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北の想像力 《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち いま読みたい38人の素顔と作品アイヌ民族否定論に抗する骨踊り現代北海道文学論―来るべき「惑星思考(プラネタリティ)」に向けて
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2021.0.27「図書新聞」2021年3月6日号に仙田学『ときどき女装するシングルパパが娘ふたりを育てながら考える家族、愛、性のことなど』の書評が掲載
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2020.10.31「図書新聞」2020年11月7日号に荻原魚雷『中年の本棚』の書評が掲載
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2020.2.29「図書新聞」2020年3月7日号にオルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の書評が掲載
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怪奇、ゴシック、野宿者、読むこと、フランケンシュタイン、富島健夫など

二月くらいから読んでた本。

ナイトランド・クォータリー vol.18 想像界の生物相

ナイトランド・クォータリーvol.18 想像界の生物相

ナイトランド・クォータリーvol.18 想像界の生物相

  • 発売日: 2019/08/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
岡和田さんが編集長となったと聞いて17号を読んで以来、一応知り合いがやってる雑誌ということでできるだけ追いついておこうと思っていたらこちらが読むよりどんどん新しいのが出てしまう。近場の本屋に置いてあることがまずないのもある。それはともかく、今号は、「怪獣絵師」開田裕治インタビューに始まり、ドイル「大空の恐怖」新訳やゴーレム譚、ヤズィーディーを扱った掌篇二つ、改変歴史ものの仁木稔の新作のほか、人魚を代償のテーマで再話したスラッター作が面白い。アンジェラ・スラッター「リトル・マーメイドたち」、人魚姫のアレンジだけど、魔女との取引というテーマで組み立てられた話が異形の存在へと帰結していくのがなかなかいい。スラッターは英国or世界幻想文学大賞受賞してる。ナイトランド誌のバックナンバーに受賞作がいくつか載っている模様。タラ・イザベラ・バートンの「レオポルトシュタット街のゴーレム」はユダヤ人街のナチスの難を逃れた家族のエピソードを軸にした一作で、これは西欧ウィーンのユダヤ人街が舞台だけど、『東欧怪談集』にも東欧ユダヤ、イディッシュのペレツ作のゴーレムもの短篇が載っている。仁木稔の「ガーヤト・アルハキーム」はイスラム教第六代イマームの息子イスマイールが主人公?の、「神や悪魔、精霊が実在する」イスラム世界を題材にした改変歴史もので、死せるものを復活させる器、不朽体という人工生命も出てくる。長篇の序章のようにも見える。友成純一のバリエッセイも面白いけど、目が悪くなることによる頭痛がだいたい同じ経験があるので、たいへんよく分かるところがあった。その他AIと幽霊の三宅陽一郎インタビューや怪異譚を補足するコラムやブックガイド、台湾映画その他。国書のマイリンクの集成が高騰してるのに気づいた……。

ナイトランドクォータリーvol.19 架空幻想都市

ナイトランド・クォータリーvol.19 架空幻想都市

ナイトランド・クォータリーvol.19 架空幻想都市

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
異色の建築家、梵寿綱インタビューに始まり、創作では作中でも幻の都市を追い求める旅を描いたダンセイニ「カルカッソンヌ」が面白く、フォークナーの同名短篇が対比を刻むのが印象的。ダンセイニのはSFや現代文学にも似た感触がある。フォークナーの「カルカッソンヌ」は、ダンセイニが求道的な探索や死出の旅の寓話のようで古典的な荘厳さを持つのに対して、亡骸の語りというスタイルなどで喜劇化を図っているような感触がある。幻想性の頽落というか。じっさいにダンセイニのパロディなんだろうか。編集長岡和田さんによると、フォークナーが読んでいた痕跡は見つからないものの、両短篇を比較する英語論文を見つけたことが同時収録というアイデアの元になったという。解説にあるようにカルカッソンヌにcarcass=死体という単語が紛れているのが意味を持っている点は両作に通じるモチーフになっている。フランク・オーウェン「青碧の都」、これもまた死への道行きのようで幻想の都市が天国のごとき場所となっている。石上茉莉の「I am Lost」は異世界、鉱物、吸血鬼など多彩なモチーフを持ちながら、オーウェン作とも似た趣向で、ダンセイニ含めて異域への旅に死が重なる。マーク・サミュエルズ「暗夜庭苑」、月光熱という病気の治療のために訪れた廃墟のような場所が出てきていて、ヨーロッパとアメリカを未来と過去に象徴させつつそのすべてが滅んでいく頽廃の光景という雰囲気がある。続くウィリアム・ミークル「罅穴と夜想曲」は異星のパンクタウンという都市でディランやビートルズなどをレパートリーにするミュージシャンが記憶を拡張するなめくじみたいな生体的ガジェットを体に繋ぐという音楽SFで、身体拡張SFとしては図子慧作品とも通ずるしウォードの音楽ネタにも連繋する。幻の場所への通路が死を思わせるものがあれば、サミュエルズのほかリン・カーターやカイラ・リー・ウォードなど都市のほうが崩壊するものもあり、架空幻想都市というテーマが総じて死や崩壊の終焉の気配を共有しているのが面白い。朝松健の一休ものの幻のなかの京や、最後に友成純一のエッセイでジャカルタの鉄道怪談が幻想都市のオチを付ける感じも良い。私も文学フリマでちょくちょく買ってた垂野創一郎インタビューのほか、カルヴィーノやササルマンに触れたブックガイドに本誌テーマと同名のログアウト冒険文庫が顔を見せる。ダンセイニって河出文庫の作品集の一冊目出た時読んで、あんまりピンとこなくて続巻買わなかったんだよなー。ピンとこなくても買っておくべき本だった気はする。

架空幻想都市で検索してエーコが『異世界の書 幻想領国地誌集成』っていうでかい本を出してるのを知った。虚構のなかの場所ではなく現実に存在すると信じられていた地球空洞説とかアトランティスとかを扱ったものらしい。『世界文学にみる架空地名大事典』ってのもあって、友人が持っていた。

高原英理『ゴシックハート』

ゴシックハート

ゴシックハート

「ゴシックな意識」を思想や理論や主義ではなく、黒や夜や荒廃、異端、異形など社会の序列から外れたものへの愛好を通した「クズな世界での抵抗のひとつ」と捉え、文学、絵画、写真、漫画、アニメなどさまざまな表現についての語りを通してその夜の世界へと案内する一冊。主義や理論ではない以上、評論といっても理論的な硬質さというより著者のスタイルから滲み出る「好悪の体系」を示すような論述は、やはり「語り」と呼ぶのが相応しいように思う。そしてゴシックにはスタイル、いわば「文体」が必要だというのが本書の主張でもある。

「人外(にんがい)」の章では、江戸川乱歩中井英夫から始まり、人間未満の存在『フランケンシュタイン』や高貴なポリドリの「吸血鬼」など「人間の外の世界に目を向けてしまう異端者」、人間以下・以上などのさまざまな「人外」の心を論じながら、そのゴシック性を取り出していく。「様式美」の章では、ゴシックの様式性について川端と三島について比較したところが面白い。三島は川端を名文家だけれども文体がないと語った。著者は、川端の描く美は外から現われるものを受け入れるもので「言語表現によって「世界」の意味を変えてやろうとは考えない」と言う。

三島由紀夫の告げた「文体」とは、要するに現世界に抵抗し、不可能であっても現世界の変容を意図せずにいられない者の言葉である。59P

世界に対峙し抵抗するための言語の武装が文体、スタイルにあるというわけだ。川端は耽美的であっても耽美主義ではない、と著者が言うのはこのこと。ゴシックなファッションもそうした抵抗としての装いといえる。「人外の心に敏感であり続ける者の表現が、その書き手の執着する様式に従って書かれる時、新たな耽美が生まれる」「ゴシックの精神としては、現世界への批判意識と自己の語法への厳格さが見られないものを称えることはできない」(60、61P)。怪奇趣味には雰囲気を醸成する技巧、スタイルが求められるのも同様だろう。そして著者はこう言う。

ゴシックのスタイルは本質的に過去の遺産の変奏と言ってよい。ただしその過去は実のところ一度もあったことのない架空の過去だ。ゴシックは十八世紀ヨーロッパの合理主義に反発して敢えて非合理的な中世に憧れる意識の書き残した物語を起源としており、そこに語られる中世の世界とは、古い建築の印象から形成された、歴史的事実によらない幻想だからである。9P

仮構されたフィクションに拠るスタイルという虚構性。

余談として、「なお「ゴスロリ」はマリスミゼルのManaが「エレガント・ゴシック・ロリータ」として提唱したコンセプトに端を発する」(17P)には驚いた。Wikipediaだけ見ても確かに界隈で大きな存在のようで、起源とまでは言えないようだけれど、自然発生的なものをコンセプトとしてまとめ、大きく広げる役割を果たしたらしい。

ゴシック、というと漠然としたイメージはあるけれど、という人にとって実例を元にしながらあるイメージを与えてくれるもので、扱っている題材については単行本の裏表紙が見やすい。最近立東舎から文庫化されたけど、単行本のミルキィ・イソベの装幀がやはり良い。文庫版は現物見たことないけど既に品切れの模様。

高原英理歌人紫宮透の短くはるかな生涯』

歌人紫宮透の短くはるかな生涯 (立東舎)

歌人紫宮透の短くはるかな生涯 (立東舎)

  • 作者:高原 英理
  • 発売日: 2018/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
1962年に生まれ1990年に死んだ架空のゴシック歌人の三十一首の解説書という形式で、ゴシック短歌の実作と評釈や80年代の文化を大量の脚注とともに描き出し、その好景気の空気を現在へのオルタナティブとして書くようなアイロニカルな感触もある長篇。

本篇最初のページを見るとわかるけれどもテキストのように注釈欄がある版面になっていて、短歌の解説や関連語句の脚注が盛り込まれている。正確に言うと架空の歌人の架空の解説書を読んだ人間による叙述という三層構造のメタフィクション伝記小説になっている。

ゴシックな表現とそれが持つ意味合いなどは前項の『ゴシックハート』とも重なり合っていてその実作版という印象もあり、相互に読むとより面白い。和歌山生まれの紫宮透は、三重県出身で彼の三歳年上になる著者の分身にも見えるけれど、自伝的あるいは文化的空気の描出のためのギミックでもあるか。

「二○○○年以後ぼくたちはひどく貧しくなってしまって、そのせいか、給料が安くて人使いの酷い職場とか、いじめの経験とか、児童虐待とか育児放棄とか、人間関係の辛さとか、自分の無価値とか、そういうネガティブな話をどこかで織り交ぜないとリアリティに欠けるという思い込みの中で生きてますね。でもそれは普遍的なことなのかどうか、バブルの時代や好景気の頃の身勝手で面白おかしい、いい気な遊び心には、本当に真実がないのか、いや、真実なんてなくてもいいけどその面白い嘘には全く文学上の価値がないのか、紫宮透の、今では流行遅れと言われるような人工的な、自然体でない歌を読むと、思うことがあります」8P

2018年刊の本作の作意としてはこのセリフに示されているように、貧しくなった日本を踏まえ、軽佻浮薄の象徴としての80年代をゴシック歌人という遊戯的、人工的な芸術がありえた場所として捉え返す試みだろうと思われる。浮ついた生き方が可能だった時代。阿部和重アメリカの夜』ではバイト中に本を読んでても良かったような頃を「小春日和の時代」と呼び、その終わりに言及するのが94年だった。

単に80年代を良かった頃として回顧するというよりゴシック短歌というこの世のものではないものを歌う歌人というアングルからやや皮肉に見る形を採る。短歌の解説だけではなく、伝説的に語られることの多い夭逝歌人についての事績を正確にたどることが必要だという理由で、歌の評釈として多くの論者の文章のほか、直接の知り合いの書いた紫宮についての文章などが多く引かれ、もちろんそれら架空の文章は歌の解釈とともに時代の空気を伝える。

そうしたエッセイ的な文章では80年代らしい、今から見れば痛い、としかいえないような文体のものも多くあり、いわば文体模写式に多彩なスタイルを本作に取り込んでいる。そこでは紫宮自身の文章にも固有名詞を散りばめた文化的な豊かな生活の誇示があり、確かに今から見れば「気恥ずかしい」。しかし80年代、経済が潤い、都市文化の絶頂とモダニズムの目覚めを迎え、裕福な層では労働より遊びが尊ばれ、「これほど日本人が「調子に乗っていた」時代は他にない」。良くなったことはもちろん数多いけれども、日本はこの頃より経済的に政治的にも端的に貧しくなった。

ゴシック歌人の生涯として面白く読めるのは確かだけれど、それ以上に80年代の青春というものをどう捉えるかというところで読み方が変わってくるように思う。ゴシックというオルタナティブな表現を通して現在のオルタナティブなありようもあったのではないかと問うているような印象だ。

紫宮透の趣味嗜好について最初は伯父から塚本邦雄を知ったことが大きかったけれど、それ以後は付き合っていた恋人たちに示唆された文学的先達がいなければ成り立たないというのが特徴で、いわば「男の趣味に影響された女」の逆を描いてるのが面白い。実際三島澁澤ジュネ足穂は女性読者が多い印象がある。

80年代の終わりに死んだ歌人をたどり、都市文化とともにその時代に生きた地方出身の人間の文化的背景を描き出しながら、親切に歌の解説を行なってくれる短歌入門にもなっている小説。

木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

野良ビトたちの燃え上がる肖像

野良ビトたちの燃え上がる肖像

多摩川と思しき「弧間川河川敷」を舞台に、大企業優遇税制と社会保障の縮小、「東京世界スポーツ祭典」に伴う再開発などによって野宿者が激増していき、住民との諍いや国による弾圧によって野宿者が追いつめられていく近未来長篇。

河川敷に小屋を建てて猫と暮らしている柳さんという男性を中心にして、アルミ缶集めで日銭を稼ぐホームレス生活の様子とともに、さまざまな事情でここにやってきた野宿者たち、寝たきりの父を介護する息子、DVから逃げてきた女性たち、寄付のしすぎで破産したライターといった人々が描き込まれる。現地取材に基づく野宿生活の描写は生々しく、しかしソーラーパネルでバッテリーに充電してテレビを見たりという、そこにも確かに生活があるということを浮かび上がらせる。河川敷はDVから逃げてきた女性たちやロヒンギャの青年といった難民的存在が集まってくる場所でもあり、そして時に猫が殺される場所でもある。

河川敷という川の増水で流されてしまう高さにおいてもまさに最底辺の場所とそこを見下ろすように建っているタワーマンションは富の偏在の象徴のようにそこにあり、「日本初のゲーテッドタウン」は物理的な壁によって貧富の境界線を区切る。そしてこの延長に死んでもいい存在を区切る境界線が生まれる。近隣住民は「野良ビト(ホームレス)に缶を与えないでください」という看板を出し、野良猫と野宿者を害獣のカテゴリに放り込み、ゲーテッドタウンに住む少年はボウガンで猫はおろか野宿者も狙い、「野良ビト」という野良猫と同じ、生きる資格のない存在だと強弁する。

木村作品に頻出する猫は、まさにこのような迫害しても良いものとして猫と人間の同一視を引き受け抵抗する足場となる。ここでは一部住民や少年によって、人間と猫の境界線が引き直されている。そして本作はまさにこの境界線をめぐる戦いを描こうとする。本作の近未来設定は読んでいてしばらく経たないとわからない。大企業優遇の税制と社会保障の縮小、そしてスポーツの祭典という道具立てはいま現在も懸案となっており、現在からまっすぐ続く近未来に本作の世界があり、現実とフィクションの境界線はどこにあるのかと問う。また作者として現われるライター木下は、現実の作者の分身のようでもありながら、家があるわれわれの側から野宿者側へと境界線を越えていく可能性の分岐でもある。メタフィクション的な部分はそうした境界線を越えうる存在として木下があることの証しでもあるだろう。

終盤柳さんが猫と「同じ獣としての吠え声を発」するのは、人間が猫の側に投げ出される境界線の引き直しを引き受けることでの抵抗だ。貧富の差、人間と猫、住民と野宿者、作者と登場人物。境界線をめぐる闘争はだから、川というまさに境界線そのものを舞台にして描かれることになる。どうでも良いことかも知れないけど、野良猫にも野良ビトにも、「野」と「良い」という文字が使われている。

ただ、面白いけれどもやはり直截すぎるなと思う点もいくつかあって、未来設定とか、『〈野宿者襲撃〉論』を反映したゲーテッドタウンの少年とか、気の狂った人間が高笑いする場面とか、作り付けが甘いと感じるところも結構ある。しかし、一見安直にも見える政策などは、つねにこの現在の延長にあり得る未来のデフォルメとなっており、どこかの時点でその延長線を断ち切らねばならないという危惧と、そして本当に区切ることができるのか、という問いになっている。そんなわかりやすいアレな政策ないだろう、と思うとしかし現実がその先を行くのが今だ。

作者がモデルとなった人とのことを書いたエッセイ。
ヘテロトピア通信 第16回 | SUNNY BOY BOOKS

木村友祐『幼な子の聖戦』

幼な子の聖戦

幼な子の聖戦

東北の小村で行なわれる村長選挙で保守党県議の脅迫で応援していた幼馴染みを裏切って妨害工作を行なうようになる男を描いた芥川賞候補の表題作と、ビルのガラス拭き会社に勤める新人の視点から職人の仕事のありようとその尊厳を無視して憚らない現実を描き出す二つの中篇。
『パラドックス・メン』「幼な子の聖戦」「犬のかたちをしているもの」「会いに行って――静流藤娘紀行」「かか」「改良」「正四面体の華」『黄泉幻記』『夢の始末書』 - Close To The Wall
「幼な子の聖戦」は雑誌で読んだ時の感想は既に書いたけど、選挙electionと勃起erectionが日本語だと同音になる、という「勃起力」をめぐる記述や、主人公が人妻クラブというところで女性と関係したことが脅迫のネタになるなど、男性性をめぐる話でもある。家長を掴めば投票は家族ごと取れるという選挙戦略も家父長制による「伝統的」なそれだし、そもそも元村長の辞職がそうした性的スキャンダルによるものだった。そこで女性層を引きつけた仁吾と、老人たちを「資源」とする保守派との抗争の構図。それが単純だともいえるけれど現実が違うとはとても。

そうした新旧対立のなかに主人公が自身の虚無とともに考えているのが宗教性についてのモチーフで、過去新興宗教に勧誘された時の経験やこの地にマリアがやってきたという胡散臭いアベマリア伝説が絡んでそして自分の行動を「聖戦」とみなしながら信仰されるべき伝説を創造しようとしている。「幼な子」の無垢さとこちらを見る子供と猫の無垢な視線との重ね合わせもありながら、自分のなかでまだここら辺の題材の関係がわかってないところがある。大きな政治そのものを扱うにあたってここまで宗教性が出てくることの意味はいろいろあるはずだけども。新郷村がモデルというのもあるけど。

「天空の絵描きたち」、古市憲寿芥川賞候補作の元ネタとして話題になったけどそっちは読んでない。デザイン会社からゴンドラやロープで高層ビルの窓ガラスを拭く清掃会社社員へと転じた女性がその仕事に慣れていくのとともにベテランの仕事の鮮やかさに魅せられる。タイトルの比喩は窓を拭く動作がペンキ塗りに似ている、という意味かと思ったらかなり違っていて、ビルのなかから外を見る時に額縁になる窓を掃除することで、外の景色という絵を窓に映し出す、という意味合いで使われている。内と外との境界線をクリアにするわけで、主人公もまた窓の内から外へと転じた。ロープに命を託して行なわれる現場仕事の様子を丁寧に描きながら、会社の方針で仕事が値下げされ、窓拭きの仕事へのやりがいすら奪われ、挙句には備品に金を掛けない状況が死亡事故を招くという、さまざまな意味での貧しさとそれに抵抗する労働者たちの様子が描かれている。

「けど、たかがガラスでも、自己満足も許されない仕事なんか、やる意味がないっておれは思うんだ。人生のほとんどの時間は、仕事なわけでしょ?」(中略)「結局そうやって、おれらはどんどん、働く喜びさえ取り上げられているんだ」170-171P

構図はシンプルだけど地味で危険な仕事を爽やかに描く。装幀なかなかいいな、誰だろうと思ったら仁木順平だった。松籟社の東欧の想像力シリーズのいまの担当をしている。

友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』

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『百年の孤独』を代わりに読む|代わりに読む人
「代わりに読む」というコンセプトを手がかりにガルシア=マルケスの名作を一章ずつ、著者自身の知る作品に引きつけながらできるだけ脱線しながら読んでいくなかで、代わりに読む過程が著者自身の『百年の孤独』を「代わりに書く」ことに至る奇妙な読書録。自費出版というか、通販以外では限られた書店でのみ入手できる。三年前に出た年にはすでに買っていたんだけれど今更読んだ。

著者は一見意味不明で冗談のような「代わりに読む」という言葉を差し出しながら、ひとまず「あなたの代わり」に私が読む、として読書を開始する。本文自体は原作一章ずつの物語内容を説明しながら、誰々は私が知ってる他の作品の誰々に似ている、と別の作品などに強引に引きつけたりしながら脱線混じりに進んでいく。一見関係のないことを書くのは『百年の孤独』もまたさまざまな無関係に思われた挿話が積み重なっていくからだといい、田中美佐子の出るドラマに言及したりドリフのコントに似ていると言ったり「バックトゥザフューチャー」や伊丹十三の「タンポポ」を引き合いに出したり、脱線は尽きない。

脱線や冗談が世界を広げていることだとか実在しない湘南新宿ラインだとかの脱線、転線論も面白いけれども、見事だと唸ったのは17章、『百年の孤独』で部屋の片付けが出てくると話がこんまりこと近藤麻理恵の片付け本の内容と次第にごっちゃになり、その入れ替わりを回収するように最後に『百年の孤独』の双子の墓穴の取り違えという場面で終わるところだ。これは上手い。そして終盤、メルキアデスの羊皮紙解読が話題になっていくわけだけれど、ひたすら羊皮紙を読んでいくアウレリャノはもちろん本書の著者とも重なっていくし、『百年の孤独』は読んだことがあるので、これらが絡んでいく「ラスト」の大枠は見えてくるんだけど、それでも最終盤は圧倒された。

最後をどうするかという悩みを知人に相談したら「ラストどうしようかって、それ変じゃないですか?」と言われたと書かれているとおり、読んでるだけのエッセイがメタフィクションの構造を持つ原作と響き合って、読むことをめぐって書かれた『百年の孤独』のパロディという「フィクション」にも似た本書を生み出してしまう。『百年の孤独』という強靱な土台があるからこそ、そしてその羊皮紙をめぐる構造があるからこそ、このような芸当の土台になり得るわけで、合わせ鏡のなかに消えていくマコンドという「鏡の(すなわち蜃気楼の)町」の反射が本書を生み出すのが、読むということでもあるような感覚。

そしてこれは読書エッセイのかたちをとった後藤明生の『壁の中』ではないか、とも。『壁の中』はドストエフスキー地下室の手記』のパロディから発して無限に脱線を続けていくことで書かれた作品だったけれども、つまり本書はガルシア=マルケス後藤明生で読む、という試みではないか。『百年の孤独』は周知の通り「孤独」がテーマになっていて、まさにそういうラストなんだけれども、著者はそこに一族の歴史を「代わりに読む人」を見出している。自分以外のもう一人、つまり「読む」ということ、「代わりに読む」ということは孤独な一人を二人にする行為として捉え直される。代行とは必ず二人以上を必要とする。後藤明生の読むことと書くことの関係が引用されているけれども、読むことが書くことに繋がる関係は、一つのものが無限に複数化していくメカニズムでもある。そもそも、本書表題の「孤独」を「代わりに読む」という時点で言葉での対比が仕組まれている、かも。

なんにせよ、『百年の孤独』を「代わりに読む」ことが著者によるもう一つの『百年の孤独』を「代わりに書く」ことになっていく過程にはおお、と思わせるものがあって、カラーページの挿入もここぞという感じでアウレリャノとの重ね合わせも決まっていた。

恵贈いただいた新著については先に記事にしてある。
秋から年末にかけて読んだ本 - Close To The Wall

永田希『積読こそが完全な読書術である』

積読こそが完全な読書術である

積読こそが完全な読書術である

  • 作者:永田 希
  • 発売日: 2020/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
本を完全に読むということは不可能でしかなく、読まれることとともに積んでおくための存在でもある本にとって完全なのは積まれた状態の方だと視点を裏返す挑発的な読書エッセイ。表題の逆説の趣旨は情報の洪水のなかで意志的に本を積めと言うことにある。図書館にある本はすべてが通読されるのではなく、必要に応じて取り出せることが重要なように、一通り読むというのはそうした本の状態のごく一部でしかなく、読み終えたにしろこれから読むにしろ少しだけ読んだにしろ、本とはもとより積まれるためのものだと述べる。

本を読むことには、前書きや参考文献等をチェックする点検読書、テーマで横断するシントピカル読書、精読する分析読書などさまざまなものがあり、読んでない本についてもそうしてその本の文脈や評価を頭に入れ、自分なりに本のネットワークを構築することを著者は「ビオトープ積読環境」と呼ぶ。著者が幾度か言及する、汚れた本の山のなかで尿を紙パックに溜め込んで家族に暴力を振るいアル中になっていた人物をセルフネグレクトと呼んでおり、ビオトープの構築は「自己の輪郭」を適切に管理する、という生き方の問題に繋がっていく。本という形で自己を適切にメンテナンスすることが。

本書の問題意識は、消化しきれない情報が流れていく現代において、そうした自己の足場をいかに作るかということにあり、積読という外部化された自分の興味関心のありようを常にチェックしていくということが目指されている、と思われる。本棚のメンテナンスを重要視するところは以前書評を書いた『中年の本棚』などで荻原魚雷も説くところで、点検読書などでのチェックや関連づけはしばしば言われてることでそこまで目新しいことではないけど、古今の読書論を参照しながら表題の逆説を説いていくところはなかなか面白い。

また、リスクや保険、金融について中世史を参照したり、使われることを志向しつつ貯め込まれることでも意味を持つ貨幣の書物との共通性を指摘したり、ブラックボックスとして目の前にあるコンピュータを関連づける発想については、私は未読だけど、ちょうど完結した集英社新書サイトでの連載が扱っている。そのうち集英社新書から刊行予定とのこと。
カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 – 集英社新書プラス

人間に完全な読書はできずとも、「どんなに不完全でもあっても、何かを書き、それを積むことで、いつか誰かに読まれるかもしれないということ、誰かがいつかそれを読めるかもしれないということは、書物を生み出し、それを継承し続ける限り、何かを読める人の希望であり続けるからです」(230P)という本書の一節と、友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』での、「小説を人の代わりに読むことはできないというのは希望である」(201P)、というのはほとんど同じことを言っているな、と思った。積むのに向いたブックデザインが秀逸で、またカバー裏では積み本が崩れているのが面白い。

山本貴光『文学問題(F+f)+』

文学問題(F+f)+

文学問題(F+f)+

文学の定義を認識Fとそこから生まれる情緒fの「F+f」という式で提示した漱石の『文学論』をとりあげ、現代語訳をベースに何が書かれているのかというレベルから要約註釈解説を施し、作品の読解や現代のさまざまな文学理論と接続してそのバージョンアップを図る一冊。

退屈で難解と評される『文学論』を、その前の言葉という側面から捉えた『英文学形式論』からたどって、漱石の文学論を形式と内容両面から把握する。漱石はFがあってfのない文章を例えば科学についての文章だとし、情緒に働きかけるものを文学として捉える。

漱石は、文学とは認識のみならずそれに伴う情緒(F+f)を表現したものであり、書かれていることが事実か虚構かを問わず、読者を幻惑してなんらかの情緒をもたらすものだと考えた。433P。

漱石の理論で現代文学を読んでみる、という章はちょっと物足りない感じもするけれども、科学の文章を文学の文章と対置していた本論の延長上で、数学的記述を小説に盛り込む円城塔の小説を扱うところはこれがやりたかったのでは、と思わせる。

意識の流れ等の元になったジェイムズの心理学に影響を受けた漱石は、何に焦点が当たるかという競争が行なわれる人の意識は不断の修羅場だとも述べており、これは集合的Fとして人間社会に対しても拡大して用いている。文学と読者のみならず社会との相互関係も視野に入れている。文学を読む批評理論としての文学理論ではなく、文学とはなにかという原理論の探求として人間の感情を重要な要素とした漱石の文学論をベースにすることで、批評理論のみならず心理学や脳科学と文学の結節点となる現代の学問への広がりをもフォローアップしていくことになる。圧巻なのは『文学論』のダイジェスト版のような要約と解説を行ないつつ、現代の多様な関連学問への膨大なリファレンスや、発表以来110年にわたる『文学論』評価を適宜抜粋しながらまとめた40ページ近い資料篇など、『文学論』を現代に読み、使うための参照データの充実具合だ。

脚注に提示された欧文を含む参照文献の物量やジャンルの広さは文学論を起点にした一大ブックガイドの趣を呈しており、根こそぎという感じがある。漱石の理論自体にはわかったようなわからないような索漠とした感じが残るけれど、広がりがありすぎるのかも知れない。

三原芳秋、渡邊英理、鵜戸聡編『クリティカル・ワード 文学理論』

2020年刊行とかなり新しい文学理論概説書で、前半を編者らによる基礎講義編、後半を院生らによるトピックス編という二部構成で、特に後半はポストヒューマニズムや環境と文学など類書にあまりない章構成でかなり新鮮な目次になっている。

第一部は「テクスト」「読む」「言葉」「欲望」「世界」というテーマを立てた基礎講義で、文学理論を横断的に参照しつつそれぞれ具体的な作品を扱って読解の実例を示したりしながら、末尾にそれぞれ用語解説とブックガイドを付す形式を採り、いかにも入門講義の体裁となっている。デリダ、バルト、蓮實重彦を題材にした郷原佳以「テクスト」、芭蕉の俳句の読みから始まり、対位法的読解、妄想的読解、徴候的読解などを論じる三原芳秋「読む」、ドゥルーズガタリのマイナー文学やサイードを援用して崎山多美や李良枝を扱う渡邊英理「言葉」、『フランケンシュタイン』を論じつつフェミニズムジェンダークィアの議論をたどる新田啓子「欲望」、インドネシア文学を題材に国民国家近代文学の関係や出版流通の問題を論じる鵜戸聡「世界」と、さまざまな切り口から議論が行なわれる。

トピックス編は基礎的な用語・概念から未邦訳文献をザクザク紹介しながら最新の話題までを二段組で情報量を詰め込む。ネグリチュードからポストコロニアリズム、世界文学論までを含む橋本智弘の六章、ポストヒューマンや動物研究、人類学の存在論的展開から思弁的唯物論までを扱う井沼香保里の七章。エコクリティシズムやネイチャーライティング、震災文学までを含む磯部理美の八章、精神分析の森田和磨の九章、ジェンダーセクシュアリティの諸岡友真の十章と、講義編と重複する点も多いのは、女性とポストコロニアリズムなど議論が各章で相互に関連しており截然と区分けできないからだ。

そうした構成ゆえでもあろうか、ジュネットが索引になく用語解説で触れられる程度で物語論言語学受容理論などはフォローされておらず、文学理論のカタログとしては弱い部分もある。おそらくは既存の概説書を踏まえつつ今の文学理論のありようを提示するのが本書の趣旨だろう。「欲望」の章で近年のクィア議論を紹介するなかで、エーデルマンが「社会の維持を目指さない(反社会的転回)という純然たる否定性こそ、クィア理論が目指すべき方向(クィアな否定性)である」と言っているというのはなかなか面白い。メイヤスーの思弁的唯物論は解説を読んでもよくわからなかった。

最後に、松籟社で世界文学アンソロジーを編んでいる鵜戸聡によるマイナーな地域のものを重点的に紹介した「世界文学(裏)道案内」や文学理論概説書のブックガイドがついている。これもなかなか面白い。

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

20世紀の文学理論概説としては手元に96年刊の『ワードマップ 現代文学理論』があり、学生時代に読んだ覚えがあるけれど、そこでは記号論構造主義物語論、テクスト論が扱われており、文学理論が構造主義の展開と密接な関係を持っている歴史は、本書で最初にざっと出てくる程度だ。ワードマップとクリティカルワードの目次を帯裏で見比べるとかなり違うのがわかる。90年代の文学理論概説書はポストコロニアル批評って最後の方に付け足されてることが多いしワードマップにはサイードが索引にないんだけど、クリティカルワードの方では頻出人名の一つ。ここ数十年でポストコロニアルジェンダーの重要度がかなり大きくなったのがわかる。
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六章担当の橋本智弘さんは『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』で一緒になったことがある。氏はこちらでラシュディについて書いている。

小野俊太郎フランケンシュタインの精神史』

大きく二部に分かれており、『フランケンシュタイン』を同時代状況などと絡めた多様なアプローチで論じていく第一部と、日本における『フランケンシュタイン』の影響を漫画、小説などに見出し論じていく第二部で構成されている。

第二部は未読の作品も多くやや議論が頭に入ってこないところもあったけれど、第一部は、たとえば当時のイギリスが複数の国のつぎはぎの領土として国民国家を形成していたことを怪物のつぎはぎと重ねるような、こじつけに見えるけどなかなか面白いところがたくさんあって、いろんな知識を背景にした切り口の多さは読み込みのとっかかりにもなるし雑学としても面白くて『フランケンシュタイン』を多様な側面で読んでみる実例集になっている。科学の知識がイスラムから再輸入された話は有名だけど、その書の『キタブ・アルキミア』という題名がアルケミーやケミストリーの語源だったり、アルコールなどのアルという接頭辞がアラビア語の定冠詞に由来しているというのも面白い。出身地ジュネーヴに関してルソーと関連させてみたり、怪物がフランス語を学んだことや怪物は果たして男性なのかと改めて問うてみたり、作品を改めて見直す契機になる。

第二部は戦後日本におけるフランケンシュタインのテーマを、人造人間やロボットと関連させて手塚治虫石ノ森章太郎銀河鉄道999キカイダーセイバーマリオネットなどの作品や、小松左京光瀬龍田中光二荒巻義雄山田正紀などの戦後SFの作品に見出していく。そして『屍者の帝国』が既存作の継ぎ接ぎとして書かれていることに至る。本書を著者は

戦後すぐの民主主義国家の住人への改造や変身を重視した第一段階から、対抗文化のなかで人間回復をめぐる議論をしていた第二段階を過ぎ、複製や複合が当然視されるなかでの「生」をしめす第三段階となった。233-4P

とまとめている。あかほりさとるの『セイバーマリオット』や日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』というライトノベルにも言及するけれど概ね戦後の代表的なSF作品やSF作家をたどる形で、マイナーな作を網羅する方向ではない。個人的には前半が面白かった。

荒川佳洋『「ジュニア」と「官能」の巨匠 富島健夫伝』

「ジュニア」と「官能」の巨匠 富島健夫伝

「ジュニア」と「官能」の巨匠 富島健夫伝

1950年代に芥川賞候補になるなど純文学から出発しながらジュニア小説で一時代を築き、70年代から官能小説を多作するようになった作家富島健夫について、植民地生まれの引揚げ経験からその死までを描く評伝。富島健夫の書誌を編纂したという、おそらくはこの作家に最も詳しい著者による、詳細な年譜も付された労作。

私は一作も読んだことがないけれど、これを読んだのは富島が後藤明生と同じく植民地朝鮮生まれの引揚げ作家だったからだ。そういう興味だったんだけれど、引揚げ作家という点以外でもジュニア小説、官能小説という文学のアウトサイドで活動した作家の評伝として面白く読んだ。引揚げ作家としても自伝的作品などいくつかはそのうち読みたいと思ったし、作品にも多くその影響が認められることもうかがえて興味深い。価値観の転変という昭和一ケタ生まれの問題は後藤も述べていたし、すべてを失って引揚げてきたゆえの国や集団への不信なんかも通じるものがある。

そういう部分以外でも、富島はジュニア小説においてもつねに文学をやるつもりで書いて、それが大ヒットしたわけだけど、その後『おさな妻』での性描写がメディアで議論となり、保守派からの批判に遭い、当時いくつもあったジュニア小説誌が70年代初め頃、次々と休刊していってしまう。多くが教育系出版社だったジュニア小説誌にとって保守的な論調には逆らえなかったとあり、とするとジュニア小説の潮流というのは人気の下降ではなく、保守的なバッシングによって消えた、というのはいかに当時の性描写への批判が強かったか、ということだろう。

少女小説の流れを汲むジュニア小説において、その流れに対して富島は自分は少女小説を書くのではなく、十代を主人公にした文学を書くつもりで書くという方針で少女小説にある多くの制約を人気作家の後押しで一つ一つ破っていった、という。それが潰されたあと、富島は官能への撤退を行なう。70年代から富島は官能小説を多く書くようになるけれど、あるエッセイで「嘘と偽善と権謀術数にこりかたまった現代への不信感が、彼をして官能の世界に侵入させた。女体への自己のあこがれ、また女体から受ける自己の感覚だけは現実性ある真実だと、彼は考えた」(243P)と書く。官能小説の主人公の背景でもあり富島自身のそれでもある。毛沢東を敬愛し文化大革命を支持したアジテーションを作中に込めていた作家でもあった彼の政治不信がエゴイズムと官能への立て籠もりへと至ったわけだ。

著者は70年中頃、富島四〇歳頃までの作品を評価して、それ以後の作品は一部を除いてあまり評価していない。それは当然本書の構成にも現われており、官能小説を書くようになる頃は既に本書終盤だ。本人の資質としては性を書きたがったけれど、青少年を対象にしているというのがそれを抑える良い制約になったという指摘が示唆的だ。

しかし、富島がジュニア小説誌で女性読者から処女性について問われた時に「どんな名器でも処女には及びません」と即物的な応答をしていることに著者が思いっきり引いてるところは笑ってしまった。メンタルの話を聞いたら性交時の快楽の話が返ってきて、「処女」の価値は男が決める、という言いぐさもすごい。しかしその大事にすべきものを食い荒らす官能小説での男性のプレイボーイぶりとあわせるとこれは単なる「処女嗜好論」ではないか、と著者が批判しながらも「男性"性"」の肯定抜きには富島文学が成り立たないものでもあると指摘するところはフェアな態度だろう。

島健夫が文学を志向しつつその傍流で生きるしかなかったのは、書く力はあるのに他人に頭を下げて雑誌に中短篇を発表することを良しとせず、芥川賞レースに参加しなかったことで時評などの「文壇」から疎外されてしまったこと、という著者の指摘がある。文芸誌に書くことをせず、長篇書き下ろしで勝負したわけだけれど、それらはほとんど話題にならず、若者雑誌に書いた青春小説が評判を取ることで十代向けにシフトしていくことになる。文学を志向するなら、やはり中短篇を雑誌に発表して行くべきだったのではないか、と著者は言う。知り合いに多くの作品を見せているし、それができる実力はあったはずだ、と。


私の関心のきっかけでもある後藤明生が一度出てくるところがあって、学生時代に河出書房に来たら富島がゲラを校正しているのを見て羨望を覚えたというものだけれど、出典がないのでこれは著者自身が直接聞いた話だろうか。後藤が富島に言及したことがあるかどうか、あまり記憶にない。なお後藤と富島は生没年が一年違いでほとんど同じ年を生きている。後藤は32年から99年、富島は31年から98年。九州に引揚げ、早稲田に入ったのも同じで、また「文藝」復刊まで開かれた「文芸の会」には後藤も出ていたので、おそらく両者には面識があったはずだと思う。

やや年上の同じ朝鮮引揚げ作家の小林勝が、學燈社の雑誌「若人」でやっていた連載の後枠に富島を推挙したことがあり、それが富島の初めての商業誌からの依頼だったというのが面白い。この交番焼き討ちで捕まった作家が青春小説作家誕生のきっかけにもなってるというのは数奇だ。富島は小林と縁があったわけだけど、後藤明生も小林の作を書評で酷評した因縁があったりする。さらに引揚げて後、富島が九州福岡の豊津中学に通っていたと言うから驚いた。これは鶴田知也葉山嘉樹堺利彦の母校だ。鶴田知也は私の最初の商業原稿で扱った作家でもあり、そう繋がるのか!と非常に面白かった。後藤も富島も植民地生まれだけれど、来る前は九州に本家があるからここら辺はなるほど近い。富島は朝鮮では京城の龍山国民学校に通っていたけれど、ここはその前身を龍山公立尋常小学校といい、中島敦が卒業している。また富島がその後通った龍山中学は中島敦の父が教えていたことがあり、そこには同じく引揚げ作家の日野啓三が二年上にいたという。

舟木一夫「高校三年生」が富島原作の映画の主題歌だったらしいのは初めて知った。ただ、これは歌がヒットしたことで作られた映画だというから、曲が先にあって映画の題材として富島の作品が使われた、という経緯に見える。『明日への握手』という原作小説の名がしばしば間違われるのはそういうことだろう。


というわけで、積んでる本のうちツイッターで相互フォロワーの人がかかわった本、という縛りで読んでみた。相互と言っても特にやりとりがあったわけでもない人もいるけれど、さすがに関心領域に重なるところが多かった。

パヴェウ・ヒュレ『ヴァイゼル・ダヴィデク』

〈東欧の想像力〉第19弾はポーランドで1987年に発表された長篇。23年前の夏、「僕」が、不思議な能力を持つユダヤ人の少年ヴァイゼルとの日々を回想し、彼が一体何者で、何故突然失踪したのかを考え続けながら、決して解答に至ることのない「美化なしに語っている物語」を描く。

ヴァイゼルはドイツ語で賢者、つまりタイトルは「賢者ダヴィデク」とも訳せる。ダヴィッド(ダヴィデクはその愛称)はユダヤ系の名前だという。舞台はポーランド西部国境地帯のグダンスク近郊。語り手を含むポーランド人の少年三人の前に、ある日不思議な少年が現われる。

いなくなった人々

その夏は旱魃におそわれ、遊びに行った海では魚の死骸が腐臭を放つ異常事態が起こっていた。そんなとき戦争ごっこで遊んでいた三人に、サビだらけのシュマイザー自動小銃を渡したのがヴァイゼルだった。どこからか現われる本物の銃火器もさることながら、後には爆薬の実験を行なったり、サッカーで超人的なプレイをみせたり、動物園の黒豹を手懐けたり、空中浮揚を行なったり、次第に彼は特殊能力を持つカリスマ的な存在として少年達を魅了していく。そうした不思議な体験とともに、語りはさらに二つの時間軸があり、ヴァイゼルの失踪後、校長や教師や軍服姿の男たちにヴァイゼルや彼に付き従っていた少女エルカがどこに行ったのかと尋問される夜と、それから23年後、大人になった語り手が当時のことをこの書物として書き記している現在だ。失踪後の学校では、監禁され爆薬の出所を問われたり最後にヴァイゼルたちを目撃したのはいつかということや、本当は二人は爆発で死んだのではないか、と誘導尋問によって一つの「真実」に到達することが目指される。少年達はヴァイゼルとの約束として秘密を守りながら、厄介事を葬り去るためか大人たちにとって都合の良い、ヴァイゼルたちはある日爆発の実験で吹き飛んだ、という経緯をでっちあげることに協力することになる。

そして現在、あの夏から遠い時間が経った今、語り手ヘレル(作者ヒュレの綴りのアナグラムになっているという)は不思議な夏をできるだけ詳しく思い返しながら、しかしヴァイゼルが消えた以上、彼が何者で何をしようとしていてそして何故突然消えたのか、という決して解き得ない謎に直面しながら叙述を続けていくことになる。仲間三人のうちピョートルは、70年のグダンスク造船所から始まった抗議運動の様子を見に出た通りで流れ弾(おそらくは鎮圧に出た軍隊の)に当たって死に、もう一人のシメクは別の街に移り住み、ヴァイゼルに付き従っていた少女エルカも、生物の教師もポーランドからドイツへと移民していった現在がある。エルカに会いに行ってヴァイゼルのことを問い、死んだピョートルの墓で彼と話し合う幻想的な場面でも謎は明らかになることはない。あの夏の出来事は詳しく思い出せても、何も明らかにならない。

パランプセストとしての場所

この徹底した不可解さが描かれるのが本作で、ポーランド西部国境地帯という場所からユダヤ人が消えたと要約しうる謎は、ナチスホロコーストの記憶や土地から異民族が消えた歴史的経験にも射程を伸ばしているようにひとまずは読め、美化も解決もしないという語りの倫理性は、そのことに対する態度として採られている。ヴァイゼルとの行動のなかで、グダンスクを含む近郊の土地の様子が細かく描かれるのはそのためで、いつもは海水浴ができる腐臭を放つ海辺や、いくつもの爆破された橋、語り手の近隣住民の様子、解体される建物や、ヴァイゼルがグダンスク生まれのショーペンハウアーゆかりの場所を説明したり、第二次大戦での攻防が行なわれた郵便局が出てきたり、土地と歴史についてさまざまな叙述が埋め込まれている。「Mスキ」と呼ばれる生物教師が土地の生き物を採集して回っているのが描かれるのも、そうした土地の描写の一環だろう。そして、その生物教師やエルカのように、リスクを負ってでもこの土地から消えた人というのがヴァイゼル失踪の謎の支流ともなっており、語り手以外の主要人物は現在時、全員がここにいない。この土地を離れた人々に、応答はなくとも向き合い続けることが本作の語りを成している。

解説にも言及があるけれど、訳者の別の論文では本作以後ポーランド西部国境地帯は幾度も書き換えられ以前の文字の痕跡を残す羊皮紙を指す「パランプセスト」と呼ばれるようになったとある。当時の事件とその後の尋問調書、そして現在の回想と幾重にも重ね書きされた記憶のみならず、国境地帯ひいてはポーランド自体が幾度も国境・領土を書き換えられた場所でもあり、ユダヤ人を始めさまざまな人々が追われ、あるいはやってきた土地でもある。ヒュレはグダンスク生まれで、同じグダンスク(ダンツィヒ)生まれのギュンター・グラスダンツィヒ三部作を思わせる箇所があるというのも、そうした重ね書きされた記憶にまつわる技法の一端だろう。なお、東部の国境地帯となるウクライナリヴィウは、本叢書で既刊のデボラ・フォーゲルゆかりの場所だ。

しかし、ヴァイゼルの奇跡や行状はやはり謎めいているし、印象的な腐る魚(魚はキリストの象徴だという)の海や、主人公たちの宗教的行事に関わらないヴァイゼル、ピョートルの死に納得できない主人公に対していらだつ司祭の様子など、多分に宗教的な要素がある。作中で「反キリスト」と言われている「黄色い翼の男」という精神病院から抜け出してきた男が聖書を引用しながら演説をする場面など、キリスト教の相対化の描写もしばしばある。作中一度だけ、シメクがシモンと表記されてる箇所があり、ここには「シモン・ペテロ」と訳注があり、三度の否認で知られるシモンを示唆しているらしい。イエスの変容を目撃し、尋問にイエスを三度知らないと答えるというのペテロの逸話は本作とも重なるところがあり、とするとヴァイゼルにはやはりキリストあるいは反キリストの影が重ねられているんだろうか。また、銃火器の調達や爆発の実験など、戦後間もない状況での遊びなのかテロリズムなのか判別のつかない行動も謎めいている。ヴァイゼルがいなくなると海の魚の腐敗が終わるというのはとても象徴的だ。

東欧の想像力叢書だとコンゴリ、ゴマ、ヒュレとここ三作続けて鬱屈した回想を主軸にした作品で、そうした歴史と政治、その責任にまつわる暗い回想の色調が東欧の歴史のなかで語られている。言ってみれば「風の又三郎」的な不思議な少年との出会いを描いたマジカルな小説という側面もあるけれど、そこには歴史と民族の問題が重ねられている。

ギュンター・グラス(『ポーランドの歴史を知るための55章』より) | エリア・スタディーズ 試し読み | webあかし
本書訳者の井上暁子によるグラスのポーランドでの受容についての記事。グラスとも関係のある本作のサイドリーダーにもなるし、『ブリキの太鼓』のオスカルとグラスの銅像があるのが、本作のまさに舞台となったヴジェシチ地区だ。

作中時系列について

解説と帯文に「1967年の夏」と記載があるけれど、これは誤りではないか。本書74Pにはヴァイゼルの生年が1945年で12歳で失踪したと記されており、それが1957年8月だったと明記されている。1946年にアブラハムソ連から送還されたという時系列的にもここは誤記ではなさそう。また23年後と幾度か現在時が示されていて、ヴァイゼルとの夏が67年だったら本作発表の三年先に現在時が設定されていることになるけどそれもちょっと変だ。また、少年の頃の部分でスターリンと思われる人物の肖像画が街から消えたという描写があり、スターリン批判の頃だと思うのでやはり57年では。1957年はパヴェウ・ヒュレ自身の生年でもある。1927年生まれのグラスのちょうど30年後。解説の誤記が帯に採られたパターンではないかと思う。

リンク

グラスについては以下のヒュレが取り上げられている本にも項目が立てられている。

東欧の想像力

東欧の想像力

  • 発売日: 2016/02/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
上で言及した訳者による「想起される地域――現代ポーランド語文学における国境地帯の表象」という論文にも本作についての言及がある。
東欧地域研究の現在

東欧地域研究の現在

  • 発売日: 2012/10/01
  • メディア: 単行本

トカルチュクについて
図書新聞にトカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の書評が掲載 - Close To The Wall
デボラ・フォーゲルについて
デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く モンタージュ』 - Close To The Wall

本書は松籟社木村さまから恵贈頂きました。ありがとうございます。

図書新聞に仙田学『ときどき女装するシングルパパが娘ふたりを育てながら考える家族、愛、性のことなど』の書評が掲載

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図書新聞2021年3月6日号に、仙田学『ときどき女装するシングルパパが娘ふたりを育てながら考える家族、愛、性のことなど』についての書評が掲載されています。早稲田文学新人賞出身の小説家による子育てエッセイですけれど、タイトル通りそれだけには留まらない一冊です。

冒頭に置いた「変身」という一語が浮かんだことで書けた原稿で、それはもちろん女装が大きな話題でもあるからですけど、デビュー作が収録された『盗まれた遺書』がそもそも変身小説集ともいえる一冊で、仙田学という小説家のエッセイとしてはここから読めるな、と一気に作品間の関連性が見えたんですね。なので子育てエッセイとしての側面とともに、小説家仙田学のイントロダクションにもなるように既刊著書と近作の単行本未収録作品を多く触れるようにしました。本文に盛り込めませんでしたけれど、怪作ライトノベル『ツルツルちゃん』も、他人の文章の書き換え、という「盗まれた遺書」と共通するモチーフを持っていたりして、変身すること・成り代わることの繋がりも見えてきます。

盗まれた遺書

盗まれた遺書

  • 作者:仙田 学
  • 発売日: 2014/03/18
  • メディア: 単行本
言及した「鬼門コンパ」はネットで読めます。
鬼門コンパ – SF Prologue Wave

なお、この原稿を書いてる時に実写とアニメを融合させた作品、アイカツプラネットを見ていたことがちょいちょい影響を与えています。VRを通じた変身と自己表現としてのステージ、というアイカツプラネットの設計は書評タイトル「別のものへの「変身」の過程を通じて「存在の核」を示す」(私は原稿にタイトルをつけてなかったのでこれは編集さんが本文から取り出したものです)に引用された部分の発想に繋がっています。なお、仙田学にはそのものずばりの「アイドル」という小説があって、これもまた変身譚だったりします。「文藝」2019年夏季号。最新作は「文學界」2020年11月号の「剥きあう」でこれは本文にも書いたとおり、女装する夫を妻の視点から描いたものです。本書にも言及された「愛と愛と愛」は「文藝」2016年秋季号掲載。

文藝 2019年夏季号

文藝 2019年夏季号

  • 発売日: 2019/04/05
  • メディア: 雑誌
文學界 (2020年11月号)

文學界 (2020年11月号)

  • 発売日: 2020/10/07
  • メディア: 雑誌
文芸 2016年 08 月号 [雑誌]

文芸 2016年 08 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2016/07/07
  • メディア: 雑誌
芥川賞候補になったことがないみたいなんですけど、早稲田文学系の作家っていうのは倉数茂さん含めて、どうも候補になりづらい気配があるような、ないような……。

『薔薇の名前』『祇園「よし屋」の女医者』『推し、燃ゆ』『レイシズムとは何か』

一月に読んでた本。

ウンベルト・エーコ薔薇の名前

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

今年年始に読んだ大作はこれ。途中これ選んだのは失敗だったか、と思った瞬間もあったけど、さすがに面白かった。中世、山上の修道院をバスカヴィルのウィリアムと見習修道士のアドソが訪れ、皇帝と教皇の対立にからむキリストの清貧論争という異端問題を背景に、次々起こる殺人事件に翻弄されながら書物の迷宮のなかで言語、書物、記号、徴の読解を問う、メタミステリ長篇。

記号論学者の最初の小説で世界的なベストセラーになったけど、よくこれがそんなに売れたなと思えるほど宗教的議論が豊富に盛られた重厚な作品で、「バスカヴィル」のウィリアムとアドソというのは明らかにホームズとワトスンのもじりのように、ミステリ的な謎解きの面白さは確かにあるけれどそれはあくまで一部で、その枠組みを使った記号の解読や真理の探求が、書名と逸した本文のように、名と実の関係をめぐって問われてる印象がある。これは最終的に神とその実在の問題にも繋がるわけだけれど、枠の語りも本篇の内容も、書名や断片のみ残る失われた書物を求める学者のロマンもうかがえる。記号から真実を導き出す推理を問い直すアンチミステリ的趣向もある。虚構や別の物を通じて真理を捉えようとする笑い、あるいはフィクションのテーマとも関連があって、笑いは宗教的原理主義を相対化するものとして置かれているようにも見える。解説にあるイタリアの極左テロ、モーロ事件が執筆の背景にあるというのは、小説の内容とも関連して興味深い。

おそらく、人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせることによって、真理が笑うようにさせることであろう。なぜなら、真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理であるから (下巻370P、強調は原文傍点)

ここで、アリストテレースは笑いを誘う傾向を、認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を現実よりも正確にわたしたちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、とわたしたちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思いこんでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、要するに、英雄叙事詩や悲劇や聖者伝などがわたしたちに示してきた方法とは異なり、悪しざまに描きすことによって、明るみに出された真実。

記号と内実とが一対一で対応するべきだという思考を原理主義的なものとして批判するような印象。名前のみ残ったものとの対比で名のないものが最後に浮かび上がってくるのは解説読んでその意味を知って、なるほどなあ!となった。清貧論争での所有か使用権かという対立も名と実のモチーフの変奏かも知れない。読解の努力と読解の失敗が両輪のようにあって、そういえば「初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」と書き出されるプロローグに本書のテーマがすでに書かれていた。「真理は、面と向かって現われてくるまえに、切れ切れにこの世の過誤のうちに現われてきてしまう」「片々たる忠実な表象を、たとえそれらが胡散臭い外見を取ってひたすら悪をめざす意思にまみれているように見えても、丹念に読み抜かねばならない」ともプロローグにはある。

言語、記号、表象、真理そして学問。ウィリアムは繰り返し閉鎖的な学問を批判しており、書物は読まれ、学問は開かれていなければならない、という姿勢がこの山上の閉鎖的で迷宮的な修道院と対決する。読まれ開かれ書物同士のネットワークを繋いでいくものとしての学問。

「書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号のほうもまたそれぞれに事物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。(下巻226P)

訳者は翻訳にかんしてなかなかこだわりがあってエーコからのメモを読まずに訳したことが語られているけれど、それより元々は共訳の予定だったけれど遅延して結局二つの訳ができてしまったという経緯のほうが気になる。この全訳したのに不採用になった林和宏という人はギャラとかもらったんだろうか……。

「100分de名著」のテキストに和田忠彦が書いたものがあって、それも読んだ。話の筋をなぞりつつかみ砕いた解説がなされており、ホルヘという人物のモデルになっているボルヘスとの関係や、モーロ事件の話や、テロともかかわる差別、陰謀論に触れている。特に、ユダヤ人差別について触れた箇所では、作中の、力を持つ者が貧しい者たちの暴力が自分たちに向かわないように、誰が敵なのかを指し示しているという描写を引いており、陰謀と差別の機能について指摘する箇所は重要な部分だろう。

『『バラの名前』覚書』も読んだけど、訳者谷口勇の註釈によると、上で私が「名と実」と呼んでいたのは、「普遍〔概念〕」VS「個体〔=個物〕」という普遍論争のキーワードで、翻訳では後者が全部「個人」と訳されてしまっているという批判がなされている。

「バラの名前」覚書

「バラの名前」覚書

一場の夢は一巻の書物なのだ。そして書物の多くは夢にほかならない (下巻289P)

藤元登四郎祇園「よし屋」の女医者』

ディック論や荒巻義雄論で知られる評論家・精神科医の小説デビュー作で、近世京都祇園を舞台に座敷牢に閉ざされた「狐憑き」の女性の病の原因を探りながら、迷信を排した精神医療の過程を、京都の風物を巧みに散りばめながら描いた歴史医療小説。著者とは共著『北の想像力』などでご一緒したこともあり、評論家としての仕事は知ってはいたけれど、このような小説を書いていたとは知らず、意外に思って読んで見たらこれが堂々としたエンターテインメントになっていて驚いた。同時に、精神医療とはいかなるものかを描くテーマ性も込められている。

一年を通した京都の土地や文化の書き込みも丁寧で、狂女の治療過程や主人公となる茶屋の娘月江の描写においても狂言や舞その他の文物がきっちり重要な役目を果たしているし、登場人物のセリフも京言葉で書かれていて、私には正確さはわからないけれど、とても雰囲気が出ている。藤元さんは九州在住だと思っていたらこのために京都に移住したというから凄い。それだけでなく、本書の軸は迷信と医術が渾然とした時代を舞台に、「狐憑き」とされた女性を医学の対象として把握し、それを治療していく過程を描写していくのが主眼となる。

月江の師源斎は杉田玄白前野良沢の孫弟子にあたると設定されていて、そうした「新しい医学」を学ぼうと江戸に行った経歴がある。患者小雪の治療においても源斎はまず薬物治療から始めるところはなるほど近代医学っぽく、「医学は迷信ではない」「医学はちゃんとした根拠を求める」と述べる。しかし、源斎の薬物治療と同時に「狐憑きというのは、人間同士の関係がもつれてどうしようもなくなった時、いい口実になるのは確かだ」(212P-)、と迷信の理知的な解釈とともに、月江の献身や家族問題の解決も不可欠な、理と情双方からのアプローチが必須になる。患者に対して抑制的な源斎の原理原則的なやり方だけでは解決できないと、茶屋の娘ならではの人情の機微を読みとる月江の資質も活かしながら、精神の不調を治療するとはどういうことなのか、というのを近世を舞台に基礎的なところから描き起こしているような小説になっている。

溺れる者を助けようとして溺れてはならないという戒め、「治して上げる」という思い上がりへの反省など、医療の原則なども折々に描かれ、迷信から医学へ、という過程とともに、学問を学び女性が医者となるのも、近世から近代へという意味が込められているかと思われる。九州から京都へ移住しての京都文化の摂取のみならず、専門外だろう中国日本の古典的文献の引用も散りばめられていて、このデビュー作の前に六本の長篇の習作を経ている、という本気度には圧倒されてしまう。

解説で触れられている雑誌「メタポゾン」第11号の藤元論文を読むと、精神医療の専門家としての本書の輪郭がより明確になるところがあって、月江のようなアプローチは、患者の言動を症状としてのみ捉えようとする精神科医の態度を越えた、本来そうあるべきものとして捉えている印象だ。

季刊メタポゾン第11号 特集大西巨人 (2017年冬号)

季刊メタポゾン第11号 特集大西巨人 (2017年冬号)

宇佐見りん『推し、燃ゆ』

文藝 2020年秋季号

文藝 2020年秋季号

  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 雑誌
直近の芥川賞受賞作。あるアイドルの男性にのめり込んだ女子高生が、ある日その「推し」がファンを殴ったと炎上しているのを目にする。部屋も汚れバイトもミスばかりで普通でいることができず、推しを追い解釈し続けることでようやく人のかたちを保てている主人公の、信仰とその終わりを描く。

宇佐見はデビュー作も読んでいるけれど、これもパワーのある小説で、学生などにたいへん受けているらしいのも読んでみてよくわかる。薄々この主人公は発達障碍とかかなと思っていたら作中でも診断が出たことが言及されており、「普通」でいることのできない少女のただひとつの拠り所が「推し」だった。読んで思い出していたのはつづ井さんの、社会人として働きながら「推し」への愛やその活動を軽妙に描くエッセイ漫画で、そういう普通の人間として生きて行けるクレバーさがない人間の、生そのものがかかったファン活動の切実さは、つづ井さんを読んでも思ったように信仰に似る。

「推しは人になった」という一文は、その信仰が終わった印だった。解釈の形で「推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ」といい、対象の存在を感じることが自らの存在を感じることに通じるわけで、それが終わることは矮小な骨のような綿棒の散乱として描かれる。崩壊のカタルシスとともに、この主人公はこれからどう生きていくのか。そして、このように生きるしかない人もまた多数いるんじゃないかということも思ってしまうし、文章が書けても日常生活や仕事が全然できない人、というのも結構いるような気がする。そういうリアリティがある。

興味深いのは「携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う」というところで、距離があるからこそ関係が壊れることもないし、感じる安らぎもある、と書かれているところだ。アイドル論としての意味のほかにも、この距離感と「解釈」し続けることが重要なところは、読むことそして書くこと、として文学の営為そのものだと思っていたら、作者が主人公にとっては「推す」ことが背骨だけど、自分にとっては小説が背骨だ、と言っていて、まさにそういうことだろう。

当のアイドルグループが男女混成なのも珍しいんだけど、「推し」の誕生日が八月十五日なのと、メンバーに「明仁」がいるのはとても示唆的。「推し」が人になったという記述と、敗戦日や天皇の名前は明らかに現人神の人間宣言を参照してて、どういうことかなと思ったけど、アイドルを「推す」というパッションが政治権力を持つ存在へ向かうことへの警戒、切り分けの意図なんだろうか。日本の偶像崇拝といえばやはり天皇を無視できない。

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

梁英聖『レイシズムとは何か』

レイシズムとは何か (ちくま新書)

レイシズムとは何か (ちくま新書)

  • 作者:英聖, 梁
  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: 新書
レイシズムを人種化して殺す権力と定義し、近代の植民地と資本主義によるレイシズムの成り立ちをたどりつつ、米欧と比した日本社会の特徴を反差別ブレーキの欠落、つまり「差別はいけない」とみんなが「差別者」に言わず、被害者に寄り添うことに偏る問題を指摘する。レイシズムとは何か、どのような歴史をたどったか、偏見がジェノサイドにいたるメカニズムとは何か、どのような反レイシズムが必要なのか、戦後日本の朝鮮人差別体制の歴史、日本でレイシズムの暴力がいかに行なわれたか、そしてナショナリズムレイシズム・資本主義との関わりを論じる一冊。

本書が扱うこれらの問題はいずれも重要かつ興味深いもので、政治のみならず社会やインターネットで頻発する差別事件を見るにおいても、政権与党と結託し差別煽動者を支持し反差別者を凍結することを続けている差別煽動SNSと化したツイッタージャパンを利用する上でも大事な議論が含まれている。

科学的に人種は存在しないけれども人種差別は存在する、つまり、人種とは差別によって作られるカテゴリだという議論を経ながら、人種差別の始まりを近代資本主義の拡大に見る。米国における黒人差別が奴隷制とかかわることや日本における朝鮮人差別が植民地支配の名残りなのがその例だ。ウォーラーステインの「労働者の階層化ときわめて不公正な分配とを正当化するためのイデオロギー装置」という人種差別の定義を引きながら、レイシズムの内実と成り立ちを追う前半部分も面白いけれども、やはり重要なのは日本型反差別を論じたところだろう。

著者は「加害者の差別する自由を守る限りでしか、差別される被害者の人権を守ろうとしない日本の反差別こそ、日本で反レイシズム規範形成を妨げ、日本人=日系日本人という国民=人種の癒着を切り離せない元凶である」(13P)とし、これを「日本型反差別」と名づける。差別行為の禁止がないまま被害者に寄り添おうとする態度が日本の反差別だというのにははなるほどと思わせるものがある。必要なのは被害者の語りに拠らない、各人が当事者としての社会的不正義へ批判をしていくこととともに、日本が統計を取らない差別事件の記録、可視化もまた重要だと指摘する。アメリカではトランプ大統領によって差別事件が激増したことが数字として現われるけれども、公的統計がない日本では、国家やメディアによる差別煽動があっても数字が出ない。日本は米欧ほど差別がひどくない、と言われるけれども、不可視化されている現状はそれ以前の問題だろう。

人種差別撤廃条約に批准しながら「差別禁止法がない唯一の先進国」というのも重い話で、なにより、日本は戦後、在日朝鮮人の国籍を一斉に剥奪するという暴挙に出て、植民地支配の責任を文字通り投げ出したことが今に続く人種差別の基盤にもなっている。その上、70年代には憲兵特高、旧軍関係者などが関わった国士舘大学の学生による、組織的な朝鮮人への暴行殺人事件が発生しており、この朝鮮高校生への襲撃事件は数百件の規模で起こっているといわれる。戦後でも偏見を基盤にした極右による組織的なヘイトクライムを既に経験しているわけだ。

国士舘が男子を狙ったものとすれば、90年代、一般人はチマチョゴリを着た女子学生を狙った。セクシズムと癒着した卑劣なヘイトクライムで、幾度も繰り返された制服切り裂き事件の末、「第二制服」の導入によって民族服は不可視化される結末をたどった。社会党土井たか子人気のなかでも、自民党小沢一郎幹事長のもとで社会党朝鮮人からパチンコ献金を受けているとネガティブキャンペーンを張ったけれど、パチンコ業界から献金を受けていたのは平沢勝栄はじめ自民党議員の方が多かったという。しかし差別煽動は効果を上げた(212P)。この件、中国をめぐって今もまるで同じことが起きているのがよくわかる。朝鮮進駐軍というデマがあるけれど、あれはまさに朝高生襲撃事件のような組織的なヘイトクライムを行なった加害者が、その行為を被害者のほうに押しつけているわけで、これが差別主義者の習い性なのがよくわかる。

また、「反日」というロジックはレイシズムのロジックをマジョリティに適用して差別煽動を行なうことでもあり、著者はナショナリズムレイシズムによって補強されていると論じ、反レイシズムナショナリズムを実践的に抑制しうると指摘するのも重要な部分だ。冷戦以後の日本型差別煽動では、長年政治による差別煽動の結果、国士舘のような組織的なものではなく、出版、メディアを介したかたちで自然発生的な在特会型の組織が生まれ、これが選挙など政治に乗り込むことでより大きなレイシズムが発揮されていることを指摘する。弁護士などの懲戒請求事件のように、一般人を巻きこんだ社会運動としての差別煽動が恒常化しているのは、反差別ブレーキの欠落によって、極右が右翼と切り離されず一般化しており、軽い気分で差別煽動に参加することができる点にあると言う。ビジネス、ネットを介したこれは喫緊の問題でもある。

レイシズムナショナリズムの複合とともに、序盤に概説されたように資本主義との関わりもつねに問題となっており、ブラックライヴズマター運動の画期を、旧世代の運動が手を付けていなかった、罰金、手数料、監獄経営など国家暴力が資本主義によって強化されていることを批判した点にあるとしている。

二一世紀のヘイトスピーチ頻発状況下では「見えない」被害者の差別被害を語るまでなく、誰の目にも「見える」加害者と加害行為が日本全国にあふれている。差別被害を語る必要が一切ないほど差別加害があふれているのに、それでもなおマイノリティに被害を語らせ、マイノリティの歴史を学ぼうとしか主張しないのはなぜだろうか? それは差別を止めるという市民(シティズン)としての義務を果たす代わりに、被害者と歴史という「反差別の真理」を確認しているだけではないか? 安易に被害者と歴史という真理の規準に依存せず、その手前にある、差別加害を止める正当性と戦術的効果という別の規準を打ち立ててみて、はじめてマイノリティとその歴史を尊重することができるのではないか?
 もうこれ以上、マイノリティの被害と歴史を消費してほしくない。
 差別被害の深刻さや、マイノリティの疎外や、植民地支配や戦後の日本社会での在日コリアンの歴史について、本書は語らなかった。それは被害やマイノリティを軽視しているからだろうか? 差別の入門書なのに被害者の存在を無視・軽視しているのだろうか?
 逆である。マイノリティの疎外や歴史を尊重するからこそ、被害・被害者・マイノリティ・歴史を語る手前の段階で、それらに依存せずとも、マジョリティを含む誰もが取り組める課題がある。差別行為の発展メカニズムを分析するというこの課題に本書は集中した。(304P)

一ページ丸ごと引いたけれど、ここはきわめて重要な一節だろう。差別の問題は被害者に固有の問題なのではなく、まさに市民全体の正義に対する態度が問われているということ。とはいえ、面と向かって差別を辞めろ、という事態は家族が相手だったりしてそれはそれで厄介で……。

人種、民族にかぎらず、差別的現象全般を考えるのにも有用な議論になっていて、とても重要な一冊で、最近読んだなかではもっとも人に読まれて欲しい本だ。

2020年見ていたアニメ

今年見ていたアニメのなかで各クール10数作程度をピックアップして、ツイッターにその都度書いていたことを元にしたりしなかったりしながら記憶などに基づいてまとめたもの。ネタバレを気にせず最終話の感想も書いてるのもあれば、ある程度未見に配慮しているものもあって、気分次第に書いている。項目を立てて書いた本数は50本ちょっと。(2021.01.18 A3!、おちこぼれフルーツタルト、禍つヴァールハイト、池袋ウエストゲートパークの項を加筆)

2020年アニメ10選

昨年同様最初にベストテンを挙げておく。放送時期順。

SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!
恋する小惑星
乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
プリンセスコネクト!Re:Dive
ミュークルドリーミー
Lapis Re:LiGHTs
放課後ていぼう日誌
アサルトリリィ BOUQUET
ご注文はうさぎですか? BLOOM
ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

美少女アニメ揃いで、選者の趣味が良く出ていますね。今年の一作選ぶならここはすんなりましゅまいれっしゅになるかなと思ったら夏に毎日のように見返していたラピスリライツがあったことを感想書きながら思った。

冬(1-3月)

SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!
音楽アプリゲーム発のアニメシリーズ第三作(ショートアニメを入れないなら)、前までのプラズマジカからメンバーを一新して始められた新作。前までの池添隆博監督、待田堂子構成、ボンズ制作のスタッフが、孫承希監督、田沢大典構成、キネマシトラス制作へと変わった。前作キャラクターも登場するけれども、演奏シーンになると二頭身のミューモンと呼ばれる体型になるってことだけ覚えていればこれから見ても大丈夫だと思う。一言でいえば、アンダーノースザワなる下北沢的な音楽の街を舞台に、故郷から上京した少女たちが出会い、それぞれの個性を認め合いながらバンドを組んでステージで演奏する、青春バンドアニメというところか。百合。冬アニメで一番良かったと思うし、2020年のアニソンで一番よく聴いていたのがこのアニメの楽曲だった。主人公らのバンド以外にも複数バンドが出てきて、落ちこぼれ男子たちで組まれたDOKONJOFINGERの曲、チャリで来たこと「移動手段はバイクです」はとりわけカッコイイ。アイドルもの、音楽もののアニメはいくつかあったけれど、楽曲面で一番良かったのはこれ。EDクレジットなどで書かれてるように、劇中でどのキャラが作曲、作詞したのかが明示されていて、その意味合いもなかなかインパクトがある。
 物語は、オーディションを受けるためにきつね族のほわんという少女が雪国の田舎から電車に乗って上京するところから始まるんだけど、家族に見送られて発車したところでまっしろスタートラインという曲がかかる、その時点でとても良かった。このほわんと過去の経験からバンド活動に鬱屈を抱えている素直になれない縞々猫族のマシマヒメコ、狼娘族のルフユ、デビルミント鬼龍族のデルミンとが出会い、バンドを組むことになる。基本耳やら尻尾やらツノやらついてるケモノキャラで、耳や尻尾がピコピコ動くのもポイントで、EDのしっぽの動きを見よ。ヒメコとほわんの関係を中心にしつつ、他二人もまたいろいろな事情がありつつ、特に印象的なのは六話。他人が怖い寂しがりがそれ故に嫌われようと相手を遠ざける面倒くささを絵に描いたようなヒメコの壁を崩すにはそれ以上の圧で相手を肯定しつづけていくほわんの度量があり、過去の事情をいっさい回想しないのも必要なのは今って感じで良かった。この回、下北沢に海はねえ!って思ったけど、平然と下北徒歩圏内に海を置く、これがフィクションだといわんばかりの豪腕には圧倒される。かのけいおんも京都から京都へ修学旅行に行ったという故事を思い出させる。10話のメンバーで実家帰省回も、一話でほわんが見た同じ窓から同じオーロラを見て、そしてあのプラットホームからあの時のように家族村人に見送られて、もう一度、今度はみんなで再出発する、良すぎるね。村に帰ってくると木琴アレンジのまっしろスタートラインがかかってるのがとても良い。出発のための帰還だから。人は反復に弱い。ヒメコのトラウマは人格を無視した才能のみへの期待と失望だとすると、ほわんはヒメコ自身にも見えてないヒメコの変わらないものを見ることができ、それは村人たちの何をするのかは知らなくてもほわんを応援する絶対の信頼にも培われていて、その暖かさに応えてヒメコも奮起できる。最終回は、これから演奏って言う時に、バンドの決め台詞言って拳ぶつけあってるとき誰か笑っちゃってるのがめちゃくちゃ良かった。恥ずかしくなっちゃったのか楽しくなっちゃったのか、演出なのかアドリブなのかもわからないけど、今・私たち・少しの照れ、ここの感触が素晴らしかった。「あの光に向かってください」も名台詞だ。しかし、ほわんが人気バンドの付き人やる回で、その人気バンドのごちそうタイムってバンドがファンを食っちゃうやつが公然とイベント化してるのマジでロックしててビビった。ほわんの声はカラフルパストラーレでもメインを演じた遠野ひかる、癖になる気の抜け方してて、デルミン役和多田美咲も特徴ある声しててすぐわかるし、ルフユ役山根綺はテンションの振り幅が広くてツッコミ役という感じで、ヒメコ以外みんな声に濁点ついてる感じなのコメディに強くていい。マシマヒメコ役の夏吉ゆうこは、この後も面倒くさい系キャラをたくさん演じてて今年の新人として目立った活躍をしている一人だろう。キャラ、声、話、絵、曲、どれも良かった。ほわんのスマホの着信音がムックリの音っぽくて、十年ぶりくらいに持ってるムックリを引っ張り出してビヨンビヨンやってたらヒモがちぎれた。
 余談、「移動手段はバイクです」、曲名がチャリで来た、の言い換えだとすれば他の歌詞もそういうギミックがあるんだろうか。「具に香る本能を刺激するpackage」、これ唐揚げ弁当のことですよね? 「移動手段はバイクで、行こうぜ未練の回収へ、地雷や黒いまま埋められなかった不燃性ごみ」、これ自転車で黒歴史の入った燃えないゴミを回収しに行ってます? 謎はつきない。

●恋する小惑星
きらら系天文・地学漫画原作で、子供の時にみらという小惑星はあるのに、あおという小惑星はないね、という話から小惑星を見つけてあおという名前を付けようと約束した二人が高校生になって再会し、その夢を実現しようと学びながら、周囲の天文、地球科学好きの部員たちと日々を過ごしていく、監督構成制作ともに私に天使が舞い降りたスタッフによるアニメ。劇中で天文部と地質研が合併してひとつの部になっているという設定がことのほか意味を持っていて、宇宙を夢みることと、地面に目を下ろして地質、地球を見つめることが星という点で繋がるというのもそうだけれど、夢がある人、ない人、気づいた人、過去にあった人、とさまざまな現在を描くことにも繋がってくる。OPも絵が天地に分かれた演出の後で上にも下にも未来があると歌われるの、地球科学アニメのOPとして良すぎた。そしてかぐや様の千花EDを担当した中山直哉コンテEDもまた非常にエモーショナルな出来で、下から伸びる手が上の手との握手から星空へパンしていく、あおという地上の名前を二人で空に送り出す話らしい。星空へのロマンとともに、子供の時は相手を男の子だと思っていたみらとあおの強い繋がりをめぐる百合アニメでもある。空と地というものを結びつけるテーマは二話のサブタイ「河原の天の川」というところにも現われている。今作も中盤くらいまでは夢のハードルの高さと日常的な軽さの相性がちょっと悪いなという感触もあったんだけど、みらあおの同居あたりからぐっと本気になった感じがある。引っ越し、試験失敗などの別離展開を無理矢理超えてくるのを幾度も仕込んでて、意地でも食らいつくのが面白いし、この遠いところだと思えたものや困難への挑戦が、分割と結合の演出として機能している。地質標本館、JAXA、地学オリンピック、沖縄での小惑星発見イベントなどなど、いろいろな施設イベントを活用していく学習漫画的な側面もあって、成果がなくても報告は大事で情報の積み上げこそが前に進む土台となることなども描いている科学、学問を感じられるアニメでもあった。

●痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
友人に誘われてあるVRゲームを素人がプレイしてみたら、防御に極振りしたことや色んな偶然からチートじみたスキルなどもゲットしてトントン拍子に最強クラスになってしまう女性主人公なろう系原作アニメ。大沼心、湊未來監督のシルバーリンク制作。防御力が異様に強くなって毒攻撃スキルもゲットして、無邪気に邪悪で人の心がないような戦術も笑顔で展開していくヤバイ主人公メイプルと、メイプルの言うことならなんでも聞く忠犬のようなサリーと、彼女たちの元に集ったメンバーでギルドを組んで、他のギルドと大規模な戦闘イベントをこなしていくことになるストーリー。そんなことで強くなるのかよ、とゲームとしてはすごい穴のある設計にしかみえないしどうなんだろうと思うところはあるけれど、特に序盤のメイプルとサリーの元から親しい友人同士がゲーム世界で二人っきりのデートをしてるみたいな感触は不思議と良くて、結構な百合アニメでもあると思った。CMではメイプルが「サリーじゃなくて犬だったかー」という凄まじい一言をぶっ放すのが世人に衝撃を与えたとか与えなかったとか……。主人公本条楓の声優が本渡楓だという面白ポイント。
 二話がご都合のんびり天然最強さんと仲良し手練れ友人とのVRゲーエンジョイ日記かと思ったら、三話ではサリーがいつでもメイプルを守れるスキルを習得するという話から、お化け屋敷の後は夕陽の浜辺で戯れて、夜空の綺麗な場所でディナーを、っていやこれ全部デートでしょ、一緒にいるのが当たり前の二人が延々平然といちゃついてるという百合アニメでびっくりした。仲の良さや信頼、距離の近さがフラットに描かれてる。メイプルがいない間に購入資金を貯めて家選びもギルドメンバー選びも全部メイプルに任せて自然にリーダーへ押し上げているサリーのメイプル愛の強さ。また、毎回佐々木李子の良い感じの挿入歌Good Nightが流れて作業パートをさくさく見せつつ、終盤にはキレのあるアクション作画でボスと戦うというパターンを組んでいるのもなかなか面白い。防振りのアクション、同じシルバーリンクの賢者の孫の動かし型のセンスをもっと枚数増やした感じかなと思ってたら、そもそも賢者のメインアニメーターと防振りのアクションアニメーターが同じ人たちだった。伊藤浩二、米田紘、この人たちはシルバーリンクでちょこちょこ名前を見る。そして二期が決定した。

●マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝
まどマギのアプリゲームを原作としたアニメで、主人公環いろはが魔法少女になったきっかけのはずの病気の妹が消えているという謎とともに、神浜市の魔法少女たちがさまざまな謎を追っていく。まどマギで異空間を演出した劇団イヌカレー(泥犬)が総監督とシリーズ構成を担当し、シャフトが引き続き制作となっている。まどマギに関わっていた動画工房谷口淳一郎がキャラデザ。魔法少女になるための願いとそれが歪曲して実現される不穏な世界で、少女たちの思春期的な感情のこじれに加え、怪異怪談要素が大きく増している。百合だね。挿入歌がJ・A・シーザーで演劇実験室万有引力が出てくるのには驚いた。
 頑ななやちよと献身的ないろはの、中学生に救われる大学生というなかなかな関係を軸にしつつ、みかづき荘に仲間たちが次第に集まってくるのはRPGらしいところ。特に良かったのは序盤レナとかえでの話と、サナの回。関係のこじれから絶交階段にかえでの名前を書いてしまったレナの話では、三話の天邪鬼で自縄自縛で自分が大嫌いなレナをそのままで肯定する「友達」が強い。自己否定のモノローグから告白と肯定のダイアローグへの解放感。嫌われ者の振るまいが自己否定の弱さから来ていることを告白する、「友達にしてごめんね」の顔と声が良すぎた。色んな姿を取りつつもそれが全部自己否定だという鬱屈して自縄自縛のレナの合わせ鏡の世界(変身バンクのモチーフも)を打ち砕くかえでの声。映っているノートをよく読むと、レナは別人に変わる力が欲しいと願って変身能力を得たらしい。でも嫌いなレナ自身は何にも変わらない、というのが鏡像の自己否定の場面で、かえでと話した後の最後の一撃では鏡に全部レナ自身が映っているという形で自己肯定への転換を描いている。九話では、自殺したいと願った少女とそれを受けとめる捨てられたAIの二人だけの世界が描かれ、幻想的な死出の旅から帰還し、幸福な現実への一歩を踏み出す話になっていた。AIにアイという名をつけたこの話を受けて、10話では、さなを呼ぶアイから始まり、さながアイちゃんと呼び、いろはがさなちゃんと呼ぶ、アバンはほぼこれだけというのが印象的だった。まどマギだと魔女になったりしそうなところできっちり受けとめる誰かが現われて仲間になるプロセスを繰り返すところがいい。そうしてみかづき荘という場に仲間が増えていく。ひだまり荘ではない。
 ドラッグを思わせるような幸運水というアイテムとか、魔法少女もので百合と怪談をヤクザ的なショバ争いの枠組みで語られるのはなかなか面白いけど不思議で、ヤクザものといえばホモソーシャルの極みで同性間の強い感情のぶつかりあいだからかなとか、妹を探している=兄貴の仇とかそういうものかとも思ったけど、そういえばまどマギでほむらが武器かっぱらってきたのヤクザからだったから正統進化だった。2nd Season Coming Soonと予告されて既に一年近くが経っているけれども、それはいつなんでしょうか。

●ネコぱら
エロゲー?原作の猫擬人化美少女アニメで、人型のネコが人に飼われ一緒に生活している世界を舞台に、ケーキ屋店主嘉祥とその飼いネコたちとの日常を描くコメディ。山本靖貴監督、雑破業構成、FelixFilm制作。元がエロゲということで男性主人公がいて、ネコという人間的知性を持ちつつ人に飼われ、外出にも許可がいるという原作の性質にも由来する設定はかなかなかにえぐいところはあるけれど、基本的にはネコ同士の関係を描く形になってて嘉祥のかかわりもかなりまともな感じなのが面白い。作画の地味な細部の良さもあるし、特に七話なんかのねじの外れ方は良くて、童話昔話パロや小ネタを小気味よくぶっ放しまくって、ひたすらどうでもいい話をしててかなり楽しかった。テンポとキャラ性とネタがどうでもよい楽しさのためだけに駆使されていて感じが良い。なかなか表現が難しいけれども、これが萌えアニメだという力強いパワーにあふれているのと、ちょいちょい演出にセンスがあって良い。11話、アバンからショコラバニラの親バカぶりが描かれながらカカオの外泊で子供同士の仲を深めたかと思ったら、外の家で改めて知った二人への感謝をちよの絵と、二人がまさにカカオに手渡した口下手でも気持ちを伝えられる手紙、この二つに学んで返してきたのが完璧だった。最終話は海には来たけど普段通りの日々が普段通りに終わって最終回というのもなかなか味がある。最終回らしいところのない最終回で、ゆえに永遠に続いて欲しいと思わせる。ネコがいる生活ほど素晴らしいものはありませんからね。それはそう。飼ったことないけど。土田霞という未知の脚本家がいて、これは誰だ、誰かの変名ではという噂もあったけど、普通に新人さんなんでしょうか。土田霞はこの後夏に猛威を振るうことになる。

●ID: INVADED イド:インヴェイデッド
舞城王太郎脚本であおきえい監督、NAZ制作のオリジナルアニメ。舞城アニメといえば龍の歯医者にはまったく関心を惹かれなかった記憶があるけれど、これはずいぶん面白かった。殺人者をある装置に乗せ、殺人者の残留思念から作った仮装イドという仮想世界にダイブさせ、そこから情報を探って推理をしていく、というなかなか込み入った構造を持っている。酒井戸、穴井戸、聖井戸と名探偵のキャラクターも面白いし、彼らの関係も良かった。元警官の殺人犯で「名探偵」酒井戸役を津田健次郎がやっていて、これが非常に良いというのがある。大河元気とのラジオで演技について話していて、アフレコ時には映像できてるんだけど尺に合わないなと思ったら監督から全部無視していいですと言われて、出来てる映像全無視しましたと楽しそうに喋っていた。六話の行き場のない円環のモチーフのやるせない感触や、九話の杉田智和との対決もなかなか印象的。最終話、独特な設定について酒井戸が、死者が「名前と仕事を教えてくれる」そして「この世界の全てに意味があると。俺の生にも意味があり、彼女の死にも意味がある」と述べるモノローグが印象的。世界に意味を与える死者とその意味を読解する名探偵という精読者、この説自体は結構有名な話ではあるか。なお、ブレーキブロークンという漫画版がアニメの直接の続篇でなかなか面白かったけど、アニメ見てる人もあんまり読んでる感じがないのが惜しい。

とある科学の超電磁砲T
去年は一方通行の外伝がやってたけど、今年はとあるシリーズ外伝の七年ぶりの第三期。コロナの関係で二クールの放送が九月末にまでずれ込んだ。なんかやはり微妙に古さを感じるところはあるんだけど、やっぱりきちんと面白いなと思わされる。クローンドリーまわりの話や、佐天とフレンダ、ドッペルゲンガーと悲しい別れの百合エピソードが多くて、そういやこれは男性主人公ハーレムものラノベの外伝がやたら百合になるやつの代表格的な一作でもあったことを思い出した。後期ED曲の青嵐のあとで、という曲がまさにそういう別れを歌った曲で、PVも百合だった。

●群れなせ!シートン学園
博史池畠監督による擬人化動物ギャグ漫画原作アニメ。動物嫌いの主人公が、異なる種族間の争いが絶えない、「弱肉強食の精神を育むための神聖なる檻」シートン学園に入って、というギャグアニメ。動物擬人化といっても、メスは人型なのにオスは直立する動物のままなので、種差以上に性別で取り扱いが違いすぎるところはまあ美少女作品なんだなという前提はあるにしろ、テンポも画面の細かい動きも楽しいし動物豆知識を細かく盛り込みながら展開していく手際がなかなか良い。狼娘ランカの声優の木野日菜あそびあそばせでも活躍していた個性的な声でインパクトがあるし、ED曲の破壊力もなかなかのものがある。同期の異種族レビュアーズとハイエナ両性具有ネタ被るとか、そのハイエナ役津田美波が、モブレギュラーの津田健次郎と津田共演だと思ったら親子役だったのは笑ってしまった。

●宝石商リチャード氏の謎鑑定
ライト文芸ジャンルの宝石にまつわるミステリ小説原作アニメ。櫻井孝宏の金髪碧眼イギリス人宝石商という強すぎるキャラと、中田正義という正義を名に持つ青年とのBL風味もありつつ、多様性と正義にまつわる物語を展開する。宝石という美しいけれども同時に詐欺や盗難の歴史を持つ存在について、鑑定を通してその真実をたどり、さまざまな人に対する偏見や、性急な正義感の陥穽を描きながら、自己肯定感の低さゆえの正義感は同時に他人の軽視にもなりうるとして、自己もまた相手も肯定する理路を探っていく。生まれ変わったらあなたのようになりたい、という恋愛とはまた別の最上級の好意の表現、やっぱBLですね。

●虚構推理
後藤圭二監督でブレインズベース制作、戦国コレクションを思い出す。妖怪に知恵の神になることを求められ、片目片足を失った岩永琴子と、妖怪の肉を食べて不死になった桜川九郎のコンビが、多重推理ならぬ納得感のためにでっち上げられる「虚構推理」を駆使して事件を解決する。鬼頭明里のヒロイン琴子がなかなか良いキャラしてて悪くないんだけど、アニメで大部分を占めていた鋼人七瀬篇が長すぎた。元カノ今カノが織りなすラブコメ要素と琴子の顔のほうが推理より面白いのは良いのか悪いのか。しかし、事実かどうかというよりもそれが確からしいとより多くの人々に信じられているかどうかという話をしてるけど、つまり信憑性の話で、この作品が怪異を扱っているのは「憑」の字に拠り所と霊がつくの二通りの意味があることを意識しているからだとしたら上手いな。

●22/7
秋元康プロデュースのアイドルプロジェクトが数年前から走っていて、これはそのアニメ作品。盾の勇者の監督阿保孝雄、堀口悠紀子キャラデザ、 A-1 Pictures制作で、正直作品全体の出来についてはかなり否定的だ。しかし七話ゆえに無視することはできない。全体について言えば、このアニメの主軸になるのが壁の指令というものに従ってメンバーもプロジェクトも動かしていく、という絶対権力者秋元康を思わせてしまうような設定になっていて、そのうえで大人なんてとか、言わせてるのが「大人が仕組む掌の上の反抗」ポーズに過ぎる。佐藤麗華回の六話なんかは、父子家庭で家計の足しにと事務所に入った少女がアイドルの期待に応えるという同調圧力と経済的プレッシャーで望まぬ水着撮影をさせられる話になっちゃってる。壁の絶対的指示が最初にあるものだから、それぞれの自主的決断がすべて壁に都合の良い行動をさせられているだけ、という根本的欺瞞に行き着く構造があり、最終話も壁を壊すのは当然として壁の先が壁の用意したステージだったの、お前ふざけてんのって思った。仲間とファンがいれば、というけどアイドルには資本の下支えがいるということを示唆して終わる。破壊活動にためらいがない滝川みうは面白いしほぼ脱獄の絵は笑ったけど、アイドルで人々を動かせるか、という動員の実験だったというの現実に総合プロデューサーが政権に近いところにいると何もかもが邪悪だとしか言いようがなくなる。彼女たちの物語としては悪くないけど、システムに結局乗ってしまう無批判さで描かれると、なるほどそういう政治性かあとは思ってしまう。結局反逆をポーズとして飼い慣らすということなんだな。牙を抜かれた安全な反逆イメージの消費。秋元康コンテンツってのはそういうことなのかね。掌の上でまさに踊っている踊らされている、っていう。アイドルもアイドルで踊らされてばかりではなくてそれを踏み台にしてたりするけど。OPの語りや終盤で、ずっと大人がどうとか語らせてるけど子供がそんなに大人のことばかり考えてるなんていう自意識過剰をやめたほうがいいんじゃない?って思う。
 とはいえ、七話戸田ジュン回は今年トップレベルの一話だった。難病の友人との離別というベタな物語ではあるんだけれど、それを大胆に演出する絵作りは鮮烈だった。始まってすぐにわかる明暗、色、大きい余白等々の画面づくりは非常にインパクトがあり、二人で一緒に歌ったアイドルソングからアイドルになっていく流れが自然だったのと、快活な戸田ジュンのいまと過去の暗さとの対比も、話を重くしすぎずバランスが良い。半身を失って、幻の半身とともに生きる話なんですよ。「交換」というように今の戸田ジュンの半分は松永悠でできている。ジュンの相手をコピーする特技が、ここにいない相手を想像する思考法によるものだとすると、悠の影響とともにいまもなお生きているわけで。EDのワルツのモチーフも相手と入れかわる要素だ。また、挿入歌の「未来はそんな悪くないよ」と「ツキを呼ぶには笑顔を見せる」と「あなたとどこかで愛し合える予感」という話の根幹にかかわる詞を歌いながらイヤホン分け合って手を固く握りしめる百合の絵がメチャクチャ強かったというのもある。このコンテンツとしては22/7計算中という、演者がCGのガワを使って映るバラエティ番組があって、これはなかなか面白いし、滝川みうのキャラクターがアニメとは全然違う陰属性でとても面白い。

その他――
ダーウィンズゲームNexus制作、徳本善信監督のこみっくがーるずスタッフによる、デスゲーム系能力バトル漫画原作アニメ。B級的チープさを整った作画に乗せた感じだけど、わりと楽しめる作品だった。上田麗奈ヒロインとか花守ゆみり少女少年二役とかも良い。
ランウェイで笑って、身長足りなくてパリコレモデルになれない少女と経済的問題でデザイナーへの道を諦めていた少年の出会いから始まるマガジンの漫画原作アニメ。少女漫画的な題材を少年漫画で料理している感じがなかなか面白い。花守ゆみり主役だと思ったら花江夏樹のメイン二人の花コンビだ。
異種族レビュアーズ、異種族風俗嬢を男たちがレビューし点数付けする漫画原作アニメ。多様性という言葉で本作を評価する向きがあるけれど、性癖カタログのバラエティではあっても、宝石商リチャード氏にあったような意味での多様性はあまりないと思う。そもそも男たちで風俗嬢をジャッジするホモソーシャル感がなかなかアレだけど、実際にこの作品で見る者にジャッジされているのはレビュアーの彼らのほうで、それはクロスレビューという形式上の必然でもある。
りばあすブシロードのカードゲーム原作ショートアニメ、原作・キャラ原案・構成の西あすかって格ゲー百合漫画描いてた人だったと思う。なかなか面白くてずっと見てるけど、五話のLINEのやりとりをいっさい読み上げずにちょっとした息づかいとか吹き出すところだけ声入れてトークしてるのは良い描写だった。
ドラマ ゆるキャン△、実写版ながらアニメ版をなぞったような印象なんだけど、ドローンを使った撮影はなかなか面白く、その点が原作の魚眼レンズなどを駆使したレイアウトの再現をバッサリカットしたアニメに比べてアドバンテージになっているなと思った。もちろん、実地にキャンプ地を映せるという点も。大垣役の人の顔で持ってるところがある。

春(4-6月)

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
タイトル通りのなろう系異世界転生もので、乙女ゲーム世界に死後転生してしまった主人公が、ゲームでの破滅フラグを回避しようと奮闘するコメディアニメ。シルバーリンク制作女性主人公なろう系アニメとしては防振りに続く二期決定作品でもある。枠組みはリプレイものにも近いんだけど、その世界の常識を共有しないことで偏見がなく、自分の破滅を防ぐという利己的な動機で動いてるはずなのに持ち前の善性と能天気な前向きさで、周囲の人を救ってしまう掛け違えの喜劇という、とても楽しい話になっている。内田真礼の声がやたらとはまってる。乙女ゲームなので男性キャラもたくさん出てくるけど幼少期の主人公カタリナに救われて丸くなっているし、恋敵になるはずの女性キャラもカタリナとの絆を育てて、男女ハーレムものになっているのが珍しく、そしてとても良いところ。最初の数話の幼少期篇なんかは、メイン登場人物に女性声優しかいないし既に実質百合ハーレムだった。カタリナは恋愛よりも食べることだ第一だし、食べ過ぎで二度トイレ退席するうえに拾い食いする令嬢なのも笑ってしまう。破滅して追放されても大丈夫なように農作業を学んで行くわけだし、八話を見ると、カタリナの食欲がゲーム=魔法書の枠を破って自由を得て皆を助ける、というメタ構造が見てとれる。恋愛幻想=フィクションを食欲で調伏する。花より団子精神が周囲を救い、逆の意味でハーレムを形成して修羅場を招いているというコメディ。
 カタリナの前世を描いた七話では、そりゃ死ぬよなというドジぶりが描かれ、前世と今世のつながりを担う別のキャラの視点から、かけがえのない友人に死別された悲しさと、再会する願いが叶ったことを転生後の本人は覚えていないという切ない百合回だった。九話、転生百合の次は主従百合で、カタリナの放埒な自由さに直面することで道具になりきれない自分自身が露呈するというのは感動的だった。おはようからおやすみまで、生活のすべてを見守る愛が重い。破滅フラグを回避しようとすることや当人の自由さが、ゲームのフレームを壊したり周囲の「キャラ」的な役割性から「人間」を露呈させるという全体構造は今話のような脇筋でむしろ見やすい。11話は、前世との関係が再度描かれ、皆が願い帰りを待つ場所に帰るためのあっちゃんとの別れは、攻略対象としての「キャラ」を「人間」にしてきたカタリナが、この世界を「ゲーム」から「現実」へとかえるために必要な過程だろう。前世は前世として心残りを果たすことはできた二人の奇跡は泣ける。本当の別れは本当のカタリナへの生まれ変わりとなる。そして指先ひとつの小さな繋がりはソフィアを通じていまもカタリナとともにある。

●プリンセスコネクト!Re:Dive
スマホゲー原作アニメ、この素晴らしい世界に祝福を!の金﨑貴臣監督・構成で、サイゲームスのアニメ制作部門、CygamesPictures制作。記憶喪失になったばかりか精神年齢も幼子のようになってしまって目覚めたユウキという少年と、彼を保護する少女コッコロが、能天気な強キャラペコリーヌ、秘密を抱えたらしいキャルらと出会い、美食殿というギルドを組んで冒険する、という話で、このすば監督というところから期待していたものが出てきた感じで、序盤いろいろ違うけどだいぶこのすばだった気がした。労働とクエスト、馬小屋と野宿。福島潤稲田徹高橋李依金田朋子。このすばでは。ギャグ、コメディのキレがやはり突出していて、とにかく楽しいアニメだったしキャルにとにかくいろんな表情と格好をさせたいという熱意に満ちている。また、主人公たちは美食殿だし、サブタイが食べ物縛りで一話から食事が重要な場面になってて、食べることは生きること、一緒に食べると言うことは一緒に生きることという話なんですね。EDも、落ちこぼれが集まってとか、足を引っ張りあいながら君と歩いて行くっていう歌詞で、曲提供が同じ人だしやっぱりきれいなこのすば感がある。生活、食事、悩みを抱えたキャルをも仲間として認め、そして多数のおじさんキャラたちがランドソルという街の人間として関わり合い、最終話への伏線を固めていく。13話は、話は終わってないのにアニメはものすごく綺麗に終わった。城から忘れられた姫が街の人々に忘れられないペコリーヌになるのとともにコッコロ、キャルに抱き返されるまでのそれぞれの孤独が美食殿という新しい絆に救われるまで、そしてそれを支えるユウキ。作画も良すぎる。日常描写メインの構成をペコリーヌの失われた生活からきちんと意味づけてくる。ペコリーヌを愛するおっさんたちがアニメに必要だったわけだ。抱き留めることとコネクトというのを重ねてきたようなテーマソングによる特殊ED、コネクトという人との繋がり。食堂に帰ってくるし食事場面で終わるアニメだった。プリコネ、食は人を繋ぐという話なんですよね、私は毎食一人で食べますけど。

●ミュークルドリーミー
サンリオ原作のキッズ向け通年アニメだけど、桜井弘明監督、JCスタッフ制作とアニメまちカドまぞくとも似たスタッフで、まぞく同様狂騒的なテンポで押すかなり楽しいアニメになっている。中学一年生の日向ゆめという少女が入学式の前に空から落ちてきた喋る人形を拾って、夢のなかに入れる能力を得るのとともに、人の暗い感情を暴走させるブラックアビスを使うゆにたちの起こした騒動を夢のなかに入れる能力で解決していく物語で、テンポ感やセリフの密度にまちカドまぞくが浮かぶのはそうだけど画面内存在をとにかく動かすのはクロマティ高校を思い出す。ゆめが憧れる先輩との恋愛と、隣に住む幼馴染みの朝陽少年がいて、幼馴染みとの関係というのが先輩にもあって、二組の幼馴染みが人間側の主軸だろうか。お笑い好きのまいら、機械いじりが好きな天才ことこという三人に、ときわという快活な少女も加わって、というのが序盤のメインの人形持ちメンバー。
 六話がことこの家の教育資本の高さを描写しながら、ありえないことがありえるということを「学んだ」という勉強、学習のテーマに落とし込む回なのは上手かったし、テンポが良いという点では「トントン拍子?」「知らんか?トントン拍子」「まあいいや」このいっさい無駄なやりとりがあえて挾まれるのも面白い。ことこがラブレター見ながらつま先トントンさせてるのは何故かと思ったら、手紙を開くまでは上履き履いてたのに、ワンカット挾んだら既に靴を履いていて、外靴を下駄箱から出して履く、という動作を省略しつつ外靴履いてることに注意を促して外に出ることに違和感を与えない演出かなと思ったけど、その後の話数を見ると、ラブレターをもらうという恋愛に巻きこまれることへの苛立ちもあったと見るのがいいかな。そのほかでも、TMRHOT LIMITの衣装を着て現われる朝陽君とかの親世代へのネタも笑った。好き嫌いするなというのを善意の押しつけを超えた支配欲として描くかのようなプチトマトマンをやりすごして大人になれば食べられるかもねと優しく決着させる17話、てーきゅうみたいなテンポというか切り替えの速さでポンポン異常なものがでてきて台詞回しの絶妙なセンスもあいまってわかるけどわからない異様な視聴感に襲われる18話を経て、幼馴染みの朝陽少年がメインのメンバーに加わるのがなかなか面白い。魔法少女アニメの文脈ぽくもあるけど、そうではないので少年もメインに加入する。他にもいろいろあるけど、本作ではやはり28話、まいらの亡き母をめぐる家族の話が良かった。誕生日が母の命日という運命を背負ったまいらとその父の、命日の様子を描きながら悲しい場面をほとんど映さず、しかし夢のなかで家族一緒の姿を見せるという夢のテーマを活かした話になっていた。夢と時間が交錯するなかから母をまいらに出会わせるのと、誕生日には(私の)思い出のバウムクーヘンより、自分自身の誕生日を祝って欲しいというケーキが出てくる。まだ二年前の出来事で、悲しみから癒えたはずもないんだけれど、父も壁の向こうでだけ涙を流しててまいらも自分の部屋で眠りながら涙を落とす、という強さのなかの弱さもさらっと起きつつ、「夢ってええな、会いたい人にまた会えるもんな」で締められる。母と同じギャグを持ちネタにしながら、お笑いを目指すまいらの姿。最初にまいらが誕生日と命日のことを言ってなかったっけ、ととぼけるシーンがあるけど、まあ当然言ってないことを覚えてないわけがないよな。その後の牧場での話も、このエピソードを意識しつつ、まいらは何でも持っている、とうらやむ少女の悩みを描きながら、その人にはその人の積み上げてきたものがあるということを描く回で、母の死を意識させつつ劇中では言及されない語り口だった。

ガンダムビルドダイバーズRe:RISE
去年末に1stシーズンを今年四月から2ndシーズンをスタートさせたガンダムビルドシリーズ最新作。1stシーズンの衝撃的なクライマックスから続いて、堅実な物語を着実に進めていくという感じで、絵的にそんな突出したところは感じないんだけど、地味ながらもとても良い作品だったと思うし、ビルドシリーズとしてもウェブアニメだったからか、なぜか異様に見られていない様子なのが不思議な作品だった。全体に、バーチャルやごっこ・神話という偽物・フィクションがさまざまな過程と再起を経て本物になっていく物語で、ゲーム、遊びだと思っていたのがそうではなかったことに直面し、挫折、痛みを抱えた人たちが再起する、VRと現実の二層構造がある。ヒロトとヒナタが最後まで直接かかわらないんだけど、ゲームだと思っていたら繋がっていたように、まがい物だったビルドダイバーズが認められ、ヒロトとヒナタの別の場所での戦いをネット配信が隣り合わせにするっていうのを描いて、さまざまな別の場所からのコメントを動画に映し出す25話は綺麗な流れだ。そして全員合体。定番と言えば定番だけど、仲間との信頼にくわえ、隔てられたもの同士の関係、境界をずっと描いてきたからこその強度がある。最終回は「時を超えて私たちの命を見守ってくれる存在」への感謝を捧げる空渡しが、アルスの再会とイヴの再生としてのメイを繋げる。この再生がありつつ、宇宙に浮かぶイヴの願いを思わせるアーマーを映して終わるの、イヴの喪失から始まった物語を感じさせる。空にあるそれと一つ目の敵対の終わりで綺麗に閉じられた感じ。とにかくも、派手だけど大味単調で途中から興味が持てなくなっていく前作までに対し、地味ながら非常に丁寧なアニメだった。

かぐや様は告らせたい?〜天才たちの恋愛頭脳戦〜
ブコメ漫画原作アニメの二期、安定の出来で今期はリア充ヘイトの石上の物語を終盤のメインに据えてなかなかだった。話数としては三話、月と竹取物語の話しながら、言葉の裏を読んで何百年経ってもかぐや姫を諦めない、と強烈な作品性ごと絡めたメッセージをぶつけてくる回で、白銀の天文学者になりたい、というのも月にたどり着きたい、という含意だ。最終回にやるような話を三話で重ねて、新しい始まりを告げる、強い。七話、馬鹿みたいな話を圧倒的テンポで繰り出すギャグ回の冴えもありつつ11話、不器用な正義とみんなへの絶望からの回復、圧巻な回だった。あの石上が真のリア充は性格も良い、と知るまでにいたる物語、応援団が本当に人の背中を押す応援団だったのは良いな。石上の顔を隠す長い髪をかき分ける白銀と、前を向いた先に見える応援団の面々の顔、の顔の話。トレンディドラマ劇伴を万能楽曲として使い回すのここぞというタイミングで笑わせてくれる。最終回はかぐやのケータイ壊れた話から、失った自分だけの写真とスマホで共有されたそのみんなとのより多い写真、いい話だった。前半いい話すぎたので後半、もしやと思ったら予想以上にひどいものが来て、バカバカしい話からバカバカしい演出で出番なかったキャラ総出演させてジエンド、良いんじゃないですか。

白猫プロジェクト ZERO CHRONICLE
スマホゲームを原作としたアニメで、 神保昌登監督による全話脚本、project No.9制作。タイトルで本篇の前日譚なのはわかるけれど、完全オリジナルではなく原作ゲームに存在するイベントが元になっているらしい。白と黒の均衡を保とうという白と、この世界を変えてみせる黒の王子、秩序の白と混沌の黒。この二つの地上と天上の勢力があり、双方の主役格の人物同士が交錯し、そして、という物語だけど、地味ながらも何か独特のセンスがあり、セリフ回りの個性やとりわけ七話は絶大なインパクトがあった。二つの勢力がとりあえずの共闘で敵を倒した後、交流会が開かれて、衣装を交換したり味付けの違う両国の料理を混ぜるとよりうまくなるというかたちで両国の交流が描かれる六話の次回予告が、山菜しか映らない映像とともに「山菜採り」というサブタイトルが出てくる次回予告が嘘でしょってくらい面白い。しばらく前まで魔物と戦争やってたノリのままのBGMで「山菜採り」って出してくる。この世界タラの芽とか蕗の薹があるのか、と三話で突っこんだ時はこんな本気の山菜回がぶち込まれてくるとは思わなかった。そして七話、素晴らしい山菜だった。前回に対し今回は採取調理喫食の全過程を通じて文化や生活をともに体験するという異文化理解の掘り下げとなってて、通商の話も出たり戦後の平和的交流の意味を描く。ここが一番平和な回だった。シーマとアデルの、民の違いではなく個人の違いだと他者の理解レベルがあがる場面の直前にシーマの名を呼んでるのがテーマと繋がってて、また「このくらいの違いなら問題ない」と言うのも個性の違いの話で、似た言葉をアイリスが繰り返す。三度やるのはギャグだけど二回言うのは重要だからだ。しかし不平等の固定という「均衡」への闇の怒りが噴出して、白と黒がまた分かたれ、上と下の貧富の格差が強調され、最終的には白と黒の隔絶が崩壊し、空の上の島と暗闇の地上が混じって陽が差す大地が現われる神話的結末を迎える。

八男って、それはないでしょう!
なろう系異世界転生小説原作アニメで、サラリーマンがある朝目覚めたら異世界の五歳児になっており、それが僻地の貧乏貴族の八男だったということから始まる話で、この貧乏貴族の成り上がり物語、とにかく何かしらおかしい要素があって、ある種のトンチキさという点では傑出したアニメだったと思う。三浦辰夫監督、シンエイ動画制作。成り上がりつつある主人公のまわりが側室希望者とか友達を部下にしたりといった封建的関係ばかりなのはややアレだな、と思うところはあって、この話を真面目に語るとそうとう厳しいものになるんじゃないか、という原作の難点や稚拙さをとにかく面白くしようとしているアニメなんじゃないかと思った。原作は知らないけど。いろいろ面白いけど特に九話は毎分なにかしら面白い絵面や演技がでてくる楽しさが最後まで続いてなにか確変起こしたみたいな回だった。息つく暇がない。とにかくものを食べるヴィルマという新しい婚約者が自分を養うに足る甲斐性を持っているかを観察していたという話から、カマトロカマトロカマトロカマトロの場面、あるいは小さいヴィルマが巨大なマグロを一匹持ち上げて部屋に入ってくる絵はめちゃくちゃ面白かった。八男九話、で画像検索すると出てくる。10話の鉄の塊がとつぜん出てくるのもかなりいい。最終話も、懸案の兄との確執が演出も演技も過剰さと茶番感で笑うしかない場面になっているのも面白かったけど、キメの場面でOPがかかる定番演出が、このアニメだとゆっくりとフェードインしてくるのはちょっと類を見なくて笑った。異世界で所帯じみた和食へのこだわりが独特のおかしみを出しているんだけど、知らない土地に味噌醤油工場を建て、転生前に食べようと思った豚バラ味噌炒めをみなで食べることができるというのが、この世界に馴染むための方法だったというオチになる。デーモン小暮のOPもだけど、EDが新居昭乃AKINOAKINO from bless4とのコラボってダジャレ企画というのもかなり遊んでる。

●ギャルと恐竜
ギャルと平然と一緒に住んでる恐竜、という漫画原作アニメで、ポプテピピックとも一部共通するスタッフによって制作されており、前半のおそらく原作に準じたアニメパートと、ポプテピ同様さまざまな技法で制作されたショートアニメ、そして実写パートで構成されている。賛否分かれるのは後半の実写パートで、ギャルと見栄晴を置き換えた、見栄晴と恐竜の共同生活が描かれる部分と、蒼井翔太が出てきてポプテピピックネタと繋げたところだろう。ギャルの元彼が翔太だから蒼井翔太なんだろうとは思うしポプテピピックネタはさすがに私もちょっと、と思ったけれど、見栄晴パートは良いと思った。なぜかおじさんと恐竜のほんわか同居生活ドラマがぶち込まれて、なんか楽しそうでこれはアニメではレアなポイントを突いてきたなと。ギャルで描かれるようなポジティブな生活を年のいったおじさんがやっててもいいじゃん、みたいな。男の趣味を女子高生がやるネタは数多あるけど、ギャル生活をおじさんがやるというのはあまり見なかったのでその点で面白みがある。とはいえ、見栄晴が出なくなるとよくわからん芸人の厳しいネタとかになったりしたのはちょっとどうかと思った。新型コロナの影響で今クールで七話まで放送され、秋クールにリスタートし最後まで放送されたのは、この後半の実写ドラマの撮影に苦慮したからかと思われ、終盤では猫で十分持たせるとか、当初の予定ではなかったのではと思うところもある。ネコと恐竜がじゃれあうだけで10分持つだろの精神、間違ってない。最終話は、見栄晴は恐竜と無駄な時間を過ごす幸福さをもう得られないけど、その幻の思い出が暖かいマフラーに象徴される締めだった。

●A3!
冬クールに放送開始したものの、工程上の問題と新型コロナウィルスの影響で四月から仕切り直して放送された。P.A.WORKSStudio 3Hzの共同制作で、今年のPAアニメとして話題になったのは別のアニメだけど、安定感があり面白いのはこれだったんじゃないかと思う。役者育成ゲーム原作アニメで、演劇の街、天鵞絨町で取り壊し間近の劇団MANKAIカンパニーを復興させるために主人公が主宰兼総監督にとつぜん任命され、メンバー集めから始めることになる話。春夏秋冬と四つの組に分かれ、四月からのクールで春組と夏組、秋からの二クール目で秋組と冬組の話となっていて、各組六話ずつ四部構成の作品となっている。演劇をめぐる四つの物語で、始まりの春組でベースを作って、夏組ではドラマと演劇の違いを演劇がリテイクできない一回限りのもので最高の自分を見せられないというトラウマを克服する話で、一回限りだけど何回だって舞台には立てる、というのも面白い。秋組は沢城千春と武内俊輔、カリギュラのコンビで、そこそこできても熱意がない、熱意があっても技術が足りない、デコボココンビが良かった。冬組はまた個性が強い上に、SF設定でループが始まって驚いたけど、演劇は幾度も再演するものだし、OPがCircle of Seasonsと四季の円環を示唆するモチーフ、なるほどループものときわめて親和性が高い。韻を踏む、もそうだ。冬は心を覗くメガネとかファンタジー要素が強く、ややキャラの掘り下げにアンバランスなところがあったけれど、よくある話でも引き込まれる劇中劇の強さと大団円で終わった。組ごとで言えば、マイポートレイトでの告白劇を展開にうまく使った秋組が印象深い。

四月一日さん家と
Vtuberがドラマをやる独特の企画の二期。生子という血のつながりがある妹かも知れないキャラの新登場と、二葉がカラオケバーの雇われママをやることで、人にも場所にも新しいものが増えた。家族の色んなヤバイ話がぼろぼろ出てくるのもなかなか面白かったけど、三話はあの樽美酒研二で一話やり通す。「私今樽美酒さんに会えるレベルの女じゃない!」という三樹の面倒くさいファンぶりが出まくってて笑ったけど、一花がざっくりと電話切るタイミングでめちゃくちゃ笑ってしまった。狂気を感じる瞬間だった。四話の恒例となった漫才回では練りに練った三樹のテクニカルな漫才対生子の一発ギャグの構図が、一花と生子の思いつきに高度な解釈者がツッコミを入れるという形に落ち着くのが面白い。「バンダイナムコガンダム」ってネタはかなり面白かったけど、演者の人が採用されたのに驚いてるってことはアドリブだったんだろうか? 作中でアドリブ芸をやるところでマジのアドリブ入れるの、gdgd系の発想を上手く消化した感がある。そういえば、一期のモチーフが先送り・遅延だったとすれば、二期のモチーフは別れた・失ったものが帰ってくる、というものだったのではないか。父、ドミノ、生子とか。

●継つぐもも
お色気バトルアクション漫画原作アニメの二期。だいたいいつも通りという感じだけど、三話は百合回としてなかなか印象深い。憧れの相手が入れかわる二段構えの話運びが相思相愛の百合に帰結する。男を介して友達に勝ちたいという同性しか目に入ってない話かと思ったらお互いがお互いに憧れてて、どちらも相手を目指すことでいまの自分ができている。他人で自分を計ろうとするなというのを結論と思わせて、自分の価値をお互いに預けた同士の二人という関係性を出し、最後にまたしろうの価値判断の一貫性を見せる対比になっている。で、たぶんしろうは自分の価値に対してブレがないからこそ恋人ができない。それはそれとしてしろうはクズ。終盤の展開は母親をめぐる重いエピソードで、死んだはずの母親があまそぎとして復活することで、これまでやってきたすそがえしの仕組みがかずやの最大のハードルとして立ちはだかる、いいクライマックスだ。ちょっとエヴァを思い出すなと思ってたら「でも、母さんなんでしょ?」のかずやの演技が一瞬シンジくんに聞こえた。とはいえ、一名の犠牲者を出し再起不能のパートナーを抱えて、これから厳しい修業に向かうエンドは締めくくりとしては暗い。作中で三年の時限を切ってるけど、実際にこの三年後に三期をやったらすごいとは思う。

●グレイプニル
ゲーマーズ、Just BecauseのPINE JAM制作、魔法少女なん てもういいですからや鬼灯の冷徹の米田和弘監督による、バイオレンスアクション漫画原作アニメ。今年で言えばダーウィンズゲームとも近い感触だけど、着ぐるみに変身する主人公のなかにヒロインが入って、合体して興奮しながら相手と戦う性と死が直結する趣向がある。二話のアクションのコンテが結構特徴的でよう動くと思ったらコンテに江畑諒真。話の筋が頭に入らなくなるような絶対笑っちゃう場面と性的嗜好のオンパレードが展開される回があったり、ダーウィンズゲームにある程度あった知能要素をエロに全取っ替えしたみたいな感触だ。夏、廃墟、薄着、血と体液と汗と臭いのフェティッシュが張り巡らされたアニメで、ワンクールで全然終わってないけど、なかなか楽しい。

●球詠
きららフォワードの野球百合漫画原作アニメ、事前の絵柄がなかなか、と思ったらこのすばの菊田幸一キャラデザでなるほどとなった。すごいガタイのいいキャラデザで、原作の絵柄の筋肉質なところをより強調した感じだ。百合漫画要素とともに野球の戦略をかなり真面目にやってて面白いけど、時折場面が手早く進みすぎて何がどうなったか飲み込めないところもある。野球そんなに詳しくないので。七話はのんびり野球同好会をやるifルートでも楽しかったかもというの、きらら系列の今作自体のこととも読めるし、どちらの可能性も否定せずに今ここにいることの肯定がいい。しかし、自分たちだけで楽しくやりたいという影森の理論、百合漫画だから出てくるアイデアって気がする。だから投球を真似るのが嫌がらせになる。相手カップルを揺さぶる戦術。一応原作漫画も配信で追ってるんだけれど、ざっと読んでると誰が誰だかわからなくなってしまうので、アニメで整理されるのはわかりやすいな。

本好きの下剋上
二期というか2クール目は階級社会で生き抜く平民をやっていく神殿篇。安定して面白いけれど、「働かざる者食うべからず」というフレーズが二度ほど出てくるのは結構気になった。18話で、人権思想のない時代に救貧事業をいかに行なうか、というところでこれまでさんざん描かれたマイン自身のエゴイズムを理由にするのは説得力があるんだけど、何度か死にかけてるマインが孤児の話で働かざる者食うべからず、と唱和するのはグロテスクな響きがある。労働と生存を結びつけるとたやすく反転してしまうからだ。ここで気づいたんだけど、この作品、本質的に起業家の話だと。思えば今作はずっと発明とビジネスの話なわけで福祉事業もその一環だということかな。そうすると孤児の解決と働かざる者、の理念が結構重要な背骨のような気がする。身体が弱いことと知的労働では高い能力を持つことと怠惰を排するマインドがあわさると案外にきわどいかも知れないところはある。終盤で貴族パートが始まって、ファンタジー色が一気に強くなった。トロンベの正体とかこの世界設定の裏側がいろいろざっと出てきて、世界が広がっていく。そしてやはり転生ものは前世との別れの再確認でクライマックス。階級社会の上昇が無傷でできるわけもなくマインは二度家族と別れることになる。

その他――
シャドウバース、カードゲーム原作アニメで来年もまだ続く。アリスとミモリという二人をめぐる四話や八話の百合風味回が良いんだけど、全体的なストーリーは三クール目でなんだか大味になって今ひとつ興味が持てなくなった。
アニメぷそ煮コミおかわり田辺留依主演ショートアニメ、今期もなかなか楽しいし、デフォルメの感じが良い。
波よ聞いてくれ、沙村弘明の漫画原作、サンライズ制作アニメ。主人公が喋り倒してすごいけど、こう言うノリが好きか嫌いかでいえば嫌い成分多め。まあそれなりに見られると思ったら、終盤、北海道の地震が扱われる。異常に本番に強い主人公が生放送のその場にいることを踏まえて災害時インフラとしてのラジオの意味を描いてくるのは感動的だった。ライフラインが寸断されても繋がる波としてのラジオ。面白いけどややしゃらくさいなと思ってたら最終話で急に真面目になるのはズルい。
神之塔 -Tower of God-、韓国漫画原作アニメで、一話はピンとこなくて見ないかなと思ったんだけど二話からは個性的な仲間たちが増えてコミカルな能力バトル・試験ものとしてわりと楽しくなってくる。ザハードの姫二人の関係も結構百合めいているけど、トカゲさんやワニさんがなかなか萌えキャラしてて良かった。
俺の指で乱れろ、今期僧侶枠は美容室が舞台で、僧侶枠でメガネヒロインは初だろうか。カナメ君という当て馬キャラが言い寄ってくるかと思ったらただ楽しくゲームの話して主人公に自信を持たせる役回りになってんのびっくりした。僧侶枠で当て馬のほうが倫理的だった例、初めて? たんにすごくまともな人間だったゆえに当て馬役がこれだけ応援される僧侶枠も珍しい一作だった。幼い頃の関係から今にいたる物語も、強引に襲うところがなければ綺麗なんだけど、これ僧侶枠なのよね。CMで今作を見ているというカナメ君、ドMか何か?
啄木鳥探偵処石川啄木が探偵をやるという推理小説原作アニメで、石川啄木がいかにクズかということをこれでもかと描写するところが面白く、そんな彼に付き添い、時に喧嘩したりもしながら啄木を愛してやまない金田一京助を描いたBLアニメのおもむき。文豪とアルケミストも四話五話の本という恋人に心奪われていることに嫉妬する内山昴輝が出てくるBLパートがなかなか面白かった。借金文豪クズ逸話、こっちは太宰と檀一雄

気になった
かくしごと
久米田康治原作。 村野佑太監督で亜細亜堂制作は異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術の組み合わせ。畑健二郎は新婚漫画を描き、久米田は親子漫画を描く。父子家庭で父は下ネタギャグ漫画を描いてることを娘に隠していて、という書く仕事も隠し事も両方フィクションにかかわってる組み立てでまあまあ面白いんだけど、気になるところも多い。金持ちの貧乏ごっこと無自覚ハーレムを掛け合わせるところとか、隠し事含め父は娘のためを言いながら娘の気持ちを無視していて、娘こそ父をケアしてる構図になっているところとか。これ見よがしのヘイトを集める編集キャラで話を回すのも結構どうかと思った。今作への違和感は、作家の繊細ぶった自虐という自己中心的振る舞いを娘の聡明さが支えている上に、一方的に振り回した挙句に娘に自身を肯定させる美談というのは、さすがに作家に甘すぎないか、というところ。編集の描き方にしろ、なんかそういうだらしなさを感じてしまう。七年経っているとはいえ目の前の娘が誰かわからないところとか、姫が一番大事だといいながら漫画を通じてしか思い出せなかったところとかの、絶妙に可久士を言ってることとやってることが違う人間として描いてるようなところ、意図的なんだろうかよくわからない。

夏(7-9月)

●Lapis Re:LiGHTs
「ラピスリライツ 〜この世界のアイドルは魔法が使える〜」というメディアミックスアイドルプロジェクトでゲーム、コミックス、ライブその他で展開されるうちのアニメ作品。ゲームはまだ出てないけれどジャンルがRPGで、アイドルと魔法を掛け合わせたコンセプトがあって、魔女と呼ばれるファンタジー世界でのアイドルは魔獣とも戦う存在でもある。監督はゆるゆりOVAや三期、最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。の畑博之、シリーズ構成はラノベ作家のあさのハジメと、アニメネコぱらの各話脚本の土田霞、キャラデザは池上たろう、制作は30分アニメのテレビシリーズの元請けとしては初?となる、横浜アニメーションラボ。夏アニメで一番良いと思った作品で、本数がやや少なめだった時期なのもあって、毎話四五回は見返していたので今年一番周回したアニメだった。何が良いかというと、前半はとにかくたくさんキャラが出てくる美少女アニメでひたすら魔法を使ったドタバタコメディをやる楽しさがあることだった。ファンタジー世界の背景とあわせてキャラデザや作画含めた全体的な絵づくりの良さとともに、メインキャラクターでも六ユニット二〇人を数えるという多キャラを巧みに捌いていくのも鮮やかで、一話の魔法学園風景の面白さや二話で街のなかをアヒルを追って走り回る舞台紹介のあと、魔法ドッジボールで各キャラを魔法や特技の紹介とともに性格もあわせて描写する三話がとりわけ面白くて、美少女アニメとして求められるものすべてが詰め込まれてる!と感激していた。とにかく絵がよくてテンポもいいので何度も見てしまう。
 物語としては、魔女に憧れ城を飛び出して街にやってきたティアラという少女が、王女という身分を隠してフローラ女学院に入学するところから始まり、落ちこぼれのラピスランクの魔女候補生の班に入って、退学の危機を脱するために頑張るという話。前半はそうして奮闘しつつ、既にユニットを組んでオルケストラと呼ばれる歌とダンスのライブ活動を行なっている学生たちとふれあう様子が描かれていて、その段階では自分たちもまだオルケストラをやる、という意識はなかったんだけど、各ユニットの回を経てオルケストラを多く目の当たりにしたことで、ティアラたちもまたオルケストラをやろうという意識が生まれて、これまでかかわってきた別ユニットの人たちとともに一歩歩き出そうとする。ここまでで七話をかける前半戦となる。
 LiGHTsというのがティアラたちのユニット名で、ティアラが憧れる伝説のユニットがRayという名で、本作では光がメインモチーフになっているとおり、昼や夜、そしてそのあいだの無数の段階の光加減の光景が綺麗に描かれてもいる。七話はユエの背中を押すエリザの場面で提灯に灯がともり、直後の夕陽が映される場面では二人が夕陽を中心に場所を入れ替え、立場を変えるのは、輝きをめぐって歌に込められた思いを語る象徴的な絵だ。このシーンはその前のエリザとユエのシーンから立ち位置が繋がっていて、右にいる送り手と左にいる受け手の立場が入れかわる、つまりエリザに対してユエが受け手から送り手に成り代わったようにティアラもまたそうなる、というシーケンスになっている。光を受取り、光を放つ側になるということ。次話の八話で自分たちのユニット名を決める時に、展望台で悩んでいる間に少しずつ陽が沈んでいく様子のあと、街の灯がついたのを見てLiGHTsという名前が決まるのはRayからLiGHTsへという流れを現わしていて、この街の光になる、という意思が込められている。オルケストラというものが街に活力を賦活し、それのみならず外部の魔獣から街を防衛する力にもなるという設定はここから意味を持ちはじめる。そして終盤はオルケストラの成功にもかかわらず、得点範囲外のため本当に退学させられてしまう展開になる。ティアラが王女だという真実、街の子としてのLiGHTsが街の外へ一端追い出される、という展開を経て、自分たちのやるべきことを見つめ直す過程になっていく。そういうシリアスな話なのに、そもそも退学の危機にいたるところに理事長室から地図を盗んだ減点も大きかったし、王城への不法侵入はやるし、ティアラと合流したと思ったら王宮のごちそう食べてのんびりくつろいでるすっとぼけた様子が描かれたりするのが本当に面白い。このアニメ、アイドルものに魔法を組合わせたことよりも主人公チームがアウトローの限りをつくすほうが新しい要素なんじゃないだろうかと思う。長くなったのでここら辺にするけど、ラピスリライツの魔獣はある種の自然現象というか、個人的には心理現象の寓意みたいに捉えて見ていた。魔獣に象徴される陰鬱さに、輝き、明るさで対抗するという構図、つねに不安と恐れとに苛まれがちな精神を賦活する輝きとしてのアイドル。ライブでの盛り上がりが魔獣という陰鬱なものを吹っ飛ばす、これほどわかりやすい設定もない。厳しくも優しい世界で、前半の日常も後半の苦境でもつねに楽しさを忘れないつくりはとても良かった。生きていくために必要なことの話というか。そう思っていたらノベル版を読むとまさにそういう設定で、アニメでも終盤の展開はそれを踏まえたものとなる。自分自身のことを理解して、目標を正しく見定め、できることをできる範囲でやって、そのために他人と協同していく、というとなんかひたすらベタな話だったかも知れない。個人の自立や自己の確立は他人との協同なしにはできない、という。世界設定自体がライブによって生きる、生かされるというテーマがあるのに情勢からライブが難しくなってしまったのはよりテーマ性が際立つことになったようにも思う。なんにしろ、とても楽しく、良いアニメだったという印象がある。夏は延々ラピスリライツのことについて書いていたので、以下ツイログも参照。ツイログで三ページあるのも他のアニメの数倍なんだけど、各ツイートに連結で長々書いてたりするのでさらに数倍いろいろ書いてる。
東條慎生になりつつある(@inthewall81)/「ラピスリライツ」の検索結果 - Twilog
主題歌もすごい良いし、劇中歌収録のアルバムも良い。LiGHTsの曲が700,000,000,000,000,000,000,000の空、という巨大スケールなのも面白いし、セブンハンドレッドセクスティリオンから6000日、五億秒、という莫大な数がつねに一歩、一番とという「一」と対比されてて、最後に一日、新しい一日目というところに収斂していくのが印象的だった。いやしかし、キャバレー部とか、電気あんまとかはなかなかすごかったな。電気あんま、完全にプレイじゃん。

●放課後ていぼう日誌
女子釣り漫画原作アニメで、大隈孝晴監督、志茂文彦構成、 熊谷勝弘キャラデザ、動画工房制作。熊本県芦北町がモデルになっているらしく、熊本県出身の篠原侑神田川JET GIRLSに続いて熊本弁キャラとして今度は低い声のキャラで活躍しているのも見所。主人公陽渚が父の故郷の熊本に越してきたところから始まり、堤防で釣りをしていた黒岩部長と遭遇したことで、強引にていぼう部と呼ばれる釣り部に入ることになり、この初心者陽渚を含めた部員少女四人が釣りをする。ややレトロさを感じる絵柄はチャンピオン系列の雑誌連載らしいとも思われ、そして釣りそのものやり方や海釣りの注意点、安全講習などもしっかりと時間を取って描かれている。
 七話が部にも慣れてきた陽渚と幼い頃に遊んでいた夏海という二人の関係を掘り下げる回で、陽渚の表情が多彩なのに加え、日焼けした快活な夏海が眼鏡を掛けてて成績も良いというギャップを出してくるのがなかなかの良さ。夏海をなめてかかってた陽渚の良い性格ともども面白い。ここで魚のぬいぐるみ、毛糸のルアー、手芸趣味と釣り趣味が二人を通じて重なって、部と日常も釣りで繋がる。九話は水難事故と環境問題が扱われ、海釣りの危険性と救命講習会でのライフジャケット着用の大事さが描かれ、後半では釣り糸が絡まったアオサギを見かけ、環境問題に心悩ませる陽渚が自分には大きすぎる問題を自分のスケールで向き合う、釣りの危険と害の話になっていたのも趣味漫画として非常に真面目な姿勢だ。11話では自分なりの方法を自分で見つけることと、部長の教育者ぶりが描かれていて、虫餌でも虫嫌いでも釣り方に貴賤はなく、方法は違うだけでそれぞれのやり方がある、というバランス感覚は最終話で陽渚の元々の趣味の手芸に戻ってくる、という形でも発揮されていて、陽渚が釣りにはまった物語だけどその土台には手芸趣味があってというのを大事にし、陽渚は楽しいことが一つ増えたと帰結するのは上手いオチだった。「ぎゃんしてぎゃんしてこぎゃんすれば」の熊本方言のリズム感あるフレーズが非常に面白かった。

●魔王学院の不適合者 〜史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う〜
小説家になろうで発表され電撃文庫から刊行されたラノベ原作で、アンジュヴィエルジュつうかあの田村正文監督、田中仁構成、シルバーリンク制作で総監督が大沼心というスタッフ。平和を夢みて2000年後に転生した暴虐の魔王が自分の知っている歴史とは異なる歴史が支配しており、魔王の血を継ぐ者こそが高貴という差別的社会にもかかわらず魔王本人が不適合者とされてしまう謎を追って話が展開していく。強大な力を持つ魔王アノスがその物怖じしない行動で騒ぎを起こしつつ、くだくだしい説明よりも面白絵面を爆速で見せていくテンポのよさで進んでいくのが面白くて、二話の城を片手でコマのように回していく場面や三話の壁をただ普通に歩いていってぶち壊して進んでいく場面は今作のおかしな魅力を象徴する箇所だろう。序盤は最初の友達で寡黙なミーシャと、その双子の姉サーシャをめぐる問題を解決していくんだけれど、ミーシャとサーシャをめぐるこじれた姉妹百合でもあって、マシマヒメコ役夏吉ゆうこがここでも金髪で屈折した性格のサーシャをやっていて、役柄が明確になってきた感がある。相手が助かるためにずっと嫌われようとしていたほど好きだったそんな少女の仲を取り持つ魔王には過激派百合オタクも文句は言わない、かも知れない。七話ではアノスのファンユニオンという存在の感動的な姿が描かれていて印象深い。頭おかしい応援歌がシリアスな状況でまさに自分たちを鼓舞する歌として現われるのは随一の良い場面だった。前世の因縁から勇者と魔王の転生BLの様相を呈してくる終盤戦から最終話で、魔王と勇者が手に手を取って憎悪の循環を断ち切る良い話になった。「人間が魔族を憎んだのではない、お前がおれを憎んだのだ」、差別と憎悪とその煽動を切り離す主語の確定。ファンユニオンの応援歌とともに愛が世界を救う、をマジでやる強さがある。徳の高い話ですよ。「殺したぐらいで、俺が死ぬとでも思ったか?」のようなセリフを恒例にする鈴木達央魔王がなかなか面白く、一度OPの歌唱を乗っ取ったのは笑ったし、それはラジオでゲストに来たCIVILIANの人が言うには自分から言い出したことだったという。

●異常生物見聞録
中国のウェブ小説を原作にするアニメで、音楽少女の西本由紀夫監督など一部のスタッフ以外は中国で制作されていると思われる。久々の中国アニメで、これがなかなか楽しい。天地無用をちょっと思わせるような、異種族との同居とSFスケールの設定が絡んだ話だけれど、異種族を「異常生物」と名づける倫理感のない用語法は中国語ならそこまで変に感じないのかどうかがちょっとわからない。お人好しの主人公好人が両親の残した一軒家の部屋を人に貸すことで生計を立てようとしていたところに転がり込んできた人狼のリリと、人の血を吸わない吸血鬼ヴィヴィアンたちとの生活というところから始まるんだけど、どう見ても日本ではなさそうな一話の情景が「八王子」となっていたり、中国アニメらしい絶妙にトンチキなセンスが楽しく、リリとヴィヴィアンの喧嘩百合めいたやりとりも良い感じで、ポンコツかトンチキしかないゆるっゆるな空間で、昨日靴下替えてない人がいる!とか無限に下らないやりとりが湧いてくる良さがある。中盤ちょっとだらっとしたところもあるんだけど、一瞬シリアスな曲もかかっても最後まで気の抜けた曲が鳴り続けてて緊張感がまるでないところもこのアニメの特徴の一つで、宇宙に行くにも惑星に墜落するにも劇伴がほのぼの日常楽曲で通されてるのが凄すぎる。劇伴が全てをギャグにする! これはなかなかないですよ。11話の好人たちの戦いと全然無用な工員たちとの麻雀を小刻みに映していくセンスはすごくて、ここで麻雀が映る意味が全然わからないんですよ。でも麻雀なんですね、卓を囲むという。同族だから、とリリを攫いに来た連中の一点張りに対する、異族でも家族だから一緒に居る、と応えるあたりに芯がある話でもあった。お人好しの大家さんのために頑張って家に灯りと食べ物を用意してくれるみんなの暖かさが良い話すぎる最終回で、メンツも揃ってこっから本番だろ。続きをやれと思った。ハーレムものっぽい構図なのに、好人にいっさいラブコメが始まらないのも独特で、気が抜けていて緩くて暖かい作品だった。そしてリリ洲崎綾とヴィヴィアン夏吉ゆうこの異種族百合です。しかし、これは良い意味で言うんだけどこんな気の抜けたゆるい話が中国で大人気なのかと思ったらPVは2100万で、霊剣山の20億と比べたらさすがに桁が違っていた。悪偶とか銀の墓守りとかが億単位なのでそれに比べれば小粒ではあるか。中国語ミニアニメパートもなかなか印象的で、「私が貧乏なのは宇宙の意思ですわ」は名言のひとつ。

●GIBIATE
2030年、ジビエと呼ばれる怪物になってしまう感染症が広まった終末世界に、江戸時代からサムライ、ニンジャ、僧兵がタイムスリップしてきて、現代世界の人間たちと生き残りを賭けた戦いが始まるオリジナルアニメ。 天野喜孝古代祐三SUGIZOといった有名クリエイターを集め「和」をアピールするビッグプロジェクトの感がありながらもアニメは非常にB級感あふれる風合いで、それも合わせて色んな意味で面白いアニメだった。普通の意味で人に勧めるアニメではないんだけど、期せずして時事的になってしまったテーマ性とオモシロアニメーションぶりはやはり一見の価値がある。2020年をある意味で代表する一作で、ジビエートの残したインパクトはそう簡単には忘れられないだろう。一話は配信版を見たせいでOPとEDをほとんどフル尺流す暴挙にすべてが押し流された。OPのダイジェスト映像がいつまで経っても終わらないのに笑いが止まらなくなり、大黒摩季のEDで最後に天野喜孝古代祐三SUGIZO吉田兄弟大黒摩季を実写紹介する映像が流れてとどめを刺された。この一話では作品を踏み台にして有名クリエイターの宣伝やってんじゃねえよと怒りを感じるところもあったんだけど、二話の前回フルで流れたOPが20秒程度で終わった衝撃、「また焼酎あげるよ」「芋しか受け付けねえぜ」「蕎麦も良いぞ」のやりとり、時代劇BGM、大空に笑顔、何もかもが面白く、豪華スタッフ陣から送り出されるB級アニメの味わいに気づいてからは終始楽しく見られるようになった。四話のOPから本篇が始まる演出は驚きで、OPを半分以下にカットした回があったと思ったらOPに本篇の内容を突っこんでくるの、やることが自由すぎないか? 爆弾魔が料理を習ったら何からでもカツカレーができる、というわけのわからないくだりも面白い。火薬とカレー粉が似てるから両方作れるっていうのは、ほんと、どういう?粉を混ぜるからか?作画にしろロジックにしろ、とにかく独特のものがある。池田秀一の声も面白くてちょっと浮いてると思ったら実際に異質な存在だったという展開も笑うんだけど、「こういう結末もアリってことだ!」のあたりの締めの展開はちょっとどうかと思うところがありつつも、「こんな世の中だからこそ、希望を持つんだろ」「また会おう」。終わり良ければすべて良し、というラストだった。一話でも無駄とも思える戦いについて、ヒロインが「意味がないとは思わないわ。だってね、私たちはまだ生きてる。明日もまたきっと、生きるために戦っているんだから」、そういうアニメ。吉田兄弟のOPはかっこいい。

モンスター娘のお医者さん
ラノベを原作とする、異種族を治療する医者を題材にしたお色気アニメだけれど、エロ要素だけでない内容もあり、なかなか悪くない。岩崎良明監督、白根秀樹構成、アルボアニメーション制作。主人公の声、ちょっと石田彰に聞こえる時がある、土岐隼一って人。モンスター娘という通り女性を診察という医療行為の体でエロを入れつつ(ここが倫理的にはアレだけど)、患者やその種族の特性などを描いていく話。アラクネのアラーニャが親友の思い人を寝取ることで親友との繋がりを一生消えないものにしようとするの、男を介した百合というやつだろうか。アラーニャのバイセクシャル性や、自分を隠して相手を試すような行動を繰り返すところ、マイノリティの性格描写にも見える。

炎炎ノ消防隊 弐ノ章
昨年に続き二クールで放送された二期。世界の謎に迫りつつ独特のセンスがあって、シリアスな時に入るギャグにちょっと中国アニメ感がある。騎士の妄想で本当に強くなるアーサーが「バカで良かったー!」とか、個性の尊重の仕方に個性があるんだけど、特に今期で印象的だったのは17話。弱いものをいたぶるのが好きなイカレ野郎が、強くなれ完璧になれと親からのプレッシャーに押し潰されかけていた子供に、お前はまだまだ子供だ弱くあれ、といって救ってしまうというのがうっかり感動してしまうエピソードだった。弱いものいじめの悪役が子守をして月が壊れるの、ピッコロと孫悟飯を思いだす。17話の「少年よ、弱くあれ」は名サブタイトルだと思う。こういうひねくれたトリッキーな倫理性は今作の特徴のように思う。最終話の「アーグ大隊長の死は、ドMということもあり自殺として処理されることになった」という真面目なモノローグっぽく言うところもメチャクチャで笑ってしまう。

その他――
ゴッドオブハイスクール、朴性厚監督、MAPPA制作による韓国漫画原作アニメで、格闘バトルものをMAPPAらしく凄まじい作画と独特のギャグセンスで描く。中盤あたりまでは仲間同士の関係や、38歳の高校生などの話も面白かったけど、終盤はどんどんスケールがでかくなっていってよく分からない感じになる難点がある。
恋とプロデューサー〜EVOL×LOVE〜、中国ゲーム原作アニメで、境宗久監督、MAPPA制作、アバンで主人公の少女が車に轢かれそうになるところがゾンビランドサガ感。格好良くて社会的地位もある男たちがどんどん主人公ちゃんを助けていく乙女ゲーム感がある。服装や髪型も変わる主人公の良さや、異能力を持った男子たちとの因縁のエピソードの面白さもあるけど、プリンをファーウェイ(ではない)CEOがすり替えてまで食べたのにまずい、の一言ですげえ笑った。
デカダンス、一話はおおと思わせて二話でんん?と冷めてからはまあ面白いんじゃないですか?みたいな距離感のままだった。まあ良くできている面白いアニメだとは思うんだけど、あんまり思うところがない。デカいデカダンスでダンスすればもっと好きになれたかも知れない。
Re:ゼロから始める異世界生活、二期前半部分は白鯨戦直後からの一期の直接の続き。二期四話、29話の親子の話はとても良かったと思う。この和解劇自体がやろうともできない不可能なことだというのが悲しく、プレッシャーに潰されて無理をしてキャラを作ってあの感じが出てるスバルのリアリティは結構なものがある。父親のセンスを意識してできてない感というか。とはいえ違和感も結構強く、キャラに圧を掛ければいいってわけじゃないなと思うし、展開で追いつめまくったスバルの極限の感情表現が感情がこもっているがゆえに、見ていて「うるせえな」って思っちゃう。
巨人族の花嫁、今期僧侶枠。九話構成で展開されるBL僧侶枠。異世界から高校生晃一が巨人族カイウスに召喚されて花嫁になって子供を生んでくれと言われるすげえ導入。異世界、異種族、異性じゃない、三つのハードルを一挙に越えてくる豪胆さがある。設定も結構凝ってるファンタジーBLで、僧侶枠と言えば男が強引、時に無理矢理迫る展開がお得意なのにBLものだと展開に丁寧さが出てくる。わりとしっかりした設定の異世界らしさとエロ展開の便宜という相反する二面性があって、独特の視聴感をもたらしてくる。ロマンチックな伝承と重ね合わされた、世界を超えて結ばれる二人を描きつつ、傷ついた晃一の願いに対し死の時まで守ると約束するカイウス、やたら良い話だった。間男ポジが普通についてくるの笑う。
オオカミさんは食べられたい、九話のあとに三話構成の短篇を挾む形の今期僧侶枠二つ目。赤頭巾モチーフで、オオカミヒロインが赤頭巾主人公に私を食べてと強引に迫ってくる僧侶枠初の肉食ヒロインもの。スカート奪取おじさんという絶大なインパクトの存在から始まってスカート奪取おじさんで終わるの笑った。僧侶枠にしては暴行がないけどかわりに教師生徒の倫理面での問題が発生する。
宇崎ちゃんは遊びたい!大空直美が良い。

気になった
●彼女、お借りします
マガジンのラブコメ漫画原作だけども、風俗嬢に入れ込んでしまった話ベースで展開するのが驚かされる。和也は女性に振られた鬱屈から自分で頼んだレンタル彼女を非難して、その要因に祖母に彼女を見せたいというのがあるけど、その祖母は彼女を見てすぐ体の相性の話してるの発想が妊娠出産と直結しててアレだ。主人公が性欲駆動の人なだけじゃなくて祖母も含めて作品を駆動する価値観にモテ至上主義的、性欲先行のニュアンスがあるし、ミソジニーが何かを解説する話でも作ってるんだろうかと思わされるところがある。男の幼さをロマンチストだとして肯定するセリフを女性に言わせるし、瑠夏を虚言癖だと言ったのに男同士で嘘はつけないというのとか、悪い意味ですごいと思ってしまう。これはこれでありうる等身大の大学生なのかも知れない。それが面白いかは別として。とはいえキャラ作画やデフォルメ含めて絵的な面はとてもよい。

●天晴爛漫!
橋本昌和監督・構成のP.A.WORKSのオリジナルアニメで、明治後期のアメリカに漂着した発明好きの日本人と武士が、大陸横断レースに参加して日本に帰るための資金を得ようとする物語。序盤はなかなか面白いと思ったし、三話のブーストロケットは爽快で笑ったんだけど、話が進むに従って面白くなくなっていくアニメだった。キャラやら演出やら作画やらはさすがになかなか良かったりするんだけど、中盤あたりでなんかイベントのためのイベントが起こってる感じのする展開で、レースと相性の悪い話してるなあと思ったら、いつまでもレースに専念せず、動いたかと思ったら止まることの繰り返しばかりで、どうしようもなくフラストレーションがたまる。全員が立ち止まったなかでぺらい悪役が大得意で喋りまくるとか、レースを舞台にしているのに重要なところで棒立ち演説が入って動きを全て止めてしまうのは、作品の根本的な設計が失敗している気がしてならない。長距離レースのはずなのに、最終話Bパートみたいな短距離レースのメソッドしかないから途中に余計な話を入れたように見える。物語が題材を邪魔するようにしか組み立てられていなくて見てて苛立ってしまうので、出来以上に印象が悪い。

秋(10-12月)

コロナ関連で延期なりなったアニメがここに集中したのか非常に見る数が多いうえに一つ一つパワーがあるアニメが大変多かった。今年唯一、週に見ているアニメが30後半の数になった。まだ最終話見てないものもいくつか。上から体操ザムライあたりまではどれも年間ベストに入れても良いような作品が揃ったクールだった。見終わってない作品が幾つかあり、後に加筆するかも。

●アサルトリリィ BOUQUET
10年以上前から存在しているアクションドールシリーズがあり、近年舞台やアニメなどでメディアミックス展開がなされているもののアニメ版。放課後のプレアデス佐伯昭志が監督および全話脚本、あいうら灰と幻想のグリムガルの細居美恵子キャラデザ、シャフト制作。佐伯監督と聞いて普段アマゾンプライム独占配信アニメは見ないんだけれど、これは加入せざるを得なかった。ヒュージと呼ばれる巨大生命体が襲来する近未来、それを倒せるチャームと呼ばれる兵器と感応性が高い10代の少女がリリィと呼ばれ活躍している。ドールがそうだったこともあり、ふとももがとても強調された独特のキャラデザは印象的で、誰も彼もがスレンダーだった去年のアサシンズプライドと好対照になるかのようなデザイン。甲州撤退戦と呼ばれる戦いで自分を助けてくれた白井夢結への憧れから、主人公一柳梨璃が鎌倉にある百合ヶ丘学園(藤沢から小田急百合ヶ丘とは別の方向に向かって百合ヶ丘に着くのがちょい面白い)に向かうところから始まる。リリィで百合ヶ丘学園で、ユユとリリで百合百合だし、シュッツエンゲルという上級生との姉妹制度があり、百合押しがめちゃくちゃ強い。設定はストライクウィッチーズあたりの話と似ていて、この手のセンスはちょっと一昔前だなと思ったらじっさいにそうだった。序盤はなかなか良いとは思ってももう一歩欲しい感じもしたけれど、婚姻届を出したけど死別した前妻への未練もあって情緒不安定なのを受けとめてくれる後妻とのケーキ入刀かのようなシュッツエンゲル結成の巻の三話で一区切りがついて以後の四話五話あたりで非常に良いと思えるようになり、監督が言うように、話数ごとに夢結と梨璃の関係が少しずつ変わっていく話の密度や着実な積み重ねと、楓・J・ヌーベルの魅力など、さすがの出来で、特に八話の結梨のバトル作画は圧倒的でもあった。シュッツエンゲルという古典的な設定を用いて、夢結が既に一度シュッツエンゲルを結んだ姉を失っているというトラウマをいかに受けとめるか、という話にもなっていて、四話では自分に何もないと思ってる梨璃が自信がない雨嘉を見て奮起して神琳と雨嘉のすれ違いをかみ合わせる歯車になる回で、お互いを真に信じるからできる、物騒な対話劇が通じて、改めて背中を預けられる関係が描かれるように、二者関係がさまざまなパーツを用いつつ、真に相手を肯定し、受けとめるということに賭けられている。これはまたヒュージとリリィの関係もそうだろう。特に印象的な五話は、夢結が梨璃の故郷を訪れ、誕生日に彼女の好きなラムネを買ってくるという話が、梨璃の旅路を自らも往還することで相手のことを考えることと自分のことを考えることが描かれる。夢結の表情と心情描写に丁寧に尺を割いてて良い話数だ。中盤はヒュージから生まれた結梨という二人の娘?をめぐる物語になっていて、二人がケーキ入刀してヒュージを倒したから子供が生まれるのも当然?という文脈がある。このダブルアウトサイダーの子供は、自分が何なのかと言うことを問い、人間とヒュージの境界は何かを問う。そして結梨をめぐって百合ヶ丘学園のリリィたちが守るために動く、という個人と集団の協同が描かれるのも、ノインヴェルト戦術という協同作戦のモチーフと絡んでいる。結梨が海に消える九話は、生活の一断面としての朝の散髪から始まって赤い夕陽で終わるショッキングな回で、梨璃と結梨を照らす逆光が冒頭からEDでまで丁寧にリフレインされて、その光のなかに消えていく。ヒュージから生まれた人造リリィというダブルアウトサイダーが人として生きたことを証する過程。自分が自分でいることの矜持はこの話数での楓・J・ヌーベルもまたそうだった。11話での「自分自身を認められない人間はどうなると思う。憎むんだ。自分と自分以外のものすべて」が美鈴の自己否定の呪いとしてあり、夢結もまた囚われている。カリスマというレアスキルが支配と支援の表裏一体になっているのが人間の関係のそれとも重なっていて、その肯定に向けてお互いの関係が問い直される。ヒュージとリリィ、カリスマの性質、表裏一体の二面性ということでは美鈴の性格もそうだし夢結もそうで、二人のそうあろうとすることとそうあってほしいという関係はシュッツエンゲルの師弟的な関係のもつ性質でもあって、相手の身だしなみを整える描写の反復がそこを強調する。自分一人では自分を認めることはできないので他人との関係において自分の姿もまた変わってくる。最終話は上級生と下級生の混浴で梨璃と夢結がはじめて一緒に入る、というところから制服ポッドでの服を脱いだ素肌での髪と指を絡めた対話へ至る。ここで梨璃の夢結の元姉への解釈が語られるところが二人の関係の帰結だろうか。しかし、最終回も風呂を貫き通すアサルトリリィを見て、二者関係が重要な点でもかなりアンジュヴィエルジュを思い出させるものがあった。今年の新人としては百合アニメなどでめざましい活躍をした夏吉ゆうこと、この人が頑張っていると加点してしまう赤尾ひかるの二人なのは強いな。二人デュエットの五話のEDは良かった。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
ラブライブの新作はゲームを原作とした外伝的な一作。河村智之監督で横田拓己キャラデザ、EDのめばちは三ツ星カラーズの組み合わせで、そこに八月のシンデレラナインの田中仁が構成として入る布陣。キャラデザも大幅に変わり、そもそも今作ではラブライブの大会に参加しないという方針がとられ、グループアイドルではなく、個々人一人一人がアイドルとして活動するという、さまざまな意味でラブライブの「外伝」的性格の話となっている。九人のスクールアイドルをそれぞれ個別回を使って描くという破格の構成もゲーム原作らしさがある。
 一話からなかなか強くて、優木せつ菜というスクールアイドルを見た主人公高咲侑をフックに、かわいいものが好きな歩夢が自らもアイドルをやることを決意する一話だけど、幼馴染み同士が無限にいちゃついたと思ったら同じ夢を見ようと告白していつだって隣にいると返して綺麗に結ばれた話だった。ここで歩夢が「私の夢を一緒に見てくれる?」と聞いてるのが後半の伏線にもなる。二話の中須かすみ回で、侑が歩夢との間に最少のアイドルとファンの構図を設定し、みんなを誑し込んでいくのかという感じで二人に生じた少しのズレをとりもつ役目も果たし、かすみが同好会をいろいろな価値観を受け入れる場所にしたいとたどり着く。同時にかすみは自分が一番だと叫ぶことも忘れないのが良い。かすみは全話通して良いキャラで、相良茉優の独特の声もあって作画も恵まれている。三話のせつ菜回、生徒会長とアイドルの二面性を水と炎の属性を使ったライブや、暗所に光が差す表現がずっと続いていたのが雲間から差す光になって、私だけの光と歌うライブイメージで海中にまでも差し込む強い光になるのがとてもいい。みな、ライブやるとき決意とともに必ず上に昇る、階段を上る行動が挾まるのがとても「ステージ」っぽい。そしてここで、それぞれが自らの色で輝くという虹のモチーフが、ラブライブの競争に勝ち抜くためにはメンバーが一つの色にまとまることを拒否する理路になる。次の四話では、同好会という個々人の楽しいことの集まりのなかで、ソロはハードルが高いという愛が、みんなと一緒、ステージは一人じゃないからと言って、階段を昇るのではなく降りて、同じ平面でステージをやる、という自分のやり方を見つけ出して、ここまでとは別のやり方を見せてくる。そして果林と一対一で見つめ合うエマを経て、六話の璃奈回は個別回では特に印象的で、日常生活においてもアイドルにおいても障碍となる表情が変わらないというハンデを負った彼女が、表情を変化させるスクリーン付きマスクを被ってアイドルをやるという、ハードルを技術でクリアする話になっていてかなり興味深い。ネットを意識した繋がるという言葉通り、まさに通信こそ遠隔距離を越えて繋がる技術の歴史なわけだし、ハードルを技術で越えるという意味では正しい帰結だ。七話の彼方は姉妹関係が描かれるのとともに、中山直哉演出のダンスパートが印象的で、楽曲もとりわけ良いと思った。十話からは歩夢と侑の話に戻り、いろんなアイドルを支援してきた侑が、歩夢の側を離れていってしまう恐れから自分だけを見て、という感情が爆発する11話の圧のある演出は圧巻でもあった。ちょっと重すぎる気はするけど。そして歩夢の夢は侑から、侑の夢は歩夢から始まってる二人の話。みんなで歩夢のために作るステージでファンの姿を見ることで、侑との関係を依存とは違った明確な形にして捉えることができた感じ。二人が横の位置に立つカットが多用され、歩夢の夢を見る侑から、二人が別の夢を見ながら隣り合って前に進むという最終話の構図へと流れ込む。最終回のライブはこれまで支えてくれたあなた=侑の為に、個々の一人だった全員がはじめて一緒に歌う、というここに賭けられた一作という感がある。スタッフとして駆け回っていた侑はじめ多くのファンと会場スタッフ、そしてこれはゲームのプレイヤーのためのアニメだったのかも知れない。最終話は雨が降っても超常的に晴れをもたらす一期の神話性とは別のかたちを意図したようで、雨は急には止まない人間の物語としてあり、アイドルでない侑の夢をも並列に置く地上の物語だった。

ご注文はうさぎですか? BLOOM
OVAなどを挾んで既に三期となったごちうさの新作。主要スタッフは変わらぬながら、制作会社はホワイトフォックスキネマシトラスを経てエンカレッジフィルムズとなり、今まで以上にパワーアップした感がある。今まではきらら系の萌えアニメの極北という印象があったけれど、今作を見て、このアニメこんなに面白かったのかと大きく認識を改めた。元々、かわいさを突き詰めた作風でもあったけれど、三期に至る蓄積を経て、年も学校もバラバラな各人たちがそれぞれの進路を考えるという岐路に直面し、そのなかで親世代との関係や友人との関係が改めて描かれる。各回、最初くだらないようなことではしゃいでいた面々の描写が、後半になってガッとエモーショナルな情感に回収されていくような構成力は半端ないものがあり、毎回のように驚かされる。とりわけ五話、街中を走り回る二つのエピソードの騒がしいだけのようにも見えた話が、誰かが誰かを追いかける憧れや、子供が大人を、大人が子供を追いかけたり、大人が子供に戻ることなどの時間の循環を、回転木馬という円のモチーフに収束させるのはとても見事でびっくりした。この円のモチーフはOPの「くるんとひとまわり」という歌詞やEDの「○」というところにも通じているようで、中心的なテーマなのかも知れない。そしてこのアニメはいろんな服や制服を着換えていくのが着せ替えの楽しさ以外にも、未来、過去、あり得た可能性を纏い、いつもと違う顔を見せる、その他その他さまざまな意味を担って縦横に駆使されているのがすごい。服が時間を越え、親世代の話にも繋がっていく。私服のバリエーション自体も豊富だけど、プライベート、学校、バイトの多彩な面をそれぞれ着替えることで展開していく。ここまで服が作劇に用いられているアニメ、あんまり覚えがないな、自分が注意してないだけかもだけど。二人で踏み出せる、外の世界への新たな一歩、で終わるの、憎いね。

ストライクウィッチーズ ROAD to BERLIN
これもまた数年ぶりの三期、制作会社はdavid productionに変わっての新作となった。足にストライカーユニットという飛行装置を付けて空を飛ぶウィッチと呼ばれる少女らが、今期はベルリンに居座る敵性体ネウロイから祖国を奪取するという話で、話的には停滞していた印象の二期に比べて、明確な目標があるのがいい。特に二話は三期という蓄積があるからこそできるまるで最終回のような盛り上がりで圧巻だった。通常兵器のおじさん軍人達が決死の覚悟で意地を見せるAパートの息もつかせぬ緊迫感からB冒頭のいよいよの宮藤の発進、ピンチでの501結集と王道の展開を見せきる。四話は、一話掛けて描いてきた大切なバイクを一瞬で足場にしてルッキーニを助けるシャーリーの厳然たる優先順位が描かれる。スピードを操るには決断が早くなければならないわけだ。バイクもユニットも乗り換えるのは誰かを守るためだから、に落着する良い回、脚本は築地俊彦。六話はあれ、それってつまり減量?と思ったら鍛え上げた肉体で減量することで高速機動ネウロイに立ち向かう、という当人たちはクソ真面目だけど外から見るとギャグにしか見えない展開でかなり面白かった。最初の接敵BGMも格好いいし、基地でも静かな曲のままシャーリー出撃して抑えた雰囲気出してたら、最後のシックスパックムキムキバルクホルンでキャラソンがかかってそんなんありかっていう空中素手バトルに雪崩れ込むのも雰囲気作りがうまい。まあ絶対入らないようなパンツのなかから銃も出てくるだろうこの雰囲気ならと思わせる。真面目さ、ギャグっぽさ、頓知で乗り切る脚本、とってもアニメって感じがする回の脚本は浦畑達彦、この人のはなんかスト魔女だなって感じがする。終盤のベルリン戦では、巨大戦車ラーテに乗るパットン将軍CV玄田哲章がなかなか似合ってて、将軍まわりの描写が良かった。無謀な軍人に見えて大きな組織の一員でしかない側面と、前線に立つものとしての意地が魔法力のない宮藤のラーテ乗車とも通じている。全体に宮藤の力の抑制に困ったような印象があるけど、まあとにかく往年のアニメの意地を見せたような出来だったと思う。それにすごく出来の良いエヴァフォロワーアニメって感じがある。正体不明の敵があれやこれやで攻めてくるとか、ミリタリーとか、巨大物の映し方の特撮感とか。そして、露骨にパンツを見せてくる衣装とアングル、久々に見るとマジで気が狂ってるんだけど、美少女ミリタリーもののありようを何一つ誤魔化すことなく見せている点で正気の証左なのかもしれない。キワモノとしての自意識。萌えミリタリーというジャンルが性欲と戦争を結びつける、異様で下世話で下らないものだ、という出自の強調にも見える。だからOKとは言いがたいし古臭いとも思うけど、後発ものに比べるとそういう自覚はまだあるように見える。

●NOBLESSE -ノブレス-
貴族と呼ばれる超常的な存在がいる現代世界で、その貴族たちの守護者「ノブレス」のライジェルという絶対的な力を持つ存在が数百年の眠りから覚め、彼に仕えるフランケンシュタインの計らいによって高校に通うことになる……。何年か前に作られた単発OVAの直接の続篇になっていて、各サイトで無料配信されていると思うので、まずはそこから見るべき。スタミュ監督多田俊介が総監督、ネコぱら監督山本靖貴が監督で、ハラダサヤカ構成、キャラデザ石井明治プロダクションIG制作。今年多くアニメ化されている韓国のウェブ漫画が原作で、人間を襲うユニオンという組織、人間を守ろうとするライジェルたち、そして貴族らとライジェルとの緊迫した関係が軸になるダークファンタジーだけれども、シリアスな要素とともに絶大な力を持つライジェルがラーメンの麺がのびるのを量が増えると思って食べる時必ずのばして食べる描写を代表に、美形揃いのキャラたちが現代人間社会と絶妙にズレているギャグセンスが卓越している。人間と貴族と改造人間とといった異種間の関係をベースに、気高さ、高潔さをめぐって話が展開していくんだけれど、高貴な超俗の存在にも俗な要素が同居しているということ、また危険な戦いに身を投じたとしても常に戻ってくるべき平穏な場としてのトンチキなギャグ描写が作品必須の要素となってて、非常に良いアニメになっている。
 ざっくり前半が学校・人間篇で後半が貴族篇と言えると思う。目覚めたライジェルが学校に通い、田代たち人間の学友と仲良くなりつつ、そこにやってきた敵対勢力との戦いを通じて、誰かのために戦う者を尊重し、誰かを踏みつけにする者が否定される、確固とした倫理が人間、改造人間、貴族へと通じ、ライジェルがその高貴さに応じて姿を現わす。七話が、戦いを終えた日常のなかで人間と貴族の叶わぬ恋愛が描かれつつ、危機を招かないために人間たちの記憶を消す、という話になる。ライジェルたちが二人を守って、これからも危険から守るために記憶を消す、優しさゆえの別れ。田代が誰かを守るために立ち上がって、田代たちを守るためにM21やレジスたちが戦い、そして皆のためにまたライジェルもやってくる、だからこそ、田代はライジェルの言うことを否定できない。田代もまた自ら望むことをしたまでだから。「ありのままでいる」ことが行動に繋がって、田代とライジェルたちはここで、同じ高貴さを持つ者として並んでもいる。そしてOVAで既に一度記憶改変が行なわれているからこそ、ライジェルたちへの「気持ち」が失われていない、だから今ここにいる、という爽やかな記憶消去が描かれた印象的な話数。八話以降はフランケンがなぜライジェルに仕えているかの回想を踏まえて、ライジェルをめぐる貴族たちの内紛を描き、ここでも高貴、高潔さについての物語が展開される。12話は、「魂が卑怯であってはならぬ」とラエルを叱責する兄、ラスクレアが先代の心を思うことをせず「臆病な自尊心」に駆られていると指摘するゲシュテルら貴族たちの気高さと未熟さのせめぎあいのなかで彼らと渡り合えるフランケンが仕えるライジェルが現われる貫禄の構成のうえにいつもの面白Cパートがやはり笑わされてしまう。終わってみると「絶大」とされた力を持つライジェルとその力の責任を描いた話だったように思う。慕う臣下が居りその者たちのために力を正しく使うことでライジェルに傷をつけることができる、という上に立つ者としてのあり方を実地にロードに教え諭すことで、ノブレスの貴族を守り裁くという役割を確かに果たすライジェルは、ロードとノブレスの権力分立のシステムの体現だった。永遠の存在は自らの地位を去り、若者へと場を譲っていく未来と変化への願いを込めた委譲はやはり権力とその腐敗を防ぐ話。そしてライジェルはラーメンが食べられる日常に戻っていくわけで、田代たちとの学校という平和な場所をこそ守るための力としてあった。

●いわかける!- Sport Climbing Girls -
人工的に設置された壁を登るスポーツクライミングに挑む高校生女子を描く漫画原作アニメ。パズルゲーマーとして名を馳せたものの引きこもりだった主人公が、ホールドをどう掴んで登っていくか、というクライミングの「岩のパズル」に面白さを見出してハマっていく。最初は露出の多い女子を描くお色気アニメなのかなと思っていたら、競技面での資質、体格や才能や弱点をめぐって各自色んな課題に取り組みつつ克服していくドラマをきっちりやってきてて、非常に見応えのある作品だった。今時「~でやんす」と喋る女子高生その他、アクの強い他校のキャラクターがガンガン出てくるところは、ああこれはクライミング咲-Saki-なんだなと思えるところもありつつ、キャラ性のセンスがそれよりぐっと古い感じなのは笑ってしまうし、そういう突飛さ、絶妙に変なセンスをまじえつつ、スポーツのドラマにもまた硬い芯があり、今期有数のアニメだったと思う。変なセンスは枚挙にいとまがないけど、「君がそうならそこをそうさせていただく」というちょっと頭悪いキャラの放ったこのセリフはめちゃくちゃ面白かった。そいつのメンバーたちが公園にある動物遊具に乗ってる絵でホーンの音がしてレディース感を出してるシーンはかなりとんでもなかった。
 体が小さい上級生がその生まれた時からのハンデ故に涙を流す五話や、真面目にやろうとするあまり楽しさという要素を不真面目さとして排除してしまった苦い過去の七話、サブキャラの視点を通してそんなことで潰れるんならずっと下から見ていた自分はなんだったんだ、っていう敗者のプライドをぶつける九話、パズルゲーマーだった主人公だからゲームの話で自分の殻を破るフィクション的な頓知が効いているくだりや、怪我を押して出場しようとする仲間をぐちゃぐちゃの声で止める富田美憂の演技が心を抉ってくる11話、言ってみれば壁を登るだけ、自分と壁だけの世界という個人競技だけど、そこにはつねに仲間がいて切磋琢磨と応援がある、というのがアンネ個人には勝てなくてもリードで、団体で全国一位を勝ち取る執念として結実する最終話。普通に何度か泣かされそうになる。アミノテツロ監督といえばDTエイトロンの監督として名前を覚えている人だったけど、あれから数十年経っても健在だというのが感慨深い。待田堂子構成、BLADE制作。

●体操ザムライ
MAPPA制作、村越繁構成、深川可純キャラデザ、とゾンビランドサガとも似たスタッフで作られたオリジナル体操アニメ。2002年頃が舞台で、サムライとあだ名された体操選手の荒垣城太郎は怪我による成績不振で引退を勧告されたものの、映画村で出会ったニンジャを名乗る外国人レオナルドや娘玲の為にも「引退しませ、ぬ」と会見の土壇場で引退を撤回し、体操を続けていくことを決意する。このレオや言葉を喋るでかい鳥ビッグバードなど、ちょこちょこ突飛な要素も出てくるんだけれど、そういう素材も作中に頻出する映画ネタとからめて綺麗にコントロールした感じで、女優だった妻を亡くした主人公城太郎の体操、父を応援する娘の玲、ニンジャを名乗る謎の外国人レオの三者、大人、若者、子供のそれぞれの夢への物語を見事に描いている。城太郎のマイペースな不思議な感じのように、最初はどういう作品なのかとらえがたくて、静かに始まった印象があるんだけれど、マイペースながらも真面目な芯があり、そして城太郎が方針転換して試みるようになった細部にも意識を向けた丁寧な演技そのもののように、着実に積み上げていってきっちり着地してみせる。妻を亡くした夫の話とともに、母を亡くした娘の話でもあって、父子家庭で父を応援する玲の小学生というにはできすぎた我慢強い玲のエピソードが四話で描かれ、これはこれで良いんだけどちょっと物足りないなと思ったら、六話で完璧な姿を見せていた母親がじつは他のところではそうではなかったと知り、母を見習って完璧であろうと装っていた玲が、大人の真似=演技を一端辞めてみることではじめて一つ、できることが増えるという積み重ねがくる。こうして玲まわりの話を少しずつ固めていって、その後キティ・チャンていう面白すぎる名前の中国人が現われて、彼女がここで父の応援以外の玲自身の夢を導くのがとても良い。父の応援という家庭から飛び出して、「ワールドクラス」への夢を見る。最終話では三者それぞれの「演技」を描き、城太郎も、玲も、レオも、一級の役者ぶりを見せる。玲は母の演技、映画のなかの演技を改めて模倣するという再演の多重性もいいんだけど、城太郎は誰も見たことのない演技をやるという競技の違いの対比も良い。

魔王城でおやすみ
少年サンデー連載漫画原作の、人間界からさらわれてきた姫が、魔王城でなんとか安眠を勝ち取ろうとする奮闘を描くファンタジーコメディアニメ。山﨑みつえ監督、中村能子構成、菊池愛キャラデザの動画工房制作。人質が安眠を求めるばかりか、普通に牢を脱け出てあまつさえ素材として城内のモンスターを普通に殺してしまう(けど生き返る)のがナチュラルなホラーでもあり、姫もまた安眠を求めるあまり溶岩に落ちて普通に死ぬ(けど生き返る)、というコミカルな見た目からは意外なほど殺伐としてもいる。OPもEDもなかなか良くて、ファンシーでファンタジーで、姫の何ごとも意に介さないスタイルで生きていく力強い話だ。でびあくまが良いね。魔王城の面々でもうほとんど親や親戚のように姫に優しいのもだけど、魔王城は勇者をちゃんと魔王城に来るように誘導したりセッティングしたりしている点で、人間側より優位かつ優しい感じがある。そういやなんで姫を攫ったんだろ。とはいえ、最終話は無神経な実家の親戚概念に苦しめられつつも親に成長した姿を見せ、王族たる責任を果たし混乱した状況を果然と復元し、子供の学芸会を温かく見守る図の魔族たちのいる城へと戻っていく、騒々しくも楽しい綺麗な最終回だった。いやー、良いアニメでしたね。小澤亜李が出てくると良いアニメな気がしてくるし。

●おちこぼれフルーツタルト
きらら系四コマ漫画原作のアイドルアニメで、川口敬一郎監督、監督と髙橋龍也の協同構成で、プレアデス五話の二人原画のひとり木野下澄江キャラデザ、feel制作。弱小アイドル事務所に所属した少女たちが、生活している寮の存続を賭けて地道に頑張っていく、というアイドルものなんだけど、画面の適度なポップさとかデフォルメのパターンがいくつもある楽しさとともに、お色気要素多めというか、主人公はじめ出てくる女性キャラたちがみな何かしらのフェチや嗜癖の持ち主の性欲駆動アニメーションになっているのが最大の特徴。ろこどるのfeelだし、東小金井を舞台にした地元アニメでもあるんだけど、これはもう東小金井に謝った方が、という感じで笑ってしまう。楽しいは楽しいんだけど、マネージャーがアイドルの実家からの高値の仕送りをかすめ取ってたり、権力関係をたてにハラスメントかますアレさがあって、そこは気になる。新田ひよりの主演アニメは久々で、最近はガルラジがメインでは聞いたくらいだった。このキャラの変態ぶりの一環は、衣乃のきららファンタジア衣装を見るとわかる。それ変態仮面ですよね? 衣乃の緊張すると催してしまう定番ネタでトイレが頻出するばかりか、いろんな変態がたくさんでてくるので、ある回で「へんたいあらわる」というサブタイだったときには一体誰がその変態だったのかが誰にもわからず騒然となった。このアニメ、噓でしょ?って思う場面が多々あって、最終回でも屋外なのに平気で水着でやってきた大人集団の絵面自体もだけど、水着の理由が特に説明されなかったままだったのには驚いてしまった。アイドルがエロい目で見られることよりも変態だらけのアイドルが仲間をエロい目で見てるほうが多い気がする……。と思ったら最後はオチを付けてきた。良い感じの挿入歌に「邪な感情をぶつける」って歌詞があって、まったくこのアニメのことだ。金に目が眩んだ大人と欲に駆られたアイドルが織りなす汚れたタペストリー、黒く輝いていたよ。

●D4DJ First Mix
ブシロードのDJテーマのメディアミックス企画で、水島精二監督、雑破業構成、サンジゲン制作のCGアニメ。10月から始まったので年内に終わるアニメではないのでここに入れて良いかと迷いはするけど、とりあえず八話時点までの。最初、WOW WAR TONIGHTがEDだし最初のきっかけだし、これに重心置いてるのマジで?ってびっくりしてしまった。こういう楽曲でマス層にアピールする戦略はブシロードらしくてアレだなあと思ったけど、アニメ自体は二話なんかが技術的な細部とコンテストでの扱いで真秀のレベルを描写し、りんくのダンス訓練で歌えるという部分にも説得力を与えつつ、ミニライブの成功でひとまずのコンビが二人の手とともにきちんと繋がる堅実さでこれは結構ちゃんとしていて面白いと思った。一話のBPMを感じとるセンスというりんくの才能めいたものはまだ素人なので生かす余地がまだなく、とりあえず壇上で踊ってろというあたりに落ち着く、できることとできないことの配置が堅実さの内実というか。主人公りんくもテンション高いけど記憶力と心情の機微に聡い性格してたり、DJをテーマにしつつ、ホビーアニメかアイドルアニメかみたいな文脈の良いアニメではある。いやちゃんと面白いのはいいんだけど、ステージ上がって面白げな歌とダンスを披露してるの、盛り上がれば盛り上がるほどDJとは???と思って面白くなってしまうんだけど、なんだろうやっぱりキッズアニメのトンチキさがある。崩し、デフォルメ絵はアニメの良いところの代表的なものだけど、手抜きや気が抜けた感触が伝わる手描きでのその種の表現に対して、CGで七話くらいやるのはむしろ頑張ってるねって感じがあって、表現としては逆の感触がある。それも含めて、CGモデルで微妙な表情の付け方がかなりできるようになってて、特に八話でステージでボタンを押した時のりんくをみる真秀の表情、この話数での思い詰めた感情がこもった感じが表現されてて印象的だった。サンジゲンのCGアニメもかなりレベルが上がっている感じ。

●禍つヴァールハイト -ZUERST-
ラピスリライツと同じKLabGamesが作っているゲーム原作アニメで、だからかラピスリライツと同様横浜アニメーションラボが制作、はたらく魔王さま未来日記細田直人が監督構成をやっている。配送屋のイヌマエルと帝国軍人のレオカディオという二人を主人公にして、数奇な運命から指名手配され抵抗組織ヘッドキーパーとともに行動するようになるイヌと、レオとが双方からこの国で行なわれている陰謀に迫っていくファンタジーアニメ。ドイツ語のサブタイトル通り原作ゲームの前日譚らしいからそこに繋がるんだろうけれど、ラピスリライツ同様、ファンタジー世界の絵作りがとても綺麗で、かつRPG的な巻きこまれストーリーから真実が見えてくるストーリー自体はありがちではあるんだけど、レオとイヌの因果から始まって合流して共闘してというのが地味なおっさん多めで展開される全体の雰囲気がなかなか良い。反体制組織に巻きこまれ次第に国を揺るがす事件に発展し、皇帝に会うために奔走する、まさにRPGだ。原作がRPGだし正しいね。OPがヴォカリーズだけのインストかと思ってる人いるかも知れないけど、公式のMV見るとOPの部分が終わったら急に別の曲になる瞬間は一回体験してみることを勧める。最終回で対決はあったもののレオとイヌの関係はゲームに持ち越されるくさいのはちょっと物足りないんだけど、その場面の作画の見せ所やどんなになっても存在感を失わなかったヘルマン隊長は面白かった。一話で違法な武器を背負い込んでしまったように今度は皇帝の子を受け取るし、怪物化の因子やペンダントなど、さまざまなものを受け継ぎ受け渡す、これがRPGの主人公だっていう感じがらしい。しかしヒロインの座をイルマに明け渡したシャアケ、後半存在感が薄い。「おっさんも付き合うよ!」、このアニメらしいセリフが良かった。崩壊の描写は諸星大二郎の生物都市を思い出した。EDでドカーンとイントロが鳴って「引き返せない」と歌われる瞬間がこのアニメのサビという感がある。

●キングスレイド 意志を継ぐものたち
ゲーム原作アニメで、うたプリダメプリの星野真監督、破滅フラグの清水恵構成、OLM×SUNRISE BEYOND制作。こちらはファンタジーアニメでも王道感があり、主人公カーセルたち一行が聖剣の封印を解いていく旅とともに、オルベルリアでは被差別種族ダークエルフの一団が政治的策謀から貴族と共にクーデターを計画しているという両サイドの物語が進んでいく。地味ながら丁寧に進められていく物語と、派手すぎないけれども細かなこだわりが感じられるキレのあるアクション作画が魅力だ。両親を殺され人間に復讐を誓うダークエルフ側にも人間と仲良くなる者もいたり、着実に悲劇の予兆を組み立てている。話数で言えば八話の親を亡くして一人ふさぎ込む少女をめぐる話数や、妻がアンデッドと化してしまった男の悲劇を露悪趣味にも行かず真摯に描いててとりわけ見応えのある九話が良い。絶望的な状況をわかっていてもわかりたくなかった心情を描きながら、死者と生者に分かたれた戦災のあとを生きるというテーマも感じられる。クレオ小澤亜李の魔法使いが地味な作品性に華を添えていて良い。

●神達に拾われた男
過酷な生活のなかで急死した男が、神様に拾われて、異世界で穏やかな第二の人生を送る、という異世界転生スローライフものなろう系原作アニメ。異世界スマホの柳瀬雄之監督で、漫画はガンガンオンラインで読んでるし、うちの娘アニメのスタジオMAHO FILMで、と想定外の要素もなく、なかなかちょうどいい感じの出来だと思った。おじさんから少年に転生して、スライムを従魔にして研究していたリョウマが、親切な公爵と知り合い一人暮らしの洞窟を出て街に住んで、自分の特技を活かしてクリーニング屋を始めるという、まあそれだけの話ではあるんだけど、田所あずさの少年主人公が楽しめるし、寝る前にふらっと見るには良い感じなんだ。一話は監督直々の一人原画回で、柳瀬監督は同スタジオの別アニメでも一人原画回をやっていて、このスタジオ、柳瀬雄之がコアなところを握って、低予算でも成立するようにクオリティコントロールしてる感じなのかな。いろいろ面白いところだ。

●魔女の旅々
個人的にはメガCDのLUNAR ETERNAL BLUEキャラデザとして覚えている窪岡俊之監督、はるかなレシーブやひとりぼっちの○○生活のスタジオC2C制作による、小説原作アニメ。イレイナという魔女がいろんな土地を旅する話で、キノの旅の影響が色濃いといえばだいたいどんな作品か分かるかと思う。ただキノほど話の出来が良くない印象で、しかしそれゆえキノの私が嫌いなその国々を見下したような感触、が薄いのは怪我の功名かも知れない。本渡楓黒沢ともよ花澤香菜日笠陽子といったメインキャストや作画背景その他絵作りの良さ、コメディ展開の楽しさはあって悪くないとはいえるんだけれど、シリアスな話の物足りなさ、もっといえば魔女とそれ以外の人間とに明らかに格差があるような無神経な切断線の存在が気になる。その点、イレイナが十数人に分裂したアニメ最終話の、イレイナは本当に旅が好きなのかという疑念に対して、自己愛百合や「鏡を見たことないんですか?私のくせに」など自分大好きイレイナという解答をぶつけてくるのは笑うしかない。自己愛百合のナルシスティックさもあり、悲しい体験をしなかった自分を願ってここにきたとか、旅で出会った相手とかより、自分のことしか考えてない自分探しの旅だという点をスタッフこそよくわかってこの回になったと思った。

その他――
冬は質も量も多くて、ここまででずいぶん長くなってしまったのであとは短く。
戦翼のシグルドリーヴァ、プロペラ機でスト魔女をやるみたいなミリタリ美少女もので、キャラや一話などの日常芝居の作画の良さは良いんだけど、男連中の使い方というか、裸男軍団出してきてギャグですってやるノリさすがにキツすぎた。軍人のノリがそうなんだけど、やってるほうは盛り上がってる軍人ごっこを見せられてる感じがあって、軍人描写がパロディのパロディみたいに感じられてしまう。スト魔女もそれなりにフィクショナルだけど上滑りしている感じはないのにこれ同じ人が関わってるんだよな。最終話はなんだかラピュタっぽかった。ただ、帰還したところでオペレーターに「みんな無事で」と言わせたのはほんと、どうかと思った。まあアズズは良いキャラだし作画もやたら力が入っているのはいいけど、最終回はやりすぎ。
くまクマ熊ベアー、ゲーム世界に召喚されるタイプの異世界ものなろう系小説原作で、熊の着ぐるみを与えられ、その最強の装備を着て、出会ったフィナという少女などとともにこの世界で生きていく、百合アニメ。漫画版を前からわりと楽しく読んでいて内容は知ってたから一話の内容をミスリードさせるような改変が意味不明だった。女性主人公がいろんな小さい女の子と仲良くなっていく百合ハーレムアニメでもある。防振り、破滅フラグ、これと今年は女性主人公なろう系アニメが続々と二期が決まる年だった。
100万の命の上に俺は立っている、神達と同じスタジオでスタッフもいくらか似ている、現実と異世界を行き来するタイプのアニメで、冷たく合理的な発想をするという主人公が、個々人は何度も生き返れるけどパーティが全滅すると死ぬ異世界ゲームマスターからクエストを命じられる。まあ、なんだかんだ面白いところもあるアニメなので、二期も見れたら。一話のいらすとや版はなかなかの賛否を巻き起こしたけど、本篇を先に見ているとなんでこんなにちゃんと作っているんだ、と思う。あ、これ原作の漫画でいらすとや版が無料公開していたネタでもあるのとともに、異世界をバーチャルだと思ってる主人公の認識に準じたものだったのかもしれないといま思った。
レヱル・ロマネスク、機関車擬人化ショートアニメ。まいてつというエロゲが元でそのコミカライズを読んだことがあるけど機関車を地域復興に使う話だった覚えがある。これも観光客への土産開発の話で、そこにキャラ同士の百合が同時進行していく。四話の近くにあっても気づかないこと、という視点からお土産と昆虫を絡める話や、観光客への商品開発をテーマにしてきた最後に、みんなからすずしろへの贈り物とともに「いつでも一緒」と言葉を添える綺麗な最終回などが良い。
大人にゃ恋の仕方がわからねぇ!、今期僧侶枠。大人同士で恋愛から距離ができていた二人の話で、売り言葉に買い言葉で一緒にホテルに行く流れがバトルものラノベアニメの一話みたいで笑った。題材的に結構年齢層高め向けかな。不倫でも強引でもない大人のラブコメって感じで、なかなか良い雰囲気で終わる、珍しいタイプの僧侶枠だと思う。
エタニティ ~深夜の濡恋ちゃんねる♡〜、僧侶枠でも知られるスタッフが15分枠で、毎話エタニティブックスのいろんな作品をアニメ化していくというオムニバス企画。僧侶枠に対して版元の違いなのかこちらは社会的地位が高い社長なり御曹司なりが相手役として頻出する傾向がある。そんななかでも同僚を相手にしたプリンの田中さんの回は、すれ違いのコメディセンスと「俺余裕ない……」「お財布にですか?」の思わず吹き出したやりとりが良かった。部屋に誘う意味を指摘して辞去しようとした田中さん、性的同意の概念があってまともな人間だ。強引に襲わないの珍しい。
無能なナナ、能力者が集められた孤島で、人間に害を為すと判断された能力者を、指示に従って無能力者のナナが知略で殺していく、というミステリチックな能力もの漫画原作。あんまり趣味じゃないけどまあまあ面白いかなと思っていたら、人を癒す能力を持つミチルというキャラと能力者殺しのナナとのあいだに、初めての友情ができたあとの13話、ナナがどう見ても恋してる感じで初めての友達のことを「今何してるのかな」って考えてるのは百合だったし、ワンクールをミチルとナナの物語としてまとめた感があって、親の死の責任があると思わされていたナナの呪いを解いて、人への信頼をミチルを通じて得るような回で、まあ良いところで締めるね。

気になった
池袋ウエストゲートパーク
窪塚洋介主演のドラマが人気だった石田衣良の小説を原作に動画工房がアニメ化した作品。カラーギャングというネタはさすがに古すぎるし、イエスタデイをうたってともども、動画工房が昔の作品のアニメをやるセンス、どうだろうと感じる。最初はなんか薄味で、悪くはないけどそんなに面白くもないな、と思ってたんだけど、幾つかの点で非常にダメだと思った。とりわけ五話、原作が書かれた時には技能実習生を早くに取りあげた物かも知れないけれど、2020年にこの題材で中国の貧困メインで話進めて、中国より豊かな日本に暮らせて良かったね、「この問題だらけの国に住んでいても、俺たち日本人は恵まれてるんじゃないか」って語りで締めるの正気かって思う。いま技能実習生は中国からは減っていて急増するベトナムからのが割合的には多くなっているらしいけどそれは措いても、安価な労働力を欲する企業が借金して逃げられない状態でやってきた実習生をタコ部屋で奴隷のように働かせている、という事例があることはもう既に知られてるわけですよ。話がつまんないだけならまだしも、日本における外国人の問題を扱っておいて「まるで他人事みたいに」なってんの、ちょっとどうかしてる。義理の妹ができる話だから飛ばせなかったのかもしれないけど、いまこの題材をこう描写していいと思ってるセンス、ダメでしょ。ひどいのが中国人が題材なのに中国人が日本国籍とるのは無根拠に良いと考えてないと書けない話になってるところだ。家族がいて父の病気のために金が要るというクーが、なんでそんなにあっさり養子になるのか。母国の家族のため、父の医療費のためとはいえ、日本人の養子になるって選択はものすごく悩む話でしょう。中国人に母が騙されているというほうがまだ成立する。中国人の民族意識や主体性ってものが全然存在していない。で、「俺たち日本人は恵まれてる」ことに気づくラスト。バカなんじゃないか。何度も挾まれる日本は豊かで良い国という中国人の発言を受けての、貧しくかわいそうな中国人を養子に迎える善行を行なう恵まれた日本人、に収斂するお話……。人情話、美談を作るためにいろんなものが犠牲にされてて、原作からこうなのか、端折って無惨なことになったのか。八話もシングルマザーを支援に繋げる話はいいんだけど、虐待を始めてしまった母にこのままだとあんたは子供を殺してしまうかもしれない、子供を捨てろ、と言うセリフ自体はありだと思うけど、それを子供と一緒にいる時に言うのは人の心がなさすぎてびっくりした。このアニメ、尺の関係なのか話が薄味だし、ところどころ破滅的に無神経で、根本的にやる気がないように感じる。10話の修復的司法のエピソードはわりに良かったと思うけど。五話の原作にあたる本は手元にあるので、読んだらここに加筆するかも知れない。<01.18追記>というわけでアニメ五話の原作中篇を読んだけど、やはりアニメがそうとうまずいと思う。原作の序盤、安価なカップ麺などにどれだけの血と汗や涙が注がれてるのか、というくだりや、「無関係」という言葉が反復される意味が完全に抜け落ちてしまっている。技能実習生制度は中国の都市と農村の戸籍の分断による格差で生まれた貧困を利用して、日本人もやらないような低賃金労働をさせている貧困ビジネスなわけで、当然日本も受益者だし250人に連帯責任を負わせているのも日本だと明示されているのに、この日本の当事者性がアニメではかなり薄められた。そして「無関係(メイクワンシー)」という中国語のフレーズが幾度か反復されるのは、もちろん実習生制度に関与している日本、そしてクーが働く池袋の店が売春の仲介所ということとか、リンも実習生の仲介で中抜きしている搾取の当事者そのものだということもろもろ含んで反語的に用いられていて、池袋で起こることに無関係なことなどない、とマコトが思うことに帰結する。リンがマコトの母に自分の半生を話したのは、養子展開の導線として意図したものだったくだりもある。リンの描写がアニメではだいぶ表層的になってる印象だ。そういう、一見恵まれているように見える日本も、技能実習生らの血と汗と涙を犠牲にした上にある、この表と裏というのがリンも含めた今作の仕掛けではないか。なのに原作にない「この問題だらけの国に住んでいても、俺たち日本人は恵まれてるんじゃないか」と締めるのは作意を逆転させてしまってる。原作のロジックとしてはカップ麺のくだりのように、貧困ビジネスは日本にいるマコトたちも他人事ではないからこそクーを養子にするということになるけれど、これがアニメでは極端にぼんやりしてしまっていて、あるいは反語のつもりかもしれない語りが文字通りにしか受け取れなくなってる。中篇を一話にするという尺の問題もあるけれど、尺の問題以前ではないか。原作ではカップ麺がタコ部屋奴隷労働の象徴として用いられたのに、アニメではリンが日本のラーメンを褒めていて、中国人に日本の豊かさを評価させるというのも、無理解ぶりが甚だしい印象を強めている。

今年見た過去作品

ソ・ラ・ノ・ヲ・ト
アニメが少ない時期ににGyaOの無料配信で見た。神戸守監督、吉野弘幸構成、A-1 Pictures制作の2010年作品。これは良かった。停戦下の軍人の少女たちを題材にラッパ吹きが終末ではなく停戦の音を奏でる。筋は概ねラスト二話に集約され、多くが日常描写のなかの戦争の傷跡をたどる作りが良い。音が繋ぐ縁への希望。一話を見た時、横溢する水の主題だ、と思ったけど、ノエルとアイーシャの場面は分割線を越えて触れあう二人の背後に暖炉の火が燃え皆は涙を流していて、停戦の場では炎の乙女が雪原に舞い降りることで「雪解け」を迎え、人の命を支える水が生まれる、というエレメントが配置されてる。一話と最終話で季節が冬へとなったのとあわせて、伝承とともに「炎」の意味が逆転してもいる。カナタが川に落ちるシーンで陽が沈むのは最終話の建物の上のカナタに陽が当たるシーンとの照応か。細かい芝居をよく動かす作画、各回の脚本、音楽、砦の街の雰囲気が良かったですね。一話冒頭三分ほどで感じた名作のオーラは間違いではない作品だった。一話のほかにも溺れた話とか梅雨とか精霊流しとか台風とか何かと水が鍵になる印象があって、唐突な感じのあるトイレ我慢する話もきっとそれに違いない。ポストアポカリプス的な遺物に日本が感じられたり、七話の夏と戦争のモチーフなんかとても日本的な戦争テーマにも思える。七話は戦争の記憶はそう他人に話せるものではないというちょっとした溝があって、カナタにあなたはいつでも伝えようとする、思いを言葉にすることを恐れない、というフィリシアが印象的だった。十話旅立ち前のラッパの合奏、ここがひとつのクライマックスにもなってて特にいい場面だった。最終話のあの曲が聴きたくてサントラを買った。

●邪神ちゃんドロップキック
今年二期をやっていたけど、abemaで無料配信していた一期を見た。半裸の蛇の邪神が召喚されて繰り広げるドタバタ百合?アニメで、感想もほとんどメモってなくて特に言うことはないんだけどこれは面白かった。帰宅部活動記録の佐藤光監督ノーマッド制作の漫画原作アニメ。ノーマッドふたりはミルキィホームズVENUS PROJECT -CLIMAX-のスタジオでもあったか。11話、唐突な歌が上手いの面白すぎるでしょ。これが今年いろいろなアニメで歌唱力を披露する鈴木愛奈か。最後風船で宇宙まで飛んでくのなんだこれはと思ったけどOPで宇宙からドロップキックで落ちてくるところに続く最終回。すごいオチだ。このどつきあいギャグの暴力性がリョナ趣味と隣り合ってる百合作品という線で見ると近いものにキルミーベイベーがある。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序、:破、:Q
完結篇放映間近とのことでそれまでの劇場版が全作無料配信されていた。序と破は去年見ていたけれど、記事にまとめてないのに気がついたので、今年見たのはQだけとなる。序と破は、エヴァ特有のトラウマ心理劇的要素は影を潜め、TV版の良いとこ取りで盛り上がり所をガンガンに詰め込みましたという圧倒的エンタメ感は見やすくて良い。リデザインされたメカ、使徒、アクション。使徒はCG時代を反映するようにより幾何学的に不気味になり、同時に血を流す生々しさを付加されて、また別の感触がある。TV版の展開、作画をなぞりながら、特に食事会まわりはえぐい展開にするなと思ったら、シンジとレイの物語としてポジティブな解決をみせてきたのは感慨深い。ここまでの新劇場版エヴァ、TV版序盤の健康的なロボットアニメ活劇を前面に押し出す感じ。
 と思えばQ。これはあのエヴァが帰ってきた。序破がシンジとレイの物語としてまとまってた感からするとここでこの落としぶりはなかなかのもので、Qで酷評が凄かったというのもわからないではないけど、だってエヴァじゃんこれ、って。旧作をスケール大きくして概ねなぞってる感じがある。破の最後は確かにサードインパクトだったから、そりゃこうなるか。見たことがあるような場面が別の仕方で再演されてる感もなかなか面白く、アスカがレイに置き換わってるような場面もあった。13号機のカプセル、AKIRAオマージュなのかな。原画陣もだけど動画参加した会社が日本の制作会社総力戦みたいなクレジットで圧倒的。最近放送作家として活躍している儀武ゆう子がいるのは笑った。

年間アニメ話数10選

これは今年のアニメ10選に入れなかった作品から選んだ。理由はだいたい本文に書いた。

マギアレコード三話
22/7 七話
つぐもも二期三話
白猫プロジェクト七話
超電磁砲三期15話
ジビエート二話
炎炎ノ消防隊二期17話
ストライクウィッチーズ三期六話
ノブレス七話
いわかける九話

2020年アニソン10選

一作一曲で選ぶとこう。

TrySail ごまかし(マギアレコード)
Mashumairesh!! まっしろスタートライン(ましゅまいれっしゅ)
佐々木李子 Good Night(防振り)
sajou no hana 青嵐のあとで(超電磁砲
海野高校ていぼう部 釣りの世界へ(ていぼう日誌)
angela 乙女のルートはひとつじゃない!(破滅フラグ)
ラピスリライツ・スターズ 私たちのSTARTRAIL(ラピスリライツ)
ChouCho 灰色のサーガ(魔女の旅々)
一柳梨璃&白井夢結 Heart+Heart(アサルトリリィ)
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 NEO SKY, NEO MAP!(虹ヶ咲)

今年のアニメ関連楽曲としては、リステージの関連ミニアルバムや、八月のシンデレラナインの「真夏のサイレン」、上田麗奈の「Empathy」などを聴いていた。

●おわりに
通年アニメはミュークルドリーミー以外も引き続きプリチャンを見ていて、おしゃまトリックスがライブデビューしたのが感慨深い。プリキュアは最初ワンクールほど見たあたりでピンときてなくてそこまでしか見ていない。トータルで見たアニメはショートを入れずに全部で120本くらいだろうか。

年末に一気に書いてるものだから、年始のものほど記憶が薄い状態で書いてるのがややバランスを欠くところがあるけど、年末という時限がないと書きはじめられないのも正直なところ。結局一日オーバーしてしまったし。見たのに存在を忘れてる作品もあるかも知れない。

今年もアイドルアニメがやはり強いなと思った。私たちには夢も未来も金もないけど、フィクションの世界では力強く夢を見てくれると嬉しい。

2020年に読んだ本

今年読んだ本を10冊プラス10冊挙げてみる。

上田早夕里『深紅の碑文』早川書房

『華竜の宮』の姉妹篇。人類に迫る、プルームの冬と呼ばれる地球凍結の危機を目前にしたなかで、救援団体、反抗する海上民、ロケット打ち上げ事業を軸に、血で血を洗う抗争、飽くなき交渉、空への夢、人間とは何か、さまざまなテーマを簡潔で淀みなくスリリングに、極限状況での言葉と交渉の意思とともに描く傑作。
上田早夕里『深紅の碑文』『夢みる葦笛』 - Close To The Wall

オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』白水社

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

『プラヴィエクとそのほかの時代』の次に書かれたトカルチュク四作目の長篇小説。ポーランドの国境近くに住み始めた「わたし」や人々の生活、聖人伝、独立性のある短篇など100近い断章(解説などでは111とある)によって構成された、昼と夜、夢と現実、男と女、ポーランドチェコ等、さまざまな「境界」そしてその流動を描いている。
オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』とその目次 - Close To The Wall

木村友祐『イサの氾濫』未來社

イサの氾濫

イサの氾濫

表題作は、東京で転職を繰り返してた男が震災を機に地元東北で荒くれ者として知られていた叔父イサについて調べながら、東京からもこぼれ落ちる「まづろわぬ人」として己を自覚し北からの怒りを叫ぶ叛逆の狼煙だ。切り捨てられる地方からぶつけられる濁音の響き。
木村友祐『イサの氾濫』『幸福な水夫』『聖地Cs』 - Close To The Wall

笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』講談社

会いに行って 静流藤娘紀行

会いに行って 静流藤娘紀行

作者が新人賞を取った時は知らなかった藤枝静男。彼が推挙してくれたことで世に出た作者が、私小説を突き詰めて私小説から大きく逸脱する私小説、という彼の影響を受けた方法によって藤枝を語る、「私小説」ならぬ「師匠説」と称するその文学的恩への返答。作者についてはこの記事の一番下の件も参照のこと。
笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』 - Close To The Wall

藤野可織ピエタとトランジ〈完全版〉』講談社

ピエタとトランジ <完全版>

ピエタとトランジ <完全版>

名探偵にして殺人誘発体質を持つトランジと、彼女と出会ってからが人生の頂点だというピエタの二人が、女は子を産め結婚しろという抑圧を拒否し、感染する殺人誘発体質で人類を破滅させながらそれでも二人一緒に生き続けることを選ぶ、強烈な百合黙示録。
百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ - Close To The Wall

テッド・チャン『息吹』早川書房

息吹

息吹

日本では17年ぶりの著者二つ目の作品集で、あえていうまでもなく面白い。特に異世界で科学が世界の不穏な真実を解き明かす大ネタのものや、SF的アイデアがきわめて日常的になった世界での人間性を描き出すものが印象的で、いずれも人間、知性とは何かを問う。
『傭兵剣士』『あがない』『息吹』『年刊日本SF傑作選』その他最近読んだ諸々 - Close To The Wall

林京子祭りの場・ギヤマン ビードロ講談社文芸文庫

長崎で被曝した作家の初期作品集二冊の合本。75年に発表され群像新人賞芥川賞を受賞した「祭りの場」は三〇年前の被爆の壮絶な様子を淡々とした調子で描き出す。原爆文学で芥川賞を受賞したのはこれが初めてだという。『ギヤマン ビードロ』は12篇の連作で、なかでも三〇年後の同級生らとのかかわりから記憶の断片が繋がる瞬間が印象的。
原爆、引揚げ小説四冊 - Close To The Wall

パウル・ゴマ『ジュスタ』松籟社

ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。著者は今年、亡命していたパリでCOVID-19によって亡くなった。主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちに、おそらくはルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。
パウル・ゴマ『ジュスタ』 - Close To The Wall

石川博品『ボクは再生数、ボクは死』エンターブレイン

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

石川博品二年ぶりの新作。近未来VR世界で特注の女性アバターをまとい風俗通いに勤しむ主人公が、高級娼婦にハマって資金を捻出するためにならずものアカウント殺害動画配信をして稼ごうという話で、帯文通りエロスとバイオレンス濃いめでもあるんだけれど、VR設定によって切実さとともに軽薄なコミカルさも失わないバランスが素晴らしい。
石川博品『ボクは再生数、ボクは死』 - Close To The Wall

イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』幻戯書房

ユーゴスラヴィアノーベル賞作家の初期散文詩、代表作『ドリナの橋』の核となる短篇や表題の幻想小説等の短篇小説、ニェゴシュについての講演等のエッセイ、年譜や長文の解説含め、多民族の入り交じるボスニアに生まれた作家の彼岸への理想を託した橋の詩学を集成した一冊。
イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』 - Close To The Wall

もう10冊

10選ぶと上のようになるけど、もうちょっと挙げておきたいのがあったので延長線。
セアラ・オーン・ジュエット『とんがりモミの木の郷 他五篇』岩波文庫

ウルフとともに『レズビアン短編小説集』に収録されていた作家で印象的だったジュエットが岩波文庫で初の単独訳書が出たのを見てつい買ってしまっていたもの。1849年生まれの作家による作品集で、老若問わず男性に依存しない女性同士の親密な関係が、地方の自然描写とともに描かれる。メイドの令嬢への愛を描いて感動的な「マーサの大事な人」は120年前の主従百合の古典的傑作。
中里十『君が僕を』ガガガ文庫
君が僕を~どうして空は青いの?~ (ガガガ文庫)

君が僕を~どうして空は青いの?~ (ガガガ文庫)

  • 作者:中里 十
  • 発売日: 2009/07/17
  • メディア: 文庫
どろぼうの名人』二部作の中里十の商業作品としてはいまのところ最後のシリーズだろうか。「恵まれさん」という現金に触れずに他人にものを恵んでもらうことで暮らしている少女とその執事を任じる同級生がニュータウンの学校に転校してきたことで語り手と出会うことから始まる百合ラノベ。資本主義、宗教、同性愛そして言葉のやりとりをめぐる思弁的小説。
上掲二冊は以下の記事に本文あり。
百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ - Close To The Wall
青来有一『爆心』文春文庫
爆心 (文春文庫)

爆心 (文春文庫)

長崎に住む人々を描く六篇の連作集。必ずしも原爆の被爆者ではない語り手を置くことで、土地に根付く歴史と記憶の断面がかいま見える、長崎に生きるということについて書かれている。浦上天主堂が表紙にあるように、原爆とカトリックキリシタンが基調の連作だけれど、他にも共通するのは家族の崩れが描かれていることで、原爆という切断、空白、途絶の影響はカトリックの信仰にも家族にも亀裂を入れる。
原爆、引揚げ小説四冊 - Close To The Wall

藤枝静男『凶徒津田三蔵』講談社文庫

明治二十四年、警察官がロシア皇太子を切りつけた大津事件の首謀者を描いた1961年の表題作と、その事件をめぐる畠山勇子、明治天皇、児島惟謙の行動をまとめた72年作の姉妹篇「愛国者たち」が併録された講談社文庫オリジナル編集の一冊。
藤枝静男『凶徒津田三蔵』、『或る年の冬 或る年の夏』 - Close To The Wall

倉数茂『あがない』河出書房新社

あがない

あがない

  • 作者:茂, 倉数
  • 発売日: 2020/06/26
  • メディア: 単行本
表題作は解体業者で働く中年の男性を主人公としながら、薬物依存に陥った過去を持つ人の語りを随所に差し挾み、過去を贖うように真面目に働き独居老人の世話をしたりもする主人公の現在をさまざまな水のイメージとともに描き出しつつ、ある決断を描く中篇小説。
『傭兵剣士』『あがない』『息吹』『年刊日本SF傑作選』その他最近読んだ諸々 - Close To The Wall

ファトス・コンゴリ『敗残者』松籟社

敗残者 (東欧の想像力)

敗残者 (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉第17弾はアルバニア文学としてイスマイル・カダレ以来二人目となるファトス・コンゴリが1992年に発表した第一作。91年、国外脱出の船を出航前に降りた主人公が、幼少期の暴力やその復讐、国外逃亡者の叔父を持つための迫害、恋人や友人を失い、そしてすべてを失うまでの敗残の人生を回想する長篇小説。
ファトス・コンゴリ『敗残者』 - Close To The Wall

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』水声社

ボルヘスの盟友として知られるアルゼンチンの作家の1940年作。政治犯受刑者の語り手が逃げ込んだ孤島に、突然複数の男女が現われ、その一人の女性に惚れ込むけれど、なぜかいっさい反応が得られず、そんな時島には二つの太陽、二つの月が現われ、というSF幻想小説
薄い本を読むパート2 - Close To The Wall
石川宗生『ホテル・アルカディア集英社
コテージに閉じ籠もった女性プルデンシアを外に出すために、ホテルに泊っていた七人の芸術家が数多の物語を語っていく枠を持つ連作掌篇集で、『千夜一夜物語』と天岩戸を思わせる設定通り、奇想小説のなかにさまざまな世界文学を思わせる言及が織り込まれてもいる。
石川義正『政治的動物』河出書房新社
政治的動物

政治的動物

  • 作者:石川義正
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
1979年から2017年までに日本語で発表された小説のなかの「たがいに他者同士である形象」としての動物たちを、「社会の周縁に排除されてきた女性やマイノリティ、障碍者、そしてさまざまな被差別をめぐる形象」に近づいたものとして捉える批評で、特に第一部はほぼ女性作家論集にもなっているのはテーマからも必然的な構成だろう。
エリック・マコーマック『雲』東京創元社
雲 (海外文学セレクション)

雲 (海外文学セレクション)

メキシコで見つけた『黒曜石雲』という奇怪な天候現象を記した本の舞台がスコットランドにある主人公の若き日の失恋の思い出の土地だったという偶然をきっかけに、孤児から生まれた孤児がこれまでの人生をたどり返す、不穏な感触を湛えた長篇小説。
上掲三冊は以下の記事に本文あり。
秋から年末にかけて読んだ本 - Close To The Wall

ライター仕事

今年は以下の二冊の書評を図書新聞に書いた。
オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』
図書新聞にトカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の書評が掲載 - Close To The Wall

荻原魚雷『中年の本棚』紀伊國屋書店
図書新聞に荻原魚雷『中年の本棚』の書評が掲載 - Close To The Wall



最後に。

この記事で笙野頼子の一作を挙げるにあたって付言しておかねばならないのが以下の一件について。


ネットでは以前からあったものの、お茶の水女子大でのトランスジェンダー学生の受け入れ決定を機に反トランスジェンダーの勢力が活発化したり、「現代思想」掲載論文が反トランスだと批判された件などはある程度知られているかと思う(ものとして以下進める)。そんななか上掲の発言があり、ここ数年笙野さんから著書をお送り頂いていて、折に触れ作品を読み、感想をブログにも上げて積極的に支持していた読者ゆえにこそこれは看過するべきではないと思い、上記のように反対の旨を表明した。そうすると笙野さんからメールを頂いていくらかやりとりしたのだけれど、その文面は私には差別主義としか評価できないものだった。それなりに理解できる議論も含まれつつも、全体的にはいかに男性特権を持ってうまれた「強者」のトランス女性が女性という「マイノリティ」の脅威となっているか、という視点からのみ世界の情報をパッチワークしてできあがった、おぞましいヘイト言説としか思えない。私信の内容を明かすことはしないけれども、こうも典型的に差別のロジック、それもレイシズムに酷似したロジックを使ってしまえるという差別への警戒感のなさには唖然とした。「女性」性を身体に還元し、その「女性」のわずかな不利益になるかも知れない可能性を全力で排除し、それがいかに自ら望んだものではなくとも男性性を持つ者を排除すべきだという、セクシズムを根底に持つ、フェミニズムを仮装した差別主義というほかない。男性を叩くための、女性の側からのセクシズムではないか。巷間TERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)と呼ばれるスタンスが性被害や現存する女性差別への抵抗としてあるとはいえるけれども、差別主義にもとづいた言論は人権というフェミニズムの正当性が依拠する基盤そのものの破壊でしかない。「トランスコリアン」などといいだした反トランスの人がいるけれども、差別的発想がベースにあるからそりゃそうなるだろうし、トランス排除の言説はアイヌ民族を「自称アイヌ」などといってアイヌ差別を繰り返すレイシストの言説そっくりだった。氏が撤回などしない限り、以後、私にとって笙野頼子はこのトランス差別の問題を別にして評価することは難しくなった。私に送られてきたネット右翼レイシズム言説のごときメールは、二十年近く読んできた私の氏に対する印象を破壊するに充分以上の力があった。
 付言すれば、ツイッターフェミニズム的な言動する人やリベラルな論者のなかには結構な割合でセクシズムとしか思えない発言をするものがおり、TERFと非常に親和的でじっさいに一部は同居している、というのが私の感想だ。「萌え絵」についての議論において、二言目には女性の作り手に「名誉男性」といいたそうな連中……。以前、氏の小説について、「萌え文化が非常に一方的に男性による女性への暴力として戯画化されているのは気になる」と書いたことがあるけれども、その延長にこの事態はあると思っていますよ私は。だから以前から懸念自体はあったといえるけれども、しかし。
笙野頼子 - 人喰いの国 - Close To The Wall
百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ - Close To The Wall