去年の文学フリマで買ったものを読んでいた

文学フリマ東京37で買ったものの、全部ではないけど読んだものを。

羽織虫「熱水噴出孔より」シリーズ

vol.3から5までと1.5を読んだ。後藤明生オリエンテーリングで初めて会って、相互フォローになったり文学フリマで会ったりした氏にこんな趣味や体験があったのか、という面白さもあるし、単体のエッセイとして良かった。『前歯』の加齢の実感的によくわかる感じや『佐藤さんの手』の急展開にびっくりしたけど特に『ショーツの畳み方』は良かった。ニュージーランドで一年過ごしていた時のことを書いていて、急な雨で同居人の女性のショーツを畳んだ、というところにフォーカスするのが印象的で、特に年上の女性に軽くあしらわれているのが一番安心するのは、幼い時姉にいじめられていたからだ、という部分に姉を持つ弟のなんか「質感」というのが伝わってきた。

わかしょ文庫『そこにあるだけ』

小さい手のひらサイズの短歌集で、西夏文字だったかを配したデザインも含めて良い。節タイトルの「色んな場所に死に蝉が……」で既に笑ってしまった。これは何か自分の知らないものについて言っているっていうことだけがわかるものもあったりする。幾つか印象的なものを。
「ディスプレイ星空みたいに見えるごみ」、うちのにもほこりがついてそんな感じ。
「目も見ずにそこになければないですね」、特にリズムが良いしスパッといくつれなさが良い。
「ぶちのめす静かな湖畔の森の影」、これは笑った。
「幸せを噛みしめている嫌なのに」、吸引力がある。
「欠けた歯をアロンアルファでくっつける」、え、できるの? と思った。私も今歯科医で処置した前歯が割れてるので気になった。その後歯医者行って直したけどこれが結構手間取った。前歯なので強度を確保するのに他の歯と絡ませて補強する必要があって……。

サワラギ校正部『校正のたね』

校正者の人が基礎的な仕事を18項目挙げて30ページほどで記した小冊子。私も共著などで校正協力することがあるけれど、プロの仕事は流石だなと思わされる。とにかく辞書を引くこと、というのがあり、これは私はあまりしてないな、と反省するけどATOKで見てた。ATOK、変換する時に三省堂国語辞典ジーニアス和英辞典の項目が横に出てくる機能があって、これはかなりよく見てた。

『別冊代わりに読む人 試行錯誤1』

メルマガの後継の小冊子。メルマガは未読だった。わかしょ文庫「なぜ相撲川柳を作るのか」、著者の短歌本の付録としても読めるもので、私は相撲はわからないので背景情報とともに川柳が出てきていて、相撲という伝統がある分野については既存の様々な意味がこもった単語が使えるという利点があり、それはある決まった型を使いやすいということだろう。言葉がない、面倒な状況を指すのには韻文、短詩型に収まらない散文性があらわれる。

陳詩遠「なにがなんだか」、人とぶつかって弾け飛んだスマホケース(ケースだけ飛ぶということ自体がまず不可解だけど)を草むらに放置したまま出社し、帰りにそこを通りがかった時におもむろに草むらから拾ったそれをスマホにつけるところを人に見られた話が相当笑った。

伏見瞬「蓮實重彦論」、吉本隆明アドルノ、フランス語の蓮實に向き合うための三つの迂回をめぐるエッセイ。蓮實の教科書を使ってのフランス語学習を続けて合格した仏検二級の凄さはわからないけど論じるための準備に相当手間が掛かってて、これは脱線かも知れないけど脱線に本気なのが圧巻。

友田とん「取るに足らないものを取る」、電車のなかで出会った、手品を見せられたようなオチがないような体験と、マティス展での目の前からものが消えた不思議な体験が描かれていてこれ自体がなにかそういう手品のような感触がある。マティスの告解室の扉、検索したら確かに手拭いになってる。

オルタナ旧市街『一般』

二冊目三冊目を読んでいて著者の第一文集を読んでいなかったのだけどこれは出色の一冊。祖父の死、珊瑚の死骸でできた砂浜、ストビューに記録された母、生まれる予定だった弟や消えていく言葉たちというきらきら輝く星のごとき生と死そして生活その総体「一般」を描く。

日常を切り取るエッセイや海外・国内への紀行文、恋人のほくろから発想したようなファンタジックな掌篇、実は小説なのかエッセイなのか不分明な(第三作『ハーフフィクション』)それぞれ小さい文章が、読んでいる者のなかにも時に記憶に留まり時に忘れられる掬った砂のように流れていく。

機上から見える無数の明かりがいのちの数だとしたら、あの砂浜には幾つのいのちがあったのだろう。限りなくまぼろしに似て、それでも確かに指のあいだを通り抜けていった、うつくしい死骸たち。88P
話し終わった言葉はたましいを失なって、その瞬間ばらばらと雹のように足元に落ちてゆく。毎秒数センチ、堆積した言葉の残骸によって地表は高さを増す。街はいずれ塔のようになるだろう。98-99P
人は一生のうちにどれだけの数の言葉を発し、忘れていくだろう。忘却は救済だ。99P

という終盤の箇所に差し掛かると、誰にも記録されずに消えていくような言葉たちといったばらばらのかけら一つ一つにすべてを見てとるような、ミクロなものの大きさを描き出すような方法だなと思わされる。「一般」とは奇妙なタイトルだと思ったけれど、よく付けたものだと思った。

春の台湾留学の思い出から始まり、六月の香港旅行でデモにすれ違った話や、二十歳の頃真夏に認知症の祖父が亡くなった話、そして真冬の沖縄旅行などのエッセイは第二作の表題『往還』の要素もある。特に面白いのは自分の存在が揺らぐ描写だ。「旅先でその街の暮らしぶりを体験しようとする行為は、じぶんでないものになりきるという、極めて個人的な演劇のようだと思う。」(13P)と台湾留学の経験を語るあとに、認知症の祖父は自分のことを覚えておらず、毎回違う誰かとして認識するさまが語られているのが面白い。

ある日は「母の親友の女子高生」であり、またとある日は「祖母のパート先の同僚」、ある日は「よく遊びに来る近所の坊や」であった。別段、悲しいとも思わなかった。それよりもわたしという不変の一個人が、祖父を介することで輪郭はおろか、同時代性すら失った複数の存在に変換されるという不可思議さのほうに興味をひかれてしまっていたのだ。53P

誰でもない者になることは誰にでもなることでもある。つまり人間一般。この祖父の徘徊について、祖父の言うことを否定しないで受け入れていたらストレスが減ったのか勝手に出て行くことが少なくなっていったというのは統合失調症の対応のようでもある。

まだ誰でもない生まれてこなかった弟は、相手が誰かを認識できなくなり誰でも目の前に見出す祖父と対応しているような印象がある。「よーいどんで星までとどけ」は弟の生まれる予定が果たされなかった話だけれど、ここで「星」が定番の比喩としてのみならず、本書全体にも掛かってくる。上で引いた沖縄旅行でガイドの人から聞いた、宮古島の砂浜は珊瑚の死骸からできているという話は、星になった弟の話と続けて配置されており、重ねて読まれることが期待されているだろう。小さな命が降り積もり大きな砂浜になること、星が集まって夜空を描くこと。そうした小さいものによって大きいものが出来上がることのイメージが散りばめられており、それは短い文章の連なりによって四季をたどる本書の構成とも無縁ではないだろう。そうした仕掛けに本書の『一般』が掛かっているのではないか。実際本書の表紙デザインは星や砂のようでもある。

こう見た時、香港デモにすれ違った一節の意味もまた色々と考えられる。

本書からも幾篇か採られているという商業デビュー作。

奥山さと『ちっとも懐かしくない町』

前作よりも長めの20ページほどの短篇を主に収めた作品集。いじめっ子の帰郷を描いた表題作や卓球台と家庭の食卓を強引に重ねた「ラバーソウル」、美術部の中学生とその姉貴分の関係を描く「石工」や、孤独をめぐる「ほりほりクラブ」など、微妙な関係が面白い。

「文脈がないってことは懐かしくないってことなんだ」、というセリフの出てくる表題作のいじめた経験のある人間が故郷に帰っても色々なものから切断されてしまっている描写や、「帰れない」での同棲相手に閉め出されて回覧板を持ったまま東京まで出て来る話の戻る場所のない感じ。

「石工」は中学の美術部に入っている少年の語りで、イラストレーターをしている近所の姉貴分や部員同士の関係を描きながら、なんでもない石を形にする工程に子供たちが何かの卵だということを重ねた描き方になっていて、本書では特に爽やかな感触が良い一篇。実は部の後輩が姉貴分の妹だとわかって、妹が姉のことを「ブス」だと呼んでいて、語り手も姉貴分が美人ではないから気安い関係を続けられると思う部分はおいおいと思いつつ、妹もなんだかんだ言いながら学校でのことを姉に話しているのがわかるところは印象的だった。「世の中のかわいいものは、むかし子供がそこにいた痕跡だ」(77P)、幼くして死んだ子のために建てられたマイメロの石像から石と子供のモチーフが繋がる。作中スピッツのフェイクファーの話をしてるけど、私もこのアルバムは好きで、高校の文芸部の時「楓」をモチーフになんか小説書いた覚えがある。

「ほりほりクラブ」、「墓穴」という言葉を流行らせた子供時代のことから、恋人というわけではない男女の間柄を描いている。「死ね」や「死にたい」の代替として使い勝手の良い「墓穴」という言葉が流行った様子を描きながら、孤独とそれを癒す友達の関係がなんかちょっと、良い。ナルシストがかって「孤独」が口癖の男子が土手に立っているところを、「あいつはヨーヨーをそそくさと仕舞い、午後六時の空をすべて背負いながら、「翼が治ったけど夕陽がまぶしくて飛べねえ」みたいな顔をしながら肩をすくめてみせた。」(116P)、と描写するくだりは笑った。

「わたしは、とても孤独だ。わたしは、孤独は嫌だ。機会がくれば、誰かにはっきりとそう言う。それが墓穴を掘ることになっても、いい。好きなひとに、好きになっていくだろうな、というひとに、「なにしているの?」と呼びかけられたい。電話や手紙ではなくて、土手のうえとしたのように、ちゃんとお互いの姿が見える場所がいい。呼びかけられてそのとき、孤独がおわったと信じることが、ひとつ、身を滅ぼすことになるとしても、いい。」123P

ここはシンプルで率直で良い。

にちようだな『たなおろし 聞いてないこと』

にちようだなさんによるZINEで、ここでは聞いてないをテーマにする幾人かのエッセイや、読んでなかった本の読書会、そしてルーマニア語で小説家デビューという聞いたことがない体験をした済藤鉄腸さんへのインタビューなどが掲載されている。

前回の文学フリマでにちようだなさんと延々立ち話をしていて、そこでも思ったけれど本書を読んでも扱う話題が後藤明生、東欧とかちょこちょこかぶってて、読んでいてそこも面白かった。家族がコロナに罹っての長めのエッセイはまさに随想という感じで膨れあがる注釈も楽しい。

読んでない本の読書会は、買った理由、読んでない理由、その場で読んでみてあるいは読まなくてどうだったか、というのが話題になっていて、その本にまつわる参加者のパーソナリティが伝わってくる。本との関係をその外側からたどる不思議な面白さがある。グリオール、私も積んでる。

アーリーバードブックスの松崎元子さんが父後藤明生について書いたエッセイでは卒論についてアドバイスを欲しいと言いつつ実際には聞かなかった経験について語られていて、文学部にいながら父の作品を読まずにおり、友人に作品について質問されて困ったという作家の子の心情が綴られている。

小沼理さんのエッセイは、人から同じ話を聞かされる時、その旨指摘せずあえてそのまま聴き続けることで、適切な相づちや感嘆を差し挾めるようになりそれは二人で踊るダンスのようだ、という美しい比喩が印象的。

済藤鉄腸インタビュー、元々本は知ってて読もうとは思ってるんだけどこれを読んでもなかなか面白い。近所のフードコートでクリプキを読んでたら声をかけられて以後、その人と親友になったという話から意外性が高い。「フードコートでとなりの人の話がすごかった、という文体」を目指してる、と。特権を自覚して後ろめたくなるのではなくそれを生かすことを考える方がいい、というのは確かに、と思う。あと、本ならバーッと読めるけど映画が遅く感じるようになってきたという話は、たぶんこの人はかなり早く本が読める人なんだろうなと思った。

にちようだなさんのコロナ禍エッセイは後藤明生が引かれるように脱線しながらゆるゆると日々が語られていってて、なんとなしの面白さがある。ジョンケージの4.33秒のアプリとか、落語やトークの音声とBGMを混ぜて聞くというのも不思議だ。後藤明生とジャズを合わせて聴いてるという。

三浦祥さんのエッセイはほとんど誰にも言ったことがなかった、自分の中で物語を考え、一人で何役かを演じるという昔からの習慣について。自分はやらないけど、そう変わったことでもないかも知れない。フィクションを読むことは擬似的なその再演ではないかとも思う。

柿内正午『会社員の哲学 増補版』

自身も会社員の著者が会社員とは何かについて、「町でいちばんの素人」として自身の知見と読みかじったマルクスなど色々な参考文献を踏まえつつ「生煮えの持論を振りかざして」論じていく小著。会社を利用しつついかに全人格を預けず距離を取るか、その試み。

本書では会社員を労働力を売る「賃労働者」として定義している。この時真面目に働き過ぎることは自身の販売する労働力を自らダンピングしていくことになるわけで、働けば働くほど己をすり減らし「自己肯定感」を損なっていくと説く。現代の貧しさ、息苦しさの一端はおそらくはここにある。

僕たちは懸命に働けば働くほど自信をなくし、ますます自分を安売りするようになっていく。この社会は、そのような仕組みで機能しているのではないか。僕たちは真面目に働けば働くほど自己肯定感が損なわれていく。資本主義というシステムは、個々人の自由を保障する代わりに個々人の自己肯定感を徹底的に毀損していくような仕組みなのではないか。25-6P

土地から切り離され自由な個人として独立してしまった近代人は将来の夢、自己実現を職業の形としてしか想像できない、その貧しい自由について著者は問う。「真面目に働き過ぎないという提案」は著者自身屁理屈と謙遜するけれどもその一つの回答ではあるだろう。できるかできないかはともかく。

そして「会社」ではなく「社会」とのコミュニケーションの通路を確保すること。

勘違いされがちだが、会社は社会そのものではない。なんなら社会に参与できるものでもないかもしれない。会社の不正よりも、社会の不正に声を上げるべきだ。会社の責任をその構成員が個人として引き受ける必要はない。

責任は、会社ではなくこの生や世界に持つものだ。会社での労働はなるべく体力や気力を節約し、時に盗み取り、よりよい世界に向けての取り組みに投入しようではないか。74P

ただ、そのように働ける会社ばかりではないし、この処方は誰にでも適用できるわけではなく、そこに「素人」の思考の良くも悪くもの特性があるとは言える。ただ、一定の妥当性はあると思う。私自身も真面目に働き過ぎない、というのはずっと心掛けていることだ。休まず働いて不調になっても会社は責任なんて取りはしない。

僕が批判したいのは、個人の全人格的な規格化=ルールを全面的に内面化することであり、ルールの存在それ自体ではない。僕にはルールは可変のものだという信念がある。資本主義というシステムに問題があるとすれば、それは分配の仕組みがいまいちであることであり、この仕組みを解消していく方法を模索すべきだ。現行のルールが特定の個人に対して抑圧的なのであれば、より公平なあり方は是正していくほうがいい。システムやルールの存在自体を全面的に否定するのではなく、現状不完全な形で運用されているシステムやルールをよりいい形に変えていくことを試行した方がよいのではないか。94P

会社において「自由」な自己を実現したかのような錯覚を持ち、その延長線上に社会を幻視する限り、僕たちはいつまでも経済や政治を「自由」の原理で語ることから脱却できない。経済の場である会社では部分としてある程度の主体性を手放すこと。それは政治の場において、自分自身の当事者性や特異性をいちど括弧に入れる練習にもなるだろう。自分自身の固有性や「自由」をいちど相対化することで初めて、物質的窮乏や制度的煩雑さが、ある特定の属性をもつ個人に偏在している現状の不平等や不正義に憤ることができるし、これを改善するための議論が建設的なものになりうる。115P

管理社会とはむしろ現場のアドリブあってこそ成立するものだという指摘や会社論、組織論、そして著者が実践している日記や対話、このようなZINE活動などについてもこの思考と繋げられていて面白い「極私的サバイバルマニュアル」。コラムのゾンビ論、FateGOのネロにはまった話とかも印象的。

『HAMBURG RESTAURANT』

文學界新人賞受賞者奥山さと(板垣真任)、当時はまだ新潮や文學界の最終候補者だった文學界新人賞受賞者の旗原理沙子、ことばと新人賞受賞者福田節郎という新鋭の作家による中短篇を収めた一冊。去年の文学フリマで頒布されていたもの。

奥山さと「諸悪と根源」、大筋の話はいじめを受けたことのある高校生男子のその克服をめぐる青春小説という感じだけれど、あだ名で呼ばれる登場人物たちがどんな関係かは読んでいかないと分からない説明的でない語りで、それ故にこそぐつぐつとした心情、関係を濃密に感じられる独特の印象がある。最初から出てくる「みきし」という名前が性別年齢関係が不明瞭のまま、状況がすぐには飲み込めないような出来事が起きていて、最初はページを行き来しながら読んでいくことになるけれど、そうして描き込まれた情報がある程度分かってくると後半はグッと引き込まれるように読んでしまう。この語り、もしかしてフォークナーなのかな。人質に取られた犬にも抵抗の余地はある、と言ってこう続く箇所がある。「いや、銃を突きつけられた犬に恐怖心がないのなら人質の意味をなさないのだから抵抗になっている。」16P。なんかちょっと印象に残った箇所。

福田節郎「暴力」、兄の要請によって実家に帰ったら変な同居人はいるし兄から聞いた父の問題は外国人タクシー運転手に人種差別発言をしたというものだし、同居人は自分がしたヤバイ話をしてくるし、色々なカオスな状況を長回しの饒舌体で滔々と語っていく短篇。一筋縄ではいかない人たち。タクシー運転手に差別発言をして殴られた父に対して語り手は異様に憤りを向けていて、差別発言を繰り返させようと妙な行動に及ぶけれど、ここでの語り手の行動はちょっと不可解で、兄や妹や他人が父の世話になっている縁から自分が疎外されていることへの意趣返しが入っているような感じがある。妻にも離婚され、父が兄や妹に自分が知らないあいだに金銭なりでの手厚い支援をしているということを知らなかった語り手が、殴られても通報したりせずある程度自分の悪さを自覚してるような父を、繰り返しレイシストだと責めていくことに、一種の関係の貧困があるような。

旗原理沙子「沖の砂」、タバコを落としてぼけっとしているうちに火事になりかけて部屋に消火器をぶちまけてしまう女性の場面から始まり、この語り手はどうも色々社会生活上困難を抱えているようで、仕事も続かず彼氏の部屋に住んでいて、家事も失敗して、という生活のさまざまな厳しさが綴られていく。最初は彼氏がキレたりしててDVか?と思うんだけど、部屋に消火器を噴霧して粉だらけになったり、二槽式洗濯機を回す時に寝てしまって部屋中を水浸しにしてしまったりと、度重なる失敗を見ても別れたりしない彼氏はなかなかすごいなと思った。家電壊されてキレたり心配したり、彼氏も大変そう。それでいて語り手は母が死にたいとかいうメッセージを送ってくるのを真に受けて色々しようとするけど、同居してる弟がいて母はいつも通りだからと元気な様子を伝えてきているのは、罪責感でコントロールされていて明らかに実母にすらおもちゃにされている感じ。仕事、生活の失敗、母のモラハラ、そんな追い詰められたような状況でも、粉と水とが撒かれた部屋をピンクの砂浜のように眺め、生を保っていくかのような様子が描かれていて、ずっしりとした重さが感じられる。

最後の本書の半分ほどを占める「忘れられたくない」は福田節郎が本名名義で書いた過去作品とのことで、著者名が記されずに掲載されている。自分と同じテツロウというあだ名を持った年上の友人が自ら死んでしまった、それを知ってからの数日間の様子を描いた中篇。テツロウという友人をめぐって、酒やら恋愛やらで繋がり合う語り手の人間関係のなかでそのことが知られてからの日々が描かれていて、その死を受けとめるというか受け入れられなさも含めて饒舌体といえる文章で思索が綴られていく。グダグダとした作風そのものに死を受けとめる過程が刻まれている。

福田作ではキンミヤ(私は知らなかったので検索した)とかアンクルトリスの置物だとか、酒にまつわる固有名詞がさらっと説明なしで出てくるのがそういう文化背景を感じさせてちょっと面白い。

吟醸掌篇vol.4」

相互フォロワーさんの短篇を読もうと思って買ったけどついでに他のも全部読んでなかなか面白かった。特に栗林佐知の「蟻の王様」はしんみりしてたらこうくるか、と驚いた。短篇小説を愉しむ雑誌とのことでエッセイも短篇ベスト3とかブッツァーティの紹介とか色々と参考になる。

創作。志賀泉「爆心地ランナー」、原発避難区域に家があった高校生が、言葉も話せず家を出て泣き叫んでいた姉を父が殺したのではないかという他人の非難に抗いながら女装して爆心地を走るという行動に感情をぶつける話で印象的。歌舞伎町のゲイバーというのもコロナで疎外された場所でもあるか。

片島麦子「ヌスット透視図」、実家にいる母へ送った荷物がなくなることがあると聞いて語り手の娘が色々調べるなかで、同年代の子がいる隣家の女性からその子より受験が上手くいって憎悪を向けられた過去などが思い出され、とても微妙に生々しく嫌な感じを描いてて印象深い。

スーザン・グラスペル「黄昏どき」、この雑誌の流れで読むと急に重厚な文章になるのでおや、と思ったらやはり二十世紀初頭の小説。哲学を教えている老教師のその仕事の意味、意義が描かれていて、人に何かを伝えることに人間の不死性を見出す物語になっている。

栗林佐知「蟻の王様」、ラストで驚いたけど伏線は確かにあった。宮澤賢治のよう、と呼ばれた動物を慈しむ心を持ち道義心にあふれ菜食主義をしていた従兄が自殺したとの知らせを聞いて幼い頃に懐いていた女性がその葬儀に行く過程で想起する彼との思い出。良かった、とばかりは言えないけど。

藤本紘士「鳥の餌を盗む」、ある文芸サークルの参加者が奴隷のように働かされている技能実習生の実話だとして小説を提出してきたけれど、実は嘘が交えられていて、というところから語り手がそのモデルのベトナム人と交流が始まる冒頭がまず面白い。事実と虚構の関係が問われるのはもちろんこの小説もそうだし、クエット、グエンという技能実習生のその後は伝聞でしか伝わらない間接性にも繋がっていて、他者と関わることの限界を感じつつも日常の行動を変えていくことへと至る倫理になっていく。ベトナムの国鳥は鳩らしく、ベトナムから日本に来たということ、殺されたベトナム人が鳩に変身したという噂話、鳥になったのに行く先々でエサを盗まれるという詩など鳥に幾つものイメージを重ねて最後の鳩に流れ込んでいく。しかし日本で働くのに百万円初期コストが掛かるのに、韓国なら七万円でしかも寮費や食費は無料で最低賃金が支払われるという話は本当にひどくて、どうしようもない。

全体にコロナ禍をテーマにしている雰囲気があるのはそもそもそういうサブテーマがあったのか原稿募集のタイミングなのか。