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北の想像力 《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち いま読みたい38人の素顔と作品アイヌ民族否定論に抗する
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2019.8.31 「図書新聞」2019年9月7日号にはちこ著『中華オタク用語辞典』の書評が掲載
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2019.6.7 図書新聞陣野俊史さんとの後藤明生をめぐる対談が掲載
図書新聞に陣野俊史さんとの対談が掲載 - Close To The Wall

2019.1.26 『骨踊り 向井豊昭小説選』の解説鼎談に参加
『骨踊り 向井豊昭小説選』(幻戯書房)の解説鼎談に参加しました - Close To The Wall

2018.7.28 図書新聞につかだま書房の後藤明生本の書評
図書新聞につかだま書房の後藤明生本の書評 - Close To The Wall
2018.7.26 トーキング・ヘッズ叢書75号 ケイト・ウィルヘルム追悼特集に『クルーイストン実験』のレビュー
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2018.01.06 季刊メタポゾン第11号に鶴田知也論が掲載
季刊メタポゾン第11号に鶴田知也論を書きました - Close To The Wall

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『明日 一九四五年八月八日・長崎』 『五分間SF』『怪談』『インスマスの影』『聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』「百の剣」

明日 一九四五年八月八日・長崎 (集英社文庫)

明日 一九四五年八月八日・長崎 (集英社文庫)

井上光晴『明日 一九四五年八月八日・長崎』
タイトル通り長崎での原爆投下の前日の戦時下の一日、この日に行なわれた結婚式を中心に、関係する人物たちそれぞれの一日を描く、原爆の出てこない原爆小説。それぞれの人がそれぞれに展望し、持っているはずだった明日のこと。セリフは方言で書かれていていくつか意味のとりづらいところもあるけれど、戦時下の平穏とは言えないながらも明日を待ち、新しい門出と命の誕生を迎えつつある人々を描くことで、失われた明日と今生きてある今日との狭間を浮かび上がらせる、というか。公判が延期しなければ爆心地から遠く離れた場所で生き延びられただろう収監者や、路面電車の時刻表通りには走らないルートをたどる運転手はどうなっただろうか、という作者のあとがきは、占いにこだわる女性ともども運命の分岐が示唆されているところか。
5分間SF (ハヤカワ文庫JA)

5分間SF (ハヤカワ文庫JA)

草上仁『五分間SF』
アンソロジーでいくつか短篇を読んでいる草上仁、一冊読むのは初めて。さすがに一作5分では読めないんじゃないかという10ページ台の短めの短篇が収められていて、ちょっとレトロな感触の熟練のアイデアストーリーがきっちり楽しめる一冊。この雰囲気にYOUCHANイラストがハマっている。

怪談 (光文社古典新訳文庫)

怪談 (光文社古典新訳文庫)

ラフカディオ・ハーン『怪談』光文社古典新訳文庫
これも一冊通しては初めて読んだかもしれない小泉八雲。編集されてることが多いハーンの「耳なし芳一」や「雪女」などを含んだ『怪談』一冊の虫エッセイ含めての完訳。いい怪奇小説だった、という感想。概略知ってる話が多いけど「雪女」はこういう切ない話だったのかと意外だった。いずれも何らかの典拠があるものの再話によるもので昔話らしい語り口なんだけど、一作急に近代小説の書き出しになってて驚いたやつがリラダンの短篇が元ネタではないかと言われてて面白い。だいたいの話が昔々あるところに、式の書き出しなのに、この「かけひき」だけ、「処刑は屋敷の庭で行なうとの命令だった」で始まるんだから明らかに異色。「雪女」も、これはじつは元ネタがなくて、そもそも舞台の調布はそんなに雪深くないし、日本各地のこの美女の雪女が出てくるタイプの話はハーンの焼き直しが多いらしく、これは彼の創作によるものらしい。日本にくるきっかけとなるピエール・ロティ『お菊さん』を読んだのが、当時滞在していたカリブ海マルティニーク島だというのがちょっと驚いた。エメ・セゼールフランツ・ファノンのあのマルティニーク島がハーンにも関係してくるとは……。

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

ラヴクラフトインスマスの影』新潮文庫
ハーンから南條竹則新訳繋がりでこれを。既読の創元推理文庫ラヴクラフト全集一巻と中篇二作が被ってるけど、もう内容覚えてないので改めて。宇宙的恐怖というようにSFぽさもあって、同時にミステリ的な謎の探究でもあり、SFミステリホラーといえばもちろんポーなわけで、そういったアメリ怪奇小説のジャンル的伝統を感じる。宇宙(異次元?)と海中から怪物がやってきていて、未知の場所として極限環境としての相似性がある。怪物は蛸や魚や蛙やら、水棲生物のモチーフで形作られていて、海という生命の起源の場が同時に異形のものの居る場所になってて、そして自分自身もまた異形のものの係累なのではないかという底からの恐怖がやってくる。この人間が異形のものに浸食されていく恐怖は、「クトゥルーの呼び声」の人種差別的記述を見ると、混血の恐怖という人種差別と近似のものにも見えかねないところがあるけれども、自分が既にして人間ではないかもしれないという恐怖はP・K・ディックのオブセッションにも似ている気がした。

ヨーゼフ・ロート聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』岩波文庫
池内紀逝去と聞いて、積んであった編訳書のこれを読むことにした。表題の白水Uブックス版に、デビュー作として単独で刊行されていた『蜘蛛の巣』を併載した一冊で、この短い長篇はナチスが台頭する前に反ユダヤ政治結社で頭角を現わす男を描いていて、当時としても今現在読むとしても非常なリアリティがある。危機の時代はいつも似通うのか。これが書かれたのは1923年、ナチスミュンヘン一揆の数日前に連載が終了していて、作中で書かれる事件の日付がナチスにとって何か重要な歴史なのかと思ったらそうではなかったのに驚いた。ヒトラーの名前も確か作中に出てくるんだけれど、この頃はまださほど有名でなかったらしい。主人公の男は軍隊上がりだけれども生きて帰ったがゆえに家庭内に居場所がなく、成績優秀なユダヤ人への劣等感などを抱えながら、反ユダヤ主義に傾倒していく。ユダヤ人を劣等人種とみなす言説の受け売りをしつつ、国の中枢を巣くっていると考えるという差別主義の自己矛盾も描かれている。友人を殺し、社会主義ストライキを弾圧し、主人公テオドール・ローゼは成り上がっていく。

憎むべきヨーロッパ人の一人、テオドール・ローゼ。卑劣で、残酷で、不器用で、腹黒くて、野心満々、役立たずで、金の亡者で、軽率で、階級好きで、無信心者で、高慢で、卑屈で、しがない出世に目がないテオドール・ローゼ という男。ヨーロッパの若者といわれるやつだ。愛国者と称するエゴイスト、信仰なく、恩義なく、血に飢えていて、目先が見えない。これが新生ヨーロッパの担い手だ。118-119P

工場の門前でストライキを打った労働者たちに、市民組織が襲いかかった。刺し、ぶちのめし、射殺した。新聞には、労働者が通行人を脅嚇とある。もはや武器を使うしかなかったとある。アジテーターが巡回して、国民の蜂起を訴えた。市民たちは、職場でも、デパートでも、工場でも、役所でも、一斉蜂起のことを口にした。社会主義の新聞は、連日のように襲われた。警官が駆けつけてもいつも遅すぎる。やっと惨状を確認していくだけ。秩序の勝利だった。144P

彼は救うべき祖国を語った。そして若者層に人気を得た。これまでの経験は、きれいさっぱり消え失せた。テオドールは国内にはびこる「内なる敵」を憎んでいた。ユダヤ人や平和主義者、進歩派気どりのインテリを憎悪していた。皇太子やトレビッチュやクリッチェ探偵やザイファルト大佐を知った以前から憎んでいた。その点、いまもまるで変わらない。172P

あまりにも現代日本の似姿といってよく、百年前の小説にもかかわらず強烈なリアリティがある。後半にはこのテオドールにとってなくてはならない存在になるベンヤミン・レンツというユダヤ人がいるけれども、テオドールに力を貸すようでいながら裏切っても居る二重スパイでもあって、反ユダヤ主義者と付き合いつつ裏切る二重スパイのユダヤ人という描き方に、作者が現ウクライナガリチア出身のドイツ系ユダヤ人というダブルアウトサイダーだったことが重なってみえる。解説でもあるように、序盤の文体はすぐに即物的かつドライな文体へと変わっていき緊迫感を醸し出していくようになる。解説には同じくユダヤ人だった作家シュテファン・ツヴァイクへ、ロートがいちやはく亡命を勧めた言葉を引きつつ、ロートの言葉を要約してか、こうも書かれている。「ナチズムの野蛮に歓呼して、支配をそっくりゆだねるような社会なのだ」、と。「いずれ地獄が支配するのです」とも(388P)。

「蜘蛛の巣」以外の白水Uブックス収録分を。「四月、ある愛の物語」は旅の途中に訪れた街での、「ファルメライヤー駅長」は駅長が一目会った女性に思い焦がれて街と母子を捨ててしまう、いずれも放浪と愛の短篇。どちらも不倫的な過程が描かれていて、これは「蜘蛛の巣」の二重スパイと重なる気がするし、いずこにも安息の地のない放浪者ゆえとも思える。「皇帝の胸像」は『ラデツキー行進曲』短篇版ともいえるオーストリア=ハンガリー帝国亡き後、その多民族国家を哀惜する一篇で、「家」の喪失が描かれる。主人公のモルスティン伯爵はオーストリア=ハンガリー帝国のいち貴族で、帝国崩壊後も、新しい世界の風習に慣れることがない。彼は「超国家的な人間であって、これぞまことの貴族」で、自分が「何国人」かどうかなどを考えたことがない。

彼はほとんどすべてのヨーロッパの言葉を、いずれ劣らず流暢に話した。ほとんどすべてのヨーロッパの国々がわが家も同然だった。いたるところに友人がいた。親戚がいた。この点、オーストリア君主国自体がヨーロッパのミニアチュールであって、だからこそ伯爵の唯一の故里だった。282-3P

かつては祖国があった。まことの祖国、つまり、「祖国喪失者」にも祖国であるような、唯一ありうる祖国、多民族帝国のオーストリア君主国は、まさしくそのような祖国だった。その国が消滅して、いまや自分は故郷喪失者である。永遠の放浪者にそなわっていた唯一の故里を失った。296-7P

この箇所はほとんどロート自身の考えではないかと思わされる。ドイツ人というオーストリアの支配階層ゆえに現地の多数派に疎まれ、東欧一円で起こるユダヤ人迫害にも晒されるガリチアユダヤ系ドイツ人、そのような人間にとっての家、祖国、それがオーストリアだったわけだ。しかし貴族が主人公の本作が示すような身分制が前提にあって、同じく東欧の多民族国家ユーゴスラヴィアもまた一人のカリスマによって連邦を維持していたわけで、民族自決理念、ナショナリズムの勃興が多民族共存の場を崩壊させたといっても、やはりそれは郷愁にしかならない気もするし、だからこそ、この短篇はこのように書かれたのだろうとも思える。表題作は橋の下に住んでいた男にもたらされた二百フランをめぐる小さなファンタジー。ほとんど作者自身の最後を予見するような、放浪と酒の人生を肯定するような哀切さ。「神よ、われらすべてのものどもに、飲んだくれのわれら衆生に、願わくは、かくも軽やかな、かくも美しい死をめぐみたまえ!」

デビュー作と最後の作で諸短篇を挾むかたちで、ロートの全体像をコンパクトに示すことを企図して編まれており、大作『ラデツキー行進曲』のエッセンスともいえる短篇や放浪の人生を描くもの、そしてナチス台頭を描く長篇を収め、作家への優れたガイドになりうる一冊だろう。

「群像」10月号掲載、倉数茂「百の剣」
女性画家アルテミジア・ジェンティレスキの、聖書外典のユディトという女性が男の首を切る場面の絵をモチーフに、女性専用車両に乗り込むおぞましいセクシスト集団に抵抗する女性の手記を読みつつ、語りの混線による痛みの移行を遂行するかのような中篇。『名もなき王国』での語る対象と語られる対象の問題を、暴力の感受性を軸に据えたようにも思える。美術史における女性画家の圧倒的不在に、公共ジロジロ団という視姦集団を置くことで見ることの権力の問題を浮き彫りにしつつ、書くことが読むことを通じて語りの水準を超えて交錯する。レイシストなりセクシストなりのいまも横行する差別主義集団への抵抗を志向しつつ、憎悪をではなく痛みの共有を描くのが鍵だろうか。「憎しみに逃げ込むんじゃなく、自分自身の痛みを抱きしめるの。自分が苦しんでいることを恥じる必要はないから」145P。文章による共感共苦、その百の剣というか。一読では校閲と人形、そして同性愛のモチーフをまだきっちり理解できてないところがある。あと勝手にこれ語り手を男性的に読んでしまっていたけど、語り手の性別が明示されたところがあったかどうかが覚えてない。

「図書新聞」2019年9月7日号にはちこ著『中華オタク用語辞典』の書評が掲載

表題通りの原稿を書きました。おそらく昨日から書店などで入手できると思います。電子版もコンビニで買えます。


中華オタク用語辞典

中華オタク用語辞典

はちこ『中華オタク用語辞典』(文学通信) - 文学通信
版元のサイトには詳細な目次や索引が載ってて、どんな内容かざっくりわかります。

Twitterに書いたとおりですけど、オタクのSNSでの投稿を模した会話文などを通して、中国語のオタク用語を解説した一冊で、元々は同人誌だったらしいです。私は今回初めて読んだのですけど、オタク用語集という読み物とともに、中国ネット文化小史の趣もあります。台湾での使われ方も一応カバーされていますけど、基本的には中国を中心にしてあります。

個人的には「霊剣山」の名前をねじ込めたので満足してます。私が中華アニメに注目するきっかけになった一作。中国アニメとしては去年の「TO BE HEROINE」や「軒轅剣 蒼き曜」も傑作だったし、香港の漫画家が台湾のサイトに連載していた作品を中国でアニメ化し、日本語に翻訳した「実験品家族」なんかもありますけれども。

主な参考文献は天児慧中華人民共和国史 新版』岩波新書、遠藤誉『ネット大国中国』岩波新書、藤野彰編『現代中国を知るための52章 第六版』明石書店です。本書と密接に関係する点では『ネット大国中国』がいちばん面白く読めるかと思います。

中国共産党のスローガン「和諧社会」という言葉を建前に政治的、性的なコンテンツの規制が行なわれていて、「和諧」、日本語で言う「調和」がウェブページが削除されたことを示す隠語になっているというのは書評にも書きましたけど、この「調和社会」、伊藤計劃の『ハーモニー』をどうしても思い出しますね。グーグルがファーウェイとの取引を一部停止したという事件があって、そこでファーウェイが独自OSを開発してそれが「Harmony OS」だというのはもちろんこの「和諧社会」を元にしたものだ、というのは本書を読んでいたのですぐわかりました。

ネット大国中国――言論をめぐる攻防 (岩波新書)

ネット大国中国――言論をめぐる攻防 (岩波新書)

遠藤誉『ネット大国中国』岩波新書、2011年刊。習近平政権以前の刊行で古さはあるけど、グーグルの中国撤退事件から説き起こした中国のネット事情が詳しく描かれておりなかなか面白い。言論の自由がないというと簡単だけれど、ネットの人々――網民と政府の関係がいかなるものかを具体的に紹介してあり、参考になる。なかでも、炎上によって網民が行政や警察の不正を告発したりして解決に導いた事例がさまざまに挙げられており、一党独裁中共といえどもネットの民意を無視することができないけれども、それは党是に基づいた地方行政批判どまりで、中央批判はやはり危うかったりする。言論が逮捕にいたるかどうかという時にさまざまな条件があるけれども、特に重要なのは、外国勢力がその背後にあるかどうかというのは面白い。つまり党は西洋式民主主義をもっとも敵視しており、たとえば共産主義や革命精神にもとづいた批判ならば、削除はされても逮捕されない事例がある。
現代中国を知るための52章【第6版】 (エリア・スタディーズ8)

現代中国を知るための52章【第6版】 (エリア・スタディーズ8)

最近の中国事情としては『現代中国を知るための52章 第六版』が去年の版で習近平政権の雰囲気がつかめる。特に、習政権になってからの抑圧的姿勢の強化が国際政治の面からも解説されていて、南沙諸島での強行的な基地建設や金にものを言わせた台湾国交国を断交へと転ばせる外交政策ありさまなど。ただでさえ独裁的な検閲体制が、二〇〇〇年代の年二桁での経済成長によって世界第二位の経済大国となったことによる影響力の増大と、六四天安門事件の再来がいわれる今、中国の強権的なあり方はなかなか暗い見通しを与えてくれるものがある。

「鶴鳴」「文藝」2019年冬号「韓国・フェミニズム・日本」『ニグロとして生きる』『壜の中の水』『母の記憶に』『草を結びて環を銜えん』『新・韓国現代史』

文藝 2019年秋季号

文藝 2019年秋季号

文藝2019年秋号、陣野俊史の中篇「鶴鳴」。2016年オバマ米大統領の広島訪問で贈られた折り鶴をたどり、ケニア系米国人オバマアルジェリア系の父を持つ長崎の男、折り鶴協会員らによって、オバマ核廃絶活動、長崎広島の原爆、千羽鶴の佐々木禎子、マダガスカルの反植民地蜂起が撚り合わせられていく。幼少期に被曝して12歳で亡くなり、原爆の子の像のモデルとして知られる佐々木禎子はいくつかの書籍で、鶴を千羽折る前に亡くなったという話が広まっている。生きる希望の千羽に足りない折り鶴。作中のオバマはこれにこだわる。オバマが佐々木禎子に関心を持ったという事実を元に、被曝体験のある祖母を持つ長崎に暮らす男を主要な語り手として、長崎、広島、フランス、ケニア、ハワイ、ユーゴ、マダガスカルといった戦争と植民地の問題という世界史的なスケールに鶴の声を、革命のイメージをも織り込んでいる。佐々木禎子伝説は複数の語り手によってさまざまにバージョンがうまれ、禎子の折った鶴の数は確定できない。しかし、この数字の問題はホロコーストや、マダガスカル蜂起での死者の数の不確定性とも響き合うようにも思う。蜂起についての本からの引用文にはこうある。

記憶すること。自分自身の言葉を聞いてもらうこと。この二つが、マダガスカル人や、アフリカ人に課せられている。だが、数字以上に、あの蜂起を理解する、正確な言葉を見つけることは難しい。402P

原爆と平和への祈りと革命そしてそれらの数多の死者。鶴をめぐる語りがこれらを繋ぎ合わせて、「竈の火を絶やすな」という声がする。

文藝 2019年秋季号

文藝 2019年秋季号

同じく「文藝」2019年冬号の特集「韓国・フェミニズム・日本」を通読。対談、日韓両国からの小説、エッセイ、キーワード集、論考と充実したもので本一冊分くらいはあるか。しかし読んでると斎藤真理子はいったいいくつ訳書が刊行予定になってるのかとびっくりする。四冊?

本特集のフックになっているのはベストセラーとなった『82年生まれ、キム・ジヨン』で対談などでも触れられているけれども私は未読。その作者の短篇チョ・ナムジュ「家出」は、家父長のとつぜんの家出によって家族関係が再編成されていきながら家族同士の見たことのない側面が見えてくる過程が面白い。フェミニズムのもう一方、男性性の問題が家父長制からの離脱として語られている。クレジットカードの使い方もいいし、納豆チゲも印象的。私いま毎日納豆とキムチ鍋食べてるので。

パク・ソルメの「水泳する人」は冬眠という設定がSF的なんだけど、その冬眠をした女性のガイド役をした女性二人が釜山でずっと食べ歩きをしている不思議な手触りが印象的で特に何が起こるわけでもないけど読ませる。ハン・ガン「京都、ファサード」は韓国を出て京都に住んでいた友人が亡くなったことを知った語り手による回想で、自分は彼女に心を開いていなかったのでは、という悔悟とともに語りかける一作。イ・ラン「あなたの可能性を見せて下さい」はエッセイ調の書き方が神へのダメ出しに帰結するユーモラスな一篇。パク・ミンギュ「デウス・エクス・マキナ」はなかなかぶっ飛んだ作品で、神と見紛う巨人の襲来という世界終末のなかの男女が描かれるけど、これって進撃の巨人となんか関係あるんだろうか?

日本人作家のものは、韓国へ行った時の不思議な出会いを書いた小山田浩子「卵男」や、高山羽根子「名前を忘れた人のこと」は、現代美術とあいまいな記憶、という著者らしい書き方で、韓国の仮面を見て記憶の現代美術家を思い出しつつも、韓国人だったかもわからない。西加奈子「韓国人の女の子」は在日と女性というマイノリティ同士の断絶を乗り越える仮想の存在をめぐる作品で、星野智幸「モミチョアヨ」はスポーツを通じた日韓の幸福な出会いを描く一篇。深緑野分「ゲンちゃんのこと」は子供時代にクラスメイトが在日だった経験を少女の語りで描く。

キーワード集や論考がブックガイドとして機能するようになっていてこんなに既訳の韓国文学があったのかと驚かされる。フェミニズム特集の最後にラッパーMOMENT JOONの父と祖父三代にわたる徴兵経験をたどった自伝的小説が、男性性の問題を描き出していて、日本、フェミニズム、韓国という特集の補完になっていて非常に良いし、次のページの「ラップと移民」で最初に引用されているのがこのMOMENT JOONなのが上手い。

ニグロとして生きる (サピエンティア)

ニグロとして生きる (サピエンティア)

エメ・セゼール、フランソワーズ・ヴェルジェスの共著『ニグロとして生きる』。旧フランス植民地マルティニック島出身の詩人、劇作家、政治家のセゼールに、ポストコロニアル理論の研究家ヴェルジェスが行なったインタビューと、ヴェルジュスの対談後の小論、そしてセゼールの1956年の講演を付した一冊。フランツ・ファノンの教師でもあったというエメ・セゼールの人生をたどり直すようなインタビューで、セゼールの事績をもうちょっと追ってから読んだ方が良かった気はするけど、青年時代の話から海外県の成立にまつわる話、植民地と西洋と奴隷制の関係、そして自作の詩と戯曲の引用へと続き、エメ・セゼールの仕事のダイジェスト的な感触がある。

詩は人間に己を啓示します。私自身の底知れぬ場所にあるものは、きっと私の詩心のうちにあります。なぜなら、この「私自身」を、私は知らないからです。詩こそが、私に「私」を暴き、しかも詩的イメージを啓示するのです。44P

ヨーロッパ人はヨーロッパ文明だけを信じているのにたいし、私たちは複数の文明、複数の文化を信じています。この宣言をたずさえての進歩とは、あらゆる人間が、彼らが人間であるという当たり前のことから、同じ権利をもつということです。68P

ヴェルジェスの小論ではこうある「奴隷制が周縁的な位置に押し込められてきたのは、フランス思想の盲点に対応している。なぜ盲点なのか。なぜなら、奴隷制前近代的なもの、後進的なものとする物語がある一方で、奴隷制が現代のものであるという現実もあるからである」(100P)として以下のようにも書かれている。

セゼールは今日の世代において忘れ去られている。いまだ誰ひとり奴隷制を告発した者はいなかったと断言される始末である。こうした無知からしても、沈黙のヘゲモニーが存在したのだと確信できるし、この沈黙が知の空間全体を植民地化しているのだと信じてもおかしくないのである。103P

ヴェルジュスの小論からもう一点引用。

「われわれは支配ではなく、同盟を望んでいるのです。フランスの政治家たちに選択肢を考えることができないというのなら、従属か分離かのどちらかを選択しろというのなら、損をするのは彼らです」、二〇年近くたってからもセゼールは、このように言い放っている。問題の核心をまさに突いているのである。この両極的な選択から抜け出たところに関係が構想できないこと、そこに核心がある、と。政治的な問いが立てられているのである。共和国は多様でありうるか、と。共和国は植民地支配した男女たちを対等者として受け入れられるか、と。122P

群像 2019年 09 月号 [雑誌]

群像 2019年 09 月号 [雑誌]

「群像」2019年九月号の笙野頼子「会いに行って――静流藤娘紀行」第三回は、藤枝静男の「志賀直哉天皇中野重治」をめぐって、それぞれの作家の「私」を読み込むような叙述で、中野の「『暗夜行路』雑談」が、作家にとっては不毛な評論だと批判しつつ、「五勺の酒」の不毛でない語りもしかし、「天皇」という人間に捕獲されてしまっていると指摘する。改元下、「天皇人間性」という捕獲装置をめぐる読み直しのなかで、「私」と「人間」についてのさまざまな様相がたどられる。語り手が志賀を結構評価しているのは、つねに自己に即くありかたが「私小説とは自己だ」という持論と通じるからだろう。翻って中野の志賀批判は成心のない、本心からのものでもそれは「批評機械」と呼ばれるように、公共性や理論的なものであれもやれこれもやれ式の、作家には届かないものと批判される。さらに中野は「私的なものを理解することが不得意」だとし、「特権的自我、所有する自我」もそうだ、と。最後に、小説を書いてるのは、「必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分。千の断片としての自分。/ もし自分が間違っていたとしても自分の文章は自分を裏切らない
」と締められる。

壜の中の水 (1965年)

壜の中の水 (1965年)

藤枝静男『壜の中の水』 「わが先生のひとり」や「壜の中の水」、「魁生老人」など、語り手が人生のうちで出会った一筋縄ではいかない人間に触れた作品が特に印象的。骨董も窯跡から焼き物のかけらを掘り集めたりとか、意識して老人になることにしたりと語り手もかなりの偏屈者でたのしい。「壜の中の水」の宍戸が息子の死んだ日に仕事にやってきて「死ねば同じことだ」と言い放ったドライさ。この作は宍戸という人物とのかかわりとその死に心乱されるという話で、土から焼き物を掘り集めたり、宍戸の事故死など、死んだり砕けたものと土の要素が死で縒り合わされた感じもする。語り手の骨董への認識も、「こういう死物が自分を自由にし、勝手な空想に遊ばせてくれる。誰も気にせぬ無用の器物が、無責任な美しさで私を魅惑し、かつてそれを不可欠な家具として左右においた平和な人間を宙に描かせる」(88P)とか、「ある志野の水差しの温雅な肌と色合いとが、私を魅した。しかし私は、それを割って欠けらだけにしてしまったら、遙かに純粋で美しいにちがいないと思った」(149P)とか。無用のもの、砕けたもの、死んだもの、社会的責任から降りた老人としての自己、などの連繋してるようなしてないようなうねり。「魁生老人」もこの偏屈な語り手が偏屈な老人と出会う話で偏屈な老人同士の偏屈な話で良い。本書では語り手がなんどかこの人は満洲帰りだろうか、という観察を記していて、さすが国民の一割が植民地帰りの引揚者だったという日本のシュリンクした帝国ぶりがまだ残っている時代だなと思った。

母の記憶に (ケン・リュウ短篇傑作集3)

母の記憶に (ケン・リュウ短篇傑作集3)

ケン・リュウ『母の記憶に』文庫版、第二短篇集の分冊一冊目。SF色強めのセレクトという通り、上手いショートショートからアイデアストーリー、近未来ミステリあるいはファンタジックなものも含めて多彩だけど、価値観の相対性を真摯に突き詰めていくバランス感覚が印象に残る。グーグル的な情報管理社会の行き着く先の「パーフェクト・マッチ」、シンギュラリティ以後のデータ人格とリアル人格の対立の「残されしもの」、スーパーマンと敵対する悪役が未来の殺人者を先んじて殺す設定の「カサンドラ」など、人によってどっちに肩入れするかそうとう分かれそうだと思う。ドローン操縦者が直接人を殺すというならそれを自動化すればいいというのがただの責任の先送りにしか過ぎない「ループのなかで」や、常連と常態の掛詞を題にとる近未来SFミステリ「レギュラー」が読み応えがある。これには中国と米国の関係が背景にあり、ドラマの名前で「香港」が出てくる。「わたしの香港、あなたの香港」というドラマ名。
草を結びて環を銜えん (ケン・リュウ短篇傑作集4)

草を結びて環を銜えん (ケン・リュウ短篇傑作集4)

ケン・リュウ『草を結びて環を銜えん』。『母の記憶に』分冊文庫版二冊目、こちらは中国もの中心のセレクトになっていて、対立物の共存可能性のテーマはよりいっそう強く出ており、中国史に取材する歴史ものも非常に面白く、とりわけ「万味調和」を英語で書くことの意味を感じさせる。「烏蘇里羆」は「良い狩りを」を思い出させるスチームパンク?もので、北海道で羆に家族を殺された男の復讐譚が、機械馬や機械化義手を駆使した改変歴史世界で展開されるけれど、終盤の意外な展開は開拓植民が侵したものの側から見返しつつ、先住民もまた近代技術を習得ししていく将来を予期させるところがとても良い。作者がいくつか書いている植民地開拓を扱った作品の一つ。

「長距離貨物輸送飛行船」は「紙の動物園」の母親を想起させる、なかば買うように中国人妻と結婚した飛行船操縦士夫婦を、二人で飛行船を時間ごとに交代しながら飛ばすという、ものの考え方と生活時間の違う二人のコミュニケーションを淡々と描いている。二人で一つの船を操縦するということ。「存在」はテレフォンならぬ遠隔存在テレプレゼンスという、遠隔地から介護ロボを介して母親と交流する、介護をしない男の罪悪感について。「シミュラクラ」は逆に、その人の似姿をコピーする技術が、過去の恋人や幼い娘のコピーを愛でる父へ反発する娘の視点からのもの。

「草を結びて環を銜えん」は中国明代末の、満洲族による揚州大虐殺を題材に、歴史に残る英雄の実像と事実の封殺に抵抗する語り部を描く歴史幻想譚。とはいってもメインは妓楼随一の美女とされる緑鶸と、纏足もしてない不器量な雀という二人の娼妓の、非常時を生き抜く百合小説でもある。緑鶸の愛こそが最も欲しいという雀は纏足をしないがゆえに歩くことが難しい緑鶸を助け、そして緑鶸はその美と話術で、非常時に自分の命を危険にさらしてもなぜか人を助けていく。緑鶸は言う、「あたしみたいな女のせいで中国が倒れるというあの責め言葉は、おもしろいね」(152P)敵前逃亡を試みた男が後に英雄視されることを予期しつつ、人助けをしている女に国の敗因をなすりつける、英雄と「傾国の美女」伝説のミソジニーを抉っている。

この揚州大虐殺を記録した書物をめぐる歴史の封殺に抵抗した個人を描く「訴訟師と猿の王」もまた、英雄と歴史をめぐる一篇。理不尽な権力の抑圧に抵抗する、いわば弁護士といえる訴訟師の主人公が、封殺された歴史書をある縁で守る話なんだけど、彼の心に住まう猿の王は言う、「英雄なんてものはないんだよ―中略―おれたちはみんな普通じゃない選択肢を突きつけられた普通の人間だ」(190P)、と。揚州大虐殺は国家の非道が歴史から封殺されている点で天安門事件を思わせる。民衆の人権を擁護する弁護士(ケン・リュウ自身も弁護士だった)を主人公に、猿の王こと孫悟空という中国の英雄を伴に語られるのは、この歴史と民衆への視点だろう。またこの二篇には真実と正義への祈りと普通の人間こそが小さな英雄だという信念が感じられる。なぜ揚州大虐殺なのか、なぜこの話なのか。作中の歌が時代を変えていたように、過去の歴史を介しつつ、きわめてアクチュアルな政治的現在を撃つ作と思われる。訴訟師も劉暁波を思い出したけどどうだろうか。私は詳しくないけれど。

「万味調和」は19世紀アメリカ、ゴールドラッシュでアイダホを訪れた中国人の一団と地元の少女との交流を描いた一作。ボストンでの弁護士を仕事を蹴ってアイダホにやってきた一家に、ローガンという巨漢をはじめとする中国人たちが部屋を借りてに何人も所狭しと暮らしている。好奇心旺盛な少女は、中国人を嫌悪する母親の言うとおりにはならずに、ローガンと交流を続け、さまざまな文化、食、遊戯、そして関羽の物語を聞き、そして中国人の一団もまたアイダホの田舎に根付き始める。その後の歴史は排華移民法によって悲しい結末をたどるけれど、アイダホにはこの悲しい歴史を忘却しまいとする活動が続けられていることが付記され、この米中交流の歴史の一コマを非常に味わいのあるものにしている。

訳者が言うようにケン・リュウのエッセンスが詰まったような一冊になっていて、中国ものにやはり非常な読み応えがある。米中の相互交流以外も、多くの小説が故郷や家族、その距離をめぐって書かれている点が魅力と入りやすさになっている気もする。

新・韓国現代史 (岩波新書)

新・韓国現代史 (岩波新書)

文京沫『新・韓国現代史』岩波新書。日本植民地支配からの解放以後、南北分断、朝鮮戦争、独裁、クーデターからの軍事政権、そして民主化以後の進歩的政策も李明博政権でバックラッシュに至るという現代史をたどる一冊で、近年の非正規雇用の増加とそれが若年層の安定志向を生んでいるなど、日本とも非常に似た様相を示しているように見えてなかなか面白い。

李承晩政権の政敵抹殺の策略その他、選挙や政治にともなう悪辣な手法の数々や、朴正煕軍事政権での弾圧、それに抗するデモや光州事件といったコミューンなど、激動の時代といって片付けるのも難しいような弾圧虐殺の政権も、東アジアの前線としてアメリカも容認しているのはまあ、いつものことだ。韓国現代史は「社会主義と直接対置する前線国家」ということと不可分で、これは甲午農民戦争義和団事件の鎮圧など、「日本の近代国家としての出発は、列強の東アジアでの利害を代弁しつつ民衆の抵抗を抑える軍事力として承認されることで初めて可能であった」(16P)という序章の指摘を想起させる。また、「日韓条約アメリカからすればインドシナ戦争の後方支援の体制づくりとして結ばれた条約であった。すなわち、韓国がインドシナ戦争に軍事的に貢献し、この韓国を日本が経済的に支える仕組みがこの条約によってつくりだされた」(107P)とあり、日本の戦争への関与の歴史の一端がある。このとき日本経済も機械製品の安定的な海外市場を求めており、韓国も借款や輸出信用によってもたらされた日本の資本財や中間財によって生産力基盤の拡充に役立て、ここに米日韓の利害の一致を見た、と指摘されている。なお朴槿恵はこの条約締結時の大統領朴正煕の娘。

朴正煕は日本の陸軍士官学校を出て満洲軍にいた人で、韓国軍にいたとき兄の影響で共産主義政党に入党したことが発覚し、本来なら極刑のところ軍内部の党員を密告して粛正に協力したことと満洲軍人脈の救命運動で命拾いしている。岸信介池田勇人満洲人脈が朴正煕の支援をしており、よく言われる韓国と日本の保守派同士の太いパイプというのはこれか、と。弁護士出身の革新派盧武鉉政権の後、保守派の李明博政権誕生時には福田首相や森、中曽根元総理などの保守派の大物のほか天皇からも盧武鉉には送られなかったメッセージが届いたというのはろくでもない差別化で笑ってしまった。李明博と同党の保守派が朴槿恵で、革新派盧武鉉の側近で同じく弁護士だったのが文在寅だとわかると、大まかに近年の政治動向がわかるか。盧武鉉政権では植民地期から軍事政権期までの人権蹂躙を対象とする過去事法の成立があり、この過去清算の動きが必然的に日本との摩擦を起こすことにもなる。

日本の「経済侵略」と「売春(妓生)観光」に対する反感についても指摘されていて、従軍慰安婦問題においてはことにその反論の仕方で「売春観光」に擬えられてよりいっそう悪印象で受けとめられているだろうことは想像に難くない。また、インドシナ戦争ベトナム派兵でのハミ村での村民虐殺は最初に食糧などを与えて安心させてからの「几帳面な虐殺」が指摘され、日本の戦争犯罪に対する態度の信憑性を毀損するとも指摘されている。

李明博政権の盧武鉉政権の九倍になる財政赤字や金持ち減税、リーマンショックでも大企業優遇をした結果、経済成長は前政権に対しても圧倒的に下回るという結果になり、支持率の急落と盧武鉉再評価のなかで、盧武鉉は親族の逮捕や標的捜査によって自殺に追い込まれている。とはいえ金泳三、金大中盧武鉉文民政府のもとでの格差拡大、貧困増大の経済問題が、朴正煕時代の「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長の再評価が娘朴槿恵の支持に貢献したとあり、そのなかでの朴槿恵国定教科書構想など、日韓のバックラッシュに著者は危機感を示している。

四年前の本で紙幅故に説明が欠ける記述もままあったけど、革新派支持の立場からの韓国の政治状況の概観が得られる。類書としては木村幹の『韓国現代史』も二年くらい前に読んでてこれは大統領の列伝スタイルで読みやすかった覚えがあるけど具体的内容は忘れてしまった。

『会いに行って――静流藤娘紀行』『風景のない旅』『外地巡礼』『藤枝静男著作集四巻』『日本浪曼派』 『ナイトランド・クォータリーvol.17』『天安門』『ブラマタリの供物』

笙野頼子『会いに行って――静流藤娘紀行』(第一、二回)

群像 2019年 05 月号 [雑誌]

群像 2019年 05 月号 [雑誌]

群像 2019年 07 月号 [雑誌]

群像 2019年 07 月号 [雑誌]

「群像」でスタートした笙野頼子の新作は藤枝静男。笙野が特定の作家を題材に長篇を書いたものでは『幽界森娘異聞』があるけれど、藤枝は新人賞で笙野頼子を強く推したいわば文学的恩人とも言うべき人物。その藤枝静男について、笙野頼子なので当然事実に基づく評伝ではなく、藤枝の「私の「私小説」」にちなんで、「私の師匠説」を書く、と始まっている通り、「自分の私的内面に発生した彼の幻を追いかけていく小説」として書かれていく。初回は、藤枝静男の「文章」から、強いられた構造を脱け出ようとする技法を、語り手自身との類似点と相違点を検討しながらたどろうとする試みのように思えた。新人賞で自分を見いだした「師匠」の小説をたどり、静岡での藤枝静男の娘さんとの出会いへと話がつながっていく。藤枝は潔癖な性格から自身の性器を傷つけたエピソードが知られるけれども、今作でも「自分の体の中にある性欲を他者のように憎み、しかもそれから目を背けず自分の所有物として引き受ける」143Pと書かれ、その倫理性を評価しつつ、笙野作の語り手自身は性欲に苦しんでいない、と彼我の切断線を明示しもする。藤枝静男の「理解」とは、理論ではなくつねに具体物から発し、その具体的な文章から奇跡を起こす、と評し、リアリズムに徹することでリアリズムを越える道を示す。性欲あるいは膠原病の、自身の身体という具体物を見つめる視線と、その外への志向が見いだせるようにも思う。

第二回は、「不毛な改元」を話題にしながら、藤枝静男文芸時評にあった天皇への怒りについて、これも引用の集積『志賀直哉天皇中野重治』などを引用しながら追っていく。笙野の旧作『なにもしてない』で既に改元天皇について書いていたことと、最後ホルンバッハの日本女性蔑視CMの件にふれつつ、多和田葉子との対談のために共産党本部へ行ったことが最後にあるのは当然意図的な構成だろう。改元騒ぎを「平成からゼロ和、それはTPP発効直後のリセット元年だ」と厳しく批判しつつ、志賀は天皇に近いが故に捕獲されているけど、中野もまた人間と制度を切り分けられるが故に人間を人間性によって判断するという文学を禁じられ、政治に捕獲されているとも指摘する。藤枝静男を文芸文庫以外のものも読まないとな、と思っている。「群像」は笙野頼子さまに恵贈頂きました。

古山高麗雄『風景のない旅』

72年、原卓也後藤明生とともに文藝家協会の代表団としてソ連へ行った時の紀行エッセイ。後藤の『ロシアの旅』の別視点になる。後藤読者としては古山が随所で後藤の感動癖を指摘し、作品はシニックで批評的だけどじつは涙もろい人情家では、と書いているところは面白いし、妥当でもあると思う。甲子園や高校野球に対する態度もかなりそういうところがある。まあしかしなかなか偏屈な人でソ連への見方も非常に冷たい。戦前の弾圧と戦後の学生運動を同一視したりするような保守派だからか、とも思わされるくらいだ。フランスの田舎村に落ち着くくだりをみると、ものさびしいくらいの観光地的でないところが好きな感じがわかるけれども。 

西成彦『外地巡礼』

外地巡礼

外地巡礼

外地や移民といった異言語環境との接触から生まれた日本語文学をたどる論集で、後藤明生の朝鮮、島尾敏雄ポーランド鶴田知也の北海道、目取真俊の沖縄、台湾文学や台湾と縁のあるリービ英雄、温又柔、あるいはブラジル日本語文学まで多種多様な作品を扱う博捜ぶりには圧倒される。さまざまな境界に立ち現れる表現を見ていくにはそれぞれの背景についての知識が要るわけで、台湾ひとつとっても日本統治とその後国共内戦で敗北した敗残兵や難民の移住によってできた眷村の文学など、複雑な歴史が絡んでおりそこから生まれる文学もまた一様ではないわけで。さまざまな作家作品、マイナーメジャー入り乱れてたくさんの名前が出てくるのでこちらも情報に飲み込まれてしまうところがあるけれど、ここで読むべきは著者が「外地の日本語文学」としてさまざまな実例とともに比較対照しながら世界史的スケールでそれらを読み直す視野の広さだろうか。やはり類似例との比較考量をもってその作家作品の位置づけ、独自性、意義を考えないとならないけど、私がやるとそこらへん全然考えてないことが多い……。本書でひとつ印象的だったのは、日本の敗戦をブラジル政府のデマだとみなして、いずれ日本からの迎えが来るはずと、日本の敗北を認めた同胞たちを襲撃していた集団の名前が「勝ち組」だったことだ。こんな哀しく惨いアイロニーもないものだ、と思った。

藤枝静男著作集四巻』

藤枝静男著作集 第4巻

藤枝静男著作集 第4巻

笙野頼子の近作で引用されてる文芸時評には後藤明生も出てくると言うことでそれを読んで、ついでに四巻全体を通読する。これを読むまでは知らなかったんだけど、著作集は編年体ではなくテーマ別編集になっていて、この巻では前半は戦時下小説集となっている。イペリットガスを扱わされる少年達に眼科医として対処する「イペリット眼」、満洲で犬の血を人間に輸血する人体実験を命じられる「犬の血」、敗戦後家族を求めて脱走兵となり撫順の家族の元にたどりつくまでを兵士の語りとして描く「武井衛生二等兵の証言」など、私小説作家という印象からはずいぶん違う小説で、こういうものも書くのかと思いつつも面白い。「近代文学」同人だけはあると思った。少年達が置かれた状況や軍人たちの醜さを指摘するところもあるけれど、イペリットに晒された人という新しい研究テーマに心躍る自分もいることが書かれてもいて、エッセイ「利己主義の小説」でいうところの自分を剥いていくことで己を苦しめる敵を見いだし、救われたいと自己を抉っていく作風はこの人らしい。

書評パートでは、武者小路実篤の自伝にふれ、自分を生かし他人を生かす「新しい村」が、養鶏によって初めて自立の見込みが出来たということに衝撃を受けたと書いているところが印象的だった。監禁と搾取の見本の養鶏が「他を生かす」こととどう関係するのか、と。中村光夫と会ったときのことも面白くて、見知らぬ青年が控え室に現われて中村にでたらめな議論をまくし立てているのをどうして我慢して聞いているのかと思ったら、青年が藤枝の知り合いでもないと気づいた瞬間に目障りだ、と怒鳴りつけたエピソードが印象的だ。中村光夫の義理堅さと激発ぶりの落差。藤枝が師匠と仰ぐ志賀直哉は、小説か随筆かの違いを書く時の本気度の違いのようなことを言って、後藤明生がその主観的態度を徹底して批判したけど、藤枝は志賀にまったく賛成しているのも面白い。藤枝静男著作集には後藤明生も月報で書いていて、交流があったようだけれど、ここらへん私的に議論したりしたことがあるんだろうか。私小説を擁護し、評論でもその向こうに作者の姿が見えたかどうかを判断基準にし、そして当代の理論ばった風潮を批判する一貫性がある。文芸時評金井美恵子の「千の夢」を酷評しているのは、そうした態度の一例だろう。

また、小説では愚図で流され型でも心の底では戦争非協力者のように書いていたけど、それが自己美化ではないかと疑っていたところ、昔の知人と会って、海軍工廠の医務部の国旗掲揚君が代斉唱に病院の職員看護婦も参加せよという院長の通達に、無意味で診療の邪魔だと直談判した話を教えられるのもすごかった。自分が書いた小説のそれは決して誇張じゃなくて安心した、とまとめられてるけど、その知人が横でそれを聞いてて、懲罰招集ものでどこかへ送られかねないとゾッとした行動だったらしい。小説以上かも知れない。イペリット眼の少年達が「馴らされた虫のような、みじめな奴隷感情」、「肉体の一部を障害される屈辱に無感覚になっている」という観察や、批判精神に対する軍人の軽侮といったものが書き込まれているのも、著者の批判精神ゆえのものか。「私自身は、そのときになったら、どんな目に合っても戦争に反対する決心をしている。それが私の「戦後」である」435P、の一文が本書の著者の最後の文章となっている。

伊藤佐喜雄『日本浪曼派』

日本浪曼派 (1971年) (潮新書)

日本浪曼派 (1971年) (潮新書)


保田與重郎に惚れ込み「コギト」「日本浪曼派」などに参加した作家が、その文学運動を当事者の立場から回想する一冊。三島由紀夫太宰治、蓮田善明、佐藤春夫棟方志功その他その他の同人、文学者たちとの出会いと別れを記した青春の書といった風合い。この著者は第二回芥川賞に二作が候補に挙がり受賞に至らなかった人で、審査会場が226事件の軍人らによって占拠されて手紙による回答をするしかなかったことが受賞者なしの主な原因だろうと書いている。著者は保田について、宣伝者でも煽動家でもないし、政治や戦争の時務についてなんらの発言もしていない、彼は一切の時務論に関心を持たない、と述べている。「完全無欠なる平和主義者」で、軍部の覇道の精神と倨傲を攻撃したため、軍部の忌諱を買ったとも述べる。軍部への批判は政治や戦争への発言ではないのかよくわからないけどそれはいいとして、三島由紀夫豊島公会堂での追悼集会が川内康範の司会で行なわれたというのがちょっと面白かった。彼は富沢有為男門下の浪曼派的無頼派的詩人でもあるという。

『ナイトランド・クォータリーvol.17』

ナイトランド・クォータリーvol.17 ケルト幻想〜昏い森への誘い〜

ナイトランド・クォータリーvol.17 ケルト幻想〜昏い森への誘い〜

岡和田さんが編集長になってた英米幻想文学誌。松本寛大さんが短篇を寄せているので入手。小説以外をざっと読むと、井村君江インタビューが面白かった。研究対象も幅広いのに徹底主義だといい、シェイクスピアの訳について小田島雄志に注文をつけたらぼくは研究家じゃないので、と言い訳させた話は強い。それでいて、若い人にはぜひ頑張ってもらって私の本が売れなくなって欲しい、というのも良くて、自分の研究に自信があることと、学問たるもの先人を批判し乗り越え、後輩には乗り越えられるべきものだという信念が感じられる。でも私たぶん井村君江の本読んだことないかも。アーサー王関連も全然読んでない。幻想小説系わりと好きだと思ってたけど、じっさい怪奇幻想系の古典的作品全然読んでないんだ。マッケンとかも。創元の『怪奇小説傑作集』くらいは通読せんと、と思ってるけど。

で、松本寛大「ケルトの馬」を読んだ。「君の夢もこれでかないそうだよ」の冒頭の一文が改めて印象的な、願いを叶える馬の幻想譚で良かった。ブレグジット迫るイギリスを舞台にアメリカ企業の英国撤退交渉を妨害するテロリストと、ケルトの馬の伝説が絡まり合い、距離を超える馬が露わにするこちらと向こう側との同質性。今号のなかでももっとも現代的な問題意識が感じられる。ほかの小説は、古典的なマッケンの作品とマッケン読者を主人公に据えるコムトワ、19世紀の作品で民話的簡潔さがあるカーティン、ローマ帝国や大陸のケルトを題材にする橋本純とカーター、子供たちの冒険のテラーマン、ハネットとスラッターの短篇は身体の内部のモチーフが共通していて興味深い。現代のテロリズムと伝承の絡む松本寛大「ケルトの馬」、自然のなかでの子供たちの冒険が異界への接触になるジュブナイル的物語性のあるデイヴィッド・テラーマン「木の葉のさだめ」、この二つが特に良いかな。リサ・L・ハネット「食べさせてあげる」の、話の全体像が見えないことが不気味な感触をもたらしていて、食べること、何かを体に取り込むことの異様さが浮き彫りになるあたりと、アンジェラ・スラッター「赫い森」の「この地に君臨するためのドレス」も結構格好いい。あと、朝松健のケルト文芸復興と魔術結社の論考、なるほどなるほどと読み進んでいたら終盤一気に二十世紀の歴史に神と悪魔を見いだしはじめて、このオカルティズムを論じる文章それ自体がオカルトに変貌していくというホラー感を味わえた。

リービ英雄天安門

天安門 (講談社文芸文庫)

天安門 (講談社文芸文庫)

著者はアメリカ国籍ながらユダヤ系の父親に日系二世の友人の名前をつけられ、五歳から台湾で育ち、両親の離婚を経てアメリカに戻って万葉集の研究をして、その後日本に常住している経歴の持ち主。文芸文庫版の本書はその作者による中国旅行ものを集めた一冊。著者の複雑な来歴はこの日本語で書かれた小説においても現われており、冒頭からバーボンはbourbon、ブルベンとも呼ばれ、中国語、英語が混じる日本語小説としてここにある。青灰色の眼をした「美国人」の中国の旅、というさまざまな境界が交差する異者感覚もあって非常に面白い。

表題作「天安門」は、台湾育ちで父親らから「大陸光復」という北京語を耳にしたり、父が毛沢東を蔑み、共産党に占領されている大陸を国民党が取り返す手助けにここに来ている、と言われた記憶を持つ語り手が、初めて中国大陸に渡り天安門広場の廟に保存されている毛沢東の遺体を見るまでの旅程のなかに自身の記憶をたどり返す短篇。著者の経歴は今作のほか、本書のほかの作中主人公とも概ね重なっており、名前は違っていてもいわば私小説として読めるように書かれている。

満州エクスプレス」は安部公房の『終りし道の標べに』と「赤い繭」を引用しつつ、安部の育った満洲の家へ遺族たちと向かうなかで、安部公房スタジオに出入りしていた頃の「安部先生」の満洲や故郷についての発言を回想しながら主人公の帰るところとはどこなのか、という思考がたどられる。巻末年譜にも安部公房スタジオに出入りしていたことが書かれており、この旅行もテレビドキュメントのカメラが同行しているので実際に放送された映像があるかも知れない。さて、安部の「赤い繭」は帰る家がない男の短篇で、それを引用しつつ主人公にとっての「家」が少年時代に過ごした台湾の家でしかなく、しかしそこは父の言う「this country」「この国」という言葉通り、「our country」ではないということが彼に去来する。

「六つか七つだったかれにも、「this country」はどうも「our country」ではないことに、何となく気づいた。
「この国」に自分の家がある。
「この国」はどうも、自分の国ではないらしい。しかし、「この国」にしか自分の家はない。」75P

 しかし、「この国」にある自分の家を追放されて、自分の家がない「その国」に父が自分を帰すのは、理不尽で、不埒な、犯罪だと、胸の中から叫び声が急にこみ上げてきたことを、三十年経っても、はっきりと覚えていた。
 「その国」には、自分の家はないのではないか。自分の家は、「この国」にあるのではないか。103P

「ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行」では、自身の半分ユダヤ系だという出自によって受けた扱いの記憶が、中国で千年前にユダヤ人が定着したシナゴーグの跡の井戸を見つけるまでの過程で語られる。そこで「がいじんが、がいじんではなく、なった」とヘンリーが語る、異者と故郷の中篇。日本人の名前を持ちながら、日系というわけではないという血筋の複雑さはここでも顔を出す。

 広々とした「御街」に陽光が照りつけていた。どこかのスピーカーから、二胡だろう 、日本の琴に似て少し高い音の古代風の弦楽が流れていた。
 ヘンリーには、自分のような風貌の人は一人もいないことが不自然に思われはじめたが、そんな思いを誰にも白状できず、北京語と広東語と河南の方言とどこの方言か分らない笑い声が熱い空気の中で爆竹のようにつぎつぎと小さく響く中で歩きつづけた。204P

アメリカ台湾日本という移動の人生を歩んできた主人公が、まさにその移動のさなかに移動の経験を想起する作品集で、いくつもの境界が交錯する結節点としての視界がとても興味深い。主人公の旅が、毛沢東の遺体、井戸、粘土塀、土の味がする水などのモノに逢着するのも印象的。

フーゴ・ハル『ブラマタリの供物』

本書巻末に書いているミスカトニック大学研究員岡和田晃氏から手渡されたまことに怪しい一冊。1928年、アフリカの奥地で消息を絶った人物を探しに赴く刑事の手記がバラバラに並べられている……。油断すると最初に戻ったり島の中を延々さまよい歩いたり、どこへ行くのかという選択肢自体が読み手の記憶と観察を問うので、かなり油断のできないかたちで進行していくゲーム・ブックで面白かった。選択肢を選ぶ、というよりはいくらか手の込んだ分岐が用意されているけれども、基本的にこの本だけで遊ぶことが出来るように工夫されているので、初心者にも入っていきやすいはず。私もそうだったように。クトゥルー神話ゲームブックというとおりのネタがちりばめられつつ、秘境探検の冒険ものの物語がしっかりと展開される。クリアしてみるとなかなか苦労した甲斐あって感慨もひとしお。研究員の解説とか、向こうの世界から失礼しますといって鏡文字であとがきが書かれている遊び心も楽しい。鏡文字は写真を撮って画像反転すれば読みやすいとは思ったんだけど、鏡文字のままでもなんとか読める。

原佑介『禁じられた郷愁 小林勝の戦後文学と朝鮮』


禁じられた郷愁―小林勝の戦後文学と朝鮮

禁じられた郷愁―小林勝の戦後文学と朝鮮

小林勝(1927-1971)というと、いまは新刊で入手できる本もなく、いくつかのアンソロジーに作品が入っているくらい*1で、あまり一般的な知名度はないだろうけれども、芥川賞候補になった「フォード・一九二七年」や『チョッパリ』などでしばしば植民地朝鮮を題材にしており、この文脈ではとりわけ重要な書き手として知られる。

本書はその小林勝の特に朝鮮を書いた作品に着目し、近代日本の根にして現代にもいやます植民地主義との苦闘のありさまを読み込み、その批判精神を引き継ごうとする気骨の文学研究だ。植民地支配の罪過を正面から受けとめたが故にマイナーたらざるをえなかった作家を、その他の引揚げ、植民地文学とも並べつつ、日本のポストコロニアル文学の大きな達成として評価し、アルジェリアから引揚げたアルベール・カミュの途絶した試みにも接続し、植民者の文学史に位置づける。

日本の自己認識の核心としての朝鮮

小林が作家になるまでの略歴を記しておくと、日本植民地下の朝鮮、慶尚南道の晋州に生まれ、44年大邱中学から埼玉の陸軍士官学校に入学し、翌年陸軍航空士官学校に入学している。日本で復員した後、共産党に入り、朝鮮戦争及び破防法反対の火炎瓶闘争で交番を襲撃して逮捕される。年譜を見るとこの獄中の頃から小説を書きはじめた。「人民文学」やその後継誌で野間宏を編集長とする「文学の友」に小説を発表し、安部公房島尾敏雄らとともに「現在の会」の編集委員にもなり、その後新日本文学会に入り、長谷川四郎菅原克己らと雑誌編集に携わる。なお、小林の最初の芥川賞候補作(1956年)、「フォード・一九二七年」は雑誌「新日本文学」の掲載作だった。ちなみに、49年から51年まで早稲田の露文科に在学していた。

著者は序章でポストコロニアル文学を以下のように規定する。

植民地帝国の子どもたちにとっては、引揚げのおわりは、また別の長い旅のはじまりを意味した。それは、あとに残してきた幻の「故郷」に帰ろうとする望郷の旅であり、戦後日本という「異郷」に定着するための開拓生活、あるいはそれを拒みつづけるための逃亡生活でもあった。そのなかで書かれたかれらの戦後文学――これを本書では、植民地体験のあとに書かれたという意味で、ポストコロニアル文学と呼びたい――は、この世に存在しない帰還地を求めてどこまでもさまよいつづける、「アジアの亡霊」たちのおわらない引揚げの記録のようであった。29P

引揚者、植民者のその後の文学がここで問われることになる。この「ポストコロニアル文学」のなかにはもちろん後藤明生日野啓三も入るわけだ。そして国内的な文脈のみならず、世界的なそれとも関連づけることが目論まれている。

さて、近代日本はその過程において朝鮮を劣位のものとし自らの優越性を形成していったといえる。在日朝鮮人が外国人として扱われる外国人登録令が明治憲法最後の日、47年5月2日に天皇最後の勅令として出されたことが特に象徴的だけれども、官民相携えていまなお盛んな歴史修正主義、民族差別運動の核心に偏執的といっていい朝鮮へのこだわりがあることはその証左で、日本はつねに朝鮮を否認し続ける。

近代日本の精神史のある重要な部分で、一貫して「朝鮮人」が怪物化され、悪魔化され、劣等性や残虐性や非道徳性がでっちあげられて本質化され、中国人をふくむほかのいかなる異民族ともまったく異なるほど特別で持続的な憎悪と侮辱を受けつづけてきたのは、それがじつに近代日本のナショナリスティックな自己認識の核心に属する事柄だからである。「日本人なら、おまえは朝鮮人を憎むはずだ。朝鮮人を憎まないなら、おまえは日本人ではない」――近代国民国家の成員としての「日本人」像が、「朝鮮人」を、「日本人」と「非日本人」をもっともくっきりと分かつある種の額縁にして造形されてきた面があるということは、関東大震災時の非常事態のときに決定的に暴露された。そのとき、「十五円五十銭」がうまく発音できない地方出身の日本人なども、朝鮮人と疑われて殺された。つまりそこでは、日本人であることを示すどんな自己主張よりも、「朝鮮人ではない」ということが根本的な「日本人」の証明とされたのである。242P

朝鮮植民者はこの歴史的過程を自らに抱え込んだ存在だった。植民者二世は自身の好むところでなかろうと朝鮮の土地を資源に、現地の人々を単純労働者として組み込んだ経済構造のなかに生まれ、育った。このような状況で、己についてどう考え、振る舞うか。著者は、後藤明生と小林勝を比較してこう述べる。

後藤明生の植民地小説には、当時少年だった自分が見聞きし感じたことを極力そのままのかたちで丁寧に再現しようという意志のもと、独特の軽妙な饒舌体で植民地朝鮮での日常生活を語り出すという特徴がみられる。一方小林勝は、みずからの責任において、みずからの記憶を「「語る」ことの可能性と権利」をある種原理主義的に放棄する道を選んだ。なぜかれがその道を選び、その選択にはどんな意味があったのかを、あきらかにしなければならない。168P

〈マイナー文学〉の政治と言語 ― 後藤明生における《他者》とのめぐり会い ―平田由美
平田由美がこの論文で指摘しているけれども、植民地朝鮮で育ち、韓国で作家となった李浩哲とのかかわりのなかで顕在化したような、日本人と朝鮮人のあいだで生まれる政治的な意味、を後藤はつねに避けようとしてきた。日本人として朝鮮人に対峙することを拒否し、作家同士や同級生同士という対等な属性においてのみかかわろうとするスタンスをとった。ここから、李恢成の作品について「彼が朝鮮人であるということをむしろ度外視すべき」という発言が出てくる。

植民者が朝鮮を語ることの政治性を避けつつ、しかし郷愁への居直りもまた拒否し、自身の身体が日本と朝鮮に分裂していることを前提にしながら、後藤は抑制と批評性を込めつつ朝鮮について書いた。しかしそれでは、いま現在目の前に居る朝鮮人との「出会い」もまた抑制されざるを得なかった。書こうと思いながらも『夢かたり』にはついぞ現われなかった李浩哲、李浩哲との会話があるものの主たる題材となったのは死者金鶴泳だった『使者連作』と、やはりどこかに出会い損ねがある。

小林勝はこの後藤的方法も拒否し、正面から政治性、歴史性とともに朝鮮を描こうとした。おそらくは、後藤がほとんど全否定に近い『チョッパリ』の書評(『大いなる矛盾』所収)を書いたのは、後藤が敵視してきた政治性、つまり罪責性を正面から扱うが故だ(早稲田の露文同士でもある後藤はその卒論において、ゴーゴリの政治的読解からの解放を試みた)。

小林勝は朝鮮を描くにもっとも厳しい道を進んだといえる。だから自然その作品は重苦しいものとなっていき、小林の初期にあった朝鮮での生活への叙情的な回想は、ある時期から消え去ったという。日本を厳しく批判することは同時に自分をも貫く刃となる。いや、自分を批判するその刃で現代日本を批判するといおうか。

植民者はなぜ自分を見失っているのか。それは、自分をみている被植民者を見失っているからである――小林勝は、安部公房ジョージ・オーウェルが実感的に指摘したような植民者の二重の盲目状態を克服するために、被植民者にみられる植民者というテーマを問題化しようとしたのであった。110P

近代日本の根底に朝鮮への差別があり、「朝鮮および朝鮮人の実在そのものが日本の現代社会および日本人の実態を最も明らかに照らしだしているものの一つである以上、そして日本の未来のイメージは、それとのかかわりをぬきにしては考えられない」(309P)と小林は言う。自分の姿を真に見るために、ほんとうに朝鮮人と出会うための、その困難な道。

郷愁を拒否すること

郷愁について、梶村秀樹を引用して著者はこう述べる。

梶村秀樹は、植民地の風景や文化を愛しなつかしむ引揚者の心情は「生身の朝鮮人の苦しみにあえてふれようとせぬ」抽象的な愛であり、それは「本質的に侮蔑と折り合える「愛」」である、ときびしく喝破した。人間不在の植民地への愛は、その本質において侮蔑と共存することができる――梶村のこの冷徹な指摘は、植民地を思慕しなつかしむ当事者たちにとって冒涜的かもしれないが、それでもやはり至当だと思う。372P

郷愁、ノスタルジーは自意識への耽溺をもたらし、そこでは他者が消える。それを回避するには、どんなに過酷だろうとも郷愁を自らに禁じなくてはならなかった。

日本を見つめるために朝鮮を見つめること。小林はしばしば、植民地で日本人が、一見従順な朝鮮人のわずかな別の顔を垣間見て怯える瞬間を描く。この植民者の不安の眼から眺めることで、「支配者が否定した人間性」を回復させようとし、その人間性の否定という罪過を書いたと著者は論じる。

金石範によれば、小林勝がみずからの内なる植民地郷愁を拒否することは、かれを束縛すると同時に、かれを植民地主義から解放し、「ひらかれた場所へ、ほんとうの自由へみちびく」ための逆説的な手段となっていたのであった。小林勝の文学の神髄は、この「束縛」をむしろ「ほんとうの自由」を手に入れるための力に変えようとするアクロバティックな緊張と矛盾そのものにこそあった。金石範が感じとっていたように、小林勝の「内なる懐かしさを拒否する」という宣言は、単なる涙ぐましい懺悔などではなかった。そうではなくそれは、「「贖罪」を突き抜けたところにある広がりを朝鮮人と共有する道」を力強くきりひらくための、すぐれて意志的かつ知的な「方法」だったのである。361P

小林はこの厳しい隘路を進もうとするなかで死ぬ。43歳だった。著者は小林について、最後にこう評している。

小林勝の文学は、泣いて懺悔し、自分だけを痛めつけて足るような生やさしいものではない。またそれは、「われわれは悪くない、悪いのはあいつらだ(GHQが悪い、コミンテルンが悪い、中国が悪い、韓国が悪い、北朝鮮が悪い、「在日」が悪い……)」と被害者意識にどっぷりとつかり、あらゆる罪悪とあやまちを外部の敵のせいにして済ませようとする生ぬるい歴史観など相手にもしない。「己れを切った刃先は、その延長線上に、植民者を植民者たらしめた「内地の人」と、そして戦後の日本人を、総体としてさしつらぬく力を持つ」と梶村秀樹がいったように、「わたしはあなたとおんなじ、あなたもわたしとおんなじだ、だからわたしもあなたもおなじで、つみはどこにもない」などと微温的な慰撫とごまかしで外部を遮断して「誇り」や「名誉」という名の自己満足にふける「国民の歴史」そのものに飛びかかって食らいつき、噛みちぎろうとする獰猛な刃物である。321P

近年出た木村光彦『日本統治下の朝鮮』のイデオロギーを排したと標榜する「中立的」経済分析の傲慢さを抉り、安倍首相の談話の欺瞞性を衝き、ヘイトスピーチの横溢も俎上にあげられる、現在の状況へのコミットはこの小林のスタンスを引き継ぐが故だ。その意味で、五十年近く前に亡くなった小説家を論じていても、本書は極めて生々しいアクチュアリティをもって迫ってくる。

2012年の博士論文が元になっているとのことで、非常な力作。私自身後藤明生という引揚げ作家について評論を書いたからというのもあるけど、きわめて興味深く読めた。今年読んだなかでもとりわけ重要な一冊なのは間違いない。読んでいて拙論の不足部分がよく分かってくるところも多く、たいへん学ぶところが多い。


余談だけれど、小林には日本人学校に訪れた教師が朝鮮人との噂を立てられ、生徒たちから迫害を受けて辞めていく短篇がある。小林自身が兄から聞いた実話を題材にしたとのことで、そのモデルとなった人物はのちに韓国大統領となっていたという。その人物は、崔圭夏。日本人名梅原圭一。朴正煕暗殺後八ヶ月間大統領を勤めた人物で、あまり知名度はないけれども小説で書かれたように信望ある人物だったらしい。大邱で教職についてからすぐに教職を離れ、満洲に渡ったという公式に知られる経歴の、なぜそのような行動を選んだのかの答えが小林の「日本人中学校」にあるわけだ。

また、著者の修士論文の審査を先頃亡くなった加藤典洋がしていたという。

小林は七〇年代に著作集が出ているけれども、漏れた作品も多く、新編集のものがあればと思う。私も読んだ本は『チョッパリ』『強制招待旅行』『生命の大陸』と、「フォード・一九二七年」くらいか。「文學界」掲載作が直木賞候補になったという「紙背」も著作集からは漏れている。
昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。: 直木賞のすべて 余聞と余分

火炎瓶闘争で投獄されたときに感染したと思しき結核とその手術がなければ、あるいは若くして死ぬこともなかっただろうか。


さらに余談として、本書で思い出したのはシベリア抑留経験について書いた石原吉郎の「ペシミストの勇気について」のこの一文だった。

〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。(『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫、113P)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

誤記について

本書で後藤明生『夢かたり』が引用されているけれども、その引用が間違っている箇所がある。濁点の有無なのでわかりにくいかと思うけれども、本書193ページで、『夢かたり』の「虹」の、街から追放される場面で「コウゴクシンミンを笑ったコウゴクシンミンを、コウゴクシンミンが笑っていたのである」という部分、正しくは「コウゴグシンミンを笑ったコウコクシンミンを、コウゴグシンミンが笑っていたのである」(『引揚小説三部作』48Pあるいは中公文庫版『夢かたり』69P、傍線筆者)だ。朝鮮人は「皇国臣民」を訛って「皇ゴグ臣民」と言ってしまうのを笑っていた過去があっての立場の逆転なので、引用文では全部同じ語句になっていて意味が通らなくなっている。じつはこれ、本書で注記に参照したと明記してある朴裕河『引揚げ文学論序説』の引用文も間違っていて、155.156Pでは「コウゴクシンミンを笑ったコウゴ/コクシンミンをコウゴクシンミンが笑っていたのである」と、濁点のほかに、スラッシュで示した改ページの部分で文字がダブってるのもあって、かなりおかしなことになっている。なおこの章の初出論文(「日本學報」第86輯、二〇一一年二月)のほうでは「コウゴクシンミンを笑ったコウコクシンミンを、コウゴクシンミンが笑っていたのである」、と一字分の濁点がたりないけれども意味は通る引用だった。

*1:「フォード・一九二七年」が講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見7 故郷と異郷の幻影』と集英社『コレクション 戦争×文学』の17巻に、「軍用露語教程」が同じく15巻に、「架橋」が同じく一巻に収録されている

図書新聞に陣野俊史さんとの対談が掲載


笑いの方法: あるいはニコライ・ゴーゴリ【増補新装版】

笑いの方法: あるいはニコライ・ゴーゴリ【増補新装版】

ツイッターでも告知したように、図書新聞、2019年6月15日号に私と作家・文芸評論家の陣野俊史さんとの後藤明生つかだま書房版『笑いの方法』刊行を期した対談が掲載されています。

戦争文学論集『戦争へ、文学へ』でも引揚げ体験を持つ三木卓について書いていたり、小説『泥海』などではフランスの移民を題材としている陣野さんなので、『笑いの方法』に書かれた引揚げ体験から話は引揚げ、方言などの土着性にとどまらず、小説に現われる音、歌など、そして言葉について話題になっています。

戦争へ、文学へ 「その後」の戦争小説論

戦争へ、文学へ 「その後」の戦争小説論

泥海

泥海

私の言うことは図書新聞にも前書いたようなことですけれど、陣野さんの作家らしい関心がうかがえるレスポンスが読みどころかと思います。

対談では話題に出ませんでしたけれども、陣野さんの『テロルの伝説 桐山襲烈伝』は、天皇小説として知られる『パルチザン伝説』の桐山を論じたもので、一人の作家を総体として論じた仕事として非常に面白い本でした。天皇制と沖縄を大きなテーマとした桐山の小説という抵抗の戦いは、戦後のポストコロニアルな問題として後藤とも対比的に読めるかと思います。

テロルの伝説:桐山襲烈伝

テロルの伝説:桐山襲烈伝