アレクサンダル・ヘモン『ブルーノの問題』

ボスニア生まれでアメリカを旅行中に起こった戦争のために帰国できなくなり、働きながら学んだ英語で書いた作家のデビュー作。アメリカとボスニア、英語と母語、歴史と個人、虚構と事実など様々な狭間を各々の方法で描く八つの中短篇。各篇それぞれに語り口を模索しつつ書かれている感じで、既訳書は全部読んだことがあるので扱われる題材に覚えはあるけれども、最初期の作品集ということで後の作品などよりはシンプルな印象がある。シンプルとはいっても比較的、だけれど。

以下各篇について。

冒頭の「島」は訳者柴田元幸スチュアート・ダイベックから教えられてヘモンを知ったきっかけになったという短篇。少年時代の回想になっており、家族である島へ赴き、ユリウスという叔父さんからスターリン時代の過酷な収容所でのエピソードを聞いたりする一夏の話。少年時代を語りつつその内面を語らない淡々とした筆致に驚いたと訳者が書いていて、そのドライというか距離感が印象的。

僕は恐るおそる、水のなかに飛び込む。冷たさのショックに、自分が自分の体のなかにいることを実感する。自分の皮膚が、世界と自分の境であることを意識するのだ。20P

帰ると隣人が亡くなっていたために頼んだ植木や猫に水や餌が与えられておらず、猫に憎しみの目で睨まれたというくだりがあり、セルビア人勢力によって四年にもわたって続いたサラエヴォ包囲が重ねられている。本書にはこうした語りの乖離感あるいは閉じ込められた感触が通底しているのは読んでいくとわかる。

「アルフォンス・カウダースの生涯と作品」は、実在も定かではないカウダースという人物について、チトーやローザ・ルクセンブルクゲッベルススターリンプリンツィプ、ゾルゲといった人物との一行知識のような怪しく下世話なジョークを延々羅列していく短篇。全く忘れていたけれども『私の人生の本』の「カウダース事件」に、この短篇の来歴が語られている。サラエヴォのラジオ局で働いていた時に書き上げたけれども文芸誌に載る可能性はなかったので歴史上の人物のフリをして放送したらしい。放送に乗ってカウダースは虚実曖昧な存在となった。

ゾルゲ諜報団」は「カウダース~」にもあった注釈という手法それ自体が方法となったような注釈小説。語り手の子供時代、スパイに影響され父がスパイだと疑ったりチトーに監視されていると思ったりを描く本文と、本文の一語から派生してゾルゲの事跡がたどられる注釈とで二つの流れが並行していく。子供のスパイ妄想に史実のスパイの話が重なることで、想像と史実、虚構と現実が入り交じるような独特の感触を与える。しかもスパイや監視という疑おうと思えばいくらでも疑えてしまう現実感覚の崩れを誘う題材になっていて、事実語り手の父はある日現実に逮捕されてしまっており、虚実の皮膜を方法的に描き出したような一作だ。

アコーディオン」、ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたフランツ・フェルディナント大公が馬車(史実では自動車)から最後に目撃したのは書き手の曾祖父がウクライナから出て来たその日ボスニアで買ったアコーディオンだった、という創作として書かれた掌篇。短いながら二部構成になっていて、二部で書き手がこれは事実と異なる創作だと種明かしをしながらアコーディオンはしばらく前まで実在しており盲目の叔父があるのを知らずベッドに飛び乗って壊した、と書かれている。そしてその叔父は96年の執筆当時サラエボから脱出できていないと。歴史の決定的瞬間とミクロな個人の歴史の交錯の瞬間を描いていて、ここに小説の原理が浮かび上がっているような感触がある。第一次世界大戦の始まりの現場に語り手の曾祖父を登場させつつ、現在時において戦時下の叔父へと視点を返し、歴史と個人の関係をこの短さに圧縮しているのはすごい。

「心地よい言葉のやりとり」、父やおじの語るウクライナ由来のヘモン一族の壮大な歴史に、語り手も『イリアス』のなかに見つけた「ヘモン」の情報を提供したりして加担しつつ、それを「ヘモン・プロパガンダ」と呼ぶボスニアの農家出身の母親の存在が相対化していく。酔いつぶれた語り手に母は「歴史にあたったみたいね」(原文傍点)と男たちの歴史中毒を揶揄している。「ヘモン家の悪いところはね」「現実だと思い込んだものについて、いつも大騒ぎするところだよ」(132P)とも続ける。何度も繰り返される男たちの物語。母はこの時、母の父が一頭しかいない馬を失った話をする。チェトニクに追われるムスリムに母の父が馬を与え、その行方を追っ手に黙秘したこと。この小さな勇敢な物語を一度だけ母は物語る。この父母の語りへの態度の違いは最後、一族の様子を撮ったビデオテープを何度も巻き戻しても母の姿にはノイズが混じり、うまく聞こえない比喩として描かれる。

「コイン」、戦争の渦中、包囲されたサラエヴォから時折届くアイダからの手紙とそれを受け取る語り手とで交互に語られる短篇。ユーゴ内戦でも象徴的だった狙撃手に狙われる一般市民の映像があるけれども、そのことから始まって包囲される側とそこを故郷とするものとのあいだの距離が描かれる。

彼女の手紙が僕の許に届くまで、時には何か月も、暗澹たる時間がかかる。郵便受けを開けて――それは長いトンネルであり、暗い四角形で行き止まる――アイダの手紙がそこにあると、僕は怖さのあまりぶるぶる震える。くたびれた封筒を破って開けるのが怖いのは、彼女が死んだかもしれないからだ。消えてしまったかも、幽霊に、無になったかもしれないからだ。いわば虚構の人物になったかもしれないのに、僕は彼女の手紙を、あたかも彼女が生きているかのように読む。139P

アイダはある夢のなかで、スクリーンを見ている自分を発見し、ある女性が自分を演じているさまを見たという。しかしその演技はうまくいっておらず、非常にそっくりだけどまったく違ったものになっている不全感に襲われている。ここにも映画の比喩がある。そしてこう続く。

何とか手助けして彼女を私の外に出してやりたい。でも私には何もできません。彼女は明るい蜃気楼なのです。私は立ち上がれません。何が間違っているのか、自分でもよくわからないからです。そして私はひらめきます。言語だ。私は間違った言語の中に閉じ込められているのです。144P

こうもある。虚構、映像、言語。

私たちは恋をしているのではありません。恋なんか問題外です。神も見捨てたこの街では誰も恋なんかしません。私たちはただたがいのことを知りつづけるだけです。ただ物語を分かちあい、そうやって自分たちもひとつの物語になるのです。そしてその物語はいつパッタリ終わってしまってもおかしくありません。146P

母と父が伯母をシーツでくるんで、さらにもう一枚、さらにもう一枚でくるみました。二人ともいまにも吐きそうに顔が歪んでいました。二人が実際に伯母を窓の外に押し出す瞬間を私は見ていられませんでしたが、ドサッという音は聞きました。映画の中の科白を思い出すみたいに「彼女の人生はドサッという音とともに終わった」と思いました。152P

カメラは消滅の過程を記録していました。最近は休戦が実施されているようですが、私はどうしても怯えてしまいます。ひとつには静寂はしばしば、聞き慣れた容赦ない砲撃の騒音以上に恐ろしいからです。155P

喘息の薬を切らして死んで腐っていく伯母や隣にいた女性がスナイパーに狙撃されて殺されたりという過酷な状況が描かれつつ、その彼我の距離もまた当事者の自己認識にもどこか虚構が混じるかのように様々なメディアの比喩が出現する。閉ざされている状況を引いて見る意識に虚構が入るかのような。

「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」、本書で最も長い中篇小説で、概ね作者その人の体験を題材にしているのか、アメリカに旅行に来て戦争が起こり帰れなくなってアメリカに仕事を見つけて働き出し、ボスニア包囲の終わった四年後に帰郷するまでを描いている。プロネクという名前はヘモン作品でいくつか主人公として出てくるもので、実際作中でもヘモン氏と出会う場面があったりしていて、もちろん事実そのままではないだろう。プロネクを招待したアンドリアという女性とはウクライナで出会って「恋愛遊戯」をかわした相手で、お互い帰国した後も手紙のやりとりで二人の回想はどんどん都合良く捏造まみれ、創作じみたものになっていったという話が描かれている。その彼女と再会して愛を交わした後に同居していたボーイフレンドと出くわして云々のごたごたも含めて、本筋としてはプロネクがさまざまにアメリカを体験していくことにある。自由があって適者生存の競争社会、そんなアメリカ人の自国自慢などを聞きながら、戦争に巻きこまれていく故郷ボスニアをメディアで眺めながらアメリカに滞在する様子が描かれていく。

その朝、不穏な夢を一晩見た末に目覚めたプロネクは、自分の体を誰か他人の体として見た。足指の先が何マイルも先にあり、膝は二つの丸砂丘だった。両手を見てみると、それらは頭をもたげて敵意もあらわに彼を見返した。自分が何者なのかわからなかった。が、アンドリアが入ってきて彼を一目見た瞬間、プロネクは自分を外国人として認識した。206P

プロネクがアメリカにもしかしたら一生住むのだと決心した章で、カフカを思わせながら自らの目覚め、外国人としてのアイデンティティを描いている。

この章は「ブルーノの問題」と題されており、本書の題名としても採られているけれどもこれが何なのかはまったく触れられていない。アンドリアの家にいる認知症と思しい老女が名前を呼ぶ猫か犬かがブルーノと呼ばれるけれどもブルーノは既に死んでいるのか「もういない」。ブルーノとは誰か。本篇にはブルーノ・シュルツ「カルロ叔父さん」がエピグラフに引かれておりそこでは分身のようなもう一人の誰かを描いた部分になっていて、大きく取れば不在者、あるいは老女ナナがブルーノをお腹を空かせていると言うのからすると、飢餓に襲われた死者のイメージかも知れない。死者といえば、本作の語り手も謎めいている。「私たち」と複数形で呼びつつプロネクのことを語っており「もっとも私たちはあらゆるところにいるのだが」という語り手はタイトルにあるように死者としか思えない。しかしアメリカを我が国と呼んでいた気もする。

「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」とはプロネクがボスニアで若い頃に組んでいたバンドの名前として出てくるけれども、ブラインド・盲目ということは何かが見えていないわけでそれが「死せる魂たち」を指しているのかも知れず、このタイトルには語りの意味が示唆されているはず。

これまで自分がずっと、死とは何なのか知らずに来たこと、自分自身の生を十全に生きたことがなかったことをプロネクは思い知った。なぜなら彼は、生が永遠に続くものと(意識して思うことなく)思っていたのだ。他人(たとえば両親)のことを彼は十分に考えたためしがなかった。彼らが死ぬかもしれないという可能性を考えたことがなかったから。228P

「ブルーノの問題」とは何かや語り手の謎と、戦争によるプロネクの死の実感はおそらくは繋がっているのだろう。

そこで私たちは、彼の声を彼に返し、彼に自分で語らせることにする。むろん理想を言えば彼としては母語で語りたいだろうが、あいにくこれは無理な相談である。というわけで以下、彼の本物の、真新しい、生々しい体験を英語で語ってもらおう―― 243P

金を貯めて故郷に帰り、戦火に襲われた故郷で口の中を銃弾が貫いた父や母と再会し、思い出のある場所が見るも無惨な姿になったことを語り出す前にこう語り手は書いている。語り手がプロネクとは別なのも母語ではない英語で語る理由でもあるだろうし、ボスニアの体験もまた英語で書かれなければ通じない。

「人生の模倣」、最後に置かれたこの短い作品では幼少期の回想のようなエピソードが連ねられており、そのなかで友人の母親が死んだり、少女が車にはねられたり、ゾルゲと名付けた犬についた虫を殺そうと殺虫剤を噴霧したせいか翌日死んでいたりと不穏な死の思い出が散りばめられている。「島」とこの作品という少年期の瑞々しい回想のように思えて、随所に厳しい切断の細部があり、なにかから切り離されてしまった後、というモードを持っているように読める。そしてそれは自らの母語でない英語で自らの幼少期の回想を書き改めるという試みにも掛かっていると思われる。回想は当時のことそのままではもちろんなく、今の認識で新しく書き起こすことでもあるけれども、母語でない言語で書くというのはさらにそれに加えてまったく違う形で書き換えることでもある。本書が二つの少年期の回想で挾まれているのは英語で書くということの意味を示唆するためだろう。「本物の、真新しい、生々しい体験」を母語でない言語で書くと言うこと。映画のタイトルとして引かれた「人生の模倣」はそういう意味でもあるだろうし、本書でも繰り返し現われる映画の比喩にも、スクリーンという境界を挾んで向こう側にあるものを眺めるという距離を感じる。

映画の中と同じで、時間はいつも前にしか進んでいかないのだ。過去に戻って、貴重な瞬間を失うのを防ぐことはできない。そう思うと、痛みをともなった哀しみの温かな波が全身に広がっていき、やがて目も潤み、視界も滲むのだった。272P

訳者あとがきで、故郷喪失者にとって言語だけが欠落を埋め合わせてくれるものだ、という作者のエッセイを引いている。本書のあらゆる場面は「故郷喪失者」が母語ではない英語によって自らの存在の基盤を据えようという苦闘の跡として読まれうる。最初に出た本というのもあってその後に深められるモチーフ、テーマの原型がここにある感じで、あとがきでも言われているように、ここからヘモン作品を時系列順にたどっていくのも良いのではないかと思う。

ここまでをツイッターに投稿したら役者秋草俊一郎さんから「「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」の「私たち」、それに「ブルーノ」とは誰なんでしょうか?東條さんはある程度それに答えることに成功しています。」とご返答頂きました。

そのあと思いついたことといえば、飢えた猫が冒頭の「島」にいて、もしかしたらあの猫が「ブルーノ」だったりするんだろうかということ。「島」の語りが少年の内心と距離を持っているのが「ブラインド~」になると語り手もプロネク自身ではなく、「私たち」と「彼」として截然と区分けされている。映画の比喩や虚構、生死、言語と本書で描かれるさまざまな境界が重なるところにこの語り手とプロネクの隔絶もあって、死者が見えないヨゼフ・プロネクと不在ゆえにどこにでもいる死者たちの関係でもあるんだろうけれど、ラストシーンで第四の壁を越えるようにプロネクは「私たち」を見て終わる。プロネクがものを食べて飢餓を脱した故なのか、虚構と彼我の境界を越える一瞬のようでもある。そういえば、冒頭でpronekの名前を書き損じてひとつ余計な「i」が入ってproniekになっている、という箇所があってこれも示唆的だ。プロネクと「私」の混在とか色々可能性はありそう。読者とか。

これ以前に既刊全部を読んだ時の記事。
アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』と『ノーホエア・マン』と『愛と障害』など - Close To The Wall