岡和田晃、マーク・ウィンチェスター編 - アイヌ民族否定論に抗する

アイヌ民族否定論に抗する

アイヌ民族否定論に抗する

執筆者ながらとても面白く読みました。エッセイ的なものから、学術的な論文スタイルまで硬軟揃っていて、民族についての入門的な概説や論文もあり、手頃な概説書のないことで発言を奪用されている違星北斗についての丁寧な解説もあり、映像資料、博物館等を訪ねる文章もあり、と多彩な視点からアイヌについての原稿が寄せられており、かなり読み応えがあります。多くは非アイヌによるものですけれども、アイヌ自身の視点での原稿もあります。

ただ、緊急刊行ということもあって、各原稿はそれぞれの書き手の裁量に任されているので、統一的な意思の元に編集されている本ではありません。目次や原稿の順番も分かりやすい項目分けなどがされているわけではなく、フラットに並べられています。その点で、この本がアイヌ否定論を批判する反論本、だと思われる向きには添えないところはあろうかと思います(アイヌ否定論への直接的な批判を試みた原稿はいくつかあります。すべてがそのために書かれ編集されてはいない、ということです)。

とはいえ、アイヌ否定論を眼前にしつつ、それぞれの書き手がそれぞれにアイヌを考え、書いた原稿ですので、いずれもが非常に興味深く読めるものだということは確です。その分親切な概説書、というものではありませんので、アイヌについてはほんとうに素人だ、と言う人にとってはやや読み方が分からないものになっているかも知れません。

そういう人にとっては、巻頭の岡和田、ウィンチェスター対談を読んだ後はまず、先住民族とはなにかという入門的な概説として、中村和恵先住民族とは誰か」から読まれることを勧めます。現代アボリジニ芸術にかかわるキュレーターに投げかけられた、それは白人に影響を受けた人のことで、昔の伝統を守って暮している「ほんとうのアボリジニ」はもういないんですよね、という質問を出発点にして先住民族を問うていく、丁寧で教育的な原稿になっています。

また、アイヌについての誤解を解いていく形でアイヌ否定論を論駁していくのが丹菊逸治「アイヌと「民族」についての誤解」です。これも重要です。否定論が出はじめた当初に書かれた否定論批判を再録した榎森進「歴史からみたアイヌ民族」、アイヌと言われるなかにはエンチゥという自称をする別の民族がいる、という説を史料検証から否定する大野徹人「アイヌ民族は存在するか」、などが否定論への直接的な批判を企図した原稿になるでしょうか。私の「再演される戦前」も、民族の定義にまつわる国連での議論をフォローしつつ、小林、的場の異様なロジックへの批判を試みています。

山科清春違星北斗の言葉の「悪用」について」も、否定論者が活用する違星北斗の発言を彼の生涯をたどりながらその意味するところを明らかにして、その否定論者の引用を批判するものになっており、非常に面白いです。

他にもたくさん原稿があるので、全部には言及しませんけれども、大学時代の先生寮さんの原稿では、自身がアイヌ絵本を書くまでの経緯が書かれており、なかで書かれている安東ウメ子さんとの出会いは、それが縁になって相模大野での安東さんを呼んだイベントが開催されたのだということがわかって面白く、またそのイベントでは私は学生の一人としてアイヌ口琴ムックリを壇上で試奏したことを思い出しました。

もうひとつ言及すると、村井紀「Tokapuchi(十勝) 上西晴治のioru(イオル=アイヌ・ネイション)の闘争」という原稿は峻厳な言葉でアイヌを描いたこれまでの文学をぶった切って(鶴田知也も含めて)上西晴治を評価し分析するもので、非常に興味深く、私は短篇全集を積んだままにしているので、これはやはり読まないとな、と思わされました。

否定論に抗する、というのは直接批判を試みるだけではなく、それぞれにおいてアイヌをどう考えるか、ということをも含めたものとして提示されている本となっています。それが、編者のいう「アイヌ民族否定論への批判を基調としつつ――ヘイトでは決してなすことのできない――自律した価値の提示を目指しております」ということでしょう。そのため、人によって様々な読み方があるでしょうし、興味を引かれる原稿もそれぞれ変ってくるかと思います。


もう一点、冒頭の対談では「公人の発言が2ちゃんねる化している」という指摘があります。ただ、2ちゃん化している、というよりはそのまとめサイト(コピペブログ)化している、と言う方がおそらくは正しい。2ちゃんねる本体はもう少しはマシで、明らかにアレな発言があると実はちゃんとツッコミがあったりしますし、「ネトウヨ」的な書き込みには揶揄がなされたりします。それなりに人がいるところでは異論反論もあるわけです。私が記憶しているなかでは、震災の頃、パチンコ屋の電気使用量が膨大な量あり、パチンコ屋がなくなれば数パーセントの節電になる、というまとめサイトの記事がいくつもでたことがありました。しかし、元のスレッドを探して見に行くと、一日の使用量と毎時の使用量を混同した見出しになっており(時速と走行距離を混同するような数値だった)、即座にその否定がなされていたのにもかかわらず、まとめサイトではいずれもそのツッコミが削除されてパチンコ屋は電気を浪費している、という煽り記事が量産されていたのです。ある種のまとめサイトというのはこうしたデマ虚偽まがいの積極的な煽り記事を投稿しており、片山さつきがそうしたまとめサイトを擁護していたり、またその手のサイトで最も悪質といわれる「保守速報」を安倍晋三フェイスブックがリンクしていたことなどがありました。ある議論を煽り良いように改変捏造し、単純な対立図式に回収するような「まとめサイト」とある種の政治家には間接的な共犯関係があるわけです。また、そうしたまとめサイト的なまとめ方と、否定論の議論の組み立てはたいへん似ています。2ちゃんを直接見に行くような人はむしろまだマシな部類ではないかと。政治的な煽りによって単純な対立図式でまとめられた情報を積極的に摂取している、というのが拙いわけで。そうした拙いのが公人、議員、閣僚なんかにいたりするのがなんというか。

そして、モーリス=スズキさんが言うように、ここ十年で世界的に排外主義とヘイトスピーチの盛り上がりがあるとすれば、それはインターネットの普及と密接な関係があるだろうと。インターネットは少数の者同士のつながりをもたらしたと同時に、それは否定論のようなものの興隆をも用意した、というより、メディアの民主化の帰結なんだと思います。メディアの一方性に対して言及された側がはっきり反論できるということは、異常な主張やトンデモを周縁化しきることができなくなる、ということでもあり、これは表裏一体のことなわけです。歴史修正主義はそうした土台の元に拡大してきたわけで、アイヌ民族否定論ももちろんその一例としてある、というのはまあ今更いうまでもないことでしょうけれども。

ネットでは露井有悟さん等、既にいくつもの反否定論記事がありますけれども、ネットを見ない人なんかが書店や図書館などでアイヌを調べようという時に、否定論の本だけではなく、こうしたカウンター本が隣にあるだけでずいぶん違ってくると思いますので、本書がその一助になればいいな、と思います。