住谷春也氏追悼 『ルーマニア、ルーマニア』『ノスタルジア』書評再掲載

住谷春也氏が今年の六月に亡くなられていたという。享年93。ルーマニア文学翻訳と言えばこの人と誰もが名を挙げるだろう。エリアーデの小説の翻訳のほか、民話集やSF、現代文学まで多くの訳業があります。追悼として図書新聞に寄せた著書と訳書の書評をここに載せておきます。特に単著は故人の経歴と業績を参照するのに好適のものだと思います。

昼の裏側にある夜の世界を覗き見る窓――住谷春也『ルーマニアルーマニア

 今年出た『「その他の外国文学」の翻訳者』(白水社)という本には、ヘブライ語チベット語ベンガル語など、大手ネット書店では「その他の外国文学」と括られる言語に携わる九人の翻訳者が登場する。それぞれに訳者自身の来歴やなぜその言語を選んだのか、その言語が使われている国や人々の様子、どういった作品を訳しているのかなど、翻訳をめぐるさまざまな裏話を通して、マイナーな言語の世界とその文学への入り口にもなっている。
 ルーマニア文学もまた「その他の外国文学」の一つだ。本書は著者がこの四〇年にわたって訳してきた近現代のルーマニア小説や民話、詩集、SFなどの訳書の解説文を中心に、著者自身の来歴を語ったエッセイやルーマニア文学小史、評論、コラムなどによって編まれている。四〇歳を過ぎて学び始めたルーマニア語に魅せられ、勤めの傍ら翻訳を始めるなど寝ても覚めてもルーマニアルーマニア」だったことがタイトルの由来で、前掲書のルーマニア版として読める一冊だ。
 ルーマニアと言えば、作家の名前は浮かばなくとも、吸血鬼ドラキュラのモデル串刺し公ヴラド三世だとか、独裁者チャウシェスクが東欧革命で処刑されたことだとか、世界的な宗教学者ミルチャ・エリアーデルーマニア出身だということなどはある程度有名だろう。
 ルーマニアバルカン半島東部に位置し、黒海に流れ込むドナウ川を挾んでウクライナとも国境を接する位置にある。著者がルーマニア語に興味を持ったのは、「ヨーロッパで唯一、言語は西のラテン系でフランス語の兄弟分、宗教は西のカトリック系(中略)と対立する東のギリシャ正教系、というおもしろい民族」だからだという。
 そうした東西文化の交点といえるルーマニアはそれ故の苦難の歴史もあり、ラテン系民族として西欧の一員でいたつもりが、第二次大戦期の度重なる領土の割譲の際に西欧からは見捨てられた経験が触れられている。文学史的にも、戦間期の黄金時代に対し戦後の社会主義時代はソ連の影響下で粛清の嵐が吹き荒れ、チャウシェスク政権での秘密警察支配の厳しさは地下出版さえほとんどない厳しいもので、エリアーデは亡命したまま祖国に帰ることはなかった。ノーベル賞を受賞したルーマニア出身のドイツ語作家ヘルタ・ミュラーも作家活動を禁じられた挙句西ドイツに亡命した。
 著者は元々東大仏文に進んだ、辻邦生の後輩にあたる。左翼学生運動に関わったのち挫折、学習研究社で辞典の編集に携わったけれども労働問題で会社に愛想を尽かした時に見つけたのがルーマニア語だったという。八〇年代末にはブカレスト大学に学び、八九年一二月、「デモで危険だから都心へ行かない方がいいよと言われて、それは大変だ、とばかりに都心へ出かけた」先で革命の現場に居合わせる。デモ隊の声を資料としてメモするなか戦車を目撃し、放水の跡を泥だらけになりながら帰宅した数日後、大統領夫妻の処刑を知る。この下りは簡潔ながら歴史的事件の証言として読み応えがある。
 そんな著者の近年の訳書には、ポストモダン作家ミルチャ・カルタレスクの奇想小説集『ノスタルジア』と女性をめぐる掌篇集『私が女性を愛する理由』、カルヴィーノの『見えない都市』と同時発生的に生まれた架空都市SFのギョルゲ・ササルマン『方形の円』、秘密警察のもとでの学生時代を描いたパウル・ゴマの自伝的小説『ジュスタ』など多彩で、現在も精力的にルーマニア文学の紹介を続けている。
 しかしやはり著者の仕事としてはエリアーデ文学の紹介が重要だろう。エリアーデについての文章は本書の半分を占めている。エリアーデは学術的著作を英語やフランス語で書きながら、吸血鬼伝承を題材にした『令嬢クリスティナ』や、聖なるものは俗なもののなかに現れるという思想を基にした『ホーニヒベルガー博士』等の幻想小説ルーマニア語で書いていた。昼の精神で書かれた学術的著作と、夜の精神で書かれた文学作品の両輪が自分を作っているとエリアーデは言う。学者の余技と見なされることの多かった小説作品について、著者は「文学的直観が本源であって、生涯の学術的著作の方はそれを博識と理論で裏付ける試みだった」のではないかと裏返す。そうした熱意が作品社の『エリアーデ幻想小説全集』全三巻として結実し、著者はそのほとんどを訳している。日本においてエリアーデの本質をなすという夜の世界を覗き見る窓は、著者なくしてはごく小さなものでしかなかった。
 マイナー言語の翻訳は日本語の言語空間に新しい窓を開く貴重な仕事だ。エリアーデをめぐる聖と俗、本業と余技のように、「その他」と思われた側から見返すことでしか見えてこないものがある。日本とルーマニアを繋ぐ幾つもの窓が本書には開かれており、新しい読者のルーマニア文学への入り口になるはずだ。
 余談ながら最初の本の伝で言えば、「その他の外国文学」を刊行する編集者・出版社についての本も読んでみたいものだし、入手し損ねた『エリアーデ幻想小説全集』が復刊しないものかと願っている。(2022.10.8号)
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感傷や叙情を拒否してもなお湧き上がるノスタルジー――ミルチャ・カルタレスク『ノスタルジア

 ノスタルジアと題されてはいても、少年期の思い出を叙情的に回顧したような瑞々しい物語、を期待するのはやめておいたほうがいいだろう。なぜなら本書の書き手は「ルーマニアポストモダンの旗手」などと称される存在なのだから話は一筋縄ではいかない。
 とはいっても短篇三つと中篇二つの五篇を収録した本書において、核となる中篇の前後に配置された短篇作品はさほど構えずに楽しめるものだ。ロシアンルーレットを幾度試みてもどれだけ弾数を増やしても死なない男を描いた奇妙な味の「ルーレット士」、不思議な理論を説き奇妙な力を持つ少年との出会いを描いた「メンデビル」、そしてメロディを奏でる車のクラクションに魅せられた建築士がハンドルごと電子オルガンに取り替えての演奏が世界的に有名になり、いつしかオルガンを弾く奇妙な肉塊となって最後は宇宙スケールへと炸裂的に展開していくSF法螺話「建築士」と、どれも秀作だ。
 子供の頃の奇妙な少年との出会いという一見まさにノスタルジーな作品に見える「メンデビル」はその実、過去の現実性が揺るがされ、感傷性に安住できない結末を迎える。このことは続く中篇二作においても通底しており、ノスタルジーに対する批判的な態度が見てとれる。
 中篇の前にカルタレスクの経歴を確認しよう。一九八〇年前後にブカレスト大学で批評家の主催する「月曜グループ」で活動していた人々を核とする世代を「八〇年派」あるいは「ジーンズ世代」と呼び、五六年生まれで八〇年にブカレスト大学文学部を卒業したカルタレスクはまさにその一人だ。前世代がルーマニア秘密警察の思想統制に見舞われながら戦間期モダニズムの復活を期していたあとに出てきたこの世代は、ジーンズの名が示すようにアメリカのポピュラー文化やポストモダン文学、フランスのヌーヴォー・ロマンなどさまざまな海外の文化に影響を受け、ルーマニアにおけるポストモダニズムの始まりとなったという。当初詩人として出発したカルタレスクが小説へと転じた最初の著作が八九年に検閲削除を受けて刊行された本書の原型『夢』だ。九三年刊の『ノスタルジア』は削除箇所を復活させた完全版となる。なお、カルタレスクの詩の代表作と呼ばれる『レヴァント』(九〇年、未訳)は、叙事詩の形式を採りながら一七世紀から二〇世紀にかけての重要なルーマニア詩の文体を模倣していくものだといい、さまざまなスタイルを取り込む作風は本書にも窺える。
 中篇の「双子座」と「REM」はこうした点が補助線になる。七〇年代を描いた「双子座」では、大枠でSF的アイデアによるギミックを採用しつつ、少年達がロックのレコード交換や音楽談義をするさまを描き込んでおり、「ジーンズ世代」らしい時代状況が背景となる。かたや六〇年代を回想する「REM」では、一行目からコルタサルとガルシア=マルケスの名に言及するように、ラテンアメリカ文学の幻想性やある作品を思わせる仕掛けが取り入れられている。
 「双子座」が描くのは七〇年代、一〇代の少年少女の恋愛劇で、特徴的なのはその執拗な描写だろう。短篇でも見られた描写の密度はこの二作でいっそう濃密になっており、ほとんど改行もなくページ一杯に文字が詰め込まれたなかに子供時代から高校に至る生活、恋愛のごたごたを細部にわたるまで描き込んでいき、SF的なプロットを著しく遅延させる。行間を埋め尽くす描写は、感傷やノスタルジーの湧き上がる余地を消していく。少年の回想という語りの形式もまた「メンデビル」とは異なる形で現在と過去の切断に行き着く。
 「REM」では、恋人関係にある二人の一人称を交互に行き来する点で「双子座」を踏まえた語りの形式を採りつつ、女性の子供時代の回想をメインに話は進む。「双子座」とは男性と女性の回想という点で対になっている。しかし作品構成はより複雑化しており、語りにおいても男の「ぼく」、女の「わたし」以外に謎の存在「私」が介入したり、回想のなかでもグルジア出身の長身の男が見せる夢や、少女達の遊びのなかで少女らの年老いて死ぬ姿が現われたり、部屋ごと空の果てまで昇っていったり、不可思議な出来事が次々と起こる。この子供達の幻想的な遊びの描写は本作のハイライトだろう。タイトルの「REM」という謎の言葉は、夢を見るREM睡眠やRememberの略などをおそらく踏まえつつ、語り手の友人への愛など様々な意味が重ねられていく。末尾で語り手は「REM」についてこう述べる。「あらゆるものの滅びを前にした時の、かつてあり、二度とは決してないであろうものを前にした時のある切なさの感情。さまざまな記憶の記憶」、それこそがノスタルジアだと。本作で描かれる回想、夢、幻想、さらに虚構、どれもが今こことの切断を示唆する。感傷や叙情を拒否しながらもそうした切断を前にして湧き上がる感情、ノスタルジーを拒絶することのノスタルジー。そうしたアイロニカルな態度は、本作の末尾に繰り返される「ノー」という執拗な拒否においても露呈しており、回想が終わり、夢から覚め、小説を読み終わるその切断のさなかに去来するものこそがREMあるいはノスタルジアなのではないか。
 そう思って本を閉じるとミルキィ・イソベの担当した装幀の表紙には蜘蛛の巣があしらわれていることにふとぎょっとさせられる。逃げることのできない絡みつく網。実は本書の収録作は全てに蜘蛛への言及があり、蜘蛛の巣、網の比喩が重要な場面で顔を出しさえする。本書の特質を細部から拾い上げた印象的なデザインだ。なおカルタレスクの既訳書に『僕らが女性を愛する理由』(松籟社)がある。十ページ前後の短い文章で構成された小著で「REM」の登場人物のモデルの話もあり、非常にとっつきやすい恰好のカルタレスク入門篇になっている。(2022.2.5号)
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