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単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall
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2023.12.31岡和田晃編『上林俊樹詩文集 聖なる不在・昏い夢と少女』の制作に協力
上林俊樹詩文集『聖なる不在・昏い夢と少女』を刊行します | SFユースティティア

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2022.11.20後藤明生文学講義CDの付録リスニングガイドを執筆
後藤明生文学講義のCDの付録リスニングガイドに寄稿 - Close To The Wall

2022.09.30図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニアルーマニア』の書評が掲載
図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載 - Close To The Wall

2022.09.28単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall

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2022.04.30「図書新聞」2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載
図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載 - Close To The Wall

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手塚治虫『ながい窖』

ながい窖

ながい窖

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帰化した在日朝鮮人をめぐる日本社会の差別を描いた1970年発表の全集未収録短篇50ページに六人の解説80ページを加えた一冊。奴隷的労働から脱して子供にも朝鮮語を教えず同化を試みるものの差別と暴力のなかで朝鮮人で何が悪いのかと叫ぶ一人の人間を描く。

帰化して日本名を名乗って大企業の重役にまで上り詰めた在日朝鮮人森山尚平こと趙は戦時下に地下壕開削の過酷な労働に従事させられた記憶がふと蘇ることがある。その時の知り合いから大村収容所を脱走して母を探しに来た朝鮮人の青年を匿うように頼まれ、突然訪れた彼を拒否できずに家に置くことになる。青年は森山の娘と関係を深め、母らしき人物を捜し当てるも私服刑事に見つかり逃げる途中でトラックに轢かれて二人とも死んでしまう。しかし森山は娘が朝鮮人の青年と事故死したことが露見するのを恐れて自分の娘ではないと否定して、友人を介して間接的に引き取る。そんななか、息子は親の煮え切らない態度に反抗し朝鮮学校に進学して朝鮮語、民族教育を受けることを選ぶ。そこで息子は日本人の高校生の集団から狙われリンチを受け重態となる。森山は加害者の高校に談判に赴くけれどもここでも己を朝鮮人と認めないままでいるところを会社に民族を通告すると脅される。こうして彼は「だまれ」「朝鮮人でなにがわるい」と己の出自を日本人に宣告することを余儀なくされる。

大略そういう話で、あなぐらを意味する「窖(あな)」とは逃げられない深い穴での労働とまといつくその記憶、そして朝鮮人としての出自を隠して生きる日本社会での己のありようを示している。対して朝鮮人の青年除英進は己の家族を引き裂く国境を越えるイメージを空を飛ぶ白い鳥に託して語る。深い穴と羽ばたく鳥のイメージの対比が作品の核に据えられている。

解説で指摘があるけれども、タイトルページの窖は白バックで穴の中から外を眺める構図になっていて、逆に幾度も森山に去来する窖のイメージは明るい外から穴のなかの漆黒の闇を覗く構図になっている。窖から外へ出るイメージと、窖に引き戻されるイメージ。強制労働のイメージはその穴のなかを照らすコードで繋がれゆらゆら揺れる裸電球として現われており、幾度も森山をその暗い記憶が苛むことになる。

完成度が高いわけではないと言われており、実際に途中から詰め込んだような脈絡の不自然さはあるものの、朝鮮と日本に引き裂かれる差別のありようを描き、力強く反差別を打ち出すメッセージ性のある作品でその試みを受け止める意義は大きい。同時に、同化を試みる人間が差別に加担する様子も描いていて、森山は会社重役として入社面接において韓国籍の青年に出くわして自身のトラウマを刺激され、朝鮮人だから会社に入れられないと言ってしまう。また日本酒が好きで朝鮮料理屋の焼き肉を避ける振る舞いなど、当事者だからこそ過剰に抑圧側に加担してしまう様子も描かれている。


以下解説パートについて。書き手のプロフィールは公式サイトを参照。
ながい窖 | 法政大学出版局

四方田犬彦「差別を見つめる人 手塚治虫」

本稿では手塚の生涯の主題とは「差別」だったと切り出す。作品の前半に対する後半の粗さなど作品の瑕瑾も指摘しながら、同様に朝鮮人を描いた手塚の別作品などや漫画史における意義などを解説し、朝鮮人差別を取りあげる先駆性、同時代的な特異性を評価する。手塚は日本人にとっての他者を描き、その先の人間にとっての他者を描くことが重要だったと論じる。安易に「ヒューマニズム」という言葉で括ってはならない、とも言っているけれど、差別や他者と出会った時の生々しい感情を描く姿勢を丸めた言い方がヒューマニズムなんだろうなとも思う。

本浜秀彦「単線的な手塚像の修正を迫る作品」

手塚にとっての沖縄を論じたという著者がその枠組みを用いつつ、ブラックジャックで復活する前の低迷期とされる本作が発表される頃の動向を追い、沖縄テーマなど日本の近現代という社会的な主題に取り組んだ時期だという別の見方を提示する。作中の強制労働の舞台の戸狩山の地下壕跡に足を運んで、手塚自身もここに来たことがあるのではないかと書いている。事実作中で具体的な地名が出ていることはちょっとした謎だ。そして初見で私には不可解で謎だった最後のコマに言及している唯一の論考でもある。最後は鏡か何かに反射した森山が小さなコマで映されて終わるけれど、この演出がやや不可解だった。論者は映画に元ネタがあるのではないかと疑っている。

李鳳宇「強く日本人であること」

「殺人の追憶」などの配給で韓国映画ブームの火付け役になり、「パッチギ!」のプロデューサーでもあった人物へのインタビュー記事で、「ながい窖」を読んだのは崔洋一の勧めからだったと説き起こし、映画業界、朝鮮、手塚の話を語っている。ある映画のなかで「強く日本人である」という言葉を語る下りがあるといい、賛否があったこの言葉を必ずしも「同化」とは受け取らない、この国に生きる覚悟だと思っていると述べているところが興味深い。

神谷丹路「在日コリアンと日本社会」

ハングル表記のこと、強制労働の舞台となった戸狩山に関すること、戸狩山を含む岐阜県南部の強制動員についてのこと、手塚の情報源として推測されるコリアンタウン大阪生野出身の葛西健蔵のこと、なぜ封印されたかの考察など、色々興味深い情報が多い記事だ。特に作中のハングルが不正確だという話が他の原稿で触れられていたけれど、具体的に個々のセリフを取りあげて翻訳してくれているのが非常に参考になる。この時期にハングルを漫画のセリフに出している先駆性についても指摘している。また戸狩山地下壕を訪れ、中国人犠牲者の慰霊祭に出くわしたという。ここで中国人犠牲者の数や名前は記録されているのに。数として三倍はいた朝鮮人については何も資料がないという、当時の国際情勢によって見過ごされたことも注記しているのが重要だろう。『鉄腕アトムを救った男』という評伝のある葛西健蔵が朝鮮関連の情報提供者だったのではという話も面白い。また、日本近代の大規模な土木工事は植民地朝鮮からの出稼ぎ労働者なくしては不可能だったという指摘は重要だ。植民地朝鮮にインフラを整備した日本の恩恵について語る者は多いけれども、それならば同時に日本のインフラ整備に貢献した人々についても触れなければならないはずだからだ。

林晟一「まっとうな世界への序曲」

「ながい窖」と同時代の朝鮮に関する歴史、文化史をたどりながら、作中に描かれた加害被害両方の「暴力」について論じ「ながい窖」の続きを求める一篇。特に興味深いのは三島由紀夫が金嬉老事件については日本の被害者イメージの方を重く見たスタンスについてで、単一民族単一言語の日本に朝鮮人問題などなく左翼の煽る欺瞞にすぎないと論じ、手塚治虫については左翼教師の「御用漫画家」と見なしていたという。これと吉本隆明の朝鮮人や中国人への虐待虐殺についてそんなことは知ったことじゃない、と述べた一節が引かれている。著名人のギョッとする朝鮮観を引いて世相の一端を示している。また手塚が当時江上波夫の騎馬民族説に関心を寄せていたことや、作中の朝鮮学校で教えられている朝鮮ナショナリズムに基づく歴史が北朝鮮の歴史家によるもので今では評価されていないという指摘も本篇への註釈として興味深い。

李英美「「朝鮮人」の物語を今読むということ」

出入国管理について詳しい人のようで、朝鮮人を理由に採用を取り消されたという本篇とも重なる「日立裁判闘争」の話などを踏まえつつ、大村収容所とはどういう場所なのかを解説したり、除英進の母はどういう境遇なのかの推論も行なわれている。大村収容所は朝鮮戦争が始まってから作られたもので、針尾にあった入国者収容所が1950年12月に大村市に移転して出来たという。なお針尾の施設は元々引揚者の滞在施設として使われていて、その所在地は今はハウステンボスとして観光地となっているという。大村収容所の歴史をたどりつつ、収容者の九割が朝鮮人だったことやベトナム戦争から脱走した韓国兵を支援するベ平連の活動で注目されたり、収容所が脱走を防ぐために要塞化していく過程をたどり、本篇のように脱走者がいなくもなかったというフィクションのリアリティについての註釈にもなっている。


ちょっと思ったのは、複数の論者が手塚の「朝鮮時報」に寄せた民族教育を支持する記事を参照・引用していて、編集部が各執筆者に共有したと思われるけれども、これを参考資料として本に載せることは出来なかったのだろうかということ。重要な部分は引用されているという判断だろうか。

さらに贅沢を言えば、在日朝鮮人文学や日本人の朝鮮人表象などと手塚作品との関係を捉えるものがあれば良かったかなとは思う。1970年頃と言えば李恢成(72年芥川賞)、金鶴泳、金石範らが登場してきた頃なわけで、この流れを手塚が意識していたかどうか。

発表の二年後に一度短篇集に収められた以外は今回が初の再録のようで、これがどういう理由によるものなのかはあまり調査されていない。ネットを見ると封印された作品かのように思われている節があるけれども、そういう事情があったのかどうかは不明だ。手塚の単発読み切りがどれくらいその後再刊されたりしているかについては私は知らないし、出た時の評判が良くなくてあまり良い思い出がないからとか、完成度の点で不満があって改稿するつもりだったからとか、色々な理由が考えられる。講談社の全集はそもそも自選作品集という性質のようで、生前のセレクトからは抜け落ちたのはともかく、没後の追加巻数からも抜けたのはそれが厄介なテーマだと見なされたからという理由はあり得るけれども。

『ドストエフスキー全短篇』


中公文庫の名作名訳ライブラリとして刊行された二巻本の米川正夫訳短篇全集。福武文庫の短篇集二冊を元に、『白夜』までの長さの作品を増補したもので元本の倍近い分量になっている。手持ちの新潮社版全集の解題を見ると本書に入ってない「家主の妻」は中篇とあり、100ページをだいぶ超えるだろう長さのこれと「白夜」の間に本書の想定するドストエフスキーの中篇と短篇の境界があると思われる。で、本書は江川卓の福武文庫版の解説に加えて、米川訳全集から収録作へのコメントを抄出して「訳者解説」として収録している。

米川訳はドストエフスキーの古い翻訳の代表例のように言われていて、実際新潮文庫などで作品を読んでいるとほぼ出会わず私自身もほとんど読んでこなかったけれど全然悪くないと思った。ただ使っている言葉が古めかしいのは避けられず、そんな場合本書では親切にも割注がついているので分からなくなることはないだろう。

『ドストエフスキー全短篇Ⅰ』

で、第一巻は『貧しき人々』でデビューしてからの1840年代の作品を収める。コメディタッチの短篇が多く、そのなかで「弱い心」の異様な心理を描いたものと「白夜」のロマンチックさが印象に残る。

「プロハルチン氏」(1846)

ある共同住宅で暮らすプロハルチンはとにかくもケチで、義理の姉のためにも倹約をする必要があると言い、おかみさんには気に入られていたけれど社交的ではなく、他の住民にはしばしば敵対的で気むずかしい人間だった。そんな彼があるとき火事を目撃して狂乱し始める。吝嗇家の哀れな最期という感じで、途中にゴーゴリの参照などもあり「外套」を意識しているところも感じられるのはドストエフスキーの初期作品らしいところだけれど、途中の自由主義やらナポレオンやらの言及に社会主義をめぐる当時の時代状況がかなり色濃く現われているようだ。

「九通の手紙に盛られた小説」(1847)

書簡体形式でやや状況が掴みづらいけど、お互いに慇懃に手紙を書きつつ相手から逃げ回ったり追いかけ回したりということをしているうちに、二人がお互いに送り込んだつもりのスパイがいつの間にか二人の妻と通じていた、という笑劇。

「ポルズンコフ」(1848)

ある屋敷でポルズンコフなる人物が朗朗と語り始める。役所で親愛なる上司と金と書類をやりとりしてその後上司とたいそう仲を深めてその娘と結婚間近というところまでいったのに、愛を試すためにエイプリルフールで辞表を出したらそれを正式に受理されてしまう。冗談のはずが正式に辞職する羽目に追い込まれたわけで、これは要するに汚職の関係者として口封じ代わりに上司から一杯食わされたらしい。共犯者ではあるけどそうした受難を滔々と語る、「滑稽な受難者」。ポルズンコフはどうしてもその元上司を非難する言葉が口に出来ない哀れさを持っている。しかし饒舌な上に事実関係がすっきり入ってこないので誰が何をしてどうなったか、というのが結構分かりづらいところがある。

「弱い心」(1848)

同じ部屋に住むアルカージィとヴァーシャはある時、ヴァーシャがめでたく婚約をしてきたことを明かしてから話はどんどん奇妙に転がっていく。めでたいはずなのにヴァーシャは上司から任された書類清書の仕事が締め切りまで間に合わないと大袈裟に騒ぎ始める。アルカージィが上司にこれはそんなに重要な書類なのかと確かめに行こうとするとヴァーシャは必死に引き留め、そして更に体調を悪くしていく。そんな状態が続き、いよいよ自分は兵隊に取られるなどと妙なことを口走り、ついには発狂してしまう。

そして、上司が頼んだ仕事はまったく急ぎでも何でもないもので、ヴァーシャはただひたすら自分で自分を追い詰めて死んでしまった。信じがたいような理由で死にいたるのは喜劇と言って良いのか悲劇と言うべきなのか、そういう悲喜劇的な自意識のドラマがドストエフスキーらしいとも思った。ロシア文学らしいのかも知れないけど。ポルズンコフもそうした要素はあるけれども、今作は親友の視点から描くことでより悲痛さを増しており、死後アルカージィに映った冬のネヴァ河の描写が非常に印象的で、本書でも特に読み応えがある一篇だった。

訳者解説でヴァーシャはすべてに感謝しているために義務を果たさなかった忘恩が自らを責め苛むことによって死ぬと述べている。近代資本主義的で官僚主義的で、すべての都市で最も幻想的な都市、フィンランドの沼地にピョートル大帝が築き上げた西欧風の都市が彼を殺したとドストエフスキーが述べているらしい。このくだりは後藤明生のドストエフスキー論『ドストエフスキーのペテルブルグ』の原点といってもいい箇所で、このドストエフスキーの主張を元にペテルブルグをフィクションと見なして拡大していったところが後藤の論だろう。

「人妻と寝台の下の夫」(1848)

元は二つの短篇だったのを合体させたものらしい。原型を知らないけれども、どちらも浮気された男のくだくだしいセリフのやりとりが面白くもあり冗長でもあるというのがドストエフスキーだなという感じもする。主人公は黙れと言われれば隠れている時でも言い返してしまうし、自分は独身者だと言い張り決して浮気された男ではないと言い張るプライドの高さがセリフから執拗に滲み出ている。間違って入った家で家主が帰ってきて寝台の下に潜り込んで見たら先客がいた、という喜劇的な場面でずっと喋り倒しているのはなかなか笑えるけれど、住人が飼っている狆が自分のところにやってきて鼻を齧られ、居場所がバレそうになったら思いっきり縊り殺してしまうのがすごい。それで飼い主が怒るんだけど、替えを買ってきますからと主人公が言ったらそれで納得するのもすごい。

「正直な泥棒」(1848)

本書では特に短い一篇で、小間使いの男が窃盗を疑われて否定をして、疑われたことに抗議するように出奔するけれども、結局死の直前に盗みを自白するという改心の話で、気の弱い善人という人物類型の一つでもあるようだ。『罪と罰』を思い起こさせるところがある。

「クリスマスツリーと結婚式」(1848)

商人の娘で高額な持参金を持つと噂されるまだ11歳の子供に目を付けた紳士が、仲良くしているみすぼらしい少年を怒鳴って追い出す様をクリスマスに見た語り手が、五年後の結婚式に行きがかり、あの時の紳士が苦い顔をしたあの娘の隣にいることを見つける。お話なら即刻誰かにとっちめられるような小悪人がその念願を果たす惨い話と思ったけれども、この紳士マスタコーヴィチは「弱い心」の穏当な上司と同一人物らしく、こういう一面もあるのかと思わされる。回想での追い払われるみすぼらしい控えめな少年も研究的には重要らしい。

「白夜」(1848)

角川文庫の薄い一冊でおなじみのロマンチックな一作。友人もいない孤独な青年があるとき橋で紳士にまとわりつかれる少女を助け、そこから仲良くなり、お互いの身の上話をするなかで、少女は一年前に結婚を約束した紳士と音信が不通なことを悩んでいることを知る。少女は自分を恋愛的に好きにならないからあなたが好きだ、という牽制を繰り返しつつ、いざ紳士から見捨てられたと思い込んだ時に青年が愛情を告白されて深い仲になりかけるけれども、その直後に紳士と連絡が付いてあっさりと青年は捨てられる、という良くある話ではある。幻想の崩壊。序盤の誰も友達がいない青年が街中を友達とみなして歩く場面が印象的だけれど、この夢想家のタイプは二葉亭四迷、宇野浩二や牧野信一なども含めて後藤明生が言うところの幻想喜劇派の水脈として重要だろう。「弱い心」の「ネヴァ河の幻」も含めてかな。

いずれも1846年から48年の間に書かれた初期作品。

『ドストエフスキー全短篇Ⅱ』

短篇全集後半は流刑前に書かれた「初恋」の他は流刑後の作品となり、世界を別の視点から見るような奇想が現われ、SFや幻想小説的要素が増えてくるのが見てとれる。少年の年上女性とのロマンチックな「初恋」と妻に自殺された男の独白「おとなしい女」の落差も見どころ。

「初恋」(1849)

ある館での集まりに出た少年が、年上の夫人にいたずらやいじわるをされたり、別の夫人に思いを寄せたらその夫人が若い青年と秘密の逢瀬をしているところに遭遇して失恋を経験するロマンティックな短篇。大人の女性のサディスティックさもなかなか雰囲気があるけど、それでも思いを寄せる女性のために彼女が落した不倫の証拠となる手紙を密かに拾って渡し、彼女の小さな英雄(本作は別訳では「小英雄」とされていてそれが原題に忠実らしい)となってキスの褒美をもらう純真なロマンス。後半の情景描写にグッと来るものがある。

1849年に書かれ、1857年に匿名で発表された。ドストエフスキー名義として刊行されたのは1860年という経緯をたどったけれどもこの年はツルゲーネフの『初恋』が発表された年だという。同じく少年の年長女性への恋を扱った今作にあやかって米川訳ではこう題されたのだろうか。

「いやな話」(1862)

60代の上役の誕生日祝いに訪れた先でもう一人の年上含め、三人の官吏が酒を飲み議論などをするなかで一番若いプラリンスキーが進歩主義をうたい、全人類への愛などを述べ立てる。車ごとどこかへ行った召使いを無視して徒歩で帰宅しようとしたところで部下の結婚式に出くわす。そこで己の鷹揚さや博愛を披露しようという酔った頭の利己的な夢想から式に踏み込んで、すべてが裏目に出ていく。ゴーゴリの名前が言及されるようにスラップスティックなんだけれど、幸福な式が冷え切り次第に彼にとって屈辱的な状況になっていくのを当人の視点から見ているため陰惨さが前面に出ており、闖入された式の主役も散々な目に合う、誰も幸せにならない話で、まさに文字通り「いやな」あるいは「いまわしい」話になっている。スラップスティックをリアリスティックに描いてグロテスクなまでに強調したような感触がある。

「鰐」(1865)

これはドストエフスキーの短篇としては異色で、色々なところで言及されるので有名なはず。ある見世物のワニに近づいた男が丸呑みにされ、男はそのワニの腹のなかから滔々と弁舌を繰り広げる奇想短篇。ワニに飲まれた男というアイデアはこの前年に発表された『地下生活者の手記』同様の、世界を別様に見る視点の設定に思える。地下ならぬワニの腹のなかから経済思想や世界について語るわけだ。

しかしわたしはね、たとえ寝ていたって、――いや、それどころか、ただ寝ていることのみによって、人類の運命を逆転させ得る人間だってことを、立派に証明して見せるよ。わが国の新聞雑誌に現われた偉大な思想や主義傾向は、すべて寝ている人間によって生み出されたのは、明々白々の事実だ。223P

続きが描かれるはずだったらしく、話としては尻切れとんぼに終わっている。

このワニの見世物を主宰していたのがドイツ人という外国人なのも案外に重要で、今作での背景に経済発展の課題がある。この国には工業が足りずにそれを発展させるブルジョワジーも資本も足りない、だから外国からそれを導入しなければならないという話があり、男がワニの腹に入ることで外国の資本を二倍の価値にしたのは外資導入のために喜ばしいことで腹を割るなんてとんでもない、というセリフが出てくる。「パッサージュ」での出来事という副題があるように、デパートの前身パッサージュを舞台に経済発展の話をしていて、当時のロシアの産業をめぐる課題を背景にした作品でもある。ゴーゴリ「鼻」を踏まえているととも言われているらしい。森鴎外の既訳がある。以下のページにおそらく舞台となったパッサージュの写真がある。
パサージュ - Wikipedia

「ボボーク」(1873)

『悪霊』と『未成年』の間に描かれた短篇。葬式に参加したある男が墓石の下からの声を聞く風刺的幻想譚。死者たちが騒々しく話し合い、あるものは役所で不正を行なっていたことを明かしたり、土の下からの声が世界の別の姿を現す。バフチンの言うカーニバル的な要素が色濃い短篇。

「キリストのヨルカに召されし少年」(1876)

病んだ母が冷たくなり地下から少年が外へ出ると辺り一面クリスマスの雰囲気で、ガラスの向こうの降誕祭樹(ヨルカ)、つまりクリスマスツリーを眺めつつ、死の淵で母親や子供たちなど死者の幻想と出会う、ヒューマンな幻想譚。

「百姓マレイ」(1876)

29歳、牢獄にいた頃粗暴な百姓たちの様子を見て拒否感があったけれど、子供の時に父の領地の村で優しい百姓に狼が来ると恐れて泣きついた経験を一挙に思い出す。この想起が牢獄での百姓への親近感への転機となったらしい。『死の家の記録』の補足とも言える。

「百歳の老婆」(1876)

ある女性が街中で見かけた少し歩いては座ってまた歩く104歳の老婆との経験を聞いた書き手が、その老婆がたどり着いた家族たちの元で往生を遂げる様子を想像して書くという短篇。100年の人生、どんな記録にも残らない市井の人間の生の尊さを描くスケッチ。ドストエフスキー夫人がこの話は事実だと言ったらしいけれど、つまり夫人の出会った人の話を聞いた夫がこの話を書いたということか。個人雑誌『作家の日記』に書かれたヨルカ、マレイ、老婆の三篇はいずれもヒューマニスティックな色合いが濃い。

「宣告」(1876)

退屈で自殺した男の述懐という形で述べられるひねくれたロジックが展開される短篇。短篇でたどる限り60年代中盤から世界を逆さまに見ることのモチーフが多く出てくるようになっている。鰐の腹のなか、墓場、そして今作。

「おとなしい女」(1876)

後期の短篇の代表的な一作だろう。妻に自殺され目の前に遺体がある状況で夫が結婚してから今に至るまでの状況を独白でたどりながら一体何が悪かったのかを延々と考え続ける自意識のドラマというドストエフスキーらしさに満ちた短篇。

軍人をやめて質屋を営んでいる夫がある時値段の付かないようなものを持ち込んでくる若い女性に目を留める。その後、彼女が親を亡くし叔母たちにいびられながら暮らしており、質屋に訪れるのは家を脱出するために住み込みの仕事を求めてのことだったと分かる。しかし高齢で肥満の近所の商人に嫁がされそうになったところで質屋が叔母や家族に充分な金を与えた上で求婚をし、晴れて二人は夫婦になることが出来た。けれども当初は好意的に振る舞っていた妻も、夫があえて冷たい態度を取って自分のことをすべて察して欲しいなどというプライドの高い理不尽な対応をとったことで溝が大きくなり次第に夫婦仲は冷え込む。そうして夫が軍人をやめることになった醜聞を妻は夫の知り合いだった軍人から聞きつけ、彼の元に通うことになる。その現場に夫が居合わせ修羅場になるけれどもそうした経緯から夫も態度を変えて妻への愛を訴えるようになるけれどもその豹変が理解しがたいのか妻を次第に追い詰めていってしまう。夫の一方的なモノローグで語られるために何故彼女が自殺してしまったかは夫には永遠に分からない、なぜならこのモノローグに現われる彼の自分のことしか頭にないプライドと自意識のあり方自体が事実への道を閉ざしているから、と読める。自意識に自意識を重ねて無限に後退していく語りの迂路。

失礼ながら――女、ことに十六やそこいらの娘が、絶対に男に服従しないわけにいかないことを、わたしは承知していた。女には独自性がない。これは、――これは公理である。今でさえ、今でさえ、わたしにとっては公理である! 355P

「おかしな人間の夢」(1877)

ある男の見たユートピア世界を描く短篇で、人々から疎外され自殺を選ぼうとしていた時、ある可哀想な少女の助けを振り払い、自死を決意した時に見た星を夢のなかで訪れる。そこは人々が争いも憎しみもなく自然にそして純粋に暮らしている美しい場所だった。

けれども、そこで語り手が彼らに「嘘」を教えてしまい、その嘘の黴菌が彼らに媚態、情欲、嫉妬、残忍さを生み、争い、戦争、奴隷と様々な俗悪が発生し、いつしか義人(ただしきひと)が現われたけれども人によって打擲される。そして目覚めた語り手はしどろもどろながら伝道に邁進することになる。決してたどり着けない理想郷だとしても、それを求めて伝道を続ける決意を語りながら、最後の一文であの少女を探し出したことが触れられ、この一篇がその少女の上にあることが分かる。キリスト教的なニュアンスもあるけれど自然と科学の対置など色々な読み方があるだろう一篇。

「現代生活から取った暴露小説のプラン」(1877)

匿名の手紙でさまざまな怪文書を役所やらに送りまくっていたある青年の物語。ゴーゴリ「狂人日記」のポプリーシチンを踏まえつつ、匿名で様々な社会問題に批判を行なう手紙を送り、社会のあり方に一家言を持つ青年がふと自分を匿名投稿者だと人に漏らしてしまい、そこから噂が広がって誰もが自分をそうした卑怯者だと蔑視しているのではないかと思い悩んでしまう。あるとき上司にすべてをぶちまけるのだけれど、その告白すら実際は自分の社会への提言が取り立てられ、褒賞される可能性を見込んでいたという、どこまでも自意識過剰な人間を描いている風刺的なスケッチ。


『地下生活者の手記』で語り手は「意識はすべて病気なのである」と言う。ドストエフスキーのデビュー作はゴーゴリのパロディだけれど、後藤明生はゴーゴリ作品の人物の自意識の空洞を言葉で埋め尽くし、自尊心と屈辱感の分裂病患者に異化することがその方法だと論じている(『ドストエフスキーのペテルブルグ』)。本書では「おとなしい女」がその好例だけれど、他の作品でも随所にゴーゴリが言及されたり暗に踏まえられているらしかったり、その影響の大きさが感じられる。前期作品より込み入ったもの、変わったものが増えているし大長篇と時期がかぶるのでその点からも興味深い作品が多い巻だ。


なお、「おかしな人間の夢」については沼野充義が『夢に見られて』で、ドストエフスキーが批判したチェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』というユートピア小説と今作とを対照的な性質を持っているとして後のロシア文学のユートピア小説と繋げて論じている。

バフチンも今作を「テーマ面から言えば、ドストエフスキーの主要テーマのほとんど完璧な百科事典である」として別作との比較対象などを行なっている(バフチン『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫300P~)。パラパラめくっていたらバフチンが「ボボーク」に言及しているところも見つけた。上の感想を書いた時にはこれを忘れていたけれど

『ボボーク』は、その深さと大胆さからいって、全世界の文学中最高のメニッペアの一つだと主張したとしても、おそらく間違いではないだろう。275P

とある。

山城むつみの『ドストエフスキー』でも三章で「おとなしい女」について詳細に分析していて圧巻。

米川訳になんとなく馴染みがある気がしたのは、ドストエフスキーの引用を全部米川訳で行なう後藤明生の文体は米川訳の影響があるからではないか。「のである」や終止の「ぬ」の使いどころ、「分別ざかり」などの語彙とか幾つかのポイントで何か馴染みのある感触がした。米川正夫は1891年生まれ、没年は1965年と川端康成の生没年のほぼ八年前。そのくらいの時代の人だ。

本書は担当編集様より恵贈頂きました。ありがとうございます。

最近読んだ文学フリマで買った本 2026.06

文学フリマで買った本とはいうものの、三年くらい前に買ったものから先月買ったものまで、雑多なセレクトで基準なんてあったものではない。

『随風02』

随筆雑誌第二号。これは昨年11月に買ったんだっけか。「好奇心」をテーマに随筆を収め、随筆批評のほかナナロク社社主へのインタビューが載っている。好奇心というとおり色んな人の好奇心のあり方が描かれていて、やはり面白いものを書くには好奇心が重要だよなと思いつつずっと同じことをしてても面白い人もいる。

巻頭の宮崎智之による随筆の条件を考える文は結構込み入ったことが書かれていてすぐ整理はできないけれど、生の一回性・有限性を踏まえ、「私」が「私」を書くということと「時間」の密接な関係の議論は、自伝による不死を主題とするプリースト『不死の島へ』を連想させて興味深かった。

古賀及子「暴走せよ好奇心のなさ」は書き手のいつも同じことをして同じものを食べるという好奇心のなさについて書いていてそこまでは自分も共感するところが多いんだけど、そこに危機感を抱いたとて英語も喋れないのにアメリカに行くくだりの暴走ぶりはなかなかすごい。私もかなり生活スタイルを固定して回すタイプで、たとえばwordleを未だにやってるのってフォロワーにもう誰もいないんですよね。フォロワーがやってるのを見てやり始めたことなのに惰性で未だにずっとやっててさすがに毎日ではないにしろやってる。他にもう誰もいないのに。続けるだけでたった一人になれる。良いか悪いかはともかく。

杉森仁香「豊橋転覆」、本書の感想でよく名前が出てて何だろうと思ったら確かに凄まじい。豊橋の違法コンカフェに出禁にされた顛末を語ってて笑わずにはいられなかった。この直後に「おもしれー女」の話があるけど、こっちはやべー女を当人の視点で書いた文章で、そりゃ出禁だわ、という説得力がある。気がつくと色んなところで名前を見る人で、最近の同人雑誌からの転載として「文學界」に小説が載っているのを見かけた。創作を読んだことはまだないけど、新進気鋭の書き手っぽい。

わかしょ文庫「科学者は真実を追究する」、蛍が見られる場所で無作法者をしかりつける老紳士の話を聞くと、そこで蛍を見られるようにした元理科の教師で何をして良いのか悪いのかをきっちり蛍の実物を使って犠牲を出しつつ検証した上にその注意があると言う在野の科学者ぶりが見えてくる。

柿内正午「随筆時評」、ここでは口語と文語、話し言葉と書き言葉の関係を考えつつ口語的な言葉を随時差し挾みながら「インターネットがもたらしたものは、「書く」と「話す」の両方を、同時的な相互コミュニケーションの道具としてほとんど同一視してしまえる環境である」(84P)を前提に、その癒着のなかで看過されやすい「書くこと」の危険性を、話すように書くのでもなく動画などで話すのでもなく、「書く」側から切り込む実践がエッセイだ、と述べている。なかなか入り組んだ話だけれど面白い。この流れで三宅香帆の批評を「「話す」、において突出している」とも評する。その後、よく自分に雑談や相談のLINEを送ってきた友達がAIに課金して以降ほとんどLINEを送ってこなくなったという話や、自分の日記をAIに読ませて感想を聞き、それに対して答えたりもする自主制作本の話が続いて、人は私が思う以上に社交欲、会話欲があるんだなと思った。私もないわけじゃないし会って話すことが楽しいのはあるんだけど、自分からそう言う場を設けるみたいな意欲がないし、AIと話そうと思うこともない。なんなんだろうなこれは。この文章やアニメの感想とかをツイッターに毎日のように数千字とか投稿しているけれど、直接のコミュニケーションは驚くほどしていない。

他に和氣正幸「独立書店の販売力」、明確に数字を挙げつつ独立書店とは何で、どのような本が売れているのかという観点から業界での立ち位置、そして売り上げ促進のための方策は何か、という話をしていて面白い。とはいえ私は挙げられている有名店をほとんど知らなかったし行ったこともない。

その独立系書店で存在感があるという詩歌の出版社、ナナロク社のことはあまり知らなかったけれど、社主村井光男インタビューは非常に面白かった。某自費出版会社の庶務課にいたのにそこで初めて作った本がビートたけしとホーキング青山の対談本というのも驚きで、後谷川俊太郎と本を作る話も面白い。

と、最後まで読んでページをめくっていったら最後のページに杉森仁香のサインがあってビックリしたんだけどこの本文学フリマで買ったサイン本だった。しかも宮崎さんから買った気がする。杉森さんと清繭子さんらしいサインは分かるんだけど他に書いてあるのは誰が誰やら分かっていない……。

友田とん『今を生きるための赤瀬川原平=尾辻克彦』

直近の文フリで買った新刊。しばしばあなたは赤瀬川原平に似ていると言われてきた著者が改めて読んでみることで、そこでの赤瀬川=尾辻の方法を読み取って、複製、ひっくり返す、フィクション、見立ての四節に区分けし、応用するための基礎固めを試みる小著。

千円札を複製する話から手仕事として時間を掛けて観察することで対象の具体的な細部が見えてくること、そこから社会を観察することを導くのは著者の近著がその具体例だろう。サバ缶の内側にラベルを貼り替えることでその外の宇宙を包みこむ「宇宙の缶詰」に外と内との反転を、さらにサバ缶を二つ並べる発想に至ったことで、アイデア、コンセプトだけではなくその具現化を通じてさらに別の形に変形されるという過程に着目する。これもまた具体物を時間を掛けて観察することの大事さだ。さらにのちにトマソンと総称される「純粋階段」の発見に先だって、まず住宅事情の雑談で住宅機能をどこまで分割できるかという分譲主義という想像力、フィクションを打ち立てるコンセプトが先にあって、その後でその実例たる「純粋階段」を見つけたという順序を指摘する。フィクションによって現実に「可笑しなもの」を見つける目を育てているという。

そしてそのフィクションが雑談、ブレインストーミングによって生まれたことは尾辻克彦名義の最初の作品、短篇「肌ざわり」が、作中の作家が書いた草稿を娘とともに読んであれこれ言い合うことでできていることに注目することに繋がっている。「私」だけではなく読者との「共犯的にフィクションを作り上げていく」ことで現実を地面から浮き上がらせる、と。そうして私の前にフィクションを付け加えていくことで現実を前に進める、という。フィクションと現実の相互作用で生まれるものの話。

最後の「見立て」では新明解国語辞典の語釈の奇妙さを「新解さん」という個人と見立ててその例文から性格を考えていく試みをヒントにしている。この見立てで、赤瀬川原平が辞書編者に問い合わせをしなかったことと著者が駅の漏水観察で駅に問い合わせたりしなかったことと繋がっている印象だ。見立てによって生まれるおかしさ。しかし著者は見立てを意識することでむしろ見立てをいつでも解除可能なものとして考えることをその後に述べる。見立てのフィクショナルな機能を意識することで、操作可能なものとして見立てが隠しているものが何かを見つけるヒントにもなるということだろう。

芸術家で小説家をヒントにしているから当然なんだけれど、ここに挙げられているポイントはどれも文学、小説を書くためのヒントのように見えるし、文学が実生活においてどのような意義を持つのか、という話をしているようにも見える。

「窮理」29号

ブースで売っていた「窮理29号」の友田とんインタビューも読んだ。長めのインタビューで科学系の雑誌ということもあり数学、経済学で友田さんが何をしてきたかが具体的に語られていて、専門的な研究内容がガンガン出てくるので本当に何が何だか分からないのがすごい。子供の頃は漫画を描いてもらってそれを本にしたり、近年は『百年の孤独』本を自主制作して自分で売り歩くという活動が一人出版社になったように、ずっとメディアごと自分で作ることをしていたけれども、就職して最初の五年は小説だけを書いていて、これがむしろ一番特殊な時期だというのが面白い。純粋に小説だけを書いていた時期にはあんまり充実感がなかった、自分は入れ物ごと作ることで創作を成り立たせている、という。メディアは中身を支える容器として、著者が関心を向けたインフラとも通じるものがあるのかも知れない。

全100ページくらいの薄い雑誌だしと最初から全部読んでみた。物理系の学者が中心になって読み物を寄せる雑誌らしく、物理学の偉い人の業績、近代の学術雑誌の歴史、大学の周辺の土地の歴史、AIと随筆の話などなどが載っている。宮沢賢治のオノマトペの話は有名だけれど、賢治を英訳しているロジャー・パルバースは英語には日本語と同じかそれ以上に擬態語が豊かだと主張する。日本のそれのように同音反復ではないので分かりづらいだけだと。glitters、sparkles、clinkling、tinklingなどの言葉で訳した実例を挙げている。他にユクスキュルの話や公募エッセイなんかも載っている。

オルタナ旧市街『Something-Good』

発刊されたのは確か初めて東京ビッグサイトで開催された2024年12月の文学フリマだけれど、その時は私が参加できず、その次の2025年5月の時はオルタナさんが不参加だった。そのことを朧気にしか覚えておらず、その次の11月にポルトガル旅行記を買って、既刊は買いましたっけ?と言ったらオルタナさんが買ってないわけがないと自信満々に言うのでまああなたが言うならと思って買わずにいたら帰り道で上記の経緯を思い出してやっぱり買ってねーじゃねーか!とひとしきり笑ってしまった。ので五月の文フリで最後の一冊を入手したのだった……

長くなった。これはショートエッセイ集。日常のちょっとした不思議だったり良いことだったりを短く切るタイトル通りの楽しい文集で、あえて感想を必要とするものではないだろうとも思う。歯のホワイトニングってそんな拷問みたいなやつなんだ、とかキムタク連作にちょっと笑ったりする。しかし「環境音楽」の南海トラフ地震が来るぞと言われていた日でニュースがうるさかったらしいという部分、この部分はフィクションか?と思った。いや、二月の花見に遭遇した話とかもあるいは虚構か?という感触もあり、著者らしい「ハーフフィクション」ということかも知れない。そういう虚実の揺らぎもまた楽しい。キムタクのYoutubeで初めてシリーズというのがあるという情報は流石にこれはフィクションではないだろうと探してみたら、「初めてのデパ地下」という動画があり、デパ地下が初めて?!となった。100円ショップ、ホームセンターが初めてなんてそんな人いるんだ?と思ったけどいるみたいだ。

オルタナ旧市街『ポルトガル退屈日記 リスボン篇』

というわけで去年の文フリで買っていた一冊。一週間のポルトガル旅行のうちリスボンでの数日を描いた旅行記。同行者リー・リーがグロックを使い、著者がChatGPTを「じい」と呼んで使いながらの行程が描かれているところは現代的だ。料理、文化、建築の日本とのさまざまな違いが面白い。

旅行は去年の夏、七月のリスボンはカラッと涼しいらしく、湿度の違いはやはり大きいようだし、街並みの様子、特に多くの家の屋根がテラコッタの瓦屋根でできておりその景観の鮮やかなことや、コーヒーを買うとエスプレッソが出てきてアイスコーヒーがかなり珍しいことなどへえ、となる。

リスボンの七月の気候は五月の鎌倉のようだといい、日本においては災害だけれどもヨーロッパにとって夏は待ち望んだ季節なんだろう、と推測する。特に面白かったのが、光線の違いで自撮りの映え方が違うというところだった。「光線のやわらかさが違う」らしい。だからヨーロッパの人はこんなに自撮りが好きなのか、と。高緯度のせいで陰影が作りやすいという話を「じい」が答えている。リスボンと言えば著者はサラマーゴ『象の旅』を読みながら飛行機に乗り、彼の通っていたレストランに入るとよく座っていた席に置かれたサラマーゴの写真の写真が載っている。

ペソアについても触れられている。『不穏の書』は持っているけれど拾い読みした程度で全部読んでない。しかしタブッキの『フェルナンド・ペソア最後の三日間』はなんか今高値がついちゃってるんだな。これ持ってないんだ。中継地のドイツは書店だらけだったけどリスボンでは本屋を全然見ないという話があり、そういうところも違うようだ。エッグタルトやポートワインや魚介料理その他、本書ではちゃんとおいしい料理が出てくるのも旅行記の醍醐味か。店内に作家の肖像がある店と言えば、妹が行ったというチェコの酒場もそうだった。私は邦訳書を全部読んでるけど妹は名前も知らないボフミル・フラバルゆかりの店だ。

羽織虫、佐野まいける、ごま『あなたと私のあいだに在るもの』

五月の文フリで買った一冊。思えば羽織虫さんは数年前の後藤明生オリエンテーリングの参加者同士で知り合ったんだった。文フリで入場列の目の前にいたり、ZINEを買ったりしている。本書は自分の考えを語った後それを聞いた人同士で意見を交わし、更にそれを聞いて語り手が再度語る、というオープンダイアローグの手法を用いて各人の悩みを「お焚き上げするZINEを作る」という試みの記録。

オープンダイアローグというのは自分の考えを一度語り、それが他の人によって語られるのを一旦外から眺める形で自分の考えを外在化して距離を取るプロセスを挾むことに特徴があるようで、またカウンセリングとも近いけれども相手と対等な関係でそれを行なうのもこの本では重要な意味があるようだ。それぞれカウンセリングを受けたりしているほどの悩みがあり、しかも羽織虫さんが書いてるようにいずれも「他人との境界線」に関わるもののようで、そのこととオープンダイアローグという己の考えを一旦他人に渡すというプロセスを通じてアプローチしようというのは面白い。

他人の期待に応じて人格を作ってしまい、しかし最近ようやく本当の自分に近い人格を出せるようになったという羽織虫さん、セクシャルマイノリティと母の過干渉もあり他人の感情のゴミ箱になることが常習となってしまった佐野まいけるさん、寂しさからかパートナーとの距離感が狂ってしまうごまさん。私はあまり積極的に他人と関わろうとするタイプではないので実はここら辺の悩みというのはどうしても実感できないところがあるけれど、人の悩みというのは皆どこか似ていてそれぞれに固有のものがあるんだなと思ったりもする。

佐野さんが自ら見いだした愛とは何か、の考えがエーリッヒ・フロムと同じことを再発明していたというのは、自分の考えが外からもやってくるというオープンダイアローグともどこか似たところがあるし、結局自分の考えは自分で再発明するほどでなければ実感できないわけで、必要な過程だと思う。

買ったときに同封された佐野さんの冊子「愛の前日」は片思いしていたのに相手の恋愛を手助けしてしまう、仲の良い友達でしかなかったことを描いた苦いエッセイ。人の打ち明け話を聞いたような感触がある。物語で幾つもこういう話を読んだ気もするけどそれはまったく架空の話ではないんだなと。

奥山さと(板垣真任)『ロビン』

三年前くらいに文フリで買ったもので、去年の文フリで増補された「定本版」が出ているけれどもこれは元版の第二刷。ツイッターで言われて思いだしたけど、本書所収のわかしょ文庫さんの本『うろん紀行』の感想記事に言及したのがネットで絡んだ最初らしく、たぶんそれでこの本を買いに行ったんだと思う。

これは著者がブログに書いていたエッセイ、書評、日記を一冊にしたもの。大江健三郎『キルプの軍団』について触れた記事から始まり、ブログで書いた文章がそのまま印刷して面白く読めるものになっているのはすごい。

10年ほど前に文學界新人賞をとったもののあまり小説家の知り合いがいないところから他の新人賞をとった知人と飲んだり、様々な映画、小説などについての感想、観察を記したり、そして貴重なのは最後の「金沢日記」でこれは後に再録されてないんだけど、こういう数年前の日記を時間差で読むのも面白い。

「雪かきに何かははない」という一篇で、村上春樹訳のカーヴァーを参照しつつ「雪は情緒を切断する空白といってよい」、とそこに「何か」はないと言いつつ何もないところを掘ったりするのも必要だと思う、と揺らぎを見せるところも面白く、またこれは「自分なら掛け軸の文字は読まない」での雑司ヶ谷に住んでいる人間は地元の寺や地蔵に関心がない、「自分が生まれる前から床の間に吊るされている掛け軸の文字を気に留めないのと同じだ」という一節から見慣れたものやあって当然で気に掛けないものをめぐる話とも似ていて、これらはまた自分ならどう書くかという話でもある。大江の章もまた読むことと書くことの話だった。著者はアメリカ文学者で小説家でもあるわけで、『『百年の孤独』を代わりに読む』での「代わりに読む」がproxyとして訳されていることに気を留めて書きはじめ、『うろん紀行』では「でも」の反復を丁寧に読みとっていくところにその「目」を感じる。

日記パートはこれらの記事を書いていた頃のバックヤードという感じで、ブログを書いた、映画や本の感想やツイッターでこんな話題を見た、パートナーが安部公房を読んでいたなど日々の出来事が綴られ、各文章を著者という台紙に糊付けしていくようなところがある。これだって書くことは取捨選択しているだろうけれど、単独記事では書かれない著者の人となりや世代的な感覚などが窺えて面白い。サニーデイサービスのLOVE ALBUMをよく聴いたというのは私もそうだったのでだいぶ懐かしく共感があったり、そういうところが印象に残る。

これは良かった一節。

そのときも「いいものを書けた」と思った。しかしそれは「いいものを読んだ」の言い換えに過ぎない、まあ悪いことではない。104P

柿内正午『r4ンb-^、m「^』

去年の五月の文フリで買ったもの。柿内さんは友田さんが『代わりに読む人』0号発刊記念で行なった後藤明生『挾み撃ち』読書会の参加者として会ったのが初めてだったかな。オリエンテーリングのゴール地点でも会った気がする。

本書は著者が猫を家に迎え、まだ生活に当たり前のものにならないうちの異物としての猫と向き合う様子を書き留めておくために制作したというZINE。タイトルはキーボードに猫が乗っかって入力した文字列で、表紙には隻眼の猫が描かれている。

シェアハウスのように暮らしていたマンションから夫婦以外はそこを去り、環境の変化もあり引き払うにあたり猫を飼える家に住もうと決め、保護猫譲渡会にも顔を出して出会った一匹の猫が気になって、翌週にもまだ引き取られていなかったその猫を家に迎え、そうして猫との生活が始まる。世の猫エッセイの類は食わず嫌いで読まなかったといい、猫は良いということを自明のものとして語ることも苦手だという著者が、そうして家にやってきた外のものと暮らし始める。

猫だし初めは懐かないものだろうという予断を裏切って、猫「ルドン」は当初から異様に人に懐く猫だったことの困惑が書き留められている。ネットで調べた猫と目の前の猫との落差に戸惑いながら、人だろうと猫だろうと一般的な観念ではなく目の前の個別の個体と向き合うことに著者は気づかされる。「振り回されるという愉悦」なんて章もあったりしてだいぶ早い段階で溺愛状態になっているし、猫の生活で著者のリズムが狂わされてしまってもかわいいというあたり、読まなかったと言った世にある猫エッセイのようになっているのが微笑ましい。

猫との生活の描写と猫と人間の関係を思考していく両輪で構成されている感じで、近代のパリ社交界では「メリット」という言葉は「実用性に馴染まない情緒的なよさ」を意味していて、ネズミ取りとしての猫を愛玩する風潮にはこのサロン的な文化が背景にあったという話も面白い。ちいかわが苦手、嫌いという話もなかなか面白くて、そもそも私はあの作品が良く分からない。ちいかわは自らの貧しい姿を戯画化し愛でるようなもので、犬に勝手にアテレコするよりタチが悪い、という著者の示す嫌悪は興味深い。

猫にとって良い環境を調整することを通じて自分は「人間」になる、と著者は書く。ケアされて「「人間」的緊張」を一時停止できなければ「人間」は維持できない。人間は人間で居続けることも難しく、かといって動物で居続けることにも耐えられない、とケアと動物の話は本書のコアのように感じた。

最近読んでいた本 2026.06

読んでツイッターに投稿してからずいぶん経ってるのも多いけど、「最近」読んでいた諸々。文芸誌、エッセイ、怪談、SF。

木村友祐「殺しの時代における都市型狩猟の観察」(「すばる」2026年2月号)

害虫獣駆除の仕事をしている青年が子を救出する親ネズミと目線が合ったことからはじめ、動物飼育の趣味を持つ後輩との交流などを経て、動物と人間の、そして戦争の時代における暴力との関係を身体的に経験していく中篇小説。

パワハラ上司による売り上げ重視の仕事ぶりや小動物を安易に踏み殺すような暴力的なあり方を一方に置き、もう一方に同僚や後輩ら動物に関心がある人たちを置き、排外主義批判の運動に携わる元恋人への対抗心で純日本人を採用するといって問題になった会社に入った主人公が置かれる。害虫獣駆除の仕事、職場の人間関係、そして戦争という三層のレイヤーにおける暴力への感受を繋ぎ合わせ、小動物や虫相手などの場合では殺す・命を支配する側でも職場や社会のなかではいつ殺される側になってもおかしくない、という相対性や可換性のなかで暴力について描いていく。

元恋人の社会運動への拒否感や今の会社が炎上して是正されたとはいえ右翼的な体質があったことを理由に入社した主人公小熊は、しかし暴力を是とする人間ではない。飲食店でトラップに掛かった子ネズミを処置しようとして親ネズミの視線を感じて対面した時、「え、何。なんか用?」とつい人に対するように話し掛けてしまう。恐怖や動揺といった怯えから来るものでも、そこにはコミュニケーションの契機を発してしまっている。ネズミを交流可能な存在と見てしまうこの瞬間は今作でも重要な箇所ではないかと思う。

だからこそ上司のネズミを踏み殺すような暴力性には従えず衝突してしまう。害虫獣駆除の仕事とは言え、生命をもののように無残に扱うことには抵抗があるわけだ。たとえば虫ならわりとつぶせてしまっても、ネズミ程度の小動物を殺せるかと言われれば、結構難しいのは分かる。

今作は動物倫理といっても肉食の忌避ではなく、敬意をもった肉食を描いている。社内の窓口に通報してもうやむやにされてしまう上司岩倉の顔面を攻撃し美容上の理由と言って休職を余儀なくさせるという社内の誰もやれなかったことを達成したのは小さなネズミだった。その殺されてしまったネズミを、小熊はなんと食べようとする。これはだいぶ衛生的に問題があるだろうと思えて、読んでて抵抗感もあったけれども勇者のネズミ親子を丁重に葬送するためにさまざまな手順を踏んで、その肉から勇気を得るために食べようとする姿には何らかの倫理がある。

ラストに明示されてるように、本作はたとえば『イサの氾濫』などのような木村友祐の革命幻視小説の系列にもある作品で、だから必ずしも非暴力を訴えるわけではない。革命、抵抗のための力は常に必要とされている。肉を食うという生命の循環に即くことに命の価値を見いだしているかのようだ。

おそらくはガザ、パレスチナの惨状が想定されているように、イスラエル、アメリカの陰惨な暴力には人間を人間とも思わない、動物視する契機が含まれており、ガザのみならずイラン、レバノンへと戦線を拡大し続ける状況で政治家からこぼれる言葉が本作を想起させることもしばしばある。人間同士でも動物と見なされ虐殺される時代において、駆除すべき動物と向き合う立場からその様相を描いた作品だ。人間としての生活をする以上、肉も食べるし害獣も駆除しなければならない、そういうバランスの上にある倫理。

小熊、鵜飼、桑野といった動植物的名前に対して、パワハラ上司は「岩倉」という非生物的名前を持っている。岩倉もまた父の実家の奄美大島、妻の実家の石垣島に自衛隊基地があり、戦争への危惧を抱いている。しかしそれまでにやれることをやっておく方が良いという天災視した発言になってしまう。この戦争の天災視は「反戦」運動から距離を取る自分を正当化するロジックとしてありふれているようにも思う。

宮崎智之編『精選日本随筆選集 孤独』

「随筆復興」を掲げ、随筆もまた芸術だと主張する編者による随筆選集。最初のテーマは「孤独」として長短さまざまな作品を収める。本書のコアにあるのは文学に「絶対の孤独」を見る安吾「文学のふるさと」だろうか。

教訓すらないアモラルなものに突き放されたような物語や挿話を紹介しつつ「生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」を文学・人間の「ふるさと」だと述べる有名な一篇だけれども、文学のふるさとは孤独だとする随筆を孤独のテーマとして本書に選ぶことで随筆もまた文学だとする意図がありそうだ。孤独と言うとおり多くが家族との死別や距離感を主題にしていて、坂口安吾の「文学のふるさと」の前に同じ安吾の「石の思い」という一般に短篇小説と分類されている作品が置かれ、母との愛憎、父との距離が描かれ、これは「文学のふるさと」の孤独のその背景を描いているようだ。これらの文章を読んでいると安吾が愛される理由が分かる気がする。

安吾の二篇が本書のちょうど真ん中に配され、前半には編者がしばしば推奨している遠藤周作のデビュー作のフランス滞在時のことを描いたエッセイ集から二篇60ページほどを収め、後半にはこれもまた編者が薦めてバズっていた正宗白鳥の一冊から父母弟を見送る三篇50ページほどを選んでいる。

これらが概ね本書のアウトラインとも言うべき存在感を持っている。遠藤のフランス留学時のエッセイには自殺騒ぎを起こした女学生に触れたもの、そして独裁政権に抗したレジスタンスが地方で拷問処刑に手を染めたことを描きながら、ソ連に占領されて故郷を失ったポーランド人女性の孤独を描き込んでいる。

高浜虚子の「落ち葉降る下にて」は小説と分類されることもある作品のようで、ある温泉での体験を通して娘の死を経ての自己省察を描くもので、随筆と言われれば確かにそう読める文章になっている。温泉街での火葬場、火事、棺桶などを見ながらの無常観のようなものが現われている。

知らない名前の野々上慶一の文章は「『山羊の歌』のこと」として中也の生前唯一の詩集を刊行した人物によるもので、どのような経緯で引き受けたのかということなどを中也を中心に周辺人物のことなども触れた回想。中也の人物像も興味深いけれども突然お経を唱え始めるダダイスト高橋新吉が変すぎる。野々上は宮沢賢治全集を刊行した人物でもあり、そのことなどにも触れつつ、中也との縁になった小林秀雄のこと、装幀を引き受けた高村光太郎のこと、著者が家に入り浸っていた青山二郎のところに中也が訪れてきた時のこと、大岡昇平が中也について書き続けていることなど興味深い文学史の一断面になっている。

正宗白鳥の三部作は父、母、弟を見送る時のことを綴った文章。父の最後に立ち会いながら、「人間は苦痛なく死ねるようにつくられていないのだろう」という一文が印象的。老境で家族を見送り、冷静にその様を描いている様子にはなんとも言えないものがある。

川端の「末期の眼」は芥川の遺稿「或旧友へ送る手記」の「自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである」という文章を引いた有名なものだけれど、これを孤独のテーマとして据えつつ、直後に大庭みな子が川端と会おうとした時に空いていると言われた日に自殺されたというエッセイを置いて、
その川端自身の孤独を浮き彫りにするような編集になっているところも面白い。数ページの短い文章も多いので読みやすい。小説とされる文章を入れても違和感がないのも結構面白いところだ。

宮崎智之編『精選日本随筆選集 歓喜』

随筆選集第二弾。歓喜を題材に各人の喜びや愛したものなどについての随筆を収めていて、序盤は食べ物などから始まり、旅、風物、趣味芸術、動植物・自然などある程度カテゴリをまとめつつ並んでいる。中盤の薄田泣菫四連発は見どころ。

冒頭の武田百合子の作は蛇センターを訪れた時のことでそれもなかなか面白いんだけれど、てっきり一人で行ってるものと思われた文章の終盤に急に同行者「H」が出てきてかなり面食らった。連作ものの一篇なんだろうか。

開高健のタバコエッセイでオイルライターからガスライターへと時流が変わって行くことを嘆きつつジッポーのデザインを褒めているのだけど、私からすると100円じゃないライターといえばジッポーしかなく、ダンヒル、ロンソンというメーカーは知らないので代名詞的に生き残った理由を知れた気がする。

読む為に本を買っていると、そのうちに読まない本が沢山たまり、読まないことが苦になって、つくづく世の中がいやになる。119P

という福原麟太郎のエッセイの一節でほぼ自分と同じ感情が書かれていて笑ってしまった。

志賀直哉の随筆に「ゴー・ストップ」というプロレタリア文学が出てくるのが意外だった。貴司山治のこの長篇は大衆向けプロレタリア文学とも言われ、新聞小説でもあったためかエンタメ的な展開のうちに労働争議のノウハウが書かれていて実際に争議の手引きとして読まれたとも言われている。

北原白秋「ほう、ぽんぽん」は不思議な表題通り内容も不思議で、若山牧水の形容をした言葉なのか実際に鳴っている音なのか不明瞭なまま、この言葉の響きで一篇を仕上げている不可思議な文章。なるほど詩人の随筆らしいと思わせる魅力がある。

薄田泣菫の自然に関するエッセイが四つ続けて収められており、この自然に対する感受性の鋭さ、幸福を見いだす視点がかなり面白く、これだからこそ詩人なのだろうと思える。単に擬人化するとかではない、自然への共感のようなものがあり、魅力のある随筆だ。

夏目漱石「自転車日記」は、この本のなかで一番自由な日本語を使っている文章ではないかと思える。自転車に乗れない自分を描いて自虐的なユーモアを湛えつつ、様々な当て字や慣用句を改変したりした言葉を縦横に差し挾んでおり、自由自在の感がある。ちくま文庫の漱石全集10巻では註釈付きで本作が収められており、どのような参照先がありどういじっているかを指摘してあるので併読すると面白いと思う。豊かな学識、慣用句や故事成語を使いこなす文章力が己と自転車の関係をコミカルに描くことに全力で使われていて、とても読み応えがある。

長沢節「弱いから、好き」、戦時下の日本でマッチョさを排し、細身で弱々しく病的な人間像を美として提示し、美的な観点から反戦を体現するエッセイで、軍事教練を茶化したことで美大への道を絶たれたという経歴も合わせて非常に面白い文章だった。

佐多稲子の月に関するエッセイも面白いし、吉田健一の食に続いてある田舎町の魅力を描くエッセイなどなど、全体にそれぞれのポジティヴなものを描いている楽しさがある。第三弾も企画が進んでいる模様。

仙田学『スマホ野さだお君』

ボケバケ探偵団シリーズ第二弾、サブロー君シリーズでは通算第三作目の児童文学。いつもながら子供たちの関西弁も快調に、今作ではかわいいもの好きで従姉妹と女装を嗜む男子や、塾で遊べなくて友達に意地悪してしまう女子の話を妖怪との対決で解決していく。女装エッセイの書き手でもある著者らしい女装ネタも入れつつ、仲良くしたいのに意地悪してしまうような身近な子供の悩みを小さいうちに摘んでいく。サブロー君が無神経なキャラになりそうなところですべてを肯定していく言動なのが全体のポップさを支えている。

茨木のり子『歳月』

二十五年連れ添った夫が亡くなってから約三十年一人で暮らすなかで書きためていた夫への愛を綴った詩集。岩波文庫の茨木詩集にここから抜粋されたものがあり印象的だったのでちょうど文庫化されたこれを読んだ。孤独のなかで募る亡夫への思いを描いていてこんな真率な愛があるものかと思った。

その岩波文庫の詩集を読んだとき、自分の感受性くらい、など全体的には犀利な知性を感じさせる詩が多くて意外にも思ったけれど、最後に本書からの詩が出てくるとそれまでとはだいぶ違う色調の秘めた内心を露わにするような作風で驚かされた。見合い結婚だったらしい。生前発表するつもりがなかったというのが良く分かるような詩で、孤独と愛といえばやなせたかしの詩集のような平明で親しみやすさのある詩集だと思う。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

太陽を蝕むアストロファージなる宇宙微生物によって破滅する地球を救うためヒントがあると思われるタウ・セチ星系に送られた主人公が科学技術と友情で困難を解決していくSF小説。一言で言うと大長篇ドラえもんみたいな話。たぶん。

五年前に邦訳が刊行された時から大評判で、文庫化もし映画化によって既に著名すぎる作品となっているから特に説明も要らないだろうけれど、科学がプロットを推進する『宇宙の人』以来の作者の手腕が今回は異星系とファーストコンタクトにまでスケールを広げてやはり非常に面白い。だいたいの人は何が起こるかを伏せてとにかく読め、と言うのはこのファーストコンタクト部分の驚きを知らないまま味わわせたいからだろうけれど、私もファーストコンタクトということ自体は知ってたし、映画のPVで既にアピールされてるらしいのでそこを伏せてもしょうがないかな。

宇宙空間で遭遇した蜘蛛のような形をした異星人を出身星系からエリディアンと呼び、個体をロッキーと呼称して、それぞれの生息環境の違い、感覚の違い、技能の違いを知り合い、伝え合い、補い合いながらアストロファージ禍の解決を目指していく異星バディSFになっていくところは大変面白い。

ファーストコンタクトでの意思疎通、そしてアストロファージの研究とタウセチでその天敵を見つけ出して研究し、故郷を救わんとするプロセスは科学的探求が主軸となり、謎を解き明かし解決策を模索していくプロセスそれ自体の面白さで話が駆動していく。お互いの体のつくりの違い、常識の違い、そして最後のバディとしての相手への敬意と友情、旅の途中で偶然出会った相手との心の触れあいと、最後の決断、この感じは大長篇ドラえもんなんだよなと思わずにはいられなかった。そして最後は科学を教え伝えるというグレースの教師としての意識で締められる。

独身男性のグレースがたとえばストラットと恋愛関係になったりはせず、それは決死の片道切符を拒否する方便でもあるとはいえ一介の教師としての仕事を大事に思っていて、それが地球へ帰りたがる理由になっているのは愛する恋人や家族のためといったハリウッド映画的な枠組みから逃れる設定だろう。

『火星の人』が単独でのサバイバルだったのに対し、今作では二つの文明それぞれのサバイバルが出会うという順当な発展をたどっている。しかし第二作『アルテミス』はなんだか妙に影が薄くて私も未読だったりする。そのうち読んでみようとは思う。

本作の世界各国が協力して世界的危機に向き合うために中国、ロシアが大きな役割を果たしてアメリカ人が宇宙へ行く、というアメリカンドリームも、ロシアはともかく今やアメリカもがトランプによって公然と暴力を振りまく常軌を逸した国となってしまってはこの物語が夢物語すぎる感じが出てしまう。いや、アメリカは元からそうだよと言われればそうなんだけど。しかし同行者二人が死んだ原因はともかくかなり早い段階で葬送というか宇宙に投棄したのは何か意味があるのかと思ったけど別にそうでもなかった。

岩本敏男『ねむれなくなる本』

中公文庫のトラウマ児童文学シリーズ第四弾。シリーズはひとまずこの第四弾で区切りとのこと。児童文学とは何か、ということを問う「伝説の短篇集」らしい。離婚した家の子供、父に掛けられた冤罪、一家心中といった生々しい現実の事件・不安や、死者からの電話、UFOアブダクション、地球滅亡といった超常的な現象を扱う短篇が並列しており、両者を区分けできない子供の世界ならではの恐ろしさを描いているように思う。

最初の一篇は両親が離婚して母に引き取られたものの母は水商売で日銭を稼ぎ、そこで出会った男性と仲を深めたように見えつつ捨てられたのか泥酔して荒れていたところを子供に突き飛ばされ、冷蔵庫に頭をぶつけて死んでしまう様子を子供の視点から語るという嫌な話で、ここから本書が始まる。

嫌さということでは家族に望まれない祖母を引き取ることになった「一匹」が本当に生々しくて、家族に疎ましがられ、姉は鍵を掛けて自室に籠もり、主人公の子だけがおばあさんと一緒の部屋になってしまう。姉には匂いが移ったと難癖を付けられ、お祖母さんは姉の嫌がらせに遭う……。ボケ気味になった挙句に入院して記憶も怪しくなったまま亡くなるという……。

なかでも「あいつとおれ」では、ほとんど口を利かなかったクラスメイトとちょっとしたきっかけから縁ができ、父がサラ金に追われていて夏休みに引っ越してしまうことを知ったりという夏の少年のささやかな交流が衝撃的なラストを迎える。子供の世界を覆う大人の事情の陰鬱さ。

離婚した子供の話はほかにも、母に引き取られたものの父との面会で父の再婚相手と遭遇したりの微妙な状況のなかで自分の権利とは何なのかを考える「権利」、心中に巻き込まれた子供の視点で家族が全員死んだらしいことを知る絶望を描く「心中」など、子供の頃に読んだら本当に眠れなくなりそうだ。子供の視点ということでは、子供が行方不明になる事件をUFOのアブダクションなのか実際に誘拐されたのかが判然としない「坂道」の幻想性にその雰囲気が強く出ているように思う。大人たちは誘拐を言うけれど、当事者の子供は大人に連れて行かれたとは言わない、この不可思議さ。

徹底して子供の視線からこれらの諸篇が描かれているように思える。表題の本は全体の半分ほどで、増補されている連作短篇「あいうえお」は作者の自伝的なあれこれを五十音のキーワードごとに描いたもので、産まれる子供の視点など幾つかのアイデアが本篇と通底していて舞台裏とも読める。なかでも「イカとタコ」は熱心な理科の先生にこの二つの種が交配すると足の本数は何本になるのか、という質問を持って行ったら激怒されビンタされたという理不尽さを描いていて、しかも理由は一切分からず、大人の視点から腑に落ちる説明がされるわけではない子供の目線が印象的だ。

この増補短篇所収の本の後書きで、子供は純真無垢などではなく「悪党」なのだと書き、「そういうわけで、子どもは、殆どまるごと大人と同じなのです。人間なのです。忘れないでください、何をかくそう彼らは人間だったのです!」(273-4P)と書き記していることは特筆すべきだろう。

子供を理想化せず対等な「人間」として見る目線がこれらの諸篇の背景にあるわけだ。また、「子業」を務めたけれども「親業」はしなかったというエッセイのなかで、「家族」に対して感じる淫靡さや恐怖を述べた箇所も非常に印象的だ。

ひとり者のひがみなのだ。友人の家庭から解放されて、夜の道をあるきながら、私はそういいきかせます。そういうことにしておかなければ、私はたたかわなければならなくなります。家族といい家庭といい、かなしくて、このしたたかな集団とのたたかいをです。278P

子供や家族を理想化しないこと、むしろそれらへの怖れを抱くこと。「異端の児童文学者」と呼ばれた理由はこの辺りに窺える。子供、家族、そして日常。これらのものを当然と思わないスタンスがこれらの諸篇から滲む不安、恐ろしさの要因なのだろうと思える。

表題書や増補短篇にエッセイそして解説と、一読すると著者のスタンスがある程度まとまりのあるものとして見えてくる。もちろん本書だけ読んで全体像だと思うのは危ういとしても、一冊で著者のコアを提示するのが編集意図でもあるだろう。その役割は充分に果たしていると思われる。ツイッターでしか見たことがなかったからどういうものを書く人なのか知らなかった能町みね子の解説がなかなか読ませるものになっていて、へえこういう感じなんだ、と思った。
本書は担当編集様より恵贈いただきました。

小池壮彦『幽霊物件案内』

怪談界隈では著名な作者の有名な本のようだけれど私はまったく知らなかったので軽い気持ちで読んだ。実話怪談の祖型というのか、本人が体験したり知人から聞き知った話などで様々な怪談、奇談が語られるけど印象的なのはその文章の淡々としたドライさだろう。そのあっさりとした語り口で、怪奇な話、奇異な話が次々と語られていて、短い時には数行で終わったりするそのリズムで次々と読まされてしまう。おどろおどろしい話もあり、死者の呪いとかそういうのが匂わされることもあるけれど、あまり怪談でもない単に変な話もあったりするのが良い。途中で三津田さんという人が言及され、おや?と思ったら三津田信三が文庫版の解説を書いていてなるほど過去に出版社でホラー関連の本を担当していたのか、というホラー史の一幕がかいま見えるところも面白い。

小池壮彦『【完全版】日本の幽霊事件』

14年にわたり雑誌「幽」に連載されたものを元にした二冊の本を合本文庫化したもの。日本の、とはいうものの概ね東京近辺の事例を取りあげ怪奇事件の考証を試みるもので、怪談の裏にある陰惨な事件や話の改変などを跡づけていて面白い。ある陰惨な事件が起こり、その後にあった怪奇現象が事件と結びつけられて怪談、幽霊事件として成長していく様子を様々な事例から説き起こしていくなかで、鉄道事故、水難事故、戦前戦後のメディア史、文化史、風俗史を本人撮影の写真と共に垣間見ることができる。

前半では特に「八百屋お七」を「メディア・ミックスで盛り上げられた戦後最初の幽霊事件」と呼んで昭和30年代の怪談ブームの起点において戦後の怪談史に位置付けつるのも面白いけれど、番外篇での考証・推理が圧巻で非常に読ませるものになっている。鴎外『澁江抽斎』まで出てくる。

羽根木公園での幽霊事件から当時の不良グループの話になり、富裕な少女たちが悪行に手を染め、普通の少女を不良グループに売り飛ばす集団売春事件をおこし、しばしば首謀者が中学生だったりするなどの事件もすごいけれど、そこでソーラー族というのが出てくる。ミーハーの上なので音階の一つ上のソーラー族、というもじり方にも富裕層らしいところがあるけれど、後半13節、淀橋の箇所でこの一団が恋人と同士の進展をABCと名付けたというのが出てくる。新しい恋人のことを「おニュウ」、あるいは学校の試験に出題範囲があるのもこの一団の抵抗運動によるという。

ソーラー族というのは、ミーハー族よりも上と称する少年少女たちのことである。ドレミファのミファ(ミーハー)の上がソラ(ソーラー)という意味で、昭和三十年代に流行したグループだったが、あまり長続きはしなかった。しかし、この連中が編み出した造語が多少興味深いので紹介すると、新しい恋人のことを「オニュウ」と言ったり、 異性との関係がどこまで行ったかをA・B・Cなどと段階別にあらわすのは、もともとソーラー族の隠語だった。当初は「一塁」「二塁」「三塁」「ホームラン」と言っていた。「一塁」は手を握るだけの関係で、「二塁」がBの抱擁に該当し、「三塁」がAの接吻だった。細かい説明は省くが、いつのまにか「三塁」の価値が低下して、「一塁」は消えてしまったのである。
 学校の定期試験に〝出題範囲〟があるのも、昭和三十年代にソーラー族の高校生が学校と交渉して勝ち取った成果である。それまでは定期試験に出題範囲というものはなく、どんな問題を出されても文句は言えないのが普通だった。ゆえに生徒が苦労したため、ソーラー族の連中が出題範囲を決めるように学校と団体交渉したのである。P297-298

ABCはともかく出題範囲もそうなんだろうか。

怪談の背景にある陰惨な事故は、それによって安全管理が整っていく歴史の一コマでもあるし、犯罪史、文化史、メディア史の要素もあり、怪談が生まれる場所をたどることはそうした歴史と密接に絡み合うことでもあるのを窺える好著だ。

自殺者が多い玉川上水のことは人食い川と呼ばれており、著者が高校生の頃死体の汁のおかげで水道水がうまいのかと水道局に問い合わせ、死体の汁を飲んだ方が滋養強壮に良いと信じていたので塩素殺菌なんかよせと抗議した、というだいぶ変な話も書いてある。谷中霊園の事件のところで、著者が話を聞いた公園にいた老人が、六十年ほど前の事件の重要な目撃者で意外な説を教えてくれるというところなど、信憑性を疑ってしまうようなマジで?みたいな箇所も時々あって、結構胡乱なところもあるのが面白くもある。戦後のテレビ時代になると幽霊も天然色になるというのはメディアと怪談の関係を示す一節だろう。

最近邦訳されたイアン・ワトスンの短篇その他

イアン・ワトスンが亡くなり、前々記事で追悼として以前書いた書評を再掲したけれど、昨年から怪奇幻想文芸誌「ナイトランド・クォータリー」でワトスンの短篇の翻訳紹介が進んでいたので改めてそちらを読み、また逝去の時に出ていたのを知ったファン出版の短篇集などをつらつらと読んでいたので感想をまとめておく。NLQ誌には2025年6月の39号から今のところ四号連続で訳載されている。ナイトランドクォータリー掲載のワトスン作品はいずれも大和田始訳。

「慰めの散歩」(NLQ39号)

中国が覇権国家となった時代の英国ノーザンプトンで、チンパンジーの母親が死んだ子供を抱き続けることをヒントに、子を死産した母親がその遺児を科学的処置によって少しずつ縮んでいくように加工して、抱きながら道を歩くという奇妙なグリーフケアを描く一篇。中国人医師のテストケースに選ばれた主人公の女性がただ道を歩いているなかでのモノローグが作品の主体となっていて、奇想をベースにしながらも淡々とした調子を持っている。

乳房は知らない
赤ん坊が死んで産まれたことを。
だからキャベツの葉は湿っている。

と、漏れ出る母乳を薬で止めずにキャベツの葉を当てている様子を含めて詩にしてインタビューに答えるラストが印象的で、途中でもサイモン&ガーファンクルのスカボローフェアの詩が引かれるように詩の存在が重要なのも面白い。ノーザンプトンの通りには二重螺旋を発見したフランシス・クリックの碑石があるというのも面白い箇所だった。そういえば人種差別発言があった同じくその研究でノーベル賞を得たのはジェームズ・ワトソンで作者と同姓でもある。

「異星人がボトル詰めのために駐留する時」(NLQ40号)

人間たちが異星人の資源としてボトル詰めにされる様子を描く異星人侵略SFホラー掌篇。基本は書いたままの異星人侵略SFだけれども、インベーダー(侵略者)がインカマー(到来者)と言い換えられる冒頭のように様々な言葉遊びが核にある。ボトルよりバトル、オキュペイションの「職業」と「占領」といった二重の意味も重ねつつ、「アイ」デンティティ、「アイ」デニティ(視力検査)、「アイ」デアのアイ=私が、デカルトの一節に至り、語り手が異星人とデカルトの話をする奇妙な展開をたどる。そんななか、異星人へのテロ攻撃に及んだ人間に対する罰として巻き添えを食らい、語り手は片目を奪われることになる。ラスト、アイデンティティは「眼の身分証明」とルビを振られている。植民地化された人間が懲罰として目を奪われることで眼帯・「パッチ」のあだ名を自分に付け、「ペット」みたいだと自嘲する。植民地支配とアイデンティティの関係を風刺的に描いた短篇だろうか。

「溝の底にて」(NLQ41号)

魔術師とも呼ばれる学者から制作を命じていた天体儀を献上される「高帝陛下」の「余」の一人称で厳かに語られる、円盤形をしているという不可思議な世界の秘密とその危機の訪れが描かれる。読んでいるとこれはもしや?と思った辺りでジョークSFだと明かしてくれる。タイトルがダイレクトにそうなんだけど、これレコードの溝を都市として生きている世界の話だよな。円盤形の世界、二つの山の間にある都市、逆ピラミッド型のものが山を削って行く様子、「われらが宇宙はジョーク・ボックスである」というラストのセリフ。SFマガジンで「ライフ・イン・ザ・グルーヴ」として既訳がある。

「巨大な小人」(NLQ42号)

フランスの洞窟から広がる地下空間への冒険にジュール・ヴェルヌが参加し、語り手の女性は彼からの女性差別的発言を受けたりするなか、地下空間で意外な存在と出会う『地底旅行』オマージュ短篇。女性差別と人種差別が通底する話にも思える。ヴェルヌの才知と女性差別が同居するところから、地下で出会った人間たちのレイシズムを主人公アントワーヌは目の当たりにするわけだけれど、この女性の目から差別主義を見ていくことがヴェルヌの批判的読解でもあり、現代史のアレをそこに繋げるのも単なる奇想ではない意図があるだろう。『地底旅行』で同道するのがドイツ人のリーデンブロック教授とアイスランドの現地人ハンスで、今作でドイツがテーマになり人種差別が出てくるのはこの事情を踏んだものだろうか。『地底旅行』は主人公が旅を経て婚約者を得るという大枠だったわけで、女性を主人公にし、ヴェルヌ自身を作中に出すことで、彼の旧弊な価値観を俎上に上げている。それでもヴェルヌが世界大戦への批判的企図でもってSFを書こうとする様子を描くことでSFの反戦的意義を拾おうとしているように思える。最後の部分はなんとなくウェルズぽい気もするけどヴェルヌにタイムマシンが出てくる世界戦争ものってあるんだろうか。

イアン・ワトスンインタビュー(NLQ41号)

これがなかなか面白い。東京教育大学で教えていたというのは日本滞在歴があるというので知っていたけど東アフリカ大学でも教えていたという。また芸術史を教える学校でギー・ドゥボール流のシチュアシオニストパンフレットを配っていたというのはなるほどと思った。そして詩作もしていてブレイク、キーツ、ボードレール、ランボーの他セネガルの大統領で詩人サンゴールやフランス海外県マルティニーク島の詩人で政治家のエメ・セゼールなどを挙げている。かなり明確に左派としての立場を取っている印象だ。

「ろくに詩も書けない小説家が、フィクションの登場人物に詩人を名乗らせてはいけません」という痛烈な一節がある。『エンベディング』ではレーモン・ルーセルの詩が題材になっていたし、詩集も幾つか出していて、ワトスンにとって詩は思ったより重要らしい。

評価している書き手を問われて、まずアラスター・グレイを挙げ、次いでウエルベック、そしてバリントン・ベイリーやホセ・カルロス・ソモザ、そして親友だったジョン・ブラナーと続く。スタニスワフ・レム、安部公房そしてロバート・アーウィンの名が挙がっている。アーウィンは『アラビアン・ナイトメア』というのが国書から出ていたことだけを知っている。最愛の本はデイヴィッド・リンゼイ『アルクトゥールスへの旅』とのこと。サンリオSFで読んだなあ。ここ、原題に引っ張られたのか「旅」ではなく『アルクトゥールスへの航海』と記載されていて書名が間違ってますね。あと訳者が中村保男と中村正明の連名なのに後者が脱落している。

スーフィズムへの関心、日本の停滞への別視点、「アイロニーは知的なものですが、ユーモアとは身体的なものです」という一節、そしてさほど遠くない将来に世界は終わるので私はものごとを真剣に受け止めすぎることはできない、と興味深いことを言っている。我々の存在そのものの「滑稽さ」を指摘するところはワトスンらしい。長篇で悪い冗談のような結末に至る感じなのはこれか、という。キューブリックが企画しスピルバーグが映画化した「A.I.」で脚本を担当した話のワトスンサイドでの話も語られていて面白い。キューブリックが薦めたピーター・セラーズ主演の「チャンス」、このコジンスキーの原作は読んだな。

ナイトランドクォータリーは最近出たファン出版の短篇集と比べると、結構異色作を選んで紹介している印象がある。これからも紹介を続けていずれ一冊にまとめてほしいところだ。

『地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短編集』

というわけでファン出版として刊行された短篇集。本城雅之、木下充矢訳。本文140ページに加えてワトスンの詳細な作品リストがあり、既訳作品の探索にも未訳作品の把握にも便利だ。75年から90年までの短篇が七つ収められており、きちんと読み応えのある一冊。本文が短めのように見えるけれども雑誌サイズなので文庫にすると200ページ分くらいはあるのではないか。

「免疫の夢」、自分がガンになるという強迫観念に取り憑かれた主人公エイドリアン・ローゼンが、寝ている間に夢からの信号を体に伝えることを制止するストッパーを除去する脳外科手術を行なおうとするという話で、夢と現実の境界を裏返そうという主題は本書でも繰り返し出てくるその序章と言える。正直言って話が全然入ってこなくて三回くらい読み返してもいまいちどういう作品なのかが分からないけれど、癌は遺伝子の完全なコピーを保持する保守システムという理論や、夢は免疫系の管理をしており癌の発症を予測できるなどのSFアイデアが絡んでいく。

「ジェインといっしょに鉱泉室へ」、渇水によって鉱泉室に水を取りに行かなければならず、しかも階級によって時間に制限があるという時代に、ジェインは母と共に水を取りに行き、そこで八年前に婚約しかけた男性と出会う。彼はその後艦長という立場に成り上がっておりこの再会が幸福をもたらす。娘らしいロマンスへの期待や母の現実的な説得から婚約を断った男性を逃げた魚は大きいと諦めの悪い女性を描いた話だけれど、ジェインという名前や「分別と娘らしい思慮分別に説きふせられていなければ」という一節など、オースティンのパロディによって夢想と現実の落差を描いた作品だろうか。

「帰郷」、ソ連とアメリカが放射能兵器での戦争で壊滅し、アメリカが使っていたのは人間だけを殺す兵器で、ソ連が使っていたのは人工物をすべて破壊する兵器だったので、生存していたアメリカ人が脱け殻となったソ連へ移住を始め、次第に人々はソ連的になっていく、という諷刺短篇。冷戦時代、米ソ戦争の結果アメリカ人がソ連人になっていくというストレートな諷刺で、アメリカの爆弾は資産を破壊しない「超放射能爆弾」でソ連からは「超資本主義的爆弾」と揶揄され、ソ連の生き物以外の人工物をすべて壊す爆弾は「社会主義者爆弾」と呼ばれている。

「オオカミの日」、イギリスの田舎を再び森深い環境にしようという計画のなか、老婆が狼に殺される事件が起こる。その謎を追ううちに老婆は狼に変身したのではないかという疑いが主人公に兆す。赤ずきんの物語を踏まえつつ、開発した土地を再度森に戻すことは前近代の世界の復活を示唆する幻想譚。主人公がケニア出身のようでタンザニア製のランドローバーに乗っており、近場の工業地域はアフリカ人によって維持されているなど、この時代のイギリスはアフリカの勢力下にあり、イギリスが前近代へ戻る話なのも植民地主義、開発主義への批判意識だろう。

「地球の鏡の中で」、人々が眠りを必要としない「球地」、最低一人多くても九人の一日八時間眠る「眠る人」が存在する世界。その「眠る人」は「沈世」という世界の話を語ることができ、その内容はどうやらその世界と違う、つまり「地球」の話のようで、という裏返しの世界を描く一篇。我々の知る世界とは地名などが異なるこの世界は「霊紀史」と称されている。「球地」の人々は眠らずにいられると同時にその眠りの力を溜め込むことで時折放出して夢を具現化する現象を起こすことができる。それはしばしば何かと何かを繋ぐ建築物の姿を取ることも多い。夢を放出する力を持つ眠らない人々のうちの一人でアクィーノのトマス、トマス・ダクィーノを名乗る語り手と、その世界の鏡写しの別世界のことを知っている眠る人ラウールという二人の関係を描く話で、奇抜な設定でもっと長い小説にもできそうな不思議な感触のあるファンタジー。語り手の名前がトマス・アクィナスをもじったものなのは明らかだけれど意味は判然としない。ラウールが彼の元を去った後、語り手が横と横を繋ぐのではなく、高さという概念をラウールに教えられて塔を建てるラストも印象的だけれど、これは天あるいは「沈世」と繋ごうとしているのだろうか。

「スターリンの涙」、検閲と秘密主義ゆえに地図を意図的に不正確にすることが繰り返され、もはやオリジナルの地図、正確な地図とは何かが分からなくなってしまったある国で、その土地を詳しく知る人間だけが行ける地図にない場所が存在するという幻想小説。本書で最も長く、「地球の鏡の中で」とも似た別の世界がすぐ隣にあるという幻想性が都市幻想小説として現われている。ワレンチンは自宅に帰る道かから分かれ道に入り、愛人への道を選ぶとその道を歩いている家に時間が巻き戻り、若い姿になって愛人と会うことができる。あるいは、ある男性が女性と行為に及ぼうとしたら女性器からエクトプラズムが湧きだし、その男性のコピーとして本人と成り代わり、地図作成に従事するようになるという奇態な物語が語られ、地図作成部には行方不明者やスパイが入り交じる空間になっていく。しばしば不条理小説の舞台になってきた社会主義国の官僚組織テーマの一つと言えるだろう。面白いのは、地図に描かれない謎の場所があるというより地図の歪みがその未知の場所を作り出したという転倒が起こっており、卵のなかに世界地図が描かれているなど、真偽や表裏がひっくり返る趣向がある。これはそのままラストの展開になるのだけれど最後にトーンが変わるところはなかなか面白くて良かった。ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』や、イスマイル・カダレ『夢宮殿』などを思い出す。

「アーヤトッラーの眼」、イラクとの戦争で片目を失ったイランの少年アリは、指導者アーヤットラーが死刑を宣告した西洋の作家を見つけ出し処刑するためのプロジェクトに参加し、国は作家を見つけ出すために衛星を打ち上げ「アーヤットラーの眼」と称し、アリの義眼にその映像を映し出す。アーヤトッラーはイスラム教の高位の学者を指す用語らしいけれども、西欧ではイランのホメイニ師およびイランの最高指導者を指す言葉として知られているらしい。ということでサルマン・ラシュディにホメイニ師が死刑を宣告した話を受けて書かれたものなのは明らかだ。『悪魔の詩』は1988年に出版され、翌年に死刑宣告がなされ、本作は1990年に書かれている。ここで暗殺者アリは見つけ出した作家の前で自分の眼とアーヤットラーの眼、どちらが本当の自分の眼なのかに迷うことになる。この現実ともう一つの世界の主題は本書短篇群に多々現われるテーマだ。そしてラシュディは実際に近年襲撃を受け、片目を失明してしまう。片目のアリと作家の遭遇を描くこの一篇が奇妙に預言的になってしまった。

いずれも奇想短篇としても読めるけれど、かなり政治的、社会的批判精神が窺えるものもあり、ナイトランドクォータリー訳載分の女性視点の多い諸短篇と合わせて読むとイアン・ワトスンの批判精神が際立って見えてくる。初期長篇も西欧以外へ題材を取っていたことを思い出す。そして、夢と現実、偽の地図と本当の地図、アメリカとソ連、鏡の世界などなどの現実ともう一つの世界という構図が幾つもの作品で繰り返されているところも本書所収短篇では目立っている。これなどクリストファー・プリーストとも似ている資質のように思える。それでいてプリーストの繰り返し描く恋愛が結構保守的な印象があるのともかなり対比的な感じがする。小説としてのまとまりや形式に意識的なのはプリーストだけれど、西欧中心主義、植民地主義など世界の近代性というものに意識的なのはワトスンの方だろう。

私はAmazonのプリントオンデマンドで注文したけど、BOOTHでの注文の方が安いようだ。
地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短篇集 - vitaminsfpicopub - BOOTH

「アミールの時計」(『アザー・エデン』)

イギリスの大学生リンダと親しくなった首長国の王子のバニーは、ある時リンダを誘ってバーフォード教会の時計を見に行くことになる。その大時計は中世の時計と現代の時計の「進化の一段階」だというところから話は広がる。神は自らに似せて人を作ったと言うけれど、神にも内臓があるのか?とバニーは問う。人間が自分に似せてロボットを作ってもそこには基盤や半導体があるばかりで人間とは似ても似つかない。機械のなかに血と肉が見つかったら、オリジナルは一体どっちなんだと彼は問う。その後父をテロで喪い首長国の王となったバニーはそこで機械知性を研究する大学を設立し、この世界に機械知性の世界を上書きしようと試みていることをリンダに明かす。肉の世界と別の、機械の世界を幻視するまさに「アザー・エデン」という表題に相応しい作風。正直色んなことが未消化で分かったとは言えないんだけど、別世界を幻視してみせる強烈なアイデアはワトスンだなあという感じだ。ざっと検索してみると時計の進化は制作者を介して神の意志が関わっていて、機械を進化させるために人を進化させているというアイデア、でいいのかな。アラビア語の音楽性、アラブの建築のメッセージ性、キリスト教とイスラム教を対比しつつこのアイデアを組み立てているところが肝でもあるだろう。

今作のなかでメッセージを様々なピースに分解して送りつけて相手に解読をさせるくだりがあるけれど、今作も一読してはっきり分かるようには書かれてないように思えるのはこのように作品内容を精査して読解することを読者に要求しているからなのかも知れない。読者の知性を高く見積もりすぎている気がしないでもない。

言葉による不死 クリストファー・プリースト『不死の島へ』

「夢の文学館」叢書で読んだ『魔法』の後書きで知って以来、20年以上の時を経て翻訳されたプリーストの重要作品がようやく読めて感慨深い。*1

本書は著者がSFのみならず現代文学界にも知られるようになったSFアイデアとメタフィクションや語りの技法を組み合わせた作風の嚆矢となる長篇だ。長短諸作が属する「夢幻諸島」ものの最初の長篇で、「わたし」がまさにそれを創造する瞬間が描かれている。

夢と現実、虚構と現実の二つの世界の絡み合いや信頼できない語り手といった技法が大きく扱われ出したのが今作かららしく、『夢幻諸島から』『隣接界』といった夢幻諸島ものの原点で、『魔法』や『奇術師』『双生児』などといったSFと現代文学の融合的作風の始まりでもある重要作だ。一読して全容を把握できた気はしないけれども、「夢幻諸島」はフィクションの象徴のようでもあり、虚構、夢、不死性と死などが絡まり合い、「私」とは何か、「現実」とは何かが揺らぎ、そして通底するのは言語で現実・真実が指し示せるのかということへの疑念だろう。

本書では不死にまつわる記憶とアイデンティティの問題が物語や虚構性と密接に関わるところにSFアイデアの文学的応用がある。書くことによって自己自身を、人間をを定義し不死たらしめること。それは果たして可能なのかという問い。

とりあえずは内容について、以下途中までの話に触れるので注意。

架空の物語による自伝

1976年春28歳だったピーター・シンクレアは苦境に陥る。父が急死し、不況で会社を解雇され、家を追い出され、恋人と破局するという幾つものトラブルが立て続けに起こったからだ。そこで連絡を取った父の友人の計らいで田舎のコテージに住まわせてもらえることになり、彼はそこで自伝を書きはじめる。人生の危機にさしかかった自分を見つめ直すため、自己の人生を書くプロジェクトだ。しかしそれはすぐ暗礁に乗り上げ途絶してしまう。事実と記憶の違いなど様々な問題が現われ、ピーターは完全な真実を描くためには完全な偽りを書くことが必要だと思い至り、改めて書かれるのが「夢幻諸島」の物語だった。

ついにわたしの物語はどのように語られねばならないか、はっきりとわかった。より深い真実は偽りによってのみ――言い換えるなら、メタファーを通じてのみ――語られるとすれば、完全な真実を達成するためには、完全な偽りを創造しなければならなかった。わたしの原稿はわたし自身にとってのメタファーにならなければならない。
 わたしは想像上の場所と想像上の人生を創り出した。39P

比喩や虚構の力を通じて真実を描く。ここに本作の物語論・虚構論の一端が現われる。コテージに籠もって自伝や架空の世界に置き換えたフィクショナルな自伝を書く現実の舞台の話は、途中からその夢幻諸島での別のピーターを語り手とした作中作が始まる。

夢幻諸島と不死技術

夢幻諸島世界のピーターはくじ引きで不死の権利を手に入れる。宝くじコラゴ社は不死技術を発明し運用しているけれども、富裕層や権力者の独占などで不公平感与えるのを防ぐために処置対象者は完全な抽選で選ばれることになっており、ピーターは偶然買ったくじで当たりを引いた。夢幻諸島は北と南に大きな大陸があり、そこにある国同士が戦争をしている。その間にある海に独自の行政や文化を持つ多数の島が散在しており、ピーターはジェスラという都市から不死処置を受けるために夢幻諸島のコラゴ島へ向かうなかで、様々な島を経巡り、ある女性と出会い関係を深めていく。

このジェスラは現実におけるロンドンに当たる都市で、現実で破局したグラシアという女性は夢幻諸島ではセリというピーターの宝くじの代理人に当たる。虚構のなかでセリを創造し、彼女を通してグラシアを理解しようとしている、とピーターは言う。虚構の物語を通してグラシアを理解しようとしているわけだ。

コラゴに着くまで不死処置を受けるかどうか迷っていたピーターはまだ若く、死の危険を感じることもなく、自分が不死に相応しいとも思えず、ほぼ断るつもりでいた。しかし、直前の健康診断で機械が打ち出した余命は五年、医者によれば脳動脈瘤がいつ破裂してもおかしくない状況だと知らされることで話が変わってくる。死の不安とは無縁でいられたピーターに急な死の危険が迫ってきたことで、彼は不死処置を受けざるを得なくなる。そこで必要になるのが膨大な質問票だった。不死処置では記憶が失われるため元の人格を再現するには大量の情報が必要になるという隠されていた重要な事実が明らかになる。ハードウェアは同じでもソフトウェアがリセットされるとすれば、それは同じ人間と言えるのか。個人的にも明らかに別人だろうとは思うけれども、死の危険が間近に迫るなかではそんなことを考えている暇はない。ピーターはそこで自分が書いていた自伝を提出する。ロンドンが出てくる自伝だ。

夢幻諸島のピーターは現実のピーターとは逆に、ロンドンという架空の都市出身のピーターとしての自伝を書いていた。夢見たものが夢見られるというボルヘス的とも言える虚構の相互貫入。そして不死のピーターはその虚構から再構成された情報によって自己を形作らざるを得ない。夢幻諸島のピーターの自伝はロンドンやヒトラーなど、夢幻諸島にはない言葉で書かれており、担当者はそれらをいちいちカットしたり夢幻諸島で当てはまるものに置き換えてピーターに説明しなければならなかった。現実を虚構化しそれを更に現実化する手続きによって不死者ピーターが生まれている。

その原稿は独立したアイデンティティであり、瓜二つの自己だった。それでもそれはわたしの外にあり、固定されたものだった。わたしは年を取るが、それは取らない。破壊することさえ不可能だった。タイプライターで文字を打たれた紙を超えた生命を持っていた。仮にわたしが燃やしたとしても、あるいはだれかに奪われたとしても、それはどこかより高い次元に存在していた。純粋な真実は年を取らない性質を持っており、それはわたしよりも長生きするだろう。41P

不死技術とは紙に書かれた人間が永続的な命を持つこと、つまり創作の比喩にほかならない。人間が紙のなかに描き出した人間が現実の人間よりも長い命を持つこと。もちろん自伝や随想でもいいはずだけれども、今作ではそこに「完全な真実を達成するためには、完全な偽りを創造しなければならなかった」という創作性を加えており、それが今作の鍵となって複層的な構造を生んでいる。

虚構と現実の浸食

二つの世界で相互に描かれた虚構的な自伝を経て作中の虚構と現実、夢幻諸島とロンドンとの境界が揺らいでいく。現実には存在しないはずの虚構の人物が現実のロンドンに現われ、そして今まで現実だと思っていたものが虚構だったと暴かれる。そもそもフィクションによって仮構された「わたし」によって語られた現実とは何か。

物語・フィクションによって仮構された「わたし」が語るものが現実と言えるのか、という問いはソシュール言語学以降の、言語は実体を指し示しているのではなく恣意的な記号によって構成されるという言語の恣意性と重なるものだろう。本作冒頭でまさに言語の不確実性を語っている箇所を思い出してもらいたい。それ故、現実のロンドンと夢幻諸島のジェスラが相互にどちらが実体だと確定づけることはできず、しばしばそれらは入り交じり裏返り、メビウスの輪のように表が裏に繋がっていくような状態が現われる。指示するものと指示されるものの関係は不確定な揺らぎを抱え込む。

P・K・ディック的な現実崩壊感覚は初期プリーストも書いていたけれども、牧眞司氏が指摘するように『不死の島へ』の直前の作『ドリーム・マシン』はVR技術を題材に夢と現実が入れ替わるような話だった。本作はその構造を言語と物語・フィクションのレベルで再演したと考えられる。
【今週はこれを読め! SF編】相互に侵蝕するふたつの物語〜クリストファー・プリースト『不死の島へ』 - 牧眞司|WEB本の雑誌
現実が夢と入れ替わるような現実崩壊感覚を突き詰めていけば、小説としての基底現実となる言葉自体、そしてそれを語る主体を疑わねばならない。そうして、書かれた言葉や語ることそれ自体の危機を見いだすことで、SFの主題をメタフィクション・小説とは何かを問う小説として結実させたのが今作ではないか。

現実と想像の隙間

ここでは明かさないけれども、終盤の展開でなぜ今作が不死性をめぐって書かれていたのかがすとんと納得できるような箇所が出てくる。それも事実(本作においてそれは決定不能かも知れない)かどうかは判然としないけれども、言ってみれば死者をテクストにおいて蘇らせようとする不可能な行為をめぐる小説だったのだろう。しかしそれは決定的に不可能だというところから始められている悲しさがある。

さらにまた言葉が現実と一対一対応ではないからこそ、恣意性によって作られているからこそ、別様の形で幻想のなかで死者を蘇らせることもできるということかも知れない。死者をテクスト上に描き出すことで生き返らせようとするけれども、それは記憶の連続性を欠いた別人でしかなく、語り手の歪曲を得た上で作られたものにすぎず、テクストの範囲でしか存在できないものでしかない、そういう絶望がある。ピーターは自伝やフィクションを書きそれを恋人に読んで理解してもらおうとしたり、自己をめぐるメタフィクションにはエゴイズムの匂いがするけれど、同時にそれを責め苛むものとしての側面も感じられる。

ノミネートされた結果として、デロアンヌはのちに『拒否』という題名の熱のこもった本を書き上げた。そのなかで、デロアンヌは、不死を受け入れることは死を否定することであり、生と死は不可分に結びついているため、生の否定でもある、と主張した。自分の小説はすべて、避けがたい死を自覚していることで書かれており、いずれもその自覚抜きでは書けなかっただろうし、 書くつもりもなかったであろう、と作家は記している。彼は文学を通じて、おのれの生を表現しているが、これは本質において、ほかの人たちが自分たちの生を表現するやり方と変わりはしない。永遠の生を切望することは、生を犠牲にして生きることを獲得することになるであろう。98P

書くことによって対象を永続化することは、コラゴでの不死処置のような不連続的な偽物にしかならない。それは自分だろうと他人だろうとそうだ。しかし、人はいつでも自分なりの想像、物語、フィクションを紡いでしまう。その分裂が無数の島として生み出される、そういう印象も感じた。

本作で最初にぐっと来たのは父の兄ウィリアムおじさんのエピソードだ。悪ふざけの天才で幼い父にとって英雄だった彼は、語り手のところに現われた時も嵐のように興奮する体験をもたらし消えていった。その後両親はおじは海外にいるといい、幼い語り手はその英雄譚への想像を逞しくしていたけれど、事実は違った。ウィリアムおじさんは語り手と会った数日後に武装強盗を働いて収監され、獄死していた。幼い彼の想像のなかで海外で英雄的な冒険をするおじと、刑務所にいるおじ、想像に基づく真実と事実に基づく真実、この二つについて語り手が考える場面は本書の鍵とも言える。


原題に使われているaffirmationは、断言、肯定、確約といった意味があるようだ。信頼できない語り手による断言、不死の確約、自己の肯定と当てはめていくとどれも本書では皮肉な響きを持つ。人生の肯定を翻訳ツールで訳すとAffirmation of lifeと出てくる、そういう語のようだ。

書かれた自伝によって不死の人間を作るという設定は、VRの仮想世界に人格をアップロードするみたいなSFと似ているんだけど、話は逆で、前に書いたようにプリーストはこの前にVRもののSFを書いてからそのテーマを小説の仕掛けとして落とし込んだ今作を書いているのは面白い。

息詰まった人生、上手くいかない恋愛、架空の島々の観光を描きつつ(島の一つで有機物が石化する滝という奇妙で象徴的な挿話がある)、本書は仕掛けのある小説なのでそういうものが好きな人には特におすすめ。


「夢幻諸島」ものに属する『隣接界』は、不死のテーマが扱われていて今作の直接の延長と言える。「夢幻諸島」ものでは時間の進みの奇妙さや空間の歪みなどが諸島の特有の現象として出てくるけれども、本作ではまだそこまで設定が加えられていない、原初の姿がかいま見えるのも面白い。

今作は不死を通して小説というものへの問いがあるわけだけれど、小説というシステムをさらに掘り下げたところに『魔法』がある。そのことについては文庫化された時に書いた以前の記事がある。もう20年前の記事だけど、だいぶ頑張って書いてるなって思える。
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ついでに「われ、腸卜師」を読んだ。SFマガジン2004年8月号のプリースト追悼号掲載の中篇。最初はなかなか状況が分からなかったけれど、癌組織だかの肉片を口にすることで時間を止めたり巻き戻したりできる腸卜師が未来から来た別の腸卜師と遭遇するなかなかの怪作。

ゲーム会社からのクトゥルーに関連づけて欲しいという依頼元からのオーダーで、地下から襲い来る何者かがいるというものになっているようで、組織片を食べることでそれを留めているというのもだいぶ変なんだけど、戦間期の英国に第二次大戦時のドイツの軍用機が墜落してくるという話も入ってくる。軍用機は沼に墜落し掛かっているところで時間が止まっており、主人公の腸卜によって時間が止められ墜落を免れているなか、コックピットには主人公に助けを求める何者かがいて、腸卜で時間を巻き戻すことで彼を救出するという展開になっていく。バラード「時間の庭」を思い出しもする。肉片を調理してなんとか食べられるようにしてくれる館に務める夫人と、腸卜に絡んで体の関係を持っていて、この肉片と肉欲の関係も何か不気味で陰気なところがあり、この関係を未来の腸卜師に自分の役割、存在理由を奪われるといういわば寝取られる趣向でもある。

解説によると夢幻諸島もののいくつかの断章と関連があるらしいけれども詳細は把握していない。悪食趣味と女性関係の展開、それと第二次大戦にかかわる時間ネタと非常にプリースト的なモチーフがぎっちり詰め込まれた作品なのは確かだ。

*1:この影山徹による装画はベックリン「死の島」を思い出させる。タイトルが「死の島」を含んでいるし、踏まえているのではないか