今年四月から六月にかけて「変人のサラダボウル」というアニメがやっていた。岐阜県を舞台にした作品で、異世界で起こった内乱から逃れてきた皇女が現代日本に転移してきて貧乏探偵をしていた主人公と出会い、共同生活を送りながらの日常を描いたラノベ原作のコメディアニメだ。天才的なカリスマ性を持つ異世界の姫サラが巻き起こす騒動と、アラサーの探偵惣介との親子的な関係、またサラを追ってきた腹心の部下リヴィアがまた別の騒動に巻きこまれたりとラノベ的な軽さを持ちつつ、探偵と弁護士が主要キャラにいて随所に法律が重要な意味を持つのも面白かった。まあ主要人物がほぼ女性ばかりのハーレム構図ではあるけど。アニメ自体についてはまた年末にするとして、ここではアニメを見てから読んだ原作と、勝手に私が関連書籍として読んだ本の感想を並べておく。そういう流れなので以下、アニメのネタバレに配慮とかはしてない。
変サラ以外の本は何故並んでいるのかというと、アニメを見た後に自分がこう書いたことと絡んでいる。
探偵と弁護士がメインキャラにいて、探偵業法や戸籍など法律が非常に重要なのは、異世界人という常に法と緊張関係にあるアウトロー・法外の存在がいるからなんだけど、今日気づいたのはファンタジーの枠を外して見ればサラたちって端的に言って「難民」じゃないか、ということだった。異世界転移の枠組みで難民の法的地位の話をしている。クーデターが起こった国から避難してきて帰れない難民・非正規滞在者。七話が傑作なのは非正規滞在者をどう法的に包摂するかの試行錯誤をフィクションの嘘も交えつつある程度現実的に描いているからでもある。原作者は一巻のあとがきで岐阜県はたぶんトヨタ自動車のベッドタウンでもあるためか外国人比率が全国四位*1で、自身の体験も本作の背景だと書いている。人種のるつぼから人種のサラダボウルへという話も踏まえており、しかも法的な話も意識して書かれていて、この社会的視点は相当に希有ではないか。
リヴィアがホームレスやヒモの才能があるというのは話が逆で、住所も住民票もないリヴィアは口座も作れないし就職もできないので、転売などの怪しい仕事や摘発された違法な風俗やホームレスやヒモをやるしかなく、バンドという芸能の仕事も望愛の庇護下で辛うじて可能なことだった。バンドのためには風俗で働くことも辞さない人、霊感商法やってるカルト宗教のトップ、ホームレス女騎士、という法的に問題のある人たちが集う場所としてバンドがあり、そしてそのバンドのメンバーがすれすれのところから足を踏み外して逮捕されてしまう。
作者自身が意識したという「ヒナまつり」アニメ一話をちょっと見返してみると、ヒナはいきなり学校に行けていて、それはおそらく庇護者の新田がヤクザというアウトローなことと繋がっている。つまり法的な段階を踏まずにやれる設定になっているのではないか。内容を忘れてるから適当だけども。この法の導入、ヤクザから探偵業法に基づく探偵へ。明示的に差別は描かれていないけれども、法の内外の存在としてサラとリヴィアが対比されていて、アニメの最後ではついに逮捕者が出るように、変人のサラダボウルのもう一つの主役は「法」といっていいのではないか。
まあこう書いたからと言って参考文献から作品を読み直すみたいな記事では別にないんだけれど。
平坂読『変人のサラダボウル』
アニメを見終えたので原作も読んでみる。概ねアニメ通りだけれどたぶん削られてた細かい部分も色々と面白い。事務所の一階が喫
茶店なのが「毛利探偵事務所」みたいだったからそれが決め手になったというコナンネタだったり、恐喝の現場にサラが来たのは共有してる
スマホのアカウントから場所を表示させただけで惣助より上手だったり。
弁護士と探偵の持ちつ持たれつの話はアニメでもやってたけど、探偵の用語が警察と同じなのは私立探偵の起源は警察の仕事を民間で請け負ったものだからという話も面白い。マルタイの説明をしながらこう続く。
他にも警察由来の探偵用語はいくつかあるのだが、これはそもそも、追跡、張り込み、聞き込みなど、警察機関が行っていた業務を民間で請け負い始めたのが、惣助たち「私立探偵」という職業の起源だからだ。
日本ではもともと、巡査や刑事など捜査活動をする者が探偵と呼ばれていたのが、私立探偵の登場により「探偵」とは基本的に「私立探偵」を指すようになり、警察に所属する者を探偵とは呼ばなくなった。143P
警察でもなく、弁護士でもないそのあわいにある探偵という職業。
最後に翻訳魔法ではないことに気づくくだり、アニメだと運痴とウンチを翻訳できていなかったのを根拠として挙げていた気がするけど、原作だと同じくだりはあるけど最後にあれが根拠の一つだというのはなくて、アニメでわかりやすくしたっぽい。
方言がほとんど出てこない作品でもあって、でも一人関西ぽい方言のキャラもいるのはそっちに近いからってのも感じさせてくれる。あと、アニメで一部だけ採用されたけど、原作だと合間合間にキャラのステータスが表示されるのはテーブルトークRPG由来のものだろう。前作がゲーム題材の作品だったし。友奈の血の気が多いのもそういや三国志ネタから繋がってるんだというのに気づいたり。
平坂読『変人のサラダボウル2』
リヴィアがホームレスからヒモ、そしてバンドマンへと立場を乱高下させてバンドを組むに至る話と、サラが無戸籍の立場から惣助の子としての立場を手に入れる流れが並行して進みつつ、サラと友奈との関係が近づいてそして離れる第二巻。
まだアニメで見た巻だけど、話の順序を入れ替えてるところとか、アニメで再現が難しいネタなどがあって面白い。目立つところだとバッタを食べる話がアニメだと三人だったけど、原作だとまだ明日美と合流前だった。明らかにアニメで騒がしさとコミカルさが増してていい改変。
アニメ五話はサラたちが買い占めによって目当てのものが買えなかったあとにリヴィアに会ったから、転売に加担したことにあたりがキツかったんだなと読める構成だったけど、原作だと買う五分前にリヴィアに会ってるから原作の方が素でキツい。ただこれは文章で読むとそんなキツく感じなかったりする。
あと、喫茶店で歌う曲とか選曲で遊んでるところはアニメでカットされてたのは仕方がないか。サラが米津玄師のLemonの合いの手に本気出してるとか、競馬からの帰り道でサラがウッウーウマウマを歌っていてうまぴょい伝説じゃねえのかよと突っ込まれてるところとか。ラノベらしいネタだ。サウナのテレビに映ってた「ケツ毛むしり」がどうこう言うドラマ、原作だと探偵ドラマが映ってたという情報しかなかったのであれはアニメのオリジナルっぽい。まあこの回は原作者脚本なので原作になくても原作通りというやつではある。
リヴィアが数え年だと20歳だけど暦の上では18歳だから酒はダメなのでは、というツッコミに向こうの世界で元服が済んでいるからというくだりもまあテレビでは無理か。リヴィアがギター上達したのはヒモだから時間があり、回復魔法で傷も治せるし体力もあるので一日一五時間練習していて二人の教師を付けていたという話もある。惣助の狙い時はガッキーの結婚で落ち込んでる時だ、というくだりとか、リヴィアが蘭丸の森家、森可成の子孫だとか、喫茶店のオーナーが吉良一滋という名前なのってジョジョネタか、というのとか。
しかし、マルチクリエイターぶりを示す望愛に対して「カルト宗教界の新海誠」と書かれてるのは笑った。アニメでもやってたけど解散したバンドの不仲が音に現われているという細部の具体性は面白い。あと、ドールの陰毛実物なのが確定していたね……。
子供になるかと聞かれたときにサラの返事が「うん」だったんだけど、自分はアニメ見た時にこれ「うむ」だと思ってた。でも原作もアニメの抜粋の動画見かけて見た時もここは「うん」だった。ここ、王女としてのサラではなく子供としてのサラとしての明確な意味がある「うん」なんだろう。
平坂読『変人のサラダボウル3』
この巻までがアニメ化された、第三巻。転入した小学校であっという間にクラスの「イケメン四天王」から告白されるサラと、望愛に崇拝され彼女の手を借りてホームレス時代の知り合いだった小説家の作詞を得て人気バンドへと登り詰めていくリヴィア。
サラは小学校でカリスマを発揮して無双をし、友奈は中学校で孤立したもののいじめられている同級生を発見して探偵の真似事をして解決して探偵になりたいと考え始め、リヴィアは宗教家やヴォーカリストやホームレス経験のある小説家の関わったバンドをやり、弁護士と別れさせ屋が意気投合して、多層で人間関係が変遷していく。
サラダボウルと言うとおり、様々な人たちが様々な関係を結んで離合集散を繰り返していく面白さがある。望愛もまたバンドの絶頂とタワマンの上階から地べたに突き落とされ、サラの戸籍や探偵業法という法を意識した本作で初めて正面から犯罪行為を犯した人間が現われる強すぎる引き。
割腹未遂を起こした時に教団はまあまあ危ない状況にあったと思うけど、それをリヴィアに救われ、教団の正常化も進めていたあとで望愛本人が逮捕されるという皮肉な結末を迎えている。まあ収監されても大丈夫そうなのは望愛ではあるし、カルト教団での行いの罪がここに掛かってきたわけでもある。
サラの入学の話、英語のくだりはアニメだとペラペラという言葉を喋らせていたのや、地の文の小学校に給食を食べに来ているというのを級友のセリフにしたのもアニメの演出でこれは良い。同じクラスには四天王がいたけど各クラスには八部衆とかそういうのが無数にいて全員落としてて笑う。英語得意な子の家がクリスチャンだったとか臣下の安永弥生は家が米農家で、というクラスメイトの家で社会の広がりを描くところも面白い細部だ。閨とブレンダのチョコ作り、原作だと前日に一気に機材揃たりしてるけど、アニメの方が色々細かかった気がするな。
アニメだとオリジナルソングにした卒業式のライブだけど、入場曲がモンスターハンターのテーマで、在校生が志方あきこの謳う丘を歌ってサラが信長狂騒曲の主題歌のミスチルの足音を返歌にして、退場は大神の太陽は昇るだとかだから趣味全開だった。大神のサントラは持ってる。未プレイだけど。
サラが水族館に行くくだり、異世界では魔法があり保存技術が優れていて魚に関しては現代日本より文化的に進んでいるという設定があるんだけど、武力として重要な魔法は遺伝するので権力者が独占するために遺伝技術は禁忌となっていて品種改良は遅れているという話になっている。こちらの寿司をそんなに好きではないという部分がアニメでカットされたのが話題になってたけど魚の話は遺伝と絡んで説明に尺がいるのが一番の原因ではないかと思った。
あと、この巻で一番驚いたのが作者が最後のライトノベルのつもりで書いてるってこと。これ終わったらどうするんだろう。一般文芸?
平坂読『変人のサラダボウル4』
リヴィアが新たな寄生先を見つけ人間関係にも変化があったり、サラの修学旅行で飛騨と美濃の小競り合いが描かれたりとあるけど、本丸は望愛の逮捕で終わった前作を継いで彼女の裁判を描くところだ。変人と法制度の関係は今作の主軸と言えるものがある。
前に今作のもう一つの主人公は法律だと言ったことがあってサラやリヴィアはいわば「難民」ではないかとも書いた。リヴィアの生活の極端な上下動は法的地位がない故のことで付き合う相手もカルトの宗教家や、今巻では半グレだったりと裏社会に入り込まざるを得ない。そんななか望愛をめぐる法廷劇は当初作者の想定していた展開が実際にはできないことが分かって、刊行を延期したほどの難産だったらしく、法制度を題材にすることの面白さと難しさがあるようだ。そのかいあってここら辺はかなり面白い。
望愛の弁護士にはブレンダがつき、無罪獲得に向けて話を進めていくなかで、望愛が相変わらずの教祖の資質を生かして取り調べに来た警察やら独房の人たちをも魅了し情報を収集し、望愛を陥れた人間とその背後情報を警察からゲットする流れは笑える。最初は無罪を目指していた望愛だけれど、リヴィアとの会話の流れで罪を認めてまっとうに罪を償う方向へと転じてから、色々と事情が変わっていく。ヒモでギャンブル依存症にもなってるリヴィアが望愛に対してはまっとうな道を説くのもおかしいけれど、望愛があっさりそれを受け入れるのもそう。
脱法カルトのトップが法に則った量刑をあえて受けることで「生まれ変わる」ことを目指す贖罪の話になっていて、彼女の罪は法的手続きによる裁きによってしか償われ得ないというポイントを示している。そしてそれがまさに法外の存在リヴィアの声によって決断されている。ここでハシゴを外されたのがブレンダで、己の目的のために彼女はここで法に触れる手段を採ることになる。もっとも法を守るべき弁護士が法を蔑ろにしているわけで、この三人の法に対する位置関係が非常に面白い。法と道徳の、同じではないけれど全く違うわけでもないような関係がある。
思えば、原作ではリヴィアと会ってから望愛の教団は少しずつ正常化を図っていたくだりがアニメでは省かれていた。これは最後に望愛の逮捕で終わるという関係上、途中で贖罪モードを入れるとうまく落ちないからなんじゃないかなと思った。裁判まで書かないならこうなるというか。
望愛のアライメントが中立から善へと転じたように、今作だとRPG風のステータスが時折挾まれ、人間の複雑さを経時的な変化によって描いている。そして「ライトノベル史上初、パチンコがしたくて断髪したヒロインの爆誕である」(130P)は笑った。ひどいもんだ。姿形も変わっていく。
サラが友奈と同じ学校に通い、サラに新しい友人が出来たりしての「学年旅行」は白川郷とのことでひぐらしのなく頃に、の話なども交えつつ、飛騨と美濃が元は別の国で廃藩置県で一緒にされただけで文化も方言も違い、美濃から飛騨へは今でも立派な旅行になる、という地元民的な観点が語られている。
途中のバスリサイタルではいつものように岐阜関連のアニメや映画での主題歌が歌われたとあり、ドンドコ羅列されているんだけどそんなのあったんだ、とかあれは岐阜舞台だったんだ、というのが色々出て来る。ブレンダで引きになったけど、常に自己本位な彼女にはそのうち何か起きそうではある。
平坂読『変人のサラダボウル5』
これはなかなか激動の巻だった。余命幾ばくもないミコトと組んだリヴィアが裏社会との関係を深めていくなかで、それをすべて裏返しにする一手が決まる。悲しい別れを体験しつつリヴィアもまたこのような形で「
異世界転生」を果たすわけだ。
前巻は望愛の「生まれ変わり」へ向けたプロセスだったけれど、今巻で説明されているサラの生育環境は望愛とも実はよく似ている。ともに権力者の家に生まれ、才覚故に権力争いに巻きこまれ身内にはめられたり暗殺されそうになったりしていて、サラと望愛は対比的な存在だ。サラとはまた違った形で、リヴィアはギャンブル中毒にもかかわらず望愛に見出されたように姫を守る従者としての強さと一応の倫理があり、それが望愛やミコトの心を掴む。下層や裏社会で現実の裏側をその身で味わってというのも宗教者のようだし、そこから表に転じる転生者でもある。そして最後の美濃と飛騨の劇は元ネタの不時着ドラマは知らないけれど某埼玉作品を思わせるご当地自虐ネタも踏まえられていて、ここで敵対する国同士の二人が出会い、国同士の交流を果たす物語はリヴィアとミコトのありようにも重なっていると思われる。しかし蘭丸ネタから衆道の話を引っかけて体の関係を持つことと転生のあれこれを重ねて「一つになる」と表現するのはなかなか面白い。
バンド活動はどうなっちゃうんだ、と思ったら望愛がいるからメジャーでできないならインディーズでやればいいというのもガルクラみたいだ。恋愛多めと言うとおり確かにブレンダとのデートやミコトたちの関係やら色々あるけど、ブレンダが意外にもちゃんとアプローチを掛けているのを見ると、望愛弁護でやったことがあとから確実に効いてくるんだろうなと思わずにはいられない。あとリヴィアの刀もどこかで出てくるか。
惣助の誕生日が祝われる家族の風景とリヴィアの転生という新しい生の始まり、生死のあらましが描かれる巻だった。この作品、異世界から現代日本に転移してくる話をしながらきっちり「異世界転生」とは何か、現実的にやるならどうなるか、を法、戸籍、裏社会等社会的な視点を絡めてるのが面白い。
平坂読『変人のサラダボウル6』
裏社会のボスとして事業を進めていくリヴィアと、芸能事務所に見出されて東京へ通うことになったサラとのまさしく対比的ながら表と裏で成り上がる二人を描く第六巻。リヴィアが封印を解いていつの間にか性豪になっててすごいことになっている。
芸能界に誘われて新人として事務所に所属し先輩タレントの洗礼をさらっと受け流して仲良くなっていくサラの社交性の高さは健在で、スカイツリーにも上り元姫のカリスマによって表社会を上ろうとしていくと同時に、リヴィアもまた裏社会から表社会への華麗な転身を図っている。ヤクザや半グレ組織にカルト宗教という裏社会のトップとなった後に、リヴィアがミコトとして生まれ変わったようにそれらをまともな会社として生まれ変わらせ、健全経営に努めるのがリヴィアの任務となり、しかし同時にホストクラブで女性客や側近やバンドメンバーに手を出しまくっている。
ミコトとの関係によって枷が外され、望愛から迫られて逃げていた頃の面影はもうない。しかし健全経営を図っているのにホストクラブの客から巻き上げるのは良いんだろうか。そして内偵していた国際犯罪組織がリヴィアに壊滅させられ唖然となる公安警察が馴染みのあいつの正体だったりもする。公安警察がスーパーエリートと呼ばれているのは某安室人気にあやかったものなんだろうかとも思わないでもない。
しかし途中で二年飛ばしたところに一番驚きがあった。これによって友奈が高校生になり念願の探偵助手という身分を得て、いかにもよくある成人男性と彼に好意を持つ女子高生という探偵と助手パターンになってはいる。しかし娘と同年代の女子との関係がマジになるとちょっとアレだな。
この作品、娘のサラについては成長に関しての言及はあれど最初の頃から性的な描写がほとんどなくて、それは親子になる関係上妥当ではあるんだけど、その親友と言っていい少女から本気のアプローチを受けてメインヒロインとして立ち上がってきているのは感覚的に大丈夫か、と思ってしまう。
二年飛ばしたり話をまとめに掛かっているのかなとも思うけど全何巻想定なんだろうか。10巻くらいでキリ良く終わらせるんだろうか。
平坂読『変人のサラダボウル7』
第三の
異世界人アルバが何故か怪盗として活動していくなかで、永縄友奈が出くわした事件をその場で解決していく運と能力でニュースで取りあげられる「女子高生探偵」として頭角を現わし、探偵と怪盗のライバル関係ができていく。六巻以降は第二部、なのかも知れない。
年数スキップがあったように五巻までと六巻以降でちょっと毛色が違う印象があり、第三の異世界人が友奈と対の関係としてメインを張りつつある。サラの東京での芸能活動、リヴィアの企業経営はまだどういう流れになっていくのか見えないところがあって仕込みの段階だろう。
それはそれとして性豪として大暴れしていたリヴィアがブレンダのピュアさにショックを受けて出奔していくのは笑う。事前に口絵がネットで流れててどういうことなんだと思ったらそういう場面か、と。作者は百合ラノベを書いてたのもあって性愛関係が女性同士のものばかりなのはやや気になる。まあ主人公以外主要登場人物がほぼ女性なのでってところはあるにしろ。
六巻からの話で徐々に存在が大きくなっているのは「政治」の要素だろう。将来は総理大臣を嘱望されているという岐阜一区選出の国会議員「里予田聖羅」、ヤクザの夫がいたとかなんかプロフィールが野田聖子っぽいなあと思ったら野田を分解して「里予田」だしまんまだった。いかがわしい店なんかの浄化政策で巨大なシャッター街を作ったとも言われる里予田議員がリヴィア、友奈とも関係ができていってて、「社会」から「政治」へとスケールが上がっていくのかも知れない。同時に政治家や怪盗といったやや派手な道具立てが増えて行っている。
五巻まででは戸籍や法律、弁護士ブレンダ、裁判など法律が鍵になっていたと思うけれども、社会を構成する法を変えていく政治、立法に焦点が移るかも知れない。さすがにそれがメインになるとは考えづらいけれども、里予田議員を通じて政治が何らかの重要な役割を演じるのは確かだろう。
井戸まさえ『日本の無戸籍者』
離婚からの日数によって自動的に新生児が前夫の子とされる嫡出推定を避けるために無戸籍の子供が生まれているという法的不備をめぐる前半から、戸籍の歴史をたどり、難民移民、戦争その他にかかわる当事者にも取材し歴史と実態の広い視野から論じる新書。
実子の無戸籍状態を著者自身が体験し、裁判で「認知」という方法を勝ち取ったたことも踏まえた一章、民法の観点から詳述した二章、律令制の時代から戸籍の歴史をたどる三章、そして四章では沖縄、サハリンなど実際の無戸籍者へのインタビューを行い、五章では戸籍と国籍など国際的な面を、六章では天皇制や家族制度、ジェンダーなどと絡めて論じ戸籍の形骸化を論じている。無戸籍者の支援活動に従事する著者の具体的な知見を生かした前半二章も面白いけれどもそれ以降の戸籍という視点から歴史的経緯、現在及び将来の問題へと議論を広げていくのも新書として良くできている。
自宅出産の多かった一九六○年代半ばより前は多くの対象者が「誕生日をずらす」ということで離婚後三〇〇日を避け、後夫の子や非嫡出子として出生届を出していたのだ。なんともおおらかな時代であったが、病院出産が主流となるとそうはいかず、出生の日付は出生証明書に厳密に記される。明らかに父は前夫ではないと思われるケースであっても、前夫を巻き込んだ調停・裁判をしなければならないようになり、それを避けんがために出生届を出さない人々が以降、格段に増えていったという事情があるのだ。4P
嫡出推定による無戸籍状態の核心はここだろう。法の壁によって出生届を出したくても出せない状態になる状況がある。母が離婚した前夫や、無戸籍者自身が手続きをしようとしても出生届を自身で出すことができず親との折衝が必要になり、複雑な家族関係の場合、無戸籍状態から抜け出せなくなってしまう。
私は最初の結婚で三人の子どもを生み、その後に離婚をした。離婚調停に時間がかかり、この間の別居期間はかなり長い。
ようやく離婚が成立し、ほどなく現在の夫との間に四人目の子どもを授かった。しかし、息子の出生届はいったん受理された後に異議が唱えられ、結果的に彼は「無戸籍」となった。法的離婚後に懐胎したことは明らかだというのに、早産気味で二六五日目で生まれたからだった。16P
元々民法七七二条の嫡出推定は、母親と違って明治時代には血縁関係を確定しがたい父親について、子の保護のために設けられた規定だった。出生のメカニズムの解明が進み、婚姻に関する状況も変化した現在では、著者がぶつかった事例のように逆に子を無戸籍状態に追い込むルールになってしまっている。
実際に自分が父親であっても父であることを認めない、あるいは認めたがらない場合が多かったためだ。DNA型や血液型鑑定で血縁上の父子関係を証明する手立てがなく、また圧倒的に男性の立場が強い時代には、子どもの立場を守り、早期に身分を安定させるためには必要な規定だったのである。51P
この規定の改正が進まない理由を著者はこう指摘する。
合理的理由がない中で、この規定が依然存在するのは、離婚女性へのペナルティや行動規制、つまりは女性への「懲罰法」として機能しているからだということを、私たちは自覚しなければならない。64P
「無戸籍になるのは離婚のペナルティだ」
私が芦屋市役所で言われた言葉である。
法律には離婚後三〇○日規定がある。それを知っていても、知っていなくとも、それに「違反」して子どもを三〇〇日以内に生めば、当然ながら母親には連絡を取りたくない夫との交渉また夫には自分の子でもないのに、子どもが自分の子として登録されるという「ペナルテイ」がある。
そしてそもそも「離婚」というはしたないまねをしたものは、どんな責め苦を得ても文句を言ってはならないという、暗なる圧力がある。どんなにつらくとも「婚姻継続」をすることこそが道徳的行為。途中で逃げ出すなんて、我慢がたりない。それこそ不道徳。
実は、自らに向けられたこの「不道徳」のそしりへの反論として、戸籍上の序列へのこだわりがあるのかもしれないと思うのだ。65P
当初は子供の保護のためにあったはずの規定は時代を経るなかで保守的な家族形態のイデオロギーを担ったものと見られるようになり、そこから外れた者への罰則規定として見なされてしまう。そして運用者がそれを明らかに誇示してもいるわけだ。
そして著者の議論は戸籍制度そもそもの歴史を遡り、無戸籍者の歴史や、大戦によるさまざまな戸籍の事情を取材していく。戦争で15万件の戸籍の滅失を経験した沖縄で再編成された戸籍には明治憲法の名残が見られたり、サハリン残留日本人への扱いについても述べられる。
日本人の妻となった朝鮮人他は日本に〝帰国〟できたものの、朝鮮人と結婚した日本人女性は帰る術を失ったのである。
全土がソ連領となったサハリンで、彼女たちは日本人であること、その証明である「戸籍謄本」を隠して生きなければならなかった。残留者は親の死後見つけた戸籍謄本を棺の中に納め「せめて魂が日本に帰りますように」と祈る例も少なからずあったという。130P
五章「グローバリゼーションと戸籍」では、蓮舫の件などもあわせて二重国籍問題などが論じられている。帰化などの要件は戸籍に常に記載される訳ではないけれども、二重国籍者の国籍選択宣言については常に記載されてしまうので、国籍選択をするメリットが実はない、という話がある。
今回の問題で奇しくも露呈したのは、日本では法律的には日本では法律的には「国籍選択しなければならない」とされているものの、その実効性はなく、選択すべき年齢以上でも「二重国籍」「三重国籍」の人は存在するということだ。日本は事実上既に「重国籍容認国家」なのだ。
それで何か問題があるかと言ったら、今まで世間的に認知されるような特段の事象も起こらず、だからこそ、議論もされてこなかった。
重国籍だけではない。驚くべきことだが重婚もできるのだ。おそらく多くの日本人は知らないが、妻二人、夫三人など、複数の配偶者が記載された戸籍が存在する。173P
嫡出推定の議論の際でもたとえば英国人と結婚した場合には英国には再婚禁止期間がないため、結婚後出産した子供については食い違いが生じるので父を「未定」とする運用がされているとあり、国際結婚などではそうしたイレギュラーな運用が実態としてある。戸籍は国内だけで完結するものではないわけだ。
また著者は蓮舫の二重国籍問題については批判的な態度だ。国籍選択をしなかったことをリベラルな論者は問題なしとして擁護するけれども、それではこれまで国籍を失う選択をした人たちは何だったのか、戸籍の開示よりも立法府の議員としてなすべきことがあったのではと問う。
立法府に身を置く蓮舫は自らを「問題なし」としてはならず、会見では何に起因してこうした問題は起こるのか、また、国籍法の不備があるならばどこをどう改正・改善するべきかを徹底的に調べ、その結果を示さなければならなかった。180P
外交官については二重国籍の禁止規定があるけれども政治家については規定がない状況や、そして現在、国外へ出ている国民への配慮や投資先としての環境作りなどの理由でインドが二重国籍を認めていたり、そもそも国籍離脱を認めない国があり、欧州でも重国籍容認の流れがあるという事情も触れている。
戸籍の歴史を総覧した上で著者は以下のようにまとめる。
日本が近代国家として進んで行く上で、戸籍は国民に対して精神性や道徳性の規範を植え付けるものであると価値付けしていくのである。加えて帝国主義を広げていく手段としても使われ、戸籍は植民地政策において同化を求める術、もしくは排除、差別を具現化し見せつける道具としての性格を併せ持つようになった。
戸籍制度の展開過程は、幕藩体制における身分規制からの解放ではあったが、家族関係の把握行為を通じて、そのあり方を法的に規制する過程でもあった。「〝政府にとって〟のぞましい社会」を作る基礎としての家族関係が、人為的に作り上げられたのである。200-201P
そもそも戦後の民法改正時に、「籍」は家族単位でなく個人単位にするはずだった。氏も夫婦別氏制度に改正するはずだった。しかし、紙不足でできない、と司法省(現・法務省)はGHQに答えて、そのままとなった。222P
男女平等は「婚姻の自由」と、中途半端ながらも実現した「嫁の解放」に具現化されたが、離婚女性や非嫡出子等子どもの問題は後回しにされたのである。
そこにこそ戸籍が近代化できなかった理由がある。228P
『変人のサラダボウル』にも二巻116ページに文科省から教育委員会に無戸籍の子供にも義務教育を受けられるようにという通達が出ていて、無戸籍の子供に戸籍取得の支援もしている、という話が触れられている。本書でも38ページに無戸籍児童の就学支援について文科省の官僚たちが取り組んだ話が触れられていて、前川喜平が事務次官に就任してからのことだ、と名前が挙げられている。
市野川容孝、小森陽一『難民』
思考のフロンティア叢書の一冊。小森はヨーロッパにおける
主権国家から
国民国家への転換によって生まれにより差別される者が生まれる歴史をたどり、市野川は難民という言葉の語源・翻訳をたどり直して難民の定義を歴史と共に再検討する。
小森はアガンベンやアレントを引きながら、君主が権力を持つ主権国家から国民国家への歴史的変遷をたどり、第一次大戦時その国に生まれた国民と帰化した亡命者の間に線を引き、帰化人たちの国籍を剥奪した事例を挙げ、この二つの国家形態の質的違いを人と人との間に線を引くことだと論じる。
戦争の主体としての主権者は、「主権国家」から国民国家に完全に転換したといえよう。国民国家システムこそが「総動員」と「総力戦」を可能にし、産業資本主義的社会形態がその産業の発展の要としてのテクノロジーとともに、「総力戦」と「総動員」を不可避のものにしたてあげていったのだ。35P
そうしてその国での多数派、「国家民族」となれなかった「少数民族」が生み出され、不平等な地位に置かれ、しばしば国籍を剥奪され追放されることになっていく。第一次大戦では無国籍者と難民が大量に生み出されることになった。
ここに、国民国家において人民主権と人権を無媒介的に結合させてしまったことによって発生する、最大の矛盾が明らかになる。「人権」における人間の概念が、個人ではなく「国民」あるいは「民族」としての構成員を指すことになってしまったため、国民的解放や民族自決権と混同され、結果として、「人権」が、個人としての人間にとっての、決して奪ってはならない、譲り渡すことのできない、すべての法や権利の基礎となるべき権利であるということが、国内法でも国際法でも保証されない「人権」をめぐる無法状態、「例外状態」の日常化と常態化が現出してしまったのである。41P
「難民」は決して奪われてはならない、譲り渡してはらない「人権」そのものを奪われているのである。「難民」は、諸国民からなる国民国家システムから締め出されているために、結果として人類からも締め出されてしまっているのだ。「難民」は「人権」そのものを奪われ、完全な無権利状態におかれている。42P
この無権利状態は、単に権利を奪われているのではなく、そのような権利を保障する共同体への帰属を奪われているといい、小森はアーレントにならって「諸権利を持つ権利」と呼んでいる。
この前半の市民的「諸権利」を保障するのが国民国家に限定されてしまったことに無権利状態の人々を生み出す要因があり、そこから追われた人々は「人類そのものからの追放」となる以上、後半の「権利」を保障するのは「人類」となる。しかし人類は権利を保障する主体たりうるのかという疑義が生まれる。
小森の章の後半部分は、セイラ・ベンハビブという論者の著書をたどりながらこの二つの権利のあいだを埋める理路を探っていくことになる。主権国家のあいだを非国家組織の活動が埋めることができるか、という問いを著者は投げかけているけれども、話が込み入っているのでここでは省く。
市野川の章では、そもそも難民という言葉がどのような意味で使われているかの辞書的定義から始め、日本語の難民には必ずしも故郷や国を離れることは含意されていないけれども、難民条約の定義で国外にいる者とあるのは、一つにはパレスチナ難民の支援がUNHCRから切り離されたためだという。しかし今ではUNHCRの支援事業は対象範囲を拡大しており、国境を越えられなかった国内避難民や、自国に戻っても支援が必要な帰還民、あるいは無国籍者なども含まれるようになっている。UNHCRの目的としては政治的迫害は外せなくとも、災害などの支援にWHOやユニセフとの連繋が重要で、つまり結局のところ難民支援は、生活の困難に直面した人々、という広い意味での「難民」を対象にせざるを得ないと論じている。ここから著者はパレスチナ問題を題材に、「難民」という言葉の諸相を探る。
UNHCRやUNRWAの略称のRはRefugeeで、これには迫害などから国外へ逃れたという意味が大きい。だから過去の訳語ではRefugeeには亡命者や避難民といった言葉があてられ、「難民」とは訳されなかった。そしてパレスチナ難民は逃げたのではなく追い出されたのだとして、別の様相で捉える。受難のなかにあってその場に留まり抵抗するものとしての難民。こうして著者は難民という言葉を四つの相に分ける。「受難民」という大きな括りのなかに、自分の意思で逃れた「避難民」、元の場所に戻りたいのに追い出された「流難民」、その場に留まる「耐難民」だ。
こうして概念を整理しながら日本の難民問題をたどり返し、坂口安吾のエッセイの「難民」の用法を分析したりしながら、イスラエルとパレスチナの関係における「難民が生む難民」の悪循環から逃れる方途を探っていくのが後半部分だ。ユダヤ人のパレスチナへの暴力に触れつつ著者はこう述べる。
自分たちを難民として、具体的には英米を中心とした西洋諸国によって世界から居場所を奪われつつある民として認識し、その自らの難民性をたとえば「大東亜共栄圏」という神話によって打開しようとした日本人は、まず侵略や占領によって他の多くのアジア人に難をもたらし、そして敗戦によって、今度は満州等の占領地にいた日本人自身が難民となった。
「難民が生む難民」という悪循環は、自らの難民性から逃避することなく、その中に立ち続けることによってしか断ち切ることができないのかもしれない。126P
この論法は著者がアレントを引いて「逆説的パーリア」について述べる時にも出てくる。
正確には、一つの国に帰属しながら、つまりある国境の中に立ち続けながら、その国境そのものを絶えず揺さぶり、相対化する、そういう眼差しである。174P・傍点を下線に
インターナショナリズムとは国境の無化を志向するのではなく、国境のなかにありつつその相対性をつねに志向し揺らぎを見いだすこと。世界政府のような統一的政体の夢想ではなく、今この場にあることを疑い異論を差し挾み続けることが重要だということは現在の侵略国家の様相を見るにつけ思い知らされる。
いずれにしても、カントの歓待の原則は、没歴史的に適用されるべきものではない。つまり、誰が誰に対して、どのような形で国境を引いてきたのかという歴史的経緯を考えることなしに適用されるべきものではなく、また、その経緯をふまえるなら、同一の権利であっても、ある人びとのそれが、他の人びとのそれよりも優先的に尊重されるという非対称性があって然るべきなのである。139P
歓待・友愛の重要性を言うには在日朝鮮人への一方的な国籍剥奪のような、過去を踏まえた歴史的なものではなければならないとも指摘する。歴史性の忘却は暴力そのものでもある。
また、日本の「難民鎖国」について、戦前からの人口増大への危機意識があると指摘した部分は意外だった。難民受け入れの少なさはレイシズムとも絡んでるとは思っていたけれど、優生保護法の問題とも重なる、外国人の血への忌避感情もあるのかも知れない。
日本が過剰人口を抱えているという認識は、敗戦後もずっと連続し、少なくとも1960年前後までの施策の課題は、人口を減らすこと、しかしその質は向上させること、そして移民事業によって可能なかぎり多くの日本人を外に出すことに求められた。日本の外から移民や難民を受け入れるという発想は、そこには全くなかったのであり、現在の日本の「難民鎖国」状態も、その延長線上にあるのである。163P
20年近く前の本だけれどここには2005年、UNHCRが難民認定したクルド系トルコ人とその息子を第三国で生活できるよう準備を進めていたさなかに日本が強制送還して「前例のない」ものとして強い警告を受けた事例が載っている。難民保護の基本を逸脱した非常に暴力的な様子がこの頃にも窺える。
ちょっと面白かったのがこの本の編集者として名前を挙げられる人が、今は岩波書店の社長らしく、たとえばこの次の本の奥付に名前が出てる人だったことだ。
橋本直子『なぜ難民を受け入れるのか』
難民問題の専門家・実務家として働く著者による、各国で行なわれている難民受け入れ制度を概説する入門書。受け入れの歴史と論理を概説し、難民保護を待ち受け方式と連れてくる方式とに分けて説明し、日本の受け入れの歴史や北欧諸国の現状も論じている。
ボランティア活動から始まり外務省の人権人道問題の調査員、IOM(国際移住機関)、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などに勤務し、現在法務省の難民審査参与員を勤める専門家というその道のプロによる難民受け入れ過程の解説で、難民問題のニュースを読むためのバックボーンとして役に立つ。シリア難民問題、入管法改正、あるいはウクライナ難民の受け入れなど、近年難民について話題となることが多くなったものの、ネットにはフェイクニュースがあふれている状況を踏まえ、日本としてどのように舵取りしていくのかを考える材料として、難民問題の基礎的情報を提示する、としている。
難民の「保護」とは迫害を怖れて庇護を求めてきた外国人に法的地位を与え、住民と同等の権利を保障し、隣人として共に社会を構成すること。しかし日本はこれまで難民の保護ではなく、難民を受け入れる「途上国」や国際機関やNGOへの支援を通じた間接的な支援を得意としてきたという。
序盤は難民条約締結にまつわる歴史をたどりつつ、国民国家体制の確立は難民発生の歴史でもあったとして、「国民国家と難民はコインの両面の関係にある」(4P)、と著者は述べる。締結された難民条約においても以下のような点を指摘している。
この「差別に基づく迫害」という要件があるために、例えば戦時下での不特定多数に対する暴力や副次的被害、テロリストによる無差別暴力、自然災害や気候変動による生計手段の破壊、また「途上国」において蔓延する極貧状態を逃れた者は、通常は難民条約上の難民とは認められない。10P
そんななかでアフリカ、中南米諸国は条約の定義よりもより広い定義を採用しており、「少なくとも二一世紀においては常に、世界における八割前後の難民は「途上国」で保護・支援されている。」(50P)、ということを指摘している。この理由について著者は「多くの「途上国」や中進国では、受入国側の政策決定者の中に、難民として入国を求める者と同じ民族的・部族的・宗教的つながりを持つ人がいる」(53P)という研究を紹介しており、これは難民を受け入れるのはなぜかということへのひとつの回答でもある。
著者が難民に関わる国際機関としてUNRWAについて述べている箇所を引いておく。UNRWAは、
一九四八年のアラブ・イスラエル紛争によって家を失った約八〇万人のパレスチナ難民を支援するために、一九四九年一二月の国連総会決議によって設立された。現在では、中東地域に住む約六○○万人のパレスチナ難民に衣食住などの死活的人道支援を提供している。UNHCRとの決定的な違いは、UNRWAはパレスチナ難民のための「恒久的解決」を模索する任務は与えられていないこと、そして予算規模が圧倒的に小さいことである。この二点ともイスラエル=パレスチナ問題をめぐる国際政治に大きく影響を受けた差異である。また、UNRWAの活動対象となっているパレスチナ難民は、難民条約第一条Dにおいて同条約上にいう難民の定義からは明示的に排除されているため、難民について議論する際に往々にして忘れ去られてしまう傾向にある。30P
本書では難民受け入れについて二つの方式に分けて解説している。第二章の「待ち受け方式」と第三章の「連れてくる方式」だ。一般にイメージされているのがその国に何らかの形で難民が直接訪れ、その国で庇護申請を行なう「待ち受け方式」だろう。しかしこれは現在いっそう難しくなっているという。現在出入国管理が厳格化しており、出国やビザを得る段階でハードルが高く、またいったん自国内にたどりついた外国籍の庇護申請者を迫害の恐れがある国に送り返すことを禁じる「ノン・ルフールマン原則」により、先進国は各国ともそもそも入国されないように水際対策に努めていることがある。
代わりに目立っているのが「連れてくる方式」と呼ばれる、「第三国定住」方式だ。元々の国から逃れてきた人がたどりついた国で保護した難民を、また別の国が受け入れる、という方法だ。
ではなぜ、国際法上は義務の無い「連れて来る方式」でわざわざ難民を受け入れるのか。第二章で見た「待ち受け方式」と対比させると、その理由が浮かび上がってくる。結論から言えば、受入国政府にとって都合が良くかつ人道的だからである。85P
庇護申請者が難民かどうかを自国で審査する待ち受け方式に比べて、UNHCRが審査した上で受け入れられることや、受入数を計画的に決めることができるのは政策的、予算措置上も都合が良く、さらには二国間での難民認定が政治的軋轢を生むことを防げるというメリットもある。
「日本政府がクルド人の難民認定に極めて慎重であるのも、伝統的にトルコ政府が親日的であることと完全に無縁ではあるまい」(88P)と著者は指摘している。第三国定住は人道性と国益のバランスがとれた方式として各国に好まれるけれども、同時に待ち受け方式を厳しくする傾向を著者は懸念してもいる。国際的な人道上の責務として難民受け入れは行なうけれども、国益の観点からリスクを低くしようという思惑が働く、これをして著者は副題に掲げる「人道と国益の交差点」と呼んでいる。送還者と庇護申請者を交換して賛否両論分れた「難民交換」は国益が優先された事例だと言えるだろう。
第四章は日本の難民対応の歴史を概説していて、インドシナ難民によってアジアにはないと思われていた難民問題がわき起こり難民条約加入に至る流れや、制度の整備過程やこれまでにどれだけ難民を受け入れたのかの事例も触れられている。そして以下のように日本の難民対応について言及する。
このように、一方で外国にいる強制移住者に多額の財政的支援を寛容に拠出する反面、国内への難民受け入れはできる限り抑える方針は、世界の難民学者の間で「ジャパニーズ・ソリューション」 (日本的解決方法)と揶揄されている。114P
この「日本的解決法」について、著者は拠出額と難民受入数とのあいだに「反比例の関係」があるという意味だとして反比例ではないと反論しているのはおかしいのではないか。「世界トップレベル」の拠出金がありながら難民受入数の異様な少なさ自体は著者も認めているわけで、妙な反論だと思う。
さて、読者のなかにはテレビや新聞報道などで、他国における難民認定率が例えば三〇%とか五○%とかであるのに、日本における難民認定率が一%前後というグラフを見て不思議に思ったことがあるかもしれない。良し悪しは別として、日本の難民認定率は他のG7諸国と比較すると桁違いに低いことは間違いない。126P
この後著者は難民認定率が高ければ高いほど良いわけでは決してなく、量より質の問題だとして幾つかの点について論じていて、著者も数が少ないことを正当化する理屈に賛成しているわけではないものの、ここらの論述には隔靴掻痒の感があって数の少なさ自体をを強く批判はしてない雰囲気がある。
第四章、いや本書でもっとも印象的なのは、2021年タリバンに制圧されたアフガニスタンから国外組織の職員らの退避・受け入れに高いハードルを課した非人道性と、翌年ウクライナ戦争における避難者のほとんど無条件と言っていい寛容な受け入れ態勢の落差だ。ここだけでも読んだ方が良い。
アフガニスタン退避においては多くの国が数千数万人の現地職員と家族を退避させたのに対して、日本はそもそも退避対象者を絞りに絞ったり、タリバンからは意味のない官か民かで線引きをしたり、来日後に難民申請の拒否や帰国の強要を行なったことが挙げられている。退避対象にはその時点で雇用契約があるものに限って、長年その職についていて目立った活動をしていた人を入れなかったり、NGO職員は家族の退避が認められなかったり、民間の関係者に課せられた来日要件はアフガニスタン人の来日をできるだけ阻止する非人道的で理不尽なものと著者に指摘されている。そしてこのアフガニスタン退避と翌年のウクライナ戦争のあいだに「関係法令の改正は無く、日本と繋がりのないウクライナ人には簡単にできたことを、長年日本のために働いたアフガニスタン人には拒んだのであった。」(153P)、と傍点付きで厳しく批判している。
全員をアフガニスタンから直接救出することは困難だったかもしれない。しかし自力で隣国に脱出して日本の在外公館に助けを求めた元大使館・JICA職員や現職のNGO現地職員に対しても、日本政府は通常の短期滞在査証発給要件よりもハードルの高い条件をわざわざ新規に創り出して要求した
のである。都合の良い時だけ「NGOとの連携」や「顔の見える国際協力」、「人間の安全保障」を唱え、緊急事態での人命救助では平時よりもさらに排他的になることが、人道を重んじる先進ドナー国として責任ある政策と言えるのだろうか。155P(傍点を下線に)
アフガニスタン現地職員の退避政策の失敗と非人道性については、外務省やJICAの中にも個人的には胸を痛めている人も多いだろう。刻一刻と迫る期限と予測不可能な緊急事態のなかで、ギリギリの折衝と妥協が退避政策立案の裏で展開されたと推察される。しかし結果的には、日本政府の非人道性はアフガニスタン人の間で広まり、「今後働くなら日本以外の組織で」 という認識まで広まってしまったと聞く。特に政治情勢が不安定な「途上国」で日本が安全に国際協力活動を展開するには、優秀で信頼のおける現地職員の確保が必須であるのに、そのような(潜在的)現地職員に対して「日本の組織では働かないほうがよいですよ」と外務省自らが国際的に宣伝してしまったようなものである。これは明らかに日本の国益を損ねるものであり、現地職員の退避制度作りが急務である。157P
アフガニスタン退避に対するこの理不尽なまでの厳しさに対して、ウクライナ戦争での受け入れは非常に寛大かつ迅速なもので、このこと自体は評価できても、他の難民に対する日本の厳しさとの格差が大きく、これは国際法上の「無差別原則」に抵触する恐れがあると指摘している。
そして著者の重視するのはここだろう。
ウクライナ(避)難民支援策は、官民問わず日本が「やろうと思えばここまでできる」ことを自ら実証したのであり、今後の庇護政策は全てウクライナ (避)難民を最低基準としなければならない。161P
日本の難民政策について言質をとった形だ。
この異様な対応の差は非常に衝撃的で、あまりにも人種差別的ではないかとも思うけれど、アフガニスタン退避が菅政権時代でウクライナ戦争が岸田政権時代だったのは、これは影響があるのだろうか。岸田首相はウクライナ支援を明確かつ早期に打ち出したわけで。
五章は難民が受け入れ社会に対して問題なのか、という問いを論じている。その始めに、政治的迫害などで起る難民というのは「そもそもがエリートが多い」ということで、そうでなければ国外に脱出してそこで庇護申請などができない以上当然の話でもある。意外に死角の指摘だ。
各国での犯罪統計などを検証しつつ、アメリカでは移民の方が地元民より犯罪を行なう可能性が低いという研究が出ていたり、ドイツでは加害者と被害者が移民同士の可能性を示唆しつつ、移民の増加と犯罪率の増加に関連性を認めたり、スウェーデンでは移民の犯罪リスクは二倍だというものもある。
日本については以下のように指摘する。
入管法違反を除く刑法犯のうち、いわゆる凶悪犯検挙人員の割合が日本人よりも来日外国人の方がわずかに高くなりつつある可能性を示すデータがあることは懸念材料 ではあり、「その他の外国人」を含むより詳細かつ継続的な調査・研究が求められる。その上で、一般的に言えば「外国人が増えると刑法犯罪が増える」ことを示す公的データは無く、「難民などの外国人が増えると著しく治安が悪くなる」という言説は、必ずしも公的データや統計に基づかない、どちらかと言えば「体感治安」の問題であると言いうる。190P
受け入れの金銭的コストについては日本の第三国定住難民への定住支援プログラムは高い就労率を誇っており、他の第三国定住諸国では定住後五年での就労率が三割にも満たないことが通常のなか日本では九割を超えた家族が自立しているという。前記の量より質、というのはここに掛かるのかも知れない。
六章の人道先進国と言われる北欧諸国での難民受け入れについての歴史をたどっている。入国後生活保護や医療などに頼らざるを得ない「特に脆弱な難民」を枠を設けてあえて受け入れている北欧諸国では、この人道政策について論争にすらなったことがないという。しかしそんな北欧諸国でも近年の右派政党の伸張によって難民政策にブレーキが掛かり、シリア難民が押し寄せてくるというイメージなども重なり、庇護申請への厳格化がなされ第三国定住の枠も縮小する動きが見られるという。
しかし、ノルウェイは唯一例外的に制度を維持している。ノルウェイにも極右政党は存在するけれども連立政権でなければ与党に入れない多党政治ゆえに政策の調整が行なわれるという政治システムがあり、また難民受け入れにおいても、社会的統合に対する継続的な取り組みによって移民難民に対して大多数が良好なイメージを抱いている。
このようにノルウェイの第三国定住政策は、脆弱だが定住の可能性が高い難民を丁寧に選抜し、受け入れ側自治体と難民の双方に強い動機付けの仕組みが作ってあるため、入国後の就労や就学の成功率が比較的高く、犯罪率が低下しつつあり、庇護政策に関する市民による支持と理解が広範囲に広まっている。247P
国外の事例を踏まえて著者が提言するのは第三国定住の拡充だ。あまりに少ない年間60人に対して2000人を超えるウクライナ難民を受け入れており現実的に可能だと証明されたとし、庇護政策と労働移民は別のロジックだと断りつつ労働需要の点からもより拡大されて良いと述べる。また、受け入れ要件に日本社会への適応力と生活を営むに足りる職につくことが見込まれるものとその家族という絶対要件があることは難民保護という本来の趣旨に悖るものではないかと懸念を示す。難民鎖国状態についても国際的な批判が高まっており、デメリットが強くなっているとも指摘する。
2023年の入管法改正において三回目の申請どころか初回申請でも難民が送還できる規定になっていることに気づいた著者が修正案を与野党合意で取り付けたものの、対決姿勢を強調するグループによって葬られたことについても批判的で、この難民条約違反の条文は早急に改正されるべきだという。また難民認定制度が行政から独立していないのはG7でも日本だけでかつ国内人権委員会がないことについても中央省庁の関係者の懸念や国外からの批判もあり、このままではもうもたない、と言われているとも指摘している。海外職員の退避受け入れ制度の拡充、難民認定基準の見直しなども挙げている。
実務家としてのスタンスから難民受け入れ制度の国際的な解説をしていて、日本の優位性と問題についても双方触れており参考になる部分は非常に多い。穏当な立場を守ろうとしつつもアフガニスタン退避とウクライナ難民について日本のダブスタに苛烈な憤りを示しているところは読み所だ。
長谷部恭男『法とは何か 法思想史入門』
なぜ法に従うのかという問いを軸に国家と法と道徳の関係を
ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった
政治学の流れやケルゼン、ハート、ドゥオーキンといった
法哲学者の議論を紹介しながら14の問いの形で概説するコンパクトな入門書。三度目の刊行となるロングセラー。
「ホッブズ、ロック、ルソー、カントと、社会契約という枠組みを使って異なる世界観を抱く人々が共存するための議論を組み立てた人たちの国家観を概観し」、「国家はそもそも何のためにあるのか、そして、国家の権限、つまり国家に権威を認めるべき範囲には、どのような限界があるか」(98P)を問うというのが本書のアウトラインとなる。「第1部 国家はどのように考えられてきたか」でホッブズからカントまでの思想家を扱い、「第2部 国家と法の結びつきは人々の判断にどう影響するか」でなぜ法に従うかを法哲学者の議論からたどる。そして「第3部 民主的に立法することがなぜよいのか」で民主政あるいは多数決の正当性とその歯止めについて扱っている。
右側通行、左側通行など、本質的にはどちらでも良いけれどもどちらかに決めておくのが重要なことを「調整問題」と呼び、法に従う理由の一例として用いている。面白いのは、誰が国家なのかということも「調整問題」だという。
「勝てば官軍」という言い回しは、正邪の判断も実力次第というシニシズムの典型的な表現とみなされることがありますが、実は、勝って人々の服従を得ている政府でなければ、そもそも政府としての役に立たないという、当然の事理をも示しています。国家としての権威を認めてもらうには、現に人々に従ってもらう必要があり、そのためには、現に大部分の人々が従っているという事実の支えが必要です。36P
権威だと主張する国家の言う通りにすると、個々人が自分で何がとるべき行動かを考え、判断するよりも、より適切簡便に自分が本来とるべき行動をとることができるからこそ、国家の言う通りにすることに理由があります。160P
となればもちろん、法に従うべきではない場面というのもあり、終章で扱うソクラテスの事例はその代表的なものだろう。またここで著者は典型的な調整問題の交通法規において、見渡す限りの直線道路にまったく車が通っていない場合、赤信号でも道を渡るべきでない理由はあるかと問い、ないと答えている。
現代リベラリズムの祖といわれるジョン・ロックのロジックにキリスト教の信仰が絡んでいるなど、その問題がどのように問われまたその限界は何かということについて各章コンパクトに論じられており、現在の法思想の歴史的文脈を明確にする役に立つ本だろう。著者もこう述べている。
現代の日本の法律家の大部分は――おそらく世界の法律家の大部分も――カントやヘーゲルなど読んだこともないし、そんなことを意識したこともないのではないでしょうか。それでも、過去の思想は意識されることもなく、現に生きている人々の思考を捉え、束縛しているものです。カントやヘーゲルに捉えられているのはましな方で、訳の分からない三流思想家に操られていることも少なくありません。それと意識することもなく過去の思想に操られるよりは、自分がどのような立場を取っているか、それを明確に意識した上で、とるべき行動を判断する方が望ましいはずです。249P
法の役割についてはカントとヘーゲルの二つの立場があると述べる。カントは異なる倫理を奉じる人たちの共存を目指し、ヘーゲルは世界は多大なる犠牲を払いつつも理性の歩みによってより理性的な社会が構築される、という。その上で日本の公法学はカントの系譜に属するものだと言う。そして現在のロシアはヘーゲル的立場にあるのではないかと指摘していて、前掲文で「三流思想家に操られている」などと厳しい言い方をしているのはロシアが戦端を開いた戦時下現在の法律家の様子について何か具体的な危機感を持つ出来事でもあったんじゃないかと思わせるものがある。
内容についてあまり触れてないので、とりあえずどのような問いが立てられているのかわかるように、目次を引いておく。
序章 法はあなたにとってどういう存在か
第1部 国家はどのように考えられてきたか
第1章 何のための国家か
第2章 平和と自己防衛を目指す国家──トマス・ホッブズ
第3章 個人の権利を保障する国家──ジョン・ロック
第4章 自由を保全する国家──ジャン・ジャック・ルソー
第5章 永遠に完成しない国家──イマヌエル・カント
第6章 人々がともに生きるための立憲主義
第2部 国家と法の結びつきは人々の判断にどう影響するか
第7章 法の規範性と強制力──ケルゼンとハート
第8章 法と道徳の関係──ハートとドゥオーキン
第9章 法が法として機能する条件
第10章 法と国家──どちらが先か
第3部 民主的に立法することがなぜよいのか
第11章 なぜ多数決か
第12章 民主政の過去から学ぶ
終章 法に従う義務はあるか
補論 道徳がすべてなのか