図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載

鳩沢佐美夫の仕事 (第一巻)

鳩沢佐美夫の仕事 (第一巻)

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図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載されています。アイヌ民族初の近代小説の書き手としてのみならず、アイヌの経験を通して現代の「人間」が被る経験を描いた現代文学として読まれるべきではないか、という感じのことを書いてます。

イベントなどでいくらか一緒になった私から見た岡和田晃山城むつみ両氏の鳩沢再評価の流れを振り返りつつ、和人の立場からアイヌを描いた向井豊昭の『骨踊り』(幻戯書房、収録鼎談には私も参加しています)を紹介しました。大筋を考えた後で岡和田さんの『向井豊昭の闘争』(未來社)を見るとだいたいのことはより精度高く書かれていてしまったと思いました。その点去年出たばかりのリチャード・シドル『アイヌ通史』(岩波書店)を組み込めたのは良かったかなと思います。また、本書が女性の経験を集中的に書いている一冊になっているのは編集のめぐりあわせとも言えますけども、そうなるだけの必然性が鳩沢に既にあったと思います。

そういえば、鳩沢佐美夫は1935年生まれで、文学世代としては内向の世代と同世代だったりします。

以下、ツイッターに書いていたアイヌ関連書籍の感想をまとめておきます。

リチャード・シドル『アイヌ通史』

博論を元にして1996年に刊行された英語圏初の本格的なアイヌ通史で、今も参照されるという古典的著作の邦訳。原著タイトルにあるように、主眼はアイヌ民族をめぐる「人種化」のプロセスとそれに対するアイヌの抵抗の様相を描くことにある。思えば「蝦夷」から先住民族へ、という副題は、劣等人種と見なされていく近世から近代にかけての外からの眼差しに対する、国際的な先住民族問題と連携して自らを「先住民族」として確立していくアイヌ民族の主体的な目線への移行、という本書の構成を反映したものだ。

アイヌ差別の言説をまとめた第四章「滅びゆく民族」に対し、その転換点となる第五章が「瞳輝く」というアイヌ側の視線を指す題になっていて、しかもそれが違星北斗の短歌から採られているのは非常に重要かつここぞという引用になっている。

滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ
違星北斗の瞳輝く

「通史」とあるのに内容は近代に偏っているというのは確かで、それについては訳者が以下のツイートで理由を述べている。これまでの近代以前のアイヌの本来の姿を復元することに注力する動きは、アイヌ近現代史を喪失の歴史とする、差別にひきずられた歴史観ではないのかということで、訳者解題の「アイヌの創造性は圧力や差別にもかかわらずあったのではなく、それゆえにあったのである」354P(太字は原文傍点)、という交差的な関係に重点がある。民族の境界線は交流によってこそ生まれ、差別に直面したことでアイヌアイデンティティを打ち立てる必要が生まれる。

この、圧力や差別「ゆえに」という部分、本書を読んでいても、どうしても「それでも」というモードで読んでいたので、なるほどそうか、と非常に目を開かされた。序文で著者も「社会的周辺化とレイシズムへの創造的応答として、アイヌの「民族性」を考察する」(xiv)と書いている。差別への批判は、差別以前の前近代の姿を復元することだけではなく、差別に抗して創造的にアイデンティティを打ち立てていった同時代人としてのアイヌの検討においてもなされなければならない、ということだろう。それに応じてこちらで訳者も指摘するように、「「日本人」「日本国民」の自らの人種化の過程は、アイヌの人種化を必須とし、ともなった、ということです」ということは、現代アイヌの民族性のみならず、日本人の民族性もまたアイヌ抜きではありえないわけだ。

日本が日本として成立し、大和民族大和民族として境界を画するときに、日本人の「最初の『ネイティブ』な他者」としてのアイヌの歴史は、上掲で訳者が言うように、その存立の基盤そのものでもあるという挑戦的な意図が含まれている。

日本という国の姿が北海道や沖縄なしではありえないように、植民地化していく過程で取り込んでいく他民族との交錯が「日本」の拠って立つ基盤になっている。これは沖縄、朝鮮などにも同じことが言える。同一性と差異の根拠として。朝鮮総督府から北海道庁樺太庁に、アイヌの名前の日本化政策に関する情報提供の要請があったという話が紹介されており(193P)、当然アイヌの先例が朝鮮での同化政策の参考になっている。アイヌの「撫育」と文明国日本が後進の朝鮮に訓育するという植民地支配の論理。

差別に抗してアイヌが民族性を確立したように、他者に優越する自己としての「日本人」もまた形作られていく。先住民族は国境線に画されていく近代国民国家の確立とともに生まれるわけだけれど、それと同様に近代的な民族観念もまたこのようなプロセスと同時進行の相似形を描いていく。危機に際して自らの民族とは何か、伝統とは何かを改めて見出していく過程があるわけだけれど、明治の日本人も同様の事態に置かれていたわけで、この時期に様々な今に続く伝統が創られた、という話は有名だ。アイヌもまた同様、と考えればわかりやすい。

ちょくちょく参照されているケネス・パイルの『欧化と国粋』が、この日本人の人種化の過程を扱ったものなのかな、と思ったけどやたらプレミア化している。大雑把な話をしてしまったかも知れないけれども、当時の新聞や議事録なども参照して詳細に調査された濃密な叙述の一冊だ。

1997年のアイヌ文化振興法成立に際して書かれた論文を補章として加え、訳者解題とここ20年のアイヌ関連年表が付され、現在までのブリッジになっている。このなかの2014年の「アイヌはもういない」発言、それへの抗議として編まれた『アイヌ民族否定論に抗する』に寄稿したのがもう八年前になる。

「人種化」という概念はこの前書き部分が端的な説明になっている。
人種神話を解体する【全3巻】 - 東京大学出版会

茅辺かのう『アイヌの世界を生きる』

京大を中退し労働運動などに関わっていたのち北海道で季節労働をしていた著者が、アイヌの女性からアイヌ語を口述筆記して欲しいという依頼を受け、二十日足らずのあいだ家に住み込みながら、聞き取ったアイヌ語と女性の生涯がまとめられた一冊。

トキというこの女性は和人の生まれだけど生後一年たらずの頃に殺されかけたためにアイヌの女性に貰われた子だという。北海道に行った夫と離れて暮らす間に実母が別の男性との間に作った子供だったトキさんは、北海道でお守りをしていた五歳くらいの異母兄に川に投げ込まれかけた。そうしてアイヌの養母のもとで育っていったトキさんは、成長するまで自分が和人の生まれだとは知らないまま育ち、家ではアイヌ語で喋る生活を送った。養母が亡くなりアイヌ語での生活から離れたあと、それでも記憶にあるアイヌの言葉を残したいと、著者に聞き取りを依頼することになる。そうした来歴を持つ女性との暮らしの様子や、生活に根付いた独特の考え方が描かれている面白い本で、特に「北海道旧土人保護法」における給与地を得るために期限までに急いで開墾を進めた様子やら、次第に馬などの農業とかかわる動物を手放し、農業から離れていく時代が描かれているのも興味深い。このくだりは鳩沢佐美夫の「休耕」ともリンクする。

その人の個性、生活習慣に根づいたものとしての言葉と文化を知っていく様子が描かれている。トキさんは1906年生まれで、養母は年齢が書かれてなかった気がするけど、おそらくは鳩沢佐美夫の祖母と同世代くらいだろうか、というイメージ。トキさんは1906年生まれで、養母は年齢が書かれてなかった気がするけど、おそらくは鳩沢佐美夫の祖母と同世代くらいだろうか。

井上勝生『明治日本の植民地支配』

本書は植民地支配全体の概観というのではなく、95年北海道大学古河講堂で見つかった東学党農民戦争指導者の遺骨をめぐり、当時北大にいた幕末維新史を専門とする著者が報告書をまとめる過程で見えてきた、朝鮮での東学党虐殺にまつわる日本植民地史の一断面を描いたもの。

珍島から「採集」された東学党指導者の遺骨を持ち出した「佐藤政次郎」とは誰なのかというミステリーをたどる過程で北海道大学やその前身札幌農学校が植民において果たした役割や、日本と朝鮮での農業のあり方の違い、戦史から削除された東学党「剿滅」作戦とその戦死者など、さまざまな植民地支配の側面が見えてくるという叙述になっている。そこで確かに「明治日本の植民地支配」の様相が見えてくるとはいえ、「東学党首魁」遺骨問題を書名か副題にしておくほうが良いような気もする。

見つかった遺骨には三体のウイルタ民族も含まれていたという。ウイルタについては著者が報告を担当しておらず本書の記述範囲外とのことだけれど、ウイルタ協会会長の田中了という人が出てきて、積んでる『ゲンダーヌ』の著者で見覚えのある名前だった。小川隆吉の名前も出て来て、氏のアイヌ民族共有財産裁判で著者が証言したこともあるという。

本書では遺骨にまつわる、東学党の乱や甲午農民戦争と呼ばれてきた東学農民戦争での数万人に及ぶ虐殺の歴史が日清戦争の戦史に記載されておらず、その隠蔽に巻きこまれて日本ただ一人のその掃討作戦の戦死者が靖国神社戦没者名簿で、別の戦争での死者として数えられている改竄を指摘している。

戦前の『アイヌ政策史』でアイヌ民族共有財産について道庁を批判した高倉新一郎も、自身が勤めた北海道帝国大学の前身札幌農学校の校長だった橋口文蔵が共有財産の管理に於いて責任者だったことを著書では一切触れずに橋口を開拓功労者として顕彰する文章を書いているという。その高倉が触れなかったもう一つとして、1890年代に十勝のアイヌ民族が、共有財産を取り戻して「財産保管組合」を創ったという自治自営運動について触れられている。この後、その実態を無視して旧土人保護法が制定されていったおりに、高倉らがその運動を知りつつ保護法を正当化したことを批判している。

「農民戦争」のきっかけともなる日本の朝鮮の農業への蔑視を論じる過程でその農業形態の違いにも触れ、植民学を講義していた札幌農学校の佐藤昌介と新渡戸稲造の議論を対比させつつ、新渡戸の植民論が日本を文明国として後進国へ文明を伝播する立場に置くために朝鮮を未開視するものだと指摘する。この札幌農学校で遺骨を「採集」した佐藤政次郎と同期生、一九期生蠣崎知二郞が、上野正による保護法批判の趣旨に賛同するという文章を書いており、この蠣崎は有島武郎の親友だったという。そして有島武郎の遺作『星座』は一九期生(蠣崎は柿江として)をモデルに保護法制定の年を描いているという。

朝鮮に動員された兵士たちは四国出身者が多く、東学農民戦争に従事したうちで二名の自死者が出たことや、戦史から消えた戦いに参加した兵士の陣中日誌での記録を見つけたり、香川の地方新聞での東学農民軍との戦いへの批判が当時あったことを見つけたり、日本側の動員にも著者は紙幅を割いている。

古河講堂から遺骨が見つかった件は北大人骨事件としてWikipediaにも項目がある。著者はその件の北大の報告者として遺骨返還で韓国の現地へ赴き謝罪したことなどを踏まえ、ある一つの事例を通じた植民地支配の様子を描いている。北大と言えばアイヌの人骨を盗掘した件は未だに尾を引いているわけで、本書ではそうした帝国日本の植民地支配に関与した「帝国大学」の歴史が遺骨を通じて抉り出されている。佐藤昌介、高倉新一郎以来続く北海道大学史におけるアイヌ民族共有財産にかかわる橋口文蔵非職事件の隠蔽といった件もあわせて、北大の歴史の暗部を鋭く指摘する一冊だ。著者は北海道大学の名誉教授。
北大人骨事件 - Wikipedia

坂田美奈子『先住民アイヌとはどんな歴史を歩んできたか』

100ページもない小冊子だけれど、近現代のアイヌをめぐる歴史を簡潔に概説していて、シドル『アイヌ通史』とはまた別の視点もあり興味深く、違星北斗を画期とする点が両著に共通しているのも面白い。「旧土人保護法」の問題点として、アイヌという狩猟民が農耕民化されたという語り方は不正確で、狩猟の問題もあるけれどそれ以前から農耕をしていたアイヌはおり、「自主的に近代化の努力を行なっていたアイヌが不当に扱われている」という和人と政府の不正義だと指摘してる点が印象に残る。三章では「同化か、文化変容か」という問いを設定し、近代日本のアイヌ差別のなかでアイヌ自身はどのように対処したのかという点で、強要された「同化政策」と自発的な「文化変容」を対置して、さらに北斗は国民と民族を区別してアイヌで日本人という道を開こうとしたと論じる。これは『アイヌ通史』でも論じられた点で、ややアプローチが異なるものの違星北斗を差別に抗してそして日本人にしてアイヌというアイデンティティの道を選ぼうとした画期として描くところは同様。