取り入れているらしく、歴史的状況を事実に即して描こうともしている。
 第一部では、元パルチザンの父を持つ主人公ベスニクと閣僚の父を持つ婚約者ザナ、そして著名な作家などを含む両家族の交流や、人々の生活の様子が、アルバニアソヴィエト友好月間らしい街とともに描かれている。そして第二部でベスニクはエンヴェル・ホジャの一行に同行し、モスクワで行われる会談での通訳という大きな役割を担うことになる。
 大きな話題となっているのは、ソ連アルバニアの関係悪化についてだ。ソ連共産党による中国共産党批判に対してアルバニア労働党代表が反対したことによって、ソ連アルバニアに対する穀物輸出を停止した。このことが両国間において軋轢を生み出し、社会主義ブロック内部でのアルバニアに対する圧力がかけられることになる。ポーランドのゴムウカやチェコスロヴァキアのノヴォトニーなど、当時のトップらが実名で登場する。
 ホジャはソ連に対する家父長的態度などに反対し、

我々は団結という名の下での屈従を受け入れることなどできないということだ。

と宣言する。その後の会議では他国の代表らからさまざまに糾弾が行われ、小国アルバニアは徹底的に攻撃される。このあたりは『草原の神々の黄昏』でのパステルナーク批判を想起させる。
 この致命的な関係悪化を受けてベスニクはアルバニアへと帰国する。『大いなる冬』という表題の言葉はこのときはじめて作中に顔を出し、社会主義ブロックから見放された不安と失望を思わせる。このニュースはまだアルバニアでは知られておらず、意気消沈した様子のベスニクを婚約者のリダが心配しているところで、第二部は終わる。
 これ以降の展開は不明だけれど、国外留学者の個人的視点から眺めた『草原の神々の黄昏』と、ジャーナリスト、通訳、国のトップらの会談など政治的状況をも含んだ描写がある本作とで、いわば相補的にソ連との国交断絶にいたるまでを描き出している。カダレ自身アルバニアを誇りに思い、小国を襲う運命を悲劇的に描き出しているのがわかる。
 なお、この作品によって権力側の反感を買い、筆を折ることを示唆されたという。

短篇 凶夢(まがゆめ)

 同名短篇集の表題作。ゼウスによって出された使いが、歴史上のさまざまな人物にインスピレーションを与えるという筋書きで、使いがダイダロスとダンテを取り違えてしまったとか、作中にさりげなくカダレ自身の名前を挿入するなど、一種のコメディ的作品。

アルバニアの雪どけ 1990

 フランス亡命後に発表された著作。1989の東欧革命を受けて、アルバニアでも民主化の波が訪れたものの、それが挫折し、民主化推進を支持していたカダレ自身が亡命せざるを得なくなるまでが描かれている。サイトに掲載されているのは三部構成のうちの第一部までで、ちょうどフランスに亡命するまでの経緯が書かれている。
 体制側に近い知識人だったため、当時のトップだったラミズ・アリアに対して直接進言したり、書簡を送ったりして、改革に大きな影響を与えたことが書かれている。同時に、アルバニアの秘密警察「スィグリミ」による不断の工作やいやがらせなども書かれており、カダレが当時のアルバニアでどのような状況に置かれていたかがわかる。さらに、当時のアルバニア国内での民主化運動とその弾圧、流血の惨事に至るまでの経緯も述べられ、東欧革命についての著作でもほとんど触れられることのないアルバニアでの民主化の経緯がかなり具体的に知ることができる点で、非常に貴重な著作となっている。
 また、『草原の神々~』ではソ連を追われるように帰国する主人公は、この著作ではアルバニアから追われるように国外へ亡命するという鮮やかな逆転を生んでいることが運命の数奇さを感じさせる。

 参考文献
(カダレ特集の東條担当部分全体の参考文献)
井浦伊知郎『アルバニア・インターナショナル』社会評論社 2009
同「イスマイル・カダレ『死者の軍隊の将軍』に見る戦後アルバニア広島文教女子大学紀要43 2008
同「「トロイアの木馬」異聞――イスマイル・カダレ『怪物』におけるホメーロス解釈」広島文教女子大学紀要44 2009
(「HARP 広島県大学共同リポジトリhttp://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/ より閲覧可)
岩田好司「イスマイル・カダレとアルバニア : ドルンチナをめぐる変奏」久留米大学外国語教育研究所紀要6 1999(「Cinii論文情報ナビゲータ」http://ci.nii.ac.jp/ より閲覧可)

☆カダレとフランス

 カダレはフランスと縁が深い。亡命先もそうだし、カダレの全作が訳されているのはフランス語のみだ。日本語訳も多くが仏語訳からの重訳となっていて、加藤周一などもこの仏語版を読んでいる。そしてこのほとんどすべてを訳しているのがユスフ・ヴリオニという人物だ。じつはこの人物、独立初期のアルバニアで三度首相を務めたイリャズ・ベイ・ヴリオニの息子。パリで青年時代を過ごした後アルバニアに戻ったのだけれど、フランスのスパイと見なされ拘留ののち「国内流刑」となり、そこで翻訳者として生計を立てることになった。『死者の軍隊~』で高い評判を得てから、ほぼカダレ専属訳者として活躍する。なお、『誰がドルンチナ~』あとがきによると、カダレにフランス語を手ほどきしたのはこのヴリオニだという。

死者の国から

 ここでは、作品紹介の項では触れられなかった幾つかの点について書いておきたい。
 カダレの小説のなかでは常にアルバニアという小国の運命が問われている。現代史を扱った作品でも、中世を扱った作品でもそれは変わらない。その作品群のなかで、重要な意味を持っているのが墓場から蘇ったコンスタンチンが誓いを守るために遠方に嫁いだ妹ドルンチナを馬に乗せて帰ってくるという、「ドルンチナ伝説」だ。これは『誰がドルンチナを連れ戻したか?』で全面的に扱われているけれども、『草原の神々の黄昏』でも、主人公が自身をコンスタンチンに擬す記述が現れる。その他にもカダレはしばしばドルンチナ伝説に言及している。
 なぜ「ドルンチナ伝説」が重要なのか。それは『草原の神々の黄昏』の項でも書いたように、ソ連との関係悪化のために社会主義圏で孤立しつつある小国アルバニアを墓に閉ざされた死者コンスタンチンになぞらえることで、ドルンチナ伝説を現代アルバニアの危機として読みかえているからだ。ここにいたって、ドルンチナ伝説はきわめて政治的現代的な意味を持ちはじめる。
 この点に関しては既に岩田好司の『イスマイル・カダレとアルバニア―ドルンチナをめぐる変奏―』という論文が詳しく述べている(紀要論文だけれど、ウェブで公開されている)。その論文では、『誰がドルンチナを~』と『草原の神々の黄昏』の他に、独裁体制の強まる時期に書かれたため弾圧をおそれてパリの貸金庫に隠され、もしもの時に出版されることになっていたといういわくつきの長篇『影』をもあわせて論じている。鎖国体制への批判がきわめて率直に描かれているらしい『影』では、フランスの女性をどうやって獲得するか、という物語が主軸となっている。この恋愛がやはりドルンチナ伝説と重ねられており、著者は墓に閉ざされた死者が蘇るために生者との交渉を求める物語という読解を提示している。また同時に、鎖国状態にある閉ざされた国アルバニアが、ヨーロッパと再び出会い、解放されることを含意しているとも。

さまざまな事情があって、私はシルベーヌと親密になれずにいたが、それは祖国アルバニアが世界中から孤立していることの一端をなしており、だから、このアバンチュールは宿命的な性格を持つことになった。私のこの宿命に打ち勝ち、運命の国境を超えなければならなかった。自己の民族に降りかかった呪いを振りはらおうとする者のように、「鎖国」を打ち破り、「東(欧諸国)」を脱し、私のヨーロッパ的存在になおまとわりついているアジアの束縛から解放されなければならなかった。 『影』前掲論文より引用

 このあまりにも直截な表現は、さすがに検閲時代の諸作には伺えないものだ。カダレの諸作に横たわるあの出口のない不安感は、鎖国体制と、そのことに表だって言及することのできない独裁体制という二重の閉鎖性から滲み出たものだとも言えるだろう。
 同じく、未訳作品に『三本柱の橋』という作品がある。これは旧ユーゴの小説家アンドリッチも『ドリナの橋』(『草原の神々の黄昏』の序盤で、語り手がアンドリッチを高く評価している記述がある)の冒頭で取り入れていた、人柱として橋に埋め込まれた人間、についての伝説を題材にしているようだ。アンドリッチのものでは、人柱の双子に隙間から乳を与える母、という筋書きだったけれど、異聞も多く存在し、カダレの採用しているものはこれとは異なるらしい。
 この伝説も、何かに閉ざされた状況という意味では「ドルンチナ伝説」と通じるものがあり、『草原の神々の黄昏』で「ドルンチナ伝説」と同時に語り手の脳裏に浮かんだものとして触れられていた。
 このようにしてカダレは幾つかの作品において、アルバニアの閉ざされた状況をバルカンの伝説になぞらえて描いていることがわかる。このとき、アルバニアは人柱であれ死者であれ、そのような存在として喩えられている。ではその閉鎖状況において、もっとも重要なものは何か。カダレが自国を閉ざされた場所として描くわけだけれども、その状況において物語を駆動するものとして現れるのが、外部から内部へ、あるいは内部から外部へと境界を越え出る「使者」だ。
 カダレはその作品のほとんどにおいて、主人公あるいは語り手を「使者」として設定している。『死者の軍隊の将軍』では外国からアルバニアにやってくる将軍を、『草原の神々の黄昏』ではアルバニアからモスクワへ留学した学生を、『砕かれた四月』では「高地」の外からやってきた作家夫妻を、『夢宮殿』では新しく勤務することになった新人、「災厄を運ぶ男」はアルバニアへとチャドルを運ぶオスマンの官吏を、『大いなる冬』ではベスニクは通訳としてホジャらとともに使節団と同行してモスクワへと赴く。『誰がドルンチナを~』は主人公ではないけれど、遠くから帰ってきたドルンチナが、『怪物』ではトロイの木馬使節団というのが核心となり、どちらも「使者」が重要なのは変わらない。
 これらの使者はしかし、多くの場合出先で大きな断絶に直面し、苦い結末を迎えるばかりだ。これが鎖国状況下でのカダレが直面していた断絶でもあるのかもしれない。このことと併せて特徴的な点として、カダレ作品のなかでは、しばしば秋から冬にかけての季節が舞台となっている点だろう。『大いなる冬』という題もそうだけれど、とにかく多くの作品での舞台は次第に寒さを増していく時期に設定されている。この時季設定の意味するところは言うまでもないほど明瞭だ。
 そしてきわめて運命的なのは、こうした状況を何度も小説として描いてきたカダレ自身が、90年代の民主化の挫折のなかで、死者の国から使者として国外へ亡命せざるを得なくなったことだろう。最近はカダレもアルバニアに戻っているようで、鎖国体制の終焉とともに作風がどのような変化をしたかあるいはしなかったのか、興味のあるところだ。
 ついでに書いておくと、歴史的政治的状況を死者と使者の伝説として描き出したカダレに対して、後述する旧ユーゴ、セルビアの小説家ダニロ・キシュはアウシュヴィッツで消えた父親を描いた三部作をはじめ、つねに歴史のなかの個別の死者について書いている。初期にはアウシュヴィッツ強制収容所を舞台にした作品を書き、三部作を書き、さらに短篇集『死者の百科事典』、そしてボルヘスの汚辱の世界史へのオマージュとして書かれたスターリンによる粛清をテーマにした作品集『ボリス・ダヴィドヴィチの墓』というように、キシュの多くの小説は歴史と死者というモチーフに貫かれている。キーワードとして並べてみると共通するところもある両者だけれど、その扱いは大きく異なっていて、その対比も面白い。

武井杉作監督 映画『与那国』について


埼玉県川口市の映画館&バーの第8電影で五月三十一日、六月二日、三日に上映された武井杉作監督の映画『与那国』(2008年作)を見てきました。

武井さんは私の和光大学時代同じ創作講座の授業を受けており(講師は寮美千子さん)、そこで知り合ったメンツで作った幻視社の創刊メンバーでもあって、試作版を18年前に見ているのですけれど今回正式版を初めて見たことになります。不意に死を迎えた友人をめぐる家族、友人、監督自身を撮影したドキュメンタリーです。試作版は90分くらいあったのかな、それをより切り詰め編集し直したものが正式版とのこと。

映画は、武井さんの高校時代の友人で一緒にシュールなコントなどを撮っていた菅谷周さんが急死され、その四十九日近辺に家族への取材したり、菅谷さんが通っていた飲み屋で関係者を集めての会を撮影した映像に、過去武井さんが菅谷さんと撮っていた映像を交えて進んでいきます。

20歳ちょっとで亡くなった彼について語る母、父、兄のなかで、特に母は息子の死を悼み、悔やみ、不登校だった学校での対応に憤り、部活でいじめていた自分も死の遠因だったかも知れないと申し出た級友に知ってることを全て教えて欲しいと頼んでいます。欠落を埋めようとする怒りに近いものがある。

対して兄は、弟の死を言語化できない、したくないということを繰り返します。いじめ、不登校、自殺未遂、統合失調症、そして盲腸による敗血症で死去する彼の人生に起こった出来事はそれぞれ偶発的で、ある程度関係してはいても因果で結びつけられないものだという態度を示します。兄はそして、つらい時期もあったけれども概ねの期間は彼は幸せだったのではないか、と言います。菅谷さんはちょっと変わってると皆に言われていて、内面の抽象性を言語化するのに不得手でそれに苦しんでいたということを監督も言うのですけれど、苦悩し苦しんだという見方から兄は距離を取ります。

映像的に、母と兄の菅谷さんへの態度は対比的に編集されています。物語化に対する態度の違いと言い換えても良いでしょう。因果の流れを必然のものとしてしまうと早世した菅谷さんの生はどうしても負の方向へ引きずられてしまうことを兄は分かっているのだと思います。しかしこの双方の態度は誰かの死を体験した誰もが共に持っているものかも知れないとも思います。監督も当初はある怒りに近い感情で突撃的に映像を撮っていたのが、兄のインタビューでの言葉に影響を受けた、ということを語っていたように、本作にはその双方の要素があるとも言えます。

菅谷さん宅の遺影のある壁には彼の好きだったという絵「与那国」が飾られています。そしてそれを映そうとするカメラを構えた監督自身の姿が額縁に反射して映り込んでいる。死んだ人について語ることはその人の死者への態度を映し出す鏡でもある、そのことを示す今作のハイライトとも言える絵です。

物故者を偲ぶ普通の家族、普通の友人たちの姿を記録し、それを撮る自身の姿も映像に残す。ここにはある具体的な一つの死を通じて、誰もが体験する死別ということの普遍的な何かがある、そう思える映画でした。私も初見から今にいたるあいだに一人友人を亡くし、また違った感慨を得ました。印象深い一作です。


映像について印象的なのは、家族や友人等が集まった居酒屋のシーンでいじめに加担していた級友と母親が対峙している場面と、その隣で兄に菅谷さんはどれだけ兄を自慢していたかと泣きながら伝える友人という場面が同時発生していて、カメラがどっちを撮れば良いのかと迷ってるような絵が面白いんですよね。偶発性の映像。

またここでいじめていたという級友が母の問いに答える場面にフォーカスしていく時、たぶんまわりの音に対して訥々としたか細い声が録音されるのか不安になったんだと思うんですけれども、級友の口元に異様なほど近づいてるところがなんとも印象的なんですね。ほぼ口しか映らない絵になる。

というのが当日上映会後に交流会としてそれぞれ感想を語ったときに私が言ったことと言わなかったことを後から思い出して書いたものになります。監督が最後に自作の歌を披露していて、それが本作のスピンオフというか菅谷さんとの思いを歌ったものだったのがなかなか良かったです。


映画館支配人の本作の上映に至る経緯や、監督の撮影・編集日記も参照。
【傑作ドキュメンタリー】映像のあわいに浮かび上がる「魂」 ーー武井杉作『与那国〜それぞれの四十九日〜』【当館にて上映】|映画館&Bar「第8電影」

以前に見た時の私の感想。
「死ぬということは偉大なことなので」 ――杉作「与那国」 - 「壁の中」から

岡和田晃編、山野浩一著『レヴォリューション+1』

岡和田晃編、山野浩一著『レヴォリューション+1』、ゲリラたちによる闘争が永遠に続く不可思議な都市フリーランドを舞台にする、稀覯書として知られていた連作集に、フリーランドが出てくる外伝的な一篇「スペース・オペラ」を加えて編者による解説を付して復刊された一冊。

この都市がいかなる状態か誰も知らない。
この都市にいくつの軍が存在するのか誰も知らない。
この都市でどの軍が優勢なのか誰も知らない。
この都市を統一することは誰にもできない。
この都市を完全に破壊することも誰にもできないだろう。
この都市に地図はない。
この都市には秩序もない。
この都市にはいかなる機能もない。
しかし、この都市には多くの名がある。18P

冒頭の一篇「レヴォリューション」はユートピアの提唱者トマス・モアを踏まえた南米の「モア国」でカストロ大統領がゲバラを呼んで革命を起こすも、完全に管理された社会でその革命もコンピューターによって準備されていたというユーモア掌篇ともいえる作で、この循環的な構図は全体の縮図でもある。

あるかないかも分からない軍、外の世界がないかのような空間。大統領候補とも言われた政治家の父を殺された少年がその殺した側のゲリラに身を投じる「国家はいらない」はじめ、収録作の多くはこうしたSF・幻想小説的な設定、循環的な構造を備えた作品としての面白さがある。分身、平行次元を思わせる「土人形」や「戦場からの電話」などのショートショートに圧縮された面白さというのもそう。一見アイデアストーリー的だけれども、収録作の多くが主人公が最終的にゲリラに身を投じる流れになっており、連作でその展開を執拗に反復している。この円環・循環的な構造はrevolutionという単語に革命の他、回転、旋回、周期、循環、一巡という意味があることと無関係ではないだろう。地球の公転もrevolutionだ。レヴォリューションは語義そのものに永続革命を胚胎させているとも言え、今作はそれを営々と書き続けているように見える。

「つもりがなくても権力は生まれるものよ」166P
「国家とは何と恐ろしいものだろう。平和とはこんなに恐ろしいものだったのか!」72P

人が二人いれば権力は生まれるというように、「平和」「国家」「権力」が生む抑圧に対する永遠に終わらない戦いを描いている。あるいは国家、社会、権力、自由をめぐる個人に立脚した批判・抵抗は常に続けられなければならない、という寓話と読むと優等生的、現代リベラル的な読解かも知れない。そうも読めるとは思うけれども、しかし本作はそうした穏当さからはみ出した危険さがあるのも確かだ。

全フリーランドの兵士諸君! 再び銃を持って戦おう。ゲリラにとって終戦はない。全ての権力は敵であり、全ての社会の存在は敵である。ゲリラには常に新しい敵が待っているのだ。ゲリラは戦いだけに生き、戦いによって死なねばならない。誰もがそう決意したはずだ。173P

営々と内ゲバが続き同士討ちを繰り返す「フリーランド」は、そうした組織が陥った帰結を受けとめたものとも思える。解説で背景情報が参照されているけれども、当然同時代的な政治状況は勘案されているだろうし、そもそもこうした幻想的な作風は現実での状況を受けてのものではないか。革命が実現しうるということを信じられるほど夢想的ではないけれども、革命への意志を諦めるほど絶望的でもない。しかし革命は無限の遠方にあり、いつまでもたどり着けない。この幻想的革命小説は現実と幻想のズレ・狭間にあるわずかな部分を執拗に描き出そうとしているのかも知れない。

そのあたりのことは最終篇「レヴォリューションNo.9」の「h 革命幻想」にこうある。

今にして思えば、あまりにもナイーヴなロマンチシズムで恥かしい限りだが、革命への志向がロマンチシズムによって育てられたものであることは今も否定できるものではない。当時の私たちにとって革命は遠い世界のものであり、夢の国での冒険でしかなかった。私たちはその国をフリーランドと呼んでいた。274-275P

もう一箇所、今作の核心と思われる一節が「レヴォリューションNo.9」の冒頭にある。

革命というものは実現しなければ夢のようなものでしかない。すでに六〇年の安保闘争も、六七年頃の学園蜂起も全て見果てぬ夢となっており、今となっては革命を夢想したこと自体アナクロニスムとしか思えない。たぶんそうなのだろう。革命はアナクロニスムを背負っているのだ。もし、革命が成立すれば、革命以前の全ての存在がアナクロニスムとなり、それまで夢想であったものがリアリティを獲得する。革命はその時代断層を生む時間の地すべりのようなものだ。260-261P

革命と夢と現実とをめぐるこの思索は今作がこのようなSF的・幻想的構造をもって書かれていることの根底だろうか。循環的時間構造を持った短篇が多いのもこの「時間の地すべり」故だろうと。脱政治的というよりも革命には幻想性が否応なく抱え込まれているということなのかも知れない。つまり革命の幻想性を通じて幻想の革命性を証し立てようとする、というと言葉遊びめいてくるけれども。くだくだしく書くまでもなく、解説に引かれている山田和子の「現実と理想の関係性を、幻想革命というファクターで見事に通底させたSF連作集」353P、が要を得た評だろう。

「革命狂詩曲」の末尾に、本書の帯にも取られた一節がある。

世界の革命家よ! 孤立せよ! 157P

労働者は連帯し、革命家は孤立せよというのは連帯や集団あるいは権力がもたらす内ゲバの暴力に対する抵抗手段として、そして書物を読むという孤絶した営みに対する希望としてあるのではないか。そこに今作がこのような小説として書かれた意味があるのかも知れない。

最後の「スペース・オペラ」まで読むと、現実と幻想、内宇宙の関係が思ったよりも本篇と密接な関係を持っているように感じられるけれども、そこら辺はうまく言語化できていない。現実と幻想、そして共同体内部での殺し合いといえば『花と機械とゲシタルト』もそうで、『レヴォリューション』と実はほとんど同じものが根底にあるのではないか。この二作の関係も案外に込み入ってる感じがある。

いつも通り解説も充実しているけれど、一点「土人形」のゴーレムがユダヤの伝説に由来するところから、この土人形と人間が入れ替わる話を、イスラエルによるパレスチナ虐殺を踏まえてそれを逆転させる仕掛けではないかと指摘するところは面白かった。パレスチナを蹂躙しているのは国家のない民族によって作られた国家なわけで、「国家はいらない」という作品もある本書においてはそういう含意を読み込むことも可能だろう。権力、社会、国家に対する抵抗運動の原理的なメカニズムとしての永久革命

レヴォリューションNo.9」のラストで主人公が、自分が兵士とならなかった口惜しさを吐露するところ、作者の心情を読み込もうとするのは如何なものとはいえ、この連作が描き続けられた理由として説得されてしまうところもある。

日常性に対するこの形容が印象的だった一節。

完全に日が暮れると、道にはリュウグウノツカイが泳いでいるように、うねうねと懐中電灯の列が続いた。人々は殆ど口を開かず、こうした事態が当然予想されたものであるかのように歩き続けている。或いは彼らの意識の中にも迷いがあるのかもしれない。だが、おそらく大部分の人々は革命を別世界のできごとのように受けとめようとしているのだろう。ずっとそうしてきたし、今もそうしている。今後もそうするというわけだ。彼らは次にどのような政府が生まれてもそれを受け入れることだろう。彼らの仕事があって、家庭がある限り、このリュウグウノツカイの潜む深海から出ていかないのだろう。295P

後藤明生を読む会編『後藤明生を読む』

後藤明生の教え子で後藤研究の第一人者というべき乾口達司さんらによって関西で2009年から行なわれてきた読書会の15年越しの成果となる一冊。論考、討議、ノート、エッセイ、創作のほか、後藤の弟さんによる引揚げ体験記や、後藤の学生時代の詩も収録されている。Amazon楽天のプリントオンデマンドおよび電子書籍での刊行。

乾口氏のブログで論集刊行を目指して会合が開かれているのは随分前から知っていて、学術誌の研究動向の記事でも触れられていたものがようやく活字化されてまさしく待望のもの。刊行までに時間がかかっており、企画立ち上げから関わってた人など何人か既に亡くなってもいる。弟さんや娘さんのエッセイ、後藤本を出した編集者のほか、そうした物故した参加者の文章も収められており、会の長年の活動の一つの記念碑となっている。会員が九州は後藤の母校への訪問で見つけた初期詩篇の収録と解説などもたいへん貴重な業績と言える。

ただ、収録した文章の多彩さに比して論じる対象作品に偏りがある。各論考は精緻に掘り下げて面白いけれども、その分まとまって論じられているのが初期短篇と『夢かたり』、『挾み撃ち』に留まっていて、80年代以降の作品がない。また全体像をフォローできる概説があればと思う。現時点で400ページを超える分量なので苦肉の目次かと思われるけれども、マイナーな作品に照明を当てるような文章が欲しいとも思う。しかし初期作品に偏っているのは続篇の論集を目してのこととも思われるし、本書はまだ成果のほんの一角だろう。だからこそ是非とも続篇の刊行を願う。

読んでいて発見だったのは、乾口氏と同じくらいの本数を書いている来多邨平という1950年生まれの会合参加者では最年長の書き手で、読む会においても中核をなす人物かと思われ、論考のレベルも高くて、乾口氏もそうだけれど後藤明生で一冊くらい充分に書ける人なのではないか。来多邨氏、この生年で元出版社勤務と言うことは後藤明生の原稿を取ったりしたことがある人だったりするんだろうか、と思った。まあそれはどうでもいい話。

詳細な目次はこちらで見られる。
後藤明生を読む会編『後藤明生を読む』目次: 乾口達司の球面体日記
後藤明生を読む会

以下各篇について。

論考

●乾口達司「Sの誘惑――「S温泉からの報告」における温泉の<効用>」
「S温泉からの報告」を、温泉文学という点で川端康成を召喚しゴム管を加えた者同士という見立てを踏まえつつ論じながら、Sの字を描くようなさまざまな揺らぎを見出し、同時代のカウンターカルチャーとの関係を見る論考。温泉の水を飲んで健康になったかと思えば下痢として排出される水の両義的なエレメントをカウンターカルチャーへのアンビバレントな態度として見つつ、それは「文学」への態度でもあるとしてその距離を測定し、川端らの温泉文学の伝統からの切断を見出してもいる。水への着目が実は後半の後藤長女のエッセイとも共振する奇遇があるのも面白いけれども、同時代の政治運動との関係としては「ある戦いの記録」というあからさまな政治運動のパロディでもある短篇はどう位置づけられるのかは気になった。

●甲木文武「「書かれない報告」論 <物語ること>について――無名氏というメディウム――」
後藤の楕円の思想を検討しつつ、エッセイ「円と楕円の世界」は三島由紀夫の自決を踏まえて書かれているけれども、実際に三島の短篇「荒野より」との比較を行なうところがとても興味深い論考。

「喰い違いや勘違いによって支配されること」がおそらく、後藤にとっての規則性を超えた「創造的必然性」であり、〈運命〉への対抗となる。「言葉が他の言葉と自由に戯れ、結合し」、〈物語ること〉が駆動すること。そして、言葉に逢着することによって記憶が遡及的に浮き彫りになること。このパラドキシカルな構造において、都度、虚実の不可分な界面に組成される語り手を、後藤は自己として定位した。88P

ここのくだりが印象深い。本書で唯一拙著も引かれている論考だった。

●来多邨平「記憶、断片――『夢かたり』をめぐる断章」
『夢かたり』を「「思い出」という名詞(いわば絵画的)というよりは、むしろ「思い出す」という動詞(いわば音楽的)をめぐって書かれた本」105P、と指摘してその想起のありようを丁寧にたどっていく論考。小説の叙述をたどって、語り手が強く覚えている「天狗鼻のアボヂ」のことを再会した級友が覚えていないという記憶のズレについて、「キンソーナー」と「天狗鼻のアボヂ」を混同した上にアボヂを強く覚えていたのは芥川の「鼻」と関連して印象づけられていたからだ、と推測するところは面白い。注釈において、戦前は平凡社の『書道全集』には「中国編」「朝鮮編」「日本編」の三部構成だったのが、戦後版では「朝鮮編」が跡形もなく消えてしまっているという朝鮮の消去について触れている箇所も興味深い。

●松井博之「『行き帰り』について」
立ち上げから関わっていたという新潮新人賞評論部門受賞者のメールに乾口氏がコメントを付けた記事。『行き帰り』の紫陽花が100ページほどあいだを開けて出てくる、明確に思い出せないけど知ってる、そういう既視感を与える仕掛けについて書いている。そしてこの文中にある大森荘蔵吉田健一の時間論について対面時に本人が語っていたことを乾口氏が補足している。また松井氏は小島信夫に入れ込んでいたといい、「小島信夫後藤明生」というテーマで論考を書こうとしていたということを伝えている。これは書かれて欲しかったテーマだった。

共同討議

●乾口達司、来多邨平、小林幹也、竹永知宏「『挾み撃ち』をめぐって」
よく読むと『挾み撃ち』には現在時と思われる時間軸が二つあるという事実を指摘し、語り手の素性や、同じことについて書いてもその都度微妙に異なっているなど、語りの場当たりさやいかがわしさに注意を促す。乾口氏が証言するところでは、「ある日のことである」という書き出しは芥川の「蜘蛛の糸」の「ある日の事でございます」を踏まえたものだという。お釈迦様に導かれて生まれて初めての書き下ろし長篇小説を完結させられますようにと言う願いを込めたと。これは知らなかった。竹永知弘は『挾み撃ち』がさまざまな文学的引用で出来ているのは、60年代に文学全集が出揃っているのが重要ではないかとし、「円本とはまた違って、文学全集というデータベースが完成した上で出て来た世代というのが内向の世代であったといえるのではないでしょうか」190P、と指摘している。来多邨氏は『挾み撃ち』の題名について、「挟」は1946年の「当用漢字」に含まれておらず、手書きで「挟」と書いていても「挾」と表記せざるを得なかったらしく、その後「常用漢字」に入るのは1981年になってからなので『挾み撃ち』はそのあいだの「狭間」の題名だと指摘しているのが面白い。

ノート

●来多邨平「『夢かたり』の彼ら――本田君・家族ぐるみ・萩原恭次郎
『夢かたり』を子細に読み込み、特に「高崎行」の萩原恭次郎の詩碑の「誤引用」に語り手の心情が刻まれていることを指摘し、記憶のあやふやさを状況ごと記述することで記憶の変容を込みで語る後藤の手法を分析している。

●乾口達司「永興神社と永興天主教堂――永興・南山と後藤明生――」、後藤の曽祖父が建てたという永興神社の記録を朝鮮総督府の官報などから見つけ出したり、また幾つかの小説に出てくる「ドイツ人神父」を「グ、ステゲル」と推測し彼が北朝鮮に逮捕され処刑されいる事実を突き止めている。

資料

後藤明生「五月の幻想」
資料として収められた「五月の幻想」は、後藤の母校朝倉高校に額装されて飾られていたものだった。1952.5.13の日付がある63行の詩篇で、橋のたもとにパオがあるとされているのは一読明らかに『挾み撃ち』にも現われるお茶の水の橋から見えるあの風景だろう。書き出しの「大東京の眞中、ボクは迷子だ」という一節に、後藤の初期作「星夜物語」の冒頭に街の雑踏が描かれていたのを思い出す。強引かも知れないけれどもポーを連想させるものがあって、「赤と黒の記憶」が「早過ぎた埋葬」をキーにしていたのを考えるに後藤初期はポーが重要ではないかと思う。

●乾口達司「「五月の幻想」発見記」、来多邨平「「五月の幻想」への二、三の註」
これらはこの詩の見つかった経緯とその注釈となっている。ここには「後藤明正」が作詞をした学生歌も採録されており、乾口氏は地元の人の話を聞いた上で、ここに出てくる山が確かにそこからは見えるけれども古い国制では別の国に属する山で、これは「ヨソモノ」の発想だと指摘しているところが面白い。来多邨氏は注釈で、押しかけたわけでもない者まで「引揚者」というのはおかしいと批判しているけれど、かといって「追放者」はさすがに「引揚者」以上に刺々しくスティグマ化が強い言葉で、言い換え例としては不適当だと思う。私は引揚者にエグザイルとルビを振っておいたけれども。

エッセイ

●金窪幸久「勇気ある書出し」
問い合わせを受けた時にはコロナ禍で中断していたため読む会に参加することなく亡くなられた方が生前残していたエッセイ。後藤や会に興味を持って読んだ「関係」の書き出しへの感想を語っており、またタイトル通り快活な書き出しで始めていて面白い。

●名嘉真春紀「なぜ読み、書くのか? それは後藤明生を読んだからだ。」
『この人を見よ』などを担当した編集者による、出会いのきっかけになった金井美恵子から先輩格の小島信夫と森敦からいとうせいこう奥泉光佐々木中などなど読むことの重要性と後藤明生はいかに読まれたかを考えるエッセイ。読むことへの着目が編集者らしい。

●安田誠「文学とは風である」
「縦覧」という乾口氏たちが出していた雑誌の後藤追悼号からの追悼文の転載で以前に読んだことがある。近畿大学近くの学生が勉強よりも遊びに手を出してしまうという「親不孝通り」の飲み屋での、後藤が言った表題のセリフにまつわる記憶を回想する。

●松崎元子「父と水」
娘による家族の目から作品を再読したエッセイ。禁煙禁酒してから食べ物の味がわかるようになったと言う父の作中に、水の味に感動する場面があるのを不審がったことから、そういえば自宅には昔ミネラルウォーターの空き瓶があったということを思い出し、週刊誌の編集部にいたことで当時の珍しいものが手に入りやすい環境だったのではないか、と推測している。後藤の初期作品は週刊誌の編集者だったことで時代の新しい風俗を取り入れたものがあることは意外に忘れられがち。水への着目が乾口氏の論考と通底していてそこからも面白い。

●後藤忠彦「私の引き揚げ体験」
2020年に亡くなった明生の一歳下の弟による体験記。書かれたのは10年ほど前らしい。同行者なので後藤明生も小説やエッセイに描いているものと似た体験が書かれているけれどやはり違うところもある。この悲しみを世界中の誰にもさせるべきではないという結句が重い。ソ連兵が入り込んで娘を連れ出そうとしたところで品の良くない噂の立つ旅館の仲居さんが勇敢に啖呵を切って娘を守り、その時「脱退軍人」が二人いたけれど騒ぎの間中隠れていたことがあとでわかり、「兵隊さんて臆病なんだ」という述懐をしている。

小説

●安亜沙「いしのにんぎょう」
小説。アラン・チューリングの生涯をパロディにしたロボット、アンドロイド、人形を題材にSFを取り入れた純文学スタイルの小説で、クリックという人名など自由意志や遺伝・継承などをテーマにしているようで面白く読んだけれども後藤との関係は、どうだろう。うまく掴めなかったので再読する必要があるなと思った。

いくつか他に気になる論点もあるものの、とりあえずこんな感じで。

小島信夫『私の作家評伝』と花袋、秋声、藤村、浩二、鏡花

小島信夫の『私の作家評伝』が再度文庫化した。潮文庫版を十数年積んでいる内に新版が出てしまった。これを機に扱われている作家のうちいくつか積んでる本を読んでから読もうと思った、ので、ざっと。

田山花袋田舎教師

明治30年代、埼玉県の弥勒で小学校教師になった主人公が、文学や立身出世に焦り田舎を軽視していたものの次第にその土地の生活、人々、植物などに関心を持ち心を入れ替えたものの病に倒れ、日露戦争の祝勝気分のなかで命を落とすまでを丹念な風景描写のなかに描く長篇。

確かに面白い話では別にない。何でもない平凡な人物があえなく病で若くして亡くなるだけの話と言えばそうだけれど、解説でも言われるように、この長篇一冊を支えているのはその平凡な人間が生きる地方のなんでもないような村の風景や人々といったものが作る空気だ。福田恆存新潮文庫版解説で「『田舎教師』の主人公は林清三であるよりは、私はそれらの田舎町の風物や生活であるようにおもわれます」と述べる。本作も、最初は田舎の生活を見下していた主人公が文学、音楽に挫折した後に、写生や植物の標本などを作って自然への関心を深めていく流れがある。

清三の関心が自然、生物、植物、絵を描くことへと移り、当たり前にそこにあるものが視界に入ってくるというのは本作の描写を重視した作風の意味を筋書きから支えているようで、メタ的な意味でもなかなか面白い。主人公には実在のモデルがあり、その日記などを借り受けたことで本作が書かれた経緯はこちらにある。花袋は作中に一度会った作家として登場しており、その一点から相手視点に裏返して書かれたのが本作になっている。

田山花袋 『田舎教師』について

「今にして初めて平凡の偉大なるを知る」277P。あるいは自分もそうだったかも知れないような田舎の一青年の平凡な悲劇への思い入れだろうか。特に、祝勝の空気のなか診察した医師が帰っていき、清三の出棺は費用を抑えるために夜だった、という残酷なまでのコントラストは印象的だった。

事件や心持を十分に書けぬような日記なら廃す方が好いと言ったが、それと反対に日記に書けぬようなことはせぬという処に、日記を書くということのまことの意味があるのではないかとかれは考えた。237P

私小説のことを言ってるみたいだった。

風呂に入ると風邪が悪化するという記述があり、これは充分に拭き取れなくて湯冷めするからだろうか。戦前の入浴についてツイッターで話題になってて、風邪を引くからあまり風呂に入らなかった話があったように思うけど。

島崎藤村『春』

藤村二作目の長篇小説で、大学を出て友人たちと雑誌を作ったり教え子との恋愛が終わったり友人を自殺で失ったり、そして家長の兄が騙されて家財が差し押さえられたりという事件を体験しながら、迷い悩んで家出や旅をしたりする若者たちの青春の彷徨を描く自伝的作品。

自殺する友人は北村透谷がモデルになっており、透谷の文章をしばしば引用しながら語りは進んでいく追悼小説の趣がある。ただ、どうも今ひとつ面白みを感じない作品というか、彼らの思い悩む内容がピンとこなくて、ダメ人間が右往左往しているだけに見えてしまうところがある。まあダメ人間の右往左往も悪いわけではなくて、旅立ったと思ったらすぐ帰ってきたり、野放図で行き当たりばったりで、それはそれで適当で面白さもあるんだけど、透谷がモデルの青木の懊悩というのもどうもよく分からない。それは妻でさえよく分からないと言うとおり。

徳田秋声『あらくれ』

大正四年1915年刊行の長篇小説。植木屋に生まれ養家に出され実母に憎まれていたお島は家の策謀で嫁にされかけた夫から婚礼の日に逃げ出し、別の男と結婚したり情夫を持ったりしながら裁縫師の男と結婚して洋服屋を営む、意志を持ち独立の気概に溢れた女性を描く。

あらくれ、と題されたように自由奔放というか決して他人の言いなりにはならない強い意志を持った女性が描かれていて、これはなかなか面白かった。養家にいた作太郎という男に自分との縁談が持ち上がって、さももうお島は自分のものとでもいうようなにやにやしたところに決然と拒絶をしたり、果ては婚礼の準備が万全のところで逃げ出すという決断力があって、じめじめしたところも家の人間関係にがんじがらめになる鬱屈としたような近代文学っぽさがない。洋服屋を持ってからもお島は外回りに時間を掛けても金の回収には役に立たず、それでも金遣いが荒かったり派手なタイプだ。

それと起きるのも遅くて動きものろいという裁縫師の小野田とが店を持っているのだからいつもぶつかり合っていて、洋服屋も資金繰りに困って何度も出し直したりとしている落ち着きのなさも面白い。その過程でお島は夫婦の営みに苦痛を覚えていたり、不妊の原因は夫の方らしいことに気づいたりという性の問題も折に触れて語られる。最初の夫との子供は離婚をすると言って実家にいる時、母親との諍いで流産してしまうという母子の長く続く不仲の一エピソードにもなっている。

実母に火箸で手を炙られた思い出など、きょうだいのなかで一人お島だけが憎まれているのは、もしかしたらお島だけ夫の浮気相手との子だったりするんだろうかと疑ったけれど特にそういうことはなかった。それでもそうだというのが一つポイントなのかも知れない。

ちょっと面白いのはお島が洋服屋を始めたきっかけの一つが「外国との戦争」での需要の高まりにあったことだ。日露戦争は花袋『田舎教師』終盤の印象的な歴史的背景だけれども、それはここでも重要な意味を持っており、この頃の日本が戦争と縁の深い社会だということがよくわかる。

お島は爾時、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾久の渡あたりでもあったろうか。のんどりした暗碧なその水の面には、まだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕いでゆく淋しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸って、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋っているのであった。9P。

というのが最初の節の末尾にあり、最後には「雨あがりの桟道にかけてある橋の板を踏すべらして、崖へ転り陥ちて怪我をしてから、病院へ担ぎこまれて、間もなく死んでしまったと云うのであった」という浜屋の死因と「温泉場」で「その晩は、水の音などが耳について、能くも睡られなかった」という水のエレメントが最初と最後を挾んでいるように思える。父に連れられた川辺と、情夫ともいえる浜屋の主人の死と雨上がりの温泉場という末尾、応接があるように見えて、そしてここで思い出すのは実母からの焼けた火箸を手に押しつけられたエピソード、とすると構図がわかりやすすぎるだろうか。

実家が植木だか庭作りだかで養家は野良仕事や養蚕をしていて、お島自身は洋服屋を営むようになるというのは一連の流れがめちゃくちゃしっかり繋がってる感じで面白い。
徳田秋声 あらくれ

これらの自然主義系作家の作品はしばらく前に平野謙『芸術と実生活』を読んでそれが面白かったので集めていたもの。小島も平野謙は批判的にではあれしばしば引用するので読んでおいて良かった。

宇野浩二『苦の世界』

芸者だった妻の「ヒステリー」に悩まされる男とその母という、作者自身をモデルにして出世作となった「二人の話」から始まり、失職して居場所を転々とする主人公や、彼に良い仕事があるとでまかせを言う虚言癖の男など、貧乏人たちの悲喜劇の生活を描く自伝的作品。

短篇連作のようになっており、一貫した長篇小説ではない。だから序盤の主題となる「ヒステリー」の「おんな」の話は少なくとも二篇目で終わるんだけれども、暴れっぷりはかなりもので、自身にも感情をコントロールできないさまは明らかになんらかの精神疾患なんだろう。今は解離性障碍というらしいのが近いか。この「おんな」の状態は、夫たる主人公の不甲斐なさからくる怒りを女性のわがままにしている、というようなものかと思ったらそれどころではなく、実の親からも見捨てられていて昔からだったらしいことが示唆され、主人公にも手に負えないほどのものだ。芸者だった彼女を連れ出して、名を偽って暮らしていた夫婦と母親だけれど、売れない画家の主人公の仕事先も潰れてしまい、母は実家に帰り、妻も再度芸者に戻ることになる。「苦の世界」とは、妻が結局脱け出ることができない芸者の世界、苦界のことを示唆しているのかも知れない。

この重い話が第一篇目で一応の解決を見て、二篇目で「おんな」が一度そこを抜け出して再会に来る顛末が語られた後は、その登場人物たちの貧乏生活の悲喜こもごもが語られる話になっていく。金のない時に誰彼の家に転がり込んだり金を借りたり貸したり。そこで個性的に登場するのが半田六郎だ。ある時出会った彼から役所で助役の席が空いているという胡散臭い話が出て、半信半疑ながらも津田沼の彼の家へと赴くけれども今ちょうどその話の鍵となる某が帰ってしまったんだ、というように言を左右にして目当ての話には一行進展がないまま食事を一緒にしたり泊まったりという関係を続けていく。

結局のところ最初から怪しいように彼は虚言癖なんだけれども、詐欺で金品をかすめ取るというより家に招いて食事をともにしたりしていて、これはあるいは津田沼という地方に家をあてがわれた彼の人恋しさがそのような虚言を弄して人との関わりを持とうとしているのかも知れないし、そうでもないかも。こうした大人たちの困窮の様を追い詰められていながら、むしろそれ故にこそユーモラス、滑稽味があるように描いている。作者も言うように、この時代ののんきさがある。序盤の家に「おんな」と顔つき合わせて過ごすのは、Holi-dayでなくHell-dayだ、というジョークなんか今も言ってそうだ。

そしてあとがきの文章がめちゃくちゃ小島信夫っぽいと思った。これとか。

以上、書く私が退屈したほどであるから、読む人は、(もし読む人があるなら、)途中で投げ出されたにちがいない。が、私が、こういうくだらない小説を、書いた年月から、発表した雑誌の名前から、それが雑誌に出た年月まで、ばか丁寧に、書いたのは、(途中でやめるわけにもゆかなかったからでもあるが、実は、いやいや書いているうちに、)このようにダラダラと書いてしまったのである。そうして、書いてしまってから、まことに愚かしきことをした、愚の骨頂であった、と、後悔したが、『後悔さきにたたず』とは、まことに、昔の人は、うまい事をいったものである、と、感心した。359P

泉鏡花『外科室・天守物語』

新潮文庫の既存作品集が一作以外幻想味のあるものを外した編集だったことに対して東雅夫が編集し幻想性中心のセレクトとなった一冊。母親への思慕とアニミズムと幻想が一体となった「化鳥」や妖怪の姫と武士との恋愛を描く戯曲「天守物語」が特に良かった。

しかし泉鏡花は前から結構苦手で、というのは文章が美しいというのはいいんだけどその雰囲気ある文章を読んでると作中で何が起こって誰が語っているのかがしばしばよくわからなくて、幻想的な事態が眩惑的な文章で綴られて結局何が何だか分からない、みたいになるから。その点、先に挙げた短篇や戯曲の「天守物語」は分かりやすくて面白さをちゃんと味わえた気がする。かわりに特に「縷紅新草」あたりはざっと読むとよく分からなかった。観念的な「外科室」は文語体だけどコアは明瞭なので面白い。まあこれは前に読んだことがある。

読んでておや、と思ったのは「絵本の春」。冒頭から一条、一時、一ならび、一郭、二条、十町……と数詞が非常に目立つ作品だなと思っていたら「明治七年七月七日」「七日七晩」続いた大雨の洪水によって「七の数が累なって、人死にも夥多しかった」、と数字とその呪いがテーマなのか?と思った一作。最初の段落なんかは一から十に増えて一に戻るみたいにも読めるけどどうなんだろう。

天守物語」は女童たちが天守閣から釣り糸をたらして白露で秋草を釣る、という不可思議な光景から始まってその主たる妖しい力を使う城の姫様がおり、百年誰もやってこなかった天守に若い侍が現れ、その運命的な二人の愛が描かれる。これ、そういう終わり方をするとは思ってなくてなかなか驚いた。妖しい存在と若い侍の二人、途中まで絶対そうなる、という流れの雰囲気だったのがそれをガッと切り替えてきてそれがまた良かった。日常に幻想性が切り込んでくるというのではなく、最初から妖しい存在が普通にいる世界での話。

文語体のもの、随筆、戯曲とバラエティを意識していて入門篇にも良い一冊だろうと思う。鏡花の文章はなんか通常の文章とは違うルールで出力されてるような気がして、それが読みづらいのかなと思う。

小島信夫『私の作家評伝』

というわけでこちら。近代の文学者16人について一人概ね40ページほどで扱っていく評伝連載。顔ぶれは森田草平に始まり秋声、漱石、鷗外のほか藤村、泡鳴、花袋といった自然主義、啄木、子規、虚子といった歌人俳人など様々で、人物と向き合う内にその想像がついに小説的にもなる箇所もある。

改めて扱われる書き手を挙げると登場順に、森田草平徳田秋聲夏目漱石森鷗外有島武郎島崎藤村二葉亭四迷、岩野泡鳴、高浜虚子田山花袋徳冨蘆花石川啄木正岡子規泉鏡花近松秋江宇野浩二漱石は二回出て来て、宇野浩二は月刊誌になってペースが狂ったとのことで三回分ある。後に漱石について大著を出すのもあってか漱石も二回あるうえ草平や子規、虚子など漱石関係の文学者が多く登場する印象がある。芥川や荷風、谷崎、正宗白鳥なども何度も名前が出てくるけれども対象になってはいない。ここら辺の選択理由も気になるところではある。

本書では評伝と言うことである作家の作品や随筆、日記などからその人物を想像し、探っていく。そこには小島らしい注目点があって、家族や妻という愛の問題、小説に書くかどうかの事実と小説の問題、外国文学との関係、地方出身者の目線といったところに「私の」と冠されるだけはある。特に、木曽の山中出身の藤村の文章に方言を聞き取り、その口ぶりは都会人の芥川には別様に聞こえるという箇所や、花袋を同じ地方出身者だとしても平野から川を上って上京したとその差異を指摘し平坦地の詩人と呼ぶところなどは小島の岐阜出身としての読解の非常に面白いところだ。

作品論、作家論とも異なる人物伝の形である作家と向き合うというのはなるほど小島信夫の書き方に向いたものだろう。三ヶ月ごとにある作家の評伝を書くというのはかなり負担があると思うものの作者はまだつきあえてない作家は数多いとあとがきでも意欲を燃やしていてバイタリティに圧倒される。最後、三回続くことになり100ページほどある宇野浩二の章では、引用されてる文章と地の文とが似ているとも指摘されているけれど、さらについに小説のように架空の会話を想像して書いてる箇所があり、ここでエッセイと小説の垣根を一瞬越えているような印象がある。

ここら辺に平行して書かれていた『別れる理由』がメタフィクションになっていく要因があるらしいのは担当編集者の記事にもある。個人的には、それまで返信の内容かのように叙述が続いた最後にまだ封を開けていなかったと書かれる「返信」という短篇を思い出した。
二葉亭四迷・鴎外・漱石から宇野浩二まで――文豪16人の作品と人生。『私の作家評伝』|web中公文庫
小説のなかで相手に対する想像を働かせてそれが想像のものだったとオチが付くという反則技みたいな仕掛けは書き手の想像癖を露わにしたようで面白いけれど、そうした資質がこの評伝集にも通じているような気がしてならない。

お送り頂いた編集さんは後藤明生との関連を考えておられたけれども、『私の作家評伝』『私の作家遍歴』『別れる理由』の頃の小島の影響として考えられるのは後藤の『汝の隣人』や『壁の中』後半部分のあたりがたぶん一番わかりやすいはず。拙著でも篠田一士の指摘として引いたけれども、小島信夫がモデルのKという人物が出てくる『汝の隣人』のプラトンを介した死者との対話の話や『壁の中』の荷風との対話という手法は、物故した作家と「つきあう」ようにして書かれた評論とこの頃の小島の仕事への応答と考えられる。ここら辺の影響関係は小島信夫を読み込んだ人に検証してもらいたいところだけれど、論考としてはまだない、かな。自分としても課題の一つなんだけど小島がまだ全然読めてない。

以下幾つか面白いところを引用しておきたい。

森田草平の章。

色々割引しても、新しい時代を歩もうとする日本人の、とくに女の見せる狂い、というものを、狂いそのものを、不十分ながら描きだした最初の作品は、おそらく『煤煙』だということになるのではないか。28P

少なくとも、これは私の秘密だとして出すと、たわいもなく見えることがある。もともと作家の秘密が重要なのは、作家が何を書こうと、一貫した秘密をめぐって同心円をえがいているということである。いやそれだけではない。それが何か意味を内蔵しているということである。漱石が意味とか、一般化とかはっきりいっているあれである。34P

森鷗外について。

こういう人は、多忙さを含めて、いわゆる大小説家になるためには、想像力に欠けたばかりでなく、想像力を育てる機会を失うであろう。つまり、大ジャーナリストなのである、という意見が出てくる(例えば渋川驍『森鷗外』筑摩叢書25)。私は賛成である。この人、いくら書いても書いても、どういうものか、自分のもっているもの、人の中にあるものの全部を作品に書き現わすことは出来ないと思ったに違いない。意見が主になりすぎているからである。そういう彼は、自分と似たものをなるべくみんなもっているような過去の歴史上の人物に出あうと、それを描くのに情熱をもやした。117P

有島武郎について。

武郎には、「女の身になって」というエッセイがあり、女をこうさせたのは男であるという彼の考えに立ったうえで、女は女の中から目ざめ解放して行かなければならない、ともっともなことをいって激励しているのであるが、ただこれは甘っちょろいといい捨てるわけに行かない。とにかく『或る女』の程度にしろ、女の立場に立って書かれた小説は当時皆無といってもよいくらいだからである。188P

四迷。

浮雲』は、私の考えでは、一つはあとに『破戒』をうみ出す母胎となり、もう一つは大正期に入って、ゴーゴリが好きだった宇野浩二の『蔵の中』へ、昭和に入って井伏鱒二の小説のあるものへと移り変って行ったように思われる。スウィフト流の小説を日本版にした『猫』式のものは誰にも受けつがれなかった。244P

泡鳴の章で藤村の文体について書こうとした話をしながらのくだり。

大江という人が松山の奥の肱川上流の、あの「おはなはん」と結びつけられてすっかり有名になった大洲の、そのまた奥の山間に少年時代を過して、だんだんと中央へと出てくるにつれて、防備のために一つずつ形容詞や副詞をつけてきた様子が、しのばれる。彼は中央へ出るにしたがって外国文学をとり入れた。こうして彼の形容詞や副詞はきわめて外国文学ホンヤク風になっている。それはインギンでどこか不遜で、何ものかを茶化したように見える。272P

岩野泡鳴について。

そしてこれまた、悲痛さが原動力だ、と旗をふりたてて武者振いするようなことは、誰も遠慮したり恥かしがったりして、していなかったのに、彼は堂々と押し出し、誰にもいって廻り、そういう主人公の悲痛ぶりを書いた。こんな文学者はほかには誰ひとりいない。291P

花袋。

リサ夫人がちゃんとしていないというようなことをただの一カケラも花袋は書いていない。私は花袋ぐらい妻のことをちゃんと書き、しかもその夫人がちゃんとした人であったということが分るような小説はむしろ珍しいと思う。383P

徳冨蘆花の小説にその後の小説の母体を見出すところが面白い。未完に終わった合作の『冨士』について。

小説作品として瓦礫だらけのこの作品は、作品としてではなくて、ここの中に含まれているもの、書かなければならなかった所以のものを考えさせるという意味でまず画期的なものである。
中略
少なくとも戦後は、少なくとも最近は、作家は一般に蘆花が『冨士』に書いたことをこそ小説として書くべきだ、とは心得ている。
 父母、兄、家、それに妻。世間というもの。彼らをつなぐ「性」という太い線。性とかんけいの深いコンプレックス。愛の問題。彼が自分でそこまで切りひらいたことだけは認めざるを得ない。427-9P

エルサレムパレスチナへ行ったこともあるこの作家へのこの指摘は小島自身の作品についても含まれているような気配がある。
蘆花についてはこれも。

くりかえしていうけれども、女の立場にたってナミコを書いたということが驚くべきことだ。女主人公には通俗性があるが、通俗性といっしょになってしか表現が出来ないものがある。396P

宇野浩二について。

私のコンタンを少しあかすと、私は大正末から昭和への移り変りの時期は、多くの作家が考えこんだり、もがいたりしたことに興味を抱いていて、浩二の周辺の人々との中で、その有様を辿りたいと思い出したからである。628P

夢というものがこわれ易かったりなかなか得られないものならば、そのことを面白おかしく語ることが、この世をつかさどる神様のサボタージュに対する人間のする道である。そうでなければ、夢というものをなるべく夢として神棚にあげておいて、そうして、夢の中へは登って行かないで低いところのまわりに眼をくばっているのが一番いい。しかし考えてみればこういう姿こそ人に語るに足る人間のおかしな状態である。649P

「宇野はそのシンプルというものの理解者であった。」といいこう続ける。

宇野はシンプルさを描こうとした意味で、チェホフやフローベルの方にずっと近いところにいるわけで、一種ほのぼのとした有難味のある作品であるが、それは作者もいっしょにおどっているということのためでもあり、ずっといかにも小説家ふうである。そうして、それが大家宇野浩二をほんとうに大家たらしめることを妨害する点であるように見える。713P

事前に幾つか扱われる作家の未読作品に手を付けていたけど、やはりそれがあるのとないのとでは結構違う。読んだばかりのものがあればそれをどう扱うかで一本アンカーを置いてそれとの距離感を掴める。800ページ近い本だけれど、近代文学の作家について小島ならではの見方で描かれていて非常に読み応えがあり面白い。


なお本書は掲載誌を変えつつ、1969年から74年の連載に67年の草平の章を加えての刊行。これ以後の連載をまとめた『私の作家遍歴』はその後から80年まで。『別れる理由』は68年から81年までで、評伝・遍歴と『別れる理由』は並行して書かれている。『私の作家評伝』は16人を扱い、漱石と浩二が複数回分あるので60枚の連載がだいたい19回分あって、これは『私の作家遍歴』が計60回なのでちょうどあれの一巻分くらいある。つまり作家遍歴はこの三倍超ある。『別れる理由』が小学館のPD+BOOKSで六分冊で再刊されたけれども、遍歴は、果たしてどうか。本書の売れ行き次第ではあるんだろうけれども。

本書は担当編集様から恵贈いただきました。ありがとうございます。