『代わりに読む人1 創刊号』、「文學界」2023年9月号、『ふたりのアフタースクール』

『代わりに読む人1 創刊号』

準備号を経てのいよいよの創刊第一号。「矛盾を抱えていることこそが、真に思考の原動力となる」という特集巻頭言に続いて小説、エッセイ、漫画などが載っている。自己矛盾だったり他者だったり、何かと何かのズレや対立や挾み撃ちや葛藤が様々に描かれる。

巻頭に置かれている今年読んだ本はこんな本を挙げるこの人はどんな人だろうかと興味を引く第二の目次になっている。『ステパンチコヴォ村~』がドストエフスキーで一番読まれない長篇とあるけれど、私は『ネートチカ・ネズワーノワ』だと思います。未完だし。私は読んだので。

はいたにあゆむ「環 感 勘 歓」、これは踏切のカンカンという音にあわせてDJプレイをするイベントについて書かれた文章で、踏切そばの長屋の一角がその瞬間クラブハウスに変身する、騒音と音楽のマッシュアップの実践になっている。街中とイベント、待機時間をエンタメにする、相反するものの融合。早く終わって欲しいのか早く始まって欲しいのか逆転していく。色んなものが集まる公園という場としての文芸雑誌、そして矛盾というテーマの特集として、また本をほとんど読まないというこの書き手のエッセイが冒頭に置かれていることの意味が強く感じられて良い導入になっている。イベント動画はこんな感じ。

今村空車「芝生の習作」、ある短篇映画を撮ろうとした女性との出来事を回想する話だけど大江健三郎についてのイベントで駒場に語り手が赴く冒頭からエッセイだと思いながら読んでたけどこれは小説、ですね? 羊奈子の撮影中断した映画の断片が再利用されていたことを知るラスト、大江の徹底した改稿での原稿用紙のありさまと、いつかの映像が数年を経て別の形で使われていることとが重なるというか、テクストの改稿のモチーフを映画を題材にしているというか。立ち上がる青白い炎が時間を超えて執拗な映画への熱意の表れのように見える。

わかしょ文庫「よみがえらせる和歌の響き 実朝試論」、若くして死んだ実朝にはだからこそその可能性の空白に色んな人間の思い入れが投影されると論じるエッセイで、近年の研究者が考証に入った大河ドラマでの描き方などに触れつつ、実朝の和歌に反復される音を空洞に響く音として聴き取る。

松尾模糊「海浜公園建設予定地」、田舎に里帰りしたらそこでは実家そばの浜辺が埋め立てられていることに伯父が憤懣を滾らせている。丸楠商店と火亜流くんという名前がまずもうマルクスなのが笑ってしまうけど、コミカルなようで大資本に開発されゆく地方と抵抗する一個人の縮図でもあった。

蛙坂須美「幽霊は二度死ぬ、あるいはそこにないものがある話」、やられたっ!て最後に思わされたエッセイ。怪談における幽霊は不在を描こうとすると存在することになってしまう矛盾をテーマにしながら文中の実話怪談から著者の怪談体験へと繋がっていく仕掛けはテクニカルだし、「不在」を描く課題と実作になっていて、「実話怪談」というジャンルそのものに矛盾にも似たものを感じて喰えねえんだよなと思っていたらまさにそういうものを読まされた、という感じだった。

小山田浩子「こたつ」、恋人とこたつで鍋を準備するやりとりのなかに、愛犬の危篤に取り乱す彼女がコタツからみつかったハムスターの死骸の話をケラケラと軽く話す矛盾・不気味さが露わになるけれども、犬もハムスターも同じところに埋葬していることで軽く話す意味もまた別様に読める。ペットと肉のことが触れられているように、また死と性が並置されてもいて、このコタツ一つで生と死、食べることや生きることという人間の営みが圧縮された短篇になっている。作品に不気味さが漂うけれどもそれは人が生きることにつきまとう根源的なものだ、という話かも知れない。

松尾信一郎「水の滴るような積分記号について」、「数学において正しさに価値はない。当たり前だからだ」という痺れる書き出しから、数学者の著者が数学を志すきっかけについて書いていくエッセイ。カントール対角線論法を解説する「これは矛盾」に惹きつけられたことや、Fの字に似た積分記号を描くことにこだわったという数学の美の魅力が描かれ、「詩というものが、言語の道具的使用を離れてその自己目的的な使用を希求するものであるならば、カントール対角線論法は詩だった」へと行き着く。数学は確かに「美」へのこだわりが重要な学問という印象がある。

永井太郎「健康」、毎回健康診断があると聞いてからテストの一夜漬けのように身体作りをしていたことを同居を始めた恋人にそれは健診の目的に反する矛盾ではないかといわれてしまう。一理あるけれども恋人がサプリの多用をしているのは健診前の身体作りにも似た矛盾がないだろうか? 食べなければいけないし健康でなくてもならない、という健康、ダイエットにまつわる葛藤は現代的矛盾の最たるものでもあるかも知れない。エッセイのつもりで読んでいたけど、これは小説なのかも知れない。

陳詩遠「ありえない秩序」、物理学者になろうと思っていた数学者松尾氏は「矛盾」に惹かれていたけれど、この文章では「物理学は「無矛盾」の学問である」と説き起こされる。コロナ陽性で足止めされて渡されたペットボトル、「実はトイレを渡されたのか(?)」という一文はかなり笑った。

二見さわや歌「骨を撒く」、病床の末期の母とその死をめぐる文章で、他者支配的な母に対する愛憎相半ばする感情を淡々とした記述のなかに封じ込めるような、読んでいて厳粛な気持ちになる。父の遺影すら捨てる母、今まで要らなかったものはこれからも要らないとアルバムも捨てる著者。

牧野楠葉「瑠衣」、首締め、殴打などの暴力的嗜癖のある彼との短い関係を描く短篇で、愛と暴力あるいは依存と拒絶の矛盾をグルグルとまわって関係が破綻するまで。DVではないからこそ警察がきても抵抗することのない瑠衣にも悲しみがある。

伏見瞬「「さみしさの神様」を待ちながら」、エッセイを書けないという苦手意識について語られていて、それは「他人に興味がない」からではないかという指摘は私自身もまたエッセイが書けないタイプで同じことを思っていたので、非常にわかる、と思いながら読んでしまった。

伊藤螺子「鶴丸さんの分身」、分身がいる、と言い出した会社の隣の席の人について描いた短篇で、師匠に習った分身がどうこうといい、分身同士の対立という信じがたいような話をしてくる変な話なんだけど、つまりこれ、小説もまた現実の分岐で分身なんですよね、という話だと思った。

友田とん「矛盾指南」、コント台本のような掌篇で語られているのはつまり矛盾を指摘することは一種のツッコミでもあるという。「矛盾は見つけるもんで、人に教えられるようなもんじゃない」、ともあり、世にある矛盾を自分の目でいかに見つけるか、それをこそ指南しているようだ。

ここからは連載小特集の「これから読む後藤明生2」で、評論家、書店、漫画家とそれぞれに違った角度から書いている。

細馬宏通「蕨、遡る歌」、後藤明生の「歌」の意味については少しだけ拙著でも論じたことがあるけれど、『挾み撃ち』に引かれた歌詞の考証から記憶違いのありかたに様々な別の歌の反響を聴き取り、分岐・分身のテーマにもたどり着く論考で非常に面白い。この角度からの論考はなかったはず。そもそもこの文章では『挾み撃ち』の蕨を実地に歩いてみることから始められていて、去年の夏に友田さん主催のオリエンテーリングで私も歩いた道をこの著者が歩いているのを読むのは面白い体験だし、友田さんが話を聞いたせんべい屋でその話が出てきて笑ってしまう。実際の歌詞とは違う覚え違いに当時の他の流行歌の残響を聴き取っていく分析は非常に面白く、「歌はそもそも歌われるたびに歌い替えの可能性を含んでおり、歌われるたびに分岐する」との一文は俊徳丸伝説の分岐と分身を描く『しんとく問答』のことを言っているかのようだ。私の『後藤明生の夢』でも、『しんとく問答』について語りの一回性と分岐=分身について論じているので参照いただければ。

深澤元「後藤明生を売る」、『挾み撃ち』読書会でお会いした、後藤明生フェアを続けているつまずく本屋ホォルの方のエッセイで、人からもらったというデラックス版『挾み撃ち』を持って読書会に来るまでの前史を読んだようで面白い。オカワダアキナという知人と一文字違いの人が出てきたのに驚いた。

panpanya「読み方」、脱線する読書。ハエ叩きといえば前に実家に行ったら小さなテニスラケットみたいなものがあって何かと思ったら電池が入ってて網に電気を流してバチバチ言わせながら叩いて蠅を殺す電気ショック式ハエ叩きで、これが良いんだよ~と父が言っていたことがあった。今も現役。

コバヤシタケシ「dessin 2 ミイラ」、装幀を担当した方の兄との相当に大変だったらしいあれこれと実家が存在しないという人生の一端がデッサンとともに描かれていてなかなかに重い読み味がする。親族と散骨が「骨を撒く」と被るという奇妙なシンクロを演じている。

文學界」2023年9月号 特集「エッセイが読みたい」

エッセイ特集は知らない人も多いけど、同じ雑誌に書いたことがあったり読書会やイベントで会ったことがあったりという人が何人か混ざっているうえに文学フリマでレポされた日は自分もいたのでやけに距離の近い特集だった。おそらく特集のきっかけは論考でも触れられている個人で作る小規模の雑誌を指すZINE作りの流れと、それを出展する文学フリマという場があってのことだろうし、私も寄稿したことがあり特集のうち四人が参加している文芸雑誌「代わりに読む人」もその流れの一端だからでもあるだろう。

表紙に載ってるのもだけど、特集を開いて巻頭の堀江敏幸野崎歓のあいだに「オルタナ旧市街」さんが挾まれてるのは笑ってしまった。仏文学者の著名人のあいだにある不可解な名前から繰り出される見事なスナップショットのようなエッセイについてのエッセイ。

米澤穂信のエッセイは山田風太郎陳舜臣の食についてのエッセイを題材にしたもので、そこに常識という各人の私的なルールを読み込み、「作家の資質とは奇矯さにではなく常識にこそあらわれる」点で陳舜臣チェスタトンとの「同類項」を抽出する論述があまりにも推理作家然としていてそこに感動した。

文面から既に独特な人もいるし、書き手がどんな人かというのを知っているか知らないかで同じエッセイでも意味が全然違うんだろうなということも思う。何か別の本業で有名な人が楽屋裏を明かすような面白みもあるように、エッセイ集の後日談になっている植本一子のものも印象的。

小山田浩子のエッセイで「スペシャ」というのが最初なにかわからなかったけどスペースシャワーTVだった。その流れで「プレイグス中村一義フラワーカンパニーズ」等々とあって、この流れでプレイグスが一つ目に出てくるのはビックリした。当時みんなに通じなかったから。GRAPEVINEとかくるりとかピロウズとかナンバーガールでもいいけどこの頃聴いてたバンド中、なぜかプレイグス知名度が低かったという話が私の持ちネタだった。ニューホライズンのCMを見て近所のCD屋で昇る陽より東へのシングルを買ったのが入り口だったかな。


ある種のエッセイは日常をいかに文章で切り取るか、という写真のようなものだと感じている。その点、この特集に参加している穂村弘が何人もの他の寄稿者から言及されているほど存在感が大きいのは、短歌とエッセイで使う思考回路が似ているからではないかと思った。そんな穂村弘はエッセイの冒頭を「小説でも詩でもなく、同時に、その両方であるような、そんな文章に憧れている。位置づけることのできない言葉の塊は、エッセイと呼ばれることもあるようだ。」と書きだしているのが面白い。

日常のスナップショットとしてのエッセイという点で浮かぶのはこの特集のエッセイもそうだけどオルタナ旧市街の普段ネットプリントで発表している文章だった。そしてある点で対照的なのはわかしょ文庫のもので、こちらは語りの内に書き手の人生が丸ごとそこに現われてくる。並べてみる。

「人間の営みのなかで、1分、1秒にも満たないわずかな時間が内包する永遠をとらえて描くことのできる作家たちは、世界の秘密をやわらかくにぎっているのだから」13P
「寒さと恐怖と悔恨の思いに震えながら孤独のうちに命が尽きるその瞬間も、二つのあとがきはわたしと共にあるだろう。」67p

瞬間と永遠。あまり鮮やかな対置ではない気もするけれど、日常、瞬間を切り取るというニュアンスのオルタナ旧市街の一つ目に対して、わかしょ文庫の二つ目にはある小さなものに人生の重さが掛かってるようなところがある。これは『うろん紀行』や長めのエッセイもそう。

論考パートの二つのうち、柿内正午の論考は日本と西洋近代の日記の歴史を遡って位置づけを試み、マスに回収されないための言語使用の実践として論ずるもので特に面白い。節々に私的な好悪の判断をしつつ進めていく論述はエッセイ的でもある。資本主義批判を明確に基礎に置く批評的なスタイルもむしろ今珍しいかも知れない。「流通しやすい言葉」への警戒感を語り、「わかりやすく整えられたケアの言葉はメンテナンスの言葉に、アジテーションはマニュアルに、簡単に転化してしまう」と危惧し、言語や人間を代替可能な歯車、貧しいものにしないための取り組みとして日記、エッセイを考える。

「書くとはつねにこれは自分ではないと言語との距離を思い知る行為である。個人が個人の固有性を素材としつつも、文法や語という他者を他人と共用することで誰かと共同しうる場をつくる。言語運用を共同の演技の場を構築するための使用としてとらえる。」
「僕はおそらく、日記をそのようなものとして扱いたいのだろう。」
「際限なく自己を市場価値に変換するような風潮に抗うための手段のひとつとして、僕は日記を使用している」83-84P

宮崎智之の論考はエッセイを定義を攪乱、拡張する形式だとしており、境界を揺るがせ、外部を取り込み内部へ開いていく運動から「先行の作品を読み、書き、継承し、反発し、発展させていく」「文」の「芸」と見る論述は小説のジャンル混淆性、後藤明生の言う超ジャンル性とも接近していて面白い。実際、境界が曖昧で「嘘の最大含有量」で随筆と小説を区別する吉田健一が参照されている。後藤が批判したけれども、志賀直哉は随筆と小説との差異をそれに向かう「気分」だと言ったはずで、発表時とその後で区分を変えている事例があったはず。書き手の気分とは別に読む方も、「私」と書かれたものがエッセイとして作者と同一のものを指すのか、それとも仮構された小説の一人称としてなのか、実は読んでも分からないことが多かったりする。自己を内部に開いていくなかで境界を画定せずにいることで内的対話に外部を取り込み、内向きさや原理への還元を拒否する循環運動をイメージするエッセイ論で、この厳格でない境界が内外の柔軟な出入りを促すところは生体の細胞膜を思わせるところがある。生命の運動としてのエッセイという感じ。

両論考ともにエッセイだとしてもそれは演技・芸と見る視点があり、エッセイに書き手のありのままが書かれてると思う見方への批判でもある。以下の時評で田山花袋が引かれてるように、やはりこれは私小説の話にも繋がるところがある。
note.com
平野謙『芸術と実生活』、伊藤整『小説の方法』がそこら辺の私小説、心境小説と演技や破滅型私小説の問題なんかを論じてたと思うけど、今ぱらっとめくって何か言えるほどわかってないな。

文學界」2023年9月号 仙田学「その子はたち」

小学生の一人娘を育てている西山夫妻は、出産後性関係がなくなり妻多恵は一人でベッドに寝て夫をソファに追いやっている。そんななか娘と仲良くなった友達の家族に見えた四人は実は夫婦でも姉妹でもない片親同士で、という非定型「家族小説」。

前作「赤色少女」がトリッキーなギミックで独自の家族を描いていたけれど、本作では飛び道具は抑えて落ち着いた筆致になっている。多恵の子育てへの強いこだわりや夫をベッドから追いやる自分勝手さ、繊細なようで傲慢な性格に見えたけれども、過去が見えてくるとその理由がわかってくる。過去の事件に原因を持つその頑なさを乗り越えて向こう側からやってくる、娘の友達とその親たちの、人との壁を感じさせない、言いようによっては無神経に踏みこんでくる無遠慮さは最初不穏なものに感じられるけれども、多恵の神経質さを浮き彫りにして外へ開いていくきっかけでもある。

父親と娘、母親と娘の四人が一見家族のように見えるというのは、前作の独自の家族形態を外から見ているようなところもある。家族ではないのに家族のように共同で子育てをしている四人と、家族なのに一人で子育てしているような西山夫妻が対置され、子育ては一人ではできないことが描かれる。一人ではできないこととは過去の事件を抱えることでもあり、それは前夫とのあいだにできた娘が三歳の時、家を離れた隙に義実家に奪われ離婚させられたという誰にも言えなかった秘密だった。前夫に裏切られ娘を奪われた経験が今の結婚生活や子育てに影響していることがわかる。

千夏がいなくなってからも、わたしは千夏の親でい続けた。千夏の親でありながら、優愛の親にもなった。思えば優愛が熱をだすたびに、けがをするたびに、言葉でも態度でも大げさなほど心配していると伝えてきた。それは千夏の親だからできたこと。そんなふうにして、千夏はずっと一緒にいてくれた。166P

この部分の子供に育てられる親という観点が印象的だった。そして、子供はまたつねに親の親たる資格を裁く存在でもあるということが終盤の展開で感じられる。二十歳のその子の多恵への態度は、前夫に騙されたとも言えるけれども、叔母という連絡手段があったことがあとからわかることで、多恵が捨てたという論難を否定できなくなっている。読み進めていくと多恵の正当性が作中で二転三転していく描き方になっていて、そこも面白い。ただ、この調子だと続きそうな話にも思える。

太田靖久、友田とん『ふたりのアフタースクール』

ZINE、自主制作本を作ってフリマで売り、各地の書店に置く活動もしていた二人の全四回にわたる配信対談の内容を書き起こしてまとめたもの。作って売って書店営業とすべて自分でやってきた二人による実用的、体験的トークが面白い。

私はまさにこの本を文学フリマで友田さんから買って……あれ、確かそうだったはず。不安になってきた。まあともかく、私も文学フリマは幻視社で第三回から参加していて、実は弊誌も「準備号」から始めて第八号までの九冊を出している。新刊ありの参加は2014年、翌年第二十回に参加したのが最後か。私は文フリで売った後はメールでの個別の通販をするだけだったので、こうして各地のチェーン店などではない独立系書店に置いてもらうという発想はなかった。書店めぐりで全国、というほどではないにしろかなり色んなところまで行くこのバイタリティというか行動力、それがやはりすごい。秋田まで行商に行くっていうのは本の売り上げとしては赤字も良いところなんだけれど、『百年の孤独』を題材にした本には行商がマッチしているし、そこまで遠出もしなかったのが色んな各地をまわって本屋と電車にしか行ってないのにそれがとても楽しかったという下りが印象的。

卸すときの掛け率の重要性なんかの実用的な話もあるけど、友田さんが会社をやめるきっかけとして、目先の利益を言い過ぎるあまり無駄な仕事をしてまた長期的な利益を失っていると考えるところが大事だと思った。巻末の文章で採算を取る・度外視する双方の立場を取るという箇所にも繋がっていて、この対立する二つを行ったり来たりしながら考えるという矛盾する立場、それが重要だというのは『代わりに読む人』創刊号のテーマに直接繋がっていると思われる。矛盾のテーマが採算から来ているとすれば面白い、と思ったけど創刊号ではIntelの戦略を例示しているわけでちゃんと書いてあるな。

太田氏は「僕は、人はいつかクリエイターにならなきゃいけないと思っているんです。どこかのタイミングでそれが二〇歳なのか八〇歳なのかわからないですけど、何かを作るというか、試合でいったら先攻めする時を手に入れたほうが絶対にいい」(81P)と言っている。自分で作れるZINEがその一つでもあるけれど、受け取るだけでは視野に限界がある、というこの発言はなかなか面白くて、これは実際そうだろうとは思う。本を読むだけではなく作ってみる。旅をするってこともそうだろうとは思いつつ、しかしまあ腰は上がらないよね、と。

しかし、序盤から何度も出てくる、友田さんに作った本を古書店とかに置いてもらう提案をした人というのが最後に三柴よしこと蛙坂須美さんだと明かされたのにビックリした。bk1でレビューをよく読んでた書き手が後に同人メンバーにもなった渡邊利道さんだと知った時くらい。